1月29日の説教要旨 「しるしを欲しがる」 平賀真理子牧師

ヨナ書3110 ルカ福音書112932

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、3つ前の段落の「ベルゼブル論争」の中の16節「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者たちがいた。」の所を直接受けて書かれていると思われます。悪霊を追い出す御力、語られる話の素晴らしさなどから、イエス様の居られる所には、人々が次々に集まって来ました。けれども、この時には、その多くがイエス様を信じたいというよりも、信じないという反対派の人々が多かったようです。積極的に反対する人は、イエス様の御力が悪霊の頭からくるものだと言い出しましたし、そこまで激しく反対しなくても「イエス様が神様から送られた人なら、天からのしるしをすぐに見せてくれて、自分たちが信じやすいようにしてくれるはずだ」と思っていたようです。これは、神様を自分の思いどおりに動かそうとする「罪」=「傲慢」からくるものですが、イエス様は、17節にあるとおり、人々の心を見抜く御方です。彼らの罪からくる、反対の気持ちが強いこともわかっておられたようです。

 救いを求めていない人々、困っていない人々

人々がたくさん集まってきたら、普通は心地よい言葉から話し始めるのが、この世の方法ですが、イエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ」との厳しい言葉から始めておられます。よく考えれば、この時の群衆は、イエス様がある人に取り憑いた悪霊を追い出して口が利けるようにする奇跡を既に見たのに、それ以上の奇跡を見たいと願ったわけです。彼らの要求どおりにしたら、彼らはイエス様を信じたでしょうか。答えは「否」だと思います。彼らはイエスを信じて本当に救われたいという思いよりもただ、凄い奇跡を見た!という経験を他の人に自慢したいだけだったと思われます。彼らは、その時点では、本当には困っていない、本当に救われたいと切望していない人々だと思っていいでしょう。

 「ヨナのしるし」

そんな人々にも与えられるしるしが1つだけある、それがヨナのしるしだとイエス様は語られました。「ヨナ」という人は神様から選ばれた預言者で、乗っていた船が嵐に巻き込まれた時に、人々の命を守るために自らが犠牲になって神様の怒りを静めようとしましたが、神様はヨナを死なせず、三日三晩大きな魚の腹の中に留まらせ、魚に命じて3日後に陸に吐き出させました。この後、ヨナは異邦人の町ニネべの人々に神様の言葉を伝え、彼らを悔い改めに導き、滅びから救いました。ニネべの人々にとって、ヨナの存在が神様に繋がる救いのしるしとなりました。ヨナが「三日三晩魚の腹に居て、再び陸に姿を現わす」という様子は、イエス様が「十字架にかかり、陰府(よみ)にくだり、3日後に復活する」ことを先取りした表現だとキリスト教界では説明しています。

 「ヨナがニネべの人々のしるし」=「人の子が今の時代の者たちのしるし」

30節で「人の子」とあるのは、「救い主イエス様」のことです。先述したように、ヨナがニネべの人々の救いのしるしとなったと言えるのですから、「十字架と復活の御業を成し遂げたイエス様の救いの恵みはとても大きくて、今の時代の者たちが救いを求める気持ちがたとえ薄くても、しるしとなってくださる」ということを意味しています。

 イエス様のメシア宣言:「ソロモン王や預言者ヨナにまさるもの」

31節では、「南の国の女王」とソロモン王のことが語られています。これは、旧約聖書の列王記上10章や歴代誌下9章に書かれています。イエス様が生まれる1000年程前のこと、イスラエルの民の国が栄えた時の王がソロモン王です。神様に自分の健康や富を願わず、神様から託された民を正しく裁くのに適切な知恵をくださいと願って神様が大変喜び、知恵を豊かに授けたことで有名でした。その名声を聞きつけて、南の国の女王(別名「シェバの女王」)がやって来たという話です。彼女は、ソロモン王に謁見するためにわざわざ遠い国からエルサレムにやって来て、その知恵を確かめ、その素晴らしさがわかったら、ソロモンに知恵を授けた神様を賛美して、献げ物をして帰って行ったのです。イスラエルの人々が知っている話を通して、イエス様は「異邦人がわざわざやってくるほどの知恵を持った偉大な王様ソロモンにもまさる『救い主』がここにいる!わたしがその救い主だ!」とおっしゃっていたのです。32節では、ヨナの話に戻っています。30節で、異邦人に悔い改めを起こす説教をした預言者ヨナがニネべの人々の「救いのしるし」という点で、「人の子」が今の時代の者たちに対するのと同じだと語られましたが、実は「救い主イエス・キリストは、本当は比べ物にならない程の大きな恵みをくださる救い主だ」と御自分のことを客観的に教えてくださっていたわけです。信じる者は勿論、その気持ちが今それほど高まっていなくても、救い主イエス様の救いの恵みは全人類に豊かに与えられています。

十字架と復活の主が、どんな人にも救いのしるしであることに感謝しましょう。