2020年7月5日の説教要旨 出エジプト記16:6-12・マタイ福音書14:13-21

「人々を満たす神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

今日の旧約聖書にはイスラエルの民がエジプトを出て一ヶ月が過ぎた頃、荒野に入ると人々はモーセとアロンに向かって不満を言い出したことが記されています。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなた達は・・・この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)。 神様は人々の不平を聞き、『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。』とモーセに約束されました。その通りに毎日夕方になると、うずらが飛んできて人々はそれを捕まえて肉を食べ、朝になると宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると荒野の地表の上に薄くて壊れやすい物が大地の霜のように薄く残っていました。これが神様が与えられたパンであり(13-14節)、人々はそれを「マナ」と名付けました(30節)。7日目は安息日のため6日目に2日分の量を集めることが出来、人々はこのことを通して神様のことを知るようになりました。

*荒れ野

今日の新約聖書には、洗礼者ヨハネが亡くなったことを聞いたイエス様が(マタイ14:1~)が、「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」とあります。イエス様は、洗礼者ヨハネの身に起ったことの意味を思いながら神様に問いかけ、祈りを捧げたことと思います。「人里離れた所」は、元の言葉では「荒野」という意味があります。荒野は人が生活するには難しく飢えや渇きを覚え、生存していく保障のない場所でもありますから自ら荒野に入ることは珍しいことであったでしょう。更に、荒野は私達にとってみれば夢も希望もなく、ただ絶望的な場所に思えます。その荒野(人里離れた所)にイエス様が行かれたとを聞いた群衆は、方々の町から歩いて後を追いました。イエス様は、お一人で祈る時間をさえぎられたにもかかわらず、群衆を見て深く憐れみ、彼らの病気を癒されました。イエス様はいつも必要とされている人達に手を差し伸べ 寄り添いました。

*「それをここに持って来なさい」

夕暮れになり弟子達がイエス様に人々を解散させて欲しいと言いますと、イエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。しかし弟子達はパン五つと魚二匹しかないことを告げますと、イエス様は「それをここに持って来なさい」と言われて、群衆に草の上に座るようにお命じになり、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達にお渡しになりました。弟子達がそのパンを群衆に与えますと、「すべての人が食べて満腹し」(14:20)、残ったパンの屑は十二の籠一杯になりました。

*天を仰いで祈りをささげ、食べることができる

これは言い換えると、私達が聖書の言葉を読むと同時に、聖書のみことばを食べること・・まさに、こうして集まって神様のみことば、聖書の話を聞いて、霊によって満たされる(満腹)を意味しています。

イエス様が荒野の誘惑の中で語られた申命記8:3『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』が私達に意味ある言葉として、心の内に生きるエネルギー、活力として宿っていくのだと思います。

*わたしたち

では私達は神様からの食べ物、聖書の言葉を食べているでしょうか?

 みことばをお腹いっぱい食べているでしょうか? 又、聖霊の助けを待ち望み、心を燃やして日々の生活をしているでしょうか?

イエス様は、イエス様を方々の町から歩いて後を追いかけて来る人達に与えたように、「生きた神のことば」を私達にも与えたいと願っておられます。 復活されたイエス様が、エマオに向かう二人の弟子に現れて(ルカ福音書24章)、イエス様から聖書の説明を聞いている間、彼らの心が燃えていた時(24:32)のように、心の中から、わき上がる喜びや熱い思いを、神様は私達にも持って欲しいと願われておられます。この思いに応えて、今週一週間、聖書のみ言葉を読み、祈り、共に歩んで参りましょう。

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