9月2日の説教要旨 「世の終末と私達の希望」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 ルカ福音書21:20-28

 

 はじめに

今日の新約聖書の前半は、イエス様のエルサレムについての預言です。神の都と呼ばれたエルサレムが恐ろしい状況で滅亡するいう内容です。しかし、これは、聖書で証しされている神様が「御自分の気分で都を滅ぼす」わけではありません。神様は、ユダヤ人を「イスラエルの民(神の民)」として、選び、愛し、育まれました。そして、約2千年前に、「今だ!」ということで、御自分の御子イエス様を救い主として、この世に送ってくださったのでした。それも、「唐突に」ではなく、ずっと前から「神の民に救い主を送る」という預言を預言者達に授けていました。

 

 前に預言され、後に実現されるに至る「神様による人間の救い」

特に、旧約聖書のイザヤ書以降には、そのような預言が幾つか含まれています。旧約聖書にいつも触れていたのが、ユダヤ教指導者達です。祭司長や律法学者達です。彼らが居るのがエルサレム神殿を中心とするエルサレムという都です。ここで、イエス様が「救い主」として受け入れられれば、このエルサレムは「神様による人間の救い」を受け入れたことになります。そして、それまで人間が受けていた「この世の長サタンの支配」から抜け出て(救われて)、神様がユダヤ人を起点の民として、世界中の人間に御言葉を伝え、全ての民族がそれを信じ、この世の皆が神様の支配を受ける「神の民」となるように、神様は御計画されたのです。

 

 エルサレムのユダヤ教指導者達の頑なな拒絶

ところが、エルサレムのユダヤ教指導者達はイエス様を最初から排除しようとしたことが、ルカ福音書の記述から読み取れます。彼らは、民衆の支持を失わせようと論争を仕掛けましたが、イエス様の「神の知恵」溢れる答えによって負けてしまいました。それでも、彼らはイエス様を「神の御子・救い主」とは認めませんでした。また、それ以前に、イエス様は、憐れみ深い神様の御心を示していないという彼らの罪を指摘なさったこともあって、彼らは悔い改めず、イエス様を拒み続けました。「神の救いの御手」を拒んだ町には、神の裁きが徹底的に降る定めです。

 

 イエス様を救い主として受け入れないという罪とその罰

ユダヤ教指導者達は、目の前の「ナザレ人イエス」を救い主だと受け入れなくても大したことにはならないと油断していたのでしょう。ところが、実は、イエス様の到来で、神様の出来事である「人間の救い」は、既に始まっていました!彼らはそれを見逃しました!更に、指導者の決定的な判断ミスで、「身重の女とか乳飲み子を持つ女(23節)」という社会的弱者が大変苦しめられることになるとイエス様は預言なさいました。本来は、弱者を憐れむ神様がそうしないほど、神様の御子に逆らう罪は非常に重く、その罪への罰を「神の民」は必ず受けなければならないのです。

 

 神様から受ける罰=エルサレム滅亡は、実際に起こった!

神様からの罰を受ける預言は、数十年後に実現しました。紀元66年から70年まで「ユダヤ戦争」となり、エルサレム神殿を含むエルサレムの町全体は、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んだローマ人達の強力な軍隊により、徹底的に滅ぼされました。その後、20世紀に入るまで約1900年間、エルサレムは異邦人達に支配され、ユダヤ人達は心の故郷エルサレムを回復できない「離散の民」として、世界中をさまようことになりました。

 

 天変地異の預言が例えていることと私達が持てる希望

更に、所謂(いわゆる)「終末」の預言として、エルサレム滅亡後には、天変地異が起こり、天体や地上や海上で大きな異変が起こるために、神様の御業を知らない「諸国の民」は「なすすべを知らず、不安に陥る(25節)」と、主は預言なさいました。しかし、「そのとき、人の子(救い主なるイエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る(27節)」と続きます。救い主イエス様と出会った時、私はそれまでの価値観が全く覆され、心の中で「天変地異が起きた」ように感じました。天変地異の預言は、福音との出会いで、以前の心の体系が大いに揺さぶられる経験を例えていると言えるかもしれませんし、それだけではなく、「終末の出来事」として実際に起こることかもしれません。ただ、信仰者はその出来事の有無を心配することから解放されています。イエス様を救い主と信じることによって罪を贖われた私達は、どんな状況でも神様につながっているという希望を持ちつつ、主の来臨を待っていられるからです!

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