11月20日の説教要旨 「どこから来て、どこへ行くのか」 佐々木勝彦先生 (東北学院大学名誉教授)

マルコ福音書4192629

 はじめに

本日の収穫感謝礼拝の説教を依頼された時に、若い人達は収穫の経験があるのかと疑問に思いました。しかし、収穫の経験がなくても、今日の聖書箇所は、収穫のことだけを語っているのではないとわかります。このマルコ福音書4章を読んでいくと、人間の心の問題や人間の生き方の問題を例えているということがわかります。「収穫」とは勿論、自然の恵みのことを言っていると同時に、私自身の収穫について語られている、つまり、「私がどんな実を結ぶのか」ということが語られています。

 聞くための聖書

私達にとって聖書を読んでいるかが問題になりますが、元々、聖書は聞くものでした。聞くためには語ってくれる人が必要です。礼拝でも、聖書朗読が一番大事です。聖書を聞くことについて最近聞いたのですが、間もなく、新しい聖書が出るそうです。今の新共同訳聖書は、朗読されても、心に響かないと感じます。聞くに堪える聖書が求められています。私達は「聞く喜び」を求めています。人々は聞くことに飢えているのです。

 「種を蒔く人のたとえ」⇒「蒔かれた種」

マルコ福音書4章1節―9節は「種を蒔く人のたとえ」という小見出しがついていますけれども、なぜ、道端や石地や茨の中に落ちるように種を蒔くのでしょう。日本では、土を耕して種を蒔きます。しかし、イエス様が生きた地域「パレスチナ地方」の農法では逆に「種を蒔いて、土をかける」順番で種が蒔かれていたのです。この「種を蒔く人のたとえ」の話では、4章13節からイエス様の説明があるのですが、蒔かれた種が鳥に食べられる、その鳥とはサタンであると言われています。種を蒔く人の話から、蒔かれた種の方に話が移っています。更に読み進むと、石地だらけの土地に種が蒔かれたという表現があります。石地だらけとは「人の心」の状態の例えでしょう。石地だらけの土地に落ちた種が苦労するように「人間は苦しむ」ということを問題にしていると思われます。

 「サタンによって人間は苦しめられる」

人間の苦しみについて、サタンの仕業と考える場合が多いのですが、その「サタン」とは、私達人間を苦しめるものであり、人間の力を超える力を持っており、しかも人間を破滅させる力があり、人間から見たら「悪い」としか思えない存在と言えるでしょう。例えばパチンコにはまってしまう場合、それを聖書では「サタンが働いている」という訳です。人間の意志を越えて悪に引きずりこむ力を持つのがサタンと言われています。例にしたパチンコに最初にはまってしまう時、パチンコはその人にとって大変魅力的だったのです。「サタンは笑顔で来る」と言われています。

 苦しみに襲われる人間⇒「私はどこから来て、どこへ行くのか」

私事ですが、半年ほど前に、私達夫婦は住み慣れた仙台から広島へ行きました。仙台への未練を断つために仕事を辞め、家を売って広島へ行きました。私は信仰によって故郷を旅立った「アブラハム」になったつもりでした。ところが、広島で病気になって痛むために歩くのが困難になりました。新しい土地に来たのに、5か月間も外出できませんでした。そこで私の苦しみが始まりました。「自分は何をやっているのか?何かの罰か?」という疑問に襲われ、苦しみの原因を考え、「私はどこから来て、どこへ行くのか」をしみじみ考えるようになりました。

 「どこから来て、どこへ行くのか」を指し示すのが教会

外出できなくなる少し前に、広島のクリスチャンの会合に呼ばれて話をするように頼まれたので、来年迎える宗教改革500年記念に関する話をしようと提案しました。しかし、そこで拒絶に遭いました。今すぐにできる実践的な話をしてほしいと言われたのです。クリスチャンは、良い話を知っていて口で言うばかりで、実行しないという批判をよく聞きます。それで何か実践したいと思いがちです。それは正しいことです。しかし、もっと本質的な話、クリスチャンは「どこから来て、どこへ行くのか」という本筋を押さえた上で行う方が良いと切実に思いました。具体的に言えば、教会は福祉施設でしょうか?そうではありません。教会は、教会でなければできないことを大事にすべきです。私達は「どこから来て、どこへ行くのか」、その根っこを確認すべきです。「人間はどこから来て、どこへ行くのか」ということを、教会は指し示す役割があります。

 苦しみの中でも、神様の目で見つめる

今日の聖書箇所に戻ってみると、人間の苦しみについて、具体的に書かれています。人生とは思い煩いとの戦いであり、人間はお金(富)や権力、欲望との戦いに明け暮れます(仏教用語で「煩悩」と言い変えられるものです)。人間は思い煩いに負けてしまう時、良い土地にならねばならない!土地改良すべき!という目標を立ててしまいがちです。しかし、私はこう考えています。「自分は時には道端、時には石地、時には茨」と自分の状態をわかりながらも、「そんなことに目を止めなくてよい」と。それは今日の聖書箇所として挙げた2つ目の箇所「『成長する種』のたとえ」(マルコ福音書4章26節-29節)から わかります。土がひとりでに芽を出させるのです。人間は自分がどうかを見つめる傾向にあります。「隣人を愛しなさい」と言われるけれども、できない自分を見つめます。内側向きです。しかし、敢えて思い切って内側に向いている目を放し、外側から見る、つまり、私をお造りになった神の目で見ることをお勧めします。内側と外側が交差するところに人間が見える、それが「信仰」です。私が見ているのであり、同時に見られているのです。「信仰」とは複眼で見ることとも言えます。それがクリスチャンとクリスチャンでない人との違いです。クリスチャンは、自分の目と神様の目で見ることができます。「神様の目で見る」のは大変なことです。それを教会では、「聖書に聞く」、つまり、「神様の言葉を聞く」ことで行ってきました。別の言い方では、「私が読むことでもあり、読まれること」でもあります。見ることと見られること、これを合わせて、英語でhappening(出来事という意味)と言います。happeningが起こる、これが神様に出会うことと言えます。私が、聖書を、神様の御言葉を読んでいるうちに、実は、神様に読まれているとも言えます。

 「一粒の麦」

さて、聖書でもう一か所「種」と「麦」が出てくる話として忘れられないのが「一粒の麦」の話(ヨハネ福音書12章24節-26節)です。「一粒の麦」は死なねばならないと記されています。「一粒の麦」に例えられる私達は死なねばならないのです。「何のためにどのように死ぬのか」を考えなければならないでしょう。最初に述べたように、私達の人生は麦の収穫に例えられ、「実を結ぶ」ように求められています。先述した、私的な体験で、「私達は、このままでは実を結べない」と考え、「実を結ぶ」ために、自分達の年齢から推測して、働ける年数を「あと10年」と予想し、仙台に帰ってきました。「終わりの時」を考え始めたのです。「終わりの時」を考える時、人間は自分に何が出来るか、出来ないかを真剣に考え始めるのではないでしょうか。今まで話してきたとおり、信仰者は、土地は神様のものだと知らされています。土地が種を成長させてくれる、つまり、神様が私達「種」を成長させてくださると信じて感謝しつつ歩みましょう。以上