2021年7月18日の説教要旨 創世記21:9-21・ロマ書9:19-28

「全てのものの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

アブラハムは、神様の前に正しい人でした。神様はアブラハム祝福し、彼の子孫も祝福することを約束されました。けれども妻サラには長い間、子供が生まれなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムの側女としました。ハガルはイシュマエルという男の子を産みました。しかし神様はアブラハムに、「あなたの妻サラが、あなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」と言われて、サラから生まれる子供が、約束の子供であることを告げました。

*アブラハムから生まれたイサクとイシュマエル

 そしてアブラハムとサラに、主によって約束された子供・イサクが与えられます。子供が与えられることは私達を笑顔にさせてくれますが、この出来事は、イサクが乳離れをした頃に様子が変わります。サラはイシュマエルがイサクをからかうのを見て、アブラハムにハガルと息子を追い出すように願い出ます。アブラハムはこのことで苦しみましたが、神様はアブラハムに「苦しまなくてもよい。アブラハムの子孫はイサクから出る者が継ぐ。イシュマエルも一つの国民の父とする。」と、約束されました。

*ハガルと息子

 アブラハムは翌日の朝早く、パンと水の革袋をハガルに与えて息子と共に送り出しました。ハガルは荒野をさまよい水が無くなると、子供を灌木の下に寝かせ、自分は少し離れた所で死を覚悟して座ります。神様は子供の泣き声を聞き、天から御使いを遣わしてハガルに呼びかけます。「行ってあの子を抱き上げ、しっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と伝え、ハガルの目を開き、水のある井戸を見つけさせたので、彼女は窮地を脱しました。こうして神様が二人と共におられたので、彼は成長し、母ハガルはエジプトからイシュマエルの妻を迎え、イシュマエルは、イスラエルとは異なる民族の祖となったのでした。

*パウロの悲しみと痛み

 ロマ書の著者パウロは、同胞であるイスラエルの人々の魂の救いを心から願っておりました。9章2節には「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」とあり、パウロはイスラエルの人々の 少数の人だけがイエス様を信じて受け入れ、他の人々はイエス様を信じようとしなかったことに心を痛め、悲しみの感情に捉えられています。イエス様はイスラエルの人々の神であり、主であられます。イスラエルの人々には、神の子としての身分や律法、約束などが与えられており、肉によればイエス様も彼らから出られました。

しかし6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない」とあるように、アブラハムの子孫だからといって皆が神様との正しい関係にあることの保証にはならないことを本日の聖書箇所 <焼き物師と粘土の関係> を通して教えています。

*「怒りの器」から「憐れみの器」へ

 焼き物師と粘土の関係を考えればわかるように、「すべてのことは器を造る造り主に権限がある」(21節)こと、私達は本来「怒りの器」として滅びることになっていた(22節)にもかかわらず、神様は寛大な心で耐え忍ばれ、それも、「憐れみの器」として栄光を与えようと準備しておられた者達に、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためだと語ります。

*焼き物師と粘土(ねんど)

 「造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるだろうか」(20節)と、焼き物師である神様には造り主としての用途があることを示します。神様は人を不当に扱うことはなさらず、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言われます(15-16節)。滅びゆく道へと歩んでいた私達は、「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより、無償で、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:21-24)をいただいた、神様に造られた者達です。 この神様に信頼を置き、神様の示される道を今週も進んで参りましょう。

2021年3月21日の説教要旨 創世記25:29-34・ロマ書8:1-11

「我を生かす神」     加藤秀久伝道師

*はじめに

イサクとリベカは神様の導きによって結ばれた2人でしたが、なぜか20年間、子供は与えられませんでした。イサクはリベカに子供ができなかったので、「リベカのために主に祈った」と、創世記25章に記されています。神様はこの祈りを聞き入れて下さり、リベカは双子の男の子を産みました。最初の子供は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったのでエサウと、次の子供には、エサウのかかとをつかんでいたのでヤコブと名付けられました。

*エサウとヤコブ

 子供達は成長してエサウは狩りが上手だったので野の人となり、ヤコブは穏やかな人なので天幕に住んでいました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。リベカは、子供達がリベカのお腹にいた時、胎内で子供達が押し合うので主の御心を尋ねるために祈りました。その時、主はリベカに、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」と言われました。リベカはその言葉を忘れず、ヤコブを陰ながら支え、ヤコブに愛を注いでいたことが想像できます。

ある日、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れ切って野から帰って来てヤコブに頼みました。「お願いだ、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっている!」と。ヤコブはエサウに「先ず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と言いました。エサウは、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答えると、ヤコブは「では、今すぐ誓ってください。」と言ったので、エサウはその誓いを立ててしまいました。エサウはヤコブに、いとも簡単に長子の権利を譲ってしまいました。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじてしまったのでした。

*わたしたち

 私達も、自分の心の思いや肉の欲望が強くなると、エサウと同じように周りのものが見えなくなり、我を忘れ、本来、大事にしなければならないものをいとも簡単に捨てることが出来てしまうという弱い姿を、自分の中に見つけられるのではないでしょうか。

キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない

パウロは7章で、神様を知れば知るほど、神様の正しさの中で生活をしたい、神様の霊が働くところにとどまりたいと願いつつ、その思いの一方で、昔の自分の思いや経験した出来事が邪魔をして、正しい道を歩めず、行き先が定まらない、弱い自分があったことを告白しています。

 しかし本日の御言葉の始まりには、今迄 肉に従っていた私達がイエス・キリストというお方に出会い、イエス様を知りイエス様に結ばれることによって罪に定められることはない、とあります。すなわち私達が神様の律法を行うのではなく、イエス様を信じる信仰によって私達の心に霊がやどり、聖霊の導きによって神様に仕えることが出来、勝利の道をイエス様と共に歩むことが出来ると教えています。「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる(4節)」のです。

*ざんげの祈りと、罪の赦し

神様を信じる者とされても、尚、日々の生活の中で無意識に行ってしまう罪もあります。それらの罪を赦していただくために、私達は毎週の礼拝の中で「懺悔の祈り」を捧げます。この祈りを祈ることで罪が赦され、心が洗われて新しい週を始めていくことが出来るのではないでしょうか。私達の祈りに対して神様は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われます。イエス様は裁くためにではなく全ての人の心にある悪い行い(偶像礼拝、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などの肉の思い)から離れさせ解放するために、この世へと来られました。神様は、神様が私達人間に用意されている「霊の支配下」(9節)で、神様に守り導かれて歩んでほしいと望んでおられます。今日ここに、十字架にかかり、死に勝利されたイエス様がおられます。このお方を心に招いて信じて一緒に歩む決心をした者には、神様は、神様の力と霊を与えて下さいます。今週一週間、神様が皆様と共にあり、皆様の足を強めて下さるようにお祈り致します。

2020年5月10日の説教要旨 創世記2:18-25 ヨハネ福音書2:1-11

「婚礼での奇蹟」   加藤秀久伝道師

*はじめに

神様は、初めに天地を創造され、人を土のちりから造り、その鼻に神様からの命の息を吹き込んで人は生きるものとされました。命の息が神様より直接吹き込まれたことにより、人は他の生き物と違って特別に造られたこと、神様のかたちに似るように造られたことが記されています。

神様はエデンに園を設け、人を住まわせ、耕し守るようにされました。また神様は「人が独りでいるのは良くない」と、彼に合う助け手として彼のあばら骨の一部から女を造られました。それゆえ男は妻と結ばれ、二人は一体となりました。神様は天地創造の初めから、男の人と女が夫婦になることを定められました。このことは世界における結婚の始まりであり、結婚は、神様が定めて下さった祝福の一つであることを知ることができます。しかし創世記3章以下には、この最初の結婚も神様と人間との関係も、エデンの園での悪魔の策略により破壊されたことが記されています。<悪魔の攻撃は今も続いています>。破壊された神様と人間の関係の回復こそが、聖書全体に貫かれている神様の御心であり、このご計画を完成させるために「不思議」と「しるし」と「奇蹟」が行われているといえます。

*カナの婚礼での奇蹟・・ヨハネによる福音書2:1-11

 今日の箇所は、イエス様の、神様の御心を示す最初の奇蹟でした。ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、イエス様の母マリアは助け手として招かれ、イエス様と弟子達も招待されていました。当時イスラエル地方の婚礼の披露宴は一週間も続き、又、申命記24:5では「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。」とあります。イエス様の時代の婚礼も、このような神様の祝福に溢れるものであったに違いありません。ところがお祝いの席の途中でぶどう酒が切れてしまいました。途中でぶどう酒が無くなるのは、喜びや楽しみ、神様の祝福がなくなってしまうようなことでした。皆さんでしたらこのピンチをどう回避しようとなさいますか?

*マリアの対応

マリアはこのことを知り、その家の人にではなく、来客の一人としておられたイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。

イエス様は「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは「公の場にわたしがキリストであることを現わす日は、まだ来ていません。」との意味を含んでいましたが、マリアは召使い達に「イエス様が言う事は、何でもその通りにして下さい」と言いました。

*イエス様のなさったこと

イエス様は召使い達に「水がめに水を満たしなさい」と言われました。水がめは6つあり、一つの水がめには80ℓ~120ℓの水が入りますので、水がめを満たすには2ℓ入りボトルに換算すると360本分位必要です。それは大変な労力が必要で、何度も井戸に水を汲みにいかなければならなかったはずです。水がめが一杯になったのをご覧になったイエス様は、その水を汲んで世話役のところへ運ぶように言われました。世話役は、いつの間にか最高に美味しいぶどう酒に変わっていた水の味見をしました。この出来事を目の当たりにした弟子達は、イエス様を信じました。イエス様の凄さ、偉大さ、素晴らしさを体験したからです。

*神様は私たちにも・・・

私達は、このようなイエス様のなさった奇蹟を体験しているでしょうか。イエス様は、ただの水をぶどう酒に変える力を持っておられます。時に私達は困難な出来事や問題が、空から降ってくるように、又、隣の人から投げつけられるような形で突然に起こります。特に家族や親族や友人から与えられた問題には心が痛み悩むものです。しかしこのような試練がある時こそ、御言葉に帰り、神様に祈り、静まり、委ねることが大事であり、神様に、その問題を明け渡すことが必要です。「あなた方の会った試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(新改訳聖書Ⅰコリント10:13)

2020年3月1日の説教要旨

 創世記28:10-22・ヨハネ福音書1:43-51

         「最初の弟子たち②」    平賀真理子先生

*はじめに

 前回、1か月前の礼拝説教で、今日の箇所の直前をお話しました。その時、主の本当の弟子として招かれた者は、主の許に留まり続けることを期待されていると話しました。今日の箇所では、主の許に留まり続けた結果、どうなるのかが示されています。共に読み進めてまいりましょう。

*新しく加えられた弟子たち ―フィリポとナタナエル―

 今日の新約聖書箇所の直前で、アンデレやシモンなど3人がイエス様の弟子となったと記されていました。続いて今日の箇所では、新たに2人の弟子が加えられます。フィリポとナタナエルです。フィリポは、他の3つの福音書にも名前が出ています。しかし、ナタナエルは、他の福音書では同じ名前は出ていません。ただ、常にフィリポの後に書かれている「バルトロマイ」と同じ人で、別の呼び名だろうというのが通説です。

*イエス様とフィリポとの出会い

 イエス様とフィリポとの出会いでは、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われ(43節)、フィリポはすぐに従ったようです。フィリポはナタナエルに対し、イエス様を「旧約聖書で預言された救い主である」(45節)と証ししました。短い時間でフィリポはイエス様を本当の救い主とわかるように、聖霊に導かれたのだと思われます。

 もう一つ特筆すべきことは、フィリポの言葉「来て、見なさい」(46節)です。実はこの言葉は、直前の段落の39節のイエス様の御言葉と同じだからです。一番最初の弟子となった2人に対して、イエス様が語った御言葉が「来なさい。そうすれば分かる。」と新共同訳聖書では訳されています。これは意訳で、原語では、イエス様の御言葉とフィリポの言葉は、同じ動詞が並べられています。単純に訳せばどちらも「来て、見なさい」です。フィリポはイエス様との出会いで「イエス様を救い主と信じる信仰」が与えられ、主と同じ御言葉を語る者に変えられているのです!主の弟子すべてに与えられる恵みの一つが示されているわけです。私達も、信仰によって、主と同じ御言葉を語ることが許され、そして伝道するように導かれると読み取れます。

*ナタナエルがイエス様の許に導かれる過程

 フィリポから「イエス様が救い主である」と聞いたナタナエルは、最初はイエス様の出身地ナザレを差別する意識から、フィリポの証しを信じる気持になれませんでした。けれども神様は人間の狭い考えを悠かに超えて御計画を実現なさり、ナタナエルを、イエス様の許に導きました。たとえフィリポの口を通したとしても、イエス様が語った御言葉の力が、ナタナエルを主の許に導いたと言えるでしょう。この後、ナタナエルの人生が激変するのです。

*イエス様とナタナエルとの出会い

 イエス様はナタナエルを見て、まず、「この人には偽りがない。」とおっしゃいました。「偽りがない」との言葉は「策略などを心に持たない」という意味があります。後にイエス様は、ユダヤ教指導者達の策略によって十字架に付けられるわけですから「偽りがない」は主に従う弟子にとって必要な性質です。また「いちじくの木の下にいる」(48節)とは、当時この地方の人々は、大きな葉をつけるイチジクの木陰で勉強していたとの史実から、ナタナエルがユダヤ教を熱心に勉強していたことを意味するというのが一般的な解釈です。自分の本性や過去の行動をまるで見ていたかのように言い当てられたナタナエルは、イエス様を「神の子、イスラエルの王」(49節)と言いました。これはユダヤ教では待望の「救い主」を意味する言葉です。ナタナエルは、ユダヤ教をよく学んだ者として、イエス様を救い主と信仰告白したわけです!

*「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

 「もっと偉大なこと」を、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りすること」と説明されました。創世記28章からも分かるように、苦難の道のりでも、主なる神様は、愛する者に天から働きかけてくださることを意味しています。イエス様のこの世の歩みは「十字架への道」であり、人間的には「偉大なこと」とは真逆です。でもこれこそ、父なる神様がイエス様に課せられた「偉大なこと」です。このことを主の弟子たちは理解して伝道することが、人生の本当の目的だと知らされているのです。

2019年8月4日の説教要旨

創世記3:20-24・ガラテヤ書3-23-29

「キリストを着ている」      平賀真理子

*はじめに

 福音書に書かれていて、キリスト教会が果たすべき役割は、「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることです。しかし、今日の新約聖書箇所であるガラテヤ書3:26に「あなたがたは、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」とあります。イエス様を救い主と信じる者が「神の子」であると宣言されています。「神の子」がイエス様だけでなく、私達信仰者一人一人も「神の子」と呼ばれ得るのだと言われていることに驚かされるのではないでしょうか。

*ガラテヤ書の著者パウロが直面した問題

この手紙が書かれた頃、著者パウロが悩まされた問題は、自分が去った後にガラテヤの信徒の群れに、ユダヤ人キリスト者(元々はユダヤ教徒で、後にキリスト教徒となった者)が入り込み、ユダヤ教の「律法」をユダヤ人でないキリスト者「異邦人キリスト者」にも守らせようとしたことです。彼らは当時のユダヤ教が教えていた「律法を実行するかしないかで信仰者を評価する」という方法を、キリスト教会にも持ち込もうとしました。異邦人伝道こそ自分の使命だと確信していたパウロは、その「律法」については「主の十字架と復活がもはや成し遂げられた後なので、『律法』の実行を要求される必要はない」と考えていました。しかし、パウロが去った後の教会では、ユダヤ人キリスト者の教えが広がりつつあり、パウロはそれを問題視したのです。パウロは「律法の実行から神の民が解放されたのは、救い主イエス様の救いの恵みである」と再び教えようとしています。

*現代のキリスト教会にもある問題

パウロの時代から約2000年経った現代では、「律法の実行」からは解放されていますから、パウロの方針は正しかったと歴史が証明しています。ただ、似たような問題が、現代の教会にも実際にあると言えると思います。一つは、福音よりも、福音に出会う前の基準(自分が慣れ親しんだ基準)を重要視する傾向です。世間の常識などに苦しんだにもかかわらず、主を見上げることを忘れると、私たちは元の考え方に囚われてしまいがちです。

もう一つは、「信仰」を目で見える形で評価しようとする傾向です。奉仕などは特にそうなりがちです。神様の前に祈り求めて与えられたものだから奉仕するのが本来の姿ですが、他人から評価されたいという思いから奉仕を行うのは、先のユダヤ人キリスト者と同じ罪を犯していることになります。神様の目よりも、周りの人間の目、または自分自身の思いを第一に据えるという罪です。

*「養育係」である律法から「救い主」の福音へ

 今日の新約聖書箇所に戻ると、パウロは「律法」を全く否定しているわけではなく、「律法」によって、人間は、神様の御言葉を守れない自分を認識させられると捉えているとわかります。それで、パウロは「律法」を「養育係」と表現しました。「養育係」と「救い主」の相違点は、前者が人間を裁くことはできでも罪から解放することはできないのに対し、後者は「罪の赦し」を人間に授ける権能がある点です。「救い主」だけが、人間の罪を赦し、そこから解放してくださることができるのです。イエス様は、私達人間の罪の贖いである十字架を成し遂げ、それを父なる神様も祝福して「復活」という栄誉を賜ったばかりでなく、そのことを救いの御業と信じる者にはすべて、罪赦されて「神の子」とされる恵みまでくださるのです。

*洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストを着ているゆえに「神の子」

パウロは、信徒の群れに「あなたがたは神の子」と言える根拠を、「律法を実行したから」ではなく、「洗礼を受けて、キリストに結ばれ、キリストを着ているから」(27節)と記しました。「イエス様は私の救い主です」と信仰告白して洗礼を受けられるのは、神様主導の選びと大いなる愛によって、その人が聖霊に導かれた結果です。元は罪ある身で生まれた者を、洗礼後は、キリストの愛と赦しが覆ってくださることを「キリストを着ている」と例え、それゆえに、罪ある人間が「神の子」と呼ばれることが許されるという恵みが語られています。

*「永遠の命」への道

今日の旧約聖書の箇所に関連して表現するならば、罪に陥って「神様の用意してくださった園」から追放された人間は、神様から「永遠に生きる者となってはいけない」と「永遠の命」の木の実に至る道をふさがれました。そのふさがれた道を通れるようにしてくださったのが、イエス様の十字架と復活の御業です。私達信仰者は「キリストを着ている」ゆえに「永遠の命に至る道」を通れるのです!

9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。

5月6日の説教要旨 「父なる神のもとに行く主」 牧師  平賀真理子

創世記18:23-33 ヨハネ福音書16:12-24

 はじめに

今日の新約聖書の箇所も、「告別説教」の一部分です。イエス様が十字架にかかる直前に、弟子達に向けて語られた「遺言」と言えます。

 

 告別説教の中で語られている「聖霊」

「告別説教」の中には、「聖霊」に関する教えがたくさん含まれています。「聖霊」については、「神の霊」と説明されることが多いですが、「告別説教」を読むと、「聖霊」は、イエス様が天の父なる神様のもとに帰った後、弟子達の所に来てくださる霊だと示されています。

 

「父なる神様のもとに帰る」(14:3、14:28、16:5、16:28)

間近に起こることに不安を抱える弟子達を前に、イエス様は、告別説教でずっと、御自分はまもなく「天」=御自分を派遣なさった「父なる神様」のもとに帰ると何度も教えてくださいました。実は、これ以前にも、同じことをイエス様は語っておられました。今回、そのことを示された箇所を拾い上げようとしたら、1章から告別説教に入る直前の13章までのほぼ全ての章で、御自分が天の父なる神様から派遣され、この世に来られたと教えておられました!その多さに驚かされました。

 

 天からこの世に来られたイエス様がなさること

 その中でも、1章51節の御言葉に注目したいと思います。ナタナエルとフィリポという弟子達に最初に会った時、イエス様は、「天が開け、神の天使たちが人の子(救い主イエス様)の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と語られました。これは、御自分が天から降ってきて、父なる神様の御心と交流して一致しながら、御心をこの世に実現すること、そして、身近にいる弟子達がその証し人となるとの預言です。主の歩み全てが天の父なる神様の御心のとおりであり、この直後の十字架と復活も、父なる神様の御心だと示されていると理解できるのではないでしょうか。

 

 「天の神様」に常に心を向けていたイエス様と全く心を向けない私達

 今日の旧約聖書の箇所では、信仰の祖アブラハムが、主なる神様に対して「神の義」を真剣に求めていたと読み取れます。アブラハムは「天」におられる神様に心を向けていたのです。さて、現代の私達はどうでしょうか。自分のことやこの世のことに夢中になりすぎて、「天の神様」を全く忘れてしまいがちではないでしょうか。一方、イエス様は、私達とは全く異なり、天の父なる神様からこの世に派遣されたことを常に主軸にして歩まれたことが、ヨハネ福音書全体に記されています。

 

 三位一体の神(御父と御子と聖霊の一致)

 今日の箇所の初めの部分で、イエス様は、弟子達への教えを途中で止め、弟子達に悟らせるという働きを「聖霊」に委ねました。「聖霊」が御自分と同様に弟子達を導くことができるとご存知でした。「聖霊」にどうしてそのような力があるのかは14節~15節に書いてあります。「聖霊」は、天の父なる神様と御子イエス様とは全く別の存在として勝手に考えて行動する存在ではない!と証しされています。天の父なる神様とイエス様が一体なので、その間で語られることは当然一致しており、それを、この世に実現させるものとして「聖霊」はこの世に派遣されます。御子イエス様は、従順なる十字架の死により、天の父なる神様から御自分と同格の存在として栄光を賜ります。そして、御自分と同じ性質や力を持つ聖霊を、弟子達に送る権威と力を賜ったのです。この説は、やがて「三位一体の神」と言われますが、これが、ある神学者によって打ち出されるまで数百年かかりました。神様が示された聖書の内容を理論的に分析するのに、人間の僅かな知恵では数百年かかるのです。

 

主の十字架と復活、そして昇天による恵み

16節~19節は、私達=後の信仰者は、弟子達が「主の十字架」による苦難の後、「復活の主」に出会い、誰にも奪われない喜びに溢れたことを指すと知らされています。主の預言が実現しました!更に、イエス様は弟子達に対し、御自分の名による祈りは全て実現すると語られました。なぜなら、イエス様の名を通す弟子達の祈りは、主の御心と一体であると証しされ、父なる神様が、聖霊を、この世への実現のために働くようになさるからです。これも、イエス様が「天」に帰られたことによる恵みであり、私達も弟子として同じ恵みをいただけることに感謝です!

10月29日の説教要旨 「信仰による義」 牧師 平賀真理子

創世記12:1-7  ローマ書3:21-26
はじめに
今日は、宗教改革記念礼拝の日です。特に、今年は宗教改革の口火が切られてちょうど500年目にあたります。今から500年前の1517年10月31日に、マルティン・ルターという人が、カトリック教会の教えに異を唱える貼り紙を、ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に貼り出しました。当時のカトリック教会では、「免罪符」を買えば、聖人の功徳をいただけ、買った人の罪を埋め合わせていただけると教えていました。それは間違っているとルターは冷静に抗議しました。このルターの主張を支持する人々は「抗議する」という意味の「プロテスタント」という呼び名で呼ばれるようになりました。私達の教会が所属する日本基督教団もその流れを汲むプロテスタント教会のグループであり、毎年10月31日に近い聖日を宗教改革記念礼拝日としています。
神様は「恐ろしい存在」⇒「人間を助けてくださる存在」
ルターは元々はカトリック教会の修道院の修道士でした。けれども、その中で教えられることを行っても、「神様は人を裁く恐ろしい存在」としか思えませんでした。まじめなルターはこのことに苛(さいな)まれました。ところが、この後、ルターは大学で神学を教えることになったために、聖書を研究することになり、その聖書の中にある御言葉によって、神様はただただ恐ろしい存在ではなく、「神の義」によって自分の助けを呼べる御方だと再発見したのです(参照:詩編31編2編や71編2節。但し、新
共同訳聖書では「恵みの御業」と意訳されているが、原語は「神の義」)。
次に、詩編103編10節では「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。」との御言葉を再発見し、神様の憐れみの大きさを知ったのです。
そして、更に、新約聖書のローマの信徒への手紙を研究し始めて、大きな発見に導かれました。それが1章17節です。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」「神の義」が信仰によって実現されるという御言葉によって、ルターは、神様への理解が、恐い存在から、恵み深い存在へと大転換しました。神様が人間を義としてくださる、人間はそれを受けるだけでよい存在とされていることへの安心感たるや、大変なものだったようです。「パウロ書簡のこの箇所は私には天国の門となった」とルターは証ししています。この「神の義」の恵みを聖書で再発見できたことで、ルターは信仰の勇者となり、これが宗教改革の原動力となったのです。
「神の義」
「神の義」については、前述の箇所以外にも、今日の箇所を含むローマの信徒への手紙3章21-31節や5章、また、ガラテヤの信徒への手紙2章15節-3章まで、いろいろ説明されています。
今日の箇所はローマ書3章21節から26節までとしましたが、ここで
まず押さえておきたい「神の義」を、聖書の後ろの「用語解説」での「義」の解説を参考にしながらまとめると、大きく分けて二つの捉え方ができると思います。一つは、聖書の神様の御性質の一つだということです。神様御自身がどんな時も正義や基準や法則や約束を守る御方であり、これを途中で投げ出なさい御方です。もう一つは「神の義の働き」を捕らえた説明ですが、聖書で言われる神様は決して堅物と言われるような御方ではなく、人間を御自分にふさわしい者に正しく導きたいと熱望し、そのとおりに行うことがおできになるということです。
これを「人間の罪」に焦点を当てて言うと、罪の虜となって自分では抜け出せない人間に対して、神様は人間をそこから脱出させ、次には御自分の目から「良し!」と言える存在に、人間を変えてくださる御方であるということです。そのために、神様が人間の罪を肩代わりして埋め合わす方法を取られたのです。それが、旧約聖書ではユダヤ民族の信仰を通して人間が救われる方法でしたが、これは、人間の罪によって完全な成就にまで至りませんでした。次に神様が考えてくださったのが、神の御子を人間としてこの世に派遣し、この御方の命を犠牲にして、そのことで人間の罪を贖うという御業です。つまり、イエス様の十字架上での死による贖いです。
「イエス・キリストを信じる信仰」
そして22節に、「イエス・キリストを信じる信仰」とありますが、ここで、イエス様の何を信じるかが問われていると思います。二つあると思います。まず、一つ目は「イエス様の十字架上の死は私の罪を贖うためである」と理解して信じることです。24節には、罪ある人間が「神の恵みにより無償で義とされる」とあります。イエス様の贖いの御業を信じる者には、神様は御自分にふさわしい存在として、御自分のお持ちになっている、良いものすべてを授けたいと願っておられるのです。良いもの、それは、例えば「聖霊」「光」「愛」等です。神様から義とされていれば、これらがいただけるのです。日頃の自分を顧みて、信仰をいただく前と変化がないのならば、何かが足りないと言えます。しかし、ここで自分であきらめてはなりません。良きものをいただけるように、神様にふさわしく成長できるように、希望を持って祈ることが必要です。私達はそれが許され、しかも、主の贖いによって私達は神様に繋がっているので、祈りは必ず神様に聞き届けられるのです。
さて、イエス・キリストの何を信じるのか、二つ目ですが、これは先述のルターが著作の中で記していますが、「キリスト御自身が語り給うキリストの言を信じる信仰」です。ルターは、更に続けて説明しています。
「どこかで、誰かをとおして語り給うキリストへの信仰である。キリストは、恐らく、ほとんどの場合、我らの考えも及ばぬ方法により、人を通し、どこかの場所において、そこで、その時に語り給うのである。」と。これは何を言っているかと言うと、イエス様の御言葉そのものを信じることも含みますが、「イエス様御自身が私達に何をしてくださったか、そして私達に何を求めておられるかを、聖書朗読や説教による説き明かしの御言葉を積極的に聞いて学ぶように努めなさい」ということだと思います。
人間の罪の重さとイエス様の十字架の贖いの重み
「神の義」の中で、神様御自身が「義」の法則を決して破らない御方だと申しました。それに神様が決して恐いだけの御方ではないことを話してきました。さて、神様御自身も守られたルールとは何でしょうか。それは、人間の罪を償うためには「犠牲の血」が要求されるというルールであり、これは決して変えられない厳然としたルールです。それほど、「人間の罪」の責任は重いのです。旧約の段階では、牛や羊といった獣の血でしたが、これは完全に人間の罪を贖えることはありえず、繰り返されました。だから、新しい贖いでは、一度きりの「神の御子の血」ですべての罪の贖いとなったのです。私達アジア人は、血の犠牲について実感としてあまり良くわからないかもしれません。だからこそ、私達はその重みを学び、その重い罪に対しての「主の贖いの重み」を知るべきです。
「主の言葉」に従う信仰者
「信仰」や「義」について想起するのは、創世記15章6節「アブラ(ハ)ムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」の御言葉です。同じ書の12章4節では、更に明確に書かれています。アブラハムは「主の言葉」に従ったのです。プロテスタントもこの原点に立ち返ったのです。私達は主の言葉の意味を深く知る信仰者として成長し続けられるように祈りましょう。

6月4日の説教要旨 「キリストはわたしの主」 有馬味付子先生(成増キリスト教会協力牧師)

創世記112  フィリピ書2111

 はじめに

本日はペンテコステ礼拝と仙台南伝道所の開設13周年記念感謝礼拝を献げる日です。大切な礼拝に用いていただき、感謝いたします。昨年伺った時は、この伝道所の最長老の佐藤博子姉が御存命でした。その十日後に博子姉は天に召され、今はこの世にはいらっしゃいませんが、博子姉の存在が確かにあると感じます。すべてのことは神様のご計画であり、「神のなさることは時にかなって美しい。」(コヘレトの言葉3:11・新改訳)という御言葉のとおりだと思います。

この伝道所は、神様が佐藤牧師に開拓伝道の思いを与えてくださり、皆様と一緒に形成されたのですが、その志と力を与えてくださったのは「聖霊」であり、皆様の後押しをしてくださるのも聖霊の働きなのです!

 ペンテコステ=ヘンテコなものを捨てる日

さて、ペンテコステは「ヘンテコなものを捨てる日」と、教会学校の教師から学びました。「ヘンテコなもの」とは、 人を憎む心・イエス様に従わない心・神様に反抗する心であり、別な言い方をすれば、「罪」とも言えます。「罪」は私達の心にへばりついていて、自分では決して捨てられません。それは、イエス様によって捨てられるのです。

 罪を悔い改めて、新しく生きる

「ヘンテコなものを捨てる」とは、「自分の罪を深く悔い改め、新しく生きる」ことでもあります。「悔い改め」をするには、「罪の自覚」が無ければ出来ません。「罪の自覚」をさせてくださるのも、「聖霊」のなさる業であり、この罪の自覚によって、人は洗礼へと導かれるのです。

「悔い改めて、新しく生きる」とは、「自己中心を捨てて、イエス様中心に生きる」ことです。イエス様に従うことで、罪の奴隷である自分から解放されるわけです。自分から解放される時、喜びに満ち溢れ、感謝の思いが沸き上がります。更に「平安」「安心」が与えられます。

 困難・艱難(かんなん)

とは言うものの、私達の主イエス様は十字架の道、即ち、困難・艱難を経験されましたから、イエス様に従う道では、困難・艱難が増えることになります。自分の好きなように生きるか、イエス様に従って生きるかが、自分の生活の上でも、また、色々な社会問題(貧困や差別問題、子育て等)でも問われてきます。

 聖霊による助け

イエス様に従う者は、困難な道、厳しい道を歩くことになりますが、しかし、聖霊による力づけ・助けをいただくことができ、必ず勝利します!なぜなら、イエス様は復活された御方だからです。そして、私達も主にあやかって、「復活する」=「永遠の命をいただける」ことが約束されています。

 聖霊が降ると「奇跡」が起きる

今日は聖霊降臨日ですが、聖霊を受けた弟子達は、語らずにはいられませんでした。そうして、男の数だけで3千人、女の数も入れると、たぶん6千人も、洗礼を受けることになったのです(使徒2:41)。それはまさしく「奇跡」です。聖霊を受ける時に、イエス様を信じる者は「奇跡」を起こせるのです!教会は「聖霊を受けた人、またはこれから聖霊を受ける人の集まり」です。

「聖霊を受ける」ことについては、「体験すればわかる」ものです。そして、それは、個人個人に働くだけでなく、イエス様の体である教会に働くと言えます。私達は、聖霊を与えられるように祈ることができます。

 「創世記」=イスラエルの人々の信仰告白

今日は、旧約聖書箇所として、創世記1章1-2節を読んでいただきました。創世記は、今から約2600年前に、イスラエルの人々がバビロニア帝国の侵略を受けて多くの指導者達がその都バビロンに連れていかれた時、多神教を信仰するバビロニア人と区別して、自分達のアイデンティティーを守るために記録した「信仰告白」と言えるものです。神が創造者であり、私達人間は造られたものであること、私達の命を支配なさっているのは神様であることを宣言しています。つまり、私達人間は神様の前に謙遜であるべきだと示しています。しかし、これが私達には難しいのです。ついつい思い上がって、自分が神になるのです!

 教会一致のために、利己心や虚栄心を捨てる

今日の新約聖書の箇所は、フィリピの教会に宛てて書かれたものです。この時、フィリピの教会では、問題が起こっていました。一つは、2人の婦人達が何かの勢力争いをしていたこと、もう一つは、偽教師が出現して、福音から人々を離そうとしていたことです。この教会分裂の危機的状況の時、パウロは牢獄に繫がれていて、フィリピに直接行くことができずに、代わりに手紙を書きました。パウロは「わたしの喜びを満たしてください」(2:2)と記していますが、これは、自分勝手な喜びでなく、イエス様を喜ばすことに留意するよう、熱望しています。教会の人々の思いが一つになることを願ったのです。この時、この教会が一つになれない原因が2つありました。一つは利己心(3節)=自己中心の心です。自分が正しいと考え、押し通そうとすることです。熱心のあまり、自分の思うとおりに教会がならないとやってられないと思う心でもあります。もう一つは虚栄心(3節)=人に尊敬されたい、または目立ちたいと願う心です。二つとも「自分が、自分が」という心ですし、「清められていない心」とも言えます。信仰者は自分が褒められるのでなく、神様がほめたたえられるように、教会に仕えていくことが求められています。

 教会一致のために必要な「謙遜」の源

そのために、私達には「へりくだる」=「謙遜」が求められています。自分は神様に造られた者であることを忘れないでいる必要があります。このように自分を低くできれば、他の人を上に置くこともできるでしょう。謙遜の逆の「傲慢」は罪の現われです。パウロは「謙遜」の源について、「イエス様が究極なまでに御自分を低くされたこと」を挙げています。イエス様は神の御子であられるのにもかかわらず、神の栄光を捨てて人間となられましたし、更には、「僕の身分」(7節)=奴隷の立場になられました。人間は誰もこれほどまでに謙遜にはなれないでしょう。

 「わたしの主はイエス・キリスト」

主の謙遜の極致の「十字架の死」は、神様のご計画ではありましたが、「この杯(十字架の運命)を取り去ってください。」と主は祈った後に、「御心のままに」と祈られました(ルカ22:42)。この従順ゆえに、神様はイエス様に「あらゆる名にまさる名」(フィリピ2:9)をお与えになりました。それは「主」という名です。「主」とは、神様・生きている者の支配者・所有者との3つの意味があります。「イエス・キリストは主である」が私達の信仰です。つまり「わたしの主はイエス・キリスト」なのです。

2017・3月19日の礼拝説教要旨 「交わりの回復」 佐藤 義子

創世記 127フィリピ2311

はじめに

今朝の聖書・創世記には「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。文語訳では「其の像(かたち)の如くに我ら人を造り」となっています。それで人間は「神の似姿」として造られたと言われます。キリスト教主義学校の聖書の教科書には「人間を見れば神を思わずにいられないような神との深い関係に創られている。つまり人は、機械のような神のロボットや物ではなく、神に『応答するもの』すなわち人格的な存在として造られている」と説明しています。神学者ニーバーは「計画し、創造する魂と、自由に選択する意志」を挙げています。創世記2章7節では、「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。「」と「」は同じ原語であることから、人間には「霊性」が与えられていることは良く語られるところです。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記されています。

「罪」が世界を変える

しかし、この世界に罪が入り込んだ時、神様が創られた世界と人間の、「極めて良かった」状況は失われていきます。神の「似姿」として創られた人間は、与えられた自由意志で、神様に従う道ではなく従わない道、つまり、神様の御命令よりも自分の欲望を優先させる道を選んでしまったことが、3章のエデンの園の出来事として記されています。それは、人間と神様との境界線(創造主と被造物の関係)を踏み越えてしまったということです。この神様への不従順は、神様を知らなかった時の 私達自身の生き方(自分が良いと思えば良い、という自己中心的な考え方)でもあります。今も多くの人々は神様を忘れ、無視し、人間中心主義の罪が 世界を覆っています。この罪ゆえに私達人間と神様との関係は、長いこと絶たれてしまいました。

修復への道

聖であり義であり愛である神様と、罪ある人間との断絶関係に終止符を打って下さったのは神様でした。本来なら、断絶の原因となった人間から願い出て、人間社会で行われているように「罪の償い」をして、罪の赦しを願い出るべきであったでしょう。しかし私達の罪(創造主の御意志より自分を優先させて生きる、神様をないがしろにしてきた罪)は、測り知れず、罪に見合った罰・・は、死罪のほかにあるでしょうか。神様は私達を愛するがゆえに、神様と私達との「交わりの回復」の道を用意して下さいました。しかし、「義」である神様の「赦し」の前提には、「罪の償(つぐな)い(贖(あがな)い)」がなければなりません。それがお出来になるのは罪のない方(他者の負債を負えるのは、負債のない者)だけなのです。

御子キリスト

ロマ書にあるように、人間には、「正しい者はいない。一人もいない。」のです(3:10)。罪のないお方は御子キリストしかおりません。神様の救いの御計画に対して、今日のフィリピ書では「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-11節)と伝えています。

教会の一致

パウロは今日のフィリピ書で、私達の教会が一つとなるためにイエス様の生き方を手本とするように勧めます。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(同2-4節)。 元神学校の学長は、「畏れをもって捧げられる礼拝こそが、初めに神が人間を創られた時の、神と人間との応答関係の基本的姿なのです」と言いました。私達はこれからも礼拝を第一とする信仰生活を続けていき、キリストを頭(かしら)とした キリストの体である教会の一員として、御言葉に養われつつ、キリストに倣って歩みたいと願っています。