「神の聖者」 平賀真理子牧師

/n5月3日の説教要旨 詩編37:12-24・ルカ4:31-37 /nはじめに  今日の聖書箇所の直前で、私たちの主イエス様を「メシア」としてではなく、 同郷人としか見ることのできなかった「心の狭さ」と自分達の利益を最優先にする「罪」によって、 ナザレの町は、宣教の拠点となるべき使命を果たすことができなかったわけです。 /n同じガリラヤ地方の「カファルナウム」で受け入れられる  ナザレからガリラヤ湖へ東に約20km離れたところに「カファルナウム」という町があります。 ルカ福音書4章14~15節や23節後半から推測すると、恐らく、このカファルナウムで宣教活動を始められた イエス様の評判が良くて、ナザレに招かれたと考えられます。 しかし、最終的に受け入れられずに、イエス様はカファルナウムに戻られたようです。 「ナザレ人イエス」と呼ばれた主によって、ナザレは有名ですが、実はカファルナウムの方が「神の国の福音」の宣教活動の拠点となった町であり、信仰者としては、より一層重要な町として覚えるべきだと言えるでしょう。 /nイエス様の御前にやってきた悪霊  ユダヤ教の礼拝所である「会堂」でイエス様が話をされている時に悪霊が、一人の男の体を用いて、 主の御前にやってきました。「霊」の話については、科学的思考に慣れた私達には、信じがたいと思われる方がおられるかもしれません。けれども、人間の居る所で、科学的に割り切ることのできないこと、「霊」の働きと思わざるを得ないことが、必ず存在します。昔だけでなく、現代にもあります。昨年、この仙台南伝道所で礼拝説教してくださった「ウェイド・マカーグ宣教師」の証しにも「霊」の働きにまつわる内容がありました。アメリカの先住民族の方々に伝道していく中で、ある時、「悪霊」を追い出し、「神の国の救い」を彼女や周りの人々に実際に示した出来事を語ってくださいました。この先生の伝道への熱意ある祈りが神様に聞かれ、イエス様が待っておられた悪霊を追い出すという神様の御業が現れたと思われます。  さて、今日の聖書箇所に戻ると、本来イエス様から遠ざかったままでいるべき「悪霊」がイエス様の御前に来ました。「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1~12)でイエス様が「悪霊」に打ち勝ったことは「霊」の世界では知れ渡っていたのでしょう。「悪霊」とは「デーモン」と呼ばれていて、「悪魔(サタン)」の手下と考えられていました。「悪」の側の者達は「悪」を装っていますが、彼らこそ「善」の素晴らしさがわかり、心の底では憧れているのです。「自己中心」や神様に背くという間違った方向性を悔い改めれば、彼らも救われます。けれども、極限まで追い詰められないと、彼らは「善」への方向転換をする勇気を持てずに悪の状態に甘んじるのです。「悪霊」は「かまわないでくれ」と言いましたが、実は裏返しの表現で、心の底では「かまってくれ」、「救ってくれ」と言っているのです。 /n「かまわないでくれ」=「あなたとわたし、何の関係もない」  「かまわないでくれ」という言葉は、原語で直訳すると、「あなたとわたし、何の関係がありますか?ありません」となります。この言葉は、イエス様が故郷ナザレで話された「預言者エリヤとサレプタ地方のやもめ」の話の中に出てくる言葉です。(ルカ4:26)息子の死で絶望したやもめがエリヤに投げかける言葉です。しかし、エリヤは死んだ息子を生き返らせ、彼女に神の救いの偉大さを知らせました。ユダヤ人達は、絶望した者の叫びである「神様との関係断絶」のこの言葉を聞くと、神様の偉大な力を実現したエリヤを思い出し、イエス様がエリヤの力を受け継ぐ御方だとわかり、その後、奇跡が起こることを予感したのです。 /n「神の聖者」  イエス様の救い主として偉大な勝利と権能をいち早く知った「悪霊」が、イエス様に使った称号が「神の聖者」です。「聖」とは、神様に属する者として取り分けられるという意味があります。後に、イエス様の一番弟子ペトロがイエス様を証しするときに、この称号で呼びました。(ヨハネ6:69・使徒3:14) 「悪」なるものが「善」なる者より先に「救い主」を察知する例です。「神の聖者」であるイエス様は、この後、悪霊に、黙って、男から出るように率直に指示し、御言葉が実現しました。イエス様を「神の聖者」だと知りながら、主にへりくだって従う方に変わらなかった悪霊は、主の御前に留まれませんでした。イエス様は御自分の前で悔い改め、信じて従う者を探し出し、「神の国」の拠点とされます。