「地には平和」 マーチー・ディビッド先生(東北学院大学)

/nルカ福音書 2:8-14        /nはじめに   ユダヤのベツレヘムの地方で、羊の群れの世話をしていたユダヤ人の羊飼いにとって、「地には平和」という神様から知らせを受けたことは、間違いなく、一生忘れることの出来ない出来事だったでしょう。羊飼い達は貧しいけれども誠実なユダヤ人でした。彼らはおそらく、ユダヤ人達が辛抱強く何年も待ち望んでいた出来事を、目の当たりにする可能性に興奮していたことでしょう。何が起こっていたのかを話しながら、「もしや、これが沢山の預言者達の語ってきたことでないのか・・」「これが約束されてきたメシア(救い主)の降臨なのか・・」「今日、神様は、昔から語り継がれてきた救い主の約束を成就なさった・・」との思いを巡らしていたのではないでしょうか。私達はこの貧しいながらも敬虔なユダヤ人の羊飼いが考えていたことを想像することしか出来ません。しかし少なくても彼らは、何が起きたのか、その様子だけでも見に行かずにはいられなかったのではないでしょうか。 /n平和を待ち望むユダヤ人 ユダヤ人は長い間平和を待ち望んでいました。あまりにも長い間待っていたので、ユダヤ人の多くは疑い深くなっていました。ローマ帝国やギリシャの生活習慣に合わせながら、宗教上そして道徳上の妥協をしていました。それ以外のユダヤ人は何世代にもわたって待ち、待ち続けていました。事実、最後のユダヤ王国がバビロニア人の手におちた紀元前586年以来、彼らの生活は楽ではありませんでした。その後バビロニアはペルシャに制圧され、ペルシャ人がユダヤ人の領主になりました。 イエス様が生まれた頃、ユダヤ人はローマ人からの抑圧的なくびきを負わされ、苦しめられていました。それでも忠実なユダヤ人は、あきらめてはいませんでした。神様の約束を信じ、平和の王を待ち望んでいたのです。   /n平和 当時の敬虔なユダヤ人にとって、「平和」という言葉は旧約聖書の「シャローム」を思い起こさせました。預言者ホセアが語った「地には平和」とは実際にはどのようなことなのだろうかと考え始めるのではないでしょうか。ホセアにとって「神の平和」つまり「神のシャローム」は、ただ良い思想にとどまりません。むしろそれは、実際的で現実的な平和であり、この世界、この時代でも実現しうるものでした。ホセアの言う「シャローム・平和」とは、人々が貧困や強烈な脅しに恐れる必要がない時の状態をいうものです。ホセアのようなユダヤ人にとって「平和」とは、親しい家族や友人達と過ごす楽しさを思い起こさせる暖かさを与えるだけの、ローマ人の幻想をはるかに越えたものでした。 /nシャローム それどころか一世紀のユダヤ人がそうであったように、ホセアにおいても、「平和」は社会的であれ、政治的であれ、又、霊の領域においても意識されるものでした。「賛美」と「交わり」がシャロームの基礎ではありましたが、「地に平和」とは、ぶどうの枝に実がなり、鍋の中には肉があり、その土地から憂いが消えることでありました。さらにこのような平和は、ユダヤ人だけではなく全ての人々に恩恵を与えるものでした。これは、全人類に共通する平和だったのです。 羊飼い達は続けてわくわくしながら、このように物思いにふけりました。「今がその時だろうか。今夜だろうか。我々は本当に神様の最も素晴らしい約束が成就する瞬間に立ち合う祝福にあずかる者なのだろうか・・。」何世代にもわたって、「地には平和」との表現とは ほど遠い生活を送っていたユダヤ人でしたので、忠実なユダヤ人にとってもこのようなことが事実であることを信じることはむつかしかったのです。ユダヤ人は、もはや自分達の国すらもっていなかったのですから。 /n喜びに満ちた言葉「地には平和」 しかし羊飼い達は、天の聖歌隊が「地には平和」「地には平和」「地には平和」と神様の約束を歌うのを聞いたばかりでした。 私達も「地に平和」と言う言葉を聞いています。ただ私達は、この言葉を何度も耳にし過ぎて、ただの言葉として聞いているのではないでしょうか。私達はこの言葉がお店の宣伝に使われているのを見たり、クリスマスカードに書かれているのを見たりします。残念なことに、この喜びに満ちた言葉を何度も耳にし過ぎて、遠い昔のある夜に、羊飼い達がその言葉の本当の意味にわくわくしたようには意味を捕らえなくなってはいないでしょうか。 さらに日本ではイエス様の時代のユダヤ人達のように、圧迫された政権のもとで暮らすことはありません。しかし、今でも沢山の方々がイエス様の時代のユダヤ人達のように、非道な政権の下や、その他社会的に苛酷な状況のもとで暮らしていることを忘れてはならないのです。もしも、何百万人ものしいたげられた人々が、羊飼い達の前に現れた天からの聖歌隊をとおして「地には平和」というメッセージを聞くことが出来たら、この知らせを「希望の知らせ」として受け取ることができたのではないでしょうか。 /n神様からのメッセージ 神様の、「地には平和」とのメッセージは、「新しい自由」つまり平和と、これからにおける新しい希望を提供するということを知ったら、彼らはわくわくしないでしょうか。これらの平和のコンサートは、彼らの心、そして彼らの思いを変え、人生を変えはしないでしょうか。天国の聖歌隊は、アフガニスタンの人々に向けて、イラクの人々に向けて、パレスチナの人々に向けて、ハイチとスーダンの人々に向けて、世界中の受刑者に向けて、崩壊した家族の中で生きようとする人々に向けて、そして日本の地震と津波の被災者に向けて、アンコール演奏を行なったのなら何と素晴らしいことかとの思いにふけるかもしれません。 でもルカ(ルカの福音書の著者)は、言います。天使達は演奏を終え、天国に戻った。そして羊飼い達はその場を去りベツレヘムへと向かったと。 コンサートは終ったのです。 /nクリスマスの良い知らせ しかしコンサートは、本当に終ったのでしょうか。 クリスマスの良い知らせとは、このコンサートはまだ終ってはいない、ということではないでしょうか。天国の聖歌隊を指揮する神様は、生きておられる神様で、それは私達の神様ではないのでしょうか。 聖歌隊が告げるメッセージは、私達へのメッセージでないのでしょうか。イエス・キリストの弟子として、私達はこの御国でのコンサートを続ける者として召されたのではなかったのでしょうか。 私達は「平和の王」を知っているのです。私達はその方が告げる良い知らせを聞いたのです。私達は平和を経験したことがない人に、平和を届けることが出来るのです。私達は彼らに、「シャローム」、つまり心と思いに起きる「いやし」、飢える家族への食事、子供達への教育、そして渇いた魂への音楽、という形を通しての平安を表すことが出来るのです。私達が「地には平和」との知らせを携えて、この世の苦難の中にある人々のところへ持ち寄る時、「私達のために独り子がお生まれになった!」「私達のために救い主が与えられた・主であるキリストの救いです!」「神の愛する息子・神の愛する独り子は、私達のすばらしいカウンセラーとなり、私達の万能の神、私達の平和の王となられた!」と、天国の聖歌隊に加わりながら歌うのです。  アーメン。そしてシャローム。