「苦しみを受ける主」伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書53:6-12 /nマルコ福音書15:6-20 /nはじめに イエス様は、同胞のユダヤ人達の有力者達から成る最高法院での裁判に於いて、ご自分を神の子とした「冒とく罪」により「死刑」の宣告を受けました。当時、ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤでは、ローマの許可がなければ死刑執行は許されないため、最高法院は、イエス様の身柄をローマ皇帝の代理としてユダヤに遣わされていた総督ピラトに引き渡しました。ローマ帝国にとってユダヤ地方の統治とは、ローマの支配に反対する人々やその活動を封じ込めることが第一の仕事になっていたと思われます。そして又、反対者の制圧さえしておけば、その他のユダヤ人達には多少甘くする方法で、ローマの人気を上げることも可能だったようです。 /n神ではなく、人を見たピラト 過越祭における恩赦(囚人一人の解放)は、そのような背景のもとで、総督ピラトの人気取りの政策の一つだったのでしょう。ピラトのもとに押しかけて来た「群衆」は、恩赦を利用して、暴徒として投獄されていたバラバ(恐らく政治犯)の釈放を叫びました。それは、群衆を背後から操り、扇動したユダヤ教の有力者である「祭司長達」から出た行為でした(11節)。 ピラトは、イエス様が自分に引き渡されたのは、祭司長達の妬みの為だとわかっており、イエス様は無実であるとの判断により、釈放する方向へ誘導しました。群衆には「どんな悪事を働いたと言うのか」と死刑になるような悪事は何もないことを認めさせようとします。しかし三度の警告にもかかわらず、祭司長達に扇動された「群衆」の意思は変わらず、「イエスを十字架につけろ」と激しく叫び立てる声の前に、ユダヤ人の評価も欲しいピラトの決断は揺らぎ、最後にピラトは、イエス様の無実は分かっていながら、人間として仰ぐべき「神の御顔」ではなく、人の顔色を見て、イエス様を鞭打ち、十字架へと引き渡してしまいました。このように神様を無視して、人間を優先させることこそ、神様の悲しまれる罪の一つなのです。それに加えて16節以下から、罪人としてローマ兵士が加わります。 /nローマ兵士の罪 ピラトがイエス様の死刑判決を下した結果、ピラトの配下にある兵士達は、図に乗って、被告人イエス様を傷つけました。鞭で相当傷ついておられたにもかかわらず、イエス様の服を自分達の冗談で脱ぎ着させたり、茨の冠を造ってかぶせたり、葦の棒で叩いたり、つばをかけたり・・という描写を読むだけでも、何と残忍な事だろうと胸が痛みます。更に悲しいことには、イエス様に向かって偽りの礼拝をしたのです。どんなにか御心を痛められるこれらの出来事に忍耐されたでしょうか。 /n身代わりの犠牲とあがない イエス様は、恩赦になる「バラバ」のために、身代りに犠牲となられました。それは一人の人間「バラバ」のためだけに限らず、神様を無視して生きる「この世」のことを第一にして「神様を二の次」にして生きる姿勢を変えることの出来ない、罪に捕らわれた私たち人間の為にも、身代わりとして犠牲になられたのです。私たち人間は、神様からいただく「永遠の命」や、神様が人間に下さる神様の愛を軽く考えて、自分の都合の良いように盗もうとしている「大罪」を犯しているからです。 しかし、こんな罪深い人間、人種や身分を越えた全ての人間の罪を贖(あがな)うために、主は十字架にかかられる使命が与えられ、それは父なる神様の御心として決して避けられないことを、イエス様ご自身、とうに知っておられました。今日読んだ旧約聖書「苦難の僕」が御自分の使命であることをイエス様だけはご存知で、すでに預言されていました(10:33)。 /n「だれでもわたしのもとに来なさい。」 イエス様は、父である神様の御計画に従って歩んでおられるだけなのに、そのことを理解しない周りの者達の罪で責められ、多くの苦しみを受けられました。いかに苛酷な役割だったことでしょう。それでも主は、忍耐されました。もしそのような試練が自分に訪れた時は、黙って耐え抜かれた主の痛み、苦しみに思いを馳せて助けを祈りましょう。必ず主は、その重荷を共に担ってくださいます。その辛さを誰よりもわかって下さるお方です。  最後にこの御言葉をお伝えします。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。</span>」(マタイによる福音書 11:28-30)