「死に至るまで従順に生きる。」  牧師 佐藤 義子

/nイザヤ書53:1-5 /nフィリピ2:5-11   /nはじめに  今日は、「しゅろの聖日(主日)」です。今日から受難節の、最後の一週間が始まります。イエス様がエルサレムの町にロバの子に乗って入城された時期、ユダヤでは「過越しの祭り」(ユダヤ教の三大祭の一つ)のため、大勢の人々がエルサレムに集まっていました。イエス様が来られると聞き、群衆が「しゅろの枝を手にとり、町の門まで出迎えに集まり、口々に「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び続けたことがヨハネ福音書に記されています。(新共同訳:なつめやしの枝)。マタイ福音書では、「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、又ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行くものも、後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。』」と記しています。(「ホサナ」は、元来、神様に向かっての叫びで『救いたまえ』という意味がありますが、時代と共に変化し、この時、「栄光あれ」という意味でつかわれたようです。) /n受難週 エルサレム入城後、イエス様はユダヤ教の指導者達から遣わされた人々によって捕えられ、ユダヤの最高議会で裁かれて死刑が宣告され、更に、ローマ帝国からの許可をとるためユダヤ総督ピラトのもとに送られ、死刑が確定し、わずか6日後の金曜日に十字架刑で殺されました。 今日から始まる受難週を、特に、イエス様のご生涯に深く心を向けて、過ごしたいと思います。私達は、受難週に入ったことを知らされても日常の忙しさに追われると、つい忘れがちです。イエス様のご受難を覚える為の、自分に合った「時の過ごし方」を持てたら良いと思います。(余談ですが、私の父は受難週には朝食をとりませんでした。断食は、旧約聖書では悲しみを表す他、特に懺悔の気持の表われとしてなされ、イエス様の時代も行われておりました)。 /nイエス様とは誰で、何をされたお方か。 今朝のフィリピ書には、私達が信じるイエス様はどういうお方であるかが述べられています。6節に、「神の身分でありながら」とありますから、イエス様は神です!7節に、「自分を無にして、人間と同じ者になられた」とあります。神が、私達と同じになる・・!私達と同じように罪の支配下にご自分の身を置いて生きられたということです。それは不自由な生活を意味します。肉体を持てば、肉体が求める本能との戦いを余儀なくされます。事実、イエス様は断食後「空腹を覚えられた」とあり、サマリヤの女に出会ったのは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">旅に疲れて座っておられた</span>」時でしたし、十字架上では「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇く</span>」と言われました。刑に伴う鞭打ちや一連の残虐行為を受けられた苦痛は、私達の経験をはるかに越えるものです。 /n「へりくだって」 神の御子が神の身分を捨てて、私達と変わらない人間となられたことは、それだけで「へりくだり」の生涯ですが、さらにご自分を高い地位に置くことをせず、徹底してご自分を低くされました。一般社会の人々よりもさらに低く、公の生涯に入られてからは、ひたすら神の国の福音伝道への旅を休むことなく続けられました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない</span>。」(マタイ8:20) /n死に至るまで従順に生きる。  イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">十字架の死に至るまで従順でした</span>」(8節)。イエス様は、神様から強いられてではなく(「神であることに固執しようとは思わず」6節)、ご自身の御意志によって、最後まで神様に従い通されました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、私達の主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるため</span>」でありました。(?コリ8:9)。神様は、私達人間を愛するがゆえに、私達を罪の支配から神様の支配へと救い出すことを願われ、イエス様は、この御心を知り、私達に代わって、その聖い(きよい)血を流されて罪をつぐなって下さったので、私達は神様から罪を赦していただけました。この大きな愛と犠牲により、今の私達があります。神様は、従順に生きられたイエス様を、三日目に復活させ、天に高く上げられ、全世界に君臨する「主」として立てられました。私達は、声高らかに『イエス・キリストは主である』と告白し、神様をたたえます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか</span>。」

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