10月13日・神学校日・伝道献身者奨励日の説教要旨

エレミヤ書31:1-9・ヨハネ福音書11:38-44

 「神の逆接」      日高貴士耶(きしや)神学生

*はじめに

 エレミヤ書ではイスラエルの歴史の中で、最も痛みの深い時代に向けて語られた預言者の言葉が連なっています。エレミヤ書は、しばしば悲しみの書物であるように思われています。ダビデ王以来引き継がれてきたユダ王国の終わりの姿をまざまざと描きだしています。巨大な国家バビロニアが攻めてきて、その大きな暴力の中で国が滅んでいく、そのような時代に向けて、神の言葉を説き続けたのがエレミヤです。

この悲しみの歌を収めた哀歌は、しばしばエレミヤによって書かれたものであると理解されてきました。そのために私たちの聖書では、エレミヤ書のすぐ隣に哀歌が収められているのです。エレミヤ書の中にも、悲しみと痛みが渦巻いているところがあるからでしょう。

その悲しみのただ中に、エレミヤ書31章が刻み込まれています。この悲しみも、悲惨も、痛みにも、確かに神の言葉が届くということを宣言しているのかのようです。 「おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」(注*4節)悲しみの歴史が進み行くエレミヤ書のただ中で、希望の言葉が語り始められるのです。  (注*聖書協会訳)

*「その時には」(1節)

 新しい時代が来ることが、神様の言葉の中で、脈打つように宣言されています。 「その時には」。 あらゆるものが転換する時のことが語られるのです。エレミヤの目の前で繰り広げられる悲しみと苦しみの時代、果てしのない罪の時代は「その時」、神様の力によって転換されて行く。

私たちは一歩また一歩と神の民の歩みをここで進めながら、その時を待ち続けているのです。

クリスチャンでいることの幸せのひとつは、自分の人生をわたしの人生の中で全て実現する必要がないことです。多くの人が、この世界の中で、自分の人生を実現しようとして必死になっています。

人よりも良い生活をして長生きすることだけが、まるで人生の価値を決めることであるかのようです。

しかし、ここでは、教会では別の生き方が大切にされてきたのです。それは、私たちの人生の終わりを見据えながら生きるような生き方ではなく、ただ神様がわたしたちに教えてくださった「その時」が来るのを待ち続ける生き方なのです。その時、私たちは全てが神様の慈しみの中にあったことを見出すでしょう。その時、私たちは神様と顔と顔とを合わせるようにして、礼拝をしていることでしょう。その時、まことの慰めが私たちを包み込むでしょう。そしてその確かな希望の中で、またこの日の歩みを、神の民の歩みを、私たちは神様を礼拝し、祈りながら進めています。

*東京神学大学

「神学校日」として、私たちは一年のこの日を、特別に伝道者たちを養成している場所のために、特別に祈る日としています。私たち 日本キリスト教団の最大の神学校はわたしのいる、そしてまた由子先生が卒業された東京神学大学です。明治以来の日本の様々な神学校が合併して行く中で、きっとそこには深い祈りもあったことでしょう。それまでの様々な教派が持っていた神学校を一つにしようとして東京神学大学を生み出したのです。日本の教会が、祈りながら受け継いできた財産が、この東京神学大学に集められてきたのです。そしてそれは一つの流れになりながら、今この時に至っているのです。そこには困難なことが幾つもあったことでしょう。今も、東京神学大学は現職の学長を病で失うという悲しみと困難の大きい状況に置かれています。学生たちも教職員たちも悲しみが深い。しかし、そうしながら、それでも私たちは私たちの祈りを受け継ぎ、信仰と学びの財産を次の世代に受け渡しながら歩んで行くのです。

一人、また一人と、ここで伝道者が生まれ、福音の言葉を携えて、日本の地に出かけていきます。私たちはこうして信仰を受け継ぎ、祈りを受け継ぎ、そうしてまた新しい福音の言葉を語る者たちを立てて、育てて行くのです。神学校はそのような私たちの祈りと行いの明白に見える形のひとつでしょう。私たちのこの小さな歩みの一つひとつには神様の言葉があるのです。

*「しかし、その時には」

私たちの歩みがその答えを見出すその時がやってくる。そう、私たちの人生はそのようなものです。喜びがどこまでも深い時にも、悲しみがどこまでも深い時にも、絶望が心を満たそうとしている時にも、神様の言葉が響きだす。 「しかし、その時には」。わたしたちの現実に働く神の力を聖書の言葉は確かに語っている。わたしたちの日々、進み続ける現実の物語に対して、「神の逆接」が勝利を収めるのです。

*神の逆接

説教題を「神の逆接」としました。礼拝の説教にしては少し変わった説教題かもしれません。しかし、まさに私たちが共に聞いたエレミヤ書の言葉は、まさに神様の逆接に満ちた箇所なのです。

逆接、それは文の間の関係性を、反対を意味するものとして提示する言葉です。わたしたちの世界の現実に対して、「しかし」という言葉が連なりながら、新しい現実が立ち現れてくるのです。

しかし、それは神の「しかし」なのです。エレミヤ書が語る言葉はそのような神の「逆接」、神の「しかし」に満ちています。エレミヤ書全体に対する逆接であるかのように、ここでは将来に待ち受ける救いと喜びの言葉が溢れ出している。神様が「しかし、その時が来る」、「あなたたちが再び立てられ、慰めを受けるその時が来る」とおっしゃる。 捕囚を前にして、ひとつの国が暴力の中に消え入れられようとしていた時に、神様はおっしゃったのです。「しかし、おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。

*強制移住

巨大な帝国バビロニアがユダの国に侵略してきました。そこである者たちはバビロニアの国に強制移住をさせられました。自分の育った愛する土地から引き離されて、暴力的に他の国に移住させられたのです。

古代の中近東の世界では最も恐ろしい処置の一つでした。

またある者は滅びゆく国の姿を見て、逃げて行きました。その中には、かつてファラオの奴隷として暮らさなければならなかったエジプトまで逃げる者もいました。ユダヤ人たちは、この大きな帝国の力のもとに、世界中に散り散りになっていくしか方法がなかったのです。

新しい土地には幸福が待っている保証はありません。奴隷にされるかもしれません。外国人ですから、人並みの扱いをしてもらえる保証もありません。彼らは世界中に散らされていった。

*神の逆接の言葉

自分の弱さを思い知りながら、生きていかなければならない時がある。自分ではどうすることもできないほどの大きな力に押さえつけられるようにしながら 生きて行かざるを得ないと思っていた者たちの上に、神の言葉が、神の逆接の言葉が響きだしてくるのです。

「しかし」、神はイスラエルの民を再び集められる。

神の言葉は全てを転換させる力に満ち溢れているのです。

きっと皆さんの人生も、聖書の言葉の中で転換させられ、変えられてきたことでしょう。由子先生はまさに、そういう人だと思います。

聖書の言葉が、強い力をもって私たちを変えてくる。そして私たちの命をも、確かに蘇り(よみがえり)の命へと造り変えてくださった。

今日は、ラザロの蘇りの箇所も読んでいただきました。主イエスはラザロの墓の前で確かに宣言されるのです。

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)。

ラザロの姉妹マルタはその少し前に言いました。「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」。厳しい言葉です。現実と悲しみに満ちた言葉です。そこに主イエスが言われた、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」(同40節)。

神様は私たちの人生に大きな逆接の言葉を置かれるのです。 「しかし、あなたには復活の命がある。あなたには救いがある」。そして私たちは神様の逆接の中で、復活の生命をこの世界の中で生き始めているのです。