2020年2月23日の説教要旨

詩編95:1-11、ヨハネ福音書 6:1-15

「少しも無駄にならないように」 遠藤尚幸先生(東北学院中学高校)

*大勢の群衆

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)

 今朝、私たちに与えられたヨハネによる福音書の言葉には、そのようにありました。主イエスの後を追って大勢の群衆が歩いていく。聖書の言葉そのままに読めば、湖を超えて向こう岸までついてきた。そんな、大勢の群衆の姿が目に浮かびます。彼らはどうして主イエスを追いかけたのか。聖書はそれを「イエスが病人たちになさったしるし」を見たからだと語ります。大勢の群衆もまた、自らの病を持ちながら、湖を渡り、主イエスの後を追ってやってきたのです。このような思いは2000年前の聖書の時代も、現代も変わりません。また、病だけではなくて、辛さや苦しみの中で、主イエスを追って来た人もいたでしょう。そのような意味で、私たちもまた、今朝、この大勢の群衆のようでもあります。一人一人それぞれにある思いの中で、今共に、主イエスの語る言葉に耳を傾けています。

*イエスは目を上げ

 主イエスは、大勢の群衆にどのように応えたのでしょうか。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見て」(5節)

 主イエスは、群衆を見つめます。そのために目を上げます。主イエスの眼差しは、今、この群衆に注がれています。群衆が追いかけて来るというのは、全く聞く耳を持たない方の背中を見つめながら、追いかけるのではありません。彼らが追う主イエスは、彼ら一人一人を見つめている。

群衆はこの眼差しの中を歩みます。この場面、私は、神様と、そこに集おうとする私たち一人一人の姿に重ねることができると感じます。私たちも今日それぞれの思いを抱えながら、この礼拝に集っています。一週間の歩みを終え、それぞれにあった苦労を乗り越えてここに集っています。大勢の群衆は湖を渡ってきたわけですが、それは決して容易な道ではなかったはずです。湖を渡るには準備が必要です。その途上、嵐が起こることもあります。人々は自らの足で主イエスを追いかけます。向こう岸へ渡るというのは容易なことではありません。しかし、それでも主イエスを追いかけて来る。礼拝堂に集う私たちもまた、何よりも主イエスが私たちに目を上げ、待っていてくださっている中で集っている。そのことを忘れたくはないのです。そしてこの眼差しは、今朝この時間だけに注がれているものではありません。振り返れば、この一週間すべてをも包み込むように注がれてきた眼差しです。礼拝は、この神様の眼差しに私たちが気づくときでもあります。ああ、自分の人生は、その歩みは、神様の眼差しの中にあったのかと気づきます。一人で歩んでいたと考えていた時、苦難の中にあった時、その時に、神様は目を上げ、この私を見ていてくださった。大勢の群衆も、主イエスの眼差しに気付いた時、そのことを思い起こしたはずです。主イエスが見ている。もう大丈夫だ。ここに私たちの真の安心があります。

*足りないでしょう

 主イエスはこの群衆に眼差しを注ぎながら、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言いました。しかし、主イエスはこの後におこることをご存知の上で、フィリポにこう尋ねたと記されています。フィリポは、主イエスの問いにこう答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。一デナリオンは、当時の一日分の給料と同等の金額です。ですから、二百デナリオンは200日働いた人が手にすることができる金額でした。主イエスの前にいた人々は男だけで5000人とも書かれています。女性や子ども含めれば1万人以上はいたと想像することができます。当然、この人々に食事を与えることなど想像することができないわけです。フィリポにとってみれば、自分の理解を超えた問いに、彼なりに一生懸命計算して出した答えが「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という諦めとも取れる言葉でした。そこで出て来るのが、一人の少年です。

*五つのパンと魚二匹

 8節には、続けて主イエスの弟子の一人であったアンデレがこう言ったことが記されています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。

 一人の少年が大麦のパン五つと、魚二匹を持っている。アンデレは、そのことを主イエスに報告します。しかし先ほどのフィリポ同様、それでこの人数の人に食べさせることなど不可能であることを伝えます。この少年はどうして大麦のパン五つと魚二匹を持っていたのでしょうか。主イエスについてきた人の子どもであったかもしれないし、一人で来た少年だったのかもしれません。自分で自分の分として、彼なりに一生懸命準備して来たものだったかもしれません。アンデレが言うように、大勢の前では意味がないものかもしれません。しかし沢山いる弟子たち、大人たちの中で、よく準備して来た少年であったことは確かです。主イエスはその少年を見逃しませんでした。主イエスの眼差しというのは、こういうところまで行き届いています。弟子が目の前の大勢の群衆にばかり目を奪われ、少年や、少年の持っている持ち物を「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」と言う時に、主イエスはこの少年の持ち物こそ、この5000人以上の人々の空腹を満たすために用いるべきものだと判断するのです。主イエスは人々を座らせました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱え、魚も同じようにし、それを座っている人々に分け与えました。このパンと魚を通して人々は、満たされていきます。そして主イエスはこう言います。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい

*「少しも無駄にならないように」

「少しも無駄にならないように」。これが、主イエスが弟子たちに語った言葉です。人々を満腹にさせ、それでもなお残った分がありました。残った分をどうするか、主イエスはそれもまた丁寧に扱おうとします。考えてみれば今朝与えられた箇所は、最初から最後まで、主イエスの私たち人間に対する心遣いを見て取れる箇所だとも感じます。大勢の群衆を見つめる眼差しから始まり、小さな少年のわずかな持ち物を大切にし、そして、残ったものを一つも無駄にしない。一つ一つを丁寧に扱おうとする、主イエスの姿があります。ここで使われている「無駄にする」という言葉は原文では、ヨハネによる福音書においては「滅びる」とか「失う」とか「朽ちる」という意味で使われる言葉です。有名な言葉で、たとえばヨハネによる福音書3:16で使われています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。他にも6:27「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というところにも「朽ちる」という箇所で使われています。どうして、それほど大切に扱うのか。それはそこに集う一人一人が、少年が差し出したパンと魚が、神様ご自身が備え、与えてくださったものだからです。私たちが誰一人として、滅びることのないように、失われることのないように、朽ちることのないように、これが神様の御心です。そのために、主イエスは来てくださり、私たちに目を上げ、その眼差しを注いで下さっているのです。

*教会の姿

 教会は、主イエスを中心として、一人一人が、大切に、神様によって用いられる場所です。私たち人間には何の価値もないように見えるもの、弟子たちだけではなくて、少年も、まさか自分自身の小さな持ち物が、こんなに大きな出来事に用いられるとは考えてはいませんでした。私たちもそういうところがあります。自分の持っているもの、それを自分のものさしで測ってしまうところがある。主イエスがフィリポを試されたというのは、そんな人間のものさしだけで物事を測ることから抜け出させようとするためではなかったのかとも感じます。私たちの頭で考えることには限界があります。5000人以上の人に、食事を与えなさいと言われて、そんなこと無理だと考えてしまうのが私たちです。しかし、聖書は、その先に、神様が共にいるゆえに、道が開かれていくことを教えています。今朝与えられた詩編95:9には「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した」とありました。「神を試す」とは「人間のものさしだけですべてを測ろうとすること」です。しかし、教会は、その先を見つめます。人間の持っている小さなものを、なお、神様は大胆に用いてくださる。私たち一人ひとりにも、そういうものがあるのではないでしょうか。それは自分から見れば、目の前にある課題を解決するのには十分ではないものに見えるかもしれない。しかし、神様の目には、他ならぬ十分すぎるものであることがあるのです。私が初めて神学校を見学に行った時に、説教台に立って説教を語っている神学生を見て、自分には到底こんなことはできないと感じました。しかし、神様は今、私を、この説教台に立たせてくださっています。人間の目に不十分だと思えることが、しかし、神様の御手の中で用いられる時に、思いもよらない可能性があったのだと気付かされるのです。

私たちのうちに、足りないものは何一つありません。神様が満たしてくださるから、私たちにはそれで十分です。

*世に来られる

 この人間の理解を超えた主イエスの業を通して、人々は変わっていきました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」(6:14)

「世に来られる」とはヨハネによる福音書で重要な言葉です。ヨハネによる福音書は主イエスを世に来られる光であり、神の子であることを証言しています。つまりこの人々も、主イエスが何者であるかを知ったということです。主イエスこそ、この世を照らす光です。そして、私たちの罪を背負い、十字架につけられていく小羊です。私たち人間は、主イエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったことを通して、神様の子どもとして今ここに集うことが赦されています。この人々の言葉は、私たち一人一人の言葉です。遠い時代、ガリラヤで始まった主イエスの伝道の果実は、今の時代、私たち一人一人を通して実っています。主イエスは、私たち一人一人を決して見捨てることはありません。

 どこまでも、最後の一人までも決して無駄にすることはしない。私たちがその最後の一人でもあります。私たちのために、キリストはあの十字架で命を捨ててくださいました。

*受難節に向かって

 今週の水曜日、灰の水曜日より受難節に入ります。受難節は主イエス・キリストの十字架の苦しみを覚える期間です。最後の一週間である受難週は、主イエスの十字架までの一週間を想起させる、教会歴の中で最も聖なる一週間と言われます。

どうして、主イエスの苦しみが一年で最も尊いのか。

それは、世に来られた神の子であるイエス・キリストが、私たち一人一人の罪を背負って、十字架の道を歩んで下さったからです。

私たち人間ではどうすることもできなかった、神様の前での罪の問題の一切は、キリストの十字架を通して贖われました。私たちはただひたすら、その恵みを感謝して受け取るだけです。

籠いっぱいになったパンの屑は、今、私たちの集う教会へと託されています。神様の恵みは、この教会を通して、さらに多くの人へと手渡されていきます。5000人を遥かに超える食卓は決して聖書の中だけの「奇跡」ではありません。その「奇跡」は教会を通して、私たち一人一人を通して、今も続いている出来事です。

あなたにも、神様の愛の眼差しが注がれている。安心していい。不安こそが高らかに叫ばれる時代にあって、神様が共にいる恵みをご一緒に伝えていきたいと願います。

教会はキリストの体です。誰一人滅ぶことのないように、朽ちることのないように、「少しも無駄にならないように」、神の恵み、十字架の キリストを私たちは今日、この時代に語り伝えます。