7月23日の説教要旨 「この世からの分離」 牧師 平賀真理子

ミカ書717 ルカ福音書124953

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、12章1節から始まる、弟子達への一連の教えの結びとなります。(次の段落からは群衆に語り掛けられています。)弟子達は、イエス様亡き後、主の再臨の希望を持ちつつ、福音伝道の務めを果たす使命が与えられることをイエス様はご存知でした。それは、長い目で見れば、もちろん、希望に満ちたものです。しかし、人間的な短い期間で見るならば、希望だけでなく、試練も多い道となることも主は見通されていたことでしょう。

*受けねばならない洗礼=「主の十字架」

弟子達の苦難の道は、先だって歩む主イエス御自身の道と同じように厳しい道でした。「受けねばならない洗礼」(50節)とは「主の十字架」のことです。「十字架の苦難と死」は人々が本来個別に受けるべき「神様の裁き」を、救い主であるイエス様が肩代わりしてくださったものでした。

*「神様の裁き」によって滅びを免れる者と滅びてしまう者

「神様の裁き」は大変激しいもので、ここでは「火を投ずる」と例えられています。「主の十字架」を自分の罪の贖いと受け入れた者が、神様の御心に適う人です。この人々は神様の裁きが来ても、滅ぼされることを免れます。一方、それを受け入れない者は、神様の御心に適っていないので、神様の裁きによって、完全に滅ぼされてしまうのです。

*「平和ではなく、分裂をもたらす」という御言葉の裏にあるもの

罪深い人間に対する「神様の裁き」を逃れさせるべく、イエス様は、十字架にかかる定めを、苦渋の末に受け入れました。それはフィリピ書2章8節にあるような「死に至るまで従順」な姿を父なる神様に示すことでした。それは、救い主として、神様に対する絶対的信頼を天地すべてに示すことでした。であれば、救い主として、本当の平和を人々に与えていると言えるはずです。つまり、十字架による「罪の贖い」のゆえに、罪深い人間が罪赦されて神様に繋がることができて、互いに良いもので満たされ、良い関係性を築けるようになるはずです。けれども、51節以降でイエス様は、御自分がこの世に来たのは、平和ではなく、分裂をもたらすためだとおっしゃって、その状態を説明なさいました。これは、弟子達をはじめとした、人間の「物の見方」に合わせた御言葉だと思われます。「人間の物の見方」は表面的で、一時的なものです。イエス様の十字架が、自分の罪の贖いだと受け入れることは、人間の物の見方だけでは大変難しく、そこに神の霊の助けが必要でしょう。そして、このことを受け入れられる人々と受け入れられない人々との間では、最初のうちは特に激しく分裂が起こるのは必然だと思われます。

*なぜ、「主の平和」が最初から受け入れられないのか

なぜ、「救い主の平和」が最初からこの世に受け入れられないのかという疑問が生まれます。それは、「この世の人々」が、神様を仰ぎ見て生きることをしないようになってしまっているからです。それが、今日の旧約聖書の箇所ミカ書7章1節から7節までにも描かれています。主の慈しみに生きようとする、正しい者が絶えてしまい、そうすると、神様と人間の関係だけでなく、人間と人間の関係も正しくなくなり、最も親しい家族内でも信頼できないような状態になると記されています。人間が神様を仰ぎ見なくなると、ただただ自己中心に走り、その自己中心の者同士が自分のためだけに生きるようになり、本来は神様がそばに置いてくださった家族さえも「他人」、つまり、利害が衝突する者としてしか映らなくなるのでしょう。

*主は、信仰者を「この世から分離」して、「神の国」に招き入れる

そのような「この世の人間の生き方」に対して、それでは最終的に、または、根本的に自分は立ち行かないと危機感を覚えた人が、神様から与えられる「信仰」を真剣に受け止められるのだと考えられます。「信仰者の生き方」は一般的な「この世の人間の生き方」とは全く違ったものになります。信仰者は神様が「自己犠牲の愛」(十字架で示された愛)を示してくださるほどに自分を愛してくださっていることを知っています。同じように、神様がそばに置いてくださった人々に対しても、神様が同じように大いなる愛でその人々を愛していることがわかります。そのように受け止めることで「主がくださる平和」はますます豊かになり、続いていくのです。一方、すべてにおいて、この世は表面的で一時的にしか人間を満足させられません。主は、私達信仰者を偽りのものであふれたこの世から「分離」し、神の国に招き入れようとしてくださっているのです。

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