4月10日の説教要旨 「実を結ぶ枝となる」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:1-10・ヨハネ福音書 15:1-11

 はじめに

今日の、ヨハネによる福音書15章は、イエス様の告別説教と呼ばれている中の一部です。告別の説教は14章から始まり16章まで続きます。

イエス様は、この告別説教のあと、大祭司の祈り(17章)とも呼ばれる長い祈りを捧げられて、受難(捕縛・裁判・十字架)の時を迎えます。 今日の聖書箇所を、イエス様が弟子達に語った遺言として聞き、ご一緒に学びたいと思います。

 ぶどうの木

ぶどうの木は、英語の聖書では「vine」という言葉が使われています。「vine」は、辞書で調べると、最初に「つる性の植物」とあり、そのあとに、「ぶどうの木」という意味も載っています。ぶどうの木は、木からつるが伸びていき、やがて若枝となり、又、その枝からつるが伸びて、その先端に花の穂を付けるそうです。ぶどうを作る人は、冬の間に木の形を維持するため枝を切り詰めて、棚(他に、垣根や支柱)などを作り、そこにつるが伸びていくように誘導しておくそうです。その一方で、古い枝や、生長を妨げる枝などは、不要な枝として切りますが、残した枝もそのままにしておかず、木の栄養分が枝や葉の方に回らないように枝の先端を切り詰めて、果実の品質を良くするということです。

 「わたしはぶどうの木、父は農夫、あなたがたはその枝」

今日の聖書では、イエス様はご自分をぶどうの木、ご自分の父(神)を「ブドウ園の主人(農夫)」と、たとえています。ぶどうの木は、ブドウ園主のために木からつるを出し、その実を実らせるためにそこに植えられます。木から伸びていく「つる」は、若枝となり、その枝は、イエス様の弟子達のことを指します。そして若枝がつける実りとは、弟子達がこれから伝道して、それによって神様のもとに導かれていく人達であり、その人達からなる教会の群れと考えることができるでしょう。イエス様は、ご自分から出たたつるが、実りをつける枝となるための方法を教えられました。

 「わたしにつながっていなさい。」

枝は、木から命の樹液を受け取ります。木につながっていない枝は自分では実をむすぶことが出来ません。たとえ、イエス様から訓練された弟子であったとしても、彼らは自立して一人で、人々を神様のもとに導くことは出来ません。なぜなら人間は、自分の中に真理を持っていないからです。真理は木であるイエス様が持っておられます。枝である弟子達は、木から命の樹液、真理を受け取るのであり、自分の考え、自分の力、イエス様に根差していないすべてのものは、実をつける働きを弱めるだけです。

つるが枝となり実りをつける場合も、ブドウ園主(農夫)の手入れが入ります。もっと豊かに実を結ばせるために、時に厳しいはさみの剪定(せんてい)を受けなければなりません。

 実を結び、弟子となる

7節では、もし弟子達がイエス様と密接につながり、イエス様の言葉が弟子達の心の中にいつもあるならば、その言葉は弟子達を支配し、何が必要かを見抜くことが出来、弟子達の祈りは聞き届けられることが約束されています。そして弟子達が、人々を神様のもとに招き、その人々の心の中にイエス様の光と命が入っていくならば、弟子達はぶどうの木を植えたブドウ園の主人である「神様の」栄光を現していくのです。

わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまる

イエス様が弟子達に求めておられる奉仕(人々を神様のもとに導く奉仕)の本質は、イエス様ご自身が弟子達に注がれている愛です。この愛がなかったなら、つるは実を結ぶことが出来ません。この愛は神様からきている愛です。弟子達がイエス様の愛から離れずその中にとどまるということは、神様から湧き出た愛がイエス様を通って弟子達に注がれている、その愛の中に入ることです。イエス様が父である神様に服従することを通して神様の愛にとどまっているように、弟子達も又、イエス様が教えられた「掟」を守る(服従する)ことによって、イエス様の愛にとどまり続けることが出来ます。

 イエス様の掟

イエス様が、「これにまさる掟はほかにない」、と言われた二つの戒めが、あります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。

第一の掟は、神様を愛することです。目に見えない神様を愛するとは、具体的には、(十戒にあるように)、天地創造主である神様だけを神様として、偶像礼拝をしないこと、みだりに神様の名前を唱えないこと(みだりに=空しく)、安息日(私達にとっては日曜日)を、他のウィークデーと区別して、聖なる日とする(礼拝を守る)ことです。

第二の掟は、「隣人を自分のように愛する」です。ルカによる福音書10章には、「隣人とは誰か」と質問した律法の専門家に対する答えとして、イエス様が、「良きサマリヤ人」のたとえ話を語られています。

 隣人になる

たとえ話は、「旅をしていた一人のユダヤ人が、途中強盗に襲われ、半死の状態で倒れているのを、三人の人達が通りすがりに気付きます。が、最初の人も二番目の人も、道の向こう側を通って行ってしまいます。しかし、三番目に通りかかった人は、ユダヤ人とは仲の悪いサマリヤ人でしたが、彼は倒れている人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、翌日になると宿屋の主人にお金を渡して、介抱してくれるように頼み、不足分が出たら、帰りがけに払うと言いました。」

イエス様は、このたとえ話をされた後、質問者に「誰が、この旅人の隣人になったと思うか」と問い返しました。質問者は「その人を助けた人です」と答えますと、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。このたとえ話に関連して書かれた書物の中に、イエス様の中では、すべての人が隣人であって、人を助けた人だけが、その人との「隣人である」という関係から「隣人になる」関係へと変えられたと記されておりました。

 イエス様につながり、イエス様の愛にとどまる

今から30年以上も前に、アメリカで出会った二人の女性のことを思い出します。二人は、家族連れで留学や研究に来ている外国人達の、家族のサポートをするボランティアグループのリーダー達でした。

ある日、私は、アメリカ人の夫を持つ二人の幼い子供がいる日本人の、若い母親の世話を、リーダーから依頼されました。母親は精神的に不安定になっており助けが必要でした。一か月位の期間を決めて引き受けましたが、その間、二人のリーダーは、彼女の為に日本語がわかる精神科医を捜し、通院の送り迎えなどで助けました。その結果、母親は次第に落ち着いてきました。やがて滞在期間が終る前日の夜、いつものように祈り、「頑張ってね」との私の言葉に、彼女も「頑張る」と約束したので、安心して翌日、自宅に見送りました。ところがその夜、彼女が薬を飲み、救急車で運ばれて入院したとの知らせを受けました。私は裏切られたように思い、約一か月の日々が、すべて空しく思えて気持が沈み、お見舞いに行く気になりませんでした。それに対して二人のリーダー達は以前と少しも変わらず、入院した彼女の為に、幼い子供達を祖父母のところに預け、病院には着替えなど毎日のようにお世話をし、「私達はただ必要なことをしているだけ」と言い、退院後も彼女を助け続け、離婚の話が出た時は弁護士を探してあげて、離婚後は、自立のために運転免許をとるために手伝い、その後、就職先を見つけて紹介し、自立させたことを、帰国後、日本人の友人から聞きました。

二人のリーダー達は、なぜこれほど外国人を愛することができたのでしょうか。そして私はなぜ、ほんの一時期だけしか「隣人になる」ことが出来なかったのでしょうか。その答えが、今日の聖書にあります。

私は、イエス様というぶどうの木にしっかりつながっておらず、木から送られる命の樹液を十分吸収しないまま、イエス様の愛の中ではなく、自己中心的な愛の中にとどまっていたからです。しかしリーダー達は、「イエス様につながり」、イエス様も「リーダー達につながって下さった」ので、豊かな実を実らせていく歩みを続けることができたのです。

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