7月3日の説教要旨 「主との信頼関係」 牧師 平賀真理子

詩編116 ルカ9:1827

 はじめに

イエス様は、御自分には この世での時が多く残されていないことを思い、御自分の福音宣教と癒しの業を使徒達が引き継げるよう、御力と権能をお授けになりました。使徒達は派遣された所で、実際に福音宣教でき、癒しの業を行うことができました(9:6)。イエス様からの恵みが使徒達に有り余るほど豊かに注がれていたからでしょう。使徒達にとり、大きな喜びだったことでしょう。また、「五千人の給食」のような奇蹟によっても様々なことを学べて、充実した日々だったことでしょう。

 神の御子・救い主「イエス・キリスト」だけに課せられる使命

しかし、神の御子・救い主イエス様だけの使命が課せられる日が近づいていました。人々の罪を贖うために十字架にかかることです。その前に、イエス様は御自分のことを本当の意味で理解している人間と信頼関係を作りたいと願われていたのです。それこそが、本当の意味で、この世で神の国を作ることの礎となるからです。

 群衆ではなく、弟子達への信頼

イエス様の周りには、「群衆」がいつもいました。イエス様は、まず、群衆は御自分のことを何者だと言っているかを弟子達に問い、その後、弟子達自身の答えを求められました。イエス様からの恵みだけを求める群衆と、自分の持っているものを捨ててイエス様に従った弟子達の、それぞれの答えは違っているはずだと願われたのだと思います。

 一番弟子ペトロの信仰告白

ここで、一番弟子のペトロが弟子としての使命を果たします。イエス様のことを「神からのメシアです。」と答えました(9:20)。マタイ福音書16章には、このペトロの信仰告白をイエス様は大変祝福されたことが記されています。これで、主との信頼関係を結べる相手としてペトロが立てられることを天地に宣言することになりました。神の御子・救い主イエス様が、この世で神の国を作るための人間側の基盤ができていることの証しです。ペトロの信仰告白の功績に感謝です!

 弟子達への受難予告

しかし、ルカ福音書では、ペトロの信仰告白の後は、この正しい答えを弟子達の外には話さないようにイエス様が話されたと続きます。イエス様の定めは、人間の考えではとても受け入れがたいと言えるでしょう。「救い主」なのに、「多くの苦しみを受け、権力者達から排斥されて殺される」ということも、「三日目に復活する」ということも普通の人間の理解の範囲を超えています。たとえ、理解できた弟子がいたとしても、ただただびっくりし、イエス様と従っている自分達の運命がどうなっていくのかを心配することしかできなかったでしょう。

 弟子達の取るべき姿勢

イエス様は、動揺する弟子達に配慮してくださり、今度どうすべきかを教えてくださいました。23節以降です。23節では「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。イエス様は、御自分の厳しい定めを打ち明けた上で、弟子達に、まず、御自分に従いたいと思っているかを問いかけておられます。というのは、御自分に従う者は、主と同じ厳しい定めが待ち受けていることを教えなければならなかったのです。主が命を捨てられたように、主に従う者は自分の欲望を捨てることを要求されます。主が十字架を背負って歩まれたように、主に従う者も自分の十字架を背負うことが求められます。ルカ福音書で特徴的なのは、「日々」という言葉です(マタイ・マルコ福音書の同じ内容の記事には無い言葉です。)それぞれの日常生活において、神の民としてふさわしくない自分の罪を滅ぼすように努める姿勢が求められるのです。洗礼を受けて一度救われたのだから、後の生活は変えなくてもいいと誤解する信仰者もいるように思いますが、そうではないと示されています。もちろん、イエス様は人間の弱さをよく御存じで、人間が常に思ったとおりに行動できないと御存じですが、それでも、主に従いたいと願う者は、イエス様の定めと同じものを背負うだけの覚悟を求められています。

 最高の恵みである「永遠の命」

そんな高い基準の信仰は、自分には無理かも?と不安に思う方もおられるでしょう。しかし、十字架の先に、最高の恵み「永遠の命」をいただけると24節以降に記されています。それは「復活の主」だからこその恵みです。私達も主との信頼関係を結ぶ者として選ばれました!主の期待に応えて歩みたいものです。