6月3日の説教要旨 「すべてを捨てて主に従う」 平賀真理子 牧師

申命記5:5b-21 ルカ福音書18:18-34

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半の段落は「金持ちの議員の話」として、教会の中ではよく知られた話の一つで、3つの共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)すべてに書かれています。

 

「善い」という言葉を聞き逃さなかったイエス様

ユダヤ教指導者達が大事だと教えてきた律法順守に忠実だと自負する「金持ちの議員」が、イエス様に向かって、「永遠の命を受け継ぐ方法」を聞いたのです。話の内容に入る前に、イエス様は、御自分への「善い先生」という呼び掛けを聞き逃しませんでした。「善い」という修飾語は、当時は神様にしか使わない言葉だったそうです。これを聞き逃すことは、イエス様が御自分を神様と同列に並べることを許したとして、反対派にイエス様を攻撃させる一因を作ることになったのではないかと思われます。イエス様は質問者の悪い心を一掃なさいました。

 

 律法順守してきた「金持ちの議員」に欠けていたこと

更に、この男の心を見透し、イエス様は彼が律法の大切さを知っているはずだと指摘なさいました。この男の律法順守の姿勢を決して軽んじてはおられませんが、その行動の根本にある心を問題視なさっています。神の民として新しく必要とされる行動をイエス様は指示なさいました。持っている物を売り払い、貧しい人々に分け与えることでした。この世でいただいたものを神に感謝し、それを隣人に分け与える謙虚な心があるかどうか、また、それを命じた御言葉に従えるかどうか、それをイエス様は問われたのです。イエス様は、彼に、そのような心になったら、「わたしに従いなさい」、つまり、「わたしの弟子になりなさい」と「金持ちの議員」に呼び掛けてくださいました。しかし、この「金持ちの議員」はイエス様のこの御言葉に従うどころか、立ち去り(マタイ19:22、マルコ10:22)、救いから遠ざかりました。

 

自分の物やこの世への未練を捨てて主に従う弟子達への報い

このことにより、イエス様は「金持ちが神の国に入ることは難しい」とおっしゃっいました。この世で様々に豊かな人間は、持っている物を捨ててイエス様に従うのは難しいということです。そこで、弟子のペトロが、自分達はそれを行ったと主張し、これに対し、イエス様は、この世での充分な報いと、後の世での永遠の命の授与を約束なさいました。

 

「主の弟子」である私達が、主に従った後に受けた報い

当時の弟子達だけでなく、後の時代の弟子としての私達の多くが、信仰生活に入る前に、自分にとってこの世への未練を生む物を断ち切った経験があると思います。特に、私達が生きる、今の日本では、周りの人と同じであること(「同調圧力」)が幅を利かせています。キリスト教信仰に入ることは、この同調圧力を打破することです。家族や友人から「自分達と考えや行動が同じでない者とは絶縁する」と反対を受けた方も多くおられるでしょう。しかし、それでも、私達は信仰を与えられました。人間的な見方をすれば、実に勇気のいる決断でしたが、イエス様はこの決断を祝して御自分に従う者の気持ちに寄り添ってくださり、この世でも、後の世でも大きな報いを保証してくださっているわけです。また、神様側の視点で捉えるならば、恐らく、神様は信仰者を「神の民」として選んでくださり、聖霊によって「信仰」を与えられたのでしょう。その結果、私達信仰者は今、どうでしょうか。この世だけしか知らなかった時に未練を感じていた物の価値はなくなり、信仰に入った後に神様から与えられたものによって、真の平安が与えられていると実感している方が多いと確信します。この世において「神の民」とされている喜びを知った者こそ、永遠の命を主から授かる喜びもわかるのです。

 

 12弟子さえ「主の死と復活の予告」を理解できないようにされた!

 今日の新約聖書箇所の後半の段落は、イエス様御自身の「死と復活」についての3度目の予告です。34節の説明が特徴的です。「救い主の死と復活」という神様にとって最も重要な御計画を、弟子と言えども、人間はすぐには理解できないように、神様がなさったのです。神様の御心を求めるのは大切ですが、それを人間の知力や心で、すぐには理解できないこともありえます。そんな時も、信仰者の私達は、この世への未練をすべてを捨てて主に従う決意を持ち続けるように求められているのです。