「実で見分ける」 牧師 佐藤義子

/nミカ書3:1-8 /nマタイによる福音書7:15-20 /nはじめに 私達は、自分に与えられた人生を生きていく上で、導き手が必要です。幼い時は、両親によって導かれ、成長に伴い幼稚園・保育園や、入学以降に出会う教師達、さらには人生の先輩ともいえる人達と出会い、アドバイスや指導を受けながら、今日の自分があるのではないかと思います。 しかし、それらの人々との出会いとは区別される出会い、自分の人生観や価値観に決定的な影響を与えるのは、自分に命を与え、自分を生かして下さる創造主である神様との出会いではないかと思います。旧約聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に、そのようにせよ</span>。」(コヘレトの言葉12:1)とあります。日本では神道や仏教の影響が強く、聖書が伝える創造主であり、イエス・キリストの父である神様のことを聞く機会が限られています。その中で、若い日を過ぎたあとでも、こうして生きている間に神様と出会うことが出来ることは、本当に素晴らしいことであり、大きな神様の恵みです。 /n偽預言者を警戒しなさい 今日の聖書は、神様のことを知った後の信仰の導き手について、イエス様が「偽預言者を警戒しなさい」と警告している箇所です。私達の社会でいえば、宗教的な指導者(キリスト教会では、牧師・神学教師など)の中に、にせものがいるという警告として聞きます。 旧約の時代には、神様が選び、神様の言葉を聞き、それを人々に伝える預言者がおりましたが、それと同時に偽(にせ)の預言者も存在しました。預言者エレミヤはこのように語っています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">万軍の主はこう言われる。お前達に預言する預言者達の言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ 主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る</span>」。 偽預言者は、人々に空しい希望を抱かせ、神様を信頼しない人々に「平和」を約束し、頑固に自分を変えない人々に「災いは起こらない」と語ります。神様は聖なる方・正しい方ですから、悪を憎み、神様への不従順に対しては怒る方です。しかし偽預言者は、人々の耳に心地良い言葉しか語ろうとしません。真の預言者であれば、聞く人によって語る言葉を変えたり、語る結果を恐れたりせずに、神様の言葉をそのまま伝えるのです。 /n偽ものの内側はおおかみ イエス様は、偽預言者を、羊の皮を身にまといその内側は貪欲な狼であると譬えました。12弟子を伝道に遣わす時にもイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送りこむようなものだ</span>」と言われました。聖書で「羊」とは羊飼いであるイエス様に養われるキリスト者のことです。ここで「狼」と言われるのは、イエス様に従おうとする人々をまどわし、イエス様にではなく自分に人々の関心を向けさせ、自分の思想を広めたり、自分に利益がくるように人々を導く人達です。 /nいばらからぶどうは取れない イエス様は「ほんもの」と「にせもの」を区別するために、いばらとぶどう、あざみといちじくを引用します。似ていても一方は実を結ぶ食料となり、他方は障害物となること、又、同じ実を結ぶ木でも良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶこと。その事実から私達は導き手を判断せよと教えられます。マルティン・ルターも「善い義しい人が善い義しい行いをする。どんな場合にも人格が、あらゆる善い行為に先立ってあらかじめ善であり義でなければならない。」と言っています。 /n真の導き手 神様はヨシュアに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない</span>」と言われました。真の導き手は聖書の教え、イエス様の教えから右にも左にもそれない人です。又、キリストに結ばれキリストの恵みに与っている人です。さらには御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結んでいる人といえるでしょう。 私達自身も実を結ぶ木、しかも善い実をならせる木として成長させていただきましょう。礼拝を通して信仰が養われていくように。又、日々の聖書や祈りを通して神様と交わる時を大切に、今週も歩みましょう。