9月13日の説教要旨 「平地の説教②-敵を愛する-」 牧師 平賀真理子

出エジプト記23:4-5・ルカ福音書6:27-36

 はじめに
キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて2回目になります。直前の段落の最初20節にあるように、イエス様はまず、弟子達に向かって御言葉を語られたのですが、今日の箇所の27節「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、聞き手の範囲を広げて語ってくださっていることがわかります。

 「御言葉を聞く」
「聞く」という言葉に注意する必要があります。右の耳から左の耳に音声を聞き流すという聞き方ではありません。御言葉を聞いて、それに従って生きていく覚悟で聞き、その教えを心に留めると言う意味です。
御言葉に、尊敬の念を持ち、聞き従いたいと望む者達に語られています。
後の時代の私達も、聖書を通して、主の御言葉に出会う恵みを与えられています。時代を越えて真剣な聞き手を渇望しておられる主の期待に応える者として、御言葉を心から渇望する者となりたいものです。

 「愛敵の教え」
27節後半で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。「愛敵の教え」といわれていますが、常識と違う教えを聞き、「私には難しい」と思ってしまう方が多いのではないでしょうか。

 「敵が思い浮かぶ」
その前に、愛敵の教えを聞いて、自分の「敵」を具体的に思い浮かべられるなら、そこに問題があります。「敵がいる!」のです。私達は、全く関係のない人を「敵」とは思えません。人生の中で何らかの関わりのあった人達の中に、「敵」=「愛せない人」を作り出してしまうのです。今日の聖書箇所で言うなら、自分を憎んでいる人、悪口を言う人、自分を侮辱する人、自分を痛めつける行為をする人(した人)、自分の持ち物を奪う人(奪おうとする人)です。神様が愛情を持って、私達に適切な時代・場所・環境を選んで置いてくださったにもかかわらず、その中で人間は「敵」を作ってしまう、これこそ、罪の一つです。そして、この世の常識では、敵は憎むべきもの、自分の受けた損害と同じものを返して当然です。

 愛敵の理由
そんな「この世のルール」から私達を解放してくれるのが、「愛敵の教え」です。
人間的な感情に従うならば、敵は許せませんが、その怒りなどの悪い感情に自分を従わせて仕返しするのは、自分をこの世のルール・罪の世界に更に縛り付けることです。直前の段落の言葉で言うならば、「不幸」=「神様の祝福をいただけない」状態から抜け出せないままです。それは、私達を「神の国の民」としたいと切望されている神様の御心とは全く相いれないもの、御心に適わないことです。

 愛敵の教えのとおりの生き方
イエス様は、「敵を愛する」という教えだけでは、罪ある人間には難しいことをおわかりになっていたのでしょう。イエス様御自身が「愛敵の教え」のとおりに生きる姿を見せてくださったのです!イエス様を妬み、憎み、「敵」と見なした権力者と追随者達は、イエス様に対して悪口を言い、侮辱し、服をはぎ取り、十字架で命を奪ったのです。してほしくないことばかりした人々に対し、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです。
(ルカ23:34)」と執り成しの祈りをなさいました。御自分を敬愛せず、受け入れようとしない人々に、究極的な「神の愛」、御自分を犠牲にしても相手の幸いを願う愛を「祈り」という行為で示されました。この教えは、聞き従う者達への教えではありますが、イエス様の歩みの預言でもあったのです。

 黄金律
31節「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は、「黄金律」として、キリスト教の大事な教えです。主の十字架の御姿を思い浮かべつつ、神の国のルールを第一に思って行動する基準が心に立っているでしょうか。相手の反応に左右されず、徹底的な愛を持ち、神の御心に従う良い行いをしましょう。

 「神の国の民」としての期待を受けて
「敵」に良い行いをするのは大変厳しいですが、「神の国の民」とされている私達は、まずは、今日の旧約聖書にあるとおり、自分の感情を脇に置いて、「敵」を助けるよう、努めましょう。最終目標は、罪の世界のルールから解放され、主のように敵の為に祝福を祈り、親切な行いをするという「神の愛」の実現者になることです。目標に向かって、成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

9月6日の説教要旨 「平地の説教①-幸いと不幸-」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9・ルカ福音書6:20-26

 はじめに

今日の説教題は「平地の説教①」で、イエス様が使徒を選んだ後に山を下りて平らな所に立たれた(17節)ので「平地で教えた御言葉」と捉えられています。また、有名な「山上の説教」(マタイ5章~7章)とよく比べられたりします。今回は、ルカ福音書の記述を基本に読み進めたいと存じます。

 目を上げ弟子たちに向かって

「平地の説教」の前の20節「イエスは目を上げ弟子たちを見て」に注目します。神様がおられるとされる「天」に目を上げたのは、イエス様が父なる神様の御心を思って御言葉を語ろうとされたことの表れだと思います。また、「平地の説教」は、イエス様に従ってきた弟子達に向かって語られたことも忘れてはならないことです。

 「貧しい人々は、幸いである」

「幸いと不幸」の御言葉は大きく2つに分かれます。20節後半から23節までと、24節から26節までです。前半が「幸いである」、後半が「不幸である」ことについての御言葉です。「幸いである」とは、一般的な幸福感とは違います。「神様から祝福された状態」、「神様の御心に適った状態」であることです。また、「貧しい人々」の「貧しい」という言葉は、「恐れて縮こまる」という意味を持つ言葉から生まれたので、経済的に貧しい人々だけを指すのでなく、この世で委縮して生きるように強いられている「社会的弱者」をも含んでいると考えられます。彼らこそ、神様から祝福された状態にあるとイエス様はおっしゃっています。この世から恩恵を受けていない人々こそ、「神の国の民」となる恵みがよくわかる状態にあり、この世に従うのでなく、神様の御心に従えるとの望みを語っておられます。

 「今」

20節の「貧しい人々」がどういう状況かを説明するため、イエス様は「今飢えている人々・今泣いている人々」という言葉を重ねておられます。説教では聞く側が「今、ここで、私に」という視点を持って聞かねばなりません。「今、この状況にいる私」に御言葉が語られていると切実に受け入れる姿勢が必要です。イエス様の御言葉を聞いている人々が「今、飢えているあなた」「今、泣いているあなた」と自分に呼びかけられ、しかも、御言葉に従う者として神様からの永遠なる祝福をいただけることを、主は告げ知らせてくださっています。

 更なる逆境による、更なる祝福

22~23節で、この世において、ひどく扱われ、迫害される状況なら、なおさら、神の国の民としては、神様から更なる祝福をいただけると主は語られました。それをかつての預言者たちをとおして、主は人々に気づかせようとされました。この世での権力者になびかなかったために迫害を受けた預言者達(エリヤ、エレミヤなど)が、神様の御心を尋ね求めて、本物の預言者として祝福されたという証しが旧約聖書に記されています(列王記上18章、エレミヤ書26章など)。

 「不幸である」

今日の箇所の後半は、前半との対比となっています。24節「富んでいる人々」は、20節後半「貧しい人々」との対比、25節「「今満腹している人々・笑っている人々」は、21節「今飢えている人々・泣いている人々」との対比、26節「人にほめられるとき」は、22~23節「人から迫害されるとき」との対比です。この世で恵まれている人々に対して、「不幸である」という言葉が使われていますが、元々は、痛切な悲嘆の思いで言う、「あぁ」「うわぁー」という感嘆詞です。神様からの祝福をいただけない者達の悲惨な状況がイエス様には見えていたのです。神様が人間の救いのために、御子イエス様をこの世に送り、救い主として信じるように招かれているにもかかわらず、従わない者が神様の祝福を得られない状態の悲惨さを嘆かずにはいられないのです。それほど、主は憐れみ深い御方です。それだけでなく、「平地の説教①」は弟子達に向かって語られているのですから、イエス様に従うはずの弟子達でも、この世で社会的に恵まれることへの誘惑に引きずられる者がいることを、主は嘆かずにはいられなかったのでしょう。

 「この世に行き詰まって、本物の救いを求める」

「幸いである」弟子であり続けるために、私達は、この世の価値観では行き詰まるのだと明確に自覚し、主による救いによってしか、本物の喜びは得られないと知るべきです。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)とあるように、私達は神様から祝福を受ける価値のある者です。

8月30日の説教要旨 「使徒選びと民衆への御業」 牧師 平賀真理子

イザヤ書65:8-10・ルカ福音書6:12-19

 はじめに

今日の新約聖書で、まず、心に飛び込んでくることは、イエス様が「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)ことです。神の御子として、神様の御心を本当によくご存じのイエス様が、徹夜で祈られたのです。神の御子がこんなに一生懸命祈られているのだから、罪の中に生まれ育った私達は、主に倣って、もっと一生懸命に祈るよう、努めていきたいと思います。

 祈りに対する神様のお答えを受けて

イエス様が宣教活動を始める前まで権力と名誉を持っていた「宗教指導者(ファリサイ派や律法学者)達」が、イエス様の噂を聞きつけて偵察に来ていました。彼らは、「ナザレ人イエス」が自分達の教えとは違うにもかかわらず、御言葉や御業が素晴らしいので、人々がイエス様を支持していることを身を持って知り、邪魔者だから殺すと決断したばかりでした。イエス様は、彼らの悪い計画を知りつつ、神様の御心がこの世に実現することを第一に考えて祈られたのでしょう。祈りは、神様からのお答えを聴くものでもあります。イエス様への神様からのお答えは、弟子達の中から「使徒」を選ぶことだと読み取れるでしょう。例の宗教指導者達の罪により、イエス様は御自身のこの世での時間があまりないと知っておられたのではないでしょうか。しかし、神様の御心=この世に「神の国」を造ることを実現するべく、御自分の働きを引き継ぐ者を任命して育てていくよう、神様からお答えをいただいたのだと思います。

 「弟子」の中から「使徒」を選ぶ

イエス様が「使徒」を「弟子」達の中から選んだことに注目したいと思います。イエス様の御言葉や御業に触れて従った者達の中からです。また、「弟子」という言葉には「学ぶ者」という意味があるのだそうです。主に従って学ぼうとする者の中から、御自分の働きを受け継ぐ者を選び出されました。「本物の弟子」になりたい私達は、主に従って学び続ける姿勢を貫くように期待されているに違いありません。

 「12使徒」とは

「使徒」をイエス様が選ばれたのは、「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(マルコ3:14―15)でした。そして、12人を選ばれました。12という数にも意味があります。旧約聖書で、神様が御自分の民として選んだ人物は「アブラハム」です(創世記12章)。その息子が「イサク」、イサクの息子が「ヤコブ」です。そのヤコブには12人の息子が与えられ、イスラエルの12部族の長となりました。イエス様は父なる神様が神の国を実現するために12部族の長を置かれたという方法に倣い、「新しいイスラエルの民」の信仰のリーダーとして、12人を使徒として選んだのでしょう。これが主の徹夜の祈りに対する神様のお答えであり、イエス様はそのお答えに従われたのです。

 「12使徒」の特徴

12使徒一人一人の名前が挙がっていますが、彼らの群れとしての特徴は、「漁師」など一般庶民として、例の宗教指導者達からは低く見られていた存在だったことです。しかし、これは「身分の低い者を高く上げる(ルカ1:52)」と言われる「主」なる神様にはふさわしいことでした。12使徒の中で、11人は信仰を貫いて迫害を受け、そのほとんどが殉教したと伝えられています。ただ一人、「裏切り者となったイスカリオテのユダ」(16節)が、イエス様を裏切り、十字架に付ける罪に直接かかわりました。私達は、一度は神様の御業の継承者として選ばれた信仰者でも、祈りや御言葉によって神の御心を尋ね求めることを忘れれば、自己愛に走って神様を疑うようになり、裏切り者としてサタンに取り込まれて永遠に呪われる存在となってしまうことも肝に銘じて、信仰生活を送らねばなりません。

 「民衆への御業」

「使徒選び」をなさったイエス様は、山を下り、平地に戻られた直後も、多くの民衆の求めに応じて、御言葉と癒しの御業を惜しみなく注がれました。見返りを求めない「神の愛」ゆえです。それだけでなく、ユダヤ全地域や周辺地域からもやって来た群衆が主の御言葉と御業の恵みを受けたことによって、使徒達の後々の伝道の礎となったのです。主は、使徒達に先んじて、福音伝道のための備えもされていかれました。

8月23日の説教要旨 「砂漠に向かうアブラハム」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書35:1-2・ヘブライ書12:1-3

 はじめに

最近、私は部屋を片付けることを2回行いました。次に使う人のために生活空間を片付けたのです。私達は「区切りをつけて次の所へ向かうこと」を人生で何回か繰り返します。そして、人生の最期を迎える時も、部屋や財産を片付け、地上の生活に大きな区切りをつけ、次に移ります。

 「次の世界」が存在する根拠

「次の世界」に何があるのか、はっきりとはわかりません。しかし、この世の私達には「次の世界」があるとの予感はあります。それを聖書では、「神の国」とか「とこしえの命」と言っています。イエス様は、例え話を用いて教えてくださいました。また、旧約聖書では、弱肉強食の無い世界のように(イザヤ書11:6-8)例えていたりします。聖書に確かにあるとされる「次の世界」に向かい、私達は希望をもって歩みたいものです。人間は、この世の常識から考えて、「次の世界」を疑ったり、否定したりします。しかし、聖書に言われていることは、神様から言われていることであり、正しいことです!私達は、ここから、希望をくみ取る必要があります。

 「直接的な神との交わり」

フランスに住んで著作活動をした日本人の思想家で「森 有正」という学者がいます。彼が「次の世界に移っていく」ことで、晩年ずっと心に描いていたのが「アブラハム」です。森 有正は、「パンセ」という著作で有名な「パスカル」の研究を通して、「アブラハム」に出会いました。聖書の神様は「アブラハムに呼びかけ、イサクを祝福し、ヤコブに働きかけた神様」です。後々の人間が宗教として規定したような、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神ではないとパスカルは言いました。「私に働きかけてくださる神」「生々しい神」であるとして、キリスト教を勧める本を書きました。「神と私がじかに語り合う(『私』としては祈り求める)」これが信仰の原点です。「直接的な神」とパスカルは言っています。更に言えば、「人間である『私』は、神とのつながりを決して欠かすことはできない」と聖書は告げています。

 「砂漠を見ていたアブラハム」

森 有正は「ヘブライ人への手紙」を読んでいくうちに、アブラハムの人生は砂漠を見ていた人生であると気づきました。アブラハムは、神様から召し出されて故郷から砂漠に向けて出発しました。「不妊の女である妻サラによって与えられる子供を通して子孫が砂のように増える」と神様から言われた時も、砂漠を見ていたに違いありません。(最初はとても信じられないことでした。)4千年の時を経て、今や世界の人口の2分の1がアブラハムの子孫です!「神の約束」は実現するのです!その孫のヤコブも兄エサウとの確執で砂漠を越えて親戚の所に身を寄せて寄留者の立場になりましたが、神様の祝福の下、財産を増やして故郷に帰り、兄にも認められる存在として和解に漕ぎつけました。その息子ヨセフは、異郷の地エジプトに売られ、ひどいことに、囚人にされましたが、そこから、エジプトのNo.2の地位にまで上る恵みを受けました。その400年後、エジプトで奴隷として苦労していたイスラエルの民は、神の恵みにより、「モーセ」を指導者として、約束の地「カナン」へ帰ってくることができました。(モーセはカナンを目前に亡くなりますが…。)アブラハム以降の族長は砂漠を見ていましたが、神との約束を信じて希望を持って歩んだのです。

 「砂漠を歩んだイエス・キリストの人生」

「砂漠を見ていた」とは、「悲惨で厳しい道を歩んだ」ということですが、この点で、最も悲惨な人生を歩んだのが、「イエス・キリスト」です。しかし、十字架の死の後、イエス様は復活されました!まさしく、「暗闇」を「光」に、また、「死」を「復活」に変えてくださったのです。「死」の後に「光」=「希望」が満ちています。だから、キリスト者も希望に満ちて歩んでいるのです。たとえ、それぞれの現状が砂漠のような厳しい状況でも…。神の約束はふさがれて、はっきり見えないかもしれませんが、「キリストを信じる」とは、新しい世界があるという希望を、眼前に見つめながら進むことです。

 「十字架」から「栄光」へ=「絶望」から「希望」へ!

ヘブライ人への手紙12章2節には「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」とあります。イエス様は「恥」「恥辱」「敗北」で人生を終えられましたが、神の目から見れば、それは一つの通過点です。最終的には、「神の玉座の右にお座りになる」という「栄光」を受けられました!ヘブライ人への手紙には、悲惨な状況の時、イエス様が横にいて助けてくださると書かれています。(2:17-18、4:15-16、5:7-10等) イエス様は、信仰者の全生涯の中にいてくださいます。たとえ、真っ暗な墓の中にまでも……。キリストによって、暗闇(絶望)から光(希望)へと移っていくのです。

 イエス・キリストの教え

そのような救い主イエス・キリストの教えを集約するならば、「神と隣人とを愛しなさい。」と「神に感謝して喜びを持って生きなさい。」ということです。前述のとおり、ヤコブやヨセフは、厳しい境遇に置かれてもふてくされたりしませんでした。その境遇で一生懸命に生きて、財産や地位を得ました。将来の希望を見据えつつ、つらい現状でも、神と隣人とを愛しました。ヘブライ人への手紙11章には、「信仰によって」という言葉が随所に記されていますが、ヤコブやヨセフは、まさしく、「信仰によって」砂漠に向かう族長だったのです。その11章の8節には、アブラハムについて「行く先も知らずに出発した」とありますが、そんな状況でも、アブラハムも、神と隣人を愛して歩んだのです(創世記12章-25章)。

 「イエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)喜ぶ

ヘブライ人への手紙12:1では「こういうわけで」と言って、11章の族長達の信仰深い歩みを踏まえた上で、「自分に定められている競走」をまっすぐ走ることを勧めます。次の2節の「信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめながら」という御言葉は重要です。どの人にも現実の悩みがあります。しかし、「預言者イザヤの幻」(イザヤ35:1-2)にあるように、砂漠一面に花が咲くのです。これは、「神の(救いの)約束の中に立てば、人知では及ばない、素晴らしい喜びの世界がある」との例えです。救い主イエス・キリストを知って信じる者達には、救ってくださった神様への感謝と、救いに招かれた喜びが満ち満ちています。イザヤの預言は「喜びの先取り」です。現状は砂漠のように厳しくても、救い主を見つめるならば、花園のような喜びが、今、ここに起きていると告げています!

8月16日の説教要旨 「み言葉は魂を救う」 牧師 佐藤 義子

詩編119:73-80・ヤコブ書 1:19-27

 はじめに

今日の聖書から、三つのことを学びたいと思います。第一に、21節「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます」ということ。第二に、22節「御言葉を、行なう人になりなさい」ということ。第三に、27節「みなし子や、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」についてです。

 対話される神様

「御言葉は、魂を救う」の「御言葉」とは、聖書を通して語られる神様の言葉です。神様を知らなかった時、聖書は、私達にとって単なる一冊の本にすぎませんでした。しかし教会に通うようになり、あるいはその他の機会に、神様について、又、イエス様について学んでいくうちに私達の心は変化していきます。今までほとんど意識しなかった神様の存在が、少しずつ、はっきりしてきます。それまでは「祈る」対象(誰に向かって祈るか)が漠然としていましたが、神様は、天と地を創造し、私達に命を与え、私達の生も死も支配されるお方であることがわかってきます。そして人格を持ち(神様の場合は「神格」といいます)、私達の祈りに対して、神様は御言葉をもって私達と対話して下さることを知らされます。つまり、神様は偶像のような命がない神様ではなく、生きて働いておられ、この神様が私達の心に、魂に、働きかけて下さるのです。

 魂の救い

私達人間の心の中に罪が入り込んでからは、人間は神様から離れ、その結果、自分の欲望を制御することが出来なくなりました。現代社会は戦争が絶えず、テロやISのような暴力集団が生まれ、社会に不安と恐怖を与えています。その他、虐待、詐欺、贈収賄などの不正、又、家庭破壊から子供達に不幸な環境を与え、さらには殺人などの悲惨な事件もあとを絶ちません。これらすべては、人間が罪の支配のもとで生きている結果です。又、私達の心の中にも、時に、敵意や怒り、利己心、不和、ねたみなどが生れます。そのような、神様から離れた罪の世界から、神様は、私達を引き上げて、神様の支配のもとで生きていくようにして下さいました。これが罪からの救い・魂の救いです。魂の救いは、罪という鎖につながれて生きていた私達人間の、その鎖を、「十字架の死」によって断ち切って下さったイエス・キリストを、私の救い主と信じる時、起こるものです。19節に、「誰でも、聞くのに早く」とありますが、私達は神様の言葉を聞くことに鈍いのです。鈍いだけでなく、神様との対話を求めず、自分の論理で、解決しようとしてしまいます。私達はもっと真剣に、神様が語ろうとしておられることを正しく聞いていかねばなりません。

御言葉を行う人になる

第二の、「御言葉を行う人になる」とは、聞くだけに終らないということです。ここでは、聞いても行わない者は、顔を鏡に映して眺める人に似ていると言っています。私達は、鏡から離れれば、自分の顔をすぐ忘れるように、聞いても行わない者は、その御言葉をすぐ忘れてしまうのです。それに対して、聞いた御言葉を実践しようとする者は、「御言葉」が自分の内面を照らし、内面の本質にふれるのです。その時、何でもお出来になる神様が、必ずその御言葉を自分にさせて下さるとの確信のもとに祈り求め、たとえ時間がかかろうとも、それは成し遂げられるのです。「このような人は、その行いによって幸せに」(25節)なります。

私達の神様への奉仕

最後の27節では「みなしごや、やもめが困っている時に世話をすることと、「世の汚れに染まらないように自分を守ること」の二つを命じています。前者は、イエス様が教える隣人愛、具体的には「良きサマリア人」が示した愛です。後者は、神様を知らない人々の態度の中にある汚れを、自分の中に受け入れないようにすることです。私達は信仰によって、それらに染まらないように自分を守ることで、キリストの良き証人となるのです。この二つは神様への奉仕です。私達は今まで以上に、「魂を救う御言葉」を真剣に聞き、その実践者となり、神様の良き奉仕者とならせていただきたいと願うものです。

8月9日の説教要旨 「神の御心と律法」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:4-6・ルカ6:6-11

 はじめに

イエス様がこの世で宣教の旅をなさっていた時代には、ファリサイ派と呼ばれる人々や律法学者と言われる人々が、ユダヤ教の指導者として、人々の生活を導き、「先生」として尊敬されていました。この指導者達は自分達は神様から選ばれて「律法」というものをいただいていると教えていました。その「律法」の中心に「十戒」というものがあります。これは、「モーセ」を通して神がイスラエルの民に与えた教えです。「十戒」は旧約聖書の「出エジプト記20章」と「申命記5章」の2か所に記されています。十の教えの内、この時代には、「安息日を守りなさい」という教えが特に大事にされるようになっていました。旧約聖書から読み取ると、安息日を守る目的は二つです。一つは、神様が六日間でこの世を造り、七日目の日に安息されたという「天地創造の御業」を覚え、この日を聖別することです。もう一つは、奴隷として苦しんでいた民の叫びを神様が聞き届け、実際にこの世に働きかけて、民を救った事実を「安息日」に思い起こして感謝を献げるためです。ですから、「律法の核心」は、「神様の人間への愛」です。それは、「自ら罪に陥った人間を見捨てず、絶対に救う」という「無条件の愛」です。「神の愛」に感謝するために「安息日」があるのです。安息日の礼拝で感謝すると共に、いただいている「神の愛」にふさわしい生き方ができるよう、神様に祈り求めるのです。

 反対派(ファリサイ派や律法学者達)の目の前での癒しの御業

しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、前述の「律法の核心」を忘れ、安息日の外面的な細かい決まり(「安息日規定」)を守ることを強調して教えていました。安息日規定では、治療は労働と見なされて禁止されていました。命に関わることは例外ですが、「手の萎えた人」の治療は緊急事態ではなかったので、翌日に延期することが普通でした。ところが、イエス様は、神の御力を信じて癒して欲しいと心から願って御許に来た人を、「憐れみ」ゆえに待たせずに、すぐに癒されました。しかも、イエス様を訴えようとする反対派の真ん中に彼を立たせて堂々と癒されました!

 安息日に、反対派が「神の御心」を外れて行ったこと

癒しの御業をなさる前に、イエス様は反対派の人々を放っておくのではなく、問いかけをなさいました。彼らは恐らく安息日の礼拝の後だったにもかかわらず、人の落ち度を見つけようという心根で、事の成り行きを見つめていました。神様に献げる礼拝の後とは思えない、心得違いです。イエス様は、彼らの考えや行いが、神様の御心に適っていないと気づかせたかったのではないでしょうか。

 「全き善」であり、「命を与える」神様

安息日に律法で許されていることを問うイエス様の御言葉(9節)は、反対派の人々から答えをもらいたいのではありません。彼らが「律法の核心」に立ち返り、「全き善なる神様」・「命を与える神様」の御心を思い出させようとされるものです。彼らの答えを待つ必要もなく、「救い主」として、イエス様は「手の萎えた人」を癒して、苦境から救い出されました。イエス様は、安息日であろうとなかろうと、御許にやって来た人を憐れみ、命や御力を与えてくださるという「全き善」を、神様の御心どおりに行われました。

 「怒り狂った」反対派の人々

反対派の人々は、イエス様に出会い、イエス様に御言葉をかけられ、救いの御業を目の当たりにしました。「救いの御業」をたくさん受けていると言えるでしょう。ところが、彼らは、イエス様の「救いの恵み」に触れていながら、イエス様に従うどころか、背を向け、イエス様を亡き者にする謀略を練る方向へ走り出してしまいました。その果てが「主の十字架」です。「怒り狂う」という語の元々の意味は「無理解からくる怒りで満ち満ちて」というものです。自分達の考えや権威にしがみつく「自己中心の罪」によって、「救い主」の招きから外れ、罪を重ねる結果になっていったのです。私達は反対派のようになってはなりません。

 神の御心に従って「安息日」を守る

「律法の核心」について、イエス様は、ルカ10:25以降の「善いサマリア人」の箇所で、「全身全霊で神様を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」であると教えておられます。私達の場合で言えば、日曜日ごとの礼拝で、神様に感謝し、神の愛に応える生き方ができるように祈ることが大事です。また、救い主の恵みにより、永遠なる「安息」をいつもいただけるのですから、礼拝の日であろうとなかろうと、常に隣人を愛することができるよう、祈り続けたいものです。

8月2日の説教要旨 「安息日の主」 牧師 平賀真理子

サムエル記上21:3-7・ルカ福音書6:1-5

 はじめに

イエス様はガリラヤ地方やユダヤ地方やその周辺を巡って、福音を広める旅を続けておられました。神様のお話や神様の御力をいただいた癒しの御業によって、神様の支配がこの世に始まったことの素晴らしさを人々に知らせてくださっていました。

 ある「安息日」の出来事

福音宣教の旅のある日、弟子達が通りすがりに麦の穂を摘み、食べました。これを、イエス様一行を偵察していたファリサイ派の人々が責めました。現代の私達なら「盗み」という罪状だろうと想像する方が多いでしょう。しかし、そうではありません。通りすがりに、手で麦の穂を摘んで食べるくらいは許されていました(申命記23:26)。問題は、この出来事が「安息日」に起こったことです。ファリサイ派などユダヤ教の指導者達は「安息日」の決まりとして、労働を禁じていて、弟子達の麦摘みは、収穫という労働をしたので律法違反を犯したというわけです。

 当時の「安息日」の決まり

ユダヤ教指導者達は、神様からいただいた「十戒」を守ることが大事と人々に教えていました。特に「安息日を守る」ことについて、人々の生活に合わせた具体的な細かい決まりを作り、形式的に守らせることに留意しました。安息日に、仕事をすることはもちろん禁じられましたが、それ以外に、火を起こして料理したり、長い距離歩いたりすること等も労働として禁じられました。そのような規定が200以上あったそうです。

 「安息日」の本当の目的

旧約聖書に「十戒」は2か所に書かれています。出エジプト記20章と申命記5章です。その中の一つ、「安息日を守る」ことについては、この2か所それぞれで違う目的が書かれています。「出エジプト記20章」では、11節に、神様が六日間で「天地創造の御業」を終えられた後の7日目に休まれたと明記されています。このことを覚えるために、人間も同じように、仕事を六日間した後の七日目に休むことが必要とされたのです。一方、「申命記5章」では、エジプトで奴隷だった人々の苦しい叫びを神様が聞いて、歴史に働きかけて救い出してくださったことを想起するために安息日を守る必要があるとしています。「安息日」は、人間を造って愛してくださる神様、罪に陥った人間を救うために実際に働きかけてくださる神様に感謝を献げるためにあります。そして、神様の御心に従って初めて、人間は心から安息できるのです。

 「安息日規定」より優先されるもの

「安息日」の本来の目的から外れた所で、「安息日」の外面的な細かい規則を守らせることに躍起になっていたファリサイ派の人々に対して、イエス様はお答えになりました。イエス様がお生まれになった時代より更に1000年程前に、ユダヤ人達が一番栄えた時のイスラエル王国のダビデ王の行動(サムエル記上21:3-7)を思い起こさせるものでした。「ダビデ王」はユダヤ教指導者達が尊敬する人物の一人でしたから、ダビデ王とその一行が祭司しか食べてはならないと律法で定められたパンを食べるという違反を犯したという出来事を示すことは有効でした。ダビデ王は、非常時において律法違反をしていたけれども、神様の栄光のために働き続けて神の祝福を受けた人物として記憶されていました。イエス様は決して律法を軽んじられたのではありませんが、非常事態には、律法よりも優先されるものがあると言われたのです。それは神様の御心に適った働きをすることです。「救い主」であるイエス様がこの世で「救いの御業」をなさることこそ、神の御心に適った働きです。そのイエス様の弟子達が、福音伝道の旅の途中で、たまたま安息日に空腹になって、収穫という労働をしました。それは「安息日規定」では違反ですが、それだけで弟子達を非難するというファリサイ派の人々の考えは、神様の御心を優先していない点で、律法の本来の目的から外れています。律法の外面的な決まりよりも、律法の核心にある「神様の御心」に適う御業のために働く弟子達が優先されるとイエス様は教えておられるのです。

 「安息日の主」

イエス様は「人の子は安息日の主である」とも言われました。「人の子」とは「救い主」である御自分のことを暗示するときにイエス様が使われた言葉です。当時の指導者達がすべてに優先するとした「安息日規定」の権威よりも、「救い主」の権威が上であることを宣言されています。イエス様は、最高の権威を持って、私達一人一人の「救い」と本当の「安息」を保証してくださる御方です。

7月26日の説教要旨 「新しいもの」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:31-34・ルカ福音書5:33-39

 はじめに

イエス様は「レビ」という「徴税人」を弟子になさいました。当時のユダヤ人達は、「徴税人」を大変嫌っていました。仲間から税金を取りたて、異邦人達に渡すという罪深いことをしていると考えたからです。ユダヤ教指導者達(ファリサイ派と律法学者達)も、「徴税人」を救おうとは考えず、彼らの汚れが自分にも移ることを避けるため、彼らと同席しませんでした。ですから、神の御力をいただいていると噂になっている「ナザレ人イエス」が、罪深い「徴税人」の「レビ」を弟子にしたのは、ユダヤ教指導者達には受け入れがたいことでした。まず、彼らは、「罪人」(「徴税人」を含む)と同席することを裁こうとしました。一方、イエス様は「救い主としてこの世に来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と答えられました。恐らく、この答えを聞き、彼らは、「罪人を裁くのではなく、悔い改めに導く」ということが、自分達の姿勢に足りないと気づかされたのではないでしょうか。主の御言葉は、人間の本来のあるべき姿を問うものです。ユダヤ教指導者達は反論の余地が全くなかったのです。

 「悔い改め」32節)という御言葉を受けて

当時のユダヤ人達は、「悔い改め」という言葉から、ある人物を思い出しました。「洗礼者ヨハネ」です。イエス様の宣教活動開始の前に、人々に「悔い改め」を激しく迫った人物です。洗礼者ヨハネとその弟子達は、当時の人々が宗教的だと考えていた「断食」や「祈り」に熱心でした。一方、イエス様とその弟子達は、人々の前では、「罪人」達と「飲んだり食べたり」している姿が印象づけられていました。しかし、イエス様は、「断食」や「祈り」を決して軽んじられたわけではありません。宣教活動の前に、40日間の断食をされました(4:2)。また、人里離れた所で祈られた(5:16)等、いつも熱心に祈られていたことは福音書に度々書かれています。

 「花婿」=「救い主」

ユダヤ教指導者達の「イエス様一行が断食せず、飲み食いしている」という非難に、イエス様は例えで答えられました(34-35節)。「花婿」とはユダヤ人が待ちに待っていた「救い主」のこと、つまり、イエス様のことです。救い主がとうとうこの世に来てくださり、人々が喜んで集うことが「婚礼」であり、「婚礼の客」とは「救い主を喜んで受け入れて信じる人々」です。喜びの宴会では、人々は喜んで飲食します。愛する民と共に居ることを喜ぶイエス様=「インマヌエルの神」(マタイ1:23)とその一行(弟子達)も共に飲み悔いするのは当たり前だと言われたのです。主は「救い主がこの世に来て、人間として共に生きておられる」、それが本当に大変な恵みの時であることを知らせようとされています。同時にまた、救い主がこの世から奪い取られる時が来ることも告げられました(35節)。これは、「十字架」による死の予告であり、主の死後、人間が悔い改めの断食の時を過ごすようになることを知らせてくださったものです。

 新しいものは新しいものに!

イエス様を「救い主」として受け入れて信じることで救われるのが、エレミヤ書31:31にある「新しい契約」と言えるでしょう。そして、律法を守るということで救われるというのが「古い契約」であり、ユダヤ教指導者達が教えていたものです。イエス様がもたらした福音を信じる「新しい救い」は、律法を死守するというユダヤ教の「古い救い」に引き継がれるのは、むずかしいことだろうとおっしゃっています。(後の時代の私達は、まさしく、そのようになっていることを知っています。)

 主によって「新しい救い」に招かれた私達

「布切れ」や「葡萄酒」と「革袋」の例えも、古いものが、その古さ故に新しいものを受けとめ切れないということ、つまり、新しいものを受け入れられるのは新しいものだということを教えておられるのです。そして、イエス様一行を非難してきたユダヤ教指導者達に対して、御自分の「新しい救い」を彼らが受け入れるのはむずかしいだろうと予告されました。それが39節です。それまでになじんできた「古いもの」(古い「救い」)の方がよいとして、「新しいもの」の良さを認めず、「古いもの」に留まる心地よさを捨てられないという人間の頑なさを、主は知り抜いておられるのです。イエス様は、弟子達を、漁師や徴税人といった「古い救い」の中では軽んじられた人々から新しく選ばれました。そして、同じく軽んじられた「異邦人」の中に、私達もいました。憐み深い主の御心によって、私達は、「新しい救い」を受け入れる者として招かれているのです。

7月19日の説教要旨 「主は近くにおられる」 牧師 佐藤 義子

詩編97:7-12

フィリピ書4:2-7

 はじめに

パウロがフィリピの町での伝道を始めるにあたり、2節に登場するエボディアとシンティケの二人の婦人は、他の協力者達と共にパウロをよく助け、支えました。今、パウロは、信頼しているこの二人に向けて、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。教会は同じ信仰告白をする者の群れです。生まれも育ちも置かれている環境も、そして考え方や感じ方も違う者達が、信仰によって一つとされた群れです(エフェソ4:4「主は一人、信仰は一つ」)。パウロがこの勧めの言葉を語る背景に、二人の間あるいは、二人と教会の人達との間で、何らかの考えの違いが出てきたと思われます。しかし、教会の中で不協和音があっては、教会としてはなりたたなくなるのです。教会の一致への道は、「主において同じ思いを抱く」ことです。

 主において

「主において」とは、「主」を共通の基盤とする、「主」を根拠にすることです。クリスチャンは「主」に属する者であり、主に属する者は「主によって規定される」ことです。教会の最高責任者はイエス・キリストです。教会は、イエス・キリストが「かしら(頭)」であり、牧師をはじめとする信仰者は、頭であるイエス・キリストの体です。それぞれ神様から与えられている賜物に応じて教会の働きを担っています。教会活動の根本ルールは、何事も「主において」することです。イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストに徹底的に服従する信仰に立つ、今与えられている恵みの中に立つ、教えられてきた福音の中に立つ、ことです。

 「主において常に喜びなさい」

4節でも「主において」常に喜ぶように命じます。「常に」とは、とても喜べないような状況の中でも喜びなさいということです。この喜びは、一回限りの喜びではなく、継続的に喜びの状態に「とどまり続ける喜び」です。それは、主イエス・キリストを根拠とした喜び、主イエス・キリストから湧き出てくる喜びであり、この世の喜びとは違う喜びです。このフィリピの教会に宛てた手紙は、パウロが投獄されて自由が奪われている中で書かれました。それでもパウロには喜びがあり希望がありました。パウロは、「主において常に喜こんで日々を生きていたのです。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」

「広い心」とは、あることに執着し、こだわり、しがみついたりせず、自由に行動できる心です。ファリサイ派や律法学者達のようにではなく、ご自分の権利を捨てて(神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、かえって自分を無にして人間と同じ者になられたイエス様の生き方が示している「広い心」です。その土台となっているのは愛です。愛から出る行動は、あらゆる執着から私達を解き放ち、柔軟で寛容な考え方を生み出します。クリスチャンは、そのようなイエス様の似姿に近い者とされていく歩みへと招かれています。これはクリスチャンの特権です。

 「主はすぐ近くにおられます」

パウロは、この手紙の前半で、獄中で自分が世を去る可能性があることを考えており、後半では、終末と再臨の時への思いを強くしています。 今、世界を見る時、イエス様が預言された終末のしるし・・「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」が現れているのを見ます。私達が地上を去る時、又、終末に思いを巡らす時、「主が近くにおられる」という信仰は、私達からこの世の一切の思い煩いを遠ざけ、私達をまことの祈りへと導きます。その祈りは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」祈りとなります。私達の人生には苦難がいつも伴います。しかし、神様は、神様を信じて従っていく者に、いつも目を注いで下さいます。どのような状況になろうとも、最善の道を備えて下さり、その恵みの体験を重ねるごとに、私達は感謝を込めて祈りと願いを捧げ続けることが出来るのです。すべての良きことは神様から来るのであり、神様の内に一切の希望と富があります。それゆえ私達は、何を計画し、何をしようとも、神様の御心にお委ねするのです。その時、「人知を超える神の平和が、私達の心と考えとをキリスト・イエスによって守る」のです。

7月12日の説教要旨 「罪人を招く主」 牧師 平賀真理子

詩編25:6-14

ルカ福音書5:27-32

 はじめに

みもとにやって来た「中風の人」と運んできた仲間の信仰をご覧になったイエス様は、「罪の赦し」と「病いの癒し」をなさいました。そこでは、神様への賛美が起こりました。しかし、イエス様は御業を誇ることなく、福音を広める旅を続けるため、すぐ出発されました。

 徴税人「レビ」の召命=イエス様の方からの呼びかけ

イエス様は道中、心の中で救いを求めていたであろう人を見つけ、ご自分の方から「わたしに従いなさい」と声をかけられました。「レビ」という徴税人です。当時、税金を取り立てる「徴税人」は人々から嫌われ、軽蔑されていました。自分達と同じユダヤ人でありながら、自分達を支配しているローマ帝国やヘロデ王家(異邦人)のために大事なお金を税金として取り上げる仕事を「徴税人」がしていたからです。また、彼らの多くは、本来の税金よりも多くのお金を人々から徴収して、私腹を肥やしていました。異邦人と交際している「徴税人」は、神様に背いて生きていると軽蔑されていた「罪人(つみびと)」とされていました。しかし、「徴税人」にならざるを得なかった事情が彼らにあったかもしれません。また、そんな仕事を続けていくことは精神的・社会的に辛いことだったでしょう。絶望的な思いを抱いて、「レビ」は仕事場に座っていたのでしょう。イエス様は人間の心の中を見抜かれ、「救い」を求める人を決して見過さない御方です。憐れみをもって、レビを「本当の救い」に招いてくださいました。「中風の人」の場合と違い、今回は「救い」を求める人に、主の方から来てくださり、「本当の救い」に招いてくださったのです。

 主の招きにすぐに応えた「レビ」

イエス様の招きに応じて、28節に「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。すべてを捨てて主に従う姿は、主の弟子シモン・ペトロ達と全く同じです(5:11)。主の招きを受けた者は、すぐに従うべきだと伝えていると読み取れます。

 主のための宴会に同席した者と同席できなかった者

本当の救いという恵みをいただいた「レビ」は、盛大な宴会を催しました。イエス様に対する感謝を表すためだったと思われます。自分のために貯めていた財産を主のために使うと言う、180度の方向転換です。この恵みの席に同席したのは、「徴税人」や「罪人」です。一方、宗教的聖さを重んじるファリサイ派や律法学者達は、彼らと同席できませんでした。しかし、とても気になって、様子を外から遠巻きに見ていたのでしょう。そして、恐らく、弟子達が外に出てきた時にでも、自分達の疑問を投げかけたのではないでしょうか。「宗教的に汚れた人々と食事を共にするなんて、どういうつもりだ?」そんなことをすれば、聖い自分達も汚れて、神様の御前では「罪人」とされると彼らは考えたのです。

 罪人を招くために来た主

その質問にイエス様自らがお答えになりました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。」これは、次の32節の例えです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」救い主としてのイエス様がこの世に来られた目的を、御自身で明らかになさいました。質問した反対派が自分達を「正しい」と考えているので、その考えに合わせて答えられました。「正しい、つまり宗教的に聖いと自負するあなた達には、救い主は必要ないですね。あなた達が汚れているとみている罪人こそ、救い主は必要ですね」と言われたのです。「罪人」と呼ばれた人々と共にいて、彼らに神の国を知らせることこそ「救い主」である御自分の使命だとおっしゃったのです。

 「罪人」とは?

「罪人」とは誰かを考え直す必要があります。社会の中で苦しんでいる人々を「ダメな人達だ」と裁くだけで助けようとしない反対派こそ、「罪人」の最たるものでしょう。ここで、「罪人」は2種類あると考えられます。神様の律法を守れない人と、律法を守らない人の事情を配慮せずに裁くだけで助けようとしない人です。新約時代の私達は、福音によって神様の御心を知らされています。自分自身を振り返ってみて、常に神様の御心に従っていると言えるでしょうか。神様の御心に従っていない人を見て裁くだけになっていないでしょうか。それでは「罪人」に逆戻りです。しかし、そんな「罪人」である私のためにイエス様は「悔い改めて神の国の民として生き直す」ように招いてくださっているのです。