「『ナザレの人イエス』と呼ばれた主」 牧師 平賀真理子

/nイザヤ書11:1-5 /nマタイ福音書 2:19-23   /nはじめに  「ナザレの人イエス」…イエス様は、生前このような呼び方をされることがありました。私達信仰者はイエス様のことを「イエス・キリスト」と呼びます。「キリスト」とは、「救い主であるイエス様」という意味です。私達が「イエス・キリスト」という時、それだけで「イエス様を救い主として受け入れる信仰」を表明しているのです。 約2000年前、イエス様は御言葉の素晴しい説き明かしや奇跡などを通して一般民衆の間では慕われていましたが、当時の権力者やユダヤ教有力者達にとっては認め難い存在でした。なぜなら彼らは、「心を見抜く神様」のことを知っていながら、イエス様の内側を探るより先にイエス様を外側から判断していたからです。彼らは、イエス様が「聖なる都・エルサレム」を中心とするユダヤ地方の出身者ではなく「ガリラヤ」という外れた地方の「ナザレ」という田舎村の出身であり、更に、「大工」という一般庶民階級出身であったことにつまずいたようです。しかし、「ナザレ」については旧約聖書の預言者により、前もって知らされていたことをマタイ福音書は証ししています。 /n「ナザレ」は預言の成就 その一つは、今日の旧約聖書イザヤ書11:1に、「エッサイの株から出る若枝」とあります(エッサイはダビデの父)。「救い主」はダビデの子孫から生まれるとイスラエルの人々は信じてきました。「若枝」(ネ―ツェル)」も「救い主」を表し、また、「若枝」と「ナザレ」の発音が似ています。「ナザレ」は救い主が出るのにふさわしい土地であると考えられています。 /n神にささげられた、聖別された人  又、「ナザレ」の発音と「ナジル」の発音は似ています。「ナジル人」(アラビア語のナザラが語源)には、「誓われた者」という意味があり、ここから更に発展して「神にささげられた人、聖別された人」と言う意味があるそうです。ここでは、ナザレ人イエス様が「ナジル人」のように神様の前に聖別された人生を歩まれたことを暗示する言葉として読むことが出来ます。 /n『ナザレの人イエス』と呼ばれた主   今日の聖書の直前に、夢で天使からヘロデ王の殺意を知らされ、両親は幼いイエス様を連れてエジプトへ逃げたことが記されています。その後、再び天使からヘロデ王の死によって、イスラエルに戻るよう示されます。イエス様の父なる神様は、御子イエス様を「ガリラヤのナザレ」に導かれました。当時のイスラエルの人々にとってユダヤ地方から離れたガリラヤ地方は同じ国とは思えない地域であり、「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書8章)と言われ、ヨハネ福音書には「ナザレから良いものが出るはずはない」との弟子の友人の言葉があります(1:46)。  神様の御心をすべて理解することはできませんが、「ナザレの人イエス」と呼ばれる理由の一つは、神様のへりくだりの本質の表れであり、二つ目には、弱さを愛する神、しかし同時に、弱さゆえに神が共にいて下さることへの強さを示しているように思います。聖書に証しされている神様は、人間を愛し、へりくだって共に歩んで下さるお方です。イエス様はそのへりくだりの故に、小さい時から多くの苦難の中に投げ込まれて、神の御子とはおよそふさわしくない低さに置かれました。 /n救いの御業 神様の救いの御業は、預言により前もって知らされ、天使による夢のお告げ、星の動きや人間界の出来事までも用いられて、信仰者を通して実現していくことを聖書は何度も示しています。私達も一つ一つの出来事を、表面的な感情だけで反応するのではなく、神様の御心が示されていることとして受け止め受け入れていく訓練が必要ではないか。そのことを通して私達が主の神殿として主が働いて下さるようになるのではないかと思います。今週一週間、聖霊の助けを祈り求めて参りましょう。