「聖霊が宿る神殿」 牧師 佐藤義子

/n歴代誌上 29:10-20 /nコリント一 6:12-20  </span>  /nはじめに  今朝は、コリントの教会のクリスチャンにあてたパウロの手紙から学びたいと思います。コリントの町は、東洋と西洋の中継地として栄え、経済・文化・宗教などギリシャと東方の思想が出会う場所でした。パウロが伝道した当時、東西南北の交通路の交差点という恵まれた地理的条件から世界の国際商業都市として繁栄しておりました。その一方で、宗教的、道徳的には堕落し、神殿娼婦と言われる人達が多数存在していたことが伝えられています。 パウロが伝道旅行中、コリントの町に滞在して教会の設立にかかわりましたが、この地を去った後、アポロやペトロも伝道しましたので、教会は成長を続けました。しかし教会内で、私はパウロ派、私はペトロ派、私はアポロ派などと分派に分かれるというような問題が起こりました。さらに、コリント教会の中にまで道徳的腐敗が入りこみ、不品行を行なう者がでてきたのです。コリントの教会に起こった諸問題に対して教会の責任を持つ人々は、パウロに助言を求める手紙を書き、パウロはその返事としてこのコリントの信徒への手紙を書きました。 /nすべてのことがゆるされている 信仰者であるにもかかわらず性的不品行を行なう人達は、自分のしていることを悪いとは考えていませんでした。彼らの口癖は「私には、すべてのことが許されている」でした。彼らは当時はやりの思想であった「霊と肉を分けて」考え、「自分達はイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な存在とされた者だから、魂の救いはすでに完了している。それゆえ肉体は重要ではなく、肉体が何をしても全く問題はない。」と主張して、「だから、わたしにはすべてのことが許されている」と言っておりました。  イエス・キリストを信じる者は、神様によって「神の国の民」とされた者であり、この世の価値観から自由にされた者です。しかしパウロは、彼らに二度繰り返して反論しています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">しかし、すべてのことが益になるわけではない</span>。」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">しかし、わたしは何事にも支配されはしない</span>」と。 /n反論の根拠 パウロは、不品行を戒めなければならない四つの理由を挙げます。 1.私達の体は、主の栄光を現す為にあること。2.私達の体は、主への奉仕の為にあること。3.私達の体はキリストの体の一部であること。4.性的不品行は、私達の全人格を破壊する行為であること、です。   パウロは食べ物を例にとり、食べ物で人の体が汚されることはないけれども、娼婦との交わりは、その尊い体を汚すことになるということを、創世記の「二人は一体となる」との結婚の箇所から教えます。つまり、クリスチャンは、イエス様の復活の命を神様から与えられた者であり、やがて終末の時には復活の体が与えられる約束があります。そして復活の命をいただいた私達は、キリストの体の一部とされ(15節)、主に結び付き、主と一つの霊とされます(17節)。そうであるならキリストの体の一部とされている者が、娼婦と性的交わりに入ることなどあり得ず、それらの行為は厳重に慎まなければなりません。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい</span>。」   私達は、イエス様の十字架を通して、イエス様によって、神のものとされました。私達を神様から隔てていた罪を、イエス様の十字架により取り除かれました。イエス様が御自身の血をもって、そのような尊い犠牲の代価を払って下さったことにより、私達は神のものとされました。私達の体は、神様からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であることを心に刻み、そのことを感謝し、聖霊が宿る神殿にふさわしい体の持ち主として歩むことが出来るよう祈りつつ、今週も歩みたいと願うものです。