出エジプト記19:1-9 ヨハネ福音書15:1-10
はじめに
今日の新約聖書の箇所の5節の聖句「わたし(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」は、キリスト教会の中で、多くの信仰者に愛されている箇所です。ただ、それだけでなく、イエス様の弟子達への遺言、いわゆる「告別説教(訣別説教)」の中にある御言葉だという理由で、信仰者である私達は重く受け止める必要があると思います。
この聖句は、もちろん、比喩=例えです。ぶどうの木と例えられるイエス様に、弟子達がつながっていなさいという教えです。それで、イエス様につながるとは具体的にどういうことかというと、直前の段落14章23節に「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」という御言葉があるので、イエス様につながることを求めている弟子達は、イエス様の御言葉を守ることが大前提だということがわかります。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)
イエス様が御自分をぶどうの木と例えたのにはもう一つ、理由があって、それは1節「わたしの父は農夫である」という例えをおっしゃりたかったからではないかと推測できます。イエス様のこの世での歩みをすべて支配なさっているのが「父なる神様」であると、例えを用いて、弟子達にわからせようとなさったのだと思います。イエス様は御言葉を聞く弟子達の理解に合わせて、例え話をなさったのです。
つながっていながら実を結ばない枝と豊かに実を結ぶ枝
しかし、続く2節では、イエス様に例えられるぶどうの木につながっていながらも実を結ばない枝があるという表現に出会います。そういう枝は父なる神様が取り除かれると言われました。次に進むと、逆に、イエス様に例えられるぶどうの木につながって豊かに実を結ぶ枝もあると表現されています。どちらも、イエス様につながっている枝、つまり、弟子でありながら、父なる神様によって、滅ぼされる枝と、祝福を受ける枝があるということです。
滅びと祝福の差=「言葉(ロゴス)につながっているか否か」
では、この2種類の、正反対の結果になるものの差は何でしょうか。どちらもイエス様につながっている枝なのに、大きな差が出てくるのはどうしてでしょうか?それは3節にある言葉がキーワードです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」の「言葉」です。新約聖書の原語ギリシア語でこの単語は「ロゴス」となっています。ヨハネによる福音書の冒頭の1章では、イエス様が神様の言(ことば)(ロゴス)そのものであり、その言(ことば)がこの世に人間の肉となったと語られています。「ロゴス」は単に「話す言葉」」というよりも、神様の特徴とか特質、もっと言うと、神様の本質=神の真理であると言えます。だから、3節にあるように、神様の真理が、イエス様によってこの世に表現されることとなって、それを受け入れて従おうとする弟子達は、イエス様の話した言葉で清くされることが既に(本人達がわかっていなくても)起こっていたわけです。神の民として、もはや神様の祝福を受ける対象になっているという恵みが語られているのです。ぶどうの木と例えられるイエス様と本当の意味でつながれる枝とは、神の真理を現わすロゴスを守ろうとして聞く弟子達のことを意味しているわけです。
神の真理「ロゴス」とは何か?
「ロゴス」には、本当の神様がどんな御方かの特質も含まれますし、特に、救い主イエス様の十字架と復活という救いの御業も含まれていることを忘れてはならないでしょう。この「神様の救いの御業」の源に「ロゴス」という神様の本質=神の真理があるのです。イエス様の癒し等の愛の業を見て、その表面的なところだけをまねようとする人がいます。しかし、そこに「ロゴス」に対する信仰がなければなりません。それがない人は、2節の表現から言えば、徹底的に滅ぼされるわけです。
「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(15:7)
一方、7節にある「言葉」は「ロゴス」という単語ではなく、話す内容という意味の単語が用いられています。イエス様の出来事を「ロゴス」として理解するのは、実はかなり難しいです。せめて、イエス様の御言葉そのものや、この世での歩み等を学び、記憶し、生きる中心に据えて従おうと努めるのが「神の民であるということ」の要(かなめ)だと言えます。