「委ねる信仰」    牧師 佐藤義子

/n詩編57:2-12 /nマタイ福音書10:16-23 /nはじめに  日本基督教団では、8月の最初の日曜日を「平和聖日」と定めて、平和について考える時としています。個人的なことで恐縮ですが、私は終戦の前年に満州で生まれ、母は病の中、姉と私を連れて引き揚げてきました。後に多くの中国残留孤児をテレビなどで見聞きし、自分もその一人になる可能性があったことを思い、戦争が一人一人の人生に大きな影響を与えていることを実感しました。今なお世界各地で起こっている戦争が、人々に分裂、憎しみ、愛する家族との死別・離別を引き起こしながら、それでも話し合いによる解決が困難になっている現実を思い知らされています。戦争は、神から与えられた人間の自由意志によって起こされます。国と国、民族と民族、思想・宗教などの衝突から生まれ、その背景に、それぞれの自己主張、自己正当化、自己絶対化があります。戦争のある世界は平和から程遠いものですが、それでは日本は68年間、戦争はないので、「日本人はみな平和に生きている」といえるでしょうか。 /n平和  旧約聖書で「平和」とは、あらゆる領域(精神的・肉体的・社会的)で、具体的にすべて満たされている状態のことです。しかしそのような平和は神様が持っておられるものであり、神様が下さるものです。この平和は、人間が神様の意志に基づいて正しく生き、神様との関係を正しく保つことの中で神様から与えられるものです。さらに、この平和は正義と深い関係に置かれ、正義のないところには、この平和はあり得ません。 新約聖書においても、平和は、人間の生きるすべての領域にわたって、神様の意志に基づいた本当の望ましい状態のことです。特に新約では、イエス様が、神様から遣わされたことによって与えられる「神様の愛と救いの現実」そのものが平和です。(人間は、イエス様がくるまでは、神様と敵対関係に置かれていましたが、その原因となっていた人間の罪をイエス様の十字架によって赦していただいたことにより、人間は神様との間にも人間相互間にも平和が打ち建てられました)。平和聖日を迎えるにあたり、私達は見せかけの平和ではなく、神様が下さる本当の平和を祈り求めて、神様の御心にかなうように、正義を愛し、誠実に歩んでいきたいと願っています。 /n何をどう言おうかと心配してはならない  今朝の聖書は、イエス様が12弟子をユダヤ人社会に送り出す時の言葉です。イエス様は、ユダヤ人社会の人々を狼、弟子達を羊に譬えて、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇のように賢く、鳩のように素直になれ</span>」と言われました。「イエス様こそ救い主」との福音は、ユダヤ人達の考える「救い主」と違っていたので、弟子達への憎しみが予測されました。それに対して弟子達は、憎しみ返さず、いつどのような時でも落着いて、人々と正しく向き合う賢さを持ちながら、同時に、敵から訴えられるようなことを決してしない純真さ、自分を汚すことなく、の奉仕のわざを傷つけない素直さを持つよう求められました。さらに、ユダヤ人社会に於いて弟子達の言葉が受け入れられない時、弟子達は訴えられて、宗教法廷に引き出され、権威ある人々の前で弁明しなければならなくことを預言されました。そのような時、心配することはないと言われます。なぜならイエス様を神の子と信じる者は、イエス様と同じように「神様を父と呼ぶ」ことが許されており、神様の霊が信じる者の中にあって、神様の言葉を語る神の子として、裁判官の前に立つからです。神様の霊が導いて、語るべき言葉を与えて下さるからです。さらにイエス様は、弟子達がユダヤ教の異端者として、すべての人々から憎まれる時、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">最後まで耐え忍ぶ者は救われる</span>」と約束されました。異教社会の日本に於いて伝道する私達にも、イエス様は同じように、心配せず信じて委ねるように求めておられます。 先週(8月25日)の説教要旨 詩編104:24-35・マタイ福音書13:44-52 「天の国について(2)」  牧師 佐藤義子 *はじめに 本日も前回に続いて、天の国についてイエス様の教えを学びたいと思います。天の国と言う時、社会一般で使っている「天国」とは区別しなければなりません。聖書を通してイエス・キリストが私達に教えておられる 天の国(神の国)は、神様が支配されておられる場所であり、神様がすべてのルールを決められており、人間が自由勝手に入ることは出来ません。イエス様は、どんなに門をたたいても開けてもらえなかった人々について、たとえで語られています。ですから私達は、礼拝を通して天の国について正しく学び、天の国に招かれている「神の民」の一員として、日々どのように歩んでいくかを示されていることに感謝するものです。先週は、天の国について三つのたとえ(毒麦・からし種・パン種)を通して学びました。 *「宝」と「真珠」のたとえ 今日の聖書には、さらに天の国について三つのたとえが語られています。最初は「宝」です。ある人が畑を耕していたら、くわの先に何かがぶつかり掘って見ると「宝」でした。背景として当時パレスチナでは、財宝を壺に入れて土の中に埋めることがよくされていたそうです。住んでいる所が戦場となり略奪から財産を守る為に、あるいは父親が埋めていたのを息子が知らぬまま相続してその土地を売り、新しい所有者が畑を小作人に任せていたというようなことが考えられます。この宝の発見者は、この宝を手に入れる為、自分の全財産を処分してこの畑を買うのです。二番目の譬えは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけました。彼はやはり全財産を処分して、この見つけた真珠を買うのです。 *「持ち物をすっかり売り払い」 最初の人は努力せずに宝を見つけました。それに対して真珠の商人は、 商売のためにあちこち探しあるいて努力して見つけました。共通しているのは、どちらも自分の持ち物を売り払い、それと引き換えに発見物を手に 入れたことです。自分の持っている物すべてを処分することは大変なこと です。それまで苦労して築きあげてきたものを手放すことは、勇気が いります。ところがこの譬えでは、どちらの人にも迷いはありません。 むしろ喜んでいます。それほど発見物は価値があるのです。  *譬えの意味 「宝」と「高価な真珠」にたとえられているものは何でしょうか。 これは、天の国のたとえですから、宝や真珠にたとえられているのは、神様の支配の中に入ること、神様の支配のもとで生きることです。 もっと具体的にいうならば、天の国への道しるべであるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きるということ、そして永遠の命をいただき、神の国に入ることです。そしてこのことは大きな喜びを伴う出来事なのです。ただし、この大きな喜びのためには「それまで持っていたものを手放す」という行為(犠牲)が伴います。なぜなら神の国に入ることは、自分を神様の支配のもとに置き、神様のルールに従って歩み出すことですから、いままでの、自分を主人公とする生き方を 捨てなければならないからです。  このことを恐れることはありません。自分をみればわかるように私達は頼りない者です。何が起こるかわからない世にあって、明日の自分のことを知ることは出来ません。大震災がそのことを教えています。 それに対して神様は全知全能であり、私の生と死を支配される方、 わたしのすべてを知っておられますから、神様の支配のもとで生きる ことが出来るならば、私達には、何も恐れるものはありません。  *魚の網のたとえ 最後のたとえは、網にかかった魚のたとえです。捕えられた良い魚は器に入れられ、使い物にならない魚は捨てられます。つまり、同じ網から、神の国に入る者と、そうでない者に分けられることを教えています。 以上、私達は2回にわたり、天の国について学びました。ここにおられ るすべての方々が、学んだものとしてふさわしく行動し、これからも イエス様の教えに学び、神の国に招き入れられる道を、共に、確実に 歩んでいきたいと心から祈り願うものです。