7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。

7月15日の説教要旨 「祈りの家」 平賀真理子牧師

イザヤ書56:1-8 ルカ福音書19:45-48

 はじめに

イエス様がついに神の都エルサレムに入っていく、いわゆる「エルサレム入城」直後になさったことは、エルサレム神殿に入られたことでした。この神殿は、イスラエルの民にとって大変重要な場所で、イエス様が最初にここに入られたことは、本当の「救い主」として御自分を公けにする証しとなるはずでした。

「救い主」についてのイスラエルの民とイエス様との認識の相違

「主なる神様」は人類の救いの起点として、イスラエルの民を選び、導いてこらました。それは、出エジプトの出来事やバビロン捕囚後の帰還許可の出来事として、歴史の上でも顕著に現れました。イスラエルの民は、あのダビデ王やソロモン王の時に繁栄したイスラエル王国のような国が建てられることが「救い」だと思い込み、「救い主」は国を建てる政治的力のある御方であると期待したのです。ところが、イエス様は、「救い主」の使命は、人間を「主なる神様」を第一として生きるように変えることだと御存じでした。そのために、「神の国の福音」を告げ知らせ、人々を神様へと目を向けさせたのでした。また、「神の国」の先取りとして「神様の御力」が人間に及ぶとどうなるかを知らせるために、癒しなどの奇跡を行ってこられたのでした。「救い主」は、決して政治的権力を求めて働くものではないことを示しておられました。

 

イエス様が「父の家」で見たこと=祭司長達の罪深さ

イエス様は12歳の頃、エルサレム神殿を「自分の父の家」とおっしゃったことがあります(ルカ2:49)。この神殿に祭られている「主なる神様」が送ってくださった「救い主」が「父の家」に帰還した時、それまでに管理を任されていたはずの「祭司長達」は、本来なすべき「主なる神様への祈り」ではなく、この世で権力を持つ金銭を儲ける「商売」に心を奪われ、第一のこととして考えていたのでした。彼らは、神殿税を徴収する時に手数料を必要以上にたくさん要求しましたし、また、罪を肩代わりさせるための犠牲の動物を、神殿内の祭司長一族の経営する店で高値で買わせるように仕向けて暴利をむさぼっていました。神様の名を利用して、自己の利益を図った上に、それを悪いとも思わない、なんと罪深いのでしょう。イエス様は、これは、父なる神様の御心とは全く逆だと、「主なる神様」の独り子として、明確に示す必要がありました。優しいイメージのあるイエス様も、このような不義を見過ごすことはなさいません。

 

「古い救い」から「新しい救い」へ

イエス様がエルサレム神殿で商売人達を激しく追い出されたことは、教会では「宮清め」という呼び名で有名です。祭司長達と、また、彼らと結託した商売人達の不義を明らかにして悔い改めさせるという目的以外に、もう一つ、この「宮清め」には大きな意味があります。それは、イエス様が「古い救い」を終わらせ、「新しい救いの到来」を公けにすることです。神殿を託されていた祭司長達は、結局は罪深さから解放されませんでした。そんな彼らが、民の罪を清めることなどできませんでした。神殿で祭司長が罪人の肩代わりの動物を犠牲にするという「古い救い」は、人間の罪によって実現できませんでした。そこで、罪のない「神の御子」であるイエス様の大いなる命の犠牲によって罪が赦されて神の民とされるという「新しい救い」がイエス様の救いの御業によって、実現されることになったのです。イエス様の十字架が「自分の罪の贖いである」と信じるだけで、何の功績のない私達、後の時代の信仰者までも、救いの恵みをいただけるとは、本当に感謝なことです!

 

今や、私達一人一人が「祈りの家」

私達は、自分の罪の赦しの源である「主の十字架」での受難を想起し、礼拝において、この呼び集められた礼拝堂で、感謝の祈りを より一層熱心に献げる群れとなりたいものです。聖日の礼拝だけでなく、日頃の生活でも、感謝の祈りをもっともっと献げるようになりたいものです。Ⅰコリント書3:16には「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。「新しい救い」では「私達一人一人が祈りの家」なのです!そこに不義が入り込んでいたら、聖霊によって追い出して清めていただき、救い主イエス様への感謝の祈りで満たすことができるよう、祈り求めましょう。

7月8日の説教要旨 「神の訪れてくださる時」 平賀真理子牧師

申命記32:39-43 ルカ福音書19:28-44

はじめに

イエス様と弟子達一群が、エリコの町からエルサレムに入っていく、そのことが記されているのが、今日の新約聖書の箇所です。

 

「ムナのたとえ」を踏まえた上での「エルサレム入城」

まず、最初に、直前の段落の「ムナのたとえ」をイエス様が語られてから、エルサレムに向かって出発したと、このルカ福音書は前置きしています。イエス様がお建てになる「神の国」は、ユダヤの民が期待したものとは、全く別次元のものであるということを「ムナのたとえ」を想起させつつ、主のエルサレム入城の話が進んでいきます。「ムナのたとえ」で意味されていることは、「神の国」とは、イエス様を憐れみ深い救い主として信じる者達は、主の僕としてその恵みを増やすように働く国であるし、一方、イエス様を救い主として全く受け入れる気のない者は、その恵みから完全に締め出される国であるということです。イエス様を救い主とする信仰があるか否かで分けられる国なのです。例え話にあるように、そこでは、主人が一度不在となり、僕達が恵みを増やす時間が必要です。ここで、イエス様がこの世で人間として生きて歩む「恵みの時」が近々終わることが暗示されています。人々の罪を贖うために、主は命を捨てる定めを全うせねばなりませんでした。

 

ゼカリヤ書の預言どおりのことが実現した!

30節から35節までは、ゼカリヤ書にある「救い主についての預言」が、「エルサレム入城」の時に、本当に実現したということを意味しています。子ろばの手配に選ばれた二人の弟子は、当時は、はっきりと意味がわかって行動したわけではないでしょう。イエス様に命じられたままに行動したら、そのとおりのことが次々と起こり、主の死後に「あれは預言の実現だ!」と思い至り、語り継いだのだと思います。人間には理解できないことも、神の御子であるイエス様には、神様の御計画として、御自分が「子ろばに乗る救い主」としてエルサレムに入っていくとわかっておられ、粛々と実行なさったのだと思われます。

 

 ルカ福音書における「エルサレム入城」の特徴

イエス様が救い主としてエルサレムに入られたことを、教会では「エルサレム入城」と呼び、4つの福音書全てに記されているように、重要視しています。その中でも、ルカ福音書における「エルサレム入城」では、他の福音書の記述とは異なる特徴が2つあります。一つは「弟子達の歓喜と反対派の反感が対比して書かれていること」であり、もう一つは、「結局はイエス様を受け入れなかったエルサレムが近い将来崩壊することをイエス様が預言なさっていること」です。

前者では、他の福音書とは違って、エルサレム入城について、歓喜の声・賛美の声を上げるのは「弟子の群れ」(37節)です。それを止めさせるように、イエス様に要求したのがファリサイ派の人で、彼らは、イエス様が現れる前には民衆の尊敬を受けていた宗教指導者達でした。イエス様に反感を持つ彼らは、エルサレム入城も面白くなかったでしょうし、エルサレムの人々が、主の弟子達の歓喜に影響され、イエス様への人気が燃え上がることは避けたいと思っていたのでしょう。しかし、イエス様は、「エルサレム入城」は神様の御計画の実現だから、天地全体の喜びであり、弟子達を黙らせても、石が叫び出すと表現されたのです。

後者では、ファリサイ派をはじめとする宗教指導者達と、彼らに扇動された民衆とによって、イエス様が救い主として受け入れられなかったことが原因で、エルサレムの町とその住民が滅ぼされるという事態を、イエス様は先取りしてご覧になっていたことが示されています(約40年後、エルサレムはローマ帝国により、預言どおりに徹底的に破壊されました。)。エルサレム崩壊の様子が、大変悲惨だとイエス様は予めおわかりになり、泣き叫ぶほどに悲しまれたのです。

 

「神の訪れてくださる時」をわきまえる

破滅を逃れるには「神の訪れてくださる時をわきまえる」必要があると記されています(44節)。これは時空を超える神様の法則なので、私達にも該当します。信仰者には「神の訪れてくださる時」があります。過去には「洗礼を受けたい思いが与えられた時」、現在では「礼拝を献げる時」です。その恵みを理解して感謝する信仰者となれるよう、祈りましょう。

7月1日の説教要旨 「主の僕と主の敵」 平賀真理子牧師

マラキ書3:17-20 ルカ福音書19:11-27

はじめに

エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も、いよいよ目的地に近づきました。今日の新約聖書箇所は、直前の段落「徴税人ザアカイの悔い改め」の話が終わった後、それに続いて、イエス様がお語りになった例え話として記されています。

 

民衆の期待「イエス様はエルサレムで神の国を建ててくださる!」

イエス様がエルサレムに近づいておられることは、ユダヤの民衆にとり、期待が膨らむ嬉しいことでした。彼らは、イエス様がエルサレム到着直後に、自分達に圧政を強いてきた異邦人の国であるローマ帝国を追い出し、ユダヤ民族の国を実際に建ててくださると思い込んでいたのです。しかし、今日の箇所の冒頭の11節では、言外に「そうではない。人々が思い込んでいるとおりのことが実現するのではない。」という思いを汲み取ることができます。「ムナのたとえ」を知ると、イエス様が「神の国」について何をおっしゃりたかったかが見えてきます。説教題「主の僕と主の敵」という観点で、見ていきましょう。

 

「ムナのたとえ」の中の「僕」と「国民」

12節以下の例え話で、最初に登場するのは「王の位を受けるために旅に出るという立派な家柄の人」です。その人は、旅の前に、十人の僕に一ムナずつ渡し、これを元手に商売をするように命令します(「1ムナ」とは、100日分の賃金と考えられます)。更に読み進めると、この僕達以外に、「国民」がいて、彼らは、この主人を「王」として受け入れたくないと、人を介して主張したと説明されています(14節)。

 

それぞれの僕への賞罰と、王を受け入れない国民への裁き

王の位を受けて旅から帰ってきた主人は、僕達が自分の留守中に命令を遂行したか尋ね、1番目に報告した僕は10ムナ、2番目に報告した僕は5ムナの利益を上げたと報告しました。この2人に対し、主人は、利益の多寡ではなく、彼らが命令に忠実だったことを大変喜びました。問題は3番目に報告した僕です。主人が厳しい人だと自分で思い込み、失敗して損失を出すのを恐れて、資金の一ムナを布に包んでいたと報告しました。主人は彼を「悪い僕だ」とし、また、3番目の報告者の言葉どおりに「厳しい人」として「厳しい裁き」をしたのです。資金の一ムナを取り上げ、十ムナの利益を上げた僕に与えよと命令しました。主人のこの命令は、僕達にとってはすぐに納得できる内容ではありませんでした。それは、人間の考え方では不平等のように感じます。しかし、この主人は「持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(26節)と言ったのです。それだけではありません。この主人を王として受け入れたくないと言った「国民」を、自分が治める国から全く排除するのだと、この主人は宣告しました。

 

 「ムナのたとえ」は「神の国」の例え

 この例え話は「神の国」の本質が語られています。イエス様を救い主として受け入れるか否かによって、前者は「主の僕」とされ、恵みを増やすことに忠実かを問われ、後者は「主の敵」とされて排除されると白黒はっきりした結果が示されます。主を信じて従う者の国が「神の国」です。

例え話の謎解きをすると、立派な家柄の人であり、後に王の位を受けて戻ってくる人とは、「神の国」の主人、具体的に言うと、救い主イエス様の例えです。そして、王の位を受けるために遠い国へ旅するとは、イエス様が十字架にかかって、この世を去ることを例えています。一ムナずつ渡される僕達は、当時で言えば「使徒達」の例えですし、後の時代まで広げれば、神の恵みを受ける信徒達を例えていると考えられます。

また、この主人は旅から戻り、命令を忠実に果たしたかを問うことを忘れてはならないでしょう。私達「主の僕」は、救い主イエス様から受けた恵みを増やすために生きたかを必ず問われるという例えだからです。

別のグループ「国民」(14節)とは、イエス様を救い主と認めない者達、具体的には当時のユダヤ教指導者達の例えだと言えますし、主を十字架につけたユダヤの民衆も含まれると言えるでしょう。二千年たった今でも、主を受け入れない人々はおられます。彼らは「主の敵」(27節)と例えられます。しかし、主は「敵」を「僕」に変える「救いの御業」をなさいます。私達もそのことに僅かでも貢献できるよう、祈り求めていきましょう。

6月24日の説教要旨 「失われたものを捜して救う主」 平賀真理子牧師

エゼキエル書34:11-16 ルカ福音書19:1-10

はじめに

十字架にかかる地エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も終わりに近づいてきました。今日の新約聖書箇所にある出来事は、エリコという町で起こったこととして、教会では有名な話であり、教会学校でも「ザアカイさんのお話」として度々お伝えしています。

 

イエス様見たさに木に登ることを思いつくザアカイ

イエス様が自分達の町を通り過ぎるということで、エリコの人々はイエス様の周りにひしめき合います。その噂を聞きつけた「徴税人の頭」であるザアカイもイエス様を見たいと思ったのでしょう。けれども、背の低いザアカイは、その周りに人々がいるために、その思いが叶わないことを予想しました。そこで、良いアイデアが浮かびました。木に登れば、人々に取り囲まれているイエス様を、上から見られると気づき、いちじく桑の木に登ったのです。

 

 ユダヤの民衆に除外されていた「徴税人の頭ザアカイ」

 ザアカイの仕事である「徴税人」とは、神の民ユダヤ人から、異邦人の国ローマ帝国への税金を徴収する仕事をする人々のことでした。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働く仕事をしていたのです。しかも、それだけではありません。徴税人の多くは、ローマ帝国から指示された金額に上乗せした金額をユダヤ人から徴収し、その上乗せした額を自分の懐に納めていました。「私腹を肥やす」という不正を行う人々だったのです(十戒の「むさぼってはならない」という掟を破っています)。だから、神の民ユダヤ民族が「神の前に正しく生きるように指導している」(つもりの)ファリサイ派の人々にとって、徴税人という人々は「汚れた罪人」の最たる者達でした。だから、その教えを受けているユダヤの民衆も「徴税人」を軽蔑しました。ザアカイは、徴税人の中でも「頭」だったのですから、一応は肩書や権力があるにも関わらず、だれかが道を譲ってあげるなど、あり得ませんでした。ファリサイ派やユダヤの民衆は、彼を排除すべき人物と見ていたのです。

 

 罪深いとされたザアカイの心の叫び

ザアカイは、イエス様を見てどうするつもりだったのでしょうか。表面的には、単に「イエス様を見たい」という思いだけだったのかもしれません。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働いている罪悪感、更には、社会からの疎外感、彼自身も気づいていなかった「心の叫び」が彼を突き動かしたのではないでしょうか。罪人だと言われている自分でも、イエス様との出会いによって、神様の恵みを感じられるのではないか、救われるのではないかという希望が頭をもたげてきたのではないでしょうか。

 

「急いで降りて来なさい」5節)

そんなザアカイの心の叫びを、イエス様は感じ取られたのでしょう。自分のアイデアで木に登っていたザアカイに対して、イエス様は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)と語りかけてくださいました。自分の思いつきで高みに登り、主を見下ろしているザアカイに、イエス様は急いで降りて来て、御自分の御前に立つようにお命じになりました。ザアカイはそれに従い、イエス様の御前に立ち、主を喜んで迎えることができました。私達も、日頃、自分で高みに登ろうとしているのではないでしょうか。イエス様は、急いで降りて来て、御自分の前にしっかり立つように求められます。

 

「失われたものを捜して救う主」(10)

更に、人々に罪人と呼ばれたザアカイも「『アブラハムの子』なのだから」救われたと明らかにされています。聖書で証しされた神様は、「アブラハム」という信仰深い人に、本人と子孫への祝福を約束なさいました。アブラハムの子孫であるユダヤの民は「神の民」なので、神様の祝福から漏れることはありません。ユダヤ人であるザアカイは、罪深さにより、聖い神様から一度見失われたにも関わらず、一度御自分の民と決めた者を神様は諦めずに、むしろ、捜して救おうと情熱を燃やす御方だと証しされています。実は、私達も新約時代の「神の民」と予め定められています。イエス様の「救いの御業」によって、罪の世から捜し出されて救われたのです!神様の恵みに感謝し、主の御前にしっかりと立ちましょう。

6月17日の説教要旨 「見えるようになれ」 平賀真理子牧師

詩編53:2-7 ルカ福音書18:38-43

はじめに

イエス様は、人々の罪を贖うという救い主の役割を果たす時が近づいたことを悟られ、宣教の本拠地だったガリラヤ地方から、十字架にかかる地エルサレムに向かって南下しておられました。エルサレムに近い町エリコの手前で、今日の新約聖書箇所の奇跡の出来事は起こりました。これは、イエス様の数多くの癒しの奇跡の最後の奇跡です。それが「目が見えない人がイエス様によって見えるようにされた」というものです。イエス様によって「見えない人が見えるようになった」わけですが、これは単に、肉体的な視力の回復だけを指しているのではありません。そのことを学んでいきましょう。

 

「ダビデの子」(38節、39)

一人の盲人が、多くの人々が近くを通り過ぎる物音や雰囲気を感じ取り、周りの人に「これはいったい何事ですか」と尋ねました。その答えは「ナザレのイエスのお通りだ」という言葉でした。ところが、この盲人は、イエス様への呼びかけとして、聞いたとおりの「ナザレのイエス」ではなく、「ダビデの子イエス」という言葉を使いました。「ダビデの子」の「ダビデ」は、イエス様の時よりも更に千年程前にイスラエル王国が最も栄えた時の王様です。ダビデ王は、主なる神様から愛され、強い敵国との戦いでも、主の助けをいただいて勝利し、その恵みを感謝する王様でした。また、ダビデ王の子孫から「救い主」が生まれるという預言があって、イスラエルの民は皆それを知っていました。だから、イエス様を「ダビデの子」と呼ぶことは「あなたこそ、救い主だと私は信じます」という信仰告白でもあったのです。

 

「わたしを憐れんでください」(38節、39)

続いて、この盲人は「わたしを憐れんでください」と懇願しました。これは「あなたの力でわたしを助けてください」という意味です。自分の苦境は、自分や人間の力では解決できないから、もう神様に頼る他ないと心から思っていたことを意味しています。そして、「先に行く人々」の静止も聞かず、更に激しく、イエス様の助けを求めました。

 

「見えるようになれ」(42)

必死で助けを求める人を、イエス様は決して無視する御方ではありません。御自分を「救い主」と信仰告白した盲人に対して、自分の願いを口で表明するように導き、その願いを叶えてくださいました!御自分を救い主として受け入れた人の気持ちに寄り添い、願いを実現してくださったのです。「見えるようになれ」という言葉は、まさしく、「救い主の憐れみ」の言葉であり、それが実現し、盲人は望みどおり、見えるようになりました!そして、本人も、周りにいた民衆も神様を賛美するようになりました(43節)!「見えるようになる」という奇跡は、視力の回復はもちろんですが、彼らが、神様の人間への愛、特に、御子イエス様を通しての救いの御業の偉大さを、霊の目で「見えるようになってほしい」という、神様の御心が明らかになった出来事と読み取れます。

 

「あなたの信仰があなたを救った」42節)

イエス様は、御自分の御力を自慢するために奇跡を行ったのではありません。神様の力がこの世に現れるとどのようになるかを人々に知らせるためでした。今回の奇跡でも、イエス様が憐れんでくださった結果、神様の御力によって、この盲人は癒されたのです。ところが、イエス様は御自分のおかげだと言うような御方ではありません。この盲人の信仰ゆえに救われたのだとの励ましの御言葉をかけてくださったのです。

 

 「神の救いが見えるようになれ」

それまで、この盲人は、その社会で大変に傷つけられてきたことでしょう。このように身体や体の機能が不十分な人々を本来配慮すべき宗教指導者達は、彼らが神様から罰を受けていると言い、自分達の社会から排除すべきだとしていたからです。その一方、イエス様は、救い主としての憐れみを求める声を聞くとすぐに、それに向き合い、憐れみ、望みを実現するべく働かれる御方です。私達は、このようなイエス様を救い主として信仰しています。この盲人だけでなく、私達の神様の助けを求める叫びを聞き、「神様の救い」が見えるように導いてくださる御方です。霊の目が開かれ、その恵みを感謝できるよう、祈り求めましょう。

6月3日の説教要旨 「すべてを捨てて主に従う」 平賀真理子 牧師

申命記5:5b-21 ルカ福音書18:18-34

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半の段落は「金持ちの議員の話」として、教会の中ではよく知られた話の一つで、3つの共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)すべてに書かれています。

 

「善い」という言葉を聞き逃さなかったイエス様

ユダヤ教指導者達が大事だと教えてきた律法順守に忠実だと自負する「金持ちの議員」が、イエス様に向かって、「永遠の命を受け継ぐ方法」を聞いたのです。話の内容に入る前に、イエス様は、御自分への「善い先生」という呼び掛けを聞き逃しませんでした。「善い」という修飾語は、当時は神様にしか使わない言葉だったそうです。これを聞き逃すことは、イエス様が御自分を神様と同列に並べることを許したとして、反対派にイエス様を攻撃させる一因を作ることになったのではないかと思われます。イエス様は質問者の悪い心を一掃なさいました。

 

 律法順守してきた「金持ちの議員」に欠けていたこと

更に、この男の心を見透し、イエス様は彼が律法の大切さを知っているはずだと指摘なさいました。この男の律法順守の姿勢を決して軽んじてはおられませんが、その行動の根本にある心を問題視なさっています。神の民として新しく必要とされる行動をイエス様は指示なさいました。持っている物を売り払い、貧しい人々に分け与えることでした。この世でいただいたものを神に感謝し、それを隣人に分け与える謙虚な心があるかどうか、また、それを命じた御言葉に従えるかどうか、それをイエス様は問われたのです。イエス様は、彼に、そのような心になったら、「わたしに従いなさい」、つまり、「わたしの弟子になりなさい」と「金持ちの議員」に呼び掛けてくださいました。しかし、この「金持ちの議員」はイエス様のこの御言葉に従うどころか、立ち去り(マタイ19:22、マルコ10:22)、救いから遠ざかりました。

 

自分の物やこの世への未練を捨てて主に従う弟子達への報い

このことにより、イエス様は「金持ちが神の国に入ることは難しい」とおっしゃっいました。この世で様々に豊かな人間は、持っている物を捨ててイエス様に従うのは難しいということです。そこで、弟子のペトロが、自分達はそれを行ったと主張し、これに対し、イエス様は、この世での充分な報いと、後の世での永遠の命の授与を約束なさいました。

 

「主の弟子」である私達が、主に従った後に受けた報い

当時の弟子達だけでなく、後の時代の弟子としての私達の多くが、信仰生活に入る前に、自分にとってこの世への未練を生む物を断ち切った経験があると思います。特に、私達が生きる、今の日本では、周りの人と同じであること(「同調圧力」)が幅を利かせています。キリスト教信仰に入ることは、この同調圧力を打破することです。家族や友人から「自分達と考えや行動が同じでない者とは絶縁する」と反対を受けた方も多くおられるでしょう。しかし、それでも、私達は信仰を与えられました。人間的な見方をすれば、実に勇気のいる決断でしたが、イエス様はこの決断を祝して御自分に従う者の気持ちに寄り添ってくださり、この世でも、後の世でも大きな報いを保証してくださっているわけです。また、神様側の視点で捉えるならば、恐らく、神様は信仰者を「神の民」として選んでくださり、聖霊によって「信仰」を与えられたのでしょう。その結果、私達信仰者は今、どうでしょうか。この世だけしか知らなかった時に未練を感じていた物の価値はなくなり、信仰に入った後に神様から与えられたものによって、真の平安が与えられていると実感している方が多いと確信します。この世において「神の民」とされている喜びを知った者こそ、永遠の命を主から授かる喜びもわかるのです。

 

 12弟子さえ「主の死と復活の予告」を理解できないようにされた!

 今日の新約聖書箇所の後半の段落は、イエス様御自身の「死と復活」についての3度目の予告です。34節の説明が特徴的です。「救い主の死と復活」という神様にとって最も重要な御計画を、弟子と言えども、人間はすぐには理解できないように、神様がなさったのです。神様の御心を求めるのは大切ですが、それを人間の知力や心で、すぐには理解できないこともありえます。そんな時も、信仰者の私達は、この世への未練をすべてを捨てて主に従う決意を持ち続けるように求められているのです。

5月27日の説教要旨 「神の国へのパスポート」 平賀真理子 牧師

列王記下20:1-7  ルカ福音書18:9-17

 はじめに

ルカによる福音書を再び読み進めましょう。今までで18章8節まで読み終わりました。イエス様は御自身が十字架にかかる町エルサレムを目指し、弟子達と共に旅を続け、目的地に近づいたところで、弟子達に語られた話として、今日の新約聖書箇所は記されています。

 

気を落とさずに祈る⇒祈る時の心構え

今日の箇所へ入る直前で、イエス様は、「気を落とさずに祈らなければならない」ことを教えようと例え話をなさったと記されています。

私達信仰者は、こう知らされると、「よし、祈りを頑張ろう!」と素直に思い、より一層、祈りに励むようになるでしょう。でも、そこに落とし穴があります。祈りの根本姿勢が間違っていれば元も子もないので、イエス様は弟子達に祈りの正しい姿勢を教えてくださったのです。

 

 対照的な2人(ファリサイ派と徴税人)の祈り

10節からの例え話で、イエス様は2人の対照的な人物を挙げました。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人ですね。ファリサイ派の人々は、自分達は神様から賜った「律法」の順守に熱心だから、自分達こそ神様に近い人間だとうぬぼれていました。もう一人の徴税人は、神様を知らない異邦人の利益のために同胞を裏切る人間で、しかも、自分の私腹も肥やす悪事をなしている人が多かったために、神様からほど遠い人間・汚れた人間と見なされていました。このような説明から人間的な評価をすると、ファリサイ派の人の方が神様は喜ばれるでしょうし、徴税人は決して正しいとは言えないと思われるでしょう。なのに、イエス様は、神様は全く逆に評価なさることを告げたのです。

 

 神様が「良し!」と認めてくださる祈りの姿勢

 ファリサイ派の人の祈りは、言葉の上で、神様への感謝となっていますが、根本では、神様を崇めてはいません。周りの人間と比べて、自分が「律法」に基づいた行動ができていることを感謝しています。それは、神様賛美ではなくて自己賛美であり、その根っこでは、神様を見ずに、人間(自分や周りの人間)しか見ていません。人間からや、その中でも自分自身からの「義」という評価は何の意味もありません。神様からの「義」をいただくことが人間の本来の喜びです。

一方、徴税人は、自分は神殿の前に出る資格もないと自覚した故に、遠くに立ったのでしょうし、神様の御座所と言われた天に向かって目を上げられないほど、自分の罪に打ちひしがれていたのでしょう。極めつけは「胸を打ちながら」という様子であり、心からの悔い改めを伴った祈りをしているとの表現だと思われます。自分の罪深さに真摯に向かい合い、自分の努力では罪から抜け出せないことを悟り、神様からの憐れみにすがる他はない、神様の憐れみによって罪から救われたいと心から願っていることがわかります。神様から「義」とされたのはこの人です。

 

 深い悔い改めと神様からの救いの希望

深い悔い改めと、神様からの救いへの希望、これこそ、神様が「良し!」と認めてくださる祈りの正しい根本姿勢です。自分のことを良く見つめ、自分のダメさ加減(罪)を良く知り、それは、自分や人間の考えでは決して解決しないことを知り、自分は神様から救われなければ生きてゆけないと思えたか、また、そのような経験があるかがとても重要です。その深い穴に、主の十字架と復活の恵みが入るのです。神様は、本当の悔い改めをした人を、罪の中で苦しんだままには決してなさいません。そこから救い出そうと働いてくださる愛によって、御子イエス様をこの世に送り、私達一人一人に出会わせてくださっているのです!

 

 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)

 「高い・低い」だけでなく、「大きい・小さい」「強い・弱い」「豊かな・乏しい」なども、神様は、人間とは全く逆の評価をし、人間社会で価値がないと捨てられる者を、神の民として重用してくださいます。

 

「神の国」へのパスポート

「小さい」故に人間社会では軽視される子供が、御許に来ることをイエス様は喜ばれました。子供達が見せる絶対的な信頼こそ人間が神様に本来見せるべき姿勢です。「主」へのこのような絶対的信頼と、前述の「へりくだり(自分を低くする姿勢)」こそ、神の国へのパスポートです。

2月11日の説教要旨 「絶えず祈る」 牧師  平賀真理子

詩編88:2-3  ルカ福音書18:1-8

はじめに

今日の新約聖書箇所は、「やもめと裁判官のたとえ」という見出しがついています。また、1行目には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあります。説教題にもあるように、イエス様は弟子達に絶えず祈ることを求めておられるということです。

 

神様の御心が実現されることを喜ぶ「神の民」

「祈らなければならない」という箇所には、元々の言葉では「神様によって、祈るように定められている」という言葉が含まれています。これは私達には、あまり見出せない感覚だと思います。「神の民」ユダヤ人は「何事にも神様の御心が行われている。神様がが願われたことが実現すること」を、この世界の一つ一つを見ても、また、各々の人生を見ても、発見しようとします。そのことと向き合いながら生きていくのが「神の民」であると言えるでしょう。

 

本来の人間は、神様と心を合わせることを喜ぶ

神様が最初に創られた、本来の人間は神様の御心がすべてにおいて実現することを喜べたはずです。神様と心を合わせられるように本来人間は創られました。しかし、神様を心を合わせることに疑いを持ったために、人間は神様からいただくべき本当の幸いを失ったのです。

それは、神様から賜った自由意志を正しく用いられなかった人間の方に罪があるにもかかわらず、神様は人間達を根本から救おうと、御心にお決めになり、そのことが旧約聖書にずっとつづられています。

 

「神の民」として、神様から「祈り」を求められている幸い

神様による「人間の救い」という長い歴史の末に、イエス様がこの世に来てくださり、人々に「神の国」はどのようなものかを教えてくださいました。その御方を信じて受け入れることが新しい救いです。

この「神の御子・救い主」イエス様にとって、御自分の弟子達が、「神の民」として、神様へから祈ることを願われていることが、本当に喜ばしいことだったのです。逆に言えば、実は、罪ある人間はこのようにはなっていないという事実の裏返しでもあります。

 

「神の国」がこの世に実現することを「絶えず祈る」

イエス様は、御自分が「苦難の僕」としてエルサレムで殺される道をたどらねばならないと知りつつ歩んでおられ、もうすぐ目的地へ着こうとされています。その直前に、イエス様は弟子達に、「神の国」をこの世に実現することが一番大事だと伝えようとされています。この世にいる人間一人一人が「神の民」となり、神様からいただく幸い、希望に満ちた生き方をすることを求めておられます。だから、「絶えず祈る」内容としては、「神の国」がこの世に実現すること、広まることです。

 

「やもめと裁判官のたとえ」

とはいえ、神様から離れて過ごしてきた人間は、自分に困りごとがあって初めて、切実に祈るようになれるのかもしれません。今日の例え話の「やもめ」もそうです。彼女は困りごとに直面し、身近な裁判官に切実に訴えました。しかし、この相手である裁判官は、当時よく居た「不正な裁判官」でした。信仰心もなく、人間的に見ても尊敬できないような裁判官に対して、やもめの方は不当な方法はとらず、熱心に訴えることを繰り返すという正当な方法で相手を動かすことに成功しました。

この例え話で、裁判官は神様を、また、やもめは弟子達を比喩しています。この裁判官は神様と正反対の性質を持つ者として例えられています。不当な裁判官でさえ動かされるのだから、ましてや逆の性格の神様=人間を救うべく長い間計画立てて実現なさるような、大いなる愛の持ち主である神様なら、熱心な祈りという訴えを持つ人間の訴えを決して無視なさらないとわからせようとなさっています。

 

「神の国が来ること」を熱心に祈り続ける!

人間の救いに対する御業の時は、父なる神様だけがお決めになれる専権事項で、本来、人間は全く関われないものです。しかし、神様は、主の弟子達の祈りを心から待ってくださり、その祈りの熱心さによって、裁きの時(主の再臨の時)を速やかになさると教えておられます。主の問いかけ=「再臨の時までに神の国が来ることを信じていられるか」に対し、「はい!」と胸を張って言える弟子であり続けたいものです

2月4日の説教要旨 「神の国が来る」 牧師  平賀真理子

ダニエル書2:44 ルカ福音書17:20-37

はじめに

今日の新約聖書箇所は、前半=20節-21節が、イエス様に反対するファリサイ派の人々からの質問への答えということで述べられた御言葉で、後半=22節―37節は、イエス様を信じて従う弟子達への御言葉です。イエス様を中心に2つのグループは、全く逆の立場にありますが、イエス様は、各々の理解度や心の向きに応じてお話をなさいました。

その中心にある事柄、つまり、イエス様が一番大事になさっていたことは、天の父なる神様のことを証しし続けることです。今日の箇所もまさしく、「天の父なる神様が、人間に対して御計画してくださり、人間にくださるはずの『神の国』」について語られています。

 

ファリサイ派の人々の「救い主待望」の内容

ファリサイ派の人々はもちろん「救い主」を待ち望んでいましたが、彼らのイメージする「救い主」は、「王様」のイメージです。きらびやかに、派手に登場し、自分達の国をあっという間に建てられるイメージであり、それは大変この世的で、人間的な考え方の範囲を越えられないものでした。彼らは、自分達の想像どおりの「救い主」によって、自分達が優遇される「神の国」が来るものだと思っていたのです。

当時、ユダヤ人達は、異邦人であるローマ人達の支配に苦しめられていたので、「救い主」の登場を一刻も早く望んでいました。だから、待ちきれないという思いで「いつ?」と尋ねたのです。

 

「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある」

しかし、ファリサイ派のイメージする「救い主」や「神の国」とは、全く異なる「救い主」「神の国」が来るということをイエス様は御存じだったのです。だから、ファリサイ派の「いつか?」という問いには直接お答えにならずに、そもそも彼らの言う「神の国」の姿の想定がまちがっていることを気づかせようとなさっています。「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある。」と聞いて、神の国は地理上に存在するのではなく、一人一人の人間同士の関係性において神の国は成り立つ、だから、一人一人が神の民としてふさわしくあらねばならないというふうにも解釈できると思います。

しかし、もっと深く読み取ることが出来ます。イエス様に反対しているファリサイ派の人々に向かい、「実は、あなたがたはすでに『救い主』であるわたし(イエス様)と同席している、待ち焦がれていた『神の国』の始まりの中にあなたがたは入れられているのです」という内容が語られているのです。彼らが理解するかしないかに関わらず、神様の御計画が彼らに押し寄せていることを、イエス様は意味しておられるのです。

 

「神の国」の恵みを既に知っている弟子達に、主が更に望むこと

一方、弟子達は「救い主」であるイエス様の招きを受けて従っているのですから、彼らは「神の国」の始まりの中に入れられていることを理解しているはずです。その前提に立った上で、イエス様は「神の国」について、近い将来の出来事に備えて弟子達を教えようとなさいました。

人間のイメージでは「栄光の姿」のはずの「救い主」が、近い将来に「苦難の僕」として十字架にかかることは、いくら弟子であっても、つまずきの石となりかねないことをイエス様は見抜いておられました。しかし、弟子達は御自分がこの世を去った後、この世に「神の国」を広めるための働き手となってもらわなくてはなりません。弟子達が「主の十字架」により、「神の国」がこの世に来るという「神様の御計画の成就」を信じられなくなっては困るのです。その先に、主の復活があり、その後に「主の再臨」が御計画されていることを弟子達は信じ続けていかなくてはならず、それに備えて、イエス様は教えておられるのです。

 

「人の子」=「再臨の主」によって「神の国」は完成する!

後半の「人の子」とは、イエス様が再臨の主として来られる時の御自分を指す言葉です。主と共に居て「神の国」の恵みを知った弟子達も、十字架、復活、昇天という一連の御業の後、主の再臨を信じて待つという忍耐の時を過ごさねばならないことを、主は教えてくださっていたのです。必ず来る「主の再臨」に備え、私達は、人の言葉に惑わされず、いつどこで主の再臨の時を迎えてもいいように、主の約束を信じ、求め続けましょう!再臨の主によって「神の国」は完成するのです!