2020年3月8日の説教要旨 詩編51:3-6・ヨハネ福音書1:29-34

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐々木哲夫先生

*はじめに

恥の文化 江戸時代の大阪商人は、商いの契約書に次のような但し書きを書いていました。「この契約書に決して違反いたしません。万が一、背くようなことがありましたら、万座の中でお笑いくださっても少しも恨みとは存じません。」

信用を旨(むね)とする商人にとって万座の中で恥を掻(か)くことは最高の罰でした。但し書きを読むと、単に世間体を気にするという表面的なことではなく、名誉を重んじる商人たちの価値観が伺えます。日本の文化を恥の文化と称し、罪の文化である西洋と対比して論じられることが少なくありません。確かに恥をかかないようにとの気持ちから一生懸命に努力することに私たちは共感できます。日本文化の本質的な特色なのでしょう。

恥の文化にある者が罪の概念を理解することは、心の中の価値観に変革を求める事ですので簡単なことではないと思われます。

*罪の文化  

恥の文化では、人が見ているか見ていないかという外面的な拘束力(こうそくりょく)に行動の動機を見出すのに対し、罪の文化では、誰が見ていなくても神様が見ている、天に恥じることのないようにという内面的な拘束力に基づいて行動します。例えば、モーセの十戒を何故守るのか。社会的秩序を維持するため、とのこともありますが、それ以上に、十戒は、神と人との間に結ばれた契約であり、神との約束であるから守るというのです。

ですから、誰も見ていないから盗む、他に目撃者がいないから自分に都合の良い偽りの証言をするということは、神との約束を破る、すなわち神に対して罪を犯すことになります。

*三つの「つみ」

旧約聖書の原文には「つみ」を表す言葉として主に三つの単語が使われています。「背(そむ)きの罪」「咎(とが)」そして「罪」と邦訳されている単語の三種類です。「罪」は「罪」なのだから「罪」という一つの日本語で表現すれば良いと思われるかもしれません。単語が三種類あるということは、ユダヤ人の罪に対する思い入れがあるからです。

日本人は天から降ってくる雨に思い入れがあります。例えば、春雨(はるさめ)、

五月雨(さみだれ)、梅雨(ばいう)、小糠雨(こぬかあめ)、夕立、秋雨(あきさめ)、時雨(しぐれ)、小雨(こさめ)、涙雨(なみだあめ)など、日本語の雨に関する単語は豊富で400語、もしくは1200語もあると言われております。それは、日本人の雨に対する繊細な感覚の現れでもあります。

*背(そむ)きの罪

本日の旧約聖書箇所の詩編51編3節を見てみます。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

ダビデは「背(そむ)きの罪」を拭(ぬぐ)ってもらいたいと神に嘆願しています。

「背きの罪」とは、主人などを欺(あざむ)き反逆する罪のことです。例えば、牛、ろば、羊、上着、遺失物など巡って所有権を争い、裁判になり、有罪とされた場合の罪もこれに相当します。(出エジプト22:9)

*咎(とが)

4節には「咎(とが)」という表現があります。「咎」は、自分の好き勝手な判断で規則を破ってしまうことを意味しています。衣服を洗うことや沐浴(もくよく)をせよと命じるレビ記の規則に従わない罪を原文では同じ単語なのですが、「咎(とが)」ではなくレビ記では「罪責」と邦訳しています。(17:16)

*罪                       

 4節のもう一つの表現、ただ単に「罪」と記されている単語は、旧約聖書に300回以上も記されています。これは「あるべき道からは外れて不注意にも迷ってしまっている状態」を意味します。例えば、働いた人に賃金の支払いをせずに、働いた人から訴えられた場合の罪も含まれています(申24:15)。

わずか三種類の言葉ですが、私の行為がどの罪に問われるだろうかと考えさせられ、罪に敏感になってしまいます。ダビデは詩編51編において三種類の罪の言葉を13回も使って自分の犯した罪を全部ひっくるめて神に悔い改めを祈っています。

*責任ということ

罪に敏感になると、反面、罪に応じて下される罰はいかなるものかと気になります。旧約聖書を読みますと、例えば、自分の所有している牛が人を突(つ)く癖(くせ)を持っていることを事前に知っていたか、いなかったかで罰の程度が変わります。事件の加害者が、過失か故意かによっても変わります。心の中で自分の兄弟を憎んだか、憎まなかったのか、など内面的な動機も問われます。複雑(ふくざつ)多岐(たき)で詳細(しょうさい)な吟味(ぎんみ)が求められるので、律法の専門家でないと罪の解明(かいめい)が難(むずか)しくなってしまいます。神に対し罪を犯さないためには一体どうしたらよいかと途方に暮れてしまいます。

身近な例によって考えてみたいと思います。小学校6年生教科書『国語(下)』(昭和56年光村図書発行)に小児科医で思想家の松田道雄さんが書いた「責任というもの」という興味深い論説文が載っておりました。

要約して引用してみます。

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小学生の男の子たちが広場で野球をしていました。一人が打ったボールがフェンスを越えて向こうの家の窓ガラスを割ってしまいます。みんな一斉に逃げようとしますが、出口のところで校長先生に出会ってしまいます。そして、誤(あやま)りにせよ物を壊(こわ)したら持ち主に謝(あやま)らないといけないと注意されます。校長先生に言われたので、謝りに行ったとするならば、それは生徒としての義務を果たしたことになる。もし誰にも言われなくとも自分の意思で謝りに行ったのならば、それは壊したことの責任を取ったということです。規則などで縛(しば)られてではなく、自分の威厳(いげん)にふさわしいように振舞(ふるま)うことが責任です。責任は、人間にとって義務よりも大事なものです。

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このような論説文を読むと、規則や定めを熟知(じゅくち)していなくとも、神の似姿である人間の威厳(いげん)にふさわしく責任ある振る舞うことの大事なことが理解できます。人間には、自分の行動が神に喜ばれることか、厭(いと)われることか、を自主的に判断する能力が備わっているのです。

*取り除く=引き取る

 とはいえ、神の前で罪を犯してしまったらどうしたら良いのでしょうか。本日読みました新約聖書の箇所において、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが自分の方に歩いてくるのを見て、

見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っております。すなわち、どんな罪でも取り除くことのできるお方であるとバプテスマのヨハネはイエスキリストの真の姿を見抜いたのです。

「取り除く」という表現には「取り除いてポイと捨てる」というニュアンスだけではなくもう一つ意味があります。それは、「担う、背負う」とのニュアンスです。例えば、復活の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストの遺体が収められているはずの墓に行きます。しかし、イエス・キリストの遺体のない空っぽの墓を見て泣き出してしまいます。その時、復活のイエス・キリストが「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」とマリアに声をかけます。その人物がイエス・キリストであることを認識できず、園(その)の管理人と間違えてしまったマリアは、

あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と語りかけます。

マリアの最後の言葉「引き取る」が「取り除く」と同じ原語なのです。

バプテスマのヨハネは

見よ、世の罪を引き取る(引き受ける)神の小羊

と言ったのです。それは、世の罪を引き受け、罪の赦しを実現した イエスキリストの十字架を連想させるものでした。