「救い主の死(1)」牧師 平賀真理子

/n詩編22:1-24 /nマルコ福音書15:33-38     /nはじめに  今年の受難節(レント)は3月5日の水曜日から始まりました。初日の水曜日は特別な日で、「灰の水曜日」”Ash Wednesday”と呼ばれています。聖書で「灰」は、懺悔や深い悲しみ・嘆きを表わします。「灰をかぶる」とは、心からの深い悔い改めの思いを抱いていることを表します。そして、灰をかぶって祈ることは、罪を自覚して(告白して)嘆き、悔い改めの祈りを献げることです。私達も同じように受難節の期間、主の十字架の苦難と死を思い起こし、主が命をかけて贖って下さった自分の罪を深く見つめ、悔い改めと祈りの時をいつもより多く持って過ごしたいと願っています。 /n全地は暗くなり(33節)  イエス様が十字架につけられたのが午前9時(15:25)で、今日の聖書には、その3時間後の正午、真昼間に真っ暗になるという天変地異が起こったことが記されています。これは天の父なる神様の御心が悲しみで暗くなったことを象徴的に表しているように私には思えます。命に溢れるはずの神様の世界が、人間の罪という暗闇を愛するサタン側の攻撃に襲われ、そこから人間を救い出すための「御子の苦しみ」を見ておられる父なる神様の悲しみです。 /nなぜわたしをお見捨てになったのですか 十字架上では、最期にイエス様の大きな叫びがありました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか</span>」。 主がなぜこの言葉を言われたのか、本当の御心を知り尽くすことはできませんが、二つのことが推測されます。一つは、この御言葉が詩編22編の冒頭の言葉であることです。22編は、ダビデが敵に囲まれた苦しい状況を神様に訴えて助けを求める祈りで始まり、最後は、神様は絶対助けて下さるお方であり、自分のみならず世界中に、後々まで恵みの御業を広めて下さる、との賛美で終ります。イスラエル男子は幼い頃から詩編150編を全て暗記するように教育されていたとのことで、おそらく22編の冒頭を聞けば22編全体が想起されたことでしょう。イエス様はこの時、ご自分の思いを詩編22編に載せつつ、父なる神様への揺るぎない信頼と従順を表明されたと考えられます。もう一つ考えられることは、父なる神様が、御子イエス様を見捨てることを、涙をのんで実行されたということです。罪を犯されなかったイエス様が、罪を背負い罪多き罪人と同じになられました。罪とは神様に背くこと、神様から遠く離れること、神様に従わないことです。神様のいない世界に行くことを望むことです。それは神様の豊かな恵みを拒否して、神様から見捨てられることです。イエス様は、罪人の受けるべき十字架で身体的には瀕死の状態となり、精神的にも人々からの嘲りなどの屈辱の中で徹底的に痛めつけられて、神様から見捨てられた状況(人間として最も悲惨な状況)に置かれたのです。それでもイエス様は死に至るまで従順でした。 /n神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた この垂れ幕は、神様の臨在を象徴する「契約の箱」が置かれている「至聖所」と祭司達が奉仕する「聖所」の間を仕切るものです。年に1度だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることを許され、動物のいけにえを捧げて、イスラエルの人々の罪の贖いをしていました。イエス様の十字架の死によって、この垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、ヘブライ書にあるように「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いて下さったのです</span>。」(10:20)。それまでの動物の犠牲による「あがない」が終り、イエス様の犠牲こそが、神様と人間を再び結びつける役割をするという神様の新たな救いの御業の始まりと見ることができます。  救い主イエス様の死という究極の悲しみは、神様から見捨てられるという絶望に陥ったように見えながら、実は、三日後の復活で、全く逆の、死への勝利となることを告げ知らされています。そして、主を信じる者なら誰でも救われて、神の国の民として招かれています。 受難節の期間、かつての罪を繰り返して再び闇の世界に戻ることがないように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。