主イエスと共に生きる

 「神に望みを置く」  佐々木哲夫先生(東北学院大学) 創世記2:15-17・?テモテ6:17-20 *はじめに 本日は収穫感謝を覚えての礼拝です。今の季節は、丁度、果物や穀物の 実りの季節の時ですから、果物や穀物の収穫感謝ということを連想致します。特に日本では稲作の豊作を期待する時期でもあり、勤労感謝の祝日の時でもあり、さまざまに理解されるところです。 ところで教会の収穫感謝礼拝は、アメリカに移住した清教徒達(ピルグリム・ファーザーズ)に由来しているものだと言われております。 1620年に、清教徒達が新大陸プリマスに到着しました。その年の冬は、大変寒くて多くの死者を出すに至ります。特にイギリスから持ってきた 穀物の種は、新大陸の土に合わなかったのでしょうか、実りが乏しく清教徒達は飢餓の危機に瀕したのです。そのような時に先住民のインディアンが、食物や衣類を持って来て彼らを助けてくれた。又、新大陸での穀物の栽培方法をも教えてくれたということで翌年は実りを豊かに迎えることになり、入植者と先住民とは、神の恵みに感謝し、豊かなご馳走を一緒にいただいたということです。この出来事は今日アメリカの祝日の一つである、 サンクスギビングデ-として祝われております。その日夕食は、親族や 友人が集まり、七面鳥を丸焼きにして食卓を囲むというような行事に なっています。私達の教会は、本日の礼拝を、私達を養って下さる神に 感謝する礼拝として守りたいと願っております。 *「神は人を園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」 さて、今日の聖書にあるように、神様は最初の人アダムを、木の実りをもって養って下さいました。エデンの園のアダムに、主は次のように語りかけています。「園のすべての木から取って食べなさい」。アダムは、園の木の実で生きることが出来たのです。エデンの園では、食べることが保証されていた、生活が保障されていたということです。しかしそれは遊んで暮らすということを意味するものではありませんでした。神はアダムに、園を耕す労働に従事するようにしています。楽園においても労働があったということになります。作家のC・Hルイスは、その著作の中で、天国と地獄を想像しています。「天国でも、やはり労働があるのだ。人々は協力して働くのだ」と書く一方で、「地獄では願うと何でも瞬時に形となって現れ、それを得ることができる。労働することがない。食べ物も自由に 願えば与えられる」と記しております。何か、地獄の方が良さそうな状況ですが、実はそこには協力がなく、絶対的な孤独がある。そんなことを、 ルイスは記しております。神様から養われるということと、人の労働と いうことの関係について考えさせられます。  *人は、顔に汗を流してパンを得る さて、エデンの園のどの木からも取って食べても良かったのですが、一つだけ例外がありました。善悪の、知識の木からは決して食べてはならないというのです。理由は、かなり強い表現が使われているのですが、「食べると必ず死んでしまう」(17節)というのです。なぜ神様は善悪の知識の木からは食べてはならないと言うのか、というのは本日の主題から外れますので詳細に立ち入ることはしません。ただ、善悪の知識の木の実を食べることによって、人類に罪が入ってくることになった。そのことはご承知のとおりです。 その時にアダムとエバは、園にあるもう一本の木、「命の木」からはまだ取って食べることをしていませんでしたので、神は、命の木から採って 食べることを禁じたとあります。人類に「罪」と同時に「死」が入りこんだ瞬間であります。この出来事以降、人が食べる物は確かに神から与えられた賜物なのですけれども、人は顔に汗を流して働いてパンを得、生きて、やがて死に、ちりに帰る、という生涯を送ることになったというのです。 *菜食から肉食も やがてアダムから世代を数えて10代目の時に、ノアが登場致します。ノアの洪水の話も皆さんご承知の通りです。あの洪水が引いて、箱舟が アララト山の上に止まり、新しい時代が始まった時に、主は、ノアを祝福しています。雲の中に虹が現れると、神は、「この祝福を心に留める」と言いましたので、この祝福のことを「にじの契約」とも言っております。 その祝福の中で、神は、次のように言っています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(創世記9:1-3)。 換言するならば、洪水の前の人々は菜食でしたが、洪水の後は肉食が許されたということです。聖書はさまざまなことを記しておりますので、なぜ洪水後に肉食が許されたのかと思い巡らすところですが、聖書の記述は、その理由を記しておりません。ユダヤの伝承はこういうことを色々考えて、そのことについて記しています。その中には、洪水後の動物はノアの箱舟によって救われた動物たち、その一対から繁殖したものであり、すべて、家畜としての動物なので食べることが許された、という説明がありました。しかし聖書には、明確な説明は記しておりません。ただ確かなことは、すべての収穫は人間に与えられた「神からの恵み」であるということでした。 *「富は神からの賜物であり、恵みである」という本質 さて時代が進みまして、穀物を多く栽培し、実りを蓄積する者が現れてきます。又、羊や山羊を繁殖させて多くの群れを持つ者も現れてきます。 富める者が現れてきます。収穫は神の賜物でありますから、富める者は、 神から大きな祝福を与えられた者であり、逆に、貧しい者とは神の祝福にあずからない者、信仰の薄い者と、ユダヤの中ではみなされるようになりました。 しかし「すべては神から与えられたもの、エデンの園で与えられたもの、ノアの洪水の後に与えられた食べ物すべては、神からの賜物であり神の恵みである。」・・・そのような本質が、やがて見失われていきました。富は自らの手腕で勝ち得たものと考える者が、少なからず登場する社会となっています。特に穀物や家畜など、目に見える姿で富を所有し、認知した時代から、時間が経つにつれて、例えば、「富」というものが「貨幣」という形で所有される経済時代に進みますと、「富は神からの賜物」という直感的な理解が薄れてきました。そして、そうではなくて、「富は自分の力で得たもの」と考えるようになってくるのです。  *「神に望みを置く」 本日開きました新約聖書のテモテの手紙は、一世紀の時代を背景と しています。パウロが手紙の中でテモテに告げました。「この世で 富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と記したのです。 この聖書の箇所は特別に解説を加えるような必要はない程に、明確な内容です。イエス・キリストの時代、一世紀の状況は、経済が進歩した時代であり、今日の私達の時代と似ている状態でありました。むしろ、今日の私達のほとんどは、一世紀の富める者をはるかに越えて、豊かな生活を営んでいるともいえます。 今朝の収穫感謝の礼拝において、私たちはもう一度、聖書の言葉 「私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」の言葉を持って、あのエデンの園でアダムを養い、ノアの後の時代を養ってくださっている神に、今もなお、私達は収穫を感謝 しつつ、心新たに信仰の思いを確かにしたいと願うものであります。