1月31日の説教要旨 「あなたの道」 吉田 新 先生(東北学院大学)

テサロニケの信徒への手紙一3:11-13

 はじめに

 本日は「キリストとは私たちにとって誰か」「私たちに何をなさる方なのか」について、聖書から共に学びたいと思います。

 ドイツの街並みと石畳

私が長く住んでいたドイツは街並みをとても大切にします。昔からの街並みを保存することに力を注ぎます。このことで一つ驚いたのは、住んでいた町の道です。私が住んでいたのは歴史的な建物が立ち並ぶ地域でしたが、この地域の道はすべて石畳です。アスファルトの道もありましたが、原則は石畳。石畳はあまり頑丈ではありません。自動車やトラックなどの重い車両が通り続ければ、壊れてがたがたしてしまいます。ですから、石畳は新しく敷き直す必要があります。こぶしぐらいの石を一つ一つ組み合わせて、ずれがないように道に並べていきます。気の遠くなるような作業です。

 古代の道

アスファルトを流すだけの現代の道と違い、かつて、このようにして道をつくりました。聖書の世界も同じです。イエス様やパウロが生きた時代、ローマ帝国が地中海を支配していた時代、ローマ帝国は支配した各地に交通網を整備しました。ローマ帝国が敷いた道は、主に人々が行き来する交易路としての役割がありましたが、さらに重要なのは軍隊を迅速に移動させるための道です。

キリスト教の教えが地中海全般に広まることができたのは、この道のお陰だと言えます。キリスト教の伝道者の多くは、ローマ帝国内に整備された街道を歩いて、様々な地域を行き来しました。その中でも特に有名なのはパウロです。パウロの生涯の移動距離は1万6000キロメートルと言われています。東京からニューヨークまで約1万899キロメートルですから、パウロはそれ以上の距離を旅したことになります。パウロは陸路だけではなく、海路、つまり船を使って移動しています。しかし、船では行けない場所は徒歩です。パウロにとって伝道とは、道を歩くことに他なりません。パウロは伝道のために訪れた街に教会を建て、その教会の人々に向けて手紙を出します。本日、お読みした「テサロニケの信徒への手紙 一」も その一つです。

 道をまっすぐにする

この手紙の第3章では、パウロはテサロニケにもう一度、訪れたいという望みを託しています。しかし、それがかなわず、彼の協力者であるテモテを彼らのもとに遣わします。テモテが再び、パウロのもとに戻ったことを告げ、その最後に先ほどお読みした言葉を記します。11節「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように」とあります。原文から私なりに訳し直します。「わたしたちの父なる神御自身、また、わたしたちの主イエスが、わたしたちの道をあなたがたのところへとまっすぐにしてくださいますように。」原文では「道を開く」では、「道をまっすぐにする」という意味です。新しく道を切り開くという意味ではなく、目的地へ辿りつけるように道を整えてくださるということです。

この一文、何気なく読み飛ばしてしまう箇所かもしれませんけれど、イエス・キリストがパウロにとってどのような存在であったのか、そして私たちにイエス・キリストは何をしてくださるのかを知るための大切な手掛かりを秘めていると思います。

道をまっすぐにするというのは、実は大変な作業です。石畳を敷き詰める前に、まず、地面を平らに整える必要があります。そして、でこぼこにならないように慎重に敷き詰めなくてはなりません。平地ではなく、山岳地帯や緩急が激しい場所の道をまっすぐにするとなるとなおさらでしょう。

 あなたの道

しかし、このような作業は私たちではなく、キリストが行ってくださるのです。私たちのために道をまっすぐにしてくださるのは、イエス・キリストです。何年もかけて、多くの道を歩いたパウロは、そのことを確信していたに違いありません。

わたしたちは自分の力で自分の道を歩かなければいけません。一生をかけて、自分の道を歩くのです。誰もその代わりができません。時に重い荷物を背負わなければならない時もある。疲れてその場に倒れ込むこともある。心がくじけることもある。もう、私は歩けないと嘆きたくなる時もある。でも、私たちの足で一歩一歩、歩いていかなくてはなりません。やさしい道だけではありません。困難な道もきっとあるでしょう。

しかし、一つのことだけ覚えていてほしい。

イエス・キリストが、あなたが歩いているその道を、あなたが歩きやすいように、まっすぐに整えてくださいます。だから、あなたは何も心配しなくていい。あなたは何も恐れることはありません。もう、泣かなくていいです。くじけないで、勇気をもって、歩き続けましょう。キリストは、あなたの道をまっすぐにしてくださいます。

1月24日の説教要旨 「罪の赦しと愛」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1:18-20 ルカ福音書7:36-50

 はじめに

 今日の旧約聖書の箇所で、「私達の罪が緋のよう(真っ赤)であっても、雪のように白くなることができる。主に進んで従うなら実りを受ける」と証しされています。罪の赦しがおできになるのが、唯お一人、私達の主イエス・キリストです。今日の新約聖書の箇所では、そのイエス様に実際に出会った人々が取った態度から、どのように主を迎えたのか・または受け入れなかったかが、明確にされています。3つの態度に分かれているので、そこから考えてみたいと存じます。

 ファリサイ派シモンの態度

 1つ目は、イエス様を食事に招いたファリサイ派の人の態度です。40節から、この人はシモンという名前だとわかります。ファリサイ派シモンはイエス様に「一緒に食事をしてほしいと願った」(36節)とあります。当時のユダヤ教の社会では、聖書の話を語る巡回教師を自宅に招くのは、大変功績のあることと思われていたようです。また、大事なお客様が来られた時は、興味ある人は誰でも一緒に家に入る風習があったそうです。「重要なお客様と多くの人々をもてなすことのできる立派な人」との評価、シモンは、その評価を期待していたのかもしれません。ところが、シモンは自分の願いでイエス様を招いたのに、イエス様から思いやりの不足を指摘されました。旅人の足を洗うための水の用意、親愛の情を表す接吻、頭への香油塗り(尊敬を表す)、この3つです。シモンの心の中に、イエス様に対する尊敬・感謝・愛が足りなかったから、この3つの行為ができなかったのでしょう。ファリサイ派のシモンがイエス様との出会いを望んだのは、純粋な敬愛の情からではなく、単なるイエス様への関心と人々からの自分への評価のためだったと思われます。食事に招くという外面は尊敬を示しているようですが、内面では、自己中心の罪のためだったと、聖書の記述から推測できます。

 罪深い女の態度

2つ目は、「罪深い女」(37節)と書かれた女性の態度です。この女性は、具体的に言えば「娼婦」だというのが、多くの学者の共通の見方です。この女性は、ユダヤ教から見たら、姦淫の罪を犯している「罪人」です。特に、ファリサイ派の人々はこのような「罪人」を疎外しました。一緒にいると穢れが移ると考えたのです。しかし、イエス様は、これ以前に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)と宣言なさいました。当時の価値観とは真逆のこの御言葉は、驚きを持って広まったことでしょう。「罪深い女」と呼ばれた女性は、この御言葉により、「自分も神の国に入れる」という大きな慰めと励ましを受けたはずです。だから、勇気を振り絞って、自分を見下すファリサイ派の人の家に行って、敬愛と感謝を表したいと切に願って、香油の壺を持参したのでしょう。この女性は、ファリサイ派シモンには不足していた3つの行為を補うことになりました。足を洗うこと、接吻すること、香油を塗ることです。足を洗う水と拭き取る布の代わりに、この女性は救い主イエス様に出会って感極まって流した涙と髪の毛を使いました。接吻と香油塗りの2つは、各々顔と頭にするものですが、主の足元で行いました。この女性は主の御前で謙虚な思いから自分を低くしたのでしょう。敬愛するイエス様からの救いの恵みへの感謝により、このような態度が生まれたと思われます。

 イエス様のなさった例え話(41-42節)

イエス様はシモンに、ある金貸しから借金をしている二人が借金を帳消しにしてもらった例え話をなさいました。それは、借金の額の多い方の人が、少ない人よりも金貸しを愛することを教える例えです。借金とは「罪」のことです。正しい人と思われているファリサイ派のシモンでさえ、神様の御前においては、確かに罪ある人間であり、「罪深い女」と変わらないのです。「罪を赦された」という自覚をより多く持つ人間の方が、罪の自覚を少ししか持たない人間よりも、救いの感謝をより多く持ち、救い主をより多く敬愛すると教えておられます。

 同席の人たちの態度

3つ目は、同席の人たちの態度です。「『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。』と考え始めた(49節)」のです。イエス様や福音を始めて知らされた人たちの態度の予告とも見ることができます。そういう方々がイエス様の「罪の赦しの権威と信じる者との愛の交わり」を肯定的に考え始めるために、信仰者である私達は、主の証し人として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月17日の説教要旨 「恵みによる召命」 牧師 佐藤 義子

サムエル記上 3:1-10・ガラテヤ書 1:11-24

 はじめに

ガラテヤ書の著者パウロが、熱心なユダヤ教徒からキリスト教伝道者へと変えられた大きな出来事については使徒言行録9章に記されています。又、フィリピ書3章にもパウロの自己紹介があります。今日のガラテヤ書では、パウロは以下のように語っています。

しかし、わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、わたしは、すぐ、血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムにのぼって、わたしより先に使徒として召された人達のもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

 パウロの召命

「血肉に相談」の「血肉」とは、目に見えない神様に対して使う「人間」のことです。パウロは、自分がキリスト教徒になったのは、人から伝道されたのではなく、「天からの光」と、「なぜ、わたしを迫害するのか」との自分に呼びかける天からの声でした(使徒9章)。自分がこれまで正しいと信じて行なってきたキリスト教徒への迫害という過ちと罪に対して、パウロは、そのことを13節で告白します。そして、その自分のやってきた過ちすべてをご存じのお方が、その罪をすべて引き受けて下さり、赦して下さり、深い憐れみをもって、この私を伝道者として選び出して下さったという、<人間の思いや考えを超えた>神様の大きな恵みに目を向けて、次のように告白します。

わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた

この召命観により、パウロは、キリスト教徒の指導者に挨拶に行くことよりも、エルサレムから離れたアラビアに一時期退くことを選びました。

ガラテヤの教会

この手紙の宛先であるガラテヤ教会は、パウロが伝えた正しい信仰を、後からやってきた別の指導者が、変質させてしまったという状況があり、パウロは、6節で以下のように嘆いています。「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と。

どういうことかと申しますと、ユダヤ教では、人が救われるのは、律法を完全に守ることによってであると教えていました。それに対してパウロが教えたのは、人が救われるのは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による、というものでした。ところが、ユダヤ教からの改宗者の中には、自分達が幼い時から守って来た律法を、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の外国人にも守らせようとする人達が大勢いて、パウロ自身を正当な使徒として認めようとしない人達が、パウロの、使徒としての「資格」に疑念を持たせるように人々を仕向けたのです。

 恵みによって召し出して下さる神

パウロは自分の召命を、「恵みによって召し出して下さった神の御心による」と、確信をもって告白しています。「恵み」とは、神様から一方的に差し出されるものです。この言葉を借りるならば、ここにおられるすべての方は、恵みによって今日、この礼拝に招かれている者たちです。それゆえ誰一人、ここに自分がいることを誇ることは出来ません。又、クリスチャンになったことも大きな大きな恵みです。誰一人、私はクリスチャンにはならない、とか、なれない、と言うこともできません。パウロは自分の思いをはるかに越えて、神様の御計画の中で選び出され、伝道者として立てられ、その後の苦しく厳しい伝道活動を、神様は最後まで共にいて、全うさせて下さいました。イエス様に出会うまでに身につけたギリシャ的な教養や、ローマの市民権、熱心なユダヤ教徒でファリサイ派に属していたことなど、すべて一切がその後の異邦人伝道で豊かに生かされていきました。私達も又、恵みによって召して下さる神様に捕えられた時、これ迄のすべての歩みが豊かに用いられるのです。

 

1月10日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス②」 牧師 平賀真理子

イザヤ4219 ルカ福音書72435

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」はイエス様に洗礼を授けるという大役を担った人ですが、このヨハネが弟子達をイエス様の許に派遣し、「あなたは本当に救い主ですか。それともまだ後から来る、別な方が救い主なのですか。」と質問しました。イエス様は、「はい」「いいえ」という単純な答え方をしませんでした。救い主の御業として、ユダヤ人なら誰もが知っている預言者の言葉を語り、そのとおりのことが御自分の御許で起こっているのだから、そのことを通して、御自分が救い主(「メシア」)であることを悟らせようとされました。答えの最後には、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られました。他の福音書と照合してみると、洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授けた際に、イエス様に聖霊が降ったのを見て、イエス様が「神の御子」、つまり、「救い主」であると確信したと思われます。しかし、その後、イエス様と一緒に活動していたとか、緊密に連携していたという記録は見当たりません。洗礼者ヨハネは、イエス様への信仰を確かにいただいたのですが、「信じ続ける」といういう点で、僅かに揺らいだのではないでしょうか。自分が宣教してきた「義と裁きの救い主」のイメージに固執し、イエス様が行っていた「愛と憐れみの救い主」の現実の御姿と違っていて、それを受け入れられなかったのではないかと思います。

 洗礼者ヨハネに対するイエス様の御言葉

洗礼者ヨハネが派遣した弟子が帰った後、イエス様は御許にいた群衆に向かい、洗礼者ヨハネのことを語り始められました。極めて高い評価です。今までの預言者よりも優れているとおっしゃいました。ヨハネは神様の義と裁きを強調しましたが、神様から離れた生活を送っていたイスラエルの人々の心を180度方向転換させ、神様の御心を第一にする生き方をするように宣べ伝え、悔い改めの洗礼を施し、更に、イエス様に洗礼を授ける役目も行ったのですから、神様から与えられた役割を充分に果たしたのです。28節の前半にある「女から生まれた者のうちヨハネより偉大な者はいない」とは、それまで生まれた人間の中で一番偉大だと言われている訳ですから、最高の褒め言葉と言えるでしょう。けれども、28節の後半は、この評価と全く逆の意味の言葉に変わります。「神の国で最も小さい者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」と言われました。神様の御計画である「人間の救い」は、イエス様を救い主と信じて救われます。イエス様への信仰があって初めて「神の国の民」となれるのです。イエス様を信じることで、主の十字架と復活の恵みによって、自分の罪が赦され、神様と繋がることができます。それを「神の国に入る」と言います。洗礼者ヨハネは、神様が御計画された「人間の救い」の始まりを告げる者であり、始まりの始まりですが、イエス様からの救いの恵みを、この時点ではまだ受けていません。それよりも、イエス様の救いの恵みを受けている信仰者の方が偉大なのです。イエス様が私達にくださった救いの御業の恵みがとてつもなく大きいということです。

 恵みの時代に生きた人々の心と態度

イエス様は、洗礼者ヨハネについて語られた後、今度は「洗礼者ヨハネと御自分を通しての神様の救い」に対して、その恵みの時代に生きている人々がどういう状態かを例えで表現されました。

自分達の思いが先にあって、相手がそれに合わせて自分の思い通りに動いてくれない、だから座って歌っているだけという子供に似ているとおっしゃっています。裁きを強調する洗礼者ヨハネに対しても、救いの喜びを告げるイエス様に対しても、この2人に接することのできた恵みの時代に生きた人々は、人間的な批判ばかりしていました。自分達が「神様からの救い」に対してどうすべきかを真剣に考えず、積極的な信仰を持たないことを嘆かれました。

 イエス様の素晴らしさを証明するよう求められている私達

しかし、最後の35節でイエス様は信仰者達への希望を語ってくださいました。「知恵の正しさ」というところの「知恵」とは「神の知恵」です。そして、聖書には「キリストは、私達にとって神の知恵となり」とあります(Ⅰコリント1:30)。神の知恵を体現されたイエス様を、救い主として信じる者達がその救いの恵みを感謝して、ふさわしい歩みをすることで、イエス様の素晴らしさを更に証明するという意味です。聖霊によって主を信じる恵みをいただいた私達は、「救い主」イエス様を証しする人生を新たに与えられているのです。

1月3日の説教要旨 「洗礼者ヨハネと主イエス①」 牧師 平賀真理子

イザヤ6114 ルカ福音書71823

 はじめに

 「洗礼者ヨハネ」は私達の主イエス様に洗礼を授けた人として知られています。それだけでなく、救い主がこの世に現れた時に、人々が救い主を受け入れられるように、人々の心を備える役目がありました。それは預言者によって、「道を備える者」(イザヤ40:3)と預言されていました。当時の人々は、もちろん「救い主」を待っていましたが、その前の先駆者が来ることをも待望しており、預言どおりの先駆者が現れたのです!また、洗礼者ヨハネは尊敬される祭司一族の出身であり、世俗から離れて修道生活を送る立派な人だったので、救い主の先駆者ではなく、「救い主」ご自身ではないかと思われる程でした。ところが、マタイによる福音書やヨハネによる福音書では、ヨハネ本人が、「自分は救い主ではないし、救い主はもうすぐ来られる」とはっきり証ししています。

 洗礼者ヨハネの役割

洗礼者ヨハネの役割について、3つの内容が考えられます。一つは、この世の人々の心を「救い主」到来のために備えること(悔い改めに導く)、二つ目は、救い主イエス様に洗礼を授けること、三つ目は、イエス様こそ「救い主」であることを公けに宣言することです。今回は、ルカによる福音書では、この3つがどのように表現されているか見ていきましょう。

 人々を悔い改めに導く洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書1章では、イエス様のご誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生の経緯が詳しく書かれています。「主の天使による誕生の告知」や、「聖霊に満たされて母親の胎内にいる時から救い主を感知したこと」などは、洗礼者ヨハネが神様の御心の下で生まれたことや、救い主を証しする賜物に恵まれていたことを表現していると思えます。また、3章では、このヨハネが、人々を悔い改めに導くために、どのような教えを述べたのかが、他のどの福音書よりも具体的に書かれています。

 イエス様に洗礼を授ける洗礼者ヨハネ

ルカによる福音書では、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと明確に書かれていません。しかし、その直前に行ったヨハネの悔い改めの洗礼とその教えが詳しく書かれていて、「民衆が洗礼を受けていると、イエス様も洗礼を受けた」とあるので、イエス様が民衆と同様に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが自明のこととして表現されたと見ることができるでしょう。

 「イエス様こそ救い主」と公けに宣言しているか?

ルカによる福音書3章16節から17節で、洗礼者ヨハネは、「自分よりも次元の違う優れた御方(救い主)が来られること、自分は水で洗礼を授けているが、その救い主は聖霊と火で洗礼を授ける御方である」と証ししています。けれども、ルカによる福音書では洗礼者ヨハネが「イエス様が、その『救い主』である」と公けに宣言したとは書いていません。更に、今日の新約聖書箇所によると、「あなたが本当に来るべき御方として人々が待ち望んだ救い主ですか。それとも別な方が救い主なのですか。」と直接聞きに弟子を派遣しています。

イエス様のお答えと私達

洗礼者ヨハネの質問に、イエス様は自分が救い主であると明言せずに、預言どおりの御業から悟るように答えられました。この世で苦しんでいる人々を実際に救っている「救い主の御業」です。けれども、この時、まだイエス様ご自身の弟子さえ、イエス様を救い主と信仰告白していなかったので、ご自分でヨハネにはっきり答えるのは時期尚早だと思われたのでしょう。また、「救い主」についての人々の理解とイエス様ご自身の「救い主」の理解が違っていることをご存知でした。前者はイスラエル民族限定の政治的な王様を考えていましたが、イエス様ご自身は「救い主」はイスラエル民族だけでなく、異邦人を含む全人類の救いを成就するものであり、また、この世だけでなく、永遠の「救い」を成就する定めだとわかっておられたのでしょう。また、イエス様は「わたしにつまずかない者は幸いである」ともおっしゃいました。イエス様を救い主として福音を宣べ伝えた弟子達をはじめとしてそこに繋がる信仰者の私達は聖霊の助けをいただいて、イエス様への信仰を与えられる恵みをいただきました。主の十字架と復活の恵みによって降るようになった聖霊の助けで、私達が「イエス様こそ救い主」と信仰告白できたのです。「聖霊によらなくては、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Ⅰコリント12:3)のです。私達は本当に大きな恵みをいただいていることに感謝して、今週一週間も聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

12月27日の説教要旨  「シメオンとアンナの証し」 牧師 平賀真理子

イザヤ5247 ルカ福音書22538

 はじめに

 日本では、12月25日が過ぎると、クリスマス気分は終わってしまい、お正月の準備がなされていきますが、教会では、1月6日の公現日までは降誕節として、神様の御子のご降誕を祝うべき期間です。

 シメオンとアンナ

 イエス様は、神様によって、ヨセフとマリアの夫婦の初めての子供として、この世に生まれることになりました。この信仰深い夫婦は、律法に従って、「初子を献げる儀式」をエルサレム神殿で行うことにしました。この時、ヨセフとマリアと幼子イエス様に出会う恵みをいただいたのが、シメオンとアンナです。聖書では、シメオンは高齢であるという記述はありませんが、「高齢の男性」と教会では伝えられています。アンナは「非常に年をとっている」と2章36節にあるとおりの高齢の女預言者です。2人とも、神様の御心をまず第一に考える信仰深い人々でした。

 聖霊に導かれて幼子イエス様に出会ったシメオン

シメオンについては、神様の御前に「正しい人であり、信仰があつく」とあり、更には「イスラエルが慰められるのを待ち望み」と説明されています(25節)。自分の救いだけに関心があるのではなく、周りの人々も救われることを望んでいる、まさしく信仰者の鑑と言えるでしょう。そして注目すべきことは、シメオンの上に聖霊がとどまっていたことです。25節から27節にまでに、聖霊について3回も言及され、強調されています。シメオンは、聖霊によるお告げをも受けて「死ぬまでに救い主に絶対会える」と確信が与えられ、聖霊の導きにより、主に出会うことができました。それだけではなく、幼子イエス様を腕に抱き、その存在を自分の感覚全部で体感することができたのです。

 シメオンの賛歌

 29節から32節までは「シメオンの賛歌」といって、待降節や降誕節に想起される3つの賛歌の一つです(ザカリアの賛歌、マリアの賛歌)。神様が自分へのお告げのとおりに救い主に出会わせてくださり、安心してこの世を去ることが出来ることへの感謝が献げられています。神様は私達人間が死んだ後でも永遠におられる確かな存在です。神様に全てを委ねてこのような絶対的な安心の下で死ぬことができるということこそ、長年信仰深い生活を続けてきた高齢者への大いなる恵みと言えるでしょう。30節で「あなたの救いを見た」と述べていますが、この「救い」こそ、イエス様のことです。そしてシメオンは、その「救い」が神様によって準備されたと証しし、32節では、「救い」であるイエス様によって、イスラエルの民と、そうでない「異邦人達」双方に光り輝くような「救い」がもたらされることを証ししています。

 「救い主」の定めを預言したシメオン

34節から35節には、シメオンが母マリアに告げた言葉が書かれています。「救い主」到来という恵みを受けるこの世の人々は、イエス様を「救い主」として「信じる」か「信じない」か、どちらかに分かれます。中間のグレーゾーンはありません。「信じる」者は、救い主の存在や御言葉によって、過酷な現実から立ち上がることができます。一方、「信じない」者は救い主の存在や真実の御言葉によって倒される時がやってきます。34節後半から35節を見る限り、多くの人々は、罪に染まった悪い思いから、イエス様を救い主と信じられずに、苦しめることが暗示されています。これは「主の十字架」に対する預言といってもよいでしょう。聖霊の恵みの下にあったとはいえ、この世で長く過ごした高齢の信仰者だからこそ、主の重要な定め=人々の罪の償いのための十字架 を告げることができたのだと思われます。

 アンナの証し

36節から37節を読むと、アンナは若い時に夫に死に別れて、長い間、孤独と貧困に苦しんだのではないかと思います。恵まれた状況とは言い難いでしょう。しかし、アンナは苦境に置かれたために神様から離れたのではなく、むしろ神殿を離れずに断食や祈りに励みました。自分の利益や快適さよりも、神様の御心に適う生活を選んだのです。恐らく、神様からの報い(ごほうび)として、アンナも幼子イエス様に出会う恵みを与えられたのでしょう。そして、その恵みを自分だけの喜びとしてしまい込まずに、周りの人々と共有したいと願い、幼子イエス様のことを「救い主」として証しする役割を感謝しつつ喜んで果たしたと思われます。私達も良き証し人として用いられるように信仰深く歩んでまいりましょう。

12月20日・クリスマス礼拝の説教要旨 「天からの贈り物」 牧師 佐藤 義子

イザヤ書9:1-6・ヨハネ3:31-36

 はじめに

今日の聖書には、「天から来られる方」という言葉と、「地に属する者」という言葉が出てきました。地に属する者とは、地上で生まれ、地上を離れては生活出来ない私達人間のことです。それに対して、聖書は、「天から来られる方」という言葉を用いて、地に属する者とは全く次元が違う「天」があることを教えています。

聖書で「天」とは、神様のおられるところを意味します。神様は、この世界と人間を創造されたお方です。創世記には、神様が、闇の中に光を与えて、昼と夜に分け、次に大空を作り、次に陸と海を分けられて、陸に植物を、空(宇宙)に太陽と月と星、海に魚を、大空に鳥を、陸には家畜や獣や這うものを造られ、最後に人間をつくられたことが記されています。

 すべてのものの上におられる神

今日の聖書に、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。地上に属する人間は、どんなことをしても神様のおられる天の高みにまでは行くことは出来ません。すべてのものの上にある天には、世界を創造した神様と、神様の御子イエス・キリストがおられます。 天は、時空をこえた永遠の世界であり、世界が創造される以前の永遠の昔から、父なる神様と御子イエス様がおられ、今も、そしてやがて必ず来る世界の終わり(終末)のあとも、永遠におられます。

 クリスマス

今日はクリスマス礼拝です。 クリスマスの出来事とは、天におられ、世界と私達人間を創られた神様が、今から約2000年前に、御子イエス・キリストを、天から地へと送り出した、世界が創られた以来の大事件、大きな大きな出来事なのです。話は変わりますが、20年以上も前のことです。家族5人でイギリスに一年間の予定で滞在した時、誰も知り合いはなく、住む家を決めた後も、日本と連絡をとる手段がありませんでした。電話の設置には一か月以上待たなければならなかったからです。待つ間、日本とイギリスが海を隔てた遠い国であることを実感し、それだけに一本の電話線が日本に住む家族との間をつなげてくれた日の喜びを忘れることは出来ません。クリスマスの出来事とは、人間が、決して行くことも出来ず、目にも見えない、天におられる、霊である神様とつながるための一切の手段を持っていなかった約2000年前に、神様が、人間の住む地上に、イエス・キリストという神様の御子を天から送り出して下さり、地上と天上とをつなぐ道を人間のために作って下さった、ということです。それは、人間同士の関係(横の関係)を結ぶ電話線がつながる喜びとは全く次元が違う、天上と地上(縦の関係)がつながるという奇跡の出来事でした。

クリスマスの意味

神様は、御子イエス様をなぜ地上に送ろうとされたのでしょうか。それは、神様によって造られた人間が、神様の教えから離れ、罪のために苦しんでいたからです。2000年前も、それ以前も、それ以後も、人間が罪の為に苦しんでいる状況に変わりはありません。私達人間の心の底にある罪は、テロを始めとするあらゆる形の殺人、暴力、虐待、裏切り、人間関係から起こる悲惨な事件、詐欺などを生み出していきます。

これらはすべて、神様に命を与えられ、生かされ、支えられているのに、神様のご意志をまず一番に仰ぐことをせず、自分を神様の座るべき場所に座らせて、自分の本能や欲望、あるいは自分中心の考えや意志に従って行動しているからです。神様を無視した歩み・・・これが罪です。罪は私もあなたも、すべての人がもっています。この罪のゆえに神様と断絶していた人間に対して、神様は、私達を愛するがゆえに、関係回復の為の「和解の道」を用意して下さいました。これが、御子イエス様の御誕生から十字架の死に至るまでの全生涯です。

イエス様は、私達に神様のことを伝え、罪の赦しが与えられる道となり、神様とつなげて下さいました。クリスマスは、御子イエス様を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることが出来るようになった日!です。イエス様は、神様からの素晴らしい愛の贈り物!なのです。

12月13日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生」 牧師 平賀真理子

ミカ5:1 ルカ福音書2:1-7

 はじめに

イエス様がこの世にお生まれになった時の出来事を具体的に記して証ししているのは、4つの福音書の内の2つ、マタイによる福音書とルカによる福音書です。アドベントやクリスマスの時期にミッションスクールや教会学校で行うページェント(イエス様の降誕劇)は、この2つの福音書を基にしています。

 2つの福音書の相違点

イエス様のご降誕をめぐる記事で、2つの福音書の内容には共通点と相違点があります。相違点の方から見ると、マタイによる福音書では、天使のお告げを受けるのが父親役を担うヨセフであること、最初の礼拝者は東方の博士達であること、当時の権力者の様子としてヘロデの対応が詳細に書かれていることが特徴です。一方、ルカによる福音書では、天使のお告げを受けるのが母マリアであること、生まれたイエス様の姿を具体的に描いていること(飼い葉桶に寝かされる姿)、最初の礼拝者は羊飼い達であること、当時の権力者としてローマ皇帝やシリア総督の名を具体的に挙げていることが特徴です。

 2つの福音書の共通点

最初の礼拝が行われるまでの出来事として、2つの福音書の共通点は3つです。一つ目は天使による人間へのお告げがあったこと、二つ目は誕生地がベツレヘムであること、三つ目は両親として選ばれたヨセフとマリアが時の権力者の思惑によって安心安全な生活が出来なかったことです。一つずつ、見ていきましょう。

 天使による受胎告知

「天使による受胎告知」が示すことは、イエス様のご降誕が、神様の御計画の下に行われた「救いの御業」だということです。神様が人間に何も知らせないで一方的に行ったのではなく、天使を派遣して神様の御言葉として人間に事前に知らせてくださっているということです。ヨセフとマリアはその御言葉を人間的な葛藤の後に受け入れ、御言葉の送り主である神様だけを信頼して困難を乗り越えていったのです。

 ベツレヘムでのご誕生

イエス様ご誕生の何百年も前に、救い主に関する預言がいくつかありました。代表的な例を2つ挙げます。神様は救い主をベツレヘムに誕生させる(ミカ書5:1)という預言。もう一つは、かつて繁栄したイスラエル王国のダビデ王の子孫という血筋にあたる者の中に「救い主」を送るという預言(サムエル記下7:12-13)です。この世での父親という役割を担うヨセフがベツレヘムを本籍とするダビデ家の子孫だったと、ルカ福音書では2箇所(1:27と2:4)にあります。神様が人間との約束を果たしてヨセフを選ばれたことが示されています。

 この世での両親ヨセフとマリアの境遇

ルカによる福音書は、ユダヤ人でない人々、つまり旧約聖書にある御言葉を知らない人々に向けて書かれたので、当時のユダヤやガリラヤ地方、更に周辺の地中海地方での政治的出来事を目印として書く必要がありました。イエス様がお生まれになり、福音の宣教活動をされ、十字架にかかり、復活された後に弟子達が宣教活動を引き継いだ時代に、この地域一帯を支配していたのが、繁栄を誇った「ローマ帝国」でした。その初代皇帝だった「アウグストゥス」が、強大な武力に支えられた権力によって、属国ユダヤから税金を搾取する目的で行ったのが「住民登録」です。また、本籍地を離れた人々は、自己負担で帰省せざるを得なかったのです。更に条件が悪いことにマリアは身ごもっていました。妊娠中、しかも出産間近に旅をするなど、本当に避けたいことです。しかし、拒否する権利は全くありません。ヨセフとマリアは、強い権力者の意向に無理矢理従わざるを得ないような、弱く無力な境遇にありました。それは、そのような無力な状況の中に、神様が敢えて御自分の御子を低く置かれたことを意味します。この世では無力な者達をこそ、神様は愛し、救いたいと願われたからでしょう。

 この世での居場所がなかったイエス様

イエス様は両親の旅の途中に生まれたので、産着の準備もなく、人間のための宿屋すら与えられず、更には、柔らかいベッドにではなく、固く冷たい飼い葉桶に置かれました。この世での場所が準備されなかったのです。にもかかわらず、私達は主を信じる恵みを受けました。一人一人の心に主を迎えられるよう、自分の信仰を吟味し、「神の宮」として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

12月6日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ7:14 ルカ福音書1:26-38

 はじめに

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とイザヤ書7:14に預言があります。神様はずっと昔から、救い主である人間をこの世に送ることを、人間達に約束してくださっていて、確かに実現してくださる御方なのです。その救い主の到来の前に、救い主を証しする重要な人物をこの世に送ることをも預言し、約束してくださっていました。その重要な人物が、「洗礼者ヨハネ」として、その誕生を父親ザカリアが天使ガブリエルから預言されたことは、今日の箇所の直前の段落に書かれています。

 ダビデ王の子孫ヨセフの婚約者マリアへの預言

ザカリアに主の御言葉を伝えた6か月目に、天使ガブリエルは再び神様から任命され、人間へ御言葉を伝えることとなりました。いよいよ、「救い主」の母となるマリアへ神様の御言葉を伝える使命です。救い主はダビデ王の子孫から生まれるという預言(サムエル記下7:12-13)があり、マリアはダビデ王の子孫ヨセフの婚約者でした。それで、マリアは預言どおりの「救い主」の母として神様に選ばれたのでしょう。

 「救い主」の母マリアへの天使の挨拶

天使の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(28節)という言葉は、信仰者への最高の言葉のプレゼントだと思います。「おめでとう」は元々の言葉では「喜べ」という意味があります。「喜べ、あなたは神様から恵みをいただいている。神様があなたと共におられる。」天使も、救い主の母となるマリアに「言葉の献げ物」をしたのかもしれません。

 考えて、主の御言葉を受け入れようとするマリア

しかし、天使が現れて自分に語り掛けるようなことを見た場合に、人間は普通の状態でいられるでしょうか。もちろん、マリアもまず、「戸惑い」ました(29節)。これはかなり抑えた訳し方で、元々の言葉では、もっと動揺している感じ、取り乱す感じが含まれています。その混乱の後、マリアは天使の言葉を一生懸命考え込んでいます。信仰深く、慈愛に溢れた人という一般的なイメージに加えて、マリアは言われた言葉をよく考えるという思慮深い人だったと思われます。

 「聖なる者、神の御子」の誕生の預言

30節以降の天使の言葉はザカリアに対する言葉と同じく、また「詩」の形をとって書かれています。真実で美しい、主の御言葉が伝えられているのでしょう。マリアがこれから身ごもり、男の子を産む定めにあることを知らされ、その子の名前を「イエス」と名付けるよう告げられたのです。また、その子は「聖なる者、神の子」と呼ばれるようになり、先祖ダビデ以上の王として、人々を治めるようになることが伝えられました。

 「聖霊が降り、いと高き方の力がマリアを包む」

天使をとおして告げられた「主の御言葉」に対して、子供が産まれる関係をまだ結んでいないのに、自分が身ごもることはあり得ないと、マリアは人間的判断で答えました。これに対して35節の天使の答えが実に重要です。「聖霊がマリアに降り、いと高き方(神様)の力がマリアを包む、そうしてマリアは神の子を身ごもる」と説明しています。イエス様は人間としてこの世に来てくださるために、胎児として人間の歩みを始めるのですが、人間と全く同じではなくて、最初から「神の子」なのです。「神の霊」である「聖霊」は、神様の御心を実現するためにこの世に働きかけて、どんなことでも実現することがおできになります。聖書の最初に書かれている「天地創造」を思い出していただきたいのです。全くの「無」から、御言葉によってこの世をお造りになることがおできになるのが神様であり、その力を神の霊である聖霊は持っておられます。聖霊は「救い主」の母としてマリアを選び、「包む」ことにより、マリアと共に居て、守り、愛し、その結果、神の御子が産まれる奇跡が起こったと思われます。神様の「救いの御計画」を、人間は、ただ信じて受け入れるのみです。

 マリアの大いなる信仰=「お言葉どおり、この身に成りますように。」

マリアに確信を与えた「しるし」として、親類のエリサベトの妊娠が挙げられます。「不妊の女」という不名誉な呼び名から解放なさる神様を信じる決意をマリアはすぐにしたのです。マリアは、姦淫の罪を犯したと誤解されて死罪になるかもしれない使命を、敢然と受け入れる信仰を示しました。「お言葉どおり、この身に成りますように(38節)。」その信仰を手本として、待降節を過ごしましょう。