2023年10月29日の説教要旨 詩編104:19-23・ヨハネ福音書1:1-14

              「創 造」        加藤 秀久牧師

*はじめに

 神様はこの地上を造られた時に、神様が良いと思われる方法で、地上のもの全てを規則ただしく置かれました。そのことは私達がこの地上のもの、特に神様が造られた自然(森や木、水、山や海)に目を向ける時、神様の素晴らしさ、偉大さを見ることができると思います。

 本日の詩編104編19節に「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている」とあります。神様は月と太陽によって生き物たちの生活を保つための順序や決まりごとを定められていると感じます。例えば、季節の変わりゆく姿、もうすぐ春とか天気が良くなるとか日が暮れるなど、動植物も含め、私達が五感で感じる事柄は神様が与えた特権でもあります。

*光と闇(やみ)

創世記1:14以下で、天地創造において神様は大きな二つの光を造られ、大きな光に昼を、小さな光に夜を治めさせ、光と闇を分けられたとあります。本日の詩編では「あなたが闇(やみ)を置かれると夜になり 森の獣は 忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ 神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らはかえって帰って行き それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。(20~23)」とあり、神様は、昼に生きるものと夜に生きるもの、全ての生きもの逹がみ手の業の中にあることを示しています。ヨブ記38章には理由が分からない苦難の中で祈るヨブに、神様は嵐の中から「わたしはお前に尋ねる、私に答えて見よ。私が大地を据(す)えた時、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら言ってみよ(4節)」と答えられています。天地創造の時、あなたはどこにいたのか?との問いは、私達に、神様中心的な考え・想い・態度をもって、ひたすら神様を信じて求めるべきと伝えているようです。

私達は人生のどこかのタイミング(時期)で「自分は、神様の創造の中に、計画の中に、生かされている」ということを知る必要があると思います。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。

本日のヨハネ福音書の初めの言葉は、私達に、天地創造を思い起こさせる言葉になっていると思います。神様は、言葉を発することで天地を形造られたことを示しています。この言葉は、神様の想い、天の国が地上でもあるようにとの願いが込められていて、「」の中に「イエス様」のことを示していて、神様が告げる言葉は、神様の子供であるイエス様の言葉でもあることがすでに定められていました。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(4節)」

神は言われた。『光あれ。』(創世記1:1)」とありますように、神様は言葉によって光を現わしたこと、その言葉は初めに神様と共にあったこと、これはイエス様が天地万物の創造以前にすでに神様と共にあったことを告げています。そして「言は肉となって、私達の間に宿られた。(14節)」とあり、イエス様が私達と同じ被造物ではなく、最初から存在していたことが述べられます。イエス様は天地創造の時に神様と共におられ、イエス様の言葉は、生きる者逹に光を照らすことになり、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(5節)」とあります。

*神様に呼び出されたわたしたち

「光あれ」の「あれ」は、命令形ではなく、(光は神様と共にあるので)、天地創造前から存在していて、神様がすでにあった光を闇の中から呼び出したと考えることができます。このことを原語で調べますと、「~があれ」「~せよ」は、本来神様が計画していたものが「目に見える形となって現われるように」という未完了の指示形でした。ですから、この後の「大空」や「水」、「かわいた所」などもみな、神様の命令によってではなく、神様に呼び出されて現れたことを伝えていて、そのことは、私達がこの地上に生まれたことも同じように言えるかもしれません。私達は、神様に呼ばれてこの地上に人として生まれました。それは私達の五感で神様というお方を知り、感じ、味わい、触れるためにあると思います(ヨハネの手紙一1:1参照)。それはきっと、天地を造られた時、神様が「光あれ」と言われたと同じように、私たちは神様に呼び出されて、その神様の光に包まれる喜びを感じることにあるのだと思います。

2023年10月22日の説教要旨 詩編78:1-8・ルカ書19:11-27

            「天国に行く者」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私たちが神様の国・天国を思う時、そしてその天国におられる神様のことを思う時、どのような神様を思い浮かべるでしょうか。

本日のルカ福音書では、イエス様は、神様の国とイエス様について、たとえ話を通して、私逹を教えておられます。

イエス様は、旅の目的地でもある「エルサレム」に近づいた時に、このたとえを語られています。弟子達やイエス様を慕う人達は、イエス様がエルサレムに入城した後に「神の国はすぐにも現れるもの」と期待していたのでした。そこで語られた「たとえ」の一つは、「神の国はすぐにも現れる」との期待に対するイエス様の教えであり、もう一つは、イエス様を信じる人々への教えであり、拒む者への戒めです。

*たとえ話の意味(1)

 神の国は、すぐにも現れるものと思っていた人々に、イエス様は譬えの中で、「ある立派な家柄の人が、王の位(くらい)を受けて帰るために遠い国へ旅立つことになった」という表現で、ご自分のことを「旅立った人」、天の国を「遠い国」という言葉で表しています。エルサレムにおけるイエス様の死(と復活)によって神の国がすぐにも現れることはないこと、<イエス様が天国に向けて旅立ち、王位を受けたとしても>すぐには裁きのためにこの地上には戻って来ないことを教えています。

*たとえ話の意味(2)

 もう一つは、信じて従って来た人々に、イエス様が王位を得て、再び地上に戻ってくる時までに、各人に与えられた責任、その任務を忠実に守り、果たすようにとの教えです。これは直前に記されている「徴税人ザアカイ」の話と関連があり、ザアカイに起こった出来事を通して、一人一人に託されているこの世の財産を、イエス様の考えや思いに従って適切に用いるべきであることを教えています。そして再来の日までイエス様を拒否し続けるならイエス様が地上に戻って来た時には「裁き」があるとの警告です。

*イエス様を受け入れられなかったユダヤ人たち

 ユダヤ人およびその指導者達は、なぜイエス様を受け入れることが出来なかったのでしょうか。彼らは神様から約束されて長く待ち望んでいたメシア(救い主)がついに来た時、本来なら神様に感謝して神様を誉め称え、イエス様を歓迎するのは当然と私達は考えます。が、実際は、多くのユダヤ人達はイエス様を拒んでしまいました。それは、神様の国についてのイエス様の教えが、彼らの期待をはるかに超えていたからです。特にファリサイ派の人達は、「律法」に対するイエス様の考え方があまりも違っていたからです。彼らは過去の、神様への不服従さが原因で捕囚の民となり、異国バビロンの地での生活を通して神様への背きを後悔し、悔い改めました。そして今、神の国への唯一の道として「律法」があるので、その律法を厳粛に守り、さらに律法に基づいて作られてきた多くの「言い伝え=口伝律法」を守ること(例えば、祭儀的な手洗い、義務的な断食、安息日遵守の規定、けがれたものをすべて避ける‥等々)で、彼らの清さと信仰を前面に出していました。それに対してイエス様は、人間が作った規則にかかわらず、ユダヤ人の言動が神様のご意志、ご計画の本質から離れていることを指摘したのでした(マタイ5:21-48参照)。

後の世代に語り継ごう 主が成し遂げられた驚くべき御業を」(4節)

 本日の詩編78編は、イスラエルの民の歴史(出エジプトからダビデの選びまで)の神様のみ業(わざ)の歴史が語られます。特に、いにしえからの言い伝えである「主なる神への讃美、主の力の業、主が成し遂げられた驚くべき御業(奇蹟)」を告白しています。その一方で、イスラエルの人々は「神の民」としては失敗の繰り返しの多い民族でした。

信仰が与えられて現代を生きる私達も、神様がご覧になれば失敗を重ねる者達と言えるかもしれません。けれども重要なことは私達が神様との関係を持っており、創造主・唯一の神を知る生き証人であることです。私達が、生きた本当の神様に出会い、真実に向き合うことが出来るなら、「主が成し遂げられた驚くべき御業」に併せて、私達自身の救われた歩みも又、「神様への讃美と主の力」として言い伝えられていくでしょう。

2023年10月15日の説教要旨 創世記6:5-8 フィリピ1:1-11

           「神の力を知り、見抜く」    加藤 秀久牧師

*はじめに

フィリピの信徒への手紙は、西暦61年頃パウロがローマで拘束されていた間に書かれたと考えられています。フィリピは重要なローマの植民都市で、この地方にはユダヤ人はほとんどおらずユダヤ教の会堂もなかったと言われており、パウロがヨーロッパで宣教した最初の都市でした。パウロがかつて伝道したフィリピの信徒達に、今は監禁されている中で喜びに溢れて神様の言葉の素晴らしさ、嬉しさをひたすら伝えようとしています。

*喜びのみなもと

 1~2節は、フィリピの信徒達に、神様からの恵みと平和があるようにと願いを込めた祈りで、11節までは、パウロがこれ迄の信徒達についての報告を聞いて、パウロが喜びにあふれている様子を知ることができます。その喜びとは、彼らが今日まで福音に与(あずか)っていること、神様が彼らに近い将来、神様の大きな業、祝福を現して下さることの確信が与えられていること、そして彼らがパウロと共に、恵みに与る者とされていることを心に留めているからです。このことは、パウロにとって、感情が高ぶり胸がドキドキすることでもあり、フィリピ教会の人達と神様の働きを体験し、共有したいと願っているからです。

*パウロの執り成し(とりなし)の祈り

知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉(ほま)れとをたたえることができるように。」(9~11) 

「知る力」とは、「正しい教えを知る力・真の知識・認識力」です。「見抜く力」とは、霊的な事柄の真相を、とぎすまされたするどい感覚をもって洞察力を得ることです。これは、私達の肉体から起こる痛みを「痛み」として感じる感覚と同じようなもので、仮にこの感覚が鈍くなってしまうと、神様を信じることに無頓着になってしまうのではないかと思います。

今日、私達はこのように教会に集まって神様を礼拝することは、礼拝を通して神様から知る力と霊の見抜く力が与えられ、私達の心の中で、神様についての感覚が徐々に敏感になり、成長していくことによって、毎日の生活の中で神様との個人的関係がよりいっそう深く、生きたものとなっていくと思います。

*「あなたがたの愛が豊かになり(9節)

神様の言葉を正しく理解し、行動が伴う時、私達は、(人との交わりのように)神様との人格的な交わりに導かれ、神様の御意志(愛すること)を知るのです。ここで「豊かに」とあるのは「洪水のようにあふれて流れ出す」意味があります。愛は最も尊いものでⅠコリント書の 13:13に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とあります。又、本日の創世記では、地上には常に悪いことばかりを考えている人達がいて、神様は、人間を造ったことを後悔し、滅ぼすことを決意します。が、その中で、ノアと家族だけは、神様の好意を得ることができました。それはノアが、神様を信じる無垢な人(純粋に神様を求めて、従った人)だったからです。

*「本当に重要なことを見分けられるように。」(10節)

私達の人生の歩みにおいて、はっきりとした善悪の区別をつけることのできないものがあり、決めなければならないことや決断を求められることがあります。そして時間やお金の使い方とか、思いやりのない人との向き合い方、或いは助けを必要としている人との向き合い方など、多くの事柄に目が行き過ぎて迷うことも、生活の中で起きるかと思います。パウロはそのような日々を送る信徒達に、10節で、「本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。何が重要で、何が大切なことかを見分けて選ぶことにより「キリストの日(終末・再臨)に備えて、とがめられるところのない者となり、イエス様によって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神様の栄光と誉れとを称えることができるように」との、この祈りは、同時に私達自身の日々の祈りでもあります。

2023年10月1日の説教要旨 詩編73:21-28・ルカ書16:19-31

             「主からの富」      加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の詩編73編の最初に「賛歌。アサフの詩」とあります。ダビデ王の時代、「契約の箱」・・十戒を刻んだ2枚の石の板(神とイスラエルの契約の基礎をなす神の言葉)が収められている箱・・の奉仕に携わっていたレビ人の中から聖歌隊や楽器(竪琴・琴・太鼓・鈴・シンバル)を演奏する人達が選ばれましたが、アサフは73編で、日常生活の視線から、この詩編を書き上げています。神様に背を向けている者達の富と繁栄に目を向けて、彼らが一見、何事もなく落ち着いているような様子に心が痛み、絶望感を感じていました。しかし、本日の21-28節では、神様の聖所に戻ることで、重要なことと、そうでないことを見分ける正しい力、感覚を取り戻すことができること、自分自身と神様との関係が日々の生活の中で重要な位置にあることに気付きました。

*「彼らの行く末を見分けた」(17節)

アサフが思い悩みながら聖所を訪れた時、彼の前に思いがけないことが起こります。それは、神様に逆らう者の行く末が、神様によって「一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされる」姿が幻の中で目に映ったのです。この光景を見ることで彼は、神様のご計画を知ることとなり、本日の21~22節「わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。

わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。」と、かつての自分を振り返り、23節からは、自分と神様の関係は定められた事柄に従順であれば良いと思っていた関係性から、血の通った知識、生きている神様に出会うことで、彼は、神様にすべてを任せる信仰を得て、「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとに とどまることができる。」と告白しています。

*わたしたち

 日々私達が生活をしている社会は、<正直者が馬鹿を見る>ような、正しさだけでは生活していけないような、悪い環境があるかと思います。

そのような状況を見聞きする時、人々は神様を信じていなくても、それなりに豊かな生活、恵まれた生活をしているように見えてしまいます。そのような感情が起こる時は、私達が多忙で、自分の心に余裕がない時、落ち込んでいる時などかもしれません。神様は平等で正しくおられます。私達が持つ否定的な感情は、神様からではなく、悪魔が私達と神様との良き関係をあの手この手で、私達の心に働きかけて壊していくのです。その時この23節を思い起して下さい。神様は必ず私達の手を離さずに私達の右の手をしっかりと握っていて下さるのです。それは私達が神様を信じる前から(生まれる前から)私達の内に「主が共におられる」という文字を心に刻み込んでいるからです。それだからこそ、私達は神様に出会うことが出来た、いいえ今も、神様に出会うことが出来るのです。

*金持ちと貧しいラザロ

本日のルカ書には、毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、その家の門前に横たわり、捨てられた食べ物で過ごす、できものだらけの貧しいラザロが登場します。お金持ちはラザロを家に招き入れることもせず優雅な生活を続け、やがて貧しい人は死んで、天使達によって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。他方、お金持ちも死んで葬られ、陰府(よみ)でさいなまれていました。

宴席と陰府の間には大きな淵があり、渡ることは出来ません。

富を愛する人は自分が得た知識、能力、技術はかけがえのないもので、それらを用いて、大きな富を得ることは当然と考え、富は彼らにとって大事なものになっています。そのような人達は、神様に全てを委ねて従うことは考えず、助けも必要としていないかもしれません。

けれど万一、全てを失ったとしたら、あるいは多くの財産を残して死んでしまったら、その人達の行先はどこになるのでしょう。

神様は、生きた者の神様です。私達はイエス様に希望を持ち、イエス様から与えられる全てもので満足するのです。イエス様は、私達の道であり、真理であり、命です(ヨハネ14:6)。私達はイエス様の手をしっかりと握りしめて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年9月24日の説教要旨 アモス書8:1-7、テモテⅠ 6:1-10

              「世 の 富」       加藤 秀久牧師

*はじめに

本日のアモス書8章にはアモスの見た5つの幻のうち、4番目の幻が記されています。アモスの見た幻は、一籠の夏の果物でした。この果物は、いちじく又は、ぶどうであったと考えられています。主はアモスに「何が見えるか」と問いかけた時、アモスは「一籠の夏の果物(カイツ)です」と答えると、主は「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。」と告げています。夏の果物(カイツ)と最後(ケーツ)を記している言葉は、もとのヘブル語の独特の表現で、「夏が終わって、目を覚ます」という夏の終りが近づいていることを意味しているそうです。このことから、イスラエルの人々の犯した罪は明らかされ、イスラエルの裁きの時が熟したことをも意味しています。

では、私達はどのようにしてその時を知ることができるのでしょうか。

*イエス様の教え

 イエス様はマタイ福音書24:32~の中で、次のように語られています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのこと(注:24章前半の出来事)を見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」神様はイエス様を通して、私達が滅びの道ではなく、救いの道を歩むようにと勧めています。

*何が見えるか

 預言者エレミヤも、アモスと同じように神様から「何が見えるか」と問われて「アーモンドの枝が見えます」と答えています(エレミヤ書1:11)。

どちらもこれから起こる神様のご計画が示されている幻です。私達の中にも神様の促しのような預言や幻を見る方がいるかと思います。その神様からの問いかけを、しっかりと話し合える場所、祈り合う仲間、解き明かす仲間がいるかどうかが大切なカギとなるような気がします。

わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない

 4節には商人の不正がいかにひどいかを告げています。彼らの悪行は、祭壇や神殿の中にまで入り込み、神聖な場所を汚し、その罪はイスラエルの民全体に及ぼしていることを伝えています。富む者達は貧しい者達に苦しみを与え、農民逹をも押さえつけていたようです。商人は、秤や天秤、物差しに手を加えて儲かる仕組みを作り、くず麦さえも売りつけ、弱い者、貧しい者を靴一足の値段で買い取ったりしていました。神様はこれらを見過ごしにできず「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と、人々に裁きの時、終わりの日が来たことをアモスを通して宣言します(7節)。

金銭の欲は、すべての悪の根

 本日のテモテ書6:2では、私達が働く時、主人(雇用者)が信者である場合、「自分の信仰上の兄弟であるから」と軽く見るのではなく、「むしろ、いっそう熱心に」その人に仕えるべきと教えています。神様は、神様を信じる主人の上におられ、主人は神様に愛され、その会社が祝福の内に守られていることが告げられているように思えます。

 他方、イエス様の健全な言葉や教えに従わない者は、さまざまな欲望に陥り、その欲望が人を滅亡と破滅におとしいれていきます。

確かにお金は大事です。けれども「この世の富」を愛することは、お金や物への執着心がつきまといます。その人達の行きつくところは、満たされることがない世界だということ理解しなければなりません。ここでは、「金銭の欲は、すべての悪の根です。」(10節)と教えます。

*大きな利得の道

信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならわたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物あれば、わたしたちはそれで満足すべきです(6~8節)」。「この世の富」が私達にとって「イエス様である」ことを信じ誘惑に負けず、イエス様を見つめて行きましょう。

2023年9月17日の説教要旨 創世記37:1-11 ・コロサイ書3:1-17

           「神の愛を身につける」      加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達はイエス様を、この身につけているのでしょうか。

イエス様の誕生の話をどこかで聞いた時、不思議に思い、人間から神様の子供が生まれるの?と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかも本日の説教題を見た時、「神様の愛を身につける」などということが この地上に生きる私達全ての者に果たして出来るのでしょうか。

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ書3:1)

 本日の、この御言葉は、神様を信じる者、復活したイエス・キリストを信じる者、そして天に昇られたイエス様を信じる者、それからイエス様が再びこの地上に戻ってくることを待ち望む者、そのことを信じる者たちが教会や一つ所に集まり、神様を礼拝し、神様を称えている姿を映し出しているようです。それだから、「上にあるもの、天にあるものを求めなさい。イエス様がその所におられるのだから...」と述べられています。

*神の国に入る者

「神の国」に入るには、狭い門(マタイ福音書7:13~14)、狭い戸口(ルカ福音書13:24)から入るように、とイエス様は教えています。なぜなら「滅びの道」に通じる門は広くなっていて、その道を多くの人達が進んで行っている現状があるからです。「滅びの道」とはイエス様が救いの道を与えて下さっているのに聞いてもその道に入ろうとせず、暗闇の世界(ねたみや不和・利己心など・・ガラテヤ5:19参照)、負の世界の中に生きることです。かつての私達もこの滅びの道に通じる門へと歩み、(たとえば初詣の参道に並ぶように)他の人達と同じように歩んでいた一人だったかもしれません。

「神の国に入る狭い門」へと至る道は、イエス様と出会い、イエス様を知って、信じる道です。イエス様は「その門はなんと狭く、その道も細いことか。(マタイ)」と言われます。多くの人達は、広い門に行くことが出来る広々としている道が楽だと思ってしまうのかもしれません。

*イエス様の御命令

 イエス様は、私達が狭い門をただ見ているのでなく、又、門が狭すぎるとか、難しすぎるとか、入るには時間が必要だ、と考えるのではなく、狭き門の向こう側で待っておられます(待ち焦がれているのです)。

そこでは素晴らしい出来事が待っています。イエス様は、創造主である神様に目を向けようとする人達に、過去の罪、今ある罪を悔い改めて狭い門から入るように!と命令されているように思われます。もしご命令と考えることが出来るなら、他の人の目を気にすることなく、今日、イエス様の招きに応えて、狭い門をくぐり、中に入る決断へ!と、進むことが出来るでしょう。

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。(3:2~3)」

 全てのことはイエス様を信じることから始まります。天には父である神様がおられ、そこには永遠の世界があり、神様との完成された交わり、信頼関係があります。一方、私達の住む地上では、私達に肉体があることで私達を自由にあやつる闇の世界、悪の力が支配する社会があります。この暗闇のような世界に光を当てて下さったのがイエス様です。イエス様は私達人間と神様との関係が悪魔によって壊された為、元に戻す(和解)ために自ら十字架にかかり、死んで陰府(よみ)の世界に下り、そこからよみがえらされたお方です。私達がこの悪の力の支配から自由になるために、神様は独り子イエス様を送られ、イエス様は人々の為に死なねばなりませんでした。私達はイエス様の死を通して罪が赦され、それにより狭き門を通ることで私達はイエス様のものとなり、見ている世界から神様のおられる世界に目を向けることが出来るようになりました。

何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い(3:17)」 

狭き門から入った私達はイエス様とつながり、神様はいつも私達の足元を明るく照らして下さるので、私達は「上にあるものに心を留め」て、希望を持って前を歩いていくことができるのです。

2023年9月3日の説教要旨 箴言25:1-7a ・Ⅱコリント11:7-15

             「主の誉れ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 イスラエルの王国はソロモン王の死後、北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となりました。しかし、B.C.721年に、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダには北王国から多くの知識人が亡命して来たので、ユダ王国のヒゼキヤ王が、北からの伝承をも含む格言を集めて編集したものが本日の「箴言」です。25:1に「これらもまたソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」とあり、2節には「事を隠すのは神の誉れ。事を極めるのは王の誉れ。」とあります。つまり神様は隠し、王様はその隠されたことを探り、発見する(きわめる)と語られています。

*ヒゼキヤの父アハズとヒゼキヤ

ヒゼキヤ王の父アハズは、敵の侵略から身を守るために、外国に助けを求めました。神様は預言者イザヤを遣わして「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。(イザヤ7:4)」と伝えましたが、アハズはその言葉に耳を傾けることをしなかったため一時的には問題は解決をしたかのように見えましたが、最終的にはさらに困難や苦しみ(多くの貢物をするなど)によって国が揺れ動くこととなりました。

しかし息子ヒゼキヤの時代、ユダ王国のエルサレムもアッシリヤ王の率いる軍勢に包囲されるという危機的な時代となっていましたが、ヒゼキヤは箴言の編集作業をしたのです。このことは神様からの重要な霊的意味がありました。それは、ヒゼキヤが神様の代理者として立てられたことを意味し、又、ヒゼキヤが敵との戦いにおいて神様の言葉を優先したことにあります。ヒゼキヤは神様の隠された言葉から、神様の考えを見つけ出し、その言葉に従い、その言葉を用いて敵に戦いをいどみ、勝利すること。

それが神様の代理者としての王の務めだと考えたのです。 ヒゼキヤは、預言者イザヤの指導を受けながら、神様の言葉にしっかり立つことが敵に勝つ秘訣だと確信していきました。

*わたしたち

 このことは、現代を生きる私達にとっても同じことが言えると思います。神様の言葉が失われそうに感じた時(神様が遠くに感じられた時)、私達は立ち返って神様に心を向け、神様のなされること、なされようとすることに信頼をおく必要があります。それが私達にとっての神様に近づく近道、霊の回復の近道、神様からの勝利を得る近道となるからです。

 神様の言葉は、私達が想像するよりもはるかに越えた奥深い世界を見させて下さいます。その奥深さは秘密にされていて、私達は、神様の隠しておられる事柄を見つけ出して発見する(きわめる)ことが必要です。聖書の中で「探る」という言葉を調べてみますと、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味があります。

エレミヤ書29章には以下の言葉が記されています。

あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見い出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(12~13)」

*キリストに対する真心と純潔からそらせる偽使徒たちの存在

 本日のコリント書には、パウロたちが伝えたイエス様の教えと異なる教えや、受け入れるべきでない違った霊や福音を語る偽使徒達が教会の中に入り込み、そのため教会員がキリストに対する真心と純潔からそれてしまうことをパウロは心配し警告しています。そしてパウロの伝道と牧会は、彼らに負担をかけないため無報酬でやってきたと告げています(生活に不自由した時は、マケドニア州の兄弟(信者)逹が助けてくれた・・11:9)。 

私達の住む社会にも、キリスト教に近い、似たような教えや名前を使って活動をしている人達(カルトや占いや魔術的な事)がいます。パウロの時代も似たような人々が社会にいたからこそ、教会からの報酬を受け取らなかったのかもしれません。パウロの伝道目的は、イエス様の言葉、神様の愛の素晴らしさを伝えることでした。私は、パウロのような、宣教の為に全てを献げる人達に出会ったからこそ、その中の一人になりたいと思い、今ここに立ち、皆様に神様のことをお話しています。

2023年8月27日の説教要旨 出エジプト23:10-13・ローマ14:1-9

             「従う心」         加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の旧約聖書には、安息年と安息日についての守り方が記されています。安息日を一般の辞書には「何の煩いもなく、くつろいで休むこと」とありますが、創世記2章には、神様が天地創造された時,6日間の仕事を終えて「第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」(2節)とあり、「その日を神は祝福して、聖別された」(3節)と記されています。

 現代を生きる私達にとって安息日は日曜日ではなかったり、まとまった休みを取るため、長期間仕事から離れられなかったり、或いは、仕事やその他の事情でお盆とお正月位しか休めないという方がおられるかもしれません。一方で、休日を「休む日」ではなく「その日にしかできない時間」として、自分自身を忙しくしてしまう日になってはいないでしょうか。

*安息年

神様がイスラエルの人々に与えた約束の地では、人々は6年間は自分の土地に種を蒔き、その実りを収穫しましたが、7年目にはその土地を休ませなければなりませんでした。本日の出エジプト記には「7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない」とあり(23:11)、休閑地では乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるが良いとあります。

(レビ記25章では、安息年には「全き安息を土地に与え」ねばならず、それは「主の為の安息」であり、7年目に生じた物は、所有者、男女の奴隷、雇い人や滞在者、そして家畜や野生の動物のためと記されています)。

イスラエルの人達の基本的な考え方は、土地や人や労働者達は神様の所有であり、全ての人が同じ立場にたち、社会的に弱い立場にある者を、そうでない者達が助け合い、支え合う神の家族として、イスラエル共同体を造り上げていくことにあったのではないでしょうか。

*安息日

 12節には、人々は六日の間働き七日目には、仕事をやめねばならないと安息日の過ごし方が書いてあります。それは、彼らの牛やろばが休み、女奴隷の子供や寄留者が元気を回復するためとあります。そして13節で、これらの戒めをすべて守るように(従うように)命じ、異教の神の名を口にすることを禁じています。

*わたしたち

私達は、神様が定めた安息日(仕事を離れた休みの日)をどのように過ごしているでしょうか。この日は主なる神様との日です。私達は霊の内に、神様と向き合う日、心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間を十分に持つ日とすることです。この安息は、日曜日(神様を礼拝する日)だけに限定せず、神様と向き合い心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間(安息)を持つことが出来れば幸いです。

信仰の弱い人を受け入れなさい。批判してはなりません。」(1節)

 本日のロマ書で、著者パウロは「信仰の弱い者を受け入れる」ように勧め、彼らを批判することを禁じています。イエス様を信じる者達は、イエス様によって救われ、恵みによって自由にされた者達です。「信仰の弱い人」とは信じる力が弱い人ではなく、ユダヤ教的な教えや慣習の下で育ってきたため、「野菜だけを食べ、肉を食べず、酒を飲まない」、又、「特定の日を重んずる」など、律法主義的な考えが根強く、それらから自由に解放されないままの信仰生活者を指しています。(日本でも古い伝統や慣習が多く残っています)。そこで著者パウロは6章14節で「罪はもはやあなた方を支配する事はない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と教えています。「信仰の強い人」とは、信仰による真理の自由というものを知っており、信仰の良心に従うことの出来る人で信仰生活において何が根本的に重要か、そうでないかの確信を持っている人でしょう。注意すべきは「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならず、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。(3節)」なぜなら、両者とも、ご主人(神様)の召使いの立場にあるからです。両者とも神様に感謝しており、両者とも神様の裁きの座の前に立つからです。今日、神様が与えて下さった安息の日、律法の下ではなく恵みの下に置かれている者として、今週も御言葉に従って歩んでいきましょう。

2023年8月20日の説教要旨 アモス書5:18-24・ヤコブ書1:19-27

            「信仰のあかし」        加藤 秀久牧師

*はじめに

 サウル王から始まったイスラエルの王国は、ダビデ王、ソロモン王と続きましたが、ソロモン王の死後、国は北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となり、それぞれ王を立て、預言者も、北と南のそれぞれで活動を続けました。

本日お読みしたアモスは、北王国のヤロブアムⅡ世(前792年-前740年)の時代に、預言活動を行なっていました。

わたしを求めよ、 そして生きよ

アモスの使命は、イスラエルの人々が犯してしまっている罪を語り、その罪のために、近い将来、主が民に裁きを下すので、イスラエルの人々を正しい主の道に帰るように告げることでした。けれどもイスラエルの人達は、神様との契約の多くを守ってきたことに誇りを持ち、誇り高ぶりがありました。アモスは、もう一度 主に立ち返り、悔い改めて生きるようにと告げています (5:1-17)。そしてアモスが伝える、主の言葉/「わたしを求めよ、 そして生きよ」(4節)は、聖書全体を通しても何度も繰り返し語られています。このことは又、私達聖書を読む者に向けて真実の神は誰であるか、創造主である神は誰なのか、信仰の原点を尋ねているようです。

*主の日

本日のアモス書5章18節―24節の中で、アモスは、「主の日」という主が定めた日に目を留めています。「主の日」は、旧約聖書の預言書においては広く使われていて、主が究極的に敵に勝利し、諸国の民の前に、主御自身が主の支配を現わす日、確立する日を指して用いられています。このことは明らかに、イスラエルの多くの人々にとって、希望のしるしとして待ち望んでいました。主の日は、よき訪れの日であり、良い知らせ、救いの日であると考えられていたのです。けれどもアモスは、そうでないことをイスラエルの人達に宣言しています。

主は、イスラエルの人達に困難や災いを与え、それによって彼らは嘆き、苦しむだろうと告げており、このことは、他のすべての者をも同じように裁き、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。」(同20節)と語ります。主の日は、神様によって整理される日、神様は正義を全うされ、物事を秩序正しく変えていきます。「主の日」の預言は、その時が近づこうとしていることを知らせます。その時間がある内に、人々が神様に向き合い、神様に聞くことをすること、それは、自分の好きなことや欲望によって妨げられてはならないと教えます。

この預言は、私達の信仰を築き上げ、信仰の証しとなっていきます。

*「聞くに早く、話すに遅く、怒るに遅く」

本日のヤコブ書は、私達信じる者が、神様の言葉を聞いて、どのように自分の心の中の欲望や思いから克服できるかを述べているように思われます。19節「・・よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」は、生きるすべての人々に必要な言葉で、重要で捉えるべき言葉になっています。

本日のヤコブ書でも「よく聞きなさい(2:5・4:13・5:1)」と3回も出てきます。イエス様はしばしばたとえ話をされる時に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、それは、神様の真実の言葉を聞くことも示しているのではないでしょうか。

直前の18節に「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んで下さいました。」とあります。私達にとって重要なことは、神様から与えられた霊の部分において、心の深いところの場所で神様の言葉を聞くということ、神様を絶えず求めていくということです。私達が神様に何かを訴える前に、まず初めに神様の言葉を聞くことを優先させるということです。私達人間は神様に造られ、神様に栄光を帰す存在として、又、地上で御国を築き上げていく者として生きていくことだと思います。神様は私達がこの地上にある全てのものを見て神様を感じる時(自然の素晴らしさ・壮大さを感じる時、人間の技術の中に神様の与えた知恵を見る時、生命のはかなさや大切さを知る時、仲間や家族の素晴らしさを知る時など)、私達の想いが神様に向かう時、神様はいつも共にいて下さいます。

2023年8月6日の説教要旨 出エジプト22:20-26・ロマ書12:9-21

              「隣の人を思う」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達にとってイエス様の愛の深さとはどのように思い浮かべることが出来るでしょうか。たとえば、<信頼している人から裏切られ一人になって行き場を失ったとしても>、<仕事で追い込まれて神様との時間が奪われ霊的に弱ったとしても>、絶望的な場に置かれて対応が分からず、生きる希望を失ったとしても>、私達が決して一人ではなくイエス様と話せる場所があることを神様は教えて下さっています。本日のロマ書はイエス様を信じることは神様の憐れみに触れ、その恵み深さを知り、相手を思いやれる優しく心豊かな人になることができることを教えようとしています。

*「愛には偽りがあってはなりません。」(ロマ12:9)

 私達は、他人に対して義理の愛・出し惜しみした愛など、神様から受けた愛とは違う愛の示し方、与え方をしてしまうことがあるかと思います。

たとえ自分の愛を与えたくないと思える相手であったとしても、神様の働きを信じて、私達は、相手に神様の愛を示すことが大事であると思います。

9節の少し前の2節では、「何が善いことで、神に喜ばれ、又、完全なことであるかをわきまえるように」とあり、又、1節の後半では「私達の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそなすべき礼拝です。」と教えています。礼拝は、神様に感謝の言葉、態度を現わす場所であると同時に、私達が神様の愛を受け取る場所でもあり、私達はここで神様に出会うことが出来ます。この礼拝場所で、神様との出会いを通して、私達は神様から優しい心、人を自分のことのように思うことのできる心が与えられると思います。

神様からの恵み、祝福は、決して止むことはありません。神様の私達に対する愛は、人への憎しみや悲しみを与えません。むしろ近くにいる人達をも巻き込み、喜びや笑顔を与えてくれます。 それだからこそ私達は、その神様から与えられた恵みと祝福を、私達が出会う人達に与えられるようにキリストに結ばれて、一つの体を作るようにと告げられているのです。

*兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(10節)

 私達は、相手から見れば、優れた部分もあれば劣った部分もあるかと思います。その交わりの中で、相手の人が、何か特別な良い行いがあるからではなく、私自身が仕え支え合える隣人として神様から与えられた相応しい相手であり、尊敬をもって相手を優れた者と思えた時、私達は相手の徳を高める態度が神様から与えられ、健全な心へとつながります。

*誰に対しても悪に悪を返さず、善を行うように心がけなさい。(17節)

 この教えは、神様を信じる上で大切なことです。私達の生まれながらの妬み、劣等感、復讐心からは無縁になり、すべての人と平和に暮らせる心を得ることにつながるからです。私達が悪を受けた時、自分で復讐するのではなく、その怒りを神様に委ねるべきであることを、ここで「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(19節)と、申命記を引用して教えています(32:35)。これにより「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14節)の意味が明確になると思います。 (私達もかつて、同じような罪の中にいた者であることを伝えようとしているのかもしれません)。

それで「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)と促します。これによって「敵の頭に炭火を積む(敵にとって相手から受ける愛の行為は耐えがたく、恥じ入らせ、内側にある牙(きば)を抜くことになる)」のです。神様の復讐は、善をもって悪に打ち勝つ(21節)からです。

*寄留者・寡婦・孤児・貧しい者を苦しめてはならない。

 本日の旧約聖書には、他の家(国)に身を寄せる者、夫と死別した夫人、親を失った孤児、そして貧しい人達を苦しめることを禁じています。もし彼らが神様に訴えるなら、神様は「わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と言われます。(出エジプト22:26)。

*本日は平和聖日です。

すべての人達が神様を見上げて、隣人を思い、主の平安がありますようにと祈ることができる人になれたら、神様からの素晴らしい恵み、愛を受けることが出来るのです。