2020年3月8日の説教要旨 詩編51:3-6・ヨハネ福音書1:29-34

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐々木哲夫先生

*はじめに

恥の文化 江戸時代の大阪商人は、商いの契約書に次のような但し書きを書いていました。「この契約書に決して違反いたしません。万が一、背くようなことがありましたら、万座の中でお笑いくださっても少しも恨みとは存じません。」

信用を旨(むね)とする商人にとって万座の中で恥を掻(か)くことは最高の罰でした。但し書きを読むと、単に世間体を気にするという表面的なことではなく、名誉を重んじる商人たちの価値観が伺えます。日本の文化を恥の文化と称し、罪の文化である西洋と対比して論じられることが少なくありません。確かに恥をかかないようにとの気持ちから一生懸命に努力することに私たちは共感できます。日本文化の本質的な特色なのでしょう。

恥の文化にある者が罪の概念を理解することは、心の中の価値観に変革を求める事ですので簡単なことではないと思われます。

*罪の文化  

恥の文化では、人が見ているか見ていないかという外面的な拘束力(こうそくりょく)に行動の動機を見出すのに対し、罪の文化では、誰が見ていなくても神様が見ている、天に恥じることのないようにという内面的な拘束力に基づいて行動します。例えば、モーセの十戒を何故守るのか。社会的秩序を維持するため、とのこともありますが、それ以上に、十戒は、神と人との間に結ばれた契約であり、神との約束であるから守るというのです。

ですから、誰も見ていないから盗む、他に目撃者がいないから自分に都合の良い偽りの証言をするということは、神との約束を破る、すなわち神に対して罪を犯すことになります。

*三つの「つみ」

旧約聖書の原文には「つみ」を表す言葉として主に三つの単語が使われています。「背(そむ)きの罪」「咎(とが)」そして「罪」と邦訳されている単語の三種類です。「罪」は「罪」なのだから「罪」という一つの日本語で表現すれば良いと思われるかもしれません。単語が三種類あるということは、ユダヤ人の罪に対する思い入れがあるからです。

日本人は天から降ってくる雨に思い入れがあります。例えば、春雨(はるさめ)、

五月雨(さみだれ)、梅雨(ばいう)、小糠雨(こぬかあめ)、夕立、秋雨(あきさめ)、時雨(しぐれ)、小雨(こさめ)、涙雨(なみだあめ)など、日本語の雨に関する単語は豊富で400語、もしくは1200語もあると言われております。それは、日本人の雨に対する繊細な感覚の現れでもあります。

*背(そむ)きの罪

本日の旧約聖書箇所の詩編51編3節を見てみます。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

ダビデは「背(そむ)きの罪」を拭(ぬぐ)ってもらいたいと神に嘆願しています。

「背きの罪」とは、主人などを欺(あざむ)き反逆する罪のことです。例えば、牛、ろば、羊、上着、遺失物など巡って所有権を争い、裁判になり、有罪とされた場合の罪もこれに相当します。(出エジプト22:9)

*咎(とが)

4節には「咎(とが)」という表現があります。「咎」は、自分の好き勝手な判断で規則を破ってしまうことを意味しています。衣服を洗うことや沐浴(もくよく)をせよと命じるレビ記の規則に従わない罪を原文では同じ単語なのですが、「咎(とが)」ではなくレビ記では「罪責」と邦訳しています。(17:16)

*罪                       

 4節のもう一つの表現、ただ単に「罪」と記されている単語は、旧約聖書に300回以上も記されています。これは「あるべき道からは外れて不注意にも迷ってしまっている状態」を意味します。例えば、働いた人に賃金の支払いをせずに、働いた人から訴えられた場合の罪も含まれています(申24:15)。

わずか三種類の言葉ですが、私の行為がどの罪に問われるだろうかと考えさせられ、罪に敏感になってしまいます。ダビデは詩編51編において三種類の罪の言葉を13回も使って自分の犯した罪を全部ひっくるめて神に悔い改めを祈っています。

*責任ということ

罪に敏感になると、反面、罪に応じて下される罰はいかなるものかと気になります。旧約聖書を読みますと、例えば、自分の所有している牛が人を突(つ)く癖(くせ)を持っていることを事前に知っていたか、いなかったかで罰の程度が変わります。事件の加害者が、過失か故意かによっても変わります。心の中で自分の兄弟を憎んだか、憎まなかったのか、など内面的な動機も問われます。複雑(ふくざつ)多岐(たき)で詳細(しょうさい)な吟味(ぎんみ)が求められるので、律法の専門家でないと罪の解明(かいめい)が難(むずか)しくなってしまいます。神に対し罪を犯さないためには一体どうしたらよいかと途方に暮れてしまいます。

身近な例によって考えてみたいと思います。小学校6年生教科書『国語(下)』(昭和56年光村図書発行)に小児科医で思想家の松田道雄さんが書いた「責任というもの」という興味深い論説文が載っておりました。

要約して引用してみます。

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小学生の男の子たちが広場で野球をしていました。一人が打ったボールがフェンスを越えて向こうの家の窓ガラスを割ってしまいます。みんな一斉に逃げようとしますが、出口のところで校長先生に出会ってしまいます。そして、誤(あやま)りにせよ物を壊(こわ)したら持ち主に謝(あやま)らないといけないと注意されます。校長先生に言われたので、謝りに行ったとするならば、それは生徒としての義務を果たしたことになる。もし誰にも言われなくとも自分の意思で謝りに行ったのならば、それは壊したことの責任を取ったということです。規則などで縛(しば)られてではなく、自分の威厳(いげん)にふさわしいように振舞(ふるま)うことが責任です。責任は、人間にとって義務よりも大事なものです。

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このような論説文を読むと、規則や定めを熟知(じゅくち)していなくとも、神の似姿である人間の威厳(いげん)にふさわしく責任ある振る舞うことの大事なことが理解できます。人間には、自分の行動が神に喜ばれることか、厭(いと)われることか、を自主的に判断する能力が備わっているのです。

*取り除く=引き取る

 とはいえ、神の前で罪を犯してしまったらどうしたら良いのでしょうか。本日読みました新約聖書の箇所において、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが自分の方に歩いてくるのを見て、

見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っております。すなわち、どんな罪でも取り除くことのできるお方であるとバプテスマのヨハネはイエスキリストの真の姿を見抜いたのです。

「取り除く」という表現には「取り除いてポイと捨てる」というニュアンスだけではなくもう一つ意味があります。それは、「担う、背負う」とのニュアンスです。例えば、復活の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストの遺体が収められているはずの墓に行きます。しかし、イエス・キリストの遺体のない空っぽの墓を見て泣き出してしまいます。その時、復活のイエス・キリストが「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」とマリアに声をかけます。その人物がイエス・キリストであることを認識できず、園(その)の管理人と間違えてしまったマリアは、

あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と語りかけます。

マリアの最後の言葉「引き取る」が「取り除く」と同じ原語なのです。

バプテスマのヨハネは

見よ、世の罪を引き取る(引き受ける)神の小羊

と言ったのです。それは、世の罪を引き受け、罪の赦しを実現した イエスキリストの十字架を連想させるものでした。

2020年3月1日の説教要旨

 創世記28:10-22・ヨハネ福音書1:43-51

         「最初の弟子たち②」    平賀真理子先生

*はじめに

 前回、1か月前の礼拝説教で、今日の箇所の直前をお話しました。その時、主の本当の弟子として招かれた者は、主の許に留まり続けることを期待されていると話しました。今日の箇所では、主の許に留まり続けた結果、どうなるのかが示されています。共に読み進めてまいりましょう。

*新しく加えられた弟子たち ―フィリポとナタナエル―

 今日の新約聖書箇所の直前で、アンデレやシモンなど3人がイエス様の弟子となったと記されていました。続いて今日の箇所では、新たに2人の弟子が加えられます。フィリポとナタナエルです。フィリポは、他の3つの福音書にも名前が出ています。しかし、ナタナエルは、他の福音書では同じ名前は出ていません。ただ、常にフィリポの後に書かれている「バルトロマイ」と同じ人で、別の呼び名だろうというのが通説です。

*イエス様とフィリポとの出会い

 イエス様とフィリポとの出会いでは、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われ(43節)、フィリポはすぐに従ったようです。フィリポはナタナエルに対し、イエス様を「旧約聖書で預言された救い主である」(45節)と証ししました。短い時間でフィリポはイエス様を本当の救い主とわかるように、聖霊に導かれたのだと思われます。

 もう一つ特筆すべきことは、フィリポの言葉「来て、見なさい」(46節)です。実はこの言葉は、直前の段落の39節のイエス様の御言葉と同じだからです。一番最初の弟子となった2人に対して、イエス様が語った御言葉が「来なさい。そうすれば分かる。」と新共同訳聖書では訳されています。これは意訳で、原語では、イエス様の御言葉とフィリポの言葉は、同じ動詞が並べられています。単純に訳せばどちらも「来て、見なさい」です。フィリポはイエス様との出会いで「イエス様を救い主と信じる信仰」が与えられ、主と同じ御言葉を語る者に変えられているのです!主の弟子すべてに与えられる恵みの一つが示されているわけです。私達も、信仰によって、主と同じ御言葉を語ることが許され、そして伝道するように導かれると読み取れます。

*ナタナエルがイエス様の許に導かれる過程

 フィリポから「イエス様が救い主である」と聞いたナタナエルは、最初はイエス様の出身地ナザレを差別する意識から、フィリポの証しを信じる気持になれませんでした。けれども神様は人間の狭い考えを悠かに超えて御計画を実現なさり、ナタナエルを、イエス様の許に導きました。たとえフィリポの口を通したとしても、イエス様が語った御言葉の力が、ナタナエルを主の許に導いたと言えるでしょう。この後、ナタナエルの人生が激変するのです。

*イエス様とナタナエルとの出会い

 イエス様はナタナエルを見て、まず、「この人には偽りがない。」とおっしゃいました。「偽りがない」との言葉は「策略などを心に持たない」という意味があります。後にイエス様は、ユダヤ教指導者達の策略によって十字架に付けられるわけですから「偽りがない」は主に従う弟子にとって必要な性質です。また「いちじくの木の下にいる」(48節)とは、当時この地方の人々は、大きな葉をつけるイチジクの木陰で勉強していたとの史実から、ナタナエルがユダヤ教を熱心に勉強していたことを意味するというのが一般的な解釈です。自分の本性や過去の行動をまるで見ていたかのように言い当てられたナタナエルは、イエス様を「神の子、イスラエルの王」(49節)と言いました。これはユダヤ教では待望の「救い主」を意味する言葉です。ナタナエルは、ユダヤ教をよく学んだ者として、イエス様を救い主と信仰告白したわけです!

*「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

 「もっと偉大なこと」を、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りすること」と説明されました。創世記28章からも分かるように、苦難の道のりでも、主なる神様は、愛する者に天から働きかけてくださることを意味しています。イエス様のこの世の歩みは「十字架への道」であり、人間的には「偉大なこと」とは真逆です。でもこれこそ、父なる神様がイエス様に課せられた「偉大なこと」です。このことを主の弟子たちは理解して伝道することが、人生の本当の目的だと知らされているのです。

2020年2月23日の説教要旨

詩編95:1-11、ヨハネ福音書 6:1-15

「少しも無駄にならないように」 遠藤尚幸先生(東北学院中学高校)

*大勢の群衆

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)

 今朝、私たちに与えられたヨハネによる福音書の言葉には、そのようにありました。主イエスの後を追って大勢の群衆が歩いていく。聖書の言葉そのままに読めば、湖を超えて向こう岸までついてきた。そんな、大勢の群衆の姿が目に浮かびます。彼らはどうして主イエスを追いかけたのか。聖書はそれを「イエスが病人たちになさったしるし」を見たからだと語ります。大勢の群衆もまた、自らの病を持ちながら、湖を渡り、主イエスの後を追ってやってきたのです。このような思いは2000年前の聖書の時代も、現代も変わりません。また、病だけではなくて、辛さや苦しみの中で、主イエスを追って来た人もいたでしょう。そのような意味で、私たちもまた、今朝、この大勢の群衆のようでもあります。一人一人それぞれにある思いの中で、今共に、主イエスの語る言葉に耳を傾けています。

*イエスは目を上げ

 主イエスは、大勢の群衆にどのように応えたのでしょうか。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見て」(5節)

 主イエスは、群衆を見つめます。そのために目を上げます。主イエスの眼差しは、今、この群衆に注がれています。群衆が追いかけて来るというのは、全く聞く耳を持たない方の背中を見つめながら、追いかけるのではありません。彼らが追う主イエスは、彼ら一人一人を見つめている。

群衆はこの眼差しの中を歩みます。この場面、私は、神様と、そこに集おうとする私たち一人一人の姿に重ねることができると感じます。私たちも今日それぞれの思いを抱えながら、この礼拝に集っています。一週間の歩みを終え、それぞれにあった苦労を乗り越えてここに集っています。大勢の群衆は湖を渡ってきたわけですが、それは決して容易な道ではなかったはずです。湖を渡るには準備が必要です。その途上、嵐が起こることもあります。人々は自らの足で主イエスを追いかけます。向こう岸へ渡るというのは容易なことではありません。しかし、それでも主イエスを追いかけて来る。礼拝堂に集う私たちもまた、何よりも主イエスが私たちに目を上げ、待っていてくださっている中で集っている。そのことを忘れたくはないのです。そしてこの眼差しは、今朝この時間だけに注がれているものではありません。振り返れば、この一週間すべてをも包み込むように注がれてきた眼差しです。礼拝は、この神様の眼差しに私たちが気づくときでもあります。ああ、自分の人生は、その歩みは、神様の眼差しの中にあったのかと気づきます。一人で歩んでいたと考えていた時、苦難の中にあった時、その時に、神様は目を上げ、この私を見ていてくださった。大勢の群衆も、主イエスの眼差しに気付いた時、そのことを思い起こしたはずです。主イエスが見ている。もう大丈夫だ。ここに私たちの真の安心があります。

*足りないでしょう

 主イエスはこの群衆に眼差しを注ぎながら、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言いました。しかし、主イエスはこの後におこることをご存知の上で、フィリポにこう尋ねたと記されています。フィリポは、主イエスの問いにこう答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。一デナリオンは、当時の一日分の給料と同等の金額です。ですから、二百デナリオンは200日働いた人が手にすることができる金額でした。主イエスの前にいた人々は男だけで5000人とも書かれています。女性や子ども含めれば1万人以上はいたと想像することができます。当然、この人々に食事を与えることなど想像することができないわけです。フィリポにとってみれば、自分の理解を超えた問いに、彼なりに一生懸命計算して出した答えが「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という諦めとも取れる言葉でした。そこで出て来るのが、一人の少年です。

*五つのパンと魚二匹

 8節には、続けて主イエスの弟子の一人であったアンデレがこう言ったことが記されています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。

 一人の少年が大麦のパン五つと、魚二匹を持っている。アンデレは、そのことを主イエスに報告します。しかし先ほどのフィリポ同様、それでこの人数の人に食べさせることなど不可能であることを伝えます。この少年はどうして大麦のパン五つと魚二匹を持っていたのでしょうか。主イエスについてきた人の子どもであったかもしれないし、一人で来た少年だったのかもしれません。自分で自分の分として、彼なりに一生懸命準備して来たものだったかもしれません。アンデレが言うように、大勢の前では意味がないものかもしれません。しかし沢山いる弟子たち、大人たちの中で、よく準備して来た少年であったことは確かです。主イエスはその少年を見逃しませんでした。主イエスの眼差しというのは、こういうところまで行き届いています。弟子が目の前の大勢の群衆にばかり目を奪われ、少年や、少年の持っている持ち物を「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」と言う時に、主イエスはこの少年の持ち物こそ、この5000人以上の人々の空腹を満たすために用いるべきものだと判断するのです。主イエスは人々を座らせました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱え、魚も同じようにし、それを座っている人々に分け与えました。このパンと魚を通して人々は、満たされていきます。そして主イエスはこう言います。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい

*「少しも無駄にならないように」

「少しも無駄にならないように」。これが、主イエスが弟子たちに語った言葉です。人々を満腹にさせ、それでもなお残った分がありました。残った分をどうするか、主イエスはそれもまた丁寧に扱おうとします。考えてみれば今朝与えられた箇所は、最初から最後まで、主イエスの私たち人間に対する心遣いを見て取れる箇所だとも感じます。大勢の群衆を見つめる眼差しから始まり、小さな少年のわずかな持ち物を大切にし、そして、残ったものを一つも無駄にしない。一つ一つを丁寧に扱おうとする、主イエスの姿があります。ここで使われている「無駄にする」という言葉は原文では、ヨハネによる福音書においては「滅びる」とか「失う」とか「朽ちる」という意味で使われる言葉です。有名な言葉で、たとえばヨハネによる福音書3:16で使われています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。他にも6:27「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というところにも「朽ちる」という箇所で使われています。どうして、それほど大切に扱うのか。それはそこに集う一人一人が、少年が差し出したパンと魚が、神様ご自身が備え、与えてくださったものだからです。私たちが誰一人として、滅びることのないように、失われることのないように、朽ちることのないように、これが神様の御心です。そのために、主イエスは来てくださり、私たちに目を上げ、その眼差しを注いで下さっているのです。

*教会の姿

 教会は、主イエスを中心として、一人一人が、大切に、神様によって用いられる場所です。私たち人間には何の価値もないように見えるもの、弟子たちだけではなくて、少年も、まさか自分自身の小さな持ち物が、こんなに大きな出来事に用いられるとは考えてはいませんでした。私たちもそういうところがあります。自分の持っているもの、それを自分のものさしで測ってしまうところがある。主イエスがフィリポを試されたというのは、そんな人間のものさしだけで物事を測ることから抜け出させようとするためではなかったのかとも感じます。私たちの頭で考えることには限界があります。5000人以上の人に、食事を与えなさいと言われて、そんなこと無理だと考えてしまうのが私たちです。しかし、聖書は、その先に、神様が共にいるゆえに、道が開かれていくことを教えています。今朝与えられた詩編95:9には「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した」とありました。「神を試す」とは「人間のものさしだけですべてを測ろうとすること」です。しかし、教会は、その先を見つめます。人間の持っている小さなものを、なお、神様は大胆に用いてくださる。私たち一人ひとりにも、そういうものがあるのではないでしょうか。それは自分から見れば、目の前にある課題を解決するのには十分ではないものに見えるかもしれない。しかし、神様の目には、他ならぬ十分すぎるものであることがあるのです。私が初めて神学校を見学に行った時に、説教台に立って説教を語っている神学生を見て、自分には到底こんなことはできないと感じました。しかし、神様は今、私を、この説教台に立たせてくださっています。人間の目に不十分だと思えることが、しかし、神様の御手の中で用いられる時に、思いもよらない可能性があったのだと気付かされるのです。

私たちのうちに、足りないものは何一つありません。神様が満たしてくださるから、私たちにはそれで十分です。

*世に来られる

 この人間の理解を超えた主イエスの業を通して、人々は変わっていきました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」(6:14)

「世に来られる」とはヨハネによる福音書で重要な言葉です。ヨハネによる福音書は主イエスを世に来られる光であり、神の子であることを証言しています。つまりこの人々も、主イエスが何者であるかを知ったということです。主イエスこそ、この世を照らす光です。そして、私たちの罪を背負い、十字架につけられていく小羊です。私たち人間は、主イエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったことを通して、神様の子どもとして今ここに集うことが赦されています。この人々の言葉は、私たち一人一人の言葉です。遠い時代、ガリラヤで始まった主イエスの伝道の果実は、今の時代、私たち一人一人を通して実っています。主イエスは、私たち一人一人を決して見捨てることはありません。

 どこまでも、最後の一人までも決して無駄にすることはしない。私たちがその最後の一人でもあります。私たちのために、キリストはあの十字架で命を捨ててくださいました。

*受難節に向かって

 今週の水曜日、灰の水曜日より受難節に入ります。受難節は主イエス・キリストの十字架の苦しみを覚える期間です。最後の一週間である受難週は、主イエスの十字架までの一週間を想起させる、教会歴の中で最も聖なる一週間と言われます。

どうして、主イエスの苦しみが一年で最も尊いのか。

それは、世に来られた神の子であるイエス・キリストが、私たち一人一人の罪を背負って、十字架の道を歩んで下さったからです。

私たち人間ではどうすることもできなかった、神様の前での罪の問題の一切は、キリストの十字架を通して贖われました。私たちはただひたすら、その恵みを感謝して受け取るだけです。

籠いっぱいになったパンの屑は、今、私たちの集う教会へと託されています。神様の恵みは、この教会を通して、さらに多くの人へと手渡されていきます。5000人を遥かに超える食卓は決して聖書の中だけの「奇跡」ではありません。その「奇跡」は教会を通して、私たち一人一人を通して、今も続いている出来事です。

あなたにも、神様の愛の眼差しが注がれている。安心していい。不安こそが高らかに叫ばれる時代にあって、神様が共にいる恵みをご一緒に伝えていきたいと願います。

教会はキリストの体です。誰一人滅ぶことのないように、朽ちることのないように、「少しも無駄にならないように」、神の恵み、十字架の キリストを私たちは今日、この時代に語り伝えます。

2020年2月16日の説教要旨

詩編32:1-7 ヨハネ福音書 5:1-18

          「起き上がりなさい」     佐藤義子牧師

*はじめに

本日の聖書は、イエス様が祭りの為にエルサレムに来られた時の出来事です。ユダヤの人達が祭りの度ごとにエルサレム神殿での礼拝を守る時、イエス様ご自身も人々と同じように律法に従われて、エルサレムに行かれました(大勢の人達が集まる時を、宣教の機会としても用いられました)。

エルサレム神殿を最初に建てたのは、旧約時代のソロモン王様ですが、その神殿はバビロニア帝国によって破壊され、バビロン捕囚の時代を経て、ペルシャ王によって神殿再建の許可が出され、だいぶ小さくなりましたが、完成の喜びは大きなものでした(エズラ記6:13~、ネヘミヤ記8章参照)。

その後 神殿は、歴史の変遷と共に多くの受難を受けた後、イエス様の時代には、ヘロデ大王が壮大な規模のものに建て直し(ヨハネ福音書2:20)、神殿を含むすべての面積はエルサレムの旧市街の6分の一に当たり、巨大な石垣の名残は、今も、「嘆きの壁」として見ることが出来ます。

このエルサレム神殿から約350メートル北に、「ベトザタ(口語訳聖書はベテスダ)」の池」を囲んで五つの回廊(柱の高さ8,5m、屋根もある)がありました。池から100mほどの所にはローマの軍隊の駐屯地と、総督官邸があり、神殿で何か起こればすぐ駆けつけられるようになっていました。

*横たわる大勢の人々

ベトザタの池を囲んだ回廊には、病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人が大勢横たわっていました。立派な神殿の近くに、大勢の苦しむ人々が集まっていたのは、そこが神殿への通り道で、施しを受けることが出来たという理由の他に、4節(ヨハネ福音書の最後に掲載・212頁)に「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」とあります。(ある注解書では、この池が間欠泉で、時々活性を帯びた水の噴出による治癒作用が起こり、最初に入る者は活性の強い水に触れられたと考えています)。

*「良くなりたいか」

イエス様のまなざしは、その中の一人の人に向けられました。彼が38年間病気のために苦しみ、起きて歩くことが出来ないことをイエス様は知り、彼に「良くなりたいか」と声をかけられたのです。

イエス様の問いかけ「良くなりたいか」とは、「あなたは、今ある状態にとどまっていることに満足しているのか。それとも、本当に変えられたいと思っているのか」との、彼の意志の再確認の言葉として聞くことが出来ます。彼の「「治りたい!良くなる時がいつか来る!」との願いは、38年間も空しく待ち続けたために、いつしか無感覚なあきらめの境地に陥っていたことでしょう。良くなりたいと思っても、良くなる時が来るとは実際には考えていなかったでしょう。彼は、誰も自分を助けてくれる人がいない、と絶望的な状況を訴えることしか出来ませんでした。

*わたしたち

カルヴァン(神学者)は、「私達は、この病人と同じことをやっている」と言いました。以下はその説明です。「この人は、自分の考えに従って、神様の助けに枠(わく)を定め、限界づけをして、自分が受け入れられる範囲を超えることは認めない。しかしキリストはその寛大さのゆえに、彼の不完全さを大目に見て下さっている。私達は、自分に近い手段だけにとどまっているのに、キリストは、すべての期待に反して、人知れないところから手をさしのべられ、私たちの信仰のせまさ、小ささをどんなに上回るものであるかを示される。・・だから私達もさまざまな苦悩に責められながら、どんなに長い間どっちつかずの状態に置かれても、時間の長さに嫌気を起こして、勇気を無くしてはならない」。

*「起き上がりなさい」 

私達が、あることを願いながら、現実の絶望的な状況を前にして、あきらめ、無気力に陥(おちい)り、祈り求めることをやめようとする時、(あるいはやめた時でさえ)「神様の時」が来るとイエス様の愛のまなざしは私に向けられて「良くなりたいか」と尋ねられ、癒(いや)し主(ぬし)イエス様の権威あるお言葉「起き上がりなさい」との声を今も聞くことが出来ます。

2020年2月9日の説教要旨

出エジプト記3:13-15・ヨハネ福音書8:21-30

       「神からの知識とこの世の知識」     佐藤義子牧師

*はじめに

 約2000年前に、神様の深いご計画により、神の御子イエス様が人間としてこの世に誕生され、宣教の使命を果たしていかれます。イエス様と同じ時代に生きて、イエス様と直接 言葉を交わした人々が沢山おりますが、イエス様とそれらの人々との会話を、時(歴史)と場所(空間)を越えて、今を生きる私達も知ることが出来るのは、本当に嬉しく、恵みです。

 けれども、聖書は、イエス様と、イエス様を信じようとしない人々との会話を通して、私達に,イエス様の言葉が人々の心の中に素直に入っていくことを拒む人間側の傲慢さやかたくなな心による誤解を明らかにします。

*「私は去っていく。あなた達は私を捜すだろう。だがあなた達は自分の罪の内に死ぬことになる。私の行く所に、来ることが出来ない。」(21節)

今日の箇所は、7章からの、イエス様とユダヤ人指導者達との会話の続きです(8章前半は除く)。イエス様は御自分が去った後、ユダヤ人指導者達は自分達が間違っていたことを悟り、イエス様を捜すことになるが、見つけることは出来ずに自分の罪の内に死ぬことになると予告します。

人間を神から引き離すのは罪です。罪には「的(まと)をはずす」という意味があります。神の御子を、自分の救い主として受け入れることを拒む者は、人生における「的を外した」人と言えます。なぜなら、「罪の行き着くところは、死にほかならない。」(ロマ6:21)「罪が支払う報酬は死です」(同23)とあるように、私達に「死」があるのは「罪」の結果です。しかし神様は、私達を愛するゆえに御子イエス様をこの世界に送って下さり、御子は、私達の罪をすべて引き受けて十字架で死なれました。それゆえ自分自身の罪(神から離れていた)を認め、悔い改めてイエス様を神の御子と信じる者は「罪の赦し」が与えられ、死を越えて「永遠の命」をいただいています。

*ユダヤ人指導者たちの罪

イエス様から「私の行くところに、あなたたちは来ることが出来ない。」と言われたユダヤ人指導者達は、イエス様が自殺でもするのでは・・と話しています。自殺者は呪われるので、自分達はそのような地獄には行かれないと軽蔑しているのです。イエス様は、天におられる父である神様のもとに戻ることを言われているのです。

*「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」(23節)

私達すべて人間は、この世に生まれ、この世の中で育てられ、この世に属しています。私達の持つ知識は、すべてこの地上につなぎ留められています。この世は神様が造られた被造物であるゆえ、神様はその独り子をお与えになったほど、この世を愛して下さいました(ヨハネ3:16)。それにもかかわらず、この世には無知があり、神の御子が来たのに、この世は御子を認めませんでした(今も、その状況は続いています)。この世は、神から離れて罪と死の支配下に置かれているのです。

イエス様は罪の鎖につながれていた私達の、その鎖を断ち切り、罪の支配から救い出して、神様の支配下に移し変えて下さる道を開いて下さるため、「上」から「下」へ降りて来て下さいました。

*救いへの道

イエス様が開いて下さったその恵みにあずかるために、私達は何をしたら良いのでしょうか。聖書にはこうあります。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」(使徒言行録2:38)。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(同16:31)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われます」(ロマ10:9)。

*「わたしはある」(神の名・出エジプト記3:14)

「わたしはある」とは、そこに神様が臨在されている、永遠に存在なさるお方であることを意味し、イエス様ご自身がそのような存在であることを宣言されています(ヨハネ8:24)。(参照:イザヤ書43:10-13)。


2020年2月2日の説教要旨

詩編139:1-10・ヨハネ福音書1:35-42

        「最初の弟子達 ①」     平賀真理子先生

*はじめに

 仙台南伝道所の開設当初からの目標は、イエス・キリストの本当の弟子を目指すことです。私達の主イエス様の弟子と言えば、12弟子のことを連想するでしょう。彼らがイエス様に出会った後、主に従うようになったいきさつは、4つの福音書に書かれていますが、特にヨハネによる福音書を深く読むと、その葛藤を、他の福音書よりも読み取ることができます。

*洗礼者ヨハネの証しによってイエス様の弟子となった2人の弟子達

今日の新約聖書箇所に入る前に、直前の出来事からお話しする方がよいでしょう。神の民として旧約聖書を奉じてきたイスラエルの人々は、神様を大事にすることを何よりも重視し、神様への礼拝を司る祭司達を尊敬しました。この家柄に生まれ、イエス様を「救い主」と証しして洗礼を授ける役目を果たしたのが「洗礼者ヨハネ」でした。彼こそ、「神様が約束なさった救い主」と期待されたのですが、彼自身は「後に現れる救い主を証しする役割だ」と語り、それが実現したことを福音書は記しています。彼はイエス様を「神の小羊」と繰り返し呼びました。これは、イエス様が人々の罪を身代わりとして贖う「贖い主」という面を強調しています。この証しを聞いて真剣に受け止めたのが、元々は洗礼者ヨハネの弟子だった二人でした。人間的に見れば、最初の先生(洗礼者ヨハネ)の目前で、次の先生(イエス様)に従うのは、礼儀に欠けるように思えますが、彼らは人間の思いよりも神様の御心を尊重したことになります。

また、今日の聖書箇所に入ると、洗礼者ヨハネの証しは別の重要な働きもしたとわかります。即ち、旧約から新約への継承です。旧約の完成の象徴と言われる洗礼者ヨハネから、新約の主であるイエス様へ弟子達が引き継がれたということです。

*イエス様の2人の弟子達への最初の問い「何を求めているのか」(38節)

 この2人の弟子達は、しかし、イエス様に直接何か言って従ったのではなかったようです。もしかすると「救い主」を前に緊張して何も言えなかったのかもしれません。そんな彼らに対して、もちろん、イエス様は咎めたりなさらず、まず、「何を求めているのか」(38節)と問われました。この問いは、この2人の弟子達だけでなく、後の時代の私達信仰者への問いかけと受け止めるべき御言葉ではないでしょうか。私達は主のこの問いに対して胸を張って答えられる生き方をしているでしょうか。

*2人の弟子達の答え「どこに泊まっておられるのですか」(38節)

 今日の箇所に戻り、問いを直接受けた2人の弟子達の答えを見てみましょう。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」(38節)です。これはイエス様の深い問いの答えとなっているでしょうか?ずれていますね。実は、この「泊まる」と訳された言葉の元々の言葉は、「宿泊する」という意味の根本に、「留まる」「存在し続ける」という意味を持っています。この弟子達は、イエス様の具体的な宿泊先を知りたかったかもしれませんが、彼らの心の奥にはイエス様が「神様と同じ存在として留まり続けておられるのか」、つまり、「本当に神様から遣わされた救い主かどうか」を知りたいと求めていることを、本人達ではなく、イエス様が既にわかっておられたと読み取れます。宿泊先だけなら、それを確認して帰宅させればよいと思えますが、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃった後、彼らと共に泊まったのです(39節)。その間、2人に対して、イエス様は御自分が神様と同じ存在として留まり続ける御方であるという言動をとられたのだと推測できるでしょう。

(ルカ福音書24章の「エマオでの復活の主と2人の弟子達の出来事」を想起させられます)。きっと、彼らは霊的な目が開かれ、「イエス様は救い主」だと確信したのでしょう。

*アンデレ=兄弟シモンや他の人々をイエス様の許に連れてきた弟子

この2人の弟子の内の一人は、初代教会の指導者の一人シモン(後のペトロ)の兄弟アンデレであり、アンデレが先にイエス様に出会い、兄弟を連れてきたと示されています。シモン・ペトロはイエス様の預言どおり、教会の岩=礎となりました。アンデレは、これ以降も様々な人をイエス様の許へ連れてくる働きをしました。私達も、自分自身が主の許に招かれ、主が救い主と分かったのですから、主の許に留まり、周りの人を主の許に連れて来られるように聖霊の助けを祈りましょう。

2020年1月26日の説教要旨

詩編19:2-7 ヨハネ福音書 2:1-11

         「イエス様の宣教の開始」    佐藤 義子牧師

*はじめに

今日の聖書は、イエス様の「最初のしるし」(11節)と言われるガリラヤのカナという町で、イエス様が弟子達と共に村人の婚礼に招かれた時の出来事が記されています。この婚礼の場に、イエス様の母もおりました。カナは、イエス様家族が住むナザレの町からそれほど遠くなかったようで、おそらくマリアは、知人の家での接待を手伝っていたと思われます。

*「ぶどう酒がなくなりました」(3節)

結婚を祝う宴会の席で、飲み物の「ぶどう酒」が途中で尽きてしまったことから今日の聖書は始まります。花婿の実家は庶民の家で、裕福ではなかったようです。裕福であればぶどう酒は豊かに蓄えられていたことでしょう。マリアはぶどう酒が尽きたことに気付き、この状況を何とかしなければ・・と、息子のイエス様に助けを求めてきたことは想像できます。

お祝いで飲むぶどう酒がなくなったことが明らかになれば、主催者側の花婿や家族は恥ずかしい思いをするでしょうし、花嫁側の家族にしても、不本意でありましょう。喜びを共にしようとお祝いに来た人達にとっては興ざめとなるでしょうし、結婚という、人生の中でも最も喜ばしい祝いの席から喜びも半減してしまうかもしれません。マリアはこの窮状をイエス様に伝えることによって、イエス様は何らかの方法で助けてくれるに違いないとの強い信頼があったことを思わされます。ところが、イエス様のマリアへの返事は、期待を裏切るような言葉でした。

*「婦人よ、わたしと どんな関わりがあるのです。」

 イエス様は母マリアに対して「婦人よ」答えます。丁寧な呼びかけですが、親子の関係を絶ち切るような言葉でマリアと向き合われています。なぜでしょうか。それは、イエス様の使命をマリアに正しく伝えることにあったと思われます。イエス様の使命は、母マリアの為に仕えることではありません。マリアの願望ではなく、神の御意志が先行します。

神様から今、地上に遣わされている目的は、神の国の福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、神様のもとへと帰るように促す「宣教」です。イエス様はこの使命を果たすために、弟子を選び、これから厳しい道へと歩みを進めていきます。御自分が人々の救いの為に神様の力をいただく時は、いつ、どのような時なのか、イエス様ご自身、神様の御意志を尋ねつつ祈りの中で決断していかれます。母マリアはそのことを理解して、息子との関係を新しい関係へと変えていかねばなりませんでした。

*「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(5節)

 母マリアのイエス様に対する信頼と確信は強く、イエス様にすべてを委ねた後、手伝いの人に、イエス様の言葉に従うように指示を出していきました。ユダヤの家庭には、常に自分自身を清く保つための、手を洗う律法のおきてがあり、そのための水が水ガメに用意されていました。

イエス様は手伝いの人に、水ガメに水を一杯入れるように命じました。

次にそこから汲んだものを世話役の所に持っていくように命じました。水が世話役のところに届いた時、水はぶどう酒に変えられていました。

*「喜び」の奉仕者として  

イエス様は、初めはマリアの願いを退けられたように見えます。しかし御自分が何をなさるべきか神様の御意志を仰いだ後、イエス様ご自身の決断でこの「しるし」を行われました。「しるし」とは神様が私達の世界に入ってこられた「しるし」です。イエス様がこのしるしを行われたのは、花婿への同情や母の言葉に仕える為ではなく、花婿の家の人達に対する「喜び」の奉仕者として仕えること、祝宴を全うさせることが御心であったということでしょう。世話役は花婿に「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、,酔いがまわった頃に劣ったものを出すが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれた。」と言いました。私達の社会では初めはみんな良いものを用意しますが、その状態を続けようとはしません。しかし神の国では最初は「ただの水」(私達)でも、神様の自由な裁量で力が働く時にぶどう酒!に変えられていきます。与えられた各自の信仰は、私達に新たな使命を与え、感謝と喜びの生活へと導いていくのです。

1月19日の説教要旨 

ヨブ記38:4-6・使徒言行録 17:22-29

「神は天地の主」   佐々木哲夫先生

*はじめに:世界宗教人口

 世界の宗教人口は約60億と言われております。その中でキリスト教は20億、イスラム教は12億 ヒンドゥー教は8億、仏教は3億6,000万です。ユダヤ教を起源とする一神教のキリスト・イスラムは合わせると32億。他方、バラモン教をルーツとするヒンズー・シーク・仏教系は約12億です。世界宗教か民族宗教かという分類もありますが、何れにせよ、今日において、一神教の神と自然神の神が宗教の双璧(そうへき)になっています。

今朝は、聖書を通して私たちに知らされている神とはどのような神かについてご一緒に思いを巡らしたいと思います。

*アレオパゴスの説教 

使徒パウロは、第二次伝道旅行においてアテネを訪れております。アテネには、貴族たちの会議所が置かれていた小高い丘アレオパゴスがあります。パウロはその丘の中央に立って演説を行いました。というのはアテネの道を歩いている時に見たのですが、至るところに偶像があり、その中に『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけたからです。パウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいる『知られざる神』についてお知らせしましょう」と語っています。アテネの聴衆は、ギリシア神話に登場する神々に親しみ、哲学者の議論する学説に心惹(ひ)かれていた人々で、耳が肥えていました。そのような人々に向かって本当に信ずべき神を紹介したのです。

*聖書の神

パウロは、聖書の神について二つの点を強調しています。

第一は、世界とその中の万物を造られた神であって、この天地を超越していることです。すなわち、人間の手で造られた神殿に安置され、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要がないのです。『知られざる神に』と刻まれた祭壇に納まる神ではないのです。

第二は、すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださる神であることです。聖書の神は、人間の魂と身体の存在の根本原因、換言するならば、人間が寄って立つべき基盤であるのです。そのような関係が神と人とにあるのですが、人間は、この世で学ぶにつれ、また、身の回りの出来事を上手に対応管理するにつれ、神と人との関係を逆転させてしまいます。神を『知られざる神に』と刻んだ祭壇に納めて相対化し、他方、自らを自律する存在と考えてしまうのです。

*主客転倒

旧約聖書のヨブに向かって天地万物の創造主なる神は問います。

本日の旧約聖書の箇所です。「わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか」と問います。主客転倒の思いを問いただしたのです。

ヨブは、自分の存在起源である創造主なる神を再認識し「私は取るに足りない者、何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます(40:4)。私は自分を退け塵(ちり)と灰の上で悔い改めます(42:6)」と語っています。

*インダス文明の神

 他方、インダス文明の宗教であるバラモン教の神は、紀元前5世紀頃にヒンズー教の神として整えられました。インダス文明の担い手である人々は、世界と人間の存在に驚きと恐れを持ち、宇宙に偏在(へんざい)する神をあがめました。そして、自己の中にも存在するその神と自分(自我)とを同一化しようとします。禁欲と出家による修行によって、神と同一化しようと試みます。それは、人間の短い一生の間にはなかなか実現できない事なので、「同一化、悟り」は、輪廻(りんね)転生(てんせい)という永遠の中で試みられることになります。

*ヒンズー教・仏教

その流れの中から釈尊(しゃくそん)の仏教が出てきます。涅槃(ねはん)の境地に至った存在者である阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)、大日如来(だいにちにょらい)、薬師(やくし)如来(にょらい)などが住む極楽(ごくらく)浄土(じょうど)は、十万億土の彼方(かなた)に存在すると考えられました。

インドでは、仏教はやがてヒンズー教に戻り吸収されます。ですから仏教にも梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)などの神が存在します。仏教での神は六道の世界にある存在で、如来よりかなり低い存在です。

このような歴史を概観するならば、日本に仏教が伝来した後に、日本古来の民族宗教の八百万(やおよろず)の神を仏の化身(けしん)であるとする本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)が出てきた理由を見出す思いがいたします。

*シュメールの神

 ところで、創造神は、古代オリエントの神話やギリシャ神話においても登場しています。それら神は、すべて、人間から遠く離れた世界にいます。遠くから人間を眺め、人間世界に影響を及ぼしました。

例えば、古代シュメール神話の人間創造は、農作業などの雑務に追われた神々にかわって労働する者として創造されました。

次のような記載があります。

神々が集い、互いに言う。「…偉大な神アヌンナキたちよ。そなたたちは一体何を変革しようとするのかね。」 

その中の二人がエンリルに答えて言う。「 …あなた方は二人のラム神を殺して、彼らの血でもって人間を造るのです。 … (今まで)神々が(になってきた)仕事は(今や)彼ら(人間)の仕事でありますように。」

畑仕事、土木工事、家畜の増殖、神々の祭りの執行など、神のために働く人間が創造されたのです。

*ヒンズー教の原人

他方、ヒンズー教の教えでは、原人プルシャの身体から太陽神々 や人間など世界の全てが生まれたといいます。

古代インドの聖典の一つ『リグ・ヴェーダ』に次のように歌われています。

神々が原人を切り分かちたる時 その口はバラモン(司祭)となり。その両腕はラージャニヤ(武人)となり。その両腿(りょうもも)からはヴァイシャ(農民、商人)が、その両足からはシュードラ(奴隷)が生じた。 

これが人間を4つの身分に分類するカースト制度の由来です

*共にいます神

さて、第28代 日銀総裁(平成10年〜15年に在職)の速水(はやみ)優(まさる)さんという方がおられました。縁がありまして2004年(平成16年)に東北学院の教職員修養会の講演を担当しております。

基督者(きりすとしゃ)の速水さんは、日銀総裁人事の独立性、マクロ経済における円高基調の重要性などの難しい話をされました。

そしてもう一つ、日本の国の行く末を左右するとも言って過言でない重要な会議の連続において、いつも執務室から会議室に赴く時、壁に掲げられていた聖書の言葉「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ43:5)の聖句を心に刻み、祈ってから出かけたことを話してくれました。

速水さんのお話は、知られざる神ではなく、命と息とその他すべてのものを与えてくださる神が、今なお私たちと共に近くおられ、私たちの歩みを導いてくださる方であることを証(あかし)するものでした。

聖書を通して知らされている三位一体の神が私たちに近くある神であることを再認識したいと思います。

1月12日の説教要旨

詩編119:105・使徒言行録 17:10-12

「み言葉と共に歩む」      佐藤義子牧師

*はじめに

 私たちは毎週、礼拝の中で御言葉を聞き、学び、心にとどめ、そして家庭や社会に戻り日々の歩みを続けております。私たちは、時に「つぶやき」の誘惑に襲われます。「なぜ、私が・・」「なぜ、神様はこのような試練を」「私には無理。出来ません」など・・。

神様が遠くにおられるような錯覚に陥る誘惑です。そのような時、先週の礼拝で聞いたイザヤ書の御言葉が響きます。「あなたはなぜ、『私の道は主に隠されている』と、いうのか。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みを置く人は新たな力を得、わしのように翼をはって上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

心が折れそうになった時、この御言葉が浮かぶならば、私達は、このみ言葉によって 励まされ、祈りを新たにすることが出来ます。

*ベレアの町の人々

本日の聖書は、使徒パウロの二回目の伝道旅行の時の出来事です。

パウロの伝道の前には、いつも、反対者、敵対者が立ちはだかり、時に、民間宗教とぶつかり、群衆の反感を買い、市の当局者にムチ打たれ、投獄までされました(パウロの受けた労苦参照:Ⅱコリント11:23-)。

フィリピの町で、教会の基礎が出来たあと、町を去るように言われ、次に訪れたテサロニケの町でも教会の基礎が出来ますが、ユダヤ人の嫉妬による暴動を起こされて追われ、そこから南西に約75キロ離れたベレアの町にパウロとシラスは逃れます。今日の聖書には、このように記されています。 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

キリスト教の命は伝道であり、ここにおられる方々も(私も)伝道によって救われ、さらに今は、救いが家族や友人にまで及ぶことを祈り願っております。

*求道者から信仰者へ

信仰は神様が与えて下さるものです。もと神学校の学長であった桑田秀延先生も、次のように書かれています。「罪とは神から離れ、失われていることであり、本当に礼拝すべき神を礼拝せず、神でないものを礼拝し、自己中心になり、物質中心になることである。・・・罪の救いは人間の側からは、なされない。人間は・・全く無力である。救いは神の側からくる。恩寵(*注)としてくるのである。」

(*注)恩寵(おんちょう)とは神の恵み、罪深い人間に神から与えられる無償の賜物のこと。

コリント書にも(12:3)「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、あります。

 以上のことを大前提としながら、今日のベレアの町の人々の、求道者としての姿勢を見て、伝道を考える時、いくつかのヒントを与えられると同時に、救われた後の私たち自身にも語りかけているように思います。

素直」とは、聞く耳を持っていることです。心の中が自分の思いや考えで一杯になっていたら、聞いても心に入らず、逆に、聞いた言葉を自分の考えで跳ね返してしまうでしょう。

又、彼らが「非常に熱心に御言葉を聞く」ことが出来たのは、自分の中に、真理・真実なるものを持ち合わせていないとの「謙虚さ」があり、それゆえにパウロの語る言葉は「聞くに値する言葉」であることを本能的に察知出来たのではないかと想像します。

その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とは、当時旧約聖書しかありませんでしたから、パウロが語る「十字架にかけられたイエスこそ、メシア(キリスト)である」との宣教が、旧約聖書(イザヤ書53章)の預言の成就であるのかなど調べていたのでは、と推測されています。

*信仰者として生きる

私達も又、救われた時の「素直さ」、「熱心に御言葉を聞く」、「聖書を良く読む」など、御言葉と共に歩む生活を続けていくために必要な栄養を、日々求め、与えられていきたいと願うものです。

1月5日の説教要旨

イザヤ書40:27-31・テトスへの手紙3:1-11

「良い行いに励む」 

有馬味付子牧師(成増(なります)キリスト教会・東京)

*はじめに

 クリスマスの大きな恵みの中に、喜びと感謝にあふれて新しい年を迎えることができ、こうして共に礼拝をささげられますことを、深く感謝いたします。由子先生が入院なさっていて大変な中ですが、義子先生はじめ教会の方々が祈りを合わせ、力を合わせて、教会を守っておられることも感謝です。 私を用いて下さいましてありがとうございます。

共に御言葉からメッセージをいただきましょう。

*イザヤ書のみ言葉

 私たち人間の力は、元気も権力も、地位も、名誉もやがて衰え、弱り、倒れます。しかし主を待ち望む者には、どんな困難な状況にあっても、必ず「新たな力が与えられ」鷲(わし)が翼を張って、ゆうゆうと大空を舞うように、ゆうゆうとその困難の中を生きることが出来ます。

 今朝はまずこのことを深く心に覚えましょう。

*テトスへの手紙

 この手紙は、使徒パウロからパウロの愛する弟子テトスに宛てた手紙の形をとっていますが、研究者の大方の意見では、パウロよりも50年位あとの時代に書かれたものです。それで、この手紙の著者やテトスという弟子については、さておいて、この手紙が私たちに投げかけているメッセージを受け取っていきたいと思います。

*「テトスへの手紙」のメッセージ

 この手紙で教えていることは、まだ主イエスさまの十字架と復活が伝えられていない土地で、どのようにその福音を伝えていけば良いのかということです。キリスト教がどういう教えであるのか、全く分かっていないところで福音を伝えていくことが、どれだけ困難なことであるかは、仙台南伝道所の17年の歴史の中で、義子先生も邦廣先生も教会員の方々も、実感しておられると思いますが、この手紙のメッセージはそういう困難をよく承知の上でなお「勇気を失わないで伝道しなさい」ということです。

*「伝道するために、しっかりした教会をつくりなさい」

 そのために、長老を立て、監督を立てなさい。そして長老たるもの、監督たるものの資格が言われています。また教会員を育てなさい。そのために教会員はこうであるようにと勧められています。

非難される点がない、不従順であってはならない、など、それぞれの年代別に、男女別にたくさんのことが挙げられていますが、その中で浮かび上がってきたことがあります。それは「分別がある」ということと「不従順でない」ということです。

*「分別がある」ということ

 これは「思慮深く」や「慎み深く」という意味と同じです。

ある人は「人が見ているか見ていないかにかかわらず、悪いことはしないという精神だ」と言い、ある人は「自分の本能や情欲や欲望や快楽を完全に制することの出来る精神だ」と言っています。私たちは、「それはとても無理です」と即座に言ってしまいそうですが、これは、「主イエス様の十字架によって、私は罪から救われました。聖(きよ)められました」という、その心を「分別がある」という形で表しなさいということです。私たちが普通「分別がある」「思慮深い」という言葉からイメージするのは、人間同士の横の関係だけで、神様と私という縦(たて)の関係とは考えません。しかし、このテトスへの手紙では、「分別がある」ということは、神の恵みによるのだと教えています。

2章の11節から13節を読みましょう。

ここで11節の「神の恵み」というのは、イエス様の十字架によって私たちの罪が赦されることです。罪が赦されることによって、この世的な欲望を捨てて、分別ある生活が出来るのです。さらに、分別がある生活は、私たちの唯一の希望である「永遠の命」に直接結びついているのです。

神の恵みと行いがこれほど密接な関係であるというのは、このテトスへの手紙の大きな特徴です。

*「不従順でない」ということ

 不従順というのは反抗的だということ、言うことを聞かないことです。人の言うことを聞かないばかりでなく、ここでは神様のおっしゃることを聞かないということです。神さまのみ心を無視する、神さまのみ心に従わない、これはまさに罪ということです。このどうしようもない私たちの罪が赦されるために、イエス様は、十字架で殺され、死んで下さったのです。ですから「不従順でない」ということも、人間同士の横の関係ばかりでなく、神さまとわたし、神さまと私たちという縦の関係であるということを、しっかり心において、従順というものを追い求めて行きましょう。

*テトス3章3節

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

これが、神さまを、イエスさまを知らない時の私たちの状況です。

「いや、私はこんなにひどくなかった」と、思われるかもしれません。

しかし、イエスさまの十字架を知らない時、あるいは認めない時は、まさにこういう状態なのです。人間同士の関係ならまあまあ大丈夫でも、神さまと私との関係では、どんな人もこのような最悪な状態であるということを覚えたいです。

*神さまの慈(いつく)しみと、何ものにもまさって私たちを愛して下さる愛

 このような最悪の状況から私たちを救って下さったのが、神さまの一方的な愛と恵みです。これによって、私たちは永遠の命をいただくことが出来るのです。先日のクリスマスは、神さまの限りない愛と恵みを、イエスさまという私たちの目で実際に見ることができる姿であらわして下さったことを、心から感謝したところです。

*私たちの良い行いを見て

 2節に「すべての人に心から優しく接しなさい」とあります。私の頭にひらめいたのはAさんがBさんにされたことです。高齢のために自分では出来なくなっていたBさんのために、Aさんは仙台と東京を何度も往復して助けておられました。私にはとてもまねできないと思っていました。

「優しくする」とは、その人の弱さに対して思いやりを示すことです。

私たちの良い行いを見て、家族が、友人が、回りの人が、イエスさまを知ってくれれば、本当にうれしいことです。

 良い行いに励むことは、道徳的、倫理的なものを越えて、「私が聖(きよ)められること」です。

このことを覚えて歩んで行きましょう。