4月24日の説教要旨 「主の御力②」 牧師 平賀真理子

詩編36213・ルカ福音書82639

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、悪霊を追い出す御力について語られています。福音宣教の本拠地のガリラヤ湖東岸から、イエス様一行は船に乗って、反対側の岸の近くにある町、異邦人であるゲラサ人の住む地方に着き、一人の男に取りついていた悪霊どもを追い出し、イエス様はこの男を救われました。

 「悪霊に取りつかれている」?

「悪霊に取りつかれている」というと、大昔の合理的でない人々の感覚で、現代人の自分達とは関係ないと思う人もいるかもしれません。しかし、現代でも、悪い考え方に取り憑かれたようになり、抜け出せずに、身の破滅に突き進む人を見聞きします。最も顕著な例が麻薬やギャンブルに溺れる人の話です。わずかな興味や自己過信から、悪いと言われる物を一度だけ試してみる…。ところが、その魔力に溺れ、自分の地位や社会的信用を失う…。それまでの努力は水の泡となり、破滅する…。悪の力は、自分一人だけの力では決して抗えない、強い力です。「普通の市民」である私達でも、悪に引きずられる面があります。善いことをすべきとわかっていても、その通りにできない…。使徒と呼ばれたパウロでさえも、自分のことをこう嘆きました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。(ロマ書7:19)」

 神様でないものに入られる人間

聖書の最初の「創世記」には、天地すべて、もちろん、人間も神様が造られたとあります。殊に、人間は形作られた最後に、神様から「命の息」を吹き入れられて、「生きる者となった」とあります。人は、神様から命の息を吹き入れられるはずなのに、本当の神様でないものに入られる危険性があります。

 男に取りついていた多くの悪霊ども

この男に取りついていた悪霊は複数いて、ローマ帝国軍隊の単位「レギオン」くらい(約6000人)だったことが示されています。この多数の悪霊どもが、男を操り、イエス様に会いにきましたが、彼らは、イエス様の御力について、4つのことを既に知っていて、その御力の偉大さを恐れていました。1つ目は、イエス様を「いと高き神の子(29節)」と呼びかけ、イエス様の本当の御姿を証ししています。2番目に、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ。」と言っています。イエス様の御力が自分達よりも上回っていることを、悪霊どもは知っていたのです。3番目に、「底なしの淵へ行けと言わないでくれ。」と懇願しています。「底なしの淵」とは、世の終わりの時、悪霊どもが神様から裁きを受けて永遠に繋がれる牢屋のことです。十字架と復活によって、悪霊どもやその頭サタンをも永遠に閉じ込める権威を、イエス様は父なる神様から与えられるようになります。そのような御業を、悪霊どもが先に察知し、牢獄に永遠に繋がれることを恐れたのです。また、同時に、イエス様の御言葉が必ず実現するという「神様の御言葉」であることも証しています。そして、最後の4番目に、徹底的に滅ぼされる前に、悪霊どもはイエス様に延命願いをしました。「豚に入ることを許してほしい(32節)」と。イエス様がそれを許す権威をお持ちのことも悪霊どもは知っていたのです。動物愛護の精神に満ちた方は、不思議に思うかもしれません。しかし、イエス様は、悪霊どもに取りつかれて本当に助けを待ち望んでいた、この男を憐れみ、一人の人間の救いを最優先されたのでしょう。

 この地方の人々からの拒絶

この出来事について、様々な意見があったなか、悪霊に乗り移られた豚が溺れ死んで大損害を受けた「豚飼いたち」をはじめ、この地方の人々は、総意として、イエス様に出て行くように求めました。御力の大きさを恐れた上に、そんな大きな御力を持つ主と共に生きる恵みを願うよりも、「自分達の今の生活」、つまり、自分達が享受している利益を最優先したかったのでしょう。

 神様の救いの御業の恵みを宣べ伝える者として用いられる

この町の中でただ一人、悪霊を追い出していただいた男だけが、イエス様と共に歩みたいと願いました。彼は心から救いを求めていたので、イエス様の救いの恵みがよくわかったからです。しかし、イエス様は、同行することよりも、更なる恵みへと彼を導かれました。以前の悪い状態を知る家族や地域の人々に、神様の救いの御業の偉大さを伝える証し人として生きるように命じられ、彼は御命令に従いました。私達も主の救いの御業の恵みを我が身に受けたことをよく知っています。家族や周りの人々に証しできるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。