エゼキエル書34:7-16 ヨハネ福音書10:7-18
はじめに
今日の新約聖書の箇所は、キリスト教会では有名な箇所の一つで、イエス様が御自分が良い羊飼いであると証しされています。それも重要ですが、読み返すと、それ以外にも大変重要なことが語られていることがわかりました。そのことをお伝えしたいと思います。
前の9章を受け、「羊の囲い」(1-6節)の例えを理解する
10章から読み始めると、いきなり「羊の囲い」の話が始まり、この1-6節の段落の話を受けて、今日の箇所の7節からは「羊の門」や「羊飼い」という言葉に続きます。イエス様は、「羊の囲い」に入る時に「門」を通らないでほかの所を乗り越えて来る者を、「盗人」や「強盗」とおっしゃいました。が、これは例えです。「盗人」「強盗」とは、その前の9章に書かれている「ファリサイ派の人々」を例えたものです。
9章では、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒して見えるようになさった出来事を通し、ファリサイ派の人々が、その明白な事実を、頑なに否定しようとする様子が記されています。彼らは、イエス様の癒しの御業が神様からの御力をいただいた結果だと認めるのは、イエス様が神様が遣わされた御方だと認めることになると知っていました。だから、癒された本人が「あの方は神のもとから来られた(9:33)」と証ししているにも関わらず、ファリサイ派の人々は、証言者の人格否定をして(9:34)、この証しも否定しました。ファリサイ派はユダヤ教指導者として、ユダヤの民衆(羊と例えられる)を導く使命を神様から与えられているはずなのに、彼らは、民衆を慰めたり導いたりすることに留意せず、弱い立場の人を助けずに無視し、民衆からは利益や尊敬を搾取することだけを主眼にしていたのです。それは、当時の宗教指導者だけの過ちではなく、昔から「牧者」と例えられる宗教指導者が犯してきた罪の姿だと、今日の旧約聖書の箇所からもわかります。ファリサイ派の人々は、民衆を神様に導くはずなのに、自分の方へ導こうとしていました。その姿は、「本当の救い」をもたらすためにこの世に来られたイエス様から見れば、「盗人」「強盗」と同じだったのです。「羊の囲い」とは本当の神様から全権委任されたイエス様の「救いの枠」、または「神の国」とも言えるでしょう。
「羊の門」を入った羊(人々)が「良い羊飼い」(イエス様)に導かれる
イエス様は御自分のことを「羊の門」であり、「良い羊飼い」であるとの2種類の言葉で御自分を再び゙例えようとなさいました。「羊の門」とは、具体的には、イエス様を救い主として受け入れることで、神様の救いを受ける基準を満たすことを表しています。「わたしを通って入る者は救われる(9節)」とあるとおりです。また、正しい門から入った羊だけが、牧草を見つけて豊かに生きるとは、イエス様の本当の救いに与る者だけが、神様から永遠の命をいただけることを意味しています。更に、イエス様は、御自分を表現なさるのに「羊の門」という「基準」を表す、旧約的な例えだけでは足りないと思われたのか、「羊飼い」という例えも重ねられました。これは、羊を所有する羊飼いなら、羊の命が危険な時は、自らが自分の命を懸けて羊を守る姿を例えたもので、「良い羊飼い」とはイエス様が、神様から救うべき人々を託され、命を懸けて愛する御姿の例えです。(一方、雇われ羊飼いは、責任を持っていないので、羊の命よりも自分の命を優先すると言われています。ファリサイ派の人々の例えです。)
十字架と復活の告知がここにも!
「良い羊飼い」の箇所で、今回の発見の最大のものは、17-18節に「主の十字架と復活」が告知されているということです。イエス様が御自分の命を、再び受けるために、捨てること、それ故に父なる神様がイエス様を愛してくださり、再び命を受けることが、主の御言葉として述べられていて、「十字架と復活」の別の表現がなされていると改めて認識しました。新約聖書の大事な使信がここにもあると驚かされ、感動しました。
「囲い」に入っていない ほかの羊も導かなければならない(16節)
最後に、16節から、イエス様が救いたいと願う人々がユダヤ人だけでなく、全世界にいるのだとわかります。主の熱意を受け継いで、私達一人一人が福音伝道に励むようにとの、イエス様からのメッセージが送られています!そのために主によって用いられたいと祈り求めましょう。