5月10日 説教要旨 「多くの病人の癒し」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-107
ルカ4:38-41

はじめに
今日の聖書箇所の直前で、イエス様は故郷の町ナザレで、ご自分を救い主と宣言されましたが、故郷の人々はそのことを受け入れず、イエス様は同じガリラヤ地方の別の町カファルナウムへ移られたと記されています。
イエス様は、その町の会堂の礼拝で話された後、神様からいただいている権威と力とによって悪霊を追い出されたのです。

シモン・ペトロの姑の癒し
ここで言われている「シモン」とは、後にイエス様の一番弟子として用いられたシモン・ペトロのことです。本名は「シモン」ですが、イエス様が「岩」という意味の「ペトロ」という呼び名をつけられたので、聖書では「ペトロ」とよく書かれている弟子です(口語訳聖書では「ペテロ」となっています)。ペトロは会堂でイエス様の大変な権威と力を知り、イエス様なら自分の姑の熱を引き起こしている悪霊を追い出していただけると確信したのでしょう。
イエス様は会堂の礼拝でお話をなさり、更に悪霊を追い出したのですから、大変お疲れになっていたにもかかわらず、自らの疲れを差し置いて、ペトロ達の願いに応じました。相手の辛い気持ちに心を寄せ、その状況から救おうと働かれる「主の憐み」が表れています。このルカによる福音書では、イエス様は「熱を叱りつけて」とありますが、それは、高熱を引き起こす悪霊を叱りつけたという意味です。イエス様は「救い主」が持っていると考えられていたとおりの権威と力で、この姑から悪霊を追い払い、高熱を下げてくださったのです。

シモン・ペトロの家での多くの病人の癒し
元気になったシモン・ペトロの姑が最初にしたことは、イエス様一行をもてなすことでした。自分のことより人のために働くことを選ぶ性質と、イエス様の人のために尽くす本性が同じもので、この二つが呼応し合い、「神の国」にふさわしい土台になったと思われます。
「救い主」と良き交わりを築いたシモン・ペトロの家で、多くの病人の癒しの奇跡がたくさん行われました。「救い主」を受け入れなかったナザレではなくて、受け入れたカファルナウムの町で、更に、信頼を篤く寄せるシモン・ペトロの家で、イエス様は人々に「病の癒し」という奇跡をなさいました。

「罪からの解放」としての「病の癒し」
この世の長である悪魔の人間への支配の一つの形態が「病」です。旧約聖書のイザヤ書42章や61章にあるように、「神の霊が注がれた者」「主の僕」、つまり「救い主」がなさる救いの御業の一つは、「悪魔(または手下の悪霊)からの解放」であり、この世でそれを実際に顕著にするものの一例は「病からの解放」、つまり「病の癒し」です。これをイエス様が実際におできになるということは、イエス様が、予言された「救い主」であることの証拠の一つだと言えるのです。

追い出された「悪いもの」
イエス様の「病の癒しの御業」の特徴は、悪い症状の原因となっているものをまず追い出すことです。「悪霊の追い出し」です。悪霊は、イエス様のことを「神の聖者」(34節)「神の子」(41節)と呼んでいます。つまり「メシア(救い主)」と知っていたのです(41節)。ところが、本質を知っているにもかかわらず、へりくだって従おうとはせず、言葉においても否定的で、主に逆らったままで、良い方向に変わろうとしません。そのような傲慢な者は、この世の主権を取り戻した主から、永遠に追い出される定めにあることを私達は肝に銘じなければなりません。

癒された人々=私達
私達は、2000年前に癒しを求めてイエス様の所にやってきた人々と同じではないでしょうか。私達はイエス様の福音の素晴らしさを聞いて、主の御体としての教会にやってきました。イエス様の御許に救いを求めて来て、本当に救われたという点で、癒された病人達と同じです。ならば、イエス様の御言葉によって、自分を明け渡して私達を苦しめるものをきっぱり追い出していただいているでしょうか。私達はまず、この世の中で生きねばならないので、この世の権威や力に影響を受けやすいのです。私達は、礼拝を通して主に繋がろうと気を付けていなければ、救われる前に支配されていた、この世で力を持つ「人間」や「考え方」や「お金」に頼る生き方に引き戻されます。その生き方を警戒するよう言われた御言葉を紹介します。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(この世で必要な物)はみな加えて与えられる。(マタイ6:33)」

「主にのみ仕える」佐藤 義子牧師

2015-02-22-Sun 説教要旨   「主にのみ仕える」   牧師 佐藤 義子

申命記6:13-19

ルカ福音書4:1-13          

はじめに

今日の聖書は、イエス様の荒れ野の誘惑の出来事です。この出来事は、イエス様が成長されて、神様から神の御子としての働きへと召し出す声を聞かれ、ヨルダン川バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた直後のことでした。神の御子としての働きを始めるそのスタートを切る直前に、イエス様は、神様によって荒れ野に導かれ、悪魔の誘惑を受けられました。悪魔の原語の意味は「悪しき告発者」です。悪魔の力は私達の罪の上に立ち、私達を滅ぼすために私達の罪を大きく明瞭にします。そして、私達の悪を探し出し、告発し、人間と神とを分離・敵対させるのが仕事です。荒れ野での誘惑も、イエス様と神様との深い交わりを絶つことが目的でした。

荒れ野の誘惑の意味

イエス様の、神の御子としての働きとは、すべての人を神様のもとに立ち帰らせること、すべての人が悔い改めを通して罪の赦しが与えられ、神の国の民とされること、すべての人がイエス様を神の御子と信じイエス様に従うことです。この目的のために、イエス様はこれからどのような方法・仕方でご自分を人々の前に現わされようとしているのか。神様は、御子イエス様が、その使命を果たされるにあたり、その姿勢と覚悟を、この世の闇の支配者である悪魔の前で明確になさるために、荒野へ導かれたように思います。2節には、イエス様が40日間、何も食べずに空腹を覚えられたとあります。40日の断食後の空腹感は、私達の想像を絶するものであったでしょう。肉体を持つ人間の極限状況の中で、悪魔はイエス様を、三度にわたって、自分の支配下に置こうと誘惑を試みるのです。

「石をパンに変えよ」

空腹のイエス様に、悪魔は「あなたが神の子ならば、石をパンに変えよ」と誘惑した目的は、自分の命を保つためならば、神の子に与えられている奇跡を行う力を使っても何の問題もないだろうというわけです。拡大解釈するならば、石を(人間の命を基本的に支える)パンに変える奇跡を行うなら、イエス様が人々にご自分を神の子と信じさせる目的は、成功するだろうとの誘惑があります。(ヨハネ6:26参照)。イエス様はこの誘惑に対して、申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と答えられました。神様を信頼して生きる者は、生命維持のために自分の力でパンを獲得するのではなく、養って下さる神様から必要なものを受け取ること、又、命を支える手段はパンだけではない。神様が「光あれ」と言われて光があったように、神様が「生きよ」と言って下さるなら、私達には生きる道が備えられるということです。大切なことは、私達の肉体への配慮ではなく、私達の魂が神様に向かい、神様からの言葉と神様の命をいただくことです。

「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

第二の誘惑は、「全世界の国々のすべての権力と繁栄を与える」です。イエス様がこれから人々に伝道していく時、何か手段となるような地位も栄誉も権力も富も何もありません。それに対して悪魔はそれらすべてを持ち、多くの人々はそれを得ようと必死です。そこで悪魔は、もしもイエス様が「神様」にではなく「悪魔」にひれ伏すなら、それらすべてを与えると誘いました。悪魔は、この世における悪魔の支配をイエス様に承認させようとしたのです。この誘惑に対し、イエス様は申命記6章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕える」の御言葉で退けました。ここに「神様への無条件の信頼」と「神様への完全な服従」があります。

「神殿の屋根から飛び降りてみよ」

第三の誘惑は、悪魔が聖書の言葉「どこにおいても、天使が助ける」(詩編91:11-12)をもって、イエス様に「神の子」証明をさせることでした。しかしイエス様は、ご自身が神の子であることを証明するために神様が天使を遣わされることを良しとされませんでした。神殿から飛び降りることは神様の御命令ではありません。御命令でなければ何もしない。ただ神様に服従して導きを待つ。イエス様は、申命記6章16節「あなた達の神、主を試してはならない」で答えられました。こうしてイエス様は、私達信仰者にも、悪魔の誘惑に勝利する道を明らかに示されたのです。神様に対するゆるぎない信頼と完全な服従、生も死もすべては神様の御手の中にあるゆえ、神様に自分の全存在を委ねる道です。