10月11日の説教要旨 「平地の説教⑤-御言葉を行う-」 牧師 平賀真理子

詩編19:8-15・ルカ福音書6:46-49

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて5回目です。今日の箇所は、「平地の説教」の最後の部分、結論にあたる部分ですから、今までにもまして重要だと推測できます。

 「主よ、主よ」と呼びながら、言われたことを行わない者 

イエス様のことを「主」と呼んで尊敬しているようで、しかし、その教えを実行しない人がいるとイエス様はおっしゃっています。「主よ」と呼びかけをするばかりで、自分を御言葉に従わせようと考える人が少なかったということでしょう。この「平地の説教」は、弟子達やイエス様に従って御言葉を聞いている人々に向かって教えられたことです。そういう人々の中にさえ、うわべだけの信仰者がいたわけです。

 「神の国」の御言葉を聞ける恵み

イエス様の素晴らしさは溢れて、多くの人の心を動かします。現代の人々の中でさえも、福音を伝えると、「イエス・キリストっていいこと言うわね」「なんか清められたわ」と言う方はたくさんおられます。しかし、話を聞き終わって教会を出たら終わりで、教会に来る前と何ら変わることなく、この世に再び埋没してしまう人達が多いものです。イエス様が教えてくださった「神の国」は、神の愛の溢れた世界です。それは、この世=自分が一番大事という罪の世界とは全く違う世界です。「神の国」に入るには、人間の力だけでは無理で、神様の霊(聖霊)の助けが必要です。実は、福音を聞いた方々というのは、「神の国」のことを聞くことができたということで、聖霊の助けをいただいているのです。

 聞いて、信じて、行う

このように、御言葉を聞けたということは大きな恵みです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ書10:17)という御言葉どおり、御言葉を聞くことは信仰の出発点ですが、その「聞くこと」から、信じ、そのとおりに行い、更に、成長していくことを、私達は神様から期待されています。

 行わなければ、忘れる

御言葉を聞くだけ、御言葉を受けっぱなしで何もしないままでは、大事な御言葉を忘れてしまうことが、私達人間は多いものです。ヤコブの手紙2:23-24には、御言葉を聞くだけで行わない者について、自分の顔を鏡に眺める人のようだと書いています。その場を離れると忘れてしまう、人間の忘れっぽさを思い起こさねばなりません。大事な御言葉もただ受けただけでは、残念ながら、人間は忘れることが多いのです。けれども、実行しようとして労苦した場合には、決して忘れませんし、むしろ、労苦が多ければ多いほど、心に刻み付けられます。

 御言葉を行うことの労苦

御言葉を行うことは労苦を伴います。例えば、この「平地の説教」の中にある「敵を愛しなさい」とか「人を裁くな」という御言葉を実行しようとすれば、自分の感情や考え方を犠牲にしなければなりません。簡単にはできません。心の中では「血を流す」感覚と言っても過言ではありません。それまでは、「自分を憎んでいる人は自分も憎いから憎む」「自分の基準に合格しない人はダメ人間のレッテルを貼る」といったこの世の常識の中にいました。しかし、聖霊の恵みに

よって御言葉を聞けたことを感謝するならば、その御言葉を本気で実践したいと願うでしょう。そして、自分を御言葉に合わせるよう、努めるでしょう。

 岩の上に土台を置いて家を建てる

イエス様御自身は、「御言葉を行う」ことを、家を建てる時の土台を据える作業に例えられました。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた」とおっしゃいました。反対に、御言葉を聞くだけで行わない、つまり、楽な作業をする例として、掘り下げる労苦はせず、一見安全に見える平坦な砂の上に家を建てることを挙げられました。表面的には、同じように家が建ちますが、「川の水」が押し寄せると、楽に建てた家はひどい倒れ方をするのです。「洪水」や「川の水」とは、試練とか、欲望とか、思い煩いなどの例えです。そのようなことが信仰者の人生を襲った時、岩の上に土台を据えた信仰者は押し流されずに済みます。難儀なこと=御言葉を聞いて行うことに努めた信仰者には、「岩」と例えられる神様がしっかりと土台となって支えてくださいます。洪水になって「川の水」が押し寄せて来ても 揺り動かされない家を建てるような信仰者となるために、御言葉の実践者として歩んでいきましょう。

10月4日の説教要旨 「平地の説教④-良い実を結ぶ-」 牧師 平賀真理子

箴言11:30・ルカ福音書6:43-45

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて4回目です。今日の箇所の直前にイエス様は「人を裁くな」という教えを語ってくださっています。他の人のことを、心の中や口に出して、裁くことの多い私達に対して、です。

 「人を裁くな」 

「人を裁くな」の御言葉の段落で2つのことを知らされています。一つは、自分が周りの人に当てはめている秤で自分が量り返されることです。「人を裁くな」はイエス様が私達に語ってくださった御言葉ですが、その教えに従っているか、自分を振り返って、すんなりとOKと言えるでしょうか。残念ながら、主の恵みの洗礼を受けた後でさえも、私達は、「人を裁く」習性から抜けきれていないのではないでしょうか。 だから、日々の悔い改めが必要なのです。もう一つは、信仰者として思い起こすべき「主の十字架」です。イエス様は「神の御子」として「人間を罪から救う」という、最高に善い目的のためにこの世に来られたのですが、イエス様に反感をもった「敵」と言うべき人々は、自分達で解釈した「律法」という秤で、主を裁いて十字架につけました。にもかかわらず、イエス様は神様に彼らへの赦しを願い、「執り成しの祈り」をなさり、裁くことをしなかったのです。

 誰に向かって語られたのか?

今日の箇所は、同じ内容がマタイによる福音書7章にもありますが、そこでは、偽預言者を見分けるために語られました。しかし、ルカによる福音書では、弟子達やイエス様に聞き従おうとする者に対して語られています。イエス様の恵みによって「主から訓練を受け、主に近づこうとする者」の生き方を指し示す御言葉として伝えられています。

 「木」と「実」

 43節、44節では、木の性質が語られています。神様が「天地創造」で木をそのように造られたのです。朝顔の種からは朝顔、ひまわりの種からはひまわりの花しか咲かない、違うものには絶対にならない。よくよく考えると不思議です。これは、この世の大きな決まりであり、神様がそのようにお決めになったということです。 例として挙げられている「いちじく」と「ぶどう」は、共に、豊かな実り、平和と繁栄の象徴として、旧約聖書では良いものとして表現されてきました(ミカ4:4等)。一方、「茨」や「野ばら」は、土地を荒らすもの、または、土地が荒れた結果、生えるものと言うように、性質の悪さを表すものとして表現されてきました。

 「実によって木を知る」

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって」分かります。「毒麦の例え」(マタイ13;24-30)のように、当時の人々は、実によって、その木が何の種類なのか、最終的に判定したこともあったでしょう。神様による「天地創造」の法則を掘り下げて考えると、神様から授けられた本来の性質に従って、木は、神様から決められた実を結ぶように成長していくということになります。その原則を45節では人間に当てはめています。善い性質の人は、良いものを心の倉に入れて、良いものを出す、逆に悪い性質の人は、悪いものを心の倉に入れて、悪いものしか出せない…。結局、人の口からでる言葉が「実」として、その人の心の倉に何があるかを明らかにしていると主はおっしゃるのです。

 「悪い実をつける悪い木」のままの人間

「悪い言葉」が実となって口から出てくる例の一つに、「人を裁く」ということがあります。信仰者は、神様の憐れみによって赦されていて、罪から卒業することを保証されているのに、「人を批判する」、つまり、悪い言葉を「実」として口から出してしまうということは、その人はまだ悪い性質の「木」のままであることを暴露しています。

 「良い木となって良い実をつけるために」

「良い木となって良い実をつける」には、良いもので心の倉を満たす、良いものを収穫することが必要です。キリスト者は、信仰によって、救い主イエス様の木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受けられるようになった者であると、ロマ書11章17-24節にあります。養分を受け続けましょう。

9月27日の説教要旨 「平地の説教③-人を裁くな-」 牧師 平賀真理子

詩編79:8-9・ルカ福音書6:37-42

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて3回目です。今日の箇所の直前は「敵を愛しなさい」という教えです。私達にとって、この教えは高い目標ですが、イエス様は十字架で「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と敵のために祈られています。

 「裁く」「罪人と決める」「赦さない」

「裁く」とは、良いものと悪いものとに区別するという意味があります。区別するには「基準」が必要になります。自分の考える基準に達しないものに対して、「悪い」と言ってとがめだてることを人間はしがちです。今日の御言葉はまだ続きます。自分以外の人を悪い者、つまり、「罪人」として決めつけたがる…、多くの方が思い当たる節があるのではないでしょうか。御言葉は更に深くなっていきます。「赦しなさい。」(37節)……人を「罪人」と決めつけて「赦さない」という人間に対して、「赦す」という大変大きな目標が掲げられます。

 「自分の量る秤」

そのような人間の中心にあるのは「自分の量る秤」です。人には、各々が正しいと思う秤=基準があって、その基準に合えば「良い」としますが、自分の基準に合わないと「悪い」として、その範囲に入る人を裁き、罪人と決めつけ、更には、「赦せない!」と思う傾向があるように思います。「自分の秤」は正しいと多くの人が思うのです。けれども、本当にそうでしょうか。限界のある人間が、不完全なこの世の中で、時間や範囲が限られた世界の短い人生経験の中で、正しいと思っている基準が、永遠で無限で完全な神様の基準と比べて、絶対に正しいと言えるでしょうか。

 「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」

38節の「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」の目的語は「秤」です。「量りをよくして」とは、「量りを大きくして」という意味です。自分の持っている秤の枠を押して広げ、中身がより多く入るように秤を揺すって、秤をあふれ出るほどにして、自分の秤の容量を増やすよう求められています。中身である相手ではなく、相手を裁こうとしている自分の秤の方を変えて大きくすることを求められています。

 「量り返される」

自分の秤を大きくするように求める理由を、イエス様は「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(38節)とおっしゃいます。では、誰に量り返されるのでしょうか。一つは、周りの人々(自分が裁こうとした人々)に。もう一つは、神様に、です。信仰者は、やがて自分が神様の御前に立たされて、神様から裁き(良い悪いという評価)を受けると知らされています。その時の神様の秤が、自分が他人を量った秤の大きさと同じだと言うことを肝に銘じなければなりません。だからと言って、自分の秤を持つことを否定しているわけではありません。御言葉に従って自分の量る秤を持つことは、信仰者として成長するために必要です。しかし、それを、他の人に当てはめることを、主は戒めておられます。自分の基準は、人に当てはめられません。人それぞれ、神様が与えられた賜物や生まれ育った環境で感じ方・考え方が違います。コリントの手紙Ⅰの8章の「強い人」「弱い人」の話を思い出します。信仰において、「強い人」と「弱い人」があるのですが、強い人が弱い人に対して配慮すべきことが書かれています。なぜなら、強い人のためだけでなく、弱い人のためにも「キリストが死んでくださった」(11節)からです。主の十字架に示された自己犠牲の愛は、「私に」だけでなく、主に導かれた人すべてに分け隔てなく注がれています。

 イエス様が話された2つの例えから

39節の「盲人達」は、自分の大きな欠点で人や物事を正しく見ることが出来ない人々であり、主に出会う前の人々と言えます。その人々が、「師」と言われるイエス様に出会い、訓練されれば、主の正しい基準によって人や物事を正しく見ることが出来るようになることを例えています。

後半41節以降の「兄弟」とは、神様によって兄弟となった信仰者同士です。「兄弟の目の中のおが屑」とは、「他の信仰者の僅かな欠点」です。「丸太」と例えられる自分の大きな欠点に気づかず、他人の小さな欠点が大きく見えて「裁く」人間の罪深さが表されています。罪深い人間の基準はあやふやで、愚かなものです。私達は、自分自身の基準から、イエス様がくださった基準のもとに歩めるよう、訓練されていきたいと願っています。

9月20日の説教要旨 「大きな利得の道」 牧師 佐藤 義子

箴言30:7-9・Ⅰテモテ書 6:2b-12

 はじめに

今日の説教題を見て、「アレ」と思った方はいらっしゃいませんか。利得とは利益を得ること、もうけることです。この世とは違う価値観に立つ、ご利益宗教とは言えないキリスト教の教会で「利得の道」を説くなど、違和感を覚える方もおられるでしょう。一般社会において御利益とは、この世で価値あるものを手に入れることです。たとえばお金です。貧乏は不幸であり、お金は人を幸せにする魔法の道具のように考える人々が多いのです。しかし、聖書は、何と言っているでしょうか。

 旧約聖書

肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」(箴言15:17)

乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、肉で家を満たして争うより良い(同17:1)

二つのことをあなたに願います。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで 私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、というおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」

 新約聖書

金持ちになろうとする者は、誘惑、わな、無分別で有害な、さまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

ここには、金持ちになりたいと考えるならば、さまざまな欲望が出てきて、その欲望が自分の考えていた幸せとは違う、滅亡と破滅におとしいれると警告しています。では、聖書は、どのように教えているのでしょうか。

 足るを知る

今日の8節には、「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」とあります。今朝読んだ旧約聖書の祈りでも、他人をうらやむのではなく、「わたしのために定められたパンで養って下さい」と、自分にとっての必要量・程度があり、それで足れりとする幸せがあることに目を向けさせます。

 テモテへの手紙

この手紙は、使徒パウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙で、目的はこのように記されています「わたしのこの命令は、清い心と、正しい良心と、純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」(1:5)。

そして、今日読んだ前半では、教会の教えと違うことを教えた教師達に向けて厳しい言葉を語っています。彼らは自分の考えている理論を優先してイエス様の言葉を軽んじました。その教えが正しいか否かは、その教えから生まれる結果を見れば明らかです。彼らの教えからは、ねたみやあらそい、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生まれるのであって、精神が腐り、真理に背を向けていると、パウロは断罪しています。

  「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道」

これは6章6節の言葉です。「信心」は「敬虔」とも訳されます。箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」とありますが、天地万物を創り、人間に命を与え、私達の生と死を支配されておられる神様を信じて、畏れ敬うこと、御子イエス・キリストを信じて、その教えに従って生きることが、「敬虔」の中身です。「足るを知る」ことと結びついた、主を畏れる信仰・敬虔は、私達に大きな利益をもたらしてくれると、ここで教えています。その大きな利得とは何でしょうか。

  永遠の命

私達は何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何ももっていくことができ」ません(7節)。それゆえにパウロはこう語ります「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、信仰を表明したのです。」信仰には戦いがあります。しかしその戦いは無意味ではありません。御子イエス様と共に信仰の道を歩む時、私達は神様からくる平安が与えられ,約束された「永遠の命」を手にするのです。

9月13日の説教要旨 「平地の説教②-敵を愛する-」 牧師 平賀真理子

出エジプト記23:4-5・ルカ福音書6:27-36

 はじめに
キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて2回目になります。直前の段落の最初20節にあるように、イエス様はまず、弟子達に向かって御言葉を語られたのですが、今日の箇所の27節「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、聞き手の範囲を広げて語ってくださっていることがわかります。

 「御言葉を聞く」
「聞く」という言葉に注意する必要があります。右の耳から左の耳に音声を聞き流すという聞き方ではありません。御言葉を聞いて、それに従って生きていく覚悟で聞き、その教えを心に留めると言う意味です。
御言葉に、尊敬の念を持ち、聞き従いたいと望む者達に語られています。
後の時代の私達も、聖書を通して、主の御言葉に出会う恵みを与えられています。時代を越えて真剣な聞き手を渇望しておられる主の期待に応える者として、御言葉を心から渇望する者となりたいものです。

 「愛敵の教え」
27節後半で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。「愛敵の教え」といわれていますが、常識と違う教えを聞き、「私には難しい」と思ってしまう方が多いのではないでしょうか。

 「敵が思い浮かぶ」
その前に、愛敵の教えを聞いて、自分の「敵」を具体的に思い浮かべられるなら、そこに問題があります。「敵がいる!」のです。私達は、全く関係のない人を「敵」とは思えません。人生の中で何らかの関わりのあった人達の中に、「敵」=「愛せない人」を作り出してしまうのです。今日の聖書箇所で言うなら、自分を憎んでいる人、悪口を言う人、自分を侮辱する人、自分を痛めつける行為をする人(した人)、自分の持ち物を奪う人(奪おうとする人)です。神様が愛情を持って、私達に適切な時代・場所・環境を選んで置いてくださったにもかかわらず、その中で人間は「敵」を作ってしまう、これこそ、罪の一つです。そして、この世の常識では、敵は憎むべきもの、自分の受けた損害と同じものを返して当然です。

 愛敵の理由
そんな「この世のルール」から私達を解放してくれるのが、「愛敵の教え」です。
人間的な感情に従うならば、敵は許せませんが、その怒りなどの悪い感情に自分を従わせて仕返しするのは、自分をこの世のルール・罪の世界に更に縛り付けることです。直前の段落の言葉で言うならば、「不幸」=「神様の祝福をいただけない」状態から抜け出せないままです。それは、私達を「神の国の民」としたいと切望されている神様の御心とは全く相いれないもの、御心に適わないことです。

 愛敵の教えのとおりの生き方
イエス様は、「敵を愛する」という教えだけでは、罪ある人間には難しいことをおわかりになっていたのでしょう。イエス様御自身が「愛敵の教え」のとおりに生きる姿を見せてくださったのです!イエス様を妬み、憎み、「敵」と見なした権力者と追随者達は、イエス様に対して悪口を言い、侮辱し、服をはぎ取り、十字架で命を奪ったのです。してほしくないことばかりした人々に対し、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです。
(ルカ23:34)」と執り成しの祈りをなさいました。御自分を敬愛せず、受け入れようとしない人々に、究極的な「神の愛」、御自分を犠牲にしても相手の幸いを願う愛を「祈り」という行為で示されました。この教えは、聞き従う者達への教えではありますが、イエス様の歩みの預言でもあったのです。

 黄金律
31節「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は、「黄金律」として、キリスト教の大事な教えです。主の十字架の御姿を思い浮かべつつ、神の国のルールを第一に思って行動する基準が心に立っているでしょうか。相手の反応に左右されず、徹底的な愛を持ち、神の御心に従う良い行いをしましょう。

 「神の国の民」としての期待を受けて
「敵」に良い行いをするのは大変厳しいですが、「神の国の民」とされている私達は、まずは、今日の旧約聖書にあるとおり、自分の感情を脇に置いて、「敵」を助けるよう、努めましょう。最終目標は、罪の世界のルールから解放され、主のように敵の為に祝福を祈り、親切な行いをするという「神の愛」の実現者になることです。目標に向かって、成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

9月6日の説教要旨 「平地の説教①-幸いと不幸-」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9・ルカ福音書6:20-26

 はじめに

今日の説教題は「平地の説教①」で、イエス様が使徒を選んだ後に山を下りて平らな所に立たれた(17節)ので「平地で教えた御言葉」と捉えられています。また、有名な「山上の説教」(マタイ5章~7章)とよく比べられたりします。今回は、ルカ福音書の記述を基本に読み進めたいと存じます。

 目を上げ弟子たちに向かって

「平地の説教」の前の20節「イエスは目を上げ弟子たちを見て」に注目します。神様がおられるとされる「天」に目を上げたのは、イエス様が父なる神様の御心を思って御言葉を語ろうとされたことの表れだと思います。また、「平地の説教」は、イエス様に従ってきた弟子達に向かって語られたことも忘れてはならないことです。

 「貧しい人々は、幸いである」

「幸いと不幸」の御言葉は大きく2つに分かれます。20節後半から23節までと、24節から26節までです。前半が「幸いである」、後半が「不幸である」ことについての御言葉です。「幸いである」とは、一般的な幸福感とは違います。「神様から祝福された状態」、「神様の御心に適った状態」であることです。また、「貧しい人々」の「貧しい」という言葉は、「恐れて縮こまる」という意味を持つ言葉から生まれたので、経済的に貧しい人々だけを指すのでなく、この世で委縮して生きるように強いられている「社会的弱者」をも含んでいると考えられます。彼らこそ、神様から祝福された状態にあるとイエス様はおっしゃっています。この世から恩恵を受けていない人々こそ、「神の国の民」となる恵みがよくわかる状態にあり、この世に従うのでなく、神様の御心に従えるとの望みを語っておられます。

 「今」

20節の「貧しい人々」がどういう状況かを説明するため、イエス様は「今飢えている人々・今泣いている人々」という言葉を重ねておられます。説教では聞く側が「今、ここで、私に」という視点を持って聞かねばなりません。「今、この状況にいる私」に御言葉が語られていると切実に受け入れる姿勢が必要です。イエス様の御言葉を聞いている人々が「今、飢えているあなた」「今、泣いているあなた」と自分に呼びかけられ、しかも、御言葉に従う者として神様からの永遠なる祝福をいただけることを、主は告げ知らせてくださっています。

 更なる逆境による、更なる祝福

22~23節で、この世において、ひどく扱われ、迫害される状況なら、なおさら、神の国の民としては、神様から更なる祝福をいただけると主は語られました。それをかつての預言者たちをとおして、主は人々に気づかせようとされました。この世での権力者になびかなかったために迫害を受けた預言者達(エリヤ、エレミヤなど)が、神様の御心を尋ね求めて、本物の預言者として祝福されたという証しが旧約聖書に記されています(列王記上18章、エレミヤ書26章など)。

 「不幸である」

今日の箇所の後半は、前半との対比となっています。24節「富んでいる人々」は、20節後半「貧しい人々」との対比、25節「「今満腹している人々・笑っている人々」は、21節「今飢えている人々・泣いている人々」との対比、26節「人にほめられるとき」は、22~23節「人から迫害されるとき」との対比です。この世で恵まれている人々に対して、「不幸である」という言葉が使われていますが、元々は、痛切な悲嘆の思いで言う、「あぁ」「うわぁー」という感嘆詞です。神様からの祝福をいただけない者達の悲惨な状況がイエス様には見えていたのです。神様が人間の救いのために、御子イエス様をこの世に送り、救い主として信じるように招かれているにもかかわらず、従わない者が神様の祝福を得られない状態の悲惨さを嘆かずにはいられないのです。それほど、主は憐れみ深い御方です。それだけでなく、「平地の説教①」は弟子達に向かって語られているのですから、イエス様に従うはずの弟子達でも、この世で社会的に恵まれることへの誘惑に引きずられる者がいることを、主は嘆かずにはいられなかったのでしょう。

 「この世に行き詰まって、本物の救いを求める」

「幸いである」弟子であり続けるために、私達は、この世の価値観では行き詰まるのだと明確に自覚し、主による救いによってしか、本物の喜びは得られないと知るべきです。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)とあるように、私達は神様から祝福を受ける価値のある者です。

8月30日の説教要旨 「使徒選びと民衆への御業」 牧師 平賀真理子

イザヤ書65:8-10・ルカ福音書6:12-19

 はじめに

今日の新約聖書で、まず、心に飛び込んでくることは、イエス様が「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)ことです。神の御子として、神様の御心を本当によくご存じのイエス様が、徹夜で祈られたのです。神の御子がこんなに一生懸命祈られているのだから、罪の中に生まれ育った私達は、主に倣って、もっと一生懸命に祈るよう、努めていきたいと思います。

 祈りに対する神様のお答えを受けて

イエス様が宣教活動を始める前まで権力と名誉を持っていた「宗教指導者(ファリサイ派や律法学者)達」が、イエス様の噂を聞きつけて偵察に来ていました。彼らは、「ナザレ人イエス」が自分達の教えとは違うにもかかわらず、御言葉や御業が素晴らしいので、人々がイエス様を支持していることを身を持って知り、邪魔者だから殺すと決断したばかりでした。イエス様は、彼らの悪い計画を知りつつ、神様の御心がこの世に実現することを第一に考えて祈られたのでしょう。祈りは、神様からのお答えを聴くものでもあります。イエス様への神様からのお答えは、弟子達の中から「使徒」を選ぶことだと読み取れるでしょう。例の宗教指導者達の罪により、イエス様は御自身のこの世での時間があまりないと知っておられたのではないでしょうか。しかし、神様の御心=この世に「神の国」を造ることを実現するべく、御自分の働きを引き継ぐ者を任命して育てていくよう、神様からお答えをいただいたのだと思います。

 「弟子」の中から「使徒」を選ぶ

イエス様が「使徒」を「弟子」達の中から選んだことに注目したいと思います。イエス様の御言葉や御業に触れて従った者達の中からです。また、「弟子」という言葉には「学ぶ者」という意味があるのだそうです。主に従って学ぼうとする者の中から、御自分の働きを受け継ぐ者を選び出されました。「本物の弟子」になりたい私達は、主に従って学び続ける姿勢を貫くように期待されているに違いありません。

 「12使徒」とは

「使徒」をイエス様が選ばれたのは、「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(マルコ3:14―15)でした。そして、12人を選ばれました。12という数にも意味があります。旧約聖書で、神様が御自分の民として選んだ人物は「アブラハム」です(創世記12章)。その息子が「イサク」、イサクの息子が「ヤコブ」です。そのヤコブには12人の息子が与えられ、イスラエルの12部族の長となりました。イエス様は父なる神様が神の国を実現するために12部族の長を置かれたという方法に倣い、「新しいイスラエルの民」の信仰のリーダーとして、12人を使徒として選んだのでしょう。これが主の徹夜の祈りに対する神様のお答えであり、イエス様はそのお答えに従われたのです。

 「12使徒」の特徴

12使徒一人一人の名前が挙がっていますが、彼らの群れとしての特徴は、「漁師」など一般庶民として、例の宗教指導者達からは低く見られていた存在だったことです。しかし、これは「身分の低い者を高く上げる(ルカ1:52)」と言われる「主」なる神様にはふさわしいことでした。12使徒の中で、11人は信仰を貫いて迫害を受け、そのほとんどが殉教したと伝えられています。ただ一人、「裏切り者となったイスカリオテのユダ」(16節)が、イエス様を裏切り、十字架に付ける罪に直接かかわりました。私達は、一度は神様の御業の継承者として選ばれた信仰者でも、祈りや御言葉によって神の御心を尋ね求めることを忘れれば、自己愛に走って神様を疑うようになり、裏切り者としてサタンに取り込まれて永遠に呪われる存在となってしまうことも肝に銘じて、信仰生活を送らねばなりません。

 「民衆への御業」

「使徒選び」をなさったイエス様は、山を下り、平地に戻られた直後も、多くの民衆の求めに応じて、御言葉と癒しの御業を惜しみなく注がれました。見返りを求めない「神の愛」ゆえです。それだけでなく、ユダヤ全地域や周辺地域からもやって来た群衆が主の御言葉と御業の恵みを受けたことによって、使徒達の後々の伝道の礎となったのです。主は、使徒達に先んじて、福音伝道のための備えもされていかれました。

8月23日の説教要旨 「砂漠に向かうアブラハム」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書35:1-2・ヘブライ書12:1-3

 はじめに

最近、私は部屋を片付けることを2回行いました。次に使う人のために生活空間を片付けたのです。私達は「区切りをつけて次の所へ向かうこと」を人生で何回か繰り返します。そして、人生の最期を迎える時も、部屋や財産を片付け、地上の生活に大きな区切りをつけ、次に移ります。

 「次の世界」が存在する根拠

「次の世界」に何があるのか、はっきりとはわかりません。しかし、この世の私達には「次の世界」があるとの予感はあります。それを聖書では、「神の国」とか「とこしえの命」と言っています。イエス様は、例え話を用いて教えてくださいました。また、旧約聖書では、弱肉強食の無い世界のように(イザヤ書11:6-8)例えていたりします。聖書に確かにあるとされる「次の世界」に向かい、私達は希望をもって歩みたいものです。人間は、この世の常識から考えて、「次の世界」を疑ったり、否定したりします。しかし、聖書に言われていることは、神様から言われていることであり、正しいことです!私達は、ここから、希望をくみ取る必要があります。

 「直接的な神との交わり」

フランスに住んで著作活動をした日本人の思想家で「森 有正」という学者がいます。彼が「次の世界に移っていく」ことで、晩年ずっと心に描いていたのが「アブラハム」です。森 有正は、「パンセ」という著作で有名な「パスカル」の研究を通して、「アブラハム」に出会いました。聖書の神様は「アブラハムに呼びかけ、イサクを祝福し、ヤコブに働きかけた神様」です。後々の人間が宗教として規定したような、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神ではないとパスカルは言いました。「私に働きかけてくださる神」「生々しい神」であるとして、キリスト教を勧める本を書きました。「神と私がじかに語り合う(『私』としては祈り求める)」これが信仰の原点です。「直接的な神」とパスカルは言っています。更に言えば、「人間である『私』は、神とのつながりを決して欠かすことはできない」と聖書は告げています。

 「砂漠を見ていたアブラハム」

森 有正は「ヘブライ人への手紙」を読んでいくうちに、アブラハムの人生は砂漠を見ていた人生であると気づきました。アブラハムは、神様から召し出されて故郷から砂漠に向けて出発しました。「不妊の女である妻サラによって与えられる子供を通して子孫が砂のように増える」と神様から言われた時も、砂漠を見ていたに違いありません。(最初はとても信じられないことでした。)4千年の時を経て、今や世界の人口の2分の1がアブラハムの子孫です!「神の約束」は実現するのです!その孫のヤコブも兄エサウとの確執で砂漠を越えて親戚の所に身を寄せて寄留者の立場になりましたが、神様の祝福の下、財産を増やして故郷に帰り、兄にも認められる存在として和解に漕ぎつけました。その息子ヨセフは、異郷の地エジプトに売られ、ひどいことに、囚人にされましたが、そこから、エジプトのNo.2の地位にまで上る恵みを受けました。その400年後、エジプトで奴隷として苦労していたイスラエルの民は、神の恵みにより、「モーセ」を指導者として、約束の地「カナン」へ帰ってくることができました。(モーセはカナンを目前に亡くなりますが…。)アブラハム以降の族長は砂漠を見ていましたが、神との約束を信じて希望を持って歩んだのです。

 「砂漠を歩んだイエス・キリストの人生」

「砂漠を見ていた」とは、「悲惨で厳しい道を歩んだ」ということですが、この点で、最も悲惨な人生を歩んだのが、「イエス・キリスト」です。しかし、十字架の死の後、イエス様は復活されました!まさしく、「暗闇」を「光」に、また、「死」を「復活」に変えてくださったのです。「死」の後に「光」=「希望」が満ちています。だから、キリスト者も希望に満ちて歩んでいるのです。たとえ、それぞれの現状が砂漠のような厳しい状況でも…。神の約束はふさがれて、はっきり見えないかもしれませんが、「キリストを信じる」とは、新しい世界があるという希望を、眼前に見つめながら進むことです。

 「十字架」から「栄光」へ=「絶望」から「希望」へ!

ヘブライ人への手紙12章2節には「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」とあります。イエス様は「恥」「恥辱」「敗北」で人生を終えられましたが、神の目から見れば、それは一つの通過点です。最終的には、「神の玉座の右にお座りになる」という「栄光」を受けられました!ヘブライ人への手紙には、悲惨な状況の時、イエス様が横にいて助けてくださると書かれています。(2:17-18、4:15-16、5:7-10等) イエス様は、信仰者の全生涯の中にいてくださいます。たとえ、真っ暗な墓の中にまでも……。キリストによって、暗闇(絶望)から光(希望)へと移っていくのです。

 イエス・キリストの教え

そのような救い主イエス・キリストの教えを集約するならば、「神と隣人とを愛しなさい。」と「神に感謝して喜びを持って生きなさい。」ということです。前述のとおり、ヤコブやヨセフは、厳しい境遇に置かれてもふてくされたりしませんでした。その境遇で一生懸命に生きて、財産や地位を得ました。将来の希望を見据えつつ、つらい現状でも、神と隣人とを愛しました。ヘブライ人への手紙11章には、「信仰によって」という言葉が随所に記されていますが、ヤコブやヨセフは、まさしく、「信仰によって」砂漠に向かう族長だったのです。その11章の8節には、アブラハムについて「行く先も知らずに出発した」とありますが、そんな状況でも、アブラハムも、神と隣人を愛して歩んだのです(創世記12章-25章)。

 「イエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)喜ぶ

ヘブライ人への手紙12:1では「こういうわけで」と言って、11章の族長達の信仰深い歩みを踏まえた上で、「自分に定められている競走」をまっすぐ走ることを勧めます。次の2節の「信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめながら」という御言葉は重要です。どの人にも現実の悩みがあります。しかし、「預言者イザヤの幻」(イザヤ35:1-2)にあるように、砂漠一面に花が咲くのです。これは、「神の(救いの)約束の中に立てば、人知では及ばない、素晴らしい喜びの世界がある」との例えです。救い主イエス・キリストを知って信じる者達には、救ってくださった神様への感謝と、救いに招かれた喜びが満ち満ちています。イザヤの預言は「喜びの先取り」です。現状は砂漠のように厳しくても、救い主を見つめるならば、花園のような喜びが、今、ここに起きていると告げています!

8月16日の説教要旨 「み言葉は魂を救う」 牧師 佐藤 義子

詩編119:73-80・ヤコブ書 1:19-27

 はじめに

今日の聖書から、三つのことを学びたいと思います。第一に、21節「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます」ということ。第二に、22節「御言葉を、行なう人になりなさい」ということ。第三に、27節「みなし子や、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」についてです。

 対話される神様

「御言葉は、魂を救う」の「御言葉」とは、聖書を通して語られる神様の言葉です。神様を知らなかった時、聖書は、私達にとって単なる一冊の本にすぎませんでした。しかし教会に通うようになり、あるいはその他の機会に、神様について、又、イエス様について学んでいくうちに私達の心は変化していきます。今までほとんど意識しなかった神様の存在が、少しずつ、はっきりしてきます。それまでは「祈る」対象(誰に向かって祈るか)が漠然としていましたが、神様は、天と地を創造し、私達に命を与え、私達の生も死も支配されるお方であることがわかってきます。そして人格を持ち(神様の場合は「神格」といいます)、私達の祈りに対して、神様は御言葉をもって私達と対話して下さることを知らされます。つまり、神様は偶像のような命がない神様ではなく、生きて働いておられ、この神様が私達の心に、魂に、働きかけて下さるのです。

 魂の救い

私達人間の心の中に罪が入り込んでからは、人間は神様から離れ、その結果、自分の欲望を制御することが出来なくなりました。現代社会は戦争が絶えず、テロやISのような暴力集団が生まれ、社会に不安と恐怖を与えています。その他、虐待、詐欺、贈収賄などの不正、又、家庭破壊から子供達に不幸な環境を与え、さらには殺人などの悲惨な事件もあとを絶ちません。これらすべては、人間が罪の支配のもとで生きている結果です。又、私達の心の中にも、時に、敵意や怒り、利己心、不和、ねたみなどが生れます。そのような、神様から離れた罪の世界から、神様は、私達を引き上げて、神様の支配のもとで生きていくようにして下さいました。これが罪からの救い・魂の救いです。魂の救いは、罪という鎖につながれて生きていた私達人間の、その鎖を、「十字架の死」によって断ち切って下さったイエス・キリストを、私の救い主と信じる時、起こるものです。19節に、「誰でも、聞くのに早く」とありますが、私達は神様の言葉を聞くことに鈍いのです。鈍いだけでなく、神様との対話を求めず、自分の論理で、解決しようとしてしまいます。私達はもっと真剣に、神様が語ろうとしておられることを正しく聞いていかねばなりません。

御言葉を行う人になる

第二の、「御言葉を行う人になる」とは、聞くだけに終らないということです。ここでは、聞いても行わない者は、顔を鏡に映して眺める人に似ていると言っています。私達は、鏡から離れれば、自分の顔をすぐ忘れるように、聞いても行わない者は、その御言葉をすぐ忘れてしまうのです。それに対して、聞いた御言葉を実践しようとする者は、「御言葉」が自分の内面を照らし、内面の本質にふれるのです。その時、何でもお出来になる神様が、必ずその御言葉を自分にさせて下さるとの確信のもとに祈り求め、たとえ時間がかかろうとも、それは成し遂げられるのです。「このような人は、その行いによって幸せに」(25節)なります。

私達の神様への奉仕

最後の27節では「みなしごや、やもめが困っている時に世話をすることと、「世の汚れに染まらないように自分を守ること」の二つを命じています。前者は、イエス様が教える隣人愛、具体的には「良きサマリア人」が示した愛です。後者は、神様を知らない人々の態度の中にある汚れを、自分の中に受け入れないようにすることです。私達は信仰によって、それらに染まらないように自分を守ることで、キリストの良き証人となるのです。この二つは神様への奉仕です。私達は今まで以上に、「魂を救う御言葉」を真剣に聞き、その実践者となり、神様の良き奉仕者とならせていただきたいと願うものです。

8月9日の説教要旨 「神の御心と律法」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:4-6・ルカ6:6-11

 はじめに

イエス様がこの世で宣教の旅をなさっていた時代には、ファリサイ派と呼ばれる人々や律法学者と言われる人々が、ユダヤ教の指導者として、人々の生活を導き、「先生」として尊敬されていました。この指導者達は自分達は神様から選ばれて「律法」というものをいただいていると教えていました。その「律法」の中心に「十戒」というものがあります。これは、「モーセ」を通して神がイスラエルの民に与えた教えです。「十戒」は旧約聖書の「出エジプト記20章」と「申命記5章」の2か所に記されています。十の教えの内、この時代には、「安息日を守りなさい」という教えが特に大事にされるようになっていました。旧約聖書から読み取ると、安息日を守る目的は二つです。一つは、神様が六日間でこの世を造り、七日目の日に安息されたという「天地創造の御業」を覚え、この日を聖別することです。もう一つは、奴隷として苦しんでいた民の叫びを神様が聞き届け、実際にこの世に働きかけて、民を救った事実を「安息日」に思い起こして感謝を献げるためです。ですから、「律法の核心」は、「神様の人間への愛」です。それは、「自ら罪に陥った人間を見捨てず、絶対に救う」という「無条件の愛」です。「神の愛」に感謝するために「安息日」があるのです。安息日の礼拝で感謝すると共に、いただいている「神の愛」にふさわしい生き方ができるよう、神様に祈り求めるのです。

 反対派(ファリサイ派や律法学者達)の目の前での癒しの御業

しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、前述の「律法の核心」を忘れ、安息日の外面的な細かい決まり(「安息日規定」)を守ることを強調して教えていました。安息日規定では、治療は労働と見なされて禁止されていました。命に関わることは例外ですが、「手の萎えた人」の治療は緊急事態ではなかったので、翌日に延期することが普通でした。ところが、イエス様は、神の御力を信じて癒して欲しいと心から願って御許に来た人を、「憐れみ」ゆえに待たせずに、すぐに癒されました。しかも、イエス様を訴えようとする反対派の真ん中に彼を立たせて堂々と癒されました!

 安息日に、反対派が「神の御心」を外れて行ったこと

癒しの御業をなさる前に、イエス様は反対派の人々を放っておくのではなく、問いかけをなさいました。彼らは恐らく安息日の礼拝の後だったにもかかわらず、人の落ち度を見つけようという心根で、事の成り行きを見つめていました。神様に献げる礼拝の後とは思えない、心得違いです。イエス様は、彼らの考えや行いが、神様の御心に適っていないと気づかせたかったのではないでしょうか。

 「全き善」であり、「命を与える」神様

安息日に律法で許されていることを問うイエス様の御言葉(9節)は、反対派の人々から答えをもらいたいのではありません。彼らが「律法の核心」に立ち返り、「全き善なる神様」・「命を与える神様」の御心を思い出させようとされるものです。彼らの答えを待つ必要もなく、「救い主」として、イエス様は「手の萎えた人」を癒して、苦境から救い出されました。イエス様は、安息日であろうとなかろうと、御許にやって来た人を憐れみ、命や御力を与えてくださるという「全き善」を、神様の御心どおりに行われました。

 「怒り狂った」反対派の人々

反対派の人々は、イエス様に出会い、イエス様に御言葉をかけられ、救いの御業を目の当たりにしました。「救いの御業」をたくさん受けていると言えるでしょう。ところが、彼らは、イエス様の「救いの恵み」に触れていながら、イエス様に従うどころか、背を向け、イエス様を亡き者にする謀略を練る方向へ走り出してしまいました。その果てが「主の十字架」です。「怒り狂う」という語の元々の意味は「無理解からくる怒りで満ち満ちて」というものです。自分達の考えや権威にしがみつく「自己中心の罪」によって、「救い主」の招きから外れ、罪を重ねる結果になっていったのです。私達は反対派のようになってはなりません。

 神の御心に従って「安息日」を守る

「律法の核心」について、イエス様は、ルカ10:25以降の「善いサマリア人」の箇所で、「全身全霊で神様を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」であると教えておられます。私達の場合で言えば、日曜日ごとの礼拝で、神様に感謝し、神の愛に応える生き方ができるように祈ることが大事です。また、救い主の恵みにより、永遠なる「安息」をいつもいただけるのですから、礼拝の日であろうとなかろうと、常に隣人を愛することができるよう、祈り続けたいものです。