4月30日の説教要旨 「主の復活の恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書651719 コロサイ書3111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は「コロサイの信徒への手紙」から与えられました。「コロサイ」の場所は聖書の後ろにある地図9で見ると、真ん中より少し東側であるとわかります。主が十字架にかかったエルサレムから直線距離でも800㎞も離れた この町にも、この手紙が書かれた頃(紀元60年頃)には、主を信じる人々がいたのです。ところが、その群れの中に、当時流行していた「グノーシス主義」という、知識偏重の考え方が入り込んできて、それを心配したパウロが、福音の本来の正しい教えに帰るように、コロサイの信徒達に勧めているわけです。

 「キリストに結ばれて歩みなさい」(2:6)

今日の箇所は、2章20節からの「日々新たにされて」の段落の一部です。一つ前の段落「キリストに結ばれた生活」の段落の冒頭の6節には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。これがこの手紙の主題です。更に、その後の12節では(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とあります。これを踏まえ、2章20節からの「日々新たにされて」の段落は、話が進められていきます。

 「キリストと共に死んだのか」

 2章20節から23節は、まず、信徒達がキリストと共に死んだということが大前提になっています。この「死」は、勿論、肉体的に死ぬということではありません。「この世の考え方や教えに支配された人間として、神様から離れた霊的存在の自分が一度死んだのか」と問われています。この手紙の内容から見て、コロサイの信徒達は、この世の考え方や流行していたグノーシス主義に左右され続けていたので、それは違うと著者パウロは言いたかったのでしょう。信仰者となる前と後とが変わらないならば、それはイエス様と共に死んだわけではないということです。これは、コロサイの信徒達だけに言われているのではなく、時空を超え、私達を含む、信徒達全員に問われていると読み取れます。

 「キリストと共に復活させていただける」

ただ、私達、主を信じる者は、イエス様と共に死ぬのであって、孤独に放り出されるわけではありません。この世で霊的に一度死んだ後に、今度は「復活したイエス様」を信じている故に、その恵みをいただいて、「神の国の民」として、霊的に復活させていただけると言えます。「主と共に」です。このことこそが、本当に大きな恵みをいただいていると言えるのだと思います。

 恵みをいただく前に、この世の考え方や生き方を脱ぎ捨てる

イエス様の十字架の意味=「私の罪の贖いのために神の御子・救い主が命を犠牲にされた」ということが本当にわかっているならば、それまでの考え方や生き方すべてを捨てていいと思えるのが、本当に主に出会った人の姿勢だと思います。私達日本人の中には、何かに一生懸命になっていることを見抜かれることを好まず、信仰者となっても以前の姿とあまり変わらないで過ごしたいと考えるクリスチャンが多いように思います。しかし、今日の聖書の箇所では、そうであってはならないと警鐘を鳴らしているのです。

 主と共に復活させられるだけでなく、終末の時には主と共に現れる

 キリストと共に確かに死んだ者は、「キリストと共に復活させられる(3:1)とパウロは語っています。それだけでなく、復活後に天に帰ったイエス様は、今や、神様と同じ存在になっておられ、今、私達には見えないけれども、歴史が終わる終末の時には現れてくださり、その時に、私達信じる者達も神の国の民として共に現れるようになれると、霊的な目を持っているパウロは保証しているのです。

 「古い人」を脱ぎ去り、「新しい人」を身に着け、日々新たにされる

この世では許容される「性的な乱れ」や「自分の欲望に引きずられて他人を軽んじる行為」を、信徒達はやめるように、更には、その源となる、悪い心や悪い言葉さえも、捨て去るように!とパウロは指導します。グノーシス主義では、天の秘密の知識さえあれば、この世で悪い言動をしても構わないとされたので、対照的です。主を信じる者達は、この世の言動と心根を持つ「古い人」を脱ぎ去り、造り主の姿に倣う「新しい人」を身に着けるように教えられています。しかも、洗礼の時の1度きりではなく、日々新たにされることで成長すると言われています。キリストだけを見つめて成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。

4月2日の説教要旨 「十字架の勝利」 牧師 平賀真理子

イザヤ書531112 マタイ福音書202028

 はじめに

イエス様は御自分の「死と復活の予告」を3回なさいました。今日の新約聖書の箇所は、3回目の予告の直後=「そのとき」に起こりました。

 「受難」と「死」についての具体的な予告

3回目の「死と復活の予告」では、前の2回とは異なり、「苦しみを受けること」と「殺されること」が具体的に語られました。つまり、「死刑を宣告され」、「侮辱され」、「鞭打たれ」、「十字架で殺される」ということです。エルサレムを直前にして、イエス様はいよいよ御自分に何が起こるか、信頼篤い12弟子達に伝えようとされたのでしょう。

 ゼベダイの息子たちとその母親

今日の箇所の「ゼベダイの息子たち」とは、見出しにもあるように、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ(マタイ4:21)です。12弟子の中でも、主の信頼が更に篤く、ペトロを加えた「3弟子」として重用されていることは福音書に度々記されています(例:マタイ17:1「山上の変容」)。この兄弟に加えて、その母親も、イエス様に従っていた信仰者だったと伝えられています。「救い主」イエス様がエルサレムに行き、もうすぐ「神の国」ができると彼女は期待し、自分の息子達を、主の1番と2番の家臣にするという約束の御言葉を主からいただこうとしました。

 栄光の前に「杯を飲む覚悟」を問われる

自分の子供の繁栄を願うことには、母親として同情したいところですが、自分の息子達だけへの愛に傾いているようです。でも、イエス様はそれを責めずに、自分の従者としての栄光を求める前に、「杯」を経験しなければならず、その「杯を飲む」覚悟があるのかをヤコブとヨハネに問われました。「杯を飲む」とは、神様が与えた過酷な定めを受け入れるということです。イエス様が飲もうとしていた杯とは「十字架上での死」です。この兄弟達にも、弟子ならば、同じように「信仰ゆえの迫害や死」を受け入れる覚悟の後に、栄光が与えられることを示されています。

 「できます。」と答えたのは?

杯を飲めるかと聞かれてこの兄弟達が「できます。」と答えたのですが、それは、イエス様の父なる神様が、彼らに働きかけてくださったからだと思われます。ペトロの信仰告白と同様に「神様の働きかけ」で(マタイ16:16-17)、御子イエス様への信仰基盤が人間の中にできていることが天地に表明されることになりました。だから、イエス様は「できます。」という言葉がやがて実現すると保証されたのでしょう(23節)。「神の言葉はとこしえに立つ(イザヤ40:8)」からです。

 弟子達の順位は、父なる神様の権限

しかし、イエス様は、弟子達の誰が1番や2番の家臣になるかをお決めになるのは、父なる神様の権限であり、御自分にはどうすることもできないと暗示し、2人の兄弟の母親と約束なさいませんでした。なぜなら、イエス様は、父なる神様を完全に信頼し、その御命令や権限に完全に服従なさるからです。

 弟子達の分裂の原因

主要な12弟子の内、ヤコブとヨハネを除いた10人の弟子達は、彼らに腹を立てました。彼らも似たような願望を持っていたと推測できます。弟子達という「信仰者の群れ」の中で、「1番になりたい」という願望が原因で、分裂が起こりました。イエス様は、この弟子達に向かって、御自分を信じる群れの中で、1番になることの意味や目的を教えてくださいました。それは、異邦人やこの世での意味や目的とはまるで正反対であると言われています。

 「異邦人の国(この世の国)」と正反対である「神の国」

異邦人をはじめとする、この世の方法では、権力者は、最大の権威を持ったら、自分の願望を実現することを第一の目的とします。自分のために周りの人々が苦しんでも配慮せず、多くの人々が虐げられたままです。ところが、イエス様の教えておられる「神の国」は、神の愛が実現するところ、つまり、自分が第一ではなく、相手の幸いを第一とする目的をもって、他の人に奉仕することが重要とされる国で、一番大きな権力は一番多くの奉仕をするために与えられるのです。

 「十字架の勝利」

イエス様の飲まれた杯=十字架上の死こそが、他の人間の救いのためにへりくだって自己を犠牲にする「神の愛」を人間に明示した、尊い犠牲です。その後の長い歴史の中で、このことを受け入れた多くの人々が救われてきました。「主の十字架」のみが、周りを犠牲にする「人間の罪」に完全に勝利するのです!

3月26日の説教要旨 「死と復活の予告②」 平賀真理子牧師

イザヤ書53610 マタイ福音書162128

 はじめに

前回、マタイ福音書16章13-21節までを「死と復活の予告①」と題し、お話しをしました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(16節)」という、ペトロの信仰告白をイエス様は祝福なさいました。それは、この世での信仰の基盤ができたということを意味します。そして、その揺るぎない信頼関係ができて初めて、イエス様は、人間がすぐには受け入れがたい「救い主の死と復活」について語り始めました。

 「救い主の死と復活」を初めて聞く人間の反応

イエス様が待ちに待った信仰告白をしたにもかかわらず、ペトロは、イエス様御自身が打ち明けてくださった「受難、死、復活」のことを信じられませんでした。というよりも、きっぱりと否定しました。しかも、救い主であるイエス様を「わきへお連れして、いさめ始めた(22節)」のです。これは、何もペトロに限ったことだとは言えないでしょう。他の弟子達にとっても、更に言えば、その後々の人々、ひいては、現代の私達に至るまで、このことを初めて聞く人間にとっては、受け入れ難いことです。「全能の『神の御子・救い主』が反対派の人間から苦しみを受けて殺されるなどありえない!反対派の人々をやっつけて、即座に御自分の支配を始める力と知恵があってこそ、『神の御子・救い主』だ!」と多くの人間が思うでしょう。人間が思い込んでいる「神の御子・救い主」は「栄光の主」、一方、イエス様の考えでは、「屈辱を受ける僕の立場」を味わわねばなりません。

 「神のことを思わず、人間のことを思っている」

イエス様が、直近には祝福したペトロに向かい、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしを邪魔する者。」と呼ばれたのは、大変衝撃的です。その理由をイエス様は続けて語っておられます。「神のことを思わず、人間のことを思っている(23節)」。ペトロは神様から送られた救い主と信じるイエス様の御言葉を、第一に尊重するべき立場にいました。でも、自分の持つ「栄光の主」の像にイエス様を当てはめたいと思い、自分の思いの実現を第一に考え、イエス様の預言を押しいただくことができませんでした。

 「わたしの後ろに来たいと志すのか」

イエス様がペトロに向かっておっしゃった「サタン、引き下がれ」は元々の言葉に忠実に訳すと「サタン、わたしの後ろに退け」です。「わたしの後ろに」が重要な言葉です。それは、24節の御言葉の最初にもあります。「わたしについて来たい者は」というところが、元々の言葉では「わたしの後ろに来たいと志す者は」と書かれています。これが弟子達におっしゃりたいことです。「あなたはわたしの後ろに来たいと志すのかどうか」という問いです。もっとはっきり言うと、「あなたはわたしを前にする(第一とする)のか」ということです。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「わたしの後ろに来たいと志す者」に向かって、イエス様が教えてくださったことが続いて記されています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(24節)」。「自分を捨て」とは、自分の思いや要求を第一に実現しようとする生き方を止めることです。この世では、多くの人間がそういう生き方をするのに、です。そして、「自分の十字架を背負って」と要求されます。「自分の十字架」とは、突き詰めて考えれば、神様の前に断罪されねばならない「自分の罪」のことを指すのだと思われます。ペトロのように、神様の御言葉や御心を知らされても、自分の思いや判断を優先してしまうこと、それが「自分(人間)の罪」であり、神様から離れてしまう「自分の十字架」です。しかし、それを捨て去ってしまうまでは、ついて来てはならないと、イエス様はおっしゃったのではありません!それを背負ったまま、「わたしの後ろに来なさい。」と招いてくださっているのです。そして、その先に、「わたしと共に十字架にかかって、罪を処断してしまいなさい。しかし、それは神様の御心であり、その後には、私が復活の主として永遠の命を与える栄誉を用意しています。」と教えておられるのです。

 復活なさり、従いたいと志す者に「永遠の命」をくださるイエス様

25節以降でイエス様が語っておられる「命を得る」とは、「神様の御前で生きている状態」、つまり、神様に繋がって神様に従って生きるという、「永遠の命を得ている状態」を指しています。肉体的に生きていても、罪の中にいるために神様に繋がっていない状態では、イエス様の目から見て「命を失っている」のです。イエス様は十字架の後、復活の栄光を父なる神様からいただき、その恵みを従う者に喜んでくださる御方です。その大いなる恵みを感謝して歩みましょう。

2017・1月1日の礼拝説教要旨 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 佐藤 義子

イザヤ書 49813・Ⅱコリント6:110

はじめに

2017年の最初の日を、聖日礼拝として皆様とご一緒に礼拝できる幸いを心から感謝いたします。今年度の聖句として与えられたのは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」です。(コリント第二の手紙、6章1-2節)

「恵み」という言葉は聖書の中で度々登場しますが、特に「神様の恵み」という時、①イエス様を人間としてこの世に遣わされたこと、②イエス様の十字架の死を通して私(達)の罪をあがなってくださったこと、③イエス様を死から復活させて下さったこと、が、その中心にあります。

今、ここにクリスチャンとして礼拝の恵みにあずかっておられる方々は、神様が各々に定めて下さった日に、この三つを神様の恵みとして受け入れ、ご自分の信仰告白として、おおやけに言い表して洗礼を受けられた方々です。その受洗の時に、私達に何が起こっていたのでしょうか?

 

受洗はキリストと結ばれること

今日読みました聖書の前(5章)には 次のように記されています。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって・・」(17節-18節)。

私達が洗礼を受けた時、私達にはこのようなことが起こっていたのです。これから洗礼を受ける方々にも、このようなことが起こるということです。私達がおおやけに信仰を告白した時(決断した時)、私達は今までの自分から新しく創造された自分(新生)へと変えられます。イエス様はご自身をぶどうの木に、私達をその枝に譬えられているように(ヨハネ福音書15章)、私達は信仰告白と同時にキリストに結ばれ、キリストと結ばれる(=キリストと共に歩み,その交わりの中に置かれる)者は新しく創られていきます。

 

・・神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」(同)

さらに信仰を告白することによって、神様が私達と和解して下さった喜びに招かれます。「和解」は、断絶など 関係が切れた状態にあったことが前提です。神様が私達と和解して下さったということは、それまで長い間、神様と私達人間の関係は切れていた(断絶していた)のです。神様は私達人間を創られ、命の息を吹き入れられて生きる者とされました(創世記)。ですから私達人間は、創り主である神様とは切っても切れない関係にあり、神様に従う限りにおいては祝福が約束されておりました。しかし私達人間は創り主に対して不服従を繰り返し、ついに神様と断絶関係に陥ってしまったのです。断絶に至った人間の罪は計り知れず、神様からの離反・不服従(自己優先)・反逆などを繰り返した結果、私達人間は滅びの道しか残されていませんでした。ところが憐れみ深い神様は、人間が地上において(サタンの支配のもとで・罪の中で)苦しんでいるのを見過ごすことを良しとせず、救いの手を差し伸べる御計画をたてて下さいました。神様と人間が再び関係を結ぶ道です!すなわち、人間の罪がつぐなわれて神様から罪の赦しをいただく和解への道!

このことが、18節の「キリストを通して」、すなわちイエス様の十字架による「死」と、神様による「死に勝利する復活」でした。なぜイエス様が十字架で死なねばならなかったのでしょうか?

それは、罪の赦しには「つぐない」が不可欠ですが、それが出来るお方(人間の罪を身代わりに背負うことの出来るお方)は、罪のない神の御子イエス様しかいないからです。それゆえ神様は御子を地上に送り、イエス様は、神様の御心に従って人間の罪を担い、罪をつぐなう死(あがないの死)としての十字架を引き受けられました。これによって「私(全人類)の罪」は赦され、神様は「わたしたちをご自分と和解させ」られたのでした。

 

また、和解の為に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。」(18-19節)

さらに神様は、この和解を受け取ったクリスチャンに一つの任務を与えられました。それは、和解の言葉をゆだねられた者として生きることです。イエス様を信じる信仰が創り主である神様のもとに帰る道であり、神様が用意して下さっている和解を受け取ることこそ、私達人間の本来の生き方であり、神様が祝福されることであることを、伝え、証しする任務です。

 

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)

今日の聖書の6章1節では、著者パウロが信仰者に対して「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と呼びかけています。そして神様から差し出された和解の恵みをいただいた者は、この恵みを無駄にしないようにと勧告します。恵みとは、自力で手にすることが出来ないものを与えられることです。「太陽の恵み」や「恵みの雨」のように、私達が生きていく上でなくてならぬものが 公平に与えられていることを思い起こしますが、ここでは神様から一方的に差し出された「神様との和解」、すなわち私達人間が、自分の創り主であるお方のもとに、イエス様の十字架のおかげで戻ることが出来た!神様とあるべき正しい関係(創造主と被造物)を結ぶことが出来た!生きる上で100% 必要なもの(無くてならぬものはただ一つ)が与えられた!ことを意味します。この大きな恵みを無駄にしてはいけないとの勧告と励ましを、2017年の御言葉として心に刻みたいと思います。

 

恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」(6:2)

これはイザヤ書49章からの引用です。当時イスラエル民族は,バビロン捕囚の日々が半世紀近く続いており(BC587年から-解放はBC538年)、人々の中で、祖国への帰還と祖国の復興という期待と希望が小さくなっていく時、第二イザヤ(イザヤ書は1-39章・40-55章・56-66章を書いた3人により構成されている)と呼ばれている預言者が、神様から聞いて語った言葉です。この言葉は、まだ、捕囚が続いている中で、第二イザヤ(BC 545年頃)が、神様からの約束の言葉(慰めと希望)として語り、人々を励ましたのです。信じた人々は、この後で、この約束の実現を体験することになりました。

 

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

このイザヤ書の言葉をパウロは引用して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と、コリントの教会の人々に(そして南伝道所の私達に)呼びかけます。今や、神様がわたしに下さった恵みを受け入れる時、又、すでに恵みをいただいた人々が、神様との和解の出来事を伝える奉仕を通して、救いが起こされる時です。私達の地上での生活には限りがあります。私達はそのことを忘れがちで「あわてることはない。あせることはない。今、決めなくても良い。もう少し後になってからでも・・」と言います。確かに今でなくても、次の決断の時が来るかもしれません。しかし来ないかもしれません。決断すべきとの思いが少しでも与えられたら、それを後回しにしてはいけないことを、この聖句は教えています。

「今」という時を見過ごさないように、いつも心の目を覚まして、今、何をなすべきかを、祈りを通して神様から教えていただきながら、新しい年を過ごしていきたいと思います。

あらゆる場合に神に仕える者として・・大いなる忍耐をもって、

苦難、欠乏、行き詰まり、・・労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、」(4―7節)

  著者パウロは、教会の人々に奉仕を呼びかけるだけでなく、自らがどのように和解の福音に奉仕しているかを3節以下で語っています。

私達は、今すぐパウロのような福音の奉仕者になることはむつかしく思われますが、しかしキリストに結ばれて歩む時、このように生きることが出来る!ということを知らされます。なぜならパウロは「神の力によって」出来ていることを明言しているからです。

この一年、神様からどのような道を示されても、真理の言葉、神の力によって、大いなる忍耐をもって、苦難や行き詰まりに対処し、与えられた恵みを無駄にせず、イエス様に結ばれた者・新しく創造された者としてふさわしい歩みを 歩んでいきたいと祈り、願うものです。

12月18日の説教要旨 「インマヌエル預言の実現」 牧師 平賀真理子

イザヤ書71014 マタイ福音書11825

 はじめに

「インマヌエル預言」とは、今日の旧約聖書箇所イザヤ書7章14節です。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」

 預言

預言とは、神様から与えられた御言葉を、神様から選ばれた預言者が、王様や民衆に告げるように命じられて語られたものです。旧約聖書を奉じるユダヤ人達には、預言者達が折々に現れました。特に、ユダヤの王様や民衆が「主」と呼ばれる神様を信じない時に、「主」を信じる信仰に立ち返るよう、警告を発する内容が多くあります。インマヌエル預言も、まさにそのような時に預言者に与えられたものです。

 ユダの国王アハズの不信仰

イエス様がお生まれになる前、約700年前に実際に起こったことです。ユダヤ人の国ユダの王だったアハズは、先祖を導いた「主」を大事にせず、他の神々を信じる行動を取りました。自分の国が他の2国から攻められた時にも、「主」への信仰に立ち返ることなく、周辺で一番強いアッシリアの王を頼りにしました。そこへ、預言者イザヤが預言を携え、神様から派遣されました。そして、2つの国がユダ国に迫って来ても「恐れることはない。この2国は近い将来、必ず滅びる」と預言し、ユダの国とアハズ王の揺らぎを静めようと神様が働きかけてくださいました。「主」と呼ばれる神様は、イザヤを通し、本当の神様が働きかけてくださっていることを証明するため、「しるし」を求めることさえ、お許しになりました。

 アハズ王の罪深さ

これに対し、アハズ王は「主を試すようなことはしない。」と言いました。「主を試してはならない」とは、申命記6章16節にある掟で、アハズの答えは、一見、信仰的です。しかし、違います。列王記下16章に詳細にありますが、アハズ王は「主」への信仰に戻らず、この世の尺度で力強く見える人間、即ち、アッシリアの王を頼りにする決心を翻しませんでした。「主」を信じていないのに、信仰深いふりをする、そのような罪深い人間に対して、主は「もどかしい思いをされている」と預言者は語ります。(我が身はどうでしょうか。)

 人間の不信仰にも関わらず、この世に働きかけてくださる神様

そのような不信仰極まりない人間の言葉や態度に左右されることなく、主が直接この世に働きかけてくださると預言で告げられました。アハズ王のように、主を捨て、心の底では背いているのに、言葉では信仰深いように装おうとする罪深い人間が求めないのにも関わらず、憐れみ深い神様は、この世に働きかける「しるし」を送ると宣言されました。それが、インマヌエル預言です。

 インマヌエル預言の実現=「イエス」様

インマヌエル預言は、ユダヤ人達の歴史の中で、「主」が「救い主」を人間の男の子として自分達に送ってくださるという信仰へと発展していき、約700年後に、本当に、それが実現したのです!しかし、その男の子の名前は「イエス」と名付けるよう、天使がこの世の父親ヨセフに告げています。「イエス」とは、ヘブライ語の「ヨシュア」のギリシア語風呼び名で、「ヨシュア」とは「ヤハウェ(旧約聖書の神様の名前)は救い」という意味です。だから、今日の新約聖書箇所の21節にあるとおり、「自分の民を罪から救うから、『イエス』」と説明されているのです。

 私達に「インマヌエル(神は我らと共におられる)」をもたらすイエス様

「主」は私達人間を愛し、共に居たいと願われるゆえに、御子イエス様をこの世に送ってくださり、神様と人間を隔てる罪を贖うための十字架の犠牲とされました。そのイエス様を主と信じるだけで、私達は主の恵みによって「神様が共に居てくださる」、そのような人間に変えられるのです。だから十字架にかかり、贖い主となられ、神様から栄誉の復活を賜ったイエス様は、この世での名前のとおりに「ヤハウェは救い」であることを証し、かつ、「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」という、隠された、別の名前(預言の名)の意味も全うされています。

 聖霊により御降誕されたイエス様と預言の実現を受け入れたヨセフの信仰

神の御子イエス様の御降誕は、聖霊の働きによるものだと、今日の新約聖書箇所2か所(18節と20節)にあります。ただ、メシアを待望するとはいえ、インマヌエル預言が我が身に起こったら、多くの人は受け入れ難いでしょう。でも、ヨセフは天からの御言葉を信じ、従順でした。ヨセフのように、天から来る神様の御働きを、この世の人間として受け入れ、従えるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

12月4日の説教要旨 「主は来られる」  平賀真理子牧師

イザヤ書591220マタイ福音書135358

 はじめに

先週の説教で「救い主を迎えるのに、ふさわしい心を用意しましょう。」と話しました。それは、具体的には、どういう心なのでしょうか。実は、「待降節」または「アドベント」の時に、特に大事なこととして勧められていることは、「悔い改め」です。

 「悔い改め」

 悔い改めとは、自己中心というこの世の価値観に基づいた生き方から、神様の御心を第一とした生き方に180度方向転換して生き始めることです。「悔い改め」の重要性について、今日の旧約聖書箇所にも書かれています。イザヤ書59章の小見出しは「救いを妨げるもの」とあります。人間が救われていない理由について、神様の力不足ではなく(1節)、人間の悪が神様と人間を隔てているから(2節)と確かに示されています。「人間の悪」が原因です。自分の本来の造り主である神様のことを考えずに、自分を中心に生きる習性=人間の悪が、神様からの救いを妨げ、神様と人間を隔てるために、人間は神様の許に帰れず、救われないのです。だから、そこから立ち帰る=悔い改めが必要です。

 「主に対しての『偽り』『背き』」

聖書で証しされている神様「主」は愛することを喜ばれる神様であり、正義を愛する神様です。だから、主を知らされた人間も、主に倣って生きるべきだと知っています。でも、現実はいつもそうできるわけではない、自分の日常生活を顧みれば明らかです。その時、私達はどのようにしてしまいがちでしょうか。本当は素直に謝ればいいのに、できません。そこで、イザヤ書59章13節にあるように、主に対する「偽り」「背き」へと傾いていきます。私達はまず、自己正当化しようとして言い訳を考えがちです。私達は、その言い訳を更に自分の都合いいように思ってもらおうと躍起になり、話を大きくしてしまい、最後には「偽り」にまで発展してしまいます。しかし、「偽り」を抱えた心の闇が神様にふさわしくないことだけは自分でわかります。だから、神様の目を恐れるようになります。神様の目をごまかそうとして、愚かにも、自分から神様に背を向けるようになります。それが「背き」です。そんなことを繰り返すことにより、私達は永遠に神様から離れ去ってしまいます。そのような人間達が集まって造る社会だから、中心にいるべき正義もまかり通らなくなります(14節-15節a)。

 「主は贖う者として」

しかし、そんな人間達を主は裁くのではなくて、贖う者として、私達の所に来てくださるということがイザヤ書59章20節にはっきり書かれています。「主が贖う」とは、自分から神様に背いた人間の罪を、主が代わりに背負ってくださるという意味です。「主」は、まず人間の罪を贖う御方であるということを、是非、覚えていただきたいです。

 「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」

次に20節に書かれている御言葉は「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」ということです。「ヤコブ」とは、創世記32章23節以降を読んでいただくとわかるのですが、主(の使い)と真剣に格闘した人です。主の祝福をいただくまで離さないと言って主(の使い)にしがみつき、とうとう「主の祝福」をいただき、主から「イスラエル」という新たな名前をもらった人です。つまり、神様なんてわからないとか信じられないとか言って斜に構える人ではなく、神様と真正面から向き合おうとする人のことです。そういった姿勢で生きる人で、しかも「罪を悔いる者」のもとに「主は来られる」のです。この世で生きる私達には、この世の常識や自己中心の思いに染まり、主がお嫌いになる「偽り」「背き」をしてしまうことがあるかもしれません。しかし、その時、素直に主の方に真正面に向き直り、謝り、次の機会には聖霊を送って助けてくださいと祈って、その都度、自分を主の御心に従わせる(悔い改める)ことが必要だと思われます。

 イエス様の故郷(ナザレ)の人々と私達の共通点

今日の新約聖書箇所では、ナザレの人々が、イエス様を人間としてだけ捉え、「救い主」として受け入れなかったと記されています。彼らは出来事を表面的に捉える目だけしか持っていませんでした。神様の預言を知らされていたユダヤ人ですから、神様の御言葉を信じて、人間的な見方にだけに縛られず、神様からの目をもっていたら、イエス様が実は「救い主」なのかもしれないと思えたかもしれません。主を知らされた人間は、自分の体験の奥に主の御心があるはずだという目を持たなければなりません。さて、私達の仙台南伝道所も福音伝道という主の御業のために立てられ、14周年を迎えました。私達は、主の御業を体験しているという点でナザレの人々と同じです。「教会」に招かれた体験を主の御業として受け入れ、「主が来られる」と言われた再臨の時を待ち望みましょう。

11月27日の説教要旨 「主を待ち望む」  平賀真理子牧師

イザヤ書215 マタイ福音書243644

 はじめに

今日から、キリスト教の暦では「待降節」または「アドベント」という、特別な期間に入りました。この期間、キリスト教会では、神様がこの世に救い主イエス様を送ってくださった恵みを感謝し、主が再びこの世に来てくださることを待ち望みつつ過ごします。本当のクリスマスの意味を知る私達は、主の御降誕を祝う「クリスマス」の前に、「アドベント」という期間を設け、救い主を迎えるのにふさわしい心を用意するのです。

 「終わりの時」

今日の新約聖書の箇所は、1ページ前の24章3節の弟子達の質問にお答えになったイエス様の御言葉です。36節の冒頭の「その日、その時」とは「主が来られて世が終わる時」(3節)を指します。聖書を奉じてきた民は神様が始められた「この世」には「終わりの時」があると考え、それが、いつ来てもいいように、その時の神様の裁きに堪え得る生き方をしたいと緊張感をもって生きてきました。だから、弟子達もイエス様なら「終わりの時」を御存じで教えてもらえると期待し、質問したのでしょう。ところが、イエス様は、それは天使も知らないし、神の御子の御自分も知らない、ただ、天に居られる神様=イエス様の父なる神様だけが御存じだと語られました。

 大きな出来事を突然受けるだけの人間

とすると、人間は大きな出来事である「終わりの時」を突然迎えることになります。そんなこと、実際にあるのでしょうか。しかし、イエス様は、人間の歴史の中で、突然「終わりの時」に襲われて、多くの人が滅んだ出来事が本当にあったことを想起させようとされました。「ノアの時の洪水」です。

 神に従う人「ノア」だけに訪れた救い

「ノア」と言えば、「ノアの箱舟」で知られている「ノア」です。創世記6章から9章までに「ノアの物語」が記されています。大きな洪水が起こったのは、人間が悪を思ったり行ったりすることが増え、神様が人間をお造りになったことを後悔され、人間を滅ぼそうとお考えになったからでした。しかし、ノアだけは「神に従う無垢な人」(6:9)だったので、神様がノアとその家族だけはお救いになりました。ノアの周りの人々は、この世での肉なる者として欲望中心に生きていたために、神様からの知らせを聞くことなく、何にも気づかずに突然「終わりの時」を迎えて滅びました。ノアは神様から知らせを受けていたために、突然でもなく、「終わりの時」に備えて、困難を乗り越える方法(箱舟を造って乗り込む)を神様に教えていただきながら、家族と共に滅びから救われました。この両者の違いを私達は認識すべきです!

 「神様の御心に従う心を眠らせてはならない」

だから、イエス様は「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と教えてくださいました。もちろん、肉体的に眠ってはならないのではありません。「神様の御心に従う心」を眠らせてはいけないということです。神様の御心は福音の中に、また、神様の御言葉の中に表れています。また、マタイ福音書24章44節には、主は「用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と語られていますが、何を用意するのでしょうか。それは「神様に向き合うのにふさわしい心、神様に素直に従う心」です。

 「再臨の時」に備えて

救い主イエス様は約2000年前に既にこの世に来てくださいました。そして、私達の罪を贖ってくださるために十字架で亡くなった後、復活され、そして昇天される前に「再びこの世に来てくださる」と約束されています。(使徒1:11) それを「再臨の時」と言いますし、世の終わりにその再臨の時が来ると伝えられています。先にも述べたように、それがいつなのか、当のイエス様さえ御存じないのだとすると、その重大な出来事を受けるだけの私達人間は、いつも「神様に従う心を大事にしていき、『終わりの時』がいつ来てもいいように歩むべきでしょう。

 「救い主」については預言されていた!

実は、ノアの時と同様、神様の御心に従う人々には、「救い」について何千年も前から預言され、旧約聖書に記されています。今日の旧約聖書の箇所もその一つで、「終わりの日」について預言されています。主の教え・御言葉が「ヤコブの神(天地を造り、「ヤコブ」を選んで人間を救おうと働く神)の家」から出て、全世界の民が従うようになり、本当の平和が訪れる希望が述べられています。

 「終わりの時」=「完成の時」

人間から見たら突然来る「終わりの時」は、実は、神様が御計画されてきた「救いの完成の時」です。イエス様の御降誕は救いの「完成の始まりの時」で、主の再臨の時が「完成の終わりの時」です。私達は、神様が人間を救おうとされる御業の完成の始まりと終わりの間の時に生きています。神様の御言葉を聞き続け、完成の終わりの時を待ち望みつつ、神の民としてふさわしい心を用意しましょう。

11月6日の説教要旨 「神の愛に捉えられた者」 平賀真理子牧師

イザヤ書5049 ローマ書831b39

 はじめに

「ローマの信徒への手紙」には何が書いてあるかというと、この手紙の冒頭(1:1)からこう言えます。「キリスト・イエス」についてです。次に、この手紙の筆者と宛先をお知らせしたいと思います。筆者は「パウロ」という人です。パウロは「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった(1:1)人です。また、宛先は、ローマにいる「キリスト・イエス」を信じる者達です。これも説明があります。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ(1:7)」です。神様が救い主をこの世に送ってくださることすら知らなかった異邦人であるローマ人の中で、イエス様が救い主であると知らされ、信仰を与えられた人々に、「救い主イエス様の恵み」を豊かに語っているのが、ローマの信徒への手紙です。特に、8章31節からは見出しのとおり「神の愛」について書かれています。

 神がわたしたちの味方である

8章31節-35節は、パウロが自問自答する形を取りながら、ローマの信仰者達に、「神の愛の恵み」を伝えています。31節bは信仰者達に敵対できる者がいるかを質問していますが、これは反語です。だれも敵対できる人はいないということです。32節はその説明です。人々の罪を肩代わりするため、イエス様は十字架にかかりました。それは、イエス様の「父なる神様」のご計画でした。神様は愛する御子を十字架で犠牲になさるほど、人々を愛してくださっています。神様が私達信仰者を本当に愛してくださる、大いなる味方である以上、敵対できる者がいるはずはありません。

 わたしたちを訴える者はいない

パウロは33節で、私達信仰者は神様に選ばれた者であると言っています。私達が神様に選ばれているなら、私達を悪者として訴えられるものはいません。人を「良し」として認めてくださるのは神様ですから、その神様が最初に選んだ者達=私達信仰者を訴えることのできる者はいません。

 わたしたちを罪に定める者はいない

私達信仰者の罪を糾弾する者もいないとパウロは言おうとしています。その説明がその直後に書かれています。キリスト・イエスについて、4つの説明があります。①死んだ方②復活させられた方③神の右に座っている方④私達のために執り成してくださる方です。①「死んだ方」とは、十字架で私達の罪を肩代わりするために命を犠牲にされた方という意味です。②「復活させられた方」とは、救い主としての定め=「十字架にかかって死ぬ」役割をイエス様が果たしたことに対して、父なる神様が栄誉として授けた復活を受けた方という意味です。③「神の右に座っている方」とは、2000年前にはこの世で人間として歩まれたイエス様も、今や、人間ではなく「神様」となられているという意味です。④「執り成してくださる方」こそ、イエス様の特徴です。イエス様は人間として歩まれたので、人間の弱さ・愚かさもよくご存知です。もし、私達信仰者を非情な裁判官のように裁く者がいても、主は人情ある弁護士のように執り成すのに充分な御力をお持ちである、安心しなさいと語られています。

 キリストの愛からわたしたちを引き離す者はいない

私達信仰者が信仰を失う原因となるものが、現実にはいろいろ考えられます。35節にあるとおり「艱難・苦しみ・迫害・飢え・裸・剣」など、つまり、権力者や社会からの圧迫や現実生活の厳しさによって、人間は次第に、もしくは一気に信仰を失ってしまいます。36節は詩編44編からの引用ですが、旧約聖書のある昔から、信仰故に苦しみを受けることを信仰者が神様に訴えている箇所です。しかし、です。その苦しみの数々、人間を信仰から遠ざける困難さに対して、私達信仰者は、もう既に勝利を収めているのです!イエス様の恵みによる勝利は、ギリギリの勝利ではありません。勝って余りある勝利、大いなる凱旋です。

 キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離す者はいない

38節-39節では、もう一度、信仰者を脅かすものが具体的に挙げられています。それらは、イエス様が人間として歩まれた頃、当時の人間達が、神様以外に恐れたものです。パウロは、当時の人々の恐れを知った上で、神様から選ばれて、その大いなる愛を受けている信仰者に対して、神様の愛の偉大さを思い起こし、何事も恐れず、キリスト・イエスの福音を信じるように勧めているのです。

 「神の愛に捉えられた者達」

本日は召天者記念礼拝です。私達の教会員で、先に召天された、平野武夫兄、石川進兄、佐藤博子姉を覚えます。この3人の方々は、「神の愛に捉えられた者達」であり、信仰を貫かれました。死の床にあっても、他の人々と違う、その姿で、私達の主キリストを証しされました。私達は、その信仰を継承したいものです。

9月18日の説教要旨 「主の喜び」 牧師 平賀真理子

イザヤ書25410a ルカ102124

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の段落を受けて、イエス様が語られた御言葉です。72人の弟子達が福音伝道から帰って来て、イエス様の御名を使うと悪霊が屈服するという報告をイエス様はお受けになりました。神の御子イエス様は救い主としてこの世に来られ、神の国の福音を告げ知らせてくださいました。神様のおられる天では、サタンに居場所は無くなったのです。そのように、サタンに勝利したイエス様の権威ある御名を使うことを許された弟子達までもが、サタンやその手下の悪霊に勝利したという報告をイエス様は受けました。それは、愛する弟子達が、神様側の一員としてサタンに勝った勝利宣言であり、弟子達を招き導いてこられたイエス様も本当に嬉しかったに違いないと思われます。

 イエス様の目標「父なる神様の御心に適うことを第一とする」

しかし、それは極めて人間的な見方にすぎません。18-19節にあるように、イエス様は弟子達が悪霊に勝利することは初めからわかっておられました。また、20節にあるように、悪霊の反応に一喜一憂せず、弟子達が神様の救いの御業のために用いられたこと、つまり、神様の弟子達に対する限りない愛に気づき、その恵みに感謝するように、主は導いておられます。つまり、イエス様は、この世での生涯を通して、天におられる父なる神様の御心に適うことを行うのを、まず第一のこととして生きる姿勢を貫き、弟子達の模範となられたのです。

 「聖霊によって喜びにあふれて」

福音伝道に成功して喜んでいる72人もの弟子達を与えてくださった「父なる神様」に、イエス様は大変感謝し、共に喜びたいと願われたのではないでしょうか。21節の「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」という箇所は、イエス様と「父なる神様」との心が一つになったので、神様の霊である「聖霊」により、天の喜びがもたらされたと思われます。

「天の喜び」とは、人間の感情を源にした喜びとは別のものです。完全で永遠なる神様からくる喜びですから、平安に満たされて、簡単には覆ったり無くなったりしない、静かで確かな喜びと言えるでしょう(人間の言葉では表現しきれませんが…)。実は、イエス様が喜びにあふれたと書かれた箇所は、ここだけです。大変貴重なところです。

 「父よ」との呼びかけ

21節の主の御言葉は、原語では「父よ、天地の主よ」となっています。

イエス様が確かに神の御子であって、そう呼びかけることを許されていること、そして、私達イエス様を信じる者達は、そのような御方を「主」と仰げることは、本当に大きな恵みであることをもう一度思い起こしましょう。

 「幼子のよう」に、へりくだった心を持つ者への恵み

21節でもう一つわかることは、報告に来た弟子達を「知恵ある者や賢い者」ではなく、「幼子のような者」とおっしゃっていることです。この世において、知識があると言っておごり高ぶる者にではなく、自分のことを誇らない者、ここで言うなら、イエス様の御名によって神様の御業に用いられたことを感謝できるような、神様の御前にへりくだった心を持った者に、神様が御自分を示してくださるのです。神様の御心がへりくだりを愛するものであるからです。

 「イエス様のメシア宣言」

22節全体は、よく読み込むならば、イエス様のメシア宣言と言えるでしょう。

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」とは、父なる神様がこの世に対して持っておられる権利、父なる神様の主権を、イエス様が譲り受けたとの意味です(同じ内容:ルカ22:29)。次の文章「父のほかに…」は、原文では「子がだれか」「父がだれか」と書かれていることを踏まえると、こういう意味です。「天の神様だけが『イエス様を御自分の御子である』と御存じで、また、『天の神様こそがイエス様の本当の父である』と、イエス様御自身と、イエス様が選んだ弟子達だけが理解できるのだ」と。

 この世でイエス様=メシア(救い主)に出会えた幸い

約2000年前に、この世で実際に救い主イエス・キリストに出会えた弟子達は本当に幸いです。しかし、イエス・キリストの救いの御業を知らされた私達も、「イエス様に出会う幸いを得た」と言えます。神様から大きな恵みを受けた私達は、「主の喜び」、つまり、「まず、父なる神様の御心に適うことを行うのが喜び」であるイエス様を見倣って歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。