8月6日の説教要旨 「悔い改めを待たれる主」 牧師 平賀真理子

詩編32:1-7 ルカ福音書13:1-9

*はじめに
イエス様が群衆に語っておられる時に、何人かの人々が来て報告したというところから、今日の箇所は始まります。

*「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という報告の意味
ピラトは、ローマ帝国からイスラエルに派遣された総督であり、その支配により、イスラエル人々は苦しめられました。圧政が行われ、その支配に反対する人々は否応なく殺されてしまうこともありました。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ことについて、
ここで理解すべきことは、このガリラヤ人達がピラトによって殺されたことです。ローマ皇帝の権力を笠に着て、ガリラヤ人達を不当に殺した、しかも、その場所がユダヤ教を信奉する彼らが大事にする神殿の庭だったと推測できます。ユダヤ教が異邦人(ローマ人)から冒瀆されたわけです。

*「罪深い人間がひどい目に遭う」と考える者
報告者達は、殺されたガリラヤ人達が特に罪深い人々だったから、その罪の重さのために殺されたと思い込んでいるようでした。これは、ユダヤ教の中でも、特にファリサイ派の人々に特徴的な考えでした。彼らは、神様の御心に適うことを願い、それ故に、神様からいただいた「律法」と呼ばれた掟を守ることを何よりも大事にしました。だから、それを守れない人々を罪深いと見なして裁き、除け者にすることに熱心になりました。これは本末転倒、つまり、人間を救いたいと愛してくださる神様の御心から離れているとイエス様は教えてくださっています。

*神様の目から見れば、どの人間も同じように罪深い
イエス様にとって一番大事なことは、人々が互いに罪深いとなじり合うような、それこそ「罪深い状態」から救い出されることです。神様の目から見れば、どの人間も同じように罪深いので、人間同士で罪の軽重を争っても意味がありません。自分が神様の御心からどれ程離れているかを自覚し、神の御前で正しくなれるように祈り求めなければなりません。

*「あなたがたも、悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3節・5節)
一つの出来事を見て、当事者が悪いからだ!私は律法を守っているから、そんな目に遭うはずがない!ひどい目に遭った人が悪いのだ!同情する余地はない!と考えることは、神の国の民として適切ではなくて、自分にも同じように罪深くないのか、神様の御心に適った生き方をしているのかを悔い改めなければならないとイエス様はおっしゃっているのです。

*「悔い改める」とは?
「悔い改める」とは、自己中心の生き方を止めて、神様(の御心)中心の生き方に方向転換することです。「悔い改め」で気をつけることは、自分の悪い所やダメな所をただ反省するだけで終わってはならないということです。神様が現状の自分をどのように見ておられるかに思いを馳せ、御心どおりにできない自分をすべて、救い主の救いに委ね、その後は、(イエス様の救いを信じているならば)神様の御心に従えるはずだと確信しつつ、行動していくこと・生きていくことを祈り求めたいものです。ただただ、「私はダメな人間です~。」だけで終わるのは、信仰者として中途半端であることを肝に銘じたいと思います。

*「恐ろしさ」さえも用いて、人間の悔い改めを待たれる主
今日の箇所よりも前の12章の後半から、イエス様は弟子に向かっても、群衆に向かっても「恐ろしさ」を盾に人間に迫っているように感じます。これは、イエス様が「神の裁き」について大変な緊張感をもっておられたことを示しています。厳しい「神の裁き」に耐え得るため、信仰幼き人々に「悔い改め」が必要だと伝えようとなさったのです。一人でも多くの人間が、御自分の救いの御業の恵みの素晴らしさを理解できることを切実に願っておられたのでしょう。

*「実のならないいちじくの木」の例え(6節-9節)に示される主の御心
「ある人」とは「父なる神様」の例え、「園丁」とは「イエス様」の例え、「いちじくの木」は「イスラエル民族」の例えです。信仰の実を付けないイスラエル民族を滅そうとなさる「父なる神様」に対し、イエス様は、彼らが信仰の実を結ぶために様々な方法を試そうと時間をいただいたのです。(しかし、最後には「神様の裁き」が必ずあることを忘れてはなりません(9節)。)この猶予期間の内に、イスラエル民族ではなく、異邦人である私達が救いの恵みを受けました。全人類に対する、新たな救いを神様は考えて実現してくださったのです!人類を愛し、その救いのために働いてくださる父なる神様と御子イエス様に深く感謝しましょう!