「神のものは神に」 牧師 佐藤義子

/n詩編52:3-11 /nマタイ22:15-22           /nはじめに 今日は10月の第一日曜日で「世界宣教の日」です。私は毎年この日が来ると、日本におられる外国人宣教師の方々や、海外に派遣されている宣教師の方々を思い起こします。又、先月には思いがけなく私達の伝道所にもウェイド宣教師が来て下さいました。アメリカ人でありながらアフリカという全く環境の違う場所で、家族と共に生活し宣教された方です。現在はインディアン伝道をされています。自分がアメリカ人であることから全く信頼関係を持てなかった状況の中で、祈りながらの日々、ある日神様から示されて、リーダー格のインディアンの方に対して、「過去のアメリカ人がインディアンの方々に犯した罪」に対して心から赦しを乞うた、その時、何かが変わり、そこから新しい関係が始まったことを伺いました。信頼のない所に信頼関係が生まれるために労苦し、御言葉と祈りによって神様からの力をいただきながら、パウロのように日夜、伝道されているすべての宣教師の方々が、この一年も神様の守りの中で良いお働きが出来るように祈ります。 /n仕組まれた質問  今日の聖書には、ファリサイ派の人々がイエス様をわなにかける相談をして、ヘロデ派と手を組んで、一つの質問をしたことが記されています。質問とは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか?」です。 どちらの答えをしても困るように仕組まれています。当時ユダヤはローマに支配されており、ユダヤ人は国内の為に神殿税を払っていましたが、その他にローマ政府に納めなければならない人頭税がありました。ところが、申命記17章にはユダヤ人以外の王を立ててはいけないと定められています。もしローマという外国の皇帝に税金を納めるなら、そこの王権を認めることになり、それは偶像崇拝者の仲間になることだと考えて、ローマへの納税は、自分達の良心が許さないと拒否する人々が多くいたようです。彼らはそのため、家や畑を没収されたりしました。一方、税金を納めている人達も、本当は納税すべきでなく、自分達は悪いことをしているという思いがあったようです。もしイエス様が、納税は「律法に適う」と言えば、納税を神の教えに背くものとして良心の痛みを感じている人々の気持はイエス様から離れます。逆に、税金を納めるべきでないと答えるなら、納税は国民の義務と考えるヘロデ派を前にして、ローマへの反逆者の烙印(らくいん)が押されます。 /n「皇帝のものは皇帝に」  これがイエス様の答えです。ローマ皇帝の要求が、税金というお金にかかわることだけならば、納税で自分の良心を苦しめる必要はなく、そこに納め、返せばよいのです。納税は、信仰の本質にかかわるものではないのです。 /n「神のものは神に返しなさい」    イエス様は、このあと続いて「神のものは神に返しなさい」と求められました。神のものとは神様から与えられたものです。それは、旧約時代に預言者を通して与えられた「神様の言葉・律法」です。神様から与えられた御言葉と律法は、私たちを神と人への奉仕へと導きます。神様が与えて下さる光は輝かなくてはならず、神様のぶどう畑は、神様の為に実を結ばなくてはなりません。神様が下さる恵みに感謝をささげ、神様が統治されるところでは服従をささげ、御言葉には信仰をもって応答していくことが期待されています。 /n神様がわたしたちに与えておられるもの  さらに私達は神様から多くのものを与えられています。命を始めとして、命を宿す肉体、肉体を管理する能力、体力、知力、特技、長所、さらには家族、友人、知人との出会い、仕事などの収入の道など、どれ一つとっても、それらはすべて神様が下さったもの、或いは、与えられたものが土台となって、さらに与えられたものといえるでしょう。「神のものは神に」とは、神様から与えられたものを、ふさわしい内容で神様にお返しする、神様の御用のために用いることです。今週も、神様の御意志に従がうことが出来るように、イエス様と共に歩んでいきたいと祈り、願うものです。