11月22日の説教要旨 「幸せへの道」 デイビッド・マーチー先生(東北学院大学教授)

詩編1:1-6

 はじめに

人間は、幸せを得るために人生の道を選びます。幸せになるために、多くの人は、財産や所有物(車・家など)を得ようとしたり、身近な快楽を経験しようとしたりします。しかし、その望む状態になっても、今度は、それが当たり前になり、心は満たされません。また、教育を受けたり、気楽な友達を求めたり、快適な生活や老後のために蓄えるという、普通の人が行う方法でゴールにたどり着いても、虚しさや不満が残ります。待ち望んだ「幸せ」にはなれません。「本当の幸せ」は物質によっては得られません。

 詩編で示されている「幸せ」「幸せな人生」

聖書では、「幸せ」とは、人間が神様の意志の中に生きる時に見つかると教えています。神様と共にある人生こそ「幸せ」であると、困難な時にこそ、よくわかるのです。これがまさしく詩編第1編のテーマです。この1編は、精神的な困難や悩みを経験した人が書いたと思われます。この著者は、神様からの慰めを求めたのです。この詩の表現は簡単ですが、どんな人が幸せかという私達の疑問への、奥の深い答えを示しています。「本当の幸せな人生」とは、神様の思し召しと御言葉に根を下ろした人生であり、そうすれば、幸せな人生は消え去らないと告げています。

 詩編第1編から見る「幸せ」

第1節では、「神に逆らう者・罪ある者・傲慢な者」という「世」、つまり「神様を信じない空気」に支配されてはいけないと言っています。もし、そのような「世」に同調したら、今は歩けても、次第に動けなくなり、やがてあざける者の中に座らせられるようになり、神様を信じない世界に陥るのです。そのように、神様から遠ざかる者、神様を馬鹿にした呼び名で呼ぶ人を「高慢な者」とも言いますが、箴言21:24には「増長し、高慢な者、その名は不遜、高慢の限りを尽くす」とあります。詩編第1編の著者は、高慢な者達に囲まれた厳しい状況に居たのでしょう。高慢な者達は神様の御言葉を受け入れません。その本当の理由は、神様の御言葉によって私達が要求されるものよりも、神様の約束の恵みの方がずっと大きいと知らないで、「神様の要求が厳しい」と誤解しているということです。

3節では、神様の無い世界と神様の下にある生産的な人生が大きく違うとあります。神様の意志に根付いた生活こそが神様の導きに富んだ、豊かな生活であり、決して厳しくて、枠の中に捕らわれた生活ではありません。「枠」というと旧約聖書の「律法」を思い出されるかもしれませんが、それも、窮屈で面白くないものではありません。「律法」は神様の恵みにある自由な生活を送る人の羅針盤です。

 「神様の御言葉」を喜んで受け入れる

詩編第1編によれば、幸せな人は、神様の掟=神様の御言葉の恵みを喜び、昼も夜も口ずさむ人です。愛する御方の掟への服従は決して苦しくありません。私達を愛してくださる神様の御言葉は喜んで受け入れられるはずです。しかし、私達は本当に神様の御言葉を喜んでいるでしょうか。ダビデ王は、神様の御言葉を喜びとしていました(詩編19:10-11、119:92-93)し、 修道院の信仰者達の生活は神様の御言葉を毎日読むことの大切さを想起させてくれます。クリスチャンが神様の御言葉に自分自身を献げるならば、一人一人が変わり、人間関係が変わり、そして、神様と自分との関係が変わります。

 「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」の対比

3節と4節には、「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」という対照的な関係があります。イスラエルの民は日照りや飢饉に苦しんだので、水のありがたみを知っています。神様の御言葉を愛する人は、水の流れのほとりの木で、実を結ぶと表現されています。年をとっても、霊的な実を結ぶと保証しています。それは「永遠の幸せ」と言えます。これは、神様からだけいただけるものであり、神様からの約束の恵みであり、これこそ神様に従う本当の喜びです。決して虚しいものにはなりません。反対に、神様に逆らう者は虚しいものであることを「もみ殻」(4節)と例えています。神様のいない人生、我が道を行く悲劇を表しています。虚しく、役立たないのです。更に、詩編第1編の最後は、我が道を行く人への警告で終わります。神様から離れて自分勝手に歩む道は、当座は魅力的でも、決して神様の裁きに堪え得ません(ナホム書1:6、詩編130:3)。一方、 神様の御言葉を聞いて深く考えて従う人を神様は見守ってくださいます。聖霊に導かれるクリスチャンは、神様の御言葉と祈りに没頭する時、幸せな生活が体験できます。

11月8日の説教要旨 「死者のよみがえり」 牧師  平賀真理子

列王記上171724・ルカ福音書71117

 はじめに

イエス様と弟子達と大勢の群衆がナインという町に近づかれた時のことです。(ナインは、イエス様の宣教の拠点カファルナウムから約8㎞の町です。)ちょうど、ある家から棺が担ぎ出されるところでした。

 絶望した母親を憐れむイエス様

一人の若者の死でした。彼の母親は、夫を亡くした「やもめ」でした。母一人子一人で生きてきたのに、その一人息子が亡くなったのです。この母親は絶望して泣き叫んでいます。13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」とあります。この母親の大変深い悲しみや絶望を憐れまれました。この「憐れむ」という言葉は、「腸」という言葉を語源としています。人間の情がこの「腸」から生まれ、存在すると考えられていたのです。表面的にではなくて、心の底から同情するということを言い表しています。深い悲しみや絶望に捕らわれている人々の所に、主が先ず訪れてくださり、その気持ちに寄り添ってくださることを示しています。

 「死」から若者を解放された主

主の憐れみによって、更に偉大なことが起こります。この母親の悲しみ・絶望の源が取り除かれたのです。主は「息子の死」を取り除き、この若者を生き返らせてくださいました。イエス様が、「死」から若者を解放するという御業をなさったのです。この姿はまさしく、イザヤ書で預言されていた「救い主」の姿です。「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)この町の大勢の人々がこの母親のそばにいたとありますから、多くの慰めの言葉がかけられていたことでしょう。しかし、本当の慰めを与えることができるのは、「死」に打ち勝つ御力を持つ御方、つまり、神の御子・救い主であるイエス様しかいないことが知らされています。直前の段落では、イエス様は瀕死の病人を元気になさるという御業をなさいましたが、今回は完全に死んで棺に入っている若者をよみがえらせたということで、イエス様の御力は「命」をお与えになることのできる素晴らしいものだということが明確になっています。

 神様を讃美した人々の言葉

イエス様の御業を目撃した人々の、神様を讃美した言葉が16節に書かれています。最初の言葉は「大預言者が我々の間に現れた」です。大預言者とは、この場合、もちろんイエス様のことです。ただ、ユダヤ人達は、「大預言者」という言葉の奥に、列王記上17章以降に記されている「預言者エリヤ」を思い浮かべているのです。預言者は、神様の言葉を受け取って、人々に伝える使命を神様によって与えられた人です。また、神様の言葉だけでなく、更に神様の御力も与えられることもあります。だから、エリヤのように、死者さえもよみがえらせることもできたのです。イエス様も神様の言葉を語り、神様の御力もいただいている御方ですから、大預言者と言われれば、そういう一面もあります。けれども、それ以上の御方です。次の讃美の言葉「神はその民を心にかけてくださった」の奥には、歴史上の出来事「出エジプト」の記憶があるのです。そして、出エジプトと言えば、当時のリーダー「モーセ」が思い出されているのです。人々は、イエス様のことを、偉大なモーセのような、凄い御力を持つリーダーだと思ったのでしょう。人々は、自分達の理解や過去を通して、ナインでの出来事から、イエス様の偉大さを感じているようです。しかし、例えているのは、エリヤやモーセのような「尊敬する人間」です。しかし、イエス様は、人間としての歩みをなさいましたが、本当は全く次元の違う「神の御子」、つまり、神様です。一方、イエス様の「死者のよみがえり」の御業に対して、人間は人間の範囲でしか、理解できない、表現できないという限界が示されています。(そこに聖霊が働いてくださらない限り、神の御子については、人間の力だけでは理解できないのでしょう。)

 我が身に起こる「救い」

ナインの人々は神様の御業を讃美しましたが、イエス様をメシア=救い主とまでは言い表せませんでした。人間に対しての「救い」の出来事がその場で即座に理解されることはむずかしいことがわかります。しかし、「救い」は私達一人一人に、自分の理解を越えた所で我が身に起こります。そのことを知らされている「後の時代の者」として、主に心を向けて目を覚ましてい続けたいと願います。

11月1日の説教要旨 「百人隊長の信仰」 牧師 平賀真理子

箴言29:23・ルカ福音書7:1-10

 はじめに

百人隊長の信仰をめぐる話を読みましたが、この百人隊長は、イエス様に直接会っていません。同じ内容を記したマタイ福音書8章やヨハネ福音書4章では、イエス様に直接会って懇願しています。しかし、このルカによる福音書では、主に会わずに、重んじている部下の瀕死の病いを癒してもらっています。それが特徴です。イエス様に直接会っていないのに、心からの願いを叶えてもらいました。この百人隊長は私達と重なるところがあります。その信仰から学ぶべきところがたくさんあります。

 異邦人である百人隊長

「百人隊長」とは、ローマ帝国の軍隊組織の中での地位で、50~100人程の歩兵を統率する下士官です。その管轄する歩兵達に命令できる人であり、同時にまた、上にいる千人隊長(将校)から命令される立場にある人です。また、ローマ軍の組織をまねて、ガリラヤ地方を代官として治めていたヘロデ・アンティパスも軍隊を持っていて、「百人隊長」がいたようです。今日の話の百人隊長がどちらの軍隊の百人隊長だったかわかりませんが、重要なことは、この百人隊長が異邦人だったことです。恐らく、この百人隊長は、ユダヤ教を通して、本当の神様を信じるようになっていたようです。そして、神の選びを尊重し、神の民として選ばれたユダヤ人と、自分を含めた異邦人との間に違いがあることを自覚していました。だから、ユダヤ人であるイエス様に対し、神様から遠い異邦人の自分は直接会えないと思って、まず、ユダヤ人の長老達に願いを委託したのでしょう。

 ユダヤ人の長老達が百人隊長の願いを取り次ぐ

選民意識の強いユダヤ人の長老達が、軽蔑していた異邦人である百人隊長の願いを取り次いだ姿には、2つの驚くべきことがあります。1つは、異邦人の代わりに熱心にお願いしていることが、珍しいことだったということです。もう一つは、長老達の願いの相手が、彼らが歓迎していなかったイエス様だったということです。もちろん、この百人隊長が、ユダヤ教の教えを尊重し、それを奉じているユダヤ人達を敬愛して、ユダヤ教の会堂まで私財で建てたことが、ユダヤ人の長老達の心を動かしたのでしょう。けれども、もっと大きく考えれば、神様が、百人隊長の願いを通し、主に敵対する長老達に、イエス様を認めさせるように働きかけられたと見ることができます。

 「心の低い」百人隊長

頑ななユダヤ人の長老達さえ動かした百人隊長の願いを受けて、イエス様は彼の家に向かわれました。しかし、その到着を待たずに、再び、百人隊長は、自分の願いを友達に託したのです。自分は、本当の神様が救い主としてこの世に派遣された救い主イエス様に直接会いに行ったり、お迎えしたりする価値のない異邦人だとへりくだる思いからでした。その謙虚な思いこそが、主の祝福を受ける礎です。今日の旧約箇所でいうなら「心の低い人は誉れを受ける」ということでしょう。

 自らの職務から「主の権威」を知る百人隊長

更に、この百人隊長は、自分の職務=軍隊の命令を受けたら遂行する使命を担うことを知っていました。人間界における権威でさえ、そのように絶対的な権威を持つのであるから、天から遣わされた神の御子、救い主イエス様の権威は比べものにならない程、とてつもない大きいことを百人隊長は推測することができました。自分の仕事や役割から、神の国を思い描いているのです。この姿勢は私達も学ぶことができると思います。主の権威に服従することは当たり前、もっと言うと、喜びであると示されています。

 百人隊長の信仰と愛 

また、主から「部下は癒される」というひと言さえもらえれば、癒されると信じていることも素晴らしいことです。ユダヤ教(イザヤ書55章)で教えられている「主の御言葉は必ず実現する」ことへの絶対的な信頼=信仰が表されています。神様の前に謙虚な姿勢の百人隊長でしたが、また、同時に、ユダヤ人を愛して会堂を建てたばかりでなく、部下を重んじて、その癒しのために親身になって手を尽くした百人隊長の愛の深さも、ここに見ることができます。

 異邦人の信仰を喜ばれた主

主への絶対的な信仰を、イエス様は大変喜ばれ、百人隊長の願いを叶えてくださいました。主の救いは民族や場所や時間を越え、同じように私達にも与えられています。

10月25日の説教要旨 「わたしたちの救い」 倉松 功 先生(元 東北学院 院長)

エレミヤ書23:5-6・ルカ福音書19:1-10

 はじめに

私達の教会、プロテスタント教会が再出発したのは、1517年です。キリスト教会は礼拝を始めて500年ほどは一つでしたが、その後、ギリシア正教会、ローマ・カトリック教会に分かれていきます。一つだった元々の教会に回帰する、元々の教会の流れを受け継いで再出発する、これが宗教改革の精神です。宗教改革を最初に行ったのは、マルティン・ルターであり、1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会が「免罪符を買うことで救われる」と教えたことなどへの95箇条の問題提起をしたのでした。

 「救い」とは何か-ザアカイの「救い」の物語

私達は教会に救いを求めて来るし、また、救いを確かなものにするために来るわけです。私達が理解している「救い」とは何か、それを大変わかりやすく記してあるのが、ザアカイの救いの物語だと思います。主イエスがエリコの町に入られました。エリコはエルサレムから東へ50キロ、エルサレムの出入り口にあります。そこに、ザアカイという徴税人がいました。エリコは通商が盛んで、徴税人は通商税を取っていたことでしょう。また、支配されていたローマ帝国への税金も集めていました。ローマ帝国のために、ザアカイは、自分と同じユダヤ人達から税金を取り立てたので、ユダヤ人からすれば、ザアカイは喜ばしい人ではなかったでしょうし、また、徴税人の頭として、手下の徴税人達の給料分や家族の生活費も上乗せして、人々からお金を取り立てていたでしょう。だから、ユダヤ人からは憎まれ、疎外された人間だったと言えるでしょう。ザアカイ自身も自分に嫌悪感があったかもしれませんし、主イエスが来られると聞いて、キリストに対して好奇心もあったと憶測いたします。ザアカイはイエス様を見ようと思ったけれども、背が低くて、見えなかったので、建材に使うような丈夫ないちじく桑の木に登ったわけです。そこへ、突然、事が起こりました。キリストの方から、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」という声がかかりました。これは、ザアカイにとって大変な驚き、大変な喜びでした。自分のような者にイエス様の方から声をかけてくださった!だから、急いで降りて来ました。そして、イエス様は、次の御言葉「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。泊まらなければならない!」とおっしゃり、ザアカイに更に大きな喜びを与えたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。

 ザアカイの感謝と懺悔(ざんげ)

そして、ザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言います。これは、喜び、心からの感謝の表れです。まだ、続きます。「だまし取っていたら、四倍にして返します。」これは旧約聖書で、羊を四倍にして弁償する規定から来ていたかもしれませんし、ユダヤ人のしきたりともなっていたようです。この後半の言葉は、悔い改めです。前半の感謝に対して「四倍にして返す」は、悔い改め、もしくは懺悔のしるしと言っていいでしょう。キリストがまず、ザアカイを迎え、受け容れてくださったことへの感謝のしるし、その後に悔い改めのしるしがあるのです。順番が大事です。決して、懺悔と感謝ではありません。私達人間がキリストをまず受け入れたのではなく、イエス様の方からザアカイ、即ち、神様から人間の救いへと働きかけられると、この物語は伝えます。9節の「人の子」とは主イエスご自身を指す言葉であり、「失われたものを捜して救うために」とは、キリスト以外のすべてが失われている、救われねばならないことを意味しています。救い主を通してすべてが救われなければならない、それが神様から与えられたイエス様ご自身の使命であることを示しています。

 新約聖書の「救い」

新約聖書の救いはそれだけではありません。Ⅰコリント書1章30節に「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあります。これは、神様の方から見た「私達の救い」です。「神の方からみて、救いが起こる」とは、キリストに結ばれることです。キリスト・イエスに結ばれるというと、洗礼を思い起こしますけれども、キリストが私達にとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたわけです。神様から遣わされたキリストによって、私達人間側からは「救われる」のですが、神様側から言えば、「キリストが義と聖と贖い」となるというのです。

 神の国に入る

主イエスが最初に語られたのは、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とという御言葉ですし、また、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)ともおっしゃいました。「神の国」は領土や領民があるわけではありません。「神の国」はキリストが義と聖と贖いとなる、つまり、キリストが支配する国です。キリストが王となり、祭司となる国です。だから、キリストの国となるということです。だから、神の国は近づいたのです。そして、キリストのものとなった人々の集まりができる、これが教会、そこが神の国です。「救われる」とは「神の国に入る」ことです。

 ルターが発見したこと

それが宗教改革と密接に関係があります。1517年の95箇条の問題提起が掲げられる数年前に発見されたこと=「キリストを受け容れることによって、キリストが王となって、私達を支配する」という発見です。ルターは、このことを詩編31編、70編、71編の研究によって発見し、宗教改革を決意しました。これが私達につながることであります。神の国とは、キリストが王として、祭司として、私達を治めてくださるということです。信仰によって、キリストが王として私達を支配してくださるということを、ルターが、第一回目の詩編講義の時に発見したわけです。一方、当時のローマ・カトリック教会は、免罪符を売って人々に救いを保証するだけでなく、死者さえも免罪符購入で救われると教えていました。それはおかしいとして、ルターは、95箇条の問題提起をしたのです。だから、ルターが宗教改革を始めることになったのです。

 信仰=キリストに結ばれる

ザアカイのお話から、まず、キリストに受け入れられ、キリストによって与えられる信仰のことが知らされましたが、信仰は、だんだん純粋になり、キリストとの結びつきが強められます。説教や洗礼によって、キリストと更に結ばれ、また、聖餐によってキリストの御身体に与るという、様々な形でキリストに結びつくことを、私達の教会は許されています。そのことをキリストに感謝して歩みたいと存じます。

10月18日の説教要旨 <教会学校との合同礼拝> 「新しい誕生」  牧師 佐藤 義子

詩編 30:2-6・ヨハネ福音書 3:1-15

 はじめに

私達は毎週日曜日に、神様を礼拝するために教会に来ています。いつもは、子供と大人の礼拝時間は違いますが、今日は一緒に礼拝をささげます。礼拝では、神様をほめたたえるために讃美歌を歌い、お祈りをし、聖書からお話を聞きます。聖書には何が書かれていますか? そうです。神様について書いてあります。 神様を見たことはありますか? 神様に会ってお話ししたことはありますか? 誰もいませんね。なぜなら、天におられる神様は、私達の目には見えないからです。

 神様のことを知らせてくれた人

でも、目に見えない神様のことを、私達人間に知らせに来てくれた人がいます。神様のことを知らせるためには、神様のことをよく知っている人でなければなりません。神様のことを良く知っているのは、神様と一緒にいた神様の息子です。神様は、ご自分の息子を、私達が住むこの世界に、人間として生まれさせてくださいました。そう、イエス様です。イエス様は、みんなに神様のことを教えただけでなく、神様から力をいただいて沢山の病気で苦しんでいた人達を治しました。私達はイエス様を通して神様のことがとてもよくわかるようになりました。

 ニコデモさん

今日の聖書は、イエス様とニコデモさんとのお話です。ニコデモさんは、旧約聖書のことをとてもよく勉強していて、みんなに教えていましたし、又、議員もしていて人々のリーダーでもありました。このニコデモさんが、イエス様のお話を聞いたり、イエス様が病気の人を治されたりする奇跡を見て、もっとイエス様とお話したいと、ある夜、イエス様を訪ねました。

 イエス様とニコデモさんとの会話

ニコデモさんはイエス様を「先生」と呼んで、「あなたは神様のところからいらしたということが私にはわかります。なぜなら病気を治したり奇跡を行えるのは、神様が一緒でなければできません」と言いました。イエス様のお返事は、3節『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。そして5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」というものでした。

イエス様のおことば

私達が、「神様を信じます。イエス様を信じます。」と、自分の心の中にある「信仰」を口で言い表すことは、とても大事なことです。しかしイエス様は、ニコデモさんが、もっと大切なことを知らなかったので、そのことを教えられました。それが、「人は、新しく生まれなければ、神様のところには行かれません」ということでした。

ニコデモさんの驚き

ニコデモさんは年をとっており、もう一度生まれるなんて無理ですし、それに、ニコデモさんは神様を信じていて神様の教えも守っていましたから、神様のおられる天の国に自分はもちろん入れると考えていました。ですから、このイエス様の言葉を聞いて、どんなに驚いたことでしょう。

新しく生まれる

「新しく生まれる」とは、「上から生まれる、天におられる神様の働きによって新しく生まれる」ということです。お母さんのお腹から生まれ直すことではありません。神様から「神様の霊」をいただいて、新しい自分に(心が)生れ変わる=神様に変えて いただくことです。

イエス様は、「霊」を風にたとえて説明されました。風は目に見えませんが、風が吹くと木の葉がゆれるのでわかります。でも私達は、風が、どこから吹いて来て、どこに向かっていくのかわかりません。神様の霊も風と同じように、私達の目には見えないけれども、いつも働いておられて、風が吹いたことが後でわかるように、神様の霊の働きを受けた人には、必ず目に見える変化がその人に生まれ、周囲の人にもわかります。神様の霊は神様の御意志によってのみ働きます。私達には祈り求めることが許されています。それと同時に、いつでも「神様の霊」を受ける心の備え(毎週の礼拝・日々の御言葉に親しみ祈る生活)もしましょう!

10月11日の説教要旨 「平地の説教⑤-御言葉を行う-」 牧師 平賀真理子

詩編19:8-15・ルカ福音書6:46-49

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて5回目です。今日の箇所は、「平地の説教」の最後の部分、結論にあたる部分ですから、今までにもまして重要だと推測できます。

 「主よ、主よ」と呼びながら、言われたことを行わない者 

イエス様のことを「主」と呼んで尊敬しているようで、しかし、その教えを実行しない人がいるとイエス様はおっしゃっています。「主よ」と呼びかけをするばかりで、自分を御言葉に従わせようと考える人が少なかったということでしょう。この「平地の説教」は、弟子達やイエス様に従って御言葉を聞いている人々に向かって教えられたことです。そういう人々の中にさえ、うわべだけの信仰者がいたわけです。

 「神の国」の御言葉を聞ける恵み

イエス様の素晴らしさは溢れて、多くの人の心を動かします。現代の人々の中でさえも、福音を伝えると、「イエス・キリストっていいこと言うわね」「なんか清められたわ」と言う方はたくさんおられます。しかし、話を聞き終わって教会を出たら終わりで、教会に来る前と何ら変わることなく、この世に再び埋没してしまう人達が多いものです。イエス様が教えてくださった「神の国」は、神の愛の溢れた世界です。それは、この世=自分が一番大事という罪の世界とは全く違う世界です。「神の国」に入るには、人間の力だけでは無理で、神様の霊(聖霊)の助けが必要です。実は、福音を聞いた方々というのは、「神の国」のことを聞くことができたということで、聖霊の助けをいただいているのです。

 聞いて、信じて、行う

このように、御言葉を聞けたということは大きな恵みです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ書10:17)という御言葉どおり、御言葉を聞くことは信仰の出発点ですが、その「聞くこと」から、信じ、そのとおりに行い、更に、成長していくことを、私達は神様から期待されています。

 行わなければ、忘れる

御言葉を聞くだけ、御言葉を受けっぱなしで何もしないままでは、大事な御言葉を忘れてしまうことが、私達人間は多いものです。ヤコブの手紙2:23-24には、御言葉を聞くだけで行わない者について、自分の顔を鏡に眺める人のようだと書いています。その場を離れると忘れてしまう、人間の忘れっぽさを思い起こさねばなりません。大事な御言葉もただ受けただけでは、残念ながら、人間は忘れることが多いのです。けれども、実行しようとして労苦した場合には、決して忘れませんし、むしろ、労苦が多ければ多いほど、心に刻み付けられます。

 御言葉を行うことの労苦

御言葉を行うことは労苦を伴います。例えば、この「平地の説教」の中にある「敵を愛しなさい」とか「人を裁くな」という御言葉を実行しようとすれば、自分の感情や考え方を犠牲にしなければなりません。簡単にはできません。心の中では「血を流す」感覚と言っても過言ではありません。それまでは、「自分を憎んでいる人は自分も憎いから憎む」「自分の基準に合格しない人はダメ人間のレッテルを貼る」といったこの世の常識の中にいました。しかし、聖霊の恵みに

よって御言葉を聞けたことを感謝するならば、その御言葉を本気で実践したいと願うでしょう。そして、自分を御言葉に合わせるよう、努めるでしょう。

 岩の上に土台を置いて家を建てる

イエス様御自身は、「御言葉を行う」ことを、家を建てる時の土台を据える作業に例えられました。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた」とおっしゃいました。反対に、御言葉を聞くだけで行わない、つまり、楽な作業をする例として、掘り下げる労苦はせず、一見安全に見える平坦な砂の上に家を建てることを挙げられました。表面的には、同じように家が建ちますが、「川の水」が押し寄せると、楽に建てた家はひどい倒れ方をするのです。「洪水」や「川の水」とは、試練とか、欲望とか、思い煩いなどの例えです。そのようなことが信仰者の人生を襲った時、岩の上に土台を据えた信仰者は押し流されずに済みます。難儀なこと=御言葉を聞いて行うことに努めた信仰者には、「岩」と例えられる神様がしっかりと土台となって支えてくださいます。洪水になって「川の水」が押し寄せて来ても 揺り動かされない家を建てるような信仰者となるために、御言葉の実践者として歩んでいきましょう。

10月4日の説教要旨 「平地の説教④-良い実を結ぶ-」 牧師 平賀真理子

箴言11:30・ルカ福音書6:43-45

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて4回目です。今日の箇所の直前にイエス様は「人を裁くな」という教えを語ってくださっています。他の人のことを、心の中や口に出して、裁くことの多い私達に対して、です。

 「人を裁くな」 

「人を裁くな」の御言葉の段落で2つのことを知らされています。一つは、自分が周りの人に当てはめている秤で自分が量り返されることです。「人を裁くな」はイエス様が私達に語ってくださった御言葉ですが、その教えに従っているか、自分を振り返って、すんなりとOKと言えるでしょうか。残念ながら、主の恵みの洗礼を受けた後でさえも、私達は、「人を裁く」習性から抜けきれていないのではないでしょうか。 だから、日々の悔い改めが必要なのです。もう一つは、信仰者として思い起こすべき「主の十字架」です。イエス様は「神の御子」として「人間を罪から救う」という、最高に善い目的のためにこの世に来られたのですが、イエス様に反感をもった「敵」と言うべき人々は、自分達で解釈した「律法」という秤で、主を裁いて十字架につけました。にもかかわらず、イエス様は神様に彼らへの赦しを願い、「執り成しの祈り」をなさり、裁くことをしなかったのです。

 誰に向かって語られたのか?

今日の箇所は、同じ内容がマタイによる福音書7章にもありますが、そこでは、偽預言者を見分けるために語られました。しかし、ルカによる福音書では、弟子達やイエス様に聞き従おうとする者に対して語られています。イエス様の恵みによって「主から訓練を受け、主に近づこうとする者」の生き方を指し示す御言葉として伝えられています。

 「木」と「実」

 43節、44節では、木の性質が語られています。神様が「天地創造」で木をそのように造られたのです。朝顔の種からは朝顔、ひまわりの種からはひまわりの花しか咲かない、違うものには絶対にならない。よくよく考えると不思議です。これは、この世の大きな決まりであり、神様がそのようにお決めになったということです。 例として挙げられている「いちじく」と「ぶどう」は、共に、豊かな実り、平和と繁栄の象徴として、旧約聖書では良いものとして表現されてきました(ミカ4:4等)。一方、「茨」や「野ばら」は、土地を荒らすもの、または、土地が荒れた結果、生えるものと言うように、性質の悪さを表すものとして表現されてきました。

 「実によって木を知る」

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって」分かります。「毒麦の例え」(マタイ13;24-30)のように、当時の人々は、実によって、その木が何の種類なのか、最終的に判定したこともあったでしょう。神様による「天地創造」の法則を掘り下げて考えると、神様から授けられた本来の性質に従って、木は、神様から決められた実を結ぶように成長していくということになります。その原則を45節では人間に当てはめています。善い性質の人は、良いものを心の倉に入れて、良いものを出す、逆に悪い性質の人は、悪いものを心の倉に入れて、悪いものしか出せない…。結局、人の口からでる言葉が「実」として、その人の心の倉に何があるかを明らかにしていると主はおっしゃるのです。

 「悪い実をつける悪い木」のままの人間

「悪い言葉」が実となって口から出てくる例の一つに、「人を裁く」ということがあります。信仰者は、神様の憐れみによって赦されていて、罪から卒業することを保証されているのに、「人を批判する」、つまり、悪い言葉を「実」として口から出してしまうということは、その人はまだ悪い性質の「木」のままであることを暴露しています。

 「良い木となって良い実をつけるために」

「良い木となって良い実をつける」には、良いもので心の倉を満たす、良いものを収穫することが必要です。キリスト者は、信仰によって、救い主イエス様の木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受けられるようになった者であると、ロマ書11章17-24節にあります。養分を受け続けましょう。

9月27日の説教要旨 「平地の説教③-人を裁くな-」 牧師 平賀真理子

詩編79:8-9・ルカ福音書6:37-42

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて3回目です。今日の箇所の直前は「敵を愛しなさい」という教えです。私達にとって、この教えは高い目標ですが、イエス様は十字架で「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と敵のために祈られています。

 「裁く」「罪人と決める」「赦さない」

「裁く」とは、良いものと悪いものとに区別するという意味があります。区別するには「基準」が必要になります。自分の考える基準に達しないものに対して、「悪い」と言ってとがめだてることを人間はしがちです。今日の御言葉はまだ続きます。自分以外の人を悪い者、つまり、「罪人」として決めつけたがる…、多くの方が思い当たる節があるのではないでしょうか。御言葉は更に深くなっていきます。「赦しなさい。」(37節)……人を「罪人」と決めつけて「赦さない」という人間に対して、「赦す」という大変大きな目標が掲げられます。

 「自分の量る秤」

そのような人間の中心にあるのは「自分の量る秤」です。人には、各々が正しいと思う秤=基準があって、その基準に合えば「良い」としますが、自分の基準に合わないと「悪い」として、その範囲に入る人を裁き、罪人と決めつけ、更には、「赦せない!」と思う傾向があるように思います。「自分の秤」は正しいと多くの人が思うのです。けれども、本当にそうでしょうか。限界のある人間が、不完全なこの世の中で、時間や範囲が限られた世界の短い人生経験の中で、正しいと思っている基準が、永遠で無限で完全な神様の基準と比べて、絶対に正しいと言えるでしょうか。

 「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」

38節の「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」の目的語は「秤」です。「量りをよくして」とは、「量りを大きくして」という意味です。自分の持っている秤の枠を押して広げ、中身がより多く入るように秤を揺すって、秤をあふれ出るほどにして、自分の秤の容量を増やすよう求められています。中身である相手ではなく、相手を裁こうとしている自分の秤の方を変えて大きくすることを求められています。

 「量り返される」

自分の秤を大きくするように求める理由を、イエス様は「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(38節)とおっしゃいます。では、誰に量り返されるのでしょうか。一つは、周りの人々(自分が裁こうとした人々)に。もう一つは、神様に、です。信仰者は、やがて自分が神様の御前に立たされて、神様から裁き(良い悪いという評価)を受けると知らされています。その時の神様の秤が、自分が他人を量った秤の大きさと同じだと言うことを肝に銘じなければなりません。だからと言って、自分の秤を持つことを否定しているわけではありません。御言葉に従って自分の量る秤を持つことは、信仰者として成長するために必要です。しかし、それを、他の人に当てはめることを、主は戒めておられます。自分の基準は、人に当てはめられません。人それぞれ、神様が与えられた賜物や生まれ育った環境で感じ方・考え方が違います。コリントの手紙Ⅰの8章の「強い人」「弱い人」の話を思い出します。信仰において、「強い人」と「弱い人」があるのですが、強い人が弱い人に対して配慮すべきことが書かれています。なぜなら、強い人のためだけでなく、弱い人のためにも「キリストが死んでくださった」(11節)からです。主の十字架に示された自己犠牲の愛は、「私に」だけでなく、主に導かれた人すべてに分け隔てなく注がれています。

 イエス様が話された2つの例えから

39節の「盲人達」は、自分の大きな欠点で人や物事を正しく見ることが出来ない人々であり、主に出会う前の人々と言えます。その人々が、「師」と言われるイエス様に出会い、訓練されれば、主の正しい基準によって人や物事を正しく見ることが出来るようになることを例えています。

後半41節以降の「兄弟」とは、神様によって兄弟となった信仰者同士です。「兄弟の目の中のおが屑」とは、「他の信仰者の僅かな欠点」です。「丸太」と例えられる自分の大きな欠点に気づかず、他人の小さな欠点が大きく見えて「裁く」人間の罪深さが表されています。罪深い人間の基準はあやふやで、愚かなものです。私達は、自分自身の基準から、イエス様がくださった基準のもとに歩めるよう、訓練されていきたいと願っています。

9月20日の説教要旨 「大きな利得の道」 牧師 佐藤 義子

箴言30:7-9・Ⅰテモテ書 6:2b-12

 はじめに

今日の説教題を見て、「アレ」と思った方はいらっしゃいませんか。利得とは利益を得ること、もうけることです。この世とは違う価値観に立つ、ご利益宗教とは言えないキリスト教の教会で「利得の道」を説くなど、違和感を覚える方もおられるでしょう。一般社会において御利益とは、この世で価値あるものを手に入れることです。たとえばお金です。貧乏は不幸であり、お金は人を幸せにする魔法の道具のように考える人々が多いのです。しかし、聖書は、何と言っているでしょうか。

 旧約聖書

肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」(箴言15:17)

乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、肉で家を満たして争うより良い(同17:1)

二つのことをあなたに願います。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで 私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、というおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」

 新約聖書

金持ちになろうとする者は、誘惑、わな、無分別で有害な、さまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

ここには、金持ちになりたいと考えるならば、さまざまな欲望が出てきて、その欲望が自分の考えていた幸せとは違う、滅亡と破滅におとしいれると警告しています。では、聖書は、どのように教えているのでしょうか。

 足るを知る

今日の8節には、「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」とあります。今朝読んだ旧約聖書の祈りでも、他人をうらやむのではなく、「わたしのために定められたパンで養って下さい」と、自分にとっての必要量・程度があり、それで足れりとする幸せがあることに目を向けさせます。

 テモテへの手紙

この手紙は、使徒パウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙で、目的はこのように記されています「わたしのこの命令は、清い心と、正しい良心と、純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」(1:5)。

そして、今日読んだ前半では、教会の教えと違うことを教えた教師達に向けて厳しい言葉を語っています。彼らは自分の考えている理論を優先してイエス様の言葉を軽んじました。その教えが正しいか否かは、その教えから生まれる結果を見れば明らかです。彼らの教えからは、ねたみやあらそい、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生まれるのであって、精神が腐り、真理に背を向けていると、パウロは断罪しています。

  「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道」

これは6章6節の言葉です。「信心」は「敬虔」とも訳されます。箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」とありますが、天地万物を創り、人間に命を与え、私達の生と死を支配されておられる神様を信じて、畏れ敬うこと、御子イエス・キリストを信じて、その教えに従って生きることが、「敬虔」の中身です。「足るを知る」ことと結びついた、主を畏れる信仰・敬虔は、私達に大きな利益をもたらしてくれると、ここで教えています。その大きな利得とは何でしょうか。

  永遠の命

私達は何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何ももっていくことができ」ません(7節)。それゆえにパウロはこう語ります「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、信仰を表明したのです。」信仰には戦いがあります。しかしその戦いは無意味ではありません。御子イエス様と共に信仰の道を歩む時、私達は神様からくる平安が与えられ,約束された「永遠の命」を手にするのです。

9月13日の説教要旨 「平地の説教②-敵を愛する-」 牧師 平賀真理子

出エジプト記23:4-5・ルカ福音書6:27-36

 はじめに
キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて2回目になります。直前の段落の最初20節にあるように、イエス様はまず、弟子達に向かって御言葉を語られたのですが、今日の箇所の27節「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、聞き手の範囲を広げて語ってくださっていることがわかります。

 「御言葉を聞く」
「聞く」という言葉に注意する必要があります。右の耳から左の耳に音声を聞き流すという聞き方ではありません。御言葉を聞いて、それに従って生きていく覚悟で聞き、その教えを心に留めると言う意味です。
御言葉に、尊敬の念を持ち、聞き従いたいと望む者達に語られています。
後の時代の私達も、聖書を通して、主の御言葉に出会う恵みを与えられています。時代を越えて真剣な聞き手を渇望しておられる主の期待に応える者として、御言葉を心から渇望する者となりたいものです。

 「愛敵の教え」
27節後半で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。「愛敵の教え」といわれていますが、常識と違う教えを聞き、「私には難しい」と思ってしまう方が多いのではないでしょうか。

 「敵が思い浮かぶ」
その前に、愛敵の教えを聞いて、自分の「敵」を具体的に思い浮かべられるなら、そこに問題があります。「敵がいる!」のです。私達は、全く関係のない人を「敵」とは思えません。人生の中で何らかの関わりのあった人達の中に、「敵」=「愛せない人」を作り出してしまうのです。今日の聖書箇所で言うなら、自分を憎んでいる人、悪口を言う人、自分を侮辱する人、自分を痛めつける行為をする人(した人)、自分の持ち物を奪う人(奪おうとする人)です。神様が愛情を持って、私達に適切な時代・場所・環境を選んで置いてくださったにもかかわらず、その中で人間は「敵」を作ってしまう、これこそ、罪の一つです。そして、この世の常識では、敵は憎むべきもの、自分の受けた損害と同じものを返して当然です。

 愛敵の理由
そんな「この世のルール」から私達を解放してくれるのが、「愛敵の教え」です。
人間的な感情に従うならば、敵は許せませんが、その怒りなどの悪い感情に自分を従わせて仕返しするのは、自分をこの世のルール・罪の世界に更に縛り付けることです。直前の段落の言葉で言うならば、「不幸」=「神様の祝福をいただけない」状態から抜け出せないままです。それは、私達を「神の国の民」としたいと切望されている神様の御心とは全く相いれないもの、御心に適わないことです。

 愛敵の教えのとおりの生き方
イエス様は、「敵を愛する」という教えだけでは、罪ある人間には難しいことをおわかりになっていたのでしょう。イエス様御自身が「愛敵の教え」のとおりに生きる姿を見せてくださったのです!イエス様を妬み、憎み、「敵」と見なした権力者と追随者達は、イエス様に対して悪口を言い、侮辱し、服をはぎ取り、十字架で命を奪ったのです。してほしくないことばかりした人々に対し、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです。
(ルカ23:34)」と執り成しの祈りをなさいました。御自分を敬愛せず、受け入れようとしない人々に、究極的な「神の愛」、御自分を犠牲にしても相手の幸いを願う愛を「祈り」という行為で示されました。この教えは、聞き従う者達への教えではありますが、イエス様の歩みの預言でもあったのです。

 黄金律
31節「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は、「黄金律」として、キリスト教の大事な教えです。主の十字架の御姿を思い浮かべつつ、神の国のルールを第一に思って行動する基準が心に立っているでしょうか。相手の反応に左右されず、徹底的な愛を持ち、神の御心に従う良い行いをしましょう。

 「神の国の民」としての期待を受けて
「敵」に良い行いをするのは大変厳しいですが、「神の国の民」とされている私達は、まずは、今日の旧約聖書にあるとおり、自分の感情を脇に置いて、「敵」を助けるよう、努めましょう。最終目標は、罪の世界のルールから解放され、主のように敵の為に祝福を祈り、親切な行いをするという「神の愛」の実現者になることです。目標に向かって、成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。