「神の知恵を知る道」   牧師 佐藤 義子

/n箴言1:7、2:1-12 /nコリント一 2:6-11    /nはじめに 使徒パウロは、熱心なユダヤ教徒であり、又、ファリサイ派の指導者として有名なガマリエルの門下生として厳しい教育を受けてきた人です。 「自分は律法に関しては非の打ちどころのない者であった」と自己紹介しているほどです。その彼が、イエス・キリストに出会い(天からの声を聞き)、キリスト教徒となり、さらにキリスト教の大伝道者となりました。では、パウロはそれ迄に身につけてきたユダヤ教の高い学歴と深い教養を、自分の武器の一つとして伝道で使おうとしたかといえば、答えはノーです。彼は、これらの知識はキリストのゆえに「損失」とみなすようになったと言っています(フィリピ書3:8)。今朝の聖書でも「この世の知恵」に関してイザヤ書29:14の、神様の言葉を引用します「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。</span>」(1:19)。 更に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらなかった</span>」(2:4)と述懐します。この世の知恵は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">滅びゆく支配者達の知恵</span>」(2:6)なのです。 /n宣教 では、伝道がこの世の知恵の言葉によらないとするならば、どうやって宣べ伝えるのでしょうか。今日の聖書で、パウロは、「“霊”に教えられた言葉」(13節)によって語り、神様が、世界の始まる前から定めておられた「隠されていた、神秘としての神の知恵」(7節)を語ると言っています。 そして人々が、人間の知恵によって信じるのではなく、神様の力によって信じるようになるために、自分がこれまで身につけてきた「この世の知恵の言葉」によらず、「“霊”と力の証明」によって伝道したことを告白しています。霊は、言葉以上のものです。なぜなら霊は、私達の命をその根底から揺り動かし、私達を神様に結びつけ、私達の中に愛を呼び起こすからです。そして御霊の働くところには力が伴なうのです。信仰が起こされるところには、必ず、“霊”と力が働いています。 人が神様に初めて向かう時、神様を知らなかったがゆえに犯してきた罪・・特に自分を神様の位置に置いて生きてきた罪・・を知らされ、心の中に悔改めが生まれます。その時、私達の内面の命の中に活動が起こり、その活動によって信仰は確かになり、私達の愛は強くされ、私達の神様への服従は完全なものとされていきます。これが霊と力です。 /n信仰者の目 神様の御業を見ることは、普通は隠されています。信仰を与えられた者だけが、ある事柄を見て、それを神様の恵みとして喜び、感謝して受けることが出来ます。信仰者の目は時代を超えて、神様の永遠の救いの御計画を見上げることが出来ます。「この世の知恵」と「神様の知恵」が完全に違っていることは、十字架に目を向ける時に明らかになります。  2000年前イエス様を十字架につけた人達は、イエス様を通して神様の栄光を見ることは出来ませんでした。なぜなら彼らは、イエス様をこの世の知恵で判断し、無力な者・有罪判決を受けた者とみなしたからです。イエス様を断罪した祭司や律法学者達は無知ではなく当時の人々が持ちうる知恵・知識を十分持っていました。彼らは神様を知っていたがゆえに、当時の律法にのっとって死刑を求刑しました。「人の目と心の思い」だけでは神様の知恵に到達し得ないことを先のイザヤ書は告げています。 /n<span class="deco" style="font-size:small;">神からの霊を受けた者が、神から恵みとして与えられたものを知る</span>  教会には神様の御業としての永遠の命の栄光が与えられており、その命は「キリストの体」を構成している私達(信仰者)の内面的命としっかり結びついています。この命は神様が愛する者たちに用意された命です。神様が召されるのは「この世の知恵で神様を理解している人々」ではなく、「神様を信じる者達」です。「イエス様は私の罪のために死なれた」と信じる信仰によって神様からの愛を受け取り、永遠の命の栄光が用意されている群れ(教会)の中に加えられました。そして目の前に起こる現実的な事柄の中に、力を伴なう“霊”の働きを見ることが出来、神様から恵みとして与えられたものを知るようになりました。神様は、今も常に働かれ、その愛は私達に日々降り注いでいます。日々起こる神様の御業を多く見ることが出来るように、今週も歩みたいと願うものです。