6月21日の説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:7-10

ルカ福音書15:1-10

はじめに

ルカの福音書15章には、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえが記されています。イエス様がこれらのたとえを語られたのはエルサレムへ向かう旅の途上でした。エルサレムへの旅は、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(13:31)との忠告をうけながら、イエス様は、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と答えられ、その旅の行き着く先には、十字架の死が待っていることを、すでに承知されておられた旅でもありました。

ある注解書によれば、この15章は、ルカ福音書の心臓部と呼ばれているそうですが、それは、これらの譬えの中でイエス様がこの地上に来られた大きな目的が語られているからでしょう。今朝は、最初の二つのたとえについて、ご一緒に学びたいと思います。

ファリサイ派の不満・不平

1節に、徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうとして、イエス様に近寄ってきたとあります。徴税人(税の徴収者)も、罪人(律法を守れない人、守らない人、異邦人、遊女など)も、当時のユダヤ人社会からは疎外されていた人達です。それを見てイエス様のそばにいたファリサイ派や律法学者などは、イエス様に対して批判し、不平を言い出しました。彼らは律法に従い自分にも厳しく、正しく生きている人達であり、民衆の見本でもありました。彼らは、「律法」を忠実に守ることこそが救われる道であり、神の国に入ることが出来ると信じていましたから、神の国について教えているイエス様が、なぜ、神の国から遠く離れて生きている罪人たちを拒まず受け入れるのか、平気でつきあっているのか理解できなかったからでしょう。イエス様は、彼らの批判にこたえる形で、の三つの譬えを語られました。

見失った羊の譬え

最初のたとえは、100匹の羊を持っている主人が、一匹の羊を見失った時、99匹を野原に残して、いなくなった羊を捜しに行く話です。羊飼いには、持ち主自身が羊の世話をする場合と、雇われた羊飼いがいます。雇われた羊飼いであれば、周辺を捜して見つからなければ、岩山から滑り落ちたのか、オオカミの餌食になったのかもしれないと、あきらめて帰る場合でも、持ち主の羊飼いであれば、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」(4節後半)のです。母親が、わが子を捜し回るように、真剣に必死に、少しの物音にも注意を払いながら捜し、見つかるまでは決して帰らないという捜し方であり、ついに、羊を捜し出すのです。

悔い改める一人の罪人に伴う大きな喜び

羊を見つけ出した羊飼いは、疲れも忘れて羊を肩に乗せて帰り、友人や近隣の人々に報告し喜びを共にするのです。このたとえの羊飼いは、神様のこと、イエス様のことです。100匹の羊とは、すべての民です。ファリサイ派の人々や律法学者のような、律法を守る人達だけが数に入っているのではなく、徴税人や罪人と呼ばれる人達も、神様の愛する100匹の中の一匹です。しかしいろいろな事情のもとで、神様からも、律法で教える生活からも、遠く離れて生きている人々が「見失った羊」にたとえられています。その人達が、今、イエス様の話を聞きにやってきたのです。見失った羊が、今、羊飼いの所に戻ろうとしているのです。もし、徴税人や罪人がイエス様の話を聞いて、それまでの生活から神様に従う生活へと方向転換するならば、羊飼いの、見失った羊を見つけた時のあの大きな喜びが与えられ、その時、神様のおられる天においても、大きな大きな喜びがわき起こるのです。

一緒に喜んでください

「無くした銀貨」のたとえも、ある女性が、無くした銀貨一枚を必死で捜して、ついに見つける話です。彼女も、見つけた喜びを一人で喜ぶのではなく、友人や近所の人達を招いて、このことを報告し一緒に喜んでもらいます。いったんは手元から離れたものが、必死に捜すことによって再び戻ってくる・・。それが、失われた魂であったとするならば、再び神様のもとで新しく生きる魂の誕生の喜びは、どんなに大きな喜びとなるでしょうか。 これらのたとえは、正しく生きていると自負して、神様から離れている人達を嫌うファリサイ派や律法学者のような人達に、「わたしと一緒に喜んでください」とのイエス様の招きの声です。

6月14日の説教要旨 「岩の上に立つ教会」 平賀真理子牧師

詩編73:21-28

マタイ福音書16:13-20

はじめに

本日、仙台南伝道所の開設11周年記念感謝礼拝を献げることができ、今までの神様の恵みに感謝いたします。12年目の歩みに向けて、今日の聖書から、主の体の教会として立ち続けるために御言葉を学びましょう。

フィリポ・カイサリアの地方で

イエス様が福音宣教の拠点とされていたガリラヤ湖畔から、北東に40km離れたフィリポ・カイサリア地方は、ユダヤ人の心の故郷であるヨルダン川の源がある所でした。にもかかわらず、この土地は3つの意味で、聖書で証しされた神様とは敵対する神々で満たされていました。1つは、「バアル」という偶像崇拝の神々が祭られていたこと。2つ目は、ギリシア神話の神々の故郷とされ、その祠があったこと。3つ目は、ローマ帝国の皇帝の偶像を神として祭る神殿が建てられていたことです。このような異教の神々を祭っている地方の只中にあって、本当の神様の拠点(教会)を形成するために、イエス様は弟子達を教育し、御自分の十字架の死後、弟子達に福音宣教の御業を引き継がせる必要を切実に感じておられたのです。

弟子達はイエス様を何者だと思っていたのか?

この世での「神の国」の拠点としの教会を形成するにあたり、その礎となる弟子達が、まず、ご自分のことをどう理解しているか、イエス様は確認されたかったのでしょう。その核心の質問に入る前に、その周辺から聞き出しておられます。「人々は人の子(新約聖書でイエス様が御自分を表す表現)のことを何者だと言っているか。」弟子達の答えは、このマタイ福音書では具体的に4つ挙げられています。どれも当時のユダヤ人達が尊敬していた人の再来といえる優れた力を持った人間という意味です。人々はイエス様を尊敬しましたが、人間という枠の中でのことです。

弟子達への質問「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

この質問には、2つのキーワードがあります。1つ目は「言う」という言葉です。聖書の世界では、「言う」=「言葉を発する」ことを実に大切に考えます。「言葉を言う」とは、その内容を確信し、実際にそのとおりになると信じることを意味します。聖書の世界の人々は、言葉に対する信頼が私達よりずっと高いのです。2つ目は「あなたがた」という言葉です。弟子達が複数いたから、このように表現されたのであって、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と一人一人に尋ねておられるのです。私達も同じです。一人一人「イエス様を主と信じた者」が、集められた群れが「教会」です。

ペトロの信仰告白

イエス様の弟子達への質問に対して、シモンが受け止めて答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」「メシア」とは、「聖書の神様」が人間に送ってくださるという「救い主」のことです。罪におちた人間の罪を贖って、神様につなげてくださる御方です。「メシア」は人間ではなく、神の領域の御方です。だから、シモンの答えは、人々の答えとは一線を画しており、イエス様が本当に求めていた答えでした。また「生ける神」という言葉も大事です。なぜなら、異教の偶像で表される神々と違い、「聖書の神様は、御心に適う人々を救うために実際に働きかけて助けてくださる神様」と神様の御性質を言い得ているからです。

神様の働きかけによってなされる「信仰告白」

但し、シモンの信仰告白を、イエス様は「わたしの天の父による」ものだとおっしゃいました。直後の段落から見ても、シモン自身は、イエス様を救い主と深く理解していたのではないと思われます。それでも、神様の助けを受けながら、シモンが御自分を「救い主」と信仰告白したことをイエス様は祝福されました。

 「ペトロ」に続くように期待されている私達

この告白を受けて、イエス様はシモンに新しい名前を付けられました。その名前「ペトロ」は「岩」という意味です。聖書の神様への絶対的な信頼を表現する言葉として、「神は岩」と聖書には数多く記されています。その意味を持つ名前をシモンに付けられました。イエス様がいかに「ペトロの信仰告白」を喜ばれたかがわかります。ペトロへの主の御言葉「この岩の上に教会を建てる」とは「信仰告白したペトロの上に教会を建てる」という意味です。私達に一昨年与えられた教会堂の献堂記念の碑に「土台はイエス・キリストである(Ⅰコリント3:11)」とあります。その主が、教会の最初の礎の石としてペトロを堅く据えたと宣言されたのです。私達もペトロに続く者として期待されています。「あなたがたも生きた石として、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(Ⅰペトロ2:5)

6月7日の説教要旨 「宣教の収穫を求めて」 平賀真理子牧師

エレミヤ書16:16-21

ルカ福音書4:42-5:11

 

はじめに

本日の新約聖書の箇所は、2つの段落から成っています。出来事としては大きく2つに分かれますが、イエス様が最も大事になさったことにおいて、一つだとも言えます。それは、福音宣教を第一とするということです。

イエス様の使命

前半の段落(4:42―44)から、イエス様は人里離れた所で、父なる神様に祈っておられたと思われます(マルコ1:35)。神様から愛と力をいただき、前日の癒しの業の疲れを癒し、そしてまた今後歩むべき道を神様から示していただくために祈っておられたのではないでしょうか。主は御自分の使命をはっきりおっしゃいました。それは、神様が御自分の民として選ばれたユダヤの民を救うために、神の御子であるイエス様がユダヤ中を巡り歩き、「神の国の福音」を告げ知らせることでした。

「神の国の福音」

イエス様が宣べ伝えた「神の国の福音」とは、具体的にはどういう内容なのでしょうか。まとめるとだいたい、次のようになるでしょう。「神様はその本質である愛ゆえに、人間を篤(あつ)い思いで愛されており、罪におちた人間を救おうとされていること、(旧約)聖書に預言されている『救い主』がイエス様であること、神様から離れている今までの生活を悔い改めて『救い主』イエス様の教えに従うことにより、人間は神様と繋がって生きることができ、本当の幸せになれる」と。

主に再び出会うシモン

後半の段落(5:1-11)によると、押し寄せてきた大勢の群衆を教えるためにイエス様が乗った船の持ち主が、シモンでした。彼は、自分の家で姑や大勢の病人の病をイエス様が癒された御業を数多く見ました。イエス様の癒しの御言葉が現実になっていくのを、たくさん見たのです。イエス様の御力を凄いとは知っていたでしょう。しかし、それまでの出来事は、再び出会ったイエス様は、漁師であるシモンに向かって、「これから自分の言葉に従って漁をしなさい」と御言葉をかけられました。主の御言葉が、今度は自分に注がれました。ルカ福音書によると、シモンは、イエス様の御言葉の凄さを既に知っていたので、「あなたのお言葉ですから」と素直に従ったのです。

主の御前にひれ伏したシモン

シモン本人の上に、神の御子イエス様の御言葉が現実となる「神の御業」がはっきりと示されました。漁師の彼らが前の夜から行っていた漁では魚は全く取れなかったのに、イエス様の御言葉に従った時、大変な量の魚が捕れました。これを見たシモンは神様の前にもはや逃れることができない自分を見出したのでしょう。そしてイエス様の御言葉や御力を目の当たりにして、自分は神様にふさわしくない者だとの思いが沸き起こり、御前にひれ伏し、「罪の告白」をし、それ故に、今度はイエス様を「主よ」と心の底から受け入れることができました。神様の前にひれ伏して「罪の告白」をし、イエス様を主と受け入れるということを、素直に、すぐ行っている、ここにこそ、シモンが神様に愛される理由を垣間見ることができます。シモンはイエス様からペトロ(「岩」という意味)という呼び名をつけられ、愛されました。また、10節の「あなたは人間をとる漁師になる」というイエス様の御言葉どおり、神様によって招かれている人々を導いて「神の国の民とする」という役割を担い、果たしていくことになりました。具体的には、この世での「神の国」の前線基地である「教会(主を信じ従う群れ)」を導くリーダーとして用いられたことが、使徒言行録にも証しされています。

すべてを捨てて従う弟子達への祝福

この漁の奇跡を体験した3人の漁師達は最初の弟子達となる恵みを受けましたが、「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)ことが重要です。さて、私達はどうでしょうか。福音の素晴らしさを知らされていても、自分の持っているものをすべて捨てることは、大変難しいことです。けれども、今まで持っていた物や財産や、その多寡に頼るこの世の価値観では、神様に繋がる本当の幸せを得ることはできません。私達は教会に来て、福音を聞き、主の救いの御業を知らされたので、主に繋がりたいと望んでいます!「宣教の収穫」として、3人の弟子達と同じく、私達も、主が求めた「宣教の収穫」とされます。実に大きな恵みです。それに応えて「良い実である」と主にほめていただけるよう、歩みたいものです。

 

5月31日の説教要旨 「よく生きるということ」 牧師 佐々木 勝彦先生(東北学院大学教授)

詩編139:1-24
ヨハネ福音書9:1-12

はじめに
本日の旧約聖書の箇所は、詩編139編全編です。詩編とは、昔の人々の讃美歌です。当時の人々は節をつけて曲として歌っていました。今は、この旧約聖書にあるように歌詞だけが残っているというわけです。

詩編139編に示されている神様
詩編139編の幾つかに示されている神様、つまり、「聖書の神様」について、特徴を学んでいきましょう。
4節「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」神様は、私達人間が話すよりも前に、全てをご存じだということです。
19節「どうか主よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。」人間にはどうしても憎く思う人、許せないと思う人がいます。それを言葉に出せずにいると、その感情が内向きになり、うつ状態になります。素直に言葉に出してよいのです。但し、神様の御前で。この箇所にあるのは、人間の心からの素直な祈りを神様は必ず聞いてくださるという、神様への絶対的な信頼です。ただ、それだけではありません。
13節「あなたは、わたしの内蔵を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」生まれる前から神様がいらっしゃるのです。神様がいらっしゃるのを、私は後で知ったにすぎません。
これらのことから、次のことがわかります。日常生活において、私達は祈ることが出来なくなることがありますが、その時にさえ、神様が居てくださるのです。私達が祈る前に、既に、神様が私を知っておられるからです。更に言うと、神様が私のことを祈ってくださっている、つまり、私達は神様から祈られている存在だということです。そのことを知って生きることが「よく生きる」ということです。

「生ける神様」であるイエス・キリスト
人間は、問題を抱えて生きるものです。今日の新約聖書の箇所にも、大変な問題を抱えた人が出てきます。生まれつき目の見えない人です。このことについて、人間は、何か原因があるはずだと思うものです。ここにあるように「本人か、両親が罪を犯したからだ」などというように。しかし、そうではないのです。ここで、神様は、祈りを期待しているのです。人間は悪い思いで、裏切ったりするのですが、神様は決して裏切らないのです。どんな状況にあっても、「神の期待に応えて生きる」というのが、「よく生きる」ということです。
「目が見えない人」に対して、生ける神様であるイエス・キリストは、原因を究明するのではなく、「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃいました。神様は、この「目の見えない人」が、神様に祈り、信頼して生きること、つまり「よく生きる」ことを何よりも期待されていることを教えられました。

「祈り」について
神様さえ祈ってくださっていますし、私達人間も、手足が動かなくなっても他人のためにできることとして「祈る」ということがあります。この「祈る」ということが、即ち、「よく生きる」とも言えます。祈りの幅は世界に広がります。(若い学生達にも、地球の裏側をイメージして祈る人間になるよう、私は伝えています。)「祈る」という言葉を、別の表現をすれば、「期待する」ということです。また、「祈り合う」ということを通して、「祈りの友」ができます。それも本当に大きな恵みです。
「信仰」とは
ヨハネ福音書9:1以下の段落の「目の見えない人」についての主の御言葉「神の業が現れるため」(3節)は、私達一人一人に向けられているのです。このように生きることを「信仰」といいます。「チャレンジ」とも言えるでしょう。神の期待に応えようと、一歩前に出ることが大事です。

「ハレルヤ!」=「神様万歳!」
説教の前に讃美歌20番を歌いました。歌う機会の少ない讃美歌のようですが、歌詞の各節の最後にある「ハレルヤ!」の繰り返しが特徴です。「ハレルヤ」とはどういう意味か、御存知でしょうか?「神様万歳!」という意味で、喜びの爆発の言葉なのです。このような「神様に向かっての祈りの言葉を持てるか?」が信仰生活には大切です。祈りの言葉の中でも是非覚えてほしいのが、「主の祈り」です。この祈りをどんな時にも祈る信仰者となっていただきたいと思います。

5月24日 説教要旨 「聖霊を注がれた者」 牧師 平賀 真理子

ヨエル書 3:1-5

使徒言行録 2:22-36

 

はじめに

本日は、聖霊降臨日礼拝(ペンテコステ礼拝)を献げる日です。主の復活後に起こった「ペンテコステ」の出来事と意味を学びたいと思います

ペンテコステの出来事

私達の主イエス・キリストは十字架にかかって亡くなったのですが、その後3日目に復活し、弟子たちの前で、復活の御体のまま、食事をされたり、神の国についてのお話をされました。これについては、多くの証人がいました(Ⅰコリント15:3-8)。ナザレの人イエスと呼ばれた主の復活は、重要な弟子達である「使徒達」だけによる作り話や幻想ではなくて、500人もの弟子達も体験したという客観的な事実であったわけです。復活顕現の40日間の後、イエス様は、使徒達の前で天に昇られたと使徒言行録1章9節で証しされています。更にその後、即ち、主の最初の復活顕現から50日目の「五旬祭」の日に、「ペンテコステ」の出来事が起こりました。「ペンテコステ」とは、ギリシア語で「50番目の」という意味があります。元々イスラエルの民は、過越祭直後の安息日から50番目の日に小麦の収穫を感謝する祭りを行ってきました。後に、この祭りの日には、モーセが神様から「十戒」を授かったことを記念するようになりました。それに因んで、「五旬祭」には天が開かれて、そこから新しい掟が降りてくると考え、前夜から一睡もしないで、天を見つめて、どこかが開くのを待っている人々も多くいたようです。この日の朝、主の弟子達は心を合わせて祈っていました(使徒言行録1:14)。そこへ、激しい風のような音が天から聞こえ、弟子達の居る家に響き渡ったのですから、エルサレム中の人々が集まってきたのも無理はありません。人々が見たのは、炎のような舌が分かれ分かれにに現れ、弟子達一人一人の上にとどまったという様子です。「炎のような舌」と表現されたものこそ、主が十字架にかかられる前に約束された「聖霊」だったのです(ヨハネ福音書14章~16章)。「聖霊」を受けた弟子達が自分達で習得したのではない様々な外国語で、神の偉大な業を語りだしたということは、「炎のような舌」が「聖霊」であることの何よりの証しだと言えます。「聖霊」とは、「神様の霊」です。聖書で証しされる神様は、御子イエス様を救い主としてこの世に遣わされ、救いの御業を託されました。神の偉大な業とは、イエス様による救いの御業、つまり主は十字架によって罪深い人間の罪を贖い、そのことによって父なる神様がイエス様に「復活」という栄光を賜り、それを信じる者が救われるということです。神様の御心である「人間への愛」によるものです。それを「炎のような舌」と表現された「聖霊」が、さまざまな言葉で語ったというのが、「ペンテコステの出来事」の概要です。

 聖霊を注がれた者としてのペトロの説教

「聖霊」を注がれ、神の偉大な業を聖霊によって語り出した弟子達の中でも、主の一番弟子だった「ペトロ」が、最初に、力強く行ったことは、人々に説教することでした。まず、「ペンテコステ」の出来事は、旧約聖書で預言された「終末の日」の中の「主の霊」が注がれることの実現だと宣言しました。そして「主の霊を注ぐこと」が出来るのは、神様の計画によって十字架で死んだ後に復活し、天に昇り、今や神と同じ地位にいる「救い主」しかできない、それが、イエス様であることを証ししました。敬愛されているダビデ王の子孫から生まれる「救い主」とは、イエス様以外にあり得ないと説教したのです。特に、ペトロが、この説教で強調したのは、「神様が遣わされた『救い主イエス・キリスト』を、御計画とは言え、イスラエルの民は十字架につけて殺したのですよ、その罪はどんなに重いのか、気づきなさい。」ということです。この説教を聞いて心打たれた人々は、ペトロに、今後のとるべき行動の指示を仰いでいます。主の十字架の出来事の直前では人々から逃げ隠れしていたペトロでしたが、今や、ペトロに教えを請うています。これは、聖霊を注がれた結果、ペトロを通して、聖霊が働き、人々を救うために説教する力を与えてくださった証しです。十字架を前にイエス様を裏切ったにもかかわらず赦された経験を持つペトロは、主に赦されて聖霊を注がれ、新たにされる恵みを心底知っていました。だから、自分の罪を悔い改め、イエス様の御名による洗礼を受けて、罪が赦され、聖霊を受ける恵みを説教するために主に用いられたとも言えます。この説教により、3千人の信徒が生まれ、「教会」が誕生しました。彼らにだけでなく、信じる者達に、主は聖霊を注いでくださいます。イエス・キリストを頭とした教会(主の体)の一部を担えるように、私達にも聖霊を注いでくださるように主に祈り求めましょう。

5月17日 説教要旨 「イエス・キリストの昇天」 牧師 佐藤 義子

イザヤ書 55:6-13

使徒言行録 1:3-11

 

はじめに

本日の聖書、使徒言行録1章3節には、イエス様が十字架の苦難を受けられて死なれた後、三日目に復活され、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒達に示し、40日にわたって彼らに現れたと記されています。

そしてこの後、天に上げられた出来事が続いて記されています。

イエス様が天に上げられたことを、「昇天」と言い、私達クリスチャンが神様のもとに召される「召天」とは区別されて使われています。

今朝は、復活されたイエス様が昇天される前に、弟子達に対して、何をなさり、どのような言葉を残されたのかを、ご一緒に学びたいと思います。

 

「生きている」ことを示された

先ず注目したいのは、イエス様が、ご自分が生きていることを弟子達に示されたことです。イエス様は確かに十字架で殺され死なれました。そしてお墓に葬られました。しかし「復活の命」を神様から与えられて、イエス様は生きたお方として40日にわたり弟子達の前に現れました。もう二度と死ぬことのない復活の命です。初めはイエス様の復活を信じようとしなかった弟子達でしたが、現実にイエス様を目の当たりにして、恐れながらも喜びに満たされて信じたことが福音書に記されています。弟子達はイエス様が確かに生きておられることをはっきり認識して、これから始まる、死に勝利されたイエス様の復活の証人としての準備が整えられていきます。

 

「神の国について話された」

第二に注目したいことは、イエス様が40日にわたり、何をされたかということです。3節には「神の国について話された」とあります。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を授けられて、最初に宣教された言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:14)でした。イエス様は十字架にかかられる前の宣教の中でも、度々、神の国について、たとえを用いながら語られていました。そして今、神の元へと帰られる、この時まで、引き続いて神の国について話されました。

このことから、イエス様がこの地上に来られた目的の一つは、神の国について教え、伝えることであったことを知らされます。イエス様が生涯を貫いて私達に語り伝えようとされた「神の国」とは何でしょうか。

 

「神の国」

神の国とは神様のご支配です。「神の国は近づいた」という意味は神様のご支配が、イエス様の到来と共に、その宣教と業において、今、ここに来りつつある、ということです。ある神学者はこのように表現しています。「太陽が、まだ地平線に現れなくても、暗闇が次第に消えて、空が白んでくるのにたとえられる」と。

イエス様が来られた目的のもう一つの使命には、ある決定的な出来事の遂行がありました。それが「十字架の死」です。イエス様の十字架は私達のすべての罪を、イエス様がご自分の罪として引き受けて下さり、その罪に対する報いとしての刑罰の死でもありました。罪のないイエス様が十字架で血を流された、その死により神様は私達のすべての罪を赦して下さった!このことを信じる時、私達に、悔い改めて福音を信じる信仰が与えられ、神様のご支配が私の生活の中に入ってくるのです。

使徒達への命令

復活されたイエス様は、「エルサレムから離れずに、神様が約束されていた聖霊を待つように」と命じられました。

「聖霊」はイエス様が十字架にかかられる前に約束されたものです。イエス様が昇天される時、使徒達はイスラエルの国の再建について尋ねましたが、イエス様は、イスラエル再建の時とか時期については、「あなたがたの知るところではない」と答えられ、神様に全権を委ねるべき事柄をわきまえるように教えられました。そしてそれよりも、使徒達にとって最も大切なことを宣言されたのです。それは「あなたがたの上に精霊がくだると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

私達が、この山田の地で、神の国の福音を聞ける大いなる恵みは、この言葉から始められたのです。私達はこの福音の、継承者とされています。

5月10日 説教要旨 「多くの病人の癒し」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-107
ルカ4:38-41

はじめに
今日の聖書箇所の直前で、イエス様は故郷の町ナザレで、ご自分を救い主と宣言されましたが、故郷の人々はそのことを受け入れず、イエス様は同じガリラヤ地方の別の町カファルナウムへ移られたと記されています。
イエス様は、その町の会堂の礼拝で話された後、神様からいただいている権威と力とによって悪霊を追い出されたのです。

シモン・ペトロの姑の癒し
ここで言われている「シモン」とは、後にイエス様の一番弟子として用いられたシモン・ペトロのことです。本名は「シモン」ですが、イエス様が「岩」という意味の「ペトロ」という呼び名をつけられたので、聖書では「ペトロ」とよく書かれている弟子です(口語訳聖書では「ペテロ」となっています)。ペトロは会堂でイエス様の大変な権威と力を知り、イエス様なら自分の姑の熱を引き起こしている悪霊を追い出していただけると確信したのでしょう。
イエス様は会堂の礼拝でお話をなさり、更に悪霊を追い出したのですから、大変お疲れになっていたにもかかわらず、自らの疲れを差し置いて、ペトロ達の願いに応じました。相手の辛い気持ちに心を寄せ、その状況から救おうと働かれる「主の憐み」が表れています。このルカによる福音書では、イエス様は「熱を叱りつけて」とありますが、それは、高熱を引き起こす悪霊を叱りつけたという意味です。イエス様は「救い主」が持っていると考えられていたとおりの権威と力で、この姑から悪霊を追い払い、高熱を下げてくださったのです。

シモン・ペトロの家での多くの病人の癒し
元気になったシモン・ペトロの姑が最初にしたことは、イエス様一行をもてなすことでした。自分のことより人のために働くことを選ぶ性質と、イエス様の人のために尽くす本性が同じもので、この二つが呼応し合い、「神の国」にふさわしい土台になったと思われます。
「救い主」と良き交わりを築いたシモン・ペトロの家で、多くの病人の癒しの奇跡がたくさん行われました。「救い主」を受け入れなかったナザレではなくて、受け入れたカファルナウムの町で、更に、信頼を篤く寄せるシモン・ペトロの家で、イエス様は人々に「病の癒し」という奇跡をなさいました。

「罪からの解放」としての「病の癒し」
この世の長である悪魔の人間への支配の一つの形態が「病」です。旧約聖書のイザヤ書42章や61章にあるように、「神の霊が注がれた者」「主の僕」、つまり「救い主」がなさる救いの御業の一つは、「悪魔(または手下の悪霊)からの解放」であり、この世でそれを実際に顕著にするものの一例は「病からの解放」、つまり「病の癒し」です。これをイエス様が実際におできになるということは、イエス様が、予言された「救い主」であることの証拠の一つだと言えるのです。

追い出された「悪いもの」
イエス様の「病の癒しの御業」の特徴は、悪い症状の原因となっているものをまず追い出すことです。「悪霊の追い出し」です。悪霊は、イエス様のことを「神の聖者」(34節)「神の子」(41節)と呼んでいます。つまり「メシア(救い主)」と知っていたのです(41節)。ところが、本質を知っているにもかかわらず、へりくだって従おうとはせず、言葉においても否定的で、主に逆らったままで、良い方向に変わろうとしません。そのような傲慢な者は、この世の主権を取り戻した主から、永遠に追い出される定めにあることを私達は肝に銘じなければなりません。

癒された人々=私達
私達は、2000年前に癒しを求めてイエス様の所にやってきた人々と同じではないでしょうか。私達はイエス様の福音の素晴らしさを聞いて、主の御体としての教会にやってきました。イエス様の御許に救いを求めて来て、本当に救われたという点で、癒された病人達と同じです。ならば、イエス様の御言葉によって、自分を明け渡して私達を苦しめるものをきっぱり追い出していただいているでしょうか。私達はまず、この世の中で生きねばならないので、この世の権威や力に影響を受けやすいのです。私達は、礼拝を通して主に繋がろうと気を付けていなければ、救われる前に支配されていた、この世で力を持つ「人間」や「考え方」や「お金」に頼る生き方に引き戻されます。その生き方を警戒するよう言われた御言葉を紹介します。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(この世で必要な物)はみな加えて与えられる。(マタイ6:33)」

「主にのみ仕える」佐藤 義子牧師

2015-02-22-Sun 説教要旨   「主にのみ仕える」   牧師 佐藤 義子

申命記6:13-19

ルカ福音書4:1-13          

はじめに

今日の聖書は、イエス様の荒れ野の誘惑の出来事です。この出来事は、イエス様が成長されて、神様から神の御子としての働きへと召し出す声を聞かれ、ヨルダン川バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた直後のことでした。神の御子としての働きを始めるそのスタートを切る直前に、イエス様は、神様によって荒れ野に導かれ、悪魔の誘惑を受けられました。悪魔の原語の意味は「悪しき告発者」です。悪魔の力は私達の罪の上に立ち、私達を滅ぼすために私達の罪を大きく明瞭にします。そして、私達の悪を探し出し、告発し、人間と神とを分離・敵対させるのが仕事です。荒れ野での誘惑も、イエス様と神様との深い交わりを絶つことが目的でした。

荒れ野の誘惑の意味

イエス様の、神の御子としての働きとは、すべての人を神様のもとに立ち帰らせること、すべての人が悔い改めを通して罪の赦しが与えられ、神の国の民とされること、すべての人がイエス様を神の御子と信じイエス様に従うことです。この目的のために、イエス様はこれからどのような方法・仕方でご自分を人々の前に現わされようとしているのか。神様は、御子イエス様が、その使命を果たされるにあたり、その姿勢と覚悟を、この世の闇の支配者である悪魔の前で明確になさるために、荒野へ導かれたように思います。2節には、イエス様が40日間、何も食べずに空腹を覚えられたとあります。40日の断食後の空腹感は、私達の想像を絶するものであったでしょう。肉体を持つ人間の極限状況の中で、悪魔はイエス様を、三度にわたって、自分の支配下に置こうと誘惑を試みるのです。

「石をパンに変えよ」

空腹のイエス様に、悪魔は「あなたが神の子ならば、石をパンに変えよ」と誘惑した目的は、自分の命を保つためならば、神の子に与えられている奇跡を行う力を使っても何の問題もないだろうというわけです。拡大解釈するならば、石を(人間の命を基本的に支える)パンに変える奇跡を行うなら、イエス様が人々にご自分を神の子と信じさせる目的は、成功するだろうとの誘惑があります。(ヨハネ6:26参照)。イエス様はこの誘惑に対して、申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と答えられました。神様を信頼して生きる者は、生命維持のために自分の力でパンを獲得するのではなく、養って下さる神様から必要なものを受け取ること、又、命を支える手段はパンだけではない。神様が「光あれ」と言われて光があったように、神様が「生きよ」と言って下さるなら、私達には生きる道が備えられるということです。大切なことは、私達の肉体への配慮ではなく、私達の魂が神様に向かい、神様からの言葉と神様の命をいただくことです。

「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

第二の誘惑は、「全世界の国々のすべての権力と繁栄を与える」です。イエス様がこれから人々に伝道していく時、何か手段となるような地位も栄誉も権力も富も何もありません。それに対して悪魔はそれらすべてを持ち、多くの人々はそれを得ようと必死です。そこで悪魔は、もしもイエス様が「神様」にではなく「悪魔」にひれ伏すなら、それらすべてを与えると誘いました。悪魔は、この世における悪魔の支配をイエス様に承認させようとしたのです。この誘惑に対し、イエス様は申命記6章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕える」の御言葉で退けました。ここに「神様への無条件の信頼」と「神様への完全な服従」があります。

「神殿の屋根から飛び降りてみよ」

第三の誘惑は、悪魔が聖書の言葉「どこにおいても、天使が助ける」(詩編91:11-12)をもって、イエス様に「神の子」証明をさせることでした。しかしイエス様は、ご自身が神の子であることを証明するために神様が天使を遣わされることを良しとされませんでした。神殿から飛び降りることは神様の御命令ではありません。御命令でなければ何もしない。ただ神様に服従して導きを待つ。イエス様は、申命記6章16節「あなた達の神、主を試してはならない」で答えられました。こうしてイエス様は、私達信仰者にも、悪魔の誘惑に勝利する道を明らかに示されたのです。神様に対するゆるぎない信頼と完全な服従、生も死もすべては神様の御手の中にあるゆえ、神様に自分の全存在を委ねる道です。