2020年3月1日の説教要旨

 創世記28:10-22・ヨハネ福音書1:43-51

         「最初の弟子たち②」    平賀真理子先生

*はじめに

 前回、1か月前の礼拝説教で、今日の箇所の直前をお話しました。その時、主の本当の弟子として招かれた者は、主の許に留まり続けることを期待されていると話しました。今日の箇所では、主の許に留まり続けた結果、どうなるのかが示されています。共に読み進めてまいりましょう。

*新しく加えられた弟子たち ―フィリポとナタナエル―

 今日の新約聖書箇所の直前で、アンデレやシモンなど3人がイエス様の弟子となったと記されていました。続いて今日の箇所では、新たに2人の弟子が加えられます。フィリポとナタナエルです。フィリポは、他の3つの福音書にも名前が出ています。しかし、ナタナエルは、他の福音書では同じ名前は出ていません。ただ、常にフィリポの後に書かれている「バルトロマイ」と同じ人で、別の呼び名だろうというのが通説です。

*イエス様とフィリポとの出会い

 イエス様とフィリポとの出会いでは、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われ(43節)、フィリポはすぐに従ったようです。フィリポはナタナエルに対し、イエス様を「旧約聖書で預言された救い主である」(45節)と証ししました。短い時間でフィリポはイエス様を本当の救い主とわかるように、聖霊に導かれたのだと思われます。

 もう一つ特筆すべきことは、フィリポの言葉「来て、見なさい」(46節)です。実はこの言葉は、直前の段落の39節のイエス様の御言葉と同じだからです。一番最初の弟子となった2人に対して、イエス様が語った御言葉が「来なさい。そうすれば分かる。」と新共同訳聖書では訳されています。これは意訳で、原語では、イエス様の御言葉とフィリポの言葉は、同じ動詞が並べられています。単純に訳せばどちらも「来て、見なさい」です。フィリポはイエス様との出会いで「イエス様を救い主と信じる信仰」が与えられ、主と同じ御言葉を語る者に変えられているのです!主の弟子すべてに与えられる恵みの一つが示されているわけです。私達も、信仰によって、主と同じ御言葉を語ることが許され、そして伝道するように導かれると読み取れます。

*ナタナエルがイエス様の許に導かれる過程

 フィリポから「イエス様が救い主である」と聞いたナタナエルは、最初はイエス様の出身地ナザレを差別する意識から、フィリポの証しを信じる気持になれませんでした。けれども神様は人間の狭い考えを悠かに超えて御計画を実現なさり、ナタナエルを、イエス様の許に導きました。たとえフィリポの口を通したとしても、イエス様が語った御言葉の力が、ナタナエルを主の許に導いたと言えるでしょう。この後、ナタナエルの人生が激変するのです。

*イエス様とナタナエルとの出会い

 イエス様はナタナエルを見て、まず、「この人には偽りがない。」とおっしゃいました。「偽りがない」との言葉は「策略などを心に持たない」という意味があります。後にイエス様は、ユダヤ教指導者達の策略によって十字架に付けられるわけですから「偽りがない」は主に従う弟子にとって必要な性質です。また「いちじくの木の下にいる」(48節)とは、当時この地方の人々は、大きな葉をつけるイチジクの木陰で勉強していたとの史実から、ナタナエルがユダヤ教を熱心に勉強していたことを意味するというのが一般的な解釈です。自分の本性や過去の行動をまるで見ていたかのように言い当てられたナタナエルは、イエス様を「神の子、イスラエルの王」(49節)と言いました。これはユダヤ教では待望の「救い主」を意味する言葉です。ナタナエルは、ユダヤ教をよく学んだ者として、イエス様を救い主と信仰告白したわけです!

*「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

 「もっと偉大なこと」を、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りすること」と説明されました。創世記28章からも分かるように、苦難の道のりでも、主なる神様は、愛する者に天から働きかけてくださることを意味しています。イエス様のこの世の歩みは「十字架への道」であり、人間的には「偉大なこと」とは真逆です。でもこれこそ、父なる神様がイエス様に課せられた「偉大なこと」です。このことを主の弟子たちは理解して伝道することが、人生の本当の目的だと知らされているのです。