1月14日の説教要旨 「赦し、信仰、奉仕」 牧師 平賀真理子

ヨブ記22:21-23 ルカ福音書17:1-10

はじめに

今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、それらは、連なっていると思われますので、その内容をお伝えしたいと思います。

「ファリサイ派や律法学者達」の態度

今日の聖書箇所に入るまでに、イエス様のおっしゃってきたことの一つを振り返りましょう。イエス様を「救い主」と認めない「ファリサイ派や律法学者達」の態度が間違っていることを指摘し、正しい態度(イエス様を救い主としてこの世に派遣したという神様の愛の業を受け入れること)になるように導こうとなさいました。特に、直前の16章の例え話「不正な管理人」や「陰府でさいなまれる金持ち」などは、まさしく、反対派の者達(ファリサイ派や律法学者達)を例えたものとも読み取れます。

主の弟子達であっても

今日の箇所は、弟子達に語っておられることを念頭に置くべきです。イエス様は弟子達には、新しい教え=福音を知る者として、ファリサイ派や律法学者達と同じ轍を踏ませたくなかったのでしょう。しかし、人間の集団である以上、弟子達の群れの中にも、つまずきを起こす者が入ってくること、また、弟子の中につまずきを起こすものが入ってくることは避けられないとイエス様は見通しておられました。これは、近い将来で言えば、使徒とされたイスカリオテのユダが主を裏切る預言とも言えますし、遠い将来では、教会の中でも罪が起こるのは避けられないと預言されていると読み取れます。

「小さな者」をつまずかせることへの警告

弟子達は主の招きを受けて早々に弟子になる恵みを得ましたが、その後で、イエス様の御言葉や御業に出会って、イエス様を救い主として従おうとしている「群衆」を、主は「小さな者」と表現なさっています。信仰が芽生えつつあり、信仰という道において、小さな者(群衆)を、先に歩む弟子達が罪に導くことがあるとイエス様は見抜いておられます。実は、これは、ファリサイ派や律法学者達と同じ罪です。自分達の知識や経験を、人々を育てるために用いないで、自分達と同じようにはできない人々を裁いたり、ダメ人間と貶めることで、結局は自分達を高く見なす、つまり、憐れみがなく、傲慢だという罪に陥っています。だから、弟子達に「あなたがたも気をつけなさい」と主は警告なさったのです。

人間を何度でも赦してくださった神様にならって

弟子達同士は、罪は罪と率直に言える関係であること、そして、罪を指摘されたら、素直に悔い改めるべきこと、また、相手も大きな心で赦すような間柄であることという主の願いが示されていると思います。

主は根拠なしに「赦しなさい」とおっしゃったのではありません。神様御自身が、このように人間を赦してくださっているからです。人間の神様に背く罪を、神様は大変嘆かれるのですが、人間が心から悔い改めたのをご覧になると、いつまでも罰に縛りつけたりせず、今までの罪を無かったことにしてくださるわけです。そのことを根拠に、同じ神様を信じる信仰者同士(「兄弟」)も赦し合えるはず、神様と同様に何度でも赦せるはずだと主は教えてくださったのです。(参照=マタイ18:23-35)

主からいただく信仰が増し加わることを願う弟子達

しかし、弟子達は自分の心に正直になるならば、「赦し合えない」と気づきます。(それは私達も同じではないでしょうか。)だから、弟子達は自分達の信仰が弱いのであり、それをイエス様に補っていただきたいと思ったのでしょう。その望みに対し、ほんの小さなからし種のような信仰があれば、神様は御自分の大きな力をくださり、人間には不可能なこともできるようにしてくださるとイエス様は教えておられます。

主の恵みによって罪を赦され、信仰の中で奉仕できる幸い

ところが、弟子達は自分にはそんな僅かな信仰さえないことに気づきます。その原因をイエス様は7-10節の箇所で教えておられます。弟子達は神の国で働ける恵みを既に得たのに、主人から感謝されたいと願っていることが原因だと示されたのです。私達も含め、主の弟子達は救い主イエス様の恵みを賜り、罪を赦されたのです!現実の生活に流されて主の恵みを忘れたら、弟子達同士で指摘し合って悔い改めることを励行し、主への信仰の中で奉仕できる恵みにある幸いを想起しましょう。

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