「わたしもその中にいる」  牧師 佐藤義子

/n 詩編147:1-7 /nマタイ福音書18:10-20 /nはじめに  この地上にキリスト教会が出来たのは、ペンテコステ(聖霊降臨日)の日でした。その日、約束されていた聖霊が弟子達に降り、弟子達は聖霊を受けて、十字架で殺されたイエス様こそ神の御子・救い主であると語りました。この弟子達の説教を聞いて、信じた人々の群れが教会の始まりです。ですから、教会の土台はイエス・キリストです。教会が教会となっていくために、又、私達が「神の国の民」とされていくために大切なことを、イエス様はマタイ福音書18章で教えています。 第一に、天の国で一番偉い存在は誰か。<自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉い>。 第二に、信仰の仲間をつまずかせることの罪の深さ。<信仰の弱い人をつまずかせるなら、その、つまずきになった部分を切り捨てなさい>。そして今日読んだところの、「神様の御心は一人も滅びないこと」。また、「教会の仲間が罪を犯した時には、どうしたら良いのか」。そして最後に、神様から赦された者が、もし隣人を赦さなければ、どうなるかについて語られています。 /n小さい者を軽んじてはいけない  十節の後半では、小さい者を一人でも軽んじないように教えています。詩編91篇には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主は、あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。</span>」とあります。人々から「小さい者」と思われていても、神様を信じる者には神様の守りがいつもあり、神様の守りは、天の使いを通して働かれていることを教えています。 そしてイエス様は、100匹のうちの一匹が迷い出た時、羊飼いは99匹を山に残して一匹を捜しに行くたとえ話をされました。神様の国で、神の民とされた者は、一人でも滅びの世界に戻ってはならない。離れた時は、羊飼いのように捜しに行き、連れて帰るのです。私達は、お互いに愛をもって励まし合い,支え合いながら、信仰生活を共に全うしていきたいと願っています。 /n兄弟への忠告  兄弟とは同じ信仰者、主にある兄弟姉妹のこと(教会の仲間)です。神様を信じ、イエス様を信じて従っていく時、私達は、信仰と祈りによって悪から守られます。しかし悪の力はすさまじく、悪魔サタンは、いろいろな手法を用いて信仰者を誘惑し神様から遠ざけようと試みます。その結果、誘惑に負けたり、試みられて罪を犯すことがあります。信仰の仲間の一人が罪を犯した時、そのことを知った人は忠告しなければなりません。放っておけば、罪の空気は教会の中に拡がります。罪の芽は早いうちに刈り取らなければなりません。忠告は、最初二人だけのところでします。その人が忠告を受け入れたら、教会は強く立ち続けることになります。受け入れない時には、さらに一人か二人を連れて説得にあたります。「そのことが罪である」と確定されるためには、二人又は三人の証人が必要だからです。それでも忠告を聞き入れない時、教会は、その人を、天の国の民とはみなさずに、信仰を持つ以前の時の関係に戻すことになります。これは神様の教会をきよく保つためです。 /n教会への委託  教会には、イエス様から「権威」が委託されています。悔い改める者には「罪の赦し」を宣言します。その一方で、罪ある者を裁きます。それは、愛を破壊し、不正を犯し、主にある兄弟姉妹を否定した時です。 イエス様は、教会の仲間が罪におちいらないように、罪を遠ざけるようにとの願いで結びつくことを求めておられます。悪に対する戦いは、私達を祈りへと導きます。イエス様は、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または、三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:19) と約束されました。 私達がどこにいても、心を一つにしてイエス様の名前を呼び求める時、イエス様はいつでもどこにでも来て下さり、私達と共にいて下さるとの約束です。そして私達の祈りは、イエス様が神様に執り成して下さるのです。何と力強い励ましと恵みの約束でしょうか。共に祈りましょう!