「天の国について(1)」  牧師 佐藤義子

/n詩編90:1-12 /nマタイ福音書13:24-33 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様が語られた「天の国」の譬え話です。たとえ話は、人に何かを伝えたい時に、少しでもわかりやすく伝える為に用いられます。 ところが今日の聖書では、イエス様は、群衆に対して「たとえ話」をされますが、何を伝えたくてそのたとえを用いるのかを語られません。そのことを弟子達が不思議に思いイエス様に尋ねますと、イエス様はこのように答えられました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人達には許されていないからである。</span>」 /n天の国の秘密  秘密は「奥義」と言い換えられます。「天の国」とは、神様が支配されているところですから、天の国を正しく知る為には、神様のことを正しく深く学ぶことが必要です。イエス様は「奥義を悟ることが許されていない人」について、旧約聖書の言葉を引用されました。それは「心が鈍り、耳は遠く、目は閉じてしまった人。心で理解しない人、悔い改めない人」です。「耳が遠い」とは、聞くには聞くが決して理解しない人、「目を閉じてしまった人」とは、見るには見るが決して認めない人のことです。 /n天の国のたとえ  今日の聖書には、天の国についての三つの譬え話が記されています。 第一は「毒麦のたとえ」です。内容は、ある人が畑に良い種をまきましたが、同じ畑に、夜の内にこっそり毒麦の種をまいていった人がおりました。そうとは知らず良い麦だけを期待していたしもべ達は、芽が出て実り始めると毒麦に気付き、急いで主人に報告します。主人は「敵のしわざだ」と言い、育つままにしておくように指示します。そして収穫の時期になったら、最初に毒麦を集めて焼く為に束にして、その後、良い麦を集めて倉に納めるように命じます。このたとえには、天の国の奥義が隠されています。弟子達は、群衆と別れて家に戻ったイエス様に、このたとえの解き明かしを求めました。  イエス様は次のように説明されました。良い種を蒔くのはイエス様です。イエス様が蒔いた種からは良い麦だけが育ちます。良い麦とは、神様を愛し、隣人を愛し、神様の喜ばれる生き方をしたいと願いつつ生きていく者です。しかしこの世にはイエス様の敵も存在しており、人々が気付かぬ内に悪い種をまいていきます。それは良い種と同じように、人格の奥底に侵入します。欲望をかきたて、自分の利益を求め、人を憎み、人をさばき、悪魔の意志をおこなう生き方です。そして困ったことに、良い種も悪い種も同じ畑(世界)に蒔かれ、教会も例外ではないことです。   毒麦は雑草で、苗の時は小麦と良く似ていてほとんど見分けがつかず、穂が出て初めてそれと区別がつくそうですが、その頃には根が絡み合っています。小麦は根が弱く、毒麦の強い根が、小麦を一緒に引きぬいてしまうので、収穫までは毒麦をそのままにしておくのだそうです。たとえで、主人が、毒麦をすぐ抜くことを禁じたのは良い麦を収穫するためでした。収穫の時には毒麦は束にされ、焼かれます。イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">良い麦(正しい人々)は、父の国で太陽のよう輝く</span>」と語られました。 /nからし種とパン種 二番目に、天の国が「からし種」に譬えられます。それは畑や庭にまかれる他のどの種よりも小さいのですが、やがて、ほかのすべての植物を遥かに越えて、大きく成長し、鳥が巣をつくれる程になります。  三番目に、天の国が「パン種」(イースト菌)の働きに譬えられます。パンを焼く時、粉の中にイーストをまぜますが、その量は小麦粉に比べればほんのわずかです。しかし、それが入ればイースト菌の発酵作用は、まわりから始まり、ついには全部が発酵してふくらんできます。  イエス様が、小さなガリラヤの村にまかれた神様の言葉は、初めは、小さな働きとしてしか映らなかったでしょう。イエス様は御自分を人々の下に置き、謙虚に生きられました。しかし蒔かれた小さな種は、今や、全世界に拡がり、大きな働きをし、今も人々を神様の支配へと招いています。そして内に大きな力を秘めている神様の言葉は、毎週の礼拝で、私達にも蒔かれていることを覚え、この恵みを感謝するものです。