2020年11月15日の説教要旨 申命記18:15-22・使徒言行録3:11-26

「救いの力」       加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の旧約聖書 申命記は、「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」(1:1)とあるように、モーセによってなされた訣別説教(遺言)のかたちで記されています。本日の箇所には「あなたの神、主はあなたの同胞の中からわたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」と、神様がモーセのような預言者をこれからも立てて下さるとの約束が述べられ、イスラエルの民は預言者の言葉に聞き従うように命じられており、預言者に聞き従わない民にはその責任を追及すると警告されます。他方、預言者が自分勝手の預言や他の神々の名によって語るなら、その預言者は死ななければならないと告げています。

*聖霊が降る(使徒言行録2章)

 イエス様が天に昇られ、五旬節に弟子達が心を一つにして祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、座っていた家中に響きました。そして炎のような舌が現れ、一人一人の上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに他の国々の言葉で話し出しました。そうです!弟子達は聖霊を、身体の中に宿したのでした。ペトロはイエス様と一緒にいた時よりも大胆になり、身体の中から聖霊の力を感じながら、周りに来ていた人達に話し始めました。ペトロは聖霊の力により変わりました。人々も神様の力を感じたはずです。

*「キリストの名によって」癒される

本日の新約聖書では、イエス様の「御名」に力があることが記されています。3章の初めには、ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に、神殿に上った時の出来事が記されています。生まれながら足の不自由な人が、神殿の境内に入る人達に施しを乞うため、門のそばまで運ばれて来ました。そして境内に入ろうとするペトロ達に物乞いをしました。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言いました。その男は何かもらえると思い、二人を見つめているとペトロは彼に言いました。

わたしには金や銀はないが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして右手を取って彼を立ち上がらせました。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして躍り上がって立ち歩き出しました。そして躍ったりしながら神様を賛美し、二人と一緒に境内に入っていきました(3:1-10)。彼は、身体の中に聖霊が宿ったのを感じて神様をたたえずにはいられなかったのだと思います。民衆は皆驚き、足が治った人が ペテロとヨハネに付きまとって神様を称えているので一斉に集まって来ました。

*ペトロの説教

ペトロは「なぜこのことに驚くのですか。私達がまるで自分の力や信心によってこの人を歩かせたかのように、私達を見つめるのですか。」と言い、この癒しは、イスラエルの民が殺した「イエス・キリストの『み名』を信じる信仰」による癒しであったと証ししたのです。ペトロはさらに、かつてモーセが語った言葉「神は、わたしのような預言者をあなた方の為に立てられる。彼が語りかけることには何でも聞き従え。耳を傾けない者は皆、滅ぼし絶やされる」(3:22-23)と申命記を引用して、イエス・キリストこそ、あなた達を悪から離れさせ、祝福にあずからせるため神様が遣わして下さった方(3:26)であると証ししたのです。

*わたしたち

現代を生きる私達は、毎日、神様の力、聖霊の力を感じながら生活しているでしょうか。日々聖霊に満たされ、聖霊が私達をどのように導き、何を語ろうとしているのか敏感でなければならないと思います。

足の不自由な人が躍りながら神様を賛美したように、私達の生活の中で神様に心を震わせて、神様に感謝を捧げ、神様を称えているでしょうか。又、イエス様の御名を信じて「本当の癒し」が起こるために祈っているでしょうか。イエス様の御名には力があります。 私達の心の中で神様の力、聖霊の力を感じる時、癒された人のように、心の中から溢れるばかりの喜びが沸き起こり、神様に感謝せずにはいられないでしょう。イエス様は私達の助けを求める声を待っておられます。

1月19日の説教要旨 

ヨブ記38:4-6・使徒言行録 17:22-29

「神は天地の主」   佐々木哲夫先生

*はじめに:世界宗教人口

 世界の宗教人口は約60億と言われております。その中でキリスト教は20億、イスラム教は12億 ヒンドゥー教は8億、仏教は3億6,000万です。ユダヤ教を起源とする一神教のキリスト・イスラムは合わせると32億。他方、バラモン教をルーツとするヒンズー・シーク・仏教系は約12億です。世界宗教か民族宗教かという分類もありますが、何れにせよ、今日において、一神教の神と自然神の神が宗教の双璧(そうへき)になっています。

今朝は、聖書を通して私たちに知らされている神とはどのような神かについてご一緒に思いを巡らしたいと思います。

*アレオパゴスの説教 

使徒パウロは、第二次伝道旅行においてアテネを訪れております。アテネには、貴族たちの会議所が置かれていた小高い丘アレオパゴスがあります。パウロはその丘の中央に立って演説を行いました。というのはアテネの道を歩いている時に見たのですが、至るところに偶像があり、その中に『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけたからです。パウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいる『知られざる神』についてお知らせしましょう」と語っています。アテネの聴衆は、ギリシア神話に登場する神々に親しみ、哲学者の議論する学説に心惹(ひ)かれていた人々で、耳が肥えていました。そのような人々に向かって本当に信ずべき神を紹介したのです。

*聖書の神

パウロは、聖書の神について二つの点を強調しています。

第一は、世界とその中の万物を造られた神であって、この天地を超越していることです。すなわち、人間の手で造られた神殿に安置され、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要がないのです。『知られざる神に』と刻まれた祭壇に納まる神ではないのです。

第二は、すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださる神であることです。聖書の神は、人間の魂と身体の存在の根本原因、換言するならば、人間が寄って立つべき基盤であるのです。そのような関係が神と人とにあるのですが、人間は、この世で学ぶにつれ、また、身の回りの出来事を上手に対応管理するにつれ、神と人との関係を逆転させてしまいます。神を『知られざる神に』と刻んだ祭壇に納めて相対化し、他方、自らを自律する存在と考えてしまうのです。

*主客転倒

旧約聖書のヨブに向かって天地万物の創造主なる神は問います。

本日の旧約聖書の箇所です。「わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか」と問います。主客転倒の思いを問いただしたのです。

ヨブは、自分の存在起源である創造主なる神を再認識し「私は取るに足りない者、何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます(40:4)。私は自分を退け塵(ちり)と灰の上で悔い改めます(42:6)」と語っています。

*インダス文明の神

 他方、インダス文明の宗教であるバラモン教の神は、紀元前5世紀頃にヒンズー教の神として整えられました。インダス文明の担い手である人々は、世界と人間の存在に驚きと恐れを持ち、宇宙に偏在(へんざい)する神をあがめました。そして、自己の中にも存在するその神と自分(自我)とを同一化しようとします。禁欲と出家による修行によって、神と同一化しようと試みます。それは、人間の短い一生の間にはなかなか実現できない事なので、「同一化、悟り」は、輪廻(りんね)転生(てんせい)という永遠の中で試みられることになります。

*ヒンズー教・仏教

その流れの中から釈尊(しゃくそん)の仏教が出てきます。涅槃(ねはん)の境地に至った存在者である阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)、大日如来(だいにちにょらい)、薬師(やくし)如来(にょらい)などが住む極楽(ごくらく)浄土(じょうど)は、十万億土の彼方(かなた)に存在すると考えられました。

インドでは、仏教はやがてヒンズー教に戻り吸収されます。ですから仏教にも梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)などの神が存在します。仏教での神は六道の世界にある存在で、如来よりかなり低い存在です。

このような歴史を概観するならば、日本に仏教が伝来した後に、日本古来の民族宗教の八百万(やおよろず)の神を仏の化身(けしん)であるとする本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)が出てきた理由を見出す思いがいたします。

*シュメールの神

 ところで、創造神は、古代オリエントの神話やギリシャ神話においても登場しています。それら神は、すべて、人間から遠く離れた世界にいます。遠くから人間を眺め、人間世界に影響を及ぼしました。

例えば、古代シュメール神話の人間創造は、農作業などの雑務に追われた神々にかわって労働する者として創造されました。

次のような記載があります。

神々が集い、互いに言う。「…偉大な神アヌンナキたちよ。そなたたちは一体何を変革しようとするのかね。」 

その中の二人がエンリルに答えて言う。「 …あなた方は二人のラム神を殺して、彼らの血でもって人間を造るのです。 … (今まで)神々が(になってきた)仕事は(今や)彼ら(人間)の仕事でありますように。」

畑仕事、土木工事、家畜の増殖、神々の祭りの執行など、神のために働く人間が創造されたのです。

*ヒンズー教の原人

他方、ヒンズー教の教えでは、原人プルシャの身体から太陽神々 や人間など世界の全てが生まれたといいます。

古代インドの聖典の一つ『リグ・ヴェーダ』に次のように歌われています。

神々が原人を切り分かちたる時 その口はバラモン(司祭)となり。その両腕はラージャニヤ(武人)となり。その両腿(りょうもも)からはヴァイシャ(農民、商人)が、その両足からはシュードラ(奴隷)が生じた。 

これが人間を4つの身分に分類するカースト制度の由来です

*共にいます神

さて、第28代 日銀総裁(平成10年〜15年に在職)の速水(はやみ)優(まさる)さんという方がおられました。縁がありまして2004年(平成16年)に東北学院の教職員修養会の講演を担当しております。

基督者(きりすとしゃ)の速水さんは、日銀総裁人事の独立性、マクロ経済における円高基調の重要性などの難しい話をされました。

そしてもう一つ、日本の国の行く末を左右するとも言って過言でない重要な会議の連続において、いつも執務室から会議室に赴く時、壁に掲げられていた聖書の言葉「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ43:5)の聖句を心に刻み、祈ってから出かけたことを話してくれました。

速水さんのお話は、知られざる神ではなく、命と息とその他すべてのものを与えてくださる神が、今なお私たちと共に近くおられ、私たちの歩みを導いてくださる方であることを証(あかし)するものでした。

聖書を通して知らされている三位一体の神が私たちに近くある神であることを再認識したいと思います。

1月12日の説教要旨

詩編119:105・使徒言行録 17:10-12

「み言葉と共に歩む」      佐藤義子牧師

*はじめに

 私たちは毎週、礼拝の中で御言葉を聞き、学び、心にとどめ、そして家庭や社会に戻り日々の歩みを続けております。私たちは、時に「つぶやき」の誘惑に襲われます。「なぜ、私が・・」「なぜ、神様はこのような試練を」「私には無理。出来ません」など・・。

神様が遠くにおられるような錯覚に陥る誘惑です。そのような時、先週の礼拝で聞いたイザヤ書の御言葉が響きます。「あなたはなぜ、『私の道は主に隠されている』と、いうのか。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みを置く人は新たな力を得、わしのように翼をはって上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

心が折れそうになった時、この御言葉が浮かぶならば、私達は、このみ言葉によって 励まされ、祈りを新たにすることが出来ます。

*ベレアの町の人々

本日の聖書は、使徒パウロの二回目の伝道旅行の時の出来事です。

パウロの伝道の前には、いつも、反対者、敵対者が立ちはだかり、時に、民間宗教とぶつかり、群衆の反感を買い、市の当局者にムチ打たれ、投獄までされました(パウロの受けた労苦参照:Ⅱコリント11:23-)。

フィリピの町で、教会の基礎が出来たあと、町を去るように言われ、次に訪れたテサロニケの町でも教会の基礎が出来ますが、ユダヤ人の嫉妬による暴動を起こされて追われ、そこから南西に約75キロ離れたベレアの町にパウロとシラスは逃れます。今日の聖書には、このように記されています。 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

キリスト教の命は伝道であり、ここにおられる方々も(私も)伝道によって救われ、さらに今は、救いが家族や友人にまで及ぶことを祈り願っております。

*求道者から信仰者へ

信仰は神様が与えて下さるものです。もと神学校の学長であった桑田秀延先生も、次のように書かれています。「罪とは神から離れ、失われていることであり、本当に礼拝すべき神を礼拝せず、神でないものを礼拝し、自己中心になり、物質中心になることである。・・・罪の救いは人間の側からは、なされない。人間は・・全く無力である。救いは神の側からくる。恩寵(*注)としてくるのである。」

(*注)恩寵(おんちょう)とは神の恵み、罪深い人間に神から与えられる無償の賜物のこと。

コリント書にも(12:3)「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、あります。

 以上のことを大前提としながら、今日のベレアの町の人々の、求道者としての姿勢を見て、伝道を考える時、いくつかのヒントを与えられると同時に、救われた後の私たち自身にも語りかけているように思います。

素直」とは、聞く耳を持っていることです。心の中が自分の思いや考えで一杯になっていたら、聞いても心に入らず、逆に、聞いた言葉を自分の考えで跳ね返してしまうでしょう。

又、彼らが「非常に熱心に御言葉を聞く」ことが出来たのは、自分の中に、真理・真実なるものを持ち合わせていないとの「謙虚さ」があり、それゆえにパウロの語る言葉は「聞くに値する言葉」であることを本能的に察知出来たのではないかと想像します。

その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とは、当時旧約聖書しかありませんでしたから、パウロが語る「十字架にかけられたイエスこそ、メシア(キリスト)である」との宣教が、旧約聖書(イザヤ書53章)の預言の成就であるのかなど調べていたのでは、と推測されています。

*信仰者として生きる

私達も又、救われた時の「素直さ」、「熱心に御言葉を聞く」、「聖書を良く読む」など、御言葉と共に歩む生活を続けていくために必要な栄養を、日々求め、与えられていきたいと願うものです。

5月20日の説教要旨 「聖霊なる神と共に」 遠藤尚幸先生(東北学院中・高 聖書科教諭)

ヨシュア記1:1-9 使徒言行録2:1-11

 はじめに

私が、この伝道所を離れ、神学校に入学したのは、2009年4月でした。あれから今年で、丸9年の月日が流れました。この9年は、伝道所にとっても、私にとっても一筋縄ではいかない月日だったと言えるでしょう。しかし、この9年という期間は決して、無意味に放り出されてきた期間ではなかったことを思い起こします。それぞれの歩みには いつも、その傍らに、私達の主なる神様が共にいてくださいました。今日は、ペンテコステですので、あえて力を込めて申し上げたいのは聖霊なる神様が共にいてくださったということです

 

聖霊なる神様とは何か

聖霊なる神様とは何か。これは、聖書においては「風」にたとえられます。「風」は目に見えません。しかし、私達は木々が揺れ、その音を聞くときに、その木々を揺らしている「風」の存在があることを知ります。「風」があるからこそ、雲は動き、気候は変動し、季節が生まれます。このように、目に見えない「風」は、実は、私達の生活の何よりも身近で、必要不可欠なものです。「聖霊なる神様」とは、まさにこの「風」のようなものです。目には決して見えないけれども、私達一人一人の命を支え、そして、この伝道所の歩みを昔も今も、これからも支え導くものです。私達の人生そのものもまた、たった一人で、この世界に放り出されているのではありません。風が吹き続けているように、私達一人一人の人生にも、聖霊なる神様が深く関わり続けてくださっているのです。9年間を振り返れば、息切れするような出来事も多くありましたが、今、私達は、今日ペンテコステの日、共にここに集っています。聖霊なる神様は、この日まで確かに私達一人一人を守り導いてくださいました。既に天に召された兄弟姉妹もまた、今、私達よりも確かな仕方で、聖霊なる神様の御手の中で安心して眠りについていることを覚えます。私達は誰一人、神様の御手の中からこぼれ落ちている者はいません。この恵みのうちに、今日という日があるのです。

 

聖霊降臨を待つ

聖霊なる神様の存在が確かにこの地上に現れた日。そのときに、この地上にキリスト教会が誕生しました。ですから、聖霊降臨を祝うこのペンテコステという日は、私達キリスト教会の誕生日でもあります。そのときの光景が、今日与えられた聖書の言葉の中に書かれています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録21)

使徒言行録1章3節-5節で、主イエスは、十字架上で亡くなった後に、御自分が生きておられることを数多くの証拠をもって使徒達に示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話され、こう命じられたとあります。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」4節-5節)

だから、弟子達は、復活の主イエスの約束「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい」という言葉を聞き、聖霊が自分達に降るときを待ち、祈っていました。主イエスは、その約束の後、復活から40日後、天に昇ります。その後の五旬祭までの10日間、弟子達一人一人がどんな思いで約束された聖霊を待っていたのかは記されていません。しかし、例えば、使徒言行録1:13-14を読むと、「熱心な祈り」がそこにあったことは確かです。ここで言われていた「彼ら」とは、主イエスを裏切ったユダを除く11人の弟子達です。聖書はきちんと弟子達の名前を記しており、このことには感慨深い思いがいたします。しかも、彼らはただ祈っていただけではありません。同じ書(使徒言行録)1章17節以下では、先述のユダ(主イエスを裏切ったために、自らの命を絶った弟子)の役割を引き継ぐための12番目の使徒マティアを選出しています。祈り、自分達のするべきことをし、主イエスの約束を待つ。ここに、私達教会の原型があると言っても過言ではありません。

 

キリスト教会

私達教会も、この10日間の弟子達と似ています。神様の約束されたものを待ち望みながら、そして祈りながら、自らの教会が与えられた役割を担っています。最初の聖霊降臨日後には、十字架を前に逃げ去った弟子達とは思えないような、力強い弟子達の姿があります。しかし、ここで大切なことは、それで教会が教会として建っていくわけではないということです。弟子達がいくら約束されたものを待ち望み、熱心に祈り、するべきことをしたところで、それは単に人間の集まりに過ぎません。

そこには風が吹いていません。命がありません。ですから、過越祭から50日後、聖霊降臨がこの日起こったことは紛れもない教会の誕生日です。弟子達に約束された聖霊が降る。ここから、教会はキリストのからだなる真の教会として建っていくのです。五旬祭の日に、弟子達はエルサレムに集まっていたユダヤ人達の故郷の言葉を話し出します。それは、弟子達の言葉、教会の言葉が、神の言葉として確かに人々に行き渡っていく姿を示しています。私達教会もそうなのです。私達がこの場所で語り続け、解き明かし続ける聖書の言葉が、人々に届かないということはないのです。なぜなら、私達は今、ただ人間的な集まりによって、一つになっているわけではないからです。この群れと共に、聖霊なる神様がいてくださり、この群れには、命の風が今吹いている。

そうであるなら、この教会を通して語り続けられている主イエス・キリストの福音は必ず、人の心に届き、その人を救いに導きます。私もこの教会の語る言葉で福音を聞きました。その証人の一人です。私以外にもいるでしょう。使徒言行録には主イエスが登場しません。主イエスの弟子達、使徒達の姿だけがピックアップされているような印象を受けます。しかし、よく言われるのは、この使徒言行録とは、聖霊なる神様と共に、教会が歩んだ姿を証しするものだということです。聖霊なる神様が共にいるからこそ、教会は教会としてこの地上にあるのです。教会があるところに神様がいるのではありません。聖霊なる神様がいるところに教会がある。ですから私達の教会も、聖霊なる神が今共にいてくださるからこそ、今日ここに教会として存在しているということができるのです。主が必ず、この群れと共にいてくださるのです。

 

 キリストを囲む群れ

先日、日曜日の午後に、この仙台南伝道所を訪れ、仙台に来た挨拶をしました。その日は、仙台南伝道所は平賀牧師を含め礼拝出席者が7名だったということでした。ここ数年の中でも出席者が少ない日曜日で、ちょうどそんな日に私が来たので皆さんが より一層喜んでくださったのでしょう。私は家に帰ってから改めて、最初の弟子達もまた、ガリラヤで召されたシモン・ペトロ、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人、そして招いた主イエスだったことを思い出しました。教会は数や規模ではありません。主イエスが真ん中にいてくださり、その周りを囲むように、人々が集まるところ。それが教会です。私達も今日、主イエスが真ん中にいるその教会へと招かれています。私達に聖霊が降ることを約束してくださった主イエスは、私達罪深い者のために、その命を十字架で捨ててくださった御方です。神様に背き続ける私達が、しかし、今や、ひとり子イエス・キリストがその命をささげるほどに愛されているかけがえのない存在とされているのです。今ここに集うすべての人が、この恵みへと招かれています。教会は今あなたにも神の愛が訪れていることを告げ知らせます。その言葉は必ず一人一人の心に届きます。ガリラヤ出身の弟子達の言葉を聞いた人々はこう言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2:11)エルサレムにいたユダヤの人々は、信心深かったのかもしれませんが、キリストを救い主とは考えてもいなかった人々です。しかし、その人々がキリストの十字架と復活を「神の偉大な業」として受け取りました。弟子達の言葉が、単なる人間の言葉ではなく、神の言葉として伝わったのです。私達もまた、この時代、すべての人に、この神の偉大な業である主イエス・キリストの十字架と復活を伝えます。その言葉は、聖霊なる神と共に歩む教会の言葉であるゆえに、神からの愛の言葉として、必ず、人の心に届きます。この9年間の歩みを共に感謝いたしましょう。そして、今日、私達は再び、ここから、聖霊なる神様と共に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える歩みを始めます。                            以上

11月26日の説教要旨 「天地を造られた主」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-6  使徒言行録17:22-31
*はじめに(収穫感謝礼拝の由来)
今日は収穫感謝礼拝の日です。その由来は宗教改革が始まった1517年から約100年後の出来事です。ルターが口火を切ることになった宗教改革ですが、プロテスタントの教えはその後いろいろ分かれ発展していきます。その中でも3つの教えが主流となっていきました。ルター派・改革派(カルバンが提唱)・イギリス国教会派(日本では聖公会)です。
16世紀の間にイギリスでは政治的な動きと相まって、カトリック教会を離れて、国王がイギリス国教会を率いることになりました。ところが、イギリスの中で既に改革派のtおいう教えを信じていた人々にとって、それは生き辛い社会となりました。彼らはイギリスを出て、改革派が主流だったオランダに一度移住します。しかし、子供達が自分達の言葉を受け継がなくなっていくことに愕然とし、新天地で自分達の言葉や教えを継承できることを志しました。1620年の夏に2艘の船を手配して、当時の新天地アメリカへ旅立ったのです。ところが、航海は2度失敗し、3度目にやっと1艘だけ(メイフラワー号)、66日かけて、予定地より北のプリマスという町に着いたのです。ここまででも大変ですが、この後は更に大変でした。冬を越すのが厳しく、イギリスで船に乗り込んだ約100名のうち、半数が飢えと寒さで死んだのです。翌春には、この状態を気の毒に思った原住民の人々がトウモロコシの種を彼らに与え、これが秋に実って、待ちに待った「収穫」ができたのだそうです。イギリスから渡った、これらの人々は、助けてくれた原住民の方々をその秋に招き、新天地で実りを与えてくださった神様に感謝を献げました。
これがアメリカで大々的に祝われている収穫感謝祭の由来です。日本基督教団でもこの行事に倣って、アメリカでの収穫感謝の祝日(11月の第4木曜日)に近い日曜日に、収穫感謝礼拝の日を設けています。
*アテネの町で
 今日の新約聖書の箇所は、イエス様の死後、福音を全世界に告げ知らせることに貢献した「使徒パウロ」が、アテネで行った説教を記したところです。アテネはギリシア哲学の中心地と言ってよいでしょう。
この町の人々は、広場で論じ合う習慣があり、また、何か新しいことを見聞きすることが大好きだったことが、前の段落からわかります。人知の粋や目新しい情報を求めて一喜一憂する姿は、都市生活をする者、即ち、私達にも共通する性質だと思います。
もう一つ、この町についてパウロが嘆いているのは、アテネの町に偶像が溢れていることでした。パウロは人間が手で作る神様や維持するために人間の働きが必要な神殿は、本当の神様でもないし、そのような神殿も神様の住まいとはなりえないとパウロは主張しています。そして、アテネの人々が何となく感じてはいても名前すら付けられない「知られざる神」について、パウロは説明を始めたのです。まさしく新しい情報です!
*「本当の神様」=天地を造られた主
ユダヤ人が奉じていた聖書には「本当の神様」のことが知らされています。しかし、ユダヤ人でない人々(異邦人)は、聖書で証しされている「本当の神様」を知りません。そこで、パウロは異邦人であるアテネの人々に「本当の神様」が天地を造ったところから説明を始めました。天地のものすべてを造った「本当の神様」は、人間を造られ、「命」や「息」や「必要な物」すべてを与えてくださったと語りました。それだけではなく、「本当の神様」は人間それぞれに相応しい「時」と「場所」を設定して、この地に人間を配置して、その中に示されている神様を、人間がわかるようにされていると述べました。それは、アテネを含むギリシアの人々も漠然と感じていることが詩に示されていると例証しています(28節)。そして、人間の働きや技巧によって作られる偶像礼拝は、神様を決して表していないことを29節で重ねて論じています。
*「本当の神様」が新たになさったこと=「イエス様の復活」
これまでは、異邦人には漠然としか感じられなかった「本当の神様」、即ち、異邦人には「天地を造られた神様」としかかわからなかった「本当の神様」について、もはや「知らない」では済まされないことを、パウロは主張します。それは、イエス様が復活されるという出来事が起こったからです。そして、それが言葉によって述べ伝えられるようになったからです。人知を越えた神様が、人知では理解の範囲を越えた「死からの復活」という栄誉を、「救い主イエス様」に与えたからです。人知を越えたものは、神様のなさったこととしか言いようがありません。イエス様の復活によって、神様が人間を御自分の方へ導いていると言えるのです。だから、アテネの人々だけではなく、私達も、今やはっきり知らされた「本当の神様」に心を向け(悔い改め)、「神の国の福音」を受け入れて、新しい「神の国の民」として歩むように神様から求められているのです。私達は、復活のイエス様によって御自分を啓示なさる神様から大きな恵みを受けているのです。

4月23日の説教要旨 「主の復活の証し」 牧師 平賀真理子

詩編16311 使徒言行録132631

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、ルカによる福音書の続編と言われる「使徒言行録」から与えられました。この書の1章3節からは、主が復活されて40日間も弟子達に現れたと書かれ、続いて、主の昇天が記されています。そして、2章では、ペンテコステ、つまり、主が約束なさった「聖霊降臨」が本当に起こったと証しされ、直後に、イエス様の一番弟子のペトロが説教したとあります。イエス様が救い主としてこの世に来られ、十字架と復活の御業によって、人々の罪を肩代わりしてくださったこと、このことを信じる者達が救いの御業の恵みをいただけるようになり、神様と繋がることができるようになったとペトロは説教しました。

 もう一人の重要な弟子パウロ

使徒言行録では、8章までは、だいたい、ペトロを中心とした使徒達が福音を告げ知らせて、主の恵みを拡げていったことが証されています。そして、9章になって初めて、サウロ(後のパウロ)と呼ばれる人と、復活の主との出会いが書かれています。パウロは、イエス様の教えは間違っていると思い、弟子達を逮捕する任務の途中で、主からの呼びかけを受けて180度の方向転換=回心し、今度はイエス様こそ約束の救い主であり、福音の素晴らしさを人々に伝える使命を果たしていくようになります。しかし、それまでのパウロの考えや動きを知っていたユダヤ人達は、信じられずに、パウロの命を狙うようになり、宣教活動を控えなければならなくなりました。再び、パウロの活動が記されるようになったのが13章からです。しかも、アンティオキア教会の指導者の中に名前が挙げられています。彼らが礼拝し、断食していると「バルナバとサウロを選んで派遣する」という聖霊のお告げがありました。

 ビシディア州の町アンティオキアのユダヤ教の会堂で

パウロの第1回目の宣教旅行が始まりました。今日の聖書の箇所は、ビシディア州のアンティオキアという町のユダヤ教の会堂で、パウロが話したことの一部です。恐らく、会衆のほとんどがユダヤ人だったことでしょう。パウロは、ユダヤ人の歴史を述べて、神様に選ばれた民としての誇りを会衆に思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 「救いの言葉」=「十字架にかかり、復活なさったイエス様」

26節の「この救いの言葉」とは、「十字架と復活」という救いの御業を成し遂げたイエス様のことを指しています。イエス様が、ユダヤ人達の歴史の中で預言として語られてきた「救い主」であることをパウロは懸命に証ししようとしていると感じられます。「救い主」と言えば、ローマ帝国の支配を終わらせ、自分達の国を作ってくれるような政治的リーダーをユダヤ人達は求めていたのですが、預言は、実は、そのように語ってはいなかったのです。預言では、「救い主」は「栄光の主」というよりも「苦難の僕」の姿を取る御方であり、それが、まさに「十字架にかかったイエス様」であったとパウロは述べています。

 「復活したイエス様が自分に現れてくださった!」

人間の知恵の範囲ではつまずきでしかない「十字架にかかる救い主」が、実は、敗北でなく、神様のご計画であり、その御計画を実現させたイエス様に対して、「復活」という栄誉を父なる神様が与えてくださったとパウロは語っています。この当時、復活のイエス様に出会った人々が数多く生き残っていました。Ⅰコリント書15章では、そういう人が使徒以外にも500人以上いたと証しされています。キリスト教を広める役割をした人々の多くは、恐らく、死んだイエス様が復活して「自分に現れてくださった!」と大感激したのでしょう。「この世の常識ではありえない、凄いことが我が身に起こった!もう否定できない!イエス様が約束してくださったこと、預言されていたことが我が身に起こった!」彼らの喜びは本当に大きいものでした。彼らのように、自分の理解を越えたことが我が身にも起こると受け入れる人々に信仰は与えられるのでしょう。キリスト教では、別の言い方もします。その人々に「聖霊が降った」のです。

 私達一人一人の人生に現れてくださる「復活の主」

神様が私達一人一人に聖霊を送ってくださるのですが、私達がしなければならないことは、神様から送られた「この救いの言葉」=「イエス様」を、私の「救い主」として信じたいという願いを持ち、そのように神様に祈ることです。実は、復活したイエス様は、私達一人一人の人生に現れてくださる御方です。

6月5日の説教要旨 「約束の聖霊を受けた人々」 牧師 平賀真理子

イザヤ571419・使徒言行録23742

 はじめに

ここ(37節)で書かれている「人々」とは、エルサレムに住む住民で、「聖霊降臨」の物凄い音や振動に驚いて集まって来た人々です。この「人々」は、その後、信徒達に「炎のような舌」が分かれ分かれに降るのを見、また、信徒達が聖霊から力を与えられて外国語で「神の偉大な業」を語るようになった、ペンテコステの出来事を目の当たりにしました。それに続いて、イエス様がお選びになった「使徒」の代表であるペトロが行った説教を聞くことになった人々です。

 ペトロの説教を聞いて受け入れた人々

人間的な弱さのあるペトロですが、この時の説教の第一部(14-36節)によって、「人々」に、救い主イエス様を十字架に付けた責任を痛感させ、彼らがイエス様に対して変わらなければならないことを理解させることができました。これはペトロ個人の力というよりも、聖霊の御力をいただけたからだと言えるでしょう。「人々」は、それ以前には指導を仰ぐことになるとは思ってもいなかった「ナザレ人イエス」の弟子達に対し、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問い、それに答えて、ペトロは、イエス様を救い主として理解できた人が次に行うべき行動を指導しました。

 悔い改め、イエス・キリストの名による洗礼

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)というのが、ペトロの答えであり、主の約束でもあるのです。「悔い改める」とは、一言でいうなら、「心を入れ替える」です。更に詳しく説明すると、「神様なしで生きてきたこれまでの生き方を、神様を心の中心に据えた生き方に180度方向転換すること」です。38-39節で言うなら、イエス様の本当の価値を知らずに生きてきて、(積極的でなかったにせよ、)イエス様を十字架で殺す側にいた「人々」に対して、イエス様を無視したり、心の中で否定したりして、自分の好き勝手に生きるのをやめて、イエス様の本当の価値を理解して、その御方を心の中心に据える生き方を今すぐ始めなさい。」と勧めているわけです。

ペトロの説教(第一部)で語られたように、イエス様は神様によって救い主とされた御方であり、死から甦って復活された御方であり、更に、約束された聖霊降臨に至っては、弟子達だけでなく、ここに書かれた「人々」も証人とされました。この「人々」は、もうイエス様を知らないと言って生きていくことはできません。神様のご計画によって彼らの多くが、救い主イエス様の本当の価値を知り、更に、その救いの恵みを受けることが゙許されていることを知らされました。「イエス・キリストの名による洗礼」とは、神様と人間を隔てていた「罪」を、イエス様の十字架の贖いによって、取り除いていただくものです。「主の御名による洗礼」を受けることで、神様から「御自分の民」として認められるのです。

人間は、イエス・キリストの名による洗礼を受けて、罪を赦されることになり、神様とつながることができるようになります。その結果、神の霊である「聖霊」を受けて、神様の御用のために働くことを喜びと感じるように変えられていきます。神様につながるようになれることや神様の御用のために用いられることを喜べるようになるには、多くの場合、信仰の成長が必要です。信仰の目が成長していなければ、聖霊の助けを受けていると気づくことが出来ないからです。逆に言うと、自分の身に起こっている聖霊の助けをもっと知って、更に喜びに満たされるために、信仰の成長を求めていきたいものです。

 主が招いてくださる者ならだれにでも

39節には、イエス様が切り開いてくださった新しい考えを読み取ることができます。それまでは、神の民として神様が選ばれたユダヤ民族がまず救われるという考えが支配的でしたが、ユダヤ民族でなくても、イエス様を救い主として信じさえすれば、ユダヤ人でない「遠くにいる人々」も、イエス様によって同じように救われて、主が招いてくださる「神の民」となれることが示されています。

「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)というペトロの勧めには、「人々」がイエス様につながり、本当の意味で救われてほしいという愛が溢れています。

 「初代教会」が大事にしていたこと

こうして、エルサレムで最初の教会「初代教会」が生まれ、「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと(聖餐)」「祈り」が大事にされました。私達もこれら全てを網羅する「礼拝」を第一に生きる信仰者へ成長できるよう、祈り求めましょう。

5月22日の説教要旨 「使徒ペトロの説教」 牧師 平賀真理子

詩編16711・使徒言行録222243236

 はじめに

今日の箇所の直前には「ペンテコステの出来事」が記されています。

「イエス様を信じる者達が心を一つに集まっていると、聖霊が降った。それはイエス様が事前に約束されたとおりだった。そして、聖霊を受けた者達は、自分の知らない外国語で、神の偉大な業を語っていた。」のでした。その「神の偉大な業」という話の内容は具体的に何だったのか、それが、今日の箇所「ペトロの説教」に集約されていると思われます。

 預言されていたとおりの「聖霊降臨」

自分でもわからない外国語で信徒達が語っているという現象は、酔っ払いの戯言ではなく、旧約聖書のヨエル書で神様が預言者を通して預言してくださったことの実現であり、それが本当に起こっているのですよ、そして、それには大きな意味があるのですよとペトロは説明していくのです。

 「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」(22節)

このペトロの説教の聴衆は、エルサレムの町に住んでいて、「聖霊降臨の出来事」に驚いて集まった人々です。彼らの多くが、イエス様を「ナザレの人イエス」と呼んでいました。病人の癒しや自然現象を越えた奇蹟等、人間の力ではありえない、神様の御力をいただかなければできない出来事を数多く行い、噂になっていた御方です。それを妬んだユダヤ教指導者が政治的権力を持つローマ人に訴え、イエス様を十字架に付けたことも聴衆の多くが知っていたはずです。十字架の時に起こった様々な不思議な出来事もよく知られていました。でも、それだけではありません。

 「神はこのイエスを死の苦しみから解放し、復活させられました」(24節)

24節は、神様が愛する者を死の世界に閉じ込めたままにしない(「復活」)と述べていますが、それを詩編16章10節から裏付けています。この詩は、ユダヤ人達が敬愛するダビデ王が神様に向かって謳った詩です。詩編16章10節では「わたしの魂を陰府(死者の行く世界)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」となっており、それを引用した使徒言行録2章27節では、「わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」となっています。どちらの方も、ここで謳われた「わたし」が誰なのかが問題です。ペトロが話したように、ダビデ王の詩とはいえ、ダビデは死んでお墓もあるので、この詩の「わたし」には該当しません。それが、ダビデの子孫でもあったイエス様を指しているとペトロは説明しているのです。だから、イエス様は、ユダヤ人が敬愛するダビデ王が預言した「神様が復活させてくださった方」なのだとペトロは語ります。そして、この説教前に立ち上がった使徒達(2:14)は、復活の主に40日間出会い、教えを受けたことも事実だ(1:3)と証しできるとペトロは彼らを代表して堂々と語ったのです。

 十字架、復活、そして高挙

33節にあるように、十字架に付けられた主は、死の世界に勝利して復活されただけでなく、神がおられるという「天」に引き上げられ、神の右に座られています。これを「高挙」と言います。天に高く挙げられたのです。だから、神の霊である「聖霊」を父なる神様から受けて信じる者達に注いでくださることができるのです。

(「高挙」は、ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録で特に明確にされています。)

 「あなたがたが十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさった」

ペトロの説教の結びの36節の御言葉を通して、人間の罪深さにもかかわらず、それでもなお、神様は人間を救おうとしてくださっている、そのような神様の愛の大きさとその御業の確かさを思い起こすことができると思います。その救いの御業とは、具体的には、イエス様の宣教と十字架と復活と高挙ですが、その先には、イエス様を信じる者達に聖霊が注がれて、自分では思ってもいない力が与えられるという望みを感じることのできる説教だと思います。

 聖霊を受けた後に「使徒」にふさわしい説教をするように用いられたペトロ

この説教をしたペトロは、人間的な考えによって様々な失敗をして、イエス様から度々指導を受けた人物として、福音書に記されています。生前イエス様が、そばに置いて、宣教できるよう教育し、この世の悪霊を追い出す権能を授けようと「使徒」に選ばれたのですけれども、聖霊を受けた後になって初めて、ペトロは「使徒」にふさわしい説教ができたと示されています。聖霊を受けると、このように、自分を越えた所で神の御業の一部を担わせていただく働きに用いられます。私達も「使徒」の流れの中に置かれる者達です。「使徒」に倣い、聖霊を受けて神の御業のために用いられるよう、聖霊の助けを更に祈り求めましょう。

5月15日の説教要旨 「約束の聖霊が降る」 牧師 平賀真理子

 はじめに

今日はペンテコステ礼拝の日です。「ペンテコステ」とは「50番目の」という意味で、ユダヤ人が大事にしていた過越祭の50日後に当たる五旬祭のことを指します。私達イエス様を信じる者達が思い出すべきことは、約2千年前の過越祭の時に、イエス様が十字架にかけられて亡くなったことです。そして、その時の五旬祭の時に、今日の新約聖書箇所の「聖霊が降る」出来事が実際に起こったのです。(そして「教会」が誕生しました!)

 重要なことを前もって教えてくださる「主」

イエス様は、御自身が苦難の死の果てに復活なさることを、事前に預言されたと4つの福音書に共通して記されています。重要な出来事について、イエス様は弟子達に前もって教えてくださった御方です。そして、御自身に起こる出来事だけでなく、御自分がこの世を去った後の弟子達に起こる出来事「聖霊降臨」も、預言してくださったのです。神様は、お選びになった人間に重要なことを事前に預言される特性をお持ちです。

 「聖霊降臨」についての預言

ヨハネによる福音書14章に、イエス様から弟子達へ「聖霊降臨」の預言がなされたことが記されています。十字架にかかられる直前に、イエス様は、御自分の定めを知り、御自分がこの世を去った後には、弟子達は「聖霊」という神様からの霊によって守り導かれると教えてくださっていました。生前のイエス様だけでなく、十字架に付けられた後、3日目に復活されて、40日間弟子達を教え導いた「復活の主」も、やはり「聖霊が降る」ことを弟子達に預言してくださっていました。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる。」(使徒言行録1:5)

 「聖霊が降った」様子

イエス様の弟子達の上に、主の預言どおりに約束された聖霊が初めて降った、それが「ペンテコステの出来事」です。

今日の箇所は、心を一つにして祈っていたと思われる弟子達に、本当に聖霊が降った出来事について述べています。まず、激しい風が天から吹いてくるような音と表現されています。そして、その音が弟子達の居た家中に響きました。その後は、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)と書かれています。人間の様々な感覚を使って、神様が起こしてくださった「聖霊降臨」の出来事を伝えたいという思いが込められています。

 「舌」に含まれる意味

聖霊が降る様子の核となる言葉が「舌」ですが、この言葉は、「言葉」とか「国語」という意味もあります。そのような「舌」が、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)とは、一人一人がそれぞれに与えられた国の言葉で、聖霊によって、神の偉大な業を語るようになることを暗示しているとも読み取れます。

 「聖霊降臨」の証人とされたエルサレムの人々

当時の国際都市エルサレムの多くの人々は、天からの大きな音に驚き、「聖霊降臨」が起こった家に集まって来て、「ナザレ人イエス」を信じる者達が自分の故郷や暮らしてきた地域の言葉で話しているのを目の当たりにしました。彼らは、聖霊が降った弟子達が語る言葉が、意味のない「外国語の音マネ」ではなく、神の偉大な業を証しする福音であるとの内容を聞き取って証明する「ペンテコステの出来事の証人」とされたのです。

 神の偉大な業を肯定的に受け取ろうとする人々と否定的に拒否する人々

この出来事の証人とされた人々は2つのタイプに分かれたことが書かれています(12-13節)。天からの出来事としか思えない出来事を体験して、それを真剣に受け止めようとする人々と、自分の考えの範囲を変えずに、体験したことを誤解だと否定する人々です。約2千年前のこの時だけでなく、福音を聞くことになった人間の反応は、いつの時代にも、このように2つに大別されます。

 聖霊降臨の直後に起こることは、神の偉大な業を語ること

今回、特にお伝えしたいのは、聖霊が降った信仰者にまず起こるのは「神の偉大な業を語ること」だということです。強制的に語らせられるのではなく、内側から語りたいという熱意によって喜んで語るようになるのです。弟子達が自分の能力では話せなかった外国語で福音を語ったことは、聖霊により、自分の能力を超えた範囲までに用いられるようになることを示しています。私達も聖霊をいただいて神様の偉大な業を語る恵みを受けるために、神様に心を向けて祈り、御言葉を蓄える学びを続けられるよう、更に聖霊の助けを祈り求めましょう。