「葬られた救い主」  牧師 平賀真理子

/nイザヤ5:8-16 /nマルコ15:42-47      /nはじめに 今日の新約聖書箇所では,私達の主イエス・キリストの遺体の埋葬の様子が詳しく証しされています。十字架の少し前のイエス様逮捕の時から、ぺトロを初めとする「弟子達」は逃げ去りました。彼らとは違った人物として、アリマタヤのヨセフの働きが新たに記されています。  4つの福音書の記述を拾い上げてみると、次のことが分かります。アリマタヤのヨセフは、ユダヤ社会で有力な議員であったにもかかわらず、イエス様に対する信仰を持っていたこと、しかし、主の生前は周りの人々を恐れてその信仰を公に出来ずにいたこと、一方、十字架と主の死を経験した後では、主のご遺体を引き取られるように自ら積極的に動き出し、「救い主」として相応しく遺体を取り扱い、新しい墓に埋葬したことです。 /nアリマタヤのヨセフの働きと神様の御計らい  有力議員ということは、地位に伴い、多くのお金も持っていることになります。そのような者は、多くの場合は思い上がっており、それをひたすら自分のために用いるために、神様からの祝福がないのです。しかし、この時、アリマタヤのヨセフは、富も地位も自分のためでなく、主の埋葬のため、ひいては、敬愛する主の尊厳のために使ったのです。  信仰告白を公にしないことに対して、先に信仰告白した者達は裁きの思いを抱くことがあります。しかし、神様は、未だ信仰告白していない、このヨセフを、主の埋葬という大事な働きに用いられました。主に愛された弟子達が本来するべきだった大事な役目を、このヨセフが果たしたのです。 /n主の十字架刑でも希望を失わなかったヨセフ   弟子達が主の十字架刑が現実のものとなった時に絶望してしまったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフは「神の国を待ち望む」希望を捨てませんでした。このことも神様は受け取られたのでしょう。主は、至らないところを裁く方ではなく、僅かばかりの良いところを探して拾い上げてくださり、ご計画に用いてくださる方であるとの思いを強くします。 /nピラトと百人隊長 イエス様の埋葬を巡って、十字架刑の判決をしたローマ帝国総督のピラトと、部下の百人隊長が再び登場します。ピラトは最後までイエス様の不思議さに捉われながら、神の御子と認めませんでした。一方の百人隊長は、イエス様を「神の子」と既に信仰告白している人物です。神様の前に、人間界での上下関係など意味がないことが暗示されています。 /nマグダラのマリアとヨセの母マリア  主の十字架上での壮絶な死と埋葬を見守り続けたのは、主に従ってきた女性達でした。彼女達はユダヤ社会の律法では、希望を持つことができない者達でした。しかし、主の福音に照らされると、女性であるいう条件は、何の障害にもならなくなりました。主を信じ従い続けようとしているかどうかだけが、救いの条件となり、彼女達は、次なる希望「主の復活」の証人にされてゆくのです。 /n人間の肉体をとって世に来られたイエス様 主の埋葬には様々な人物が関わりましたが、最も思い起こすべき御方は、私達の救い主イエス・キリストです。イエス様は、神の御子でありながら、へりくだって人間として歩まれたことに感謝したいと存じます。ご誕生の時も旅先の家畜小屋の飼葉桶に寝かされる惨めな状況でしたし、宣教活動中も多くの困難に苦しめられましたし、最後は十字架で死刑になって亡骸を人間に晒して葬ってもらい、その後に暗い墓に入るという悲惨なものでした。しかし、イエス様が人間の肉体を持って過ごされて本当に悲惨な経験をされたが故に、同じように肉体を持ってこの世に生きている私達人間の本当の「救い主」の役目を全うされるようになったのです。主の十字架と、その先の復活こそ、私達の希望です。