3月27日の説教要旨 「復活の主との出会い」 牧師 平賀真理子

創世記2:1-7・ヨハネ福音書20:19-23

 はじめに

「主の復活」を祝う「イースター」を迎えました。キリスト教の3大祭りの一つです。3大祭りとは、クリスマス・イースター・ペンテコステ(聖霊降臨)です。日本ではクリスマスが一番有名ですが、キリスト教は歴史的に見ても、「主の復活」を祝う「イースター」から始まっています。

 「主の十字架と復活」

イエス様は、父なる神様からこの世に送られて、「神の国の福音」を宣教することを大事に歩まれましたが、最後には、「救い主」として、父なる神様と人間とを隔てている「人間の罪」を贖(あがな)う使命がありました。それが「主が十字架にかかる」意味でした。十字架にかかるのは、激痛・屈辱・孤独に満ちたもので、イエス様でさえ、容易には受け入れることはできず、ゲツセマネにおける祈りで、悩み、苦しまれたことが他の福音書に記されています(マタイ26:36-46、マルコ14:32-42、ルカ22:39-46)。しかし、救い主として十字架にかかることが、父なる神様の御心だと知り、イエス様は最後には決然と受け入れられました。そして、イエス様が「救い主」として「十字架」にかかられたことによって、父なる神様はイエス様に「復活」=「死に打ち勝つ」という栄光をお与えになったのです。

 弟子たちでさえ最初は信じられなかった「主の復活」

マグダラのマリアが、まず、「復活の主」に出会い、そのことを弟子たちに伝えましたが、彼らはその証言を恐らく信じられず、「ユダヤ人を恐れて」(19節)戸に鍵をかけて集まっていました。弟子たちは自分たちがやがて命がけで伝えていくことになる「主の復活の証言」を、彼ら自身さえ、最初は信じられなかったことがここで示されています。

 「復活の主」から弟子たちに会いに来てくださった!

主が復活された「最初の日」(日曜日)の夕方、この世の人間を恐れた弟子たちの前に、イエス様の方から先に恵みをくださいました。預言なさっていたように、本当に復活なさり、「復活の主」として御自分から弟子たちに会いに来てくださったのです。「鍵をかけた戸は通り抜けられない」という物理的法則を越えて、イエス様が彼らの真ん中に現れました。イエス様が既にこの世の法則を越えた存在だと示されています。「復活の主」は神様と同じ存在であり、「復活の体」をお持ちです。しかも、この世の経験を全く消した「傷の無い体」ではなく、十字架の時に付けられた傷がありました!それで、弟子たちも、突然現れた方がイエス様だとわかったのです。

 「あなたがたに平和があるように。」

信仰の弱い弟子たちを裁くことなく、「復活の主」が、まず、「あなたがたに平和があるように。」という弟子たちに必要な御言葉をかけられました。主は愛する者たちに、必要な時に必要な御言葉を与えてくださることがわかります。「平和」とは、単に戦争の無い状態をいうのではなく、神様の下にあって、何の欠けもない、満ち足りた状態のことを意味する言葉です。恐れに捕らわれた弟子たちは、この御言葉によって、かつて、イエス様と共に歩んだ宣教の旅での満ち足りた状態「主の平和」を思い起こしたことでしょう。

 弟子たちに息を吹き入れ、「聖霊」を送られたイエス様

「聖霊」とは「神の霊」とも言われ、「霊」という言葉は「息」とも訳されます。創世記2章7節に、神様が最初に人間をお造りになった時のことが記されています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」本来の人間は、「神様からの命の息」を吹き入れられる必要があるのです。「復活の主」イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(22節)と言われ、その群れに新しい権能を授けてくださいました。

 「罪の赦し」

「罪の赦し」という権能を、「復活の主」は弟子たち全体に譲られました。「人の罪を赦す」など私達人間にはできません。信仰者の群れ全体=「キリストの体」である「教会」に、イエス様がお持ちの「罪の赦し」の権能を譲られたのです!だから、教会は、「罪の赦し」としての「洗礼式」を執り行うことが赦されています。主は、私達の教会に、洗礼志願者を与えてくださり、今日、このイースターの日に、洗礼式を行う恵みを与えてくださいました。私達の教会が「キリストの体」として正しく歩み続けられるよう、「復活の主」に祈り求めつつ、福音伝道にますます励みたいものです。