2020年3月22日の説教要旨  詩編119:97-104・ヨハネ福音書 12:1-8

「聖化された愛」      佐藤 義子牧師

*はじめに

 本日の説教題を「聖化された愛」としました。「聖化」とは、「あるものを聖なるものにすること」「聖なるものにされた状態」を言います。

「聖」という言葉は、神が聖であり、神から選ばれた民は聖なる民であることが根底にあります。聖には、俗世間、あるいは日常的なものから引き離すという意味、又、神に献(ささ)げられるために清められたものに使われます。

*イエス様を取り囲む環境

今日の箇所は、イエス様が過越の祭りの6日前にべタニアに行かれた時の出来事が記されています。この出来事のあと、イエス様は過越祭に行くため、エルサレムの町に入られ、弟子達への告別の説教・最後の晩餐・ゲッセマネの祈り・逮捕と大祭司による尋問・続くピラトからの尋問・そして死刑判決・十字架での死・・への道に向かって進んでいかれるのです。

今日の箇所の直前(11章最後)に、こうあります「祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。

イエスを逮捕するためである。」つまりこの時点で、イエス様には逮捕状が出されていました。逮捕される理由は一つもなく、ただ当時の宗教的指導者達にとってイエス様の存在が自分達に不利益をもたらすこと、権威が脅かされ、群衆の人気がイエス様に向かうことへの妬みにより、神を冒涜しているとの理由をつけてイエス様を殺そうとしていました。このことをイエス様はすべてご存じの上で、弟子達と共に、今、エルサレムの町に近いベタニアに来られたのです。エルサレムの町は、祭りの為に、世界各地から、大勢の人々が巡礼者としてやってきますので、町は人々で溢れるため、近隣のべタニアは巡礼者達の宿泊場所の一つでもありました。

*ナルドの香油

今日の出来事が起こった場所についてヨハネ福音書には記していませんが、マルタが給仕をしており、イエス様によって甦らせてもらった兄弟ラザロも同席していたことから、マルタとマリアの家ではないかと考えることが出来ます。イエス様たち一行が来られることを聞いて食事の会が催(もよお)されました。

この席で、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。その結果、家は香油の香りでいっぱいになりました(3節)。ナルドは、ヒマラヤやネパールの高地でとれる植物で、イエス様の時代、インドから輸入されていて大変高価なものでした。香油の量は1リトラ(約330g)とあり、ユダの言葉によれば、300デナリオンの価値(当時、1日の労働賃金が1デナリオン)があったようです。通常このような高価な強い香りのする香油は、敬意を表そうとする客の髪の毛に、ほんの一滴注いでいたということですから、この時のマリアの行動は、そこにいたすべての人を驚かせたに違いありません。

*マリアの行為

強い良い香りが部屋中に満ちる中、その場は一瞬、空気が止まったようになったのではないかと想像します。マリアのその行為は、マリアがどんなにイエス様を尊敬し慕っているか、誰の目にも明らかに映ったことでしょう。マリアは、これ迄のイエス様との出会いを通して、イエス様こそ神の御子救い主であられることを確信していたに違いありません。そしてイエス様の今回の訪問、今年の過越祭の時が最後になるかもしれないとの予感が、マリアを、このような大胆な行動へと向かわせたように思います。

 ある神学者(テニイ)は、「マリアは霊的な識別力を備えていた。

イエス様の心に共感した者が持つ洞察力があり、イエス様が自分達と共に長くおられることは出来ないと直感した」と書いています。

同席していた人々の中で、イエス様との地上での別れの時が,もうそこまで来ているとの思いと緊迫感を、マリアと同じようにもっていた人は、どれほどいたのだろうと思いつつ、私もマリアと同じようにイエス様の心を知ることが出来るようになりたいと思いました。

*空気を破ったユダ

マリアの行為から生まれたこの場の空気を破ったのは、弟子の一人、イスカリオテのユダでした。彼は、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施(ほどこ)さなかったのか。」(5節)と言いました。相手を批判し、裁き、その間違いを指摘し、その行為を責めている言葉です。

ユダにとっては、その行為は浪費・無駄使いであり、使われた香油は300デナリオンという大金にしか見えなかったようです。彼は会計係でした。かつて群衆の多くは、イエス様のパンの奇跡などを見てイエス様を王にしようと捜し回ったこともあり、ユダも又、イエス様がこの世に於いて力を行使することを期待していたでしょう。ところがイエス様の生き方は、それとは逆に、御自分を待っているのは「受難と死」であることを弟子達に語っていますので、ユダにとっては自分の期待が裏切られる中、自分の身を守るために、会計係として預かっているおおやけのお金から一部を抜き取っていたことが、ヨハネ福音書の著者によって書き加えられています。高価なナルドの香油を自分に預けてくれたなら、それを高く売りその一部を自分の懐に入れられたのに、と、その悔しさからマリアを詰問する言葉となったと思われます。そのような自分の損得感情を隠してユダはマリアに、「貧しい人々に施す機会をあなたは捨ててしまった」と責めたのです。

*サタンの働き

悪魔サタンの働きは、いかにも人間らしく、信頼出来そうなかたちや言葉をとって近寄って来ます。それゆえ一般社会において、ユダの言い分に同調する人が出てくる可能性は大きいのです。 私達はこのような偽善(サタンの働き)に対して、見破る上よりの知恵を求めていかなければなりません。又、私達は、ユダのマリアへの批判は「おかしい」と感じます。それは、その人が所有している物を、その人が好きなように用いるのは当然であり、他人がそのことに対して批判し、干渉するのは間違っていると考えます。しかし当時は女性の人格は低く、人前で男性に自分の考えを述べることなど出来なかったのでしょう。誰かが助け舟を出さない限り、この場において、マリアは「高価な物を無駄使いする女性」とのレッテルをはられてしまう場面です。

*聖化された愛

イエス様は、ユダの言葉に対してこう言われました。

この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の為に、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

イエス様はマリアの行為を、「ご自身の葬りのため、埋葬の準備のための奉仕であり、日常的な来客に敬意を表す香油と区別され、特別な奉仕としてなされた行為」であることを伝えました。

イエス様の、この奉仕の意味づけにより、マリアの行為は、「時宜(じぎ)にかなった行為」であることが、おおやけにされました。マリアの、イエス様への、人目をはばからずに捧げた愛の奉仕は、イエス様によって聖化され、高められました。

この受難節の時に、私達はイエス様に何をささげたいと望むのか、何を喜んで受けていただけるのか、自分に与えられている賜物を思い起こしつつ、ささげるものが、主の御用に用いていただけることを願いつつ、今週一週間を歩みたいと願うものです。

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<参考までに>

*香油の物語については、すべての福音書に記されていますが、少しずつ内容が異なります。この出来事は、古くから初代教会に伝わった伝承の中の一つであり、福音書記者によって伝えたい事柄や強調したいことの違いが、違いとして表れていると考えられます。

○マタイ福音書(26:6-13):場所は、らい病のシモンの家。一人の女がイエス様の頭に香油を注ぎ、これを見て憤慨したのは弟子達。 

○マルコ福音書(14:3-9):マタイ福音書と同じ。憤慨したのはそこにいた何人かの人。

○ルカ福音書(7:36-50):場所は、ファリサイ派の家。香油を注いだのは一人の罪深い女であり、批判者はファリサイ派の人。