1月14日の説教要旨 「赦し、信仰、奉仕」 牧師 平賀真理子

ヨブ記22:21-23 ルカ福音書17:1-10

はじめに

今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、それらは、連なっていると思われますので、その内容をお伝えしたいと思います。

「ファリサイ派や律法学者達」の態度

今日の聖書箇所に入るまでに、イエス様のおっしゃってきたことの一つを振り返りましょう。イエス様を「救い主」と認めない「ファリサイ派や律法学者達」の態度が間違っていることを指摘し、正しい態度(イエス様を救い主としてこの世に派遣したという神様の愛の業を受け入れること)になるように導こうとなさいました。特に、直前の16章の例え話「不正な管理人」や「陰府でさいなまれる金持ち」などは、まさしく、反対派の者達(ファリサイ派や律法学者達)を例えたものとも読み取れます。

主の弟子達であっても

今日の箇所は、弟子達に語っておられることを念頭に置くべきです。イエス様は弟子達には、新しい教え=福音を知る者として、ファリサイ派や律法学者達と同じ轍を踏ませたくなかったのでしょう。しかし、人間の集団である以上、弟子達の群れの中にも、つまずきを起こす者が入ってくること、また、弟子の中につまずきを起こすものが入ってくることは避けられないとイエス様は見通しておられました。これは、近い将来で言えば、使徒とされたイスカリオテのユダが主を裏切る預言とも言えますし、遠い将来では、教会の中でも罪が起こるのは避けられないと預言されていると読み取れます。

「小さな者」をつまずかせることへの警告

弟子達は主の招きを受けて早々に弟子になる恵みを得ましたが、その後で、イエス様の御言葉や御業に出会って、イエス様を救い主として従おうとしている「群衆」を、主は「小さな者」と表現なさっています。信仰が芽生えつつあり、信仰という道において、小さな者(群衆)を、先に歩む弟子達が罪に導くことがあるとイエス様は見抜いておられます。実は、これは、ファリサイ派や律法学者達と同じ罪です。自分達の知識や経験を、人々を育てるために用いないで、自分達と同じようにはできない人々を裁いたり、ダメ人間と貶めることで、結局は自分達を高く見なす、つまり、憐れみがなく、傲慢だという罪に陥っています。だから、弟子達に「あなたがたも気をつけなさい」と主は警告なさったのです。

人間を何度でも赦してくださった神様にならって

弟子達同士は、罪は罪と率直に言える関係であること、そして、罪を指摘されたら、素直に悔い改めるべきこと、また、相手も大きな心で赦すような間柄であることという主の願いが示されていると思います。

主は根拠なしに「赦しなさい」とおっしゃったのではありません。神様御自身が、このように人間を赦してくださっているからです。人間の神様に背く罪を、神様は大変嘆かれるのですが、人間が心から悔い改めたのをご覧になると、いつまでも罰に縛りつけたりせず、今までの罪を無かったことにしてくださるわけです。そのことを根拠に、同じ神様を信じる信仰者同士(「兄弟」)も赦し合えるはず、神様と同様に何度でも赦せるはずだと主は教えてくださったのです。(参照=マタイ18:23-35)

主からいただく信仰が増し加わることを願う弟子達

しかし、弟子達は自分の心に正直になるならば、「赦し合えない」と気づきます。(それは私達も同じではないでしょうか。)だから、弟子達は自分達の信仰が弱いのであり、それをイエス様に補っていただきたいと思ったのでしょう。その望みに対し、ほんの小さなからし種のような信仰があれば、神様は御自分の大きな力をくださり、人間には不可能なこともできるようにしてくださるとイエス様は教えておられます。

主の恵みによって罪を赦され、信仰の中で奉仕できる幸い

ところが、弟子達は自分にはそんな僅かな信仰さえないことに気づきます。その原因をイエス様は7-10節の箇所で教えておられます。弟子達は神の国で働ける恵みを既に得たのに、主人から感謝されたいと願っていることが原因だと示されたのです。私達も含め、主の弟子達は救い主イエス様の恵みを賜り、罪を赦されたのです!現実の生活に流されて主の恵みを忘れたら、弟子達同士で指摘し合って悔い改めることを励行し、主への信仰の中で奉仕できる恵みにある幸いを想起しましょう。

1月7日の説教要旨 「異邦人の救い主」 牧師 平賀真理子

詩編47:2-5  マタイ福音書2:1-12

はじめに

昨日は1月6日で、教会の暦では「公現日」という特別な日でした。イエス様が御降誕され、その栄光が異邦人の世界にまで広まったことを祝う日です。東の方から占星術の学者達(異邦人)が来て、イエス様を礼拝したという出来事(マタイ2:1-12)を覚える日です。

イエス様がお生まれになった時の状況

今日の箇所の冒頭1節で、イエス様がこの世にお生まれになった時と場所が書かれています。ヘロデ王という極めてこの世的な王の支配下にあった時と場所であったというわけです。なぜ、この世的かと言うと、この世の長サタンと性質が似ているからです。自分の利益のためにずる賢く立ち回り、権力を横取りし、しかも心根が冷酷で疑い深いのです。神の民ユダヤ人達が、このような支配に苦しめられていた状況下で、神様は約束どおり、「救い主」イエス様をお送りくださったのです。

「異邦人の国」から来た占星術の学者達

しかし、本来その出来事に一番に気づいて喜ぶべき「神の民」ユダヤ人達よりも、「異邦人」が先にその出来事に気づき、ユダヤ人達に知らせたことを今日の箇所は語っています。「東の方」とはユダヤ地方から見て、ペルシャ(今のイラン)周辺ではないかと言い伝えられています。

「異邦人の国」から異邦人の占星術の学者達が、まずエルサレムに来て、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせました。「占星術の学者」とは、当時は、天文学をはじめとする自然科学全般についての専門知識を有する知識人であり、時の権力者に助言を求められる存在です。ユダヤ人達は、自分達が「神の民」として選ばれて神の言葉である「律法」をいただいたという自負があった故に、異邦人については「神様に選ばれておらず、『律法』も知らない、軽蔑すべき人々」とみなしていました。そんな「異邦人」から、ユダヤ人達は一番大事な「救い主誕生」の知らせを受け取ることになったと聖書は示しています。

ユダヤ人の「民の祭司長達や律法学者達」

一方、ユダヤ人の知識人ともいえる「祭司長達や律法学者達」は、この知らせに対し、その預言をヘロデ王に冷静に伝えただけです。本来、彼らこそ、救い主誕生は神の恵みだと、よく知っているはずなのに、その救い主を拝みに行っていません。神様の出来事を無視したのです。

神様の導きに従った「異邦人の占星術の学者達」

一方、異邦人の占星術の学者達は、律法は与えられていなくても、この世に現れた神様の真理=科学的法則を常に求め、その法則とは違う動きを察知し、それを神様からのしるしと悟り、それに従い、旅の危険を顧みずに救い主誕生の出来事に積極的に参加しました。彼らは一度エルサレムに来て、王に頼ったように見えますが、それは彼らが「預言」に出会うためであり、むしろ、彼らの旅を導いたのは、特別な星だったのです。「星」と「預言」=神様の導きを表すものに彼らは従って行動し、救い主との出会いに導かれて喜びに溢れ、礼拝する恵みを得たのです!

イエス様の救い主としての役割を暗示する献げ物

救い主への献げ物は「黄金・乳香・没薬」という3種類だったと記されています(彼らは「東方の3博士」と言われていますが、3名だったという記述は実はありません)。「黄金」はこの世の栄え、つまり、王様を意味します。(イエス様は政治的な王様にはなっていませんが、この世を支配して人間を苦しめていたこの世の長サタンから、この世の支配を取り戻したのですから、この世の新しい王様となられたのです!)「乳香」は、神殿で献げ物をする時に焚く香料なので「祭司」を意味し、「没薬」は死体を包む時の防腐剤なので「死」=「十字架による死」を意味します。後のイエス様の歩みを象徴していると言えます。

異邦人にも届く「救い主」の栄光の証し人として

神様はユダヤ人を救いの起点とされましたが、その救いは全ての民族(異邦人)に及ぶと旧約聖書には幾つも記されています。私達は、肉体的にはユダヤ人ではないので、この占星術の学者達の行動を、同じ「異邦人」として誇らしく感じます。しかし、今や、イエス様を救い主と信じる私達が「神の民」です。当時のユダヤ教宗教指導者達のように「神様のしるし」を無視していないかを留意しつつ、これから「神の民」となる方々のためにも「神の栄光を写し出す証し人」となれるよう、祈り続けましょう。

12月31日の説教要旨 「シメオンの賛歌」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書12:10 ルカ福音書2:25-38

はじめに

主の御降誕を祝う降誕節に入りました。今回、アドベントに入ってから、ルカによる福音書の中にある3つの賛歌(神様をほめたたえる歌)を学んできました。今日は3つめの「シメオンの賛歌」を中心に見ていきたいと存じます。

ご降誕なさった幼子イエス様が神殿に来られるまでのいきさつ

ルカ福音書の2章の前半では、イエス様がこの世に実際に誕生され、その出来事を知らされた羊飼い達が幼子イエス様を探し当てたことが書かれています。続いて、イエス様は天使のお告げどおり、イエス(「ヤハウェは救い」という意味、ヨシュアのギリシア語名)という名が付けられたと記されています。この世での両親であるヨセフとマリアは、ユダヤ教の律法に従い、「生まれた子供を聖なる者」として献げるため、神殿に来たことから、今日の出来事は起こります。

シメオンが神殿で幼子イエス様に出会うまでのいきさつ

イエス様がこの世にお生まれになった頃、イスラエルの民は、異邦人ローマ人が支配する「ローマ帝国」による非情な圧政に苦しんでいました。そんな困難な状況の中、シメオンは信仰深く生きていました。そして、神様が自分にしてくださった約束「救い主を見るまでは死なない約束」を信じ続けたのです。異邦人の武力支配の中、本当の「救い主」がこの世に来られ、本当の救いをもたらす御方としてこの世に生まれたことを、聖書は「聖霊の導き」によるものだと証ししています。

シメオンの賛歌(「万民の救い主」と出会った喜び) 

待ちに待った「救い主」に会えるだけでも恵みですが、シメオンはその腕に抱くことができ、それを神の恵みとして実感としたことでしょう。そして「シメオンの賛歌」が彼の口を通して表わされました。その前半(29節―30節)では、神様が遣わしてくださった「救い主」に出会えたこと、神様が自分との約束を果たしてくださったこと、その恵みを体験できたことを喜び、神様に感謝を献げていると思われます。

「救い主に出会う」という喜びが与えられたことについては、私達信仰者も同じです。私達は思いがけず、福音に出会う機会を神様によって与えられました。救い主の存在を知らされ、その教えに従って生きることを許されています。それでも、教えどおりにできないことは多いかもしれません。けれども、そんな自分を、神様がその都度許してくださり、神の民として必要としてくださる、そのことに大きな喜びを覚えます。

さて、「シメオンの賛歌」の後半(31節-32節)は、30節の「神様が人間のために準備してくださった救い」とは何かを説明しています。救い主イエス様は「万民のための救い」である、更に進んで31節では「異邦人を照らす光」であるとあります。マリアの賛歌もザカリアの賛歌(預言)も、どちらかというと「イスラエル民族の救い」が中心に謳われていました。イエス様はイスラエル民族の男子として生まれて育つので、その民族の救いが期待されるのは勿論ですが、福音が広がれば、「救い主」を産み育てたイスラエル民族の誉れも大きくなります。しかし、シメオンの賛歌では、イエス様はイスラエル民族だけの救い主にとどまらず、異邦人に「本当の神様」を知らしめる御方であると謳われていることが、他にはない特徴です。

救い主イエス様の十字架についての預言

「シメオンの賛歌」については、もう一つ、但し書きのような、付け足しの預言があることも特徴です(34節b-35節)。福音書にもあるとおり、この後、イエス様の御言葉や歩みによって、イスラエルの人々は、それを支持するのか反対するのかで、大きく動揺していきます。権力者は倒され、その権力者から貶められていた人々は、イエス様から立ち上がる力をいただきました。しかし、権力者達の反感は大変大きく、悔い改めない人々の罪により、イエス様は刺し貫かれること(十字架刑)となり、母親であるマリアがそれを見て心を傷める出来事の預言がなされています。

女預言者アンナの役割

この時、「救い主」イエス様に出会った女預言者アンナが人々に幼子イエス様のことを話したことも大事な役割です。シメオンは救い主に出会って神を賛美し、アンナは人々に伝えました。聖霊に満たされた人間の様々な働きを通し、福音伝道は神様主導の出来事として成就されていくのです!

12月24日の説教要旨 「救い主の御降誕」 牧師 平賀真理子

イザヤ書9:5-6 ルカ福音書2:8-20
*はじめに
クリスマスおめでとうございます。教会のクリスマス礼拝にお越しくださる方々は12月25日が「イエス・キリストの誕生日」とされており、教会ではそれ以前の近い日曜日にクリスマス礼拝を献げるのだと知っておられることと存じます。クリスマスはイエス様のお誕生日が起源なのですが、クリスチャンの少ない日本では、サンタクロースが来る日とだけしか知らない人々もいるようです。是非、本来の意味を知っていただきたいです。
*この世に救い主が実際にお生まれになった!
今日の新約聖書箇所の直前の段落であるルカ福音書2章1-7節には、この世にいよいよイエス様がお生まれになったことが書かれています。待ちに待った救い主誕生ならば、最高の環境で、人々の大歓迎を受けつつ生まれてもよいはずなのに、全く逆の状況であったことが記されています。この世での両親が権力者によって旅を強いられ、その旅先で、しかも、人間の部屋でないところ(聖書には具体的な表記はありませんが、言い伝えによれば「馬小屋」)でお生まれになった上に、幼児用のベッドではなく、家畜のえさを入れる飼い葉桶に寝かされたと書かれています。これは、人間の心が神様を受け入れるスペースを持ちにくいことを暗示しています。
*人間界で低く見られていた羊飼いに、神様は救い主御降誕を知らせた!
人間の状況にかかわりなく、神様の御計画は御心のままに着実に進んでいきます。ルカ福音書1章では、イエス様の先導者として洗礼者ヨハネの誕生も、そして救い主イエス様のご誕生も、神様が主導して起こしてくださった出来事であると示されています。そして、それを素直に受け入れた人物として、この「羊飼いたち」が2章に書かれています。彼らは、職業柄、定期的な礼拝が守れないので、低く見られていました。しかも、労働条件の厳しい割には、それほど収入がたくさんある仕事でもありませんでした。人間社会の中では尊敬されない人々でした。しかし、神様の評価は違います!人間界では一番に恵みをいただくことが決して期待されない羊飼いたちに、神様はまず、御自分が救いの出来事を起こしたことを知らせてくださったのです。「救い主を『ひとりのみどりご・ひとりの男の子』として与える」という預言を実際に実現してくださり、しかも、この羊飼いたちに、そのことを天がどんなに喜んでいるかを見せてくださっています。天使の言葉や天の大軍としての大勢の天使による賛美が、この羊飼いたちをどれほど圧倒したことでしょう。その大きな喜びに押し出されるようにして、羊飼いたちは、その赤ん坊を探し出そうと出かけました。もちろん、イヤイヤではありません。「急いで行って」(16節)という言葉は、元々の言葉では「喜び勇んで」という意味が含まれています。
*「しるし」をたよりに、羊飼いたちは「救い主」を探し当てた!
羊飼いたちは天使の言葉をヒントに「救い主イエス様」を探し当てました。天使の言葉の中で、救い主の「しるし」として「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」であると告げられていました。イエス様は、両親が旅の途中だったので産着の準備もなく、宿屋でもない馬小屋で生まれたので、まさしく、この時、「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている」唯一の乳飲み子だったのでしょう。詳細は書いてありませんが、ここには、聖霊の導きがあったのではないかと推測できると思います。神様は選んだ人々には、事前に知らせてくださり、そのとおりのことを実現し、聖霊(神様の霊)によって、彼らを導いてくださる御方だからです。
*神様の出来事を素直に信じられる喜び
羊飼いたちは、天からのお告げが現実になったことを体験しました。彼らの体験した一連の出来事で、神様の出来事は御心のままに確実に進むけれども、人間はただ単に神様の奴隷のように言いなりに働かされるわけではなく、御心に適った人々には、それが神様が主導で起こされる出来事だとわかるようにしてくださること、そして、そのような神様の恵みが自分に降ると素直に信じられる人は、その恵みがわかった後は黙っていられず、話さずにはいられないほどの喜びにあふれることがわかります。
*「神をあがめ、賛美しながら生きる人生」
最終的には羊飼いたちは「帰って行った」(20節)ので、元の持ち場に帰ったわけであり、表面上は彼らは何も変わっていません。けれども、心が変わったのです。この出来事より前には、ただ単に生きていたであろう彼らが、この出来事の後では「自分を・自分の人生を神様が覚えてくださり、神様の出来事に参加させてくださる」ということが実感としてわかり、これ以降の人生において「神をあがめ、賛美する」ように変えられたのです。それが信仰を持つことの醍醐味です。同じ出来事を体験しても、信仰者は、(表面的な幸・不幸にとらわれず)どのような出来事でも神様が共にいてくださることを信じ、「神をあがめ、賛美する」大いなる喜びに導かれていくのです。私達を本当の喜びに導くために、神の御子が「救い主」として、人間の中でも最弱の姿(赤ん坊)となってこの世に降りてきてくださったのです!

12月17日の説教要旨 「ザカリアの預言」 牧師 平賀真理子

イザヤ書40:3-11 ルカ福音書1:67-80
*はじめに
イエス様の御降誕に寄せて、ルカ福音書に記録されている3つの賛歌を学んでいます。今日は2つ目のザカリアの賛歌(聖書の小見出しには「ザカリアの預言」と書かれています)を学んでいきましょう。
*主の御言葉を信じられなかったザカリア
ザカリアは祭司であり、その年、主の神殿の聖所で香をたいている時に、天使の訪問を受けて、主の御言葉をいただくことになりました。
その内容は、不妊の女と言われて老齢になった妻エリサベトが子供を産むということ、そして、その子供は「救い主」の前に来ると預言されていた「先導者」であるということでした。しかし、ザカリアはこれを信じられなかったために、そのことが起こるまで口が利けなくされてしまいました。ザカリアの家庭に子供が授かることは、私的な面でも大きな喜びですが、「救い主の先導者」が生まれるということは、イスラエル民族が待望していた「救い主」誕生が近いということの証しであり、公的にも大きな喜びです。祭司ザカリアはそれを一番に知らされたにもかかわらず、信じられなかったのです。
*主の御言葉を信じなかった人間が許されて聖霊に満たされた!
今日の箇所の直前の段落で、ザカリアに息子が生まれ、先導者として「洗礼者ヨハネ」が本当に生まれたことが書かれています。主の御言葉を信じられず、一時的に罰を受けたザカリアは、主の御計画である子供の誕生の直後に、その罰を許され、聖霊に満たされて、今度は神様を賛美する歌を残す役目を与えられました。ここに、人間の救いの形が表されているように思います。まず、神様の御言葉を人間が信じない罪に陥ります。そして、神様の恵みである才能を制限される罰を受けます。しかし、その間も神様の御計画は着々と進み、不信の人間はその経過を黙って見ているしかできなくなります。その人は、神様の偉大さをしみじみ感じるようにされ、一方、我が身の罪深さを思い知り、悔い改めに導かれるようになります。恐らく、ザカリアもそのような体験をしたと推測することも可能ではないでしょうか。
*ザカリアの預言(賛歌)
神様の恵みによって聖霊に満たされたザカリアの賛歌(預言)も、マリアの賛歌と同じように、神様をほめたたえることから始まっています。そして、イスラエル民族を御自分の民として愛し導いてこられた神様=「主」と呼ばれた神様を賛美しています。この預言は内容から見て、3つの部分に分けられます。
第1部の68節―75節では、ザカリアが祭司として学んできたこと、体験したことが反映されていると見ることができます。マリアの賛歌はマリアの素朴な信仰が表れていますが、ザカリアの預言では、ユダヤ教で教えられている内容で溢れています。神様は人間を通して働いてくださることも多いのですが、用いられる人間の才能を充分に生かしてくださる御方であることも見受けられます。
第2部の76節―78節1行目で、ザカリアの息子「ヨハネ」が、イザヤ書40章やマラキ書3章で預言された「救い主の先導者」=救い主の先を歩んで「主の道」を備える者としての役割を担うことが預言されています。このヨハネは、生まれからして特別で、人々に期待されましが、「いと高き方(神様)の預言者」に過ぎないことを父ザカリアはここで預言しました。(一方、イエス様は「いと高き方の子と言われる(1:32)」と預言されており、二人は明確に区別されています。)
このヨハネの「主の道を備える」役割とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、彼自身が人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ(3:8)」と述べたことからわかります。これまで当たり前だった自己中心の生き方から、神様の基準(神様がご覧になって喜ばれる生き方)に方向転換するように人々に教え導くという役割です。この神様に心を向ける心の準備ができた人の上に、「救い主」が天から来てくださり、本当の意味で「罪の許し」をなさることができるのです。神様を求める心の上に、神様の恵みが降り注いだ時、その恵みは本当に生かされるのです。準備できていない心の上に神様の恵みが降り注いでも、それは無駄にされ、更には、恨み・つらみ・背きを返すことになります。
第3部の78節2行目―79節では、神様がイスラエル民族になさった救いの約束の最終目的「救い主を遣わすこと」について述べられています。「あけぼのの光」(78節)と比喩された「救い主」が天から来られ、絶望にある人々を照らし、本当の平和へ導くという恵みが明示され、救い主御降誕の希望が謳われています。

12月10日の説教要旨 「マリアの賛歌」 牧師 平賀真理子

ヨブ記5:8-16 ルカ福音書1:46-55
*はじめに
救い主の母として選ばれたマリアが神様を賛美して謳ったと伝えられ、ルカ福音書に記録された「マリアの賛歌」を今日は学びましょう。
*「聖霊によって」
1章26-38節「イエスの誕生が予告される」の段落と今日の箇所では、決定的に違うことがあります。それは、マリアが神の御子イエス様を宿す前と後、つまり、おなかに「救い主」を宿しているかいないかです。
この2つの段落の間にある「マリア、エリサベトを訪ねる」(39―45節)の段落で、エリサベトの言葉から、マリアがイエス様を既に身ごもったことがわかります。ルカ福音書の記者は、ここで「聖霊に満たされたエリサベト」(41節)が、胎内の子=洗礼者ヨハネが喜び踊ったことから、主と主の母が来てくださり、それがどんなにうれしいことかを述べました。
マリアは「聖霊によって」イエス様を身ごもり、それ以降、母子ともに聖霊に満たされていると言えるので、聖霊に満たされた二人の母親が出会って、祝福し合ったわけです。なんと美しい状況でしょうか!人間の世界、特に当時のユダヤ社会では重んじられていなかった女性二人を、神様が重く用いてくださったことを賛美します!
*「主の言葉は必ず実現する」ことを信じる
エリサベトがマリアに言った言葉の最後の箇所「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いなのでしょう」(45節)という言葉、これこそが信仰の真髄を表す言葉だと思います。実は、この点において、逆=「主の言葉を信じなかった」ために、一時の罰を受けたと言えるのが、ほかならぬエリサベトの夫ザカリアです。祭司であるザカリアと一介の年若い町娘マリア、両者を比べると、人間社会の中では、当然ザカリアの方が重んじられたはずです。ところが、主の言葉を信じるか信じないか、その1点で逆転が起こりうるのです。これこそが神様における希望です。人間社会での地位や功績など関係なく、「主の言葉が必ず実現する」と信じるか信じないかが重要な分岐点、これさえ、間違わなければ、どんな形であれ、神様に祝福されるのは確かだということが、この箇所の大前提です。これは私達にも当てはまることです。
*イエス様御降誕における3つの賛歌の共通点
ルカ福音書では、主の御降誕の前後の3つの賛歌を大事に記録しています。今日の箇所の「マリアの賛歌」、来週の箇所「ザカリアの賛歌(聖書では「預言」)」、12月31日の箇所「シメオンの賛歌」です。この3つの共通点、それは、3人とも賛歌を謳う前に「聖霊に満たされている」ことです。聖霊に満たされ、信仰の言葉を謳う、実は、これも人間の口を通して行われる、聖霊の御業です。私達は「賛歌」により、信仰の粋を学べるのです。
*初めに、「神様を心の底からあがめ、喜びたたえる」
この賛歌の最初は、神様を直接賛美することから始まっています。46節後半から48節において、神様を心の底から賛美する思いが溢れています。「あがめる」(46節)という動詞は「偉大さをはっきりさせる」という意味を、「喜びたたえます」(47節)という動詞は、「喜びのあまり、踊る」という意味を持ちます。神様の偉大さをたたえずにいられない、踊りたいくらい、うれしい気持ちが溢れているのです。それほどうれしいのは、「身分が低い、卑しい」と言われ続けた自分が、ある日突然、神様の大きな恵みを受け、希望を持てたからです。神様が、いつ、だれに働いてくださるのかは、まさしく、「神のみぞ知る」です。だからこそ、だれでも、いつでも、それに備えて希望を失わずに、生きていくことが重要なのだと思います。
*「本当の幸いをくださる御方・力ある方・絶対的信頼の置ける御方」
48節で、マリアは自分を「幸いな者」と言いました。私達が信仰者とされる前に思い描いた幸せと、ここで語られる幸せとは全く違います。聖書の語る「幸い=幸せ」とは、「神様に祝福され、神様のために用いられること」です。マリアは、これを良く知っていた信仰者なのだとわかります。
また、49節で、マリアは神様のことを「力ある方」と呼び、自分に働きかけてくださったことを賛美しました。イスラエル民族は、自分達の歴史の中で、実際に神様の力が働いたことを子孫に語り継いできました。だから、マリアも「神様が自分を御子の母として用いる」ことをすぐに受け入れられたのでしょう。神様の恵みを語り継ぐ伝統、この貴重な奉仕のおかげもあって、マリアは神様の出来事を自分のこととして受容できたのです。
51節-53節で再び、「神様」は、御自分の御前では、人間をこの世の状況とは全く逆になさると謳われています。これは、後に、御子イエス様がなさった「平地の説教」(ルカ6:20-26)の内容の先取りとも言われています。
54-55節で、「神様」はイスラエル民族との約束を必ず実現する御方だという絶対的信頼が謳われ、この賛歌は締めくくられています。今や、私達、イエス様を主と信じる者達こそ、新しい「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)と言われています。この「神様」が私達に救い主を贈ってくださったのです。

12月3日の説教要旨 「主の御降誕の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51:4-11 ルカ福音書録1:26-38
*はじめに
今日は、キリスト教会の暦の上では、いわゆる「元日」に値する「歳の初めの日」です。また、私達の仙台南伝道所では、もう一つ記念すべき日です。それは礼拝開始15周年を迎えたということです。この伝道所で礼拝が始まる以前には、その存続を危惧する方々もいたそうですので、人間の予想を越えたこと、つまり、神様が御計画されたことが起こっていると言えると思います。ここで、洗礼を受ける思いを授けられた会員や充実した信仰生活を送っている会員がいること、また、求道者の方々が与えられていること、このことに改めて感謝を献げたいものです。
*「救い主の御降誕」の前に、「洗礼者ヨハネ」を準備された父なる神
さて、今日から「アドベント」「待降節」に入りましたが、主の誕生日とされる12月25日までの期間は、救い主を迎える準備をする時です。今日の新約聖書箇所の一つ前の段落は「洗礼者ヨハネの誕生の予告」について書かれていますが、その中の1章17節では、洗礼者ヨハネは「『準備のできた民』を主のために用意する」者だと天使が告げたと書かれています。神様が救い主イエス様をこの世に送ってくださったことも感謝ですが、その前に、人々が救い主を迎えられるために、その準備をする人物さえも御計画してくださったことに更なる感謝を覚えます。
*御降誕についてのルカによる福音書の特徴
新約聖書では、救い主イエス様の御降誕について、マタイによる福音書とルカによる福音書、この2つに具体的に書かれています。ルカ福音書の特徴として、イエス様だけでなく、その先駆けの「洗礼者ヨハネ」の誕生も、神様の御計画のうちであることが示されていると言えます。
イエス様も洗礼者ヨハネも、主なる神様の御心を、親になる人物に告げられています。洗礼者ヨハネの場合、父親である「祭司ザカリア」に天使ガブリエルが現れます。一方、イエス様の場合は、母親となる「ナザレ町の若い娘マリア」に同じ天使が現れました。ここに、ルカ福音書の特徴が現れています。人間社会で尊重される、男性・身分の高い祭司・年長という要素が揃った「祭司ザカリア」のところではなく、女性・田舎の庶民・若年という、人間社会では軽んじられる要素しかない「マリア」に、神様
は、御自分の御子・愛する人類の救い主を託したのです。これは聖書で証しされてきた神様の特徴と一致します。軽んじられる立場・弱い立場の人間を愛してくだるという特徴です!
*マリアが救い主の母に選ばれた理由
このようなマリアが、「救い主の母」として神様に選ばれたのには、理由があるはずです。たくさんあるのでしょうけれども、今日の箇所から、二つの理由に思い至りました。一つは、マリアがダビデ王の家系の男性ヨセフと婚約していたことです。ダビデ王にナタンという預言者が「あなたの身から出る子孫に跡を継がせる」と神様の預言(サムエル記下7:12)が伝えられていて、それをイスラエルの民全体が知っていたからです。神様が預言を実現される、まさにその時に、神様に導かれて、ダビデ家の男性と婚約していた女性がマリアだったのでしょう。二つ目は、マリアが、思慮深い性格であり、信仰によって物事を肯定的に捉えられる女性だったと思われるところです。29節の天使の祝福の最初の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という謎めいた言葉に最初は動揺したものの、その意味を「考え込んだ」とあるからです。この「考え込んだ」という言葉は、元々の言葉では、否定的な意味はなく、「思案を巡らす」です。
*ザカリアの不信とマリアの戸惑い
一つ、気になることがあります。神様の出来事が身に起こった時、通常、人間は驚いて、すぐに信じることは難しいと思われます。実際、ザカリアとマリアも、間髪を入れずに信じるとはならず、両者とも、まず驚いています。ザカリアの方は、天使を見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」と1章12節にあります。ここから、ザカリアは祭司なのに、神様の出来事が実現すると100%の思いで信じているわけではないと、不信な思いが透けて見えるように思います。案の定、彼は「主の言葉」を信じなかった罰として、子供の誕生まで口がきけなくされました。一方、マリアの疑いは「戸惑い」と表現され、天使の抽象的な言葉に対して、「どういう意味?」という「信じたい思い」からくる積極的な問いだったと思われます。そのような素直な問いには素直に答えたくなるものです。天使も、マリアの問いに対して答えていき、天使とマリアの間で一問一答のように、会話の形が成立していきます。救い主の母となる人物に対し、その重要な役割を理解してほしいという神様の願いも天使は背負っていたのでしょう。
*「お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)
聖書の「神様」は、この世に対し、御自分主導の出来事を起こせる御方であり、救い主を本当にこの世にお送りくださったのです!私達信仰者は、マリアのような素直な信仰によって、主からの出来事を待ち望みましょう。

11月26日の説教要旨 「天地を造られた主」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-6  使徒言行録17:22-31
*はじめに(収穫感謝礼拝の由来)
今日は収穫感謝礼拝の日です。その由来は宗教改革が始まった1517年から約100年後の出来事です。ルターが口火を切ることになった宗教改革ですが、プロテスタントの教えはその後いろいろ分かれ発展していきます。その中でも3つの教えが主流となっていきました。ルター派・改革派(カルバンが提唱)・イギリス国教会派(日本では聖公会)です。
16世紀の間にイギリスでは政治的な動きと相まって、カトリック教会を離れて、国王がイギリス国教会を率いることになりました。ところが、イギリスの中で既に改革派のtおいう教えを信じていた人々にとって、それは生き辛い社会となりました。彼らはイギリスを出て、改革派が主流だったオランダに一度移住します。しかし、子供達が自分達の言葉を受け継がなくなっていくことに愕然とし、新天地で自分達の言葉や教えを継承できることを志しました。1620年の夏に2艘の船を手配して、当時の新天地アメリカへ旅立ったのです。ところが、航海は2度失敗し、3度目にやっと1艘だけ(メイフラワー号)、66日かけて、予定地より北のプリマスという町に着いたのです。ここまででも大変ですが、この後は更に大変でした。冬を越すのが厳しく、イギリスで船に乗り込んだ約100名のうち、半数が飢えと寒さで死んだのです。翌春には、この状態を気の毒に思った原住民の人々がトウモロコシの種を彼らに与え、これが秋に実って、待ちに待った「収穫」ができたのだそうです。イギリスから渡った、これらの人々は、助けてくれた原住民の方々をその秋に招き、新天地で実りを与えてくださった神様に感謝を献げました。
これがアメリカで大々的に祝われている収穫感謝祭の由来です。日本基督教団でもこの行事に倣って、アメリカでの収穫感謝の祝日(11月の第4木曜日)に近い日曜日に、収穫感謝礼拝の日を設けています。
*アテネの町で
 今日の新約聖書の箇所は、イエス様の死後、福音を全世界に告げ知らせることに貢献した「使徒パウロ」が、アテネで行った説教を記したところです。アテネはギリシア哲学の中心地と言ってよいでしょう。
この町の人々は、広場で論じ合う習慣があり、また、何か新しいことを見聞きすることが大好きだったことが、前の段落からわかります。人知の粋や目新しい情報を求めて一喜一憂する姿は、都市生活をする者、即ち、私達にも共通する性質だと思います。
もう一つ、この町についてパウロが嘆いているのは、アテネの町に偶像が溢れていることでした。パウロは人間が手で作る神様や維持するために人間の働きが必要な神殿は、本当の神様でもないし、そのような神殿も神様の住まいとはなりえないとパウロは主張しています。そして、アテネの人々が何となく感じてはいても名前すら付けられない「知られざる神」について、パウロは説明を始めたのです。まさしく新しい情報です!
*「本当の神様」=天地を造られた主
ユダヤ人が奉じていた聖書には「本当の神様」のことが知らされています。しかし、ユダヤ人でない人々(異邦人)は、聖書で証しされている「本当の神様」を知りません。そこで、パウロは異邦人であるアテネの人々に「本当の神様」が天地を造ったところから説明を始めました。天地のものすべてを造った「本当の神様」は、人間を造られ、「命」や「息」や「必要な物」すべてを与えてくださったと語りました。それだけではなく、「本当の神様」は人間それぞれに相応しい「時」と「場所」を設定して、この地に人間を配置して、その中に示されている神様を、人間がわかるようにされていると述べました。それは、アテネを含むギリシアの人々も漠然と感じていることが詩に示されていると例証しています(28節)。そして、人間の働きや技巧によって作られる偶像礼拝は、神様を決して表していないことを29節で重ねて論じています。
*「本当の神様」が新たになさったこと=「イエス様の復活」
これまでは、異邦人には漠然としか感じられなかった「本当の神様」、即ち、異邦人には「天地を造られた神様」としかかわからなかった「本当の神様」について、もはや「知らない」では済まされないことを、パウロは主張します。それは、イエス様が復活されるという出来事が起こったからです。そして、それが言葉によって述べ伝えられるようになったからです。人知を越えた神様が、人知では理解の範囲を越えた「死からの復活」という栄誉を、「救い主イエス様」に与えたからです。人知を越えたものは、神様のなさったこととしか言いようがありません。イエス様の復活によって、神様が人間を御自分の方へ導いていると言えるのです。だから、アテネの人々だけではなく、私達も、今やはっきり知らされた「本当の神様」に心を向け(悔い改め)、「神の国の福音」を受け入れて、新しい「神の国の民」として歩むように神様から求められているのです。私達は、復活のイエス様によって御自分を啓示なさる神様から大きな恵みを受けているのです。

11月19日の説教要旨 「時の転換点」 牧師 平賀真理子

箴言16:1-9  ルカ福音書16:14-31
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、イエス様のお話についてファリサイ派の人々の態度を記したところから始まっています。彼等はあざ笑ったのです。自分達の方が上だという判断をしていることが暗示されています。
*ファリサイ派の人々に顕著に表れた人間の最大の問題点
それに対し、イエス様は、ファリサイ派の人々の最大の問題点を指摘なさいました。それは「神様の目に映る自分ではなく、人の目に映る自分のことをまず考えている」ということです。15節で「神はあなたたちの心をご存じである」とイエス様が語られましたが、これこそ、本当に畏れ多いことだと痛感します。神の民として立てられているにもかかわらず、神様の目でなく、人間の目から見て自分がどう見えるのかを
まず考えてしまうという自分の心を懺悔しなければならないでしょう。
*神様の目を忘れてしまいやすい人間
ファリサイ派の人々は、神様がくださった律法に携わっているが故に、自分は神様に近いと誤認しやすいのでしょう。逆に言うと、自分自身について、神様の目を忘れやすい人間であることを常に自戒していかなければならないのです。それは、ファリサイ派の人々と現代の私達の間でも全く同じであると言えます。私達は日曜日ごとに礼拝を献げますが、主なる神様を忘れてしまう自分の罪を悔い改めて、それを許して神様が自分を招いてくださることに感謝し、神様を賛美しようという思いで溢れているかどうかが問われているのです。
*「律法と預言者」の時代が終わり、「神の国の福音」の時代が来た!
人間は神様を忘れるのに、神様は人間への愛を貫きます。まず、律法を与え、次には「救い主」を送る預言をなさって、それを実現なさいました!つまり、ファリサイ派が奉じていた「律法と預言者」が支配する時代が終わってしまい、次の時代、即ち、救い主であるイエス様がこの世に遣わされて「神の国の福音」が告知される時代が来たのです。但し、どちらも神様の御心を示したものに変わりありません。「律法や預言者」に示された御心は決して消えません。人の心を見抜くイエス様は、ファリサイ派の人々の心を見抜き、彼らが律法の中でも特に不都合だと感じていた「姦通の罪の規定」を例に挙げました。彼らは神様の御心に従おうとせず、自分達の欲望に都合のよい解釈をして良しとしていましたので、イエス様は、「人間が自分勝手な解釈を付け加えて曲げようとしても、律法の根本である『神の御心』は変わらない」と伝えたかったのだと思います。イエス様は、律法が人間の間違った解釈ではなくて、神様の御心に立ち帰って大事にされることを切望なさったのです。
*欲望のためにこの世に執着して「時の転換点」を察知できない人間
14節から18節までの段落は、別の見方もできます。ファリサイ派の人々の具体的な欲望=「金銭欲と名誉欲と色欲」が明らかにされています。この世での人間の欲望にまみれているために、目の前の救い主を見抜けずに悔い改められない者達の代表として、ファリサイ派の人々を見ることもできると思います。彼等は、欲望という「この世への執着」のために「救い主がこの世に来た」という「時の転換点」を察知できない愚かさを呈しています。一方、イエス様の言動は、父なる神様の人間への愛を正しく伝えたいという思いで溢れ、新しく立てられた救いの方法=「神の国の福音」を告知してこの世の人々を救いたいという思いで貫かれています。
*「金持ちとラザロ」の例え話におけるファリサイ派の誤りと私達
イエス様は、聞く相手を考慮してお話しをなさいます。この例え話も、聞くファリサイ派の人々を「金持ち」に例え、彼等が自分達の間違った姿勢を改めるように求めておられます。この「金持ち」はこの世にいる間、多く物で満たされ、一方、「金持ち」の隣人であった「ラザロ」という貧者には、食べ物も家も満足に与えられませんでした。「金持ち」はこの貧者の隣人に、自分の残り物すら施しませんでした。その後、二人ともこの世から死者の世界に行くことになり、ここで、ファリサイ派の人々の考え方を反映した描写がなされます。「ラザロ」がイスラエル民族の祖であるアブラハムの宴会に招かれているのに、「金持ち」はその世界から隔絶された別の世界で「渇き」の責め苦を受けるというのです。この世で与えられるものが少なかった者と、この世で多く与えられたのに隣人に分け与えなかった者は、死後の世界へ移された後は、全くの逆の立場になることが示されています。「金持ち」は後悔してもどうしようもないと思い知ります。結局、ファリサイ派は「死から復活する者(後の復活のイエス様を暗示)の教え」には従わずに、モーセや預言者達の教えに従うと言いつつ、実は自分の欲望に従い続けた結果、新しい時代においては後悔するのみであると警告されています。ファリサイ派のような誤りを主は信仰者に望まれません。新約時代の私達は、神様の憐れみにより、今や、救い主イエス様のおられる所に招かれています!その大いなる恵みに感謝いたしましょう。

11月12日の説教要旨 「だれに どう 仕えるのか」 牧師 平賀真理子

歴代誌上29:14  ルカ福音書16:1-13
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、解釈が難しい所として有名です。人間的な解釈だけに頼っていれば、です。ところが、イエス様の父なる神様に対する姿勢と、この箇所の前後で語られていることを合わせて考えると、それほど難しくないと導かれました。導かれたままにお伝えしたいと思います。
*イエス様が証しされた「神様」の真の姿(直前の15章で語られたこと)
今日の箇所の直前の15章で、イエス様は3つの例え話を用いて、天の父なる神様が、御自分から離れて道に迷う人間を見出したい、直接つながって御許で祝福したいと望んでおられると証しなさいました。イエス様は神の御子なので、憐れみ深い御父の真の姿を伝えることができるのです。
*主人に損失を与えて解雇される寸前のダメな「管理人」
今日の箇所の例え話の「ある金持ち」「主人」は「神様」を、また、「不正」と言われる「管理人」は「私達人間一人一人」を例えていると思われます。神様から持ち場を与えられているにもかかわらず、人間は、神様から見れば「不正」と言わざるを得ないような働きしかできていないと最初に示されています。そして、その姿が神様に知られてしまい、クビになる状態に追い込まれています。そんな切羽詰まった状態でも、この「管理人」は自分の知恵の限りを尽くして、クビになった後の居場所作りを画策します。「管理人」と例えられる人間は、「主人」である神様に元々損をさせている上に、更に、主人への損失を増す方法でしか、自分の生き残りを図れない、本当にダメな存在として描かれています。徹頭徹尾、自己中心のままです。
*ダメな「管理人」を神様は褒めてくださった!
ところが、そんなダメな存在の人間に対して、神様はほめてくださったのです!この「管理人」は自分の賜物(能力)=「管理人の仕事(単なる管理だけではなく、その家の事業の経営や雇人の人事など、大きな責任を伴ったもの)」を、解雇された後の自分のために使いました。その結果として、負債者達は負担を軽減してもらったので、自分にに恩義を感じ、後に恩義を返してくれるようになるとこの「管理人」は計算したからです。
*憐れみ深い父なる神様
人間の常識的な考えでは、この「管理人」の行状は、不正に不正を重ねた、決してほめられないものです。ところが、イエス様が証しする「神様」はそうではありません。主人の権威や権力を盗んででも、自分の居場所を作ろうとする、この「管理人」の「抜け目のないやり方」を賢い!とほめています。切羽詰まった人間が知力を振り絞って生き抜こうとしている、その姿を、御自分の損失は脇において、憐れみ深くみてくださる、神様はそのような御方であることを、イエス様は良くご存じだったのです。
*「お金や富」を賢く用いる知恵への評価
「不正にまみれた富」とは、犯罪などで不正に儲けた富という意味ではありません。この原語を直訳すると、「不正のマモン」という言葉になり、それは、この世で力を持つ「お金や富」を客観的に表現しているそうです。今日の箇所の1節にあるとおり、イエス様はこの話を弟子達に向かってなさいました。イエス様の十字架と復活の後には、弟子達がこの世で伝道をして福音を広めていく使命があります。弟子達は、この世で「不正」と言われるお金や富を、神の光を受けた「光の子」として、この世の人々以上に賢く用いる必要があり、弱い立場の人々の負担を減らして その人々が
友達(味方)になるように利用する知恵を持つことを勧めておられます。
*弱い立場の人々への眼差し
ルカ福音書の特徴の一つは、弱い立場の人々への施しや援助を大変重要視していることです。人間が神の国に入れるか否かは、神様だけが決定なされることですが、生きている間に弱い立場の人々を助けた場合、その助けた人が神様の裁きを受ける時に、その人から恩恵を受けて先に神の国に入った人は、助けてくれた人について証言したり、なにがしかの力添えができると当時のユダヤ人達は考えたようです。だから、負債が多いという弱い立場の人々の負担を減らした「管理人」は、「永遠の住まいに迎え入れられる」という恵みをいただけるとイエス様も表現なさったのです。
*イエス様の父なる神様に全身全霊で仕える
10節では、「ごく小さな事に忠実な者にこそ、大きな事を任せられる!」と教えておられます。「ごく小さな事」とは、「不正にまみれた富」(11節)や「他人のもの」(12節)と同じだと読み取れます。この世のこととも言い換えられるでしょう。そうすると、反対の「大きな事」「本当に価値あるもの」(11節)「あなたがたのもの」(12節)とは、憐れみ深い神様がイエス様の弟子達に賜るものすべてであり、もっと限定すれば、神の国の民としての大事な役割=福音伝道と言えるでしょう。最後の13節でイエス様は弟子達にだれに仕えるかの再確認をなさいました。「主の弟子達とは、この世の人々以上に持てる力すべてを用いて、神様に仕える者達」なのです!