2023年2月19日の説教要旨 詩編46編1-12・ルカ福音書9:10-17

「奇跡の中にある真実」     加藤 秀久牧師

*はじめに

イエス様の弟子達は、イエス様のそばにいて、イエス様の教えを聞き、イエス様の力ある御業を見てきました。本日のルカ福音書9章の初めにはイエス様が12人の弟子達を呼び集めて、「あらゆる悪霊に打ち勝つ力、病気を癒す力と権能(それをする資格)をお授けになった」こと、そして神様の国のことや、神様からの喜ばしい知らせを伝えるため、又、病人をいやすために弟子達を村々に送り出したことが記されています。弟子達はイエス様がお命じになったように福音宣教と病気のいやしのために働き、その後イエス様の所に戻って活動の報告をしました。イエス様はその報告を聞いてから弟子達だけを連れてベトサイダという町に退かれました。

*ベトサイダに退く

ベトサイダは、弟子のペトロとその兄弟アンデレ、およびフィリポの出身地でもありました(ヨハネ1:43)。聖書は、イエス様が「ベトサイダに退かれた」と表現しているので、おそらく群衆から離れて祈りや瞑想など、すべての働きの源となる力を神様から受けるために静かな落ち着いた、人里離れた場所を求めて移動したと思われます。

*弟子達の心配と、イエス様による奇跡の出来事

ところが群衆は、そのことを聞きつけてイエス様と弟子達を追いかけてきました。そこでイエス様は再び群衆を迎え入れて、神の国について語り、病をいやされました。しかし日も傾いてきたため、弟子達は今いる場所が人里離れているので群衆の食事や宿のことを心配し、イエス様に、群衆を解散させるように頼みました。しかしイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子達は、ここには5つのパンと2匹の魚しかなく、自分達が5千人ほどの人の食べ物を買いにいかなければならないと言いますと、イエス様は群衆を、50人位ずつ組みにして座らせ、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ました(16節)。

イエス様が、5つのパンを「裂いて」とありますから、祝福されたパンと魚を小さく裂き弟子達に渡される段階で次々と増えて、集まった群衆に十分過ぎるほどで、すべての人が食べて満足して、残ったパン屑が12籠もあったと記されています。このように、神様の国においては、神様からの祝福はすべての人々に必要な分が十分に満たされるほど、完全に与えられることを私たちは知ることが出来ます。

*詩編の「セラ」

 4節・8節・12節の下に、カッコで「セラ」とありますが、これは音楽に関する術語で、「休息、安息、休止」の意味の他、「上げる」という動詞から来た言葉とも言われています。1節で「指揮者に合わせて」とあり「」とありますから、それぞれの節を歌った後、休止して今、言い表された言葉の内容を、十分心に留める(味わう・吟味する)時を持ったとも考えられます。

 11節には「力を捨てよ、知れ わたしは神。」とあります。これは、静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」です。神様の祝福や恵みは、神様がおられる聖所にあり、そこには十分すぎるほどの霊の満たしがあります。私達は、神様のためにセラ(休み、リセット)の時間をとって、「手を留めて働くことから離れ、完全に休み、休息を取り、心を落ち着かせる」ことが必要です。それが生活の一部になり、生活習慣としての広い意味での安息、休息を得ることができるのです。

*わたしたち

 最近は、様々な情報がインターネット上で飛び交う社会になり、技術発達により、生活環境は大きく変化し、本当の真実は何か、誰を信じ、どの方向に目を向ければいいのかなど、社会状況は混乱しています。

私達に必要なのは、神様との時間を作るセラ(安息の日、休みを取る日、神様に献げる日、信仰を告白する日)の時です。イエス様の祈りと祝福は、群衆すべての空腹を満たしました。私達は忙しい毎日の生活から離れて、日曜日に、神様のおられる場所で神様との時間を作り、(困難な時はそれに代わる時間を定めて:マタイ6:6)、一週間の歩みを始めましょう。

2023年2月5日の説教要旨 詩編147編1-11・ルカ福音書8:4-15

「主イエスの種まき」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日のルカ福音書には、大勢の群衆が「神の国の言葉」を聞くためにイエス様のそばに集まってきたので、イエス様は群衆に向かってたとえを用いて語られたことが記され、そのたとえ話を終えられたイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた、と記されています。

 イエス様はなぜ、大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言ったのでしょうか。大声で言われるとは、呼びかける、繰り返し叫び続ける、訴え続ける、と言う意味が含まれます。

*イエス様は、誰に? 何を? (聞きなさいと言われたのか)

誰に?とは、直接には、「方々の町から集まって来た群衆」に、ですが、イエス様は、神様を信じる人々に、そして今、生きている私達に、繰り返し「聞くように」と、叫び続け、訴え続けておられます。

何を?とは「神様の言葉」です。「神様の、喜ばしい知らせ」、「神様が私達と共にいて下さること」「神様の想い」「神様の熱いメッセージ」を、イエス様は、聖書を通して私達のもとへ、今も送り届けて下さっています。

では、イエス様の声は、私達の心の中でどのように響いているでしょうか。

私にとっては、こだま(山びこ)のように絶えず心の中で鳴り響く声、騒ぐ心を落ち着かせる安定剤、弱っている心を力強くさせてくれるもの、心や体、霊の部分に栄養を与えて下さる薬のような栄養源、となっています。

*イエス様の弟子達は?

神様の子とされた弟子達は、聞いた話の意味をイエス様に質問し、尋ねています(9節)。「聞く耳のある者が聞く」とは、熱心に、納得いくまで何度も繰り返し尋ね、聞き続ける、質問し続けることだと思います。問い続け、求め続けることをあきらめずにするなら、きっとイエス様の語った言葉を理解することが出来て、イエス様が私達に伝えようとしているその真理を見つけ出し、たとえの本当の意味を悟り、理解することが出来るようになると思います。

あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されている

 弟子達はイエス様から、「あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。神様とイエス様を信じる私たち全ての者は、弟子達と同じように、神の国の秘密を悟るという素晴らしい特権が与えられています。信じる者には、神様の奥義、神様を知ることが出来る扉が開かれているのです。ですから神様の言葉を正しくが理解できるように聖霊の助けを求めていく必要があるのです。私達が弟子達のようにイエス様の言葉を聞いて、その意味を問い、「教えて下さい。分かるように説明して下さい」と、心の中にある想いや疑問をイエス様に向かって求め続けていくならば、本日の「種まきのたとえ」の中の「良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」種となっていくでしょう。

*詩編147編

 本日の詩編の作者は、1節で「ハレルヤ。私たちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか」と、神様を讃美する喜びを歌い、続いて、バビロン捕囚の中にある神の民イスラエルの人々に、主は打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んで下さる。(2~3節)」と、エルサレム再建の希望を伝え、主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。獣や、からすのたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。(8~9節)」と、自然や生き物にも神様の配慮があることに目を向けさせ、11節で「主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。」と歌います。

*神様を信じるわたしたち

 神様は、天の星、空の雲、雨や水、地上の草木、獣、鳥、農作物など、地球上を取り巻くそれら全てを支配し、生きるもの全てに命を与えられました。神様を信じるイスラエルの人達や私達は、神様にとってとても特別な大切な存在です。それだからこそ生きる全ての人達が神様の民になることは、神様にとって喜ばしい大切な出来事です。私達は、良い土地にまかれた種として歩み、この詩編作者と同じように、どんな時にも神様に聞きつつ、神様への讃美の歌声を響かせて参りましょう。

2023年1月22日の説教要旨 詩編111編・ルカ福音書4:16-30

「主を尋ね求めよう!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日のルカ福音書の前には、イエス様がヨルダン川で洗礼を授けられて祈っておられると聖霊が降り(3:22)、その後40日の間、悪魔から誘惑を受けられましが、その間、何も食べず断食されたことが記されています。断食を通してイエス様の霊的感覚は優れたものとなり、神様の霊をもって悪魔に勝利しました(4:1~13)。

 本日の4章16節以下には、イエス様が育った故郷ナザレにおいて起こった最初の出来事が記されています。

*ユダヤ教の会堂にて

安息日にイエス様は、ナザレの会堂を訪れました。イエス様が敬虔なユダヤ教徒の一人として安息日には規則正しく、ユダヤ教の会堂で礼拝を守られていたことが証言されています。当時の会堂での礼拝順序は(明確でない部分もありますが)、シェマ一「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4~」から始められ、祈りに続いて聖書朗読 (旧約の律法と預言書の箇所)、祈り、説教、そして祈りがなされていたと考えられています。又、ユダヤ人男性なら誰でも、礼拝で聖書 の言葉を朗読することが許されていたそうです。そこでイエス様は、聖書を  朗読するために立ち上がりました。

*イエス様が読まれた聖書箇所

立たれたイエス様に、係の者は、預言書のイザヤの巻物(当時、各書は一巻ずつ巻き物として存在)を渡しました。イエス様は、お開きになると、「次のように書いてある個所が目に留まり」朗読されました(17~19節)。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

 そしてイエス様は巻物を閉じて係の者に返して腰を下ろすと会堂にいる全ての人々の目がイエス様に注がれました。イエス様は、人々が注目している中、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。今日とは、過去のその日のことではなく「耳にした時、その日、聞くことによって」実現したと語りました。

*会衆の反応

人々のイエス様に対する最初の反応は好意的であり、その恵み深い言葉に驚きを覚えています。ところが、22節の後半で、「この人はヨセフの子ではないか。」と、イエス様のこの世に於ける家族的背景に目を向けて、自分達と同じ故郷の出身者でありながら、イエス様の恵み深い言葉との思いもつかない違いに、戸惑いから生じた言葉と考えられます。

イエス様の姿を幼い時から見ていたことが、かえって現在のイエス様の本当の姿や語られる言葉を理解することを妨げてしまったのでしょう。イエス様は彼らの反応を見て、「旧約時代(エリヤやエリシャの時代)でも、神様から選ばれて救われた人は、預言者の出身地以外の人達(やもめとシリア人ナアマンの例をあげて)だった」と語られたことにより、会衆は憤慨して、イエス様を山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。

*主の御業を愛する人は皆、それを尋ね求める。

私達は神様に選ばれ信じる者達です。本日の詩編「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげる。主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。」(1~2節)にあるように、いつもどんな時にも神様に心を向け、神様を尋ね求めて日々を歩んで行こうではありませんか。心を尽くすとは、自発的な思いであり心の奥底から100パーセント、全ての想いを神様に向け、感謝の言葉をささげ、神様に信頼し、神様を愛し通し、信じ続けていく、主を尋ね求めていくことです。主に 贖われた(救われた)私達の生活は、いつでもどこでも、いかなる状況の中でも、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして私達の主に感謝する、主を礼拝することにあると思います。私達はこの神様の言葉を携えて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年1月15日の説教要旨 詩編101編・ルカ福音書5:1-11

「神様、いらっしゃい!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編101編はダビデの賛歌で、2節には 「完全な道について解き明かします。」とあります。「完全な道」とは、道徳的、倫理的、知識的な意味での「完全」ではなく、かつて主がアブラハムに「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。(創世記17:1)」と言われ、又、「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。(詩編119:1)」とあるように、「まったき道を踏む」ことと「主の律法に歩むこと」は同じであり、神様への信頼の道、神様とのかかわりの道、共に歩む道です。「解き明かす」を他の訳では「心を留める」と訳しています。ダビデは王として、神様への信頼の道、神様と共に歩む道に心を留めつつ、与えられた使命に生きていきました。

しかし、お言葉ですから、

本日のルカ福音書には、イエス様がガリラヤ湖畔に立っておられると、神様の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せて来たことが記されています。イエス様が多くの病人を癒された奇跡を見たからです。イエス様が語る神様の言葉や奇跡は人々の心に留まり、人々を惹きつける力がありました。

イエス様は、二そうの舟が岸にあるのをご覧になると、漁師逹が舟から上がって網を洗っていたので、そのうちの一そうの所有者であるペトロの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになりました。そして、腰を下ろして舟から群衆に神様の言葉を教え始められました。話し終えた時、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロは、夜通し働いても小さい魚一匹も取ることができなかったので、その働きは骨を折るだけで無駄になると思ったことでしょう。しかも網には多くの不要物が付着していますから、それらを取り除くためには、その後も又、網を洗う作業をしなければなりません。けれどもペトロは、次のように答えています。「先生、私達は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。

ペトロは、疲れていたはずです。心の中では疑いの思いもあったことでしょう。しかしペトロはイエス様の言葉に従いました。そして舟を沖に漕ぎ出し、網を下すと驚くことが起こります。網にはおびただしい魚が入り、そのために網が破れそうになったため、もう一そうの仲間に合図をして手を貸してくれるように頼み、2そうの船は魚でいっぱいになり、舟が沈みそうになったと記されています。

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる

ペトロはイエス様の言葉に従い、神様の奇跡を目の当たりにしました。ペトロはイエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。ペトロも一緒にいた者達も皆驚きました。ペトロは神様のあまりの凄さに恐れを感じたことでしょう。私達も起こるはずのないこと、起こりえないことが起きてしまったり、見たり触れたりした時、神様に恐れを感じてしまうと思います。けれどもイエス様はペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と告げたのでした。

人間をとる漁師になる」

漁師は本来、売るため、食べるために魚を捕りますが、この「人間を捕る漁師」とは、多くの人達に永遠の命であるイエス様を与えて、生かす者になる、イエス様のことを伝える者になる、そのような者に変えられる、変わっていく、ということです。このことをイエス様は私達にも伝えようとしています。そして神様の言葉の中には命がある、道がある、真理があるということを教えようとしています。神様は一方的に神様の方から私達人間に近づいて来られ、私達に神様の言葉を語りかけて下さっています。その言葉はすべての地上にいる者達、世界の人達に語りかけられていて、語りかけられた私達には、その言葉を聞いて、受け入れるか、受け入れないか、の選択権が与えられています。

私達は今週も、心の中にイエス様が来て下さることに期待して神様に向かって心から「ようこそ来て下さいました。私をようこそ捕らえて下さいました。」「神様、いらっしゃい!」と、歩みを始めて参りましょう。

2022年11月20日の説教要旨 詩編11編、エペソ書5:21-33

主の変わらない祝福」        加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編1節では「主を、わたしは避けどころとしている。」と信仰の表明があり、危険が迫っていることが伝わってきます。その状況が2~3節で「闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」と説明し、「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか。」と、友人達の言葉が聞こえてきています。本来あるべき社会秩序がくつがえされて、いつしか、しがらみや不正がはびこり闇に閉ざされてしまったような状況に現在、作者は置かれているのです。

主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4節)

しかし、たとえ社会が闇に閉ざされているような状況であっても、主なる神様は人間の世界を越えた天から「御目は人の子らを見渡しそのまぶたは人の子らを調べ(4節)」られます。私達一人ひとりが何を拠り所としているか、誰を頼みとし、どこに隠れ家を置いているかを明らかにされます。

*わたしたち

私達は、神様を信じ、神様に守られているとの確信をしっかり心に刻むことが大切です。作者は「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人にむけてくださる。」と告白しています。神様は正義を行い、信仰生活を正しく送っている者達にはその御顔、御姿を現して下さいます。私達は毎日、神様に目を向けて歩いているでしょうか。 私達は時々、神様によって試される時があります。私達はどんな時でも「主に従う人に御顔を確かに向けて下さる神様」を避けどころとして歩み続けましょう。

*妻と夫

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)

本日のエフェソ書の御言葉は、私達がイエス様に対する畏れをもって、イエス・キリストを主と認めて信仰生活を送り、人々に仕え、支え合っているのかが問われているように感じます。この前の6節以下には、光の子として(光から善意と正義と真実が生じる(8~9節)歩み、霊に満たされ、いつも感謝しながら(18~20節)歩むように勧めています。キリストに仕える者逹がお互いに仕え合うことは、夫婦の関係と同じようなものであり、妻は夫に「主に仕えるように仕えなさい」と、神様に従うことから始まっています。イエス様が教会(信仰者の群れ)の頭(かしら)であり救い主であるように、妻も夫に仕えなさいと教えます。一方 夫には、イエス様が教会を愛し命を捨てるほど愛されたように、妻を愛することを教えています。イエス様がそうされたのは、神様の言葉と洗礼とによって教会を清めて、聖なる汚れのない、栄光に輝く教会を立たせるためです(26~27節)。夫婦も、夫は妻を自分のように愛し、妻は夫を敬うように(33節)教えています。そのことを通して私達の神様との関係も良い方向へと進み、良い実を結ぶことができることを伝えているようです。

*神様とわたしの関係

 私は先日、正教師面接で「あなたはキリストの花嫁として、教会に仕え、キリストに仕えることが神様から与えられた召命であることを信じますか」と問われました。私は、<イエス様に初めて出会い、信仰を告白した時からイエス様と共に歩んでいるのだから、今、再びこの問いに、告白(誓い)は必要なのか?>と考えていた中で、<私はイエス様のことを真剣に受け入れ、イエス様の霊をこの体に身に付けているだろうか。私は本当に神様に耳を傾け、聞いてきたのか・・。そういえば最近、神様の声、神様の霊を感じていないのでは?> <果たしてこのような私が、正教師としてキリストの花嫁として歩むことに誓いをたててよいのか?>など短い時間で思い巡らしていた時、すぅーと、私の身体の中に神様の霊が入ってだんだん大きくなるのを感じました。そして若い時に与えられた「人々に神様の言葉を伝えていきたい」との思いに立ち返り、今、その召命に従うこと、信じることだと思いました。 

今は目に見えず、不安な部分が沢山ありますが、将来、神様の計画が起こり、目で見て体験することになるだろうとも感じました。皆さんも、これから先、神様の御前で何かの誓い(約束)をする時があるかもしれません。神様がいつも共に在り、神様の深い愛と祝福をお祈り致します。

2022年10月16日の説教要旨 詩編146編・マタイ福音書5:1-12

「主の幸いを受ける」    加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編146編~150編は「ハレルヤ詩集」と呼ばれ、ハレルヤから始まりハレルヤで終り、神様を讃える歌になっています。本日の146編では詩人(作者)が、「命のある限り、わたしは主を讃美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌おう(2節)」と、全生涯を通して 主をほめたたえることを決意を持って呼びかけています。「ハレルヤ。(主をほめたたえよ!)」と主に叫びかけることで、彼の思いのすべてを神様に向けているのではないでしょうか。この詩人と同じように私達も、神様に心を開いて神様を讃美するなら、神様を体験し、神様を知ることとなるでしょう。

主は見えない人の目を開き」(8節)

5節に「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とあります。神様を見上げ、神様を頼りにし、神様のすること(ご計画)を待ち望む人は幸いである、と、はっきり告げています。そして、「主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる」とあります。「目を開く」は、エデンの園で蛇がエバに、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる・・」と言われてエバが食べ、アダムにも渡して食べたので、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」と、創世記に記されています(3:5・7)。 蛇の誘惑によって開かれた目は、罪の結果として開かれた目となり、霊的には「盲目」となってしまったと考えることが出来ます。サタンによって人は生まれながらに「盲目」となり、この盲目となった目を再び開けることが出来るのは神様の助け以外にありません。イザヤ書35章には、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。・・そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く』(5節)」とあります。私達は、私達の目を見えなくしている悪魔の支配から解放されて、神様からの幸いを受ける者へと変えられなければなりません。それは、イエス様の救いを受け入れることにあり、イエス様を信じて日々の歩みを生きることを意味します。

*「山上の説教」(マタイ5~7章)

 本日の新約聖書は、イエス様が神様の権威を用い、人々に教えることで、悪魔によって真実を見えなくされていたその目の覆いが取り除かれ、聞く人々は、イエス様が語る言葉によって「目が開かれた」と考えることが出来ると思います。

~人々は幸いである。

 この「~人々は幸いである」は、3~6節では、神様を待ち望む人々の幸いが示され、7~10節では、祝福された人々の幸いが語られています。

前半は、自分が「霊的において貧しい」と悟った者が、初めて神様の深い悲しみを理解する「悲しむ人々」となり、人が「悲しみ」を経験する以前に、神様が悲しんでおられることを知る者を表しています。その「神様の悲しみ」の原因は、私達の内に住む罪にあります。人が罪に支配されて、神様を知ることができず(無知)、神様の御心を行うことができない(無力)現実にあります。罪の横行のため、不条理な現実により打ち砕かれている者が「柔和な人々」となり、神様を求めるようになることが「義に飢え渇く人々」と表しています。

 後半の、「憐れみ深い人々」とは、困っている人達に寄り添うことができる者であり、神様から受けた罪の赦しを理解して、神様との関係を持っている人達です。「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」は、神様との関係作りの深さによって違いが生じてきます。私達が神様をどれだけ身近に感じているか、神様をどれだけ知っているかにより、人との接し方、信じる者たちとの接し方に違いが出てくることを告げていると思います。

*主の幸いを受ける

 それゆえに、イエス様は「私のもとに来なさい!私の幸いを受けなさい!と招いて言われているのではないしょうか。イエス様は今日も私達と共におられます。 このことに私達は心から神様に感謝し、神様との関係を大事にしながら 今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年8月21日の説教要旨 詩編2編・ヨハネ福音書7:25-31

「真の人」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編2編1節、2節の冒頭に「なにゆえ、・・人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、・・主の油注がれた方に逆らうのか」とあります。「油注がれた方」とは「王」を指します。「油(オリーブ油)」は神の霊の象徴であり、油を注がれた王は一般の民と異なる「神聖な」身分が保証され、地上における神の主権を代表すると信じられていました。他の、地上の王達がイスラエルに向かって反乱を起こし、結託して攻撃をしてきても、何の結果も生み出せず、意味がないことが述べられます。この「なにゆえ~するのか?」は、「あなた方は、天地創造者である神を畏れないのか?神から油を注がれた王を畏れないのか?」との憤りを含む問いかけです。

*天を王座とする方は笑い

 4節からは、天上の王(神)の宣言です。地上の権力者たちに対して、神様は「わたしは自ら、王を即位させた」(6節)と語られ、ご自分の計画を遂行するとの宣言です。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、王が即位の際、神の子となった(契約的な意味・養子)ことで、特別の守りと祝福、力が加えられたことを表し、後のイエス・キリストの到来も告げられていると考えられています。<ヘブライ書5:5>

*油注がれた方に逆らう人々

 旧約聖書に於いて「油」は、王の他にも「祭司」と「預言者」にも注がれました。私達人間は、弱い部分、弱い気持を持っています。それゆえ、これらの人達は、人々の前に立ち、多くのことを語り、教え、助言していたことを旧約聖書は伝えています。けれども多くのイスラエルの民は、挫折して主につぶやき、主に背いた生活を送りました。彼らは本当の意味で、神様というお方を理解していませんでした。それは人々が心の中に主の霊を宿していなかったからで、神様は、彼らの行動の結果として苦しみを与えました。神様を知って欲しいがためです。その苦しみは、人々にとって闇と言えるような、暗く、明かりが見えない状態でありました。

そのような中で人々が神様に助けを求めた時、神様は一つの光を与えられたのです。その光とは、真の「王」にして「祭司」「預言者」であるメシヤ(油注がれた者)を、私達の地上に送って下さったのです。このお方・イエス様は、私達人間のために、私達の目で見える形として与えられ、神様の救いのご計画はなされました。

うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(7:24)

 本日のヨハネ福音書は、神殿の境内に祭りのため集まった人達に、イエス様が教え始められた時のことです。イエス様の、ご自分の命がねらわれているにもかかわらず公然と話している姿を見て、議員たちが何も言わないのを不思議の思う人達がいました。彼らは、議員たちが何も言わないのは、イエス様をメシア(救い主)と認めたのではないか。しかしメシアの出身地は誰も知らないはずであるのに、自分達は出身地を知っている、と話していました。その会話を聞いたイエス様は、大声で、「あなた達はわたしのことを知っており、又、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなた達はその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と言われました。(28~29節)

*わたしたち

イエス様の十字架は、私達地上に生きる全ての者逹のためであることを今一度、想い起こしたいと思います。このイエス様のほかに、救いも、罪の赦しもありません。私達クリスチャンは「主の霊」を注がれた者であり(Ⅰコリ2:12/12:3)、神様から祝福を受けている者達です。神様は多くの奇跡と思えるようなこと、神様にしか出来ないような不思議な出来事を私達に見させ、体験させて下さっています。それにもかかわらず私達はそれらをしっかり見たり、心に止めないまま終ることはないでしょうか。私達は、このお方に仕え、神様と共に生きる者とされています。私達は、日々、神様に祈り、求め、願い、神様中心の生活をしようではありませんか。今週も、神様と共にありますようにお祈りを致します。

2022年8月14日の説教要旨 詩編78:23-39・ヨハネ福音書6:41-59

「いのちのパン」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちにとっての命のパンとは、どのようなものなのでしょうか。本日の詩編は、旧約聖書の出エジプト記の出来事を思い起させます。イスラエルの民は、荒れ野の旅の中で、モーセに向かって飢えと渇きを訴え(民11~)激しく不満を言いました。神様は民の不平を聞いて下さり、朝には天から「マナ」を、夕べには「うずら」から肉がもたらされました。

*マナ

「マナ」は朝、宿営の周りに降りた露(つゆ)が蒸発して、薄くて壊れやすいものが大地の霜のように残ったものです。民はそれが何か知りませんでしたが、モーセは「これこそ主があなた達に食物として与えられたパンである。」と教えています(出エジプト16:13~)。マナはコエンドロ(水辺に咲く。調味料とされる)の種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味でした(出エジ16:31)。マナにはヘブル語で「何だこれは?」という意味があります。彼らは知らないもの、理解できないものを目にしたのです。

*民の欲望と不信仰

(詩編78:22~29節)。「彼らは神を信じようとせず 御救いにより頼まなかった。それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。・・神は食べ飽きるほどの糧を送られた。神は東風を・・送り 御力をもって南風を起こし 彼らの上に肉を塵のように降(ふ)らせ 翼(つばさ)ある鳥を海辺の砂のように降らし・・神は彼らの欲望を満たして」下さいました。しかしイスラエルの民は、欲望から離れることはなく、その結果、「神の怒りが・・燃えさかり、肥え太った者を殺し、・・若者達を倒したそれにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し 驚くべき御業を信じなかった。」(31~32節)のです。神様は彼らの不信仰を見て、彼らを滅ぼそうとなさいました。彼らはそれに気付くと立ち帰って神様を捜し求めました。が、彼らの心は定まらず、神様との契約(律法、守りごと)に忠実ではありませんでした。それでも神様は、彼らを滅ぼすことなく繰り返し怒りを静めらました。「神は憐れみ深く、罪を贖われる」(38節)とあり、続いて「人間は肉に過ぎず、過ぎ去って再び戻ってこない風のような 滅びゆく存在である」ことを御心に留められたことが記されています(39節)。

*「わたしは天から降(くだ)って来たパンである。」(41節)

 本日のヨハネ福音書でイエス様は、ご自分のことを「パン」と言われました。それは物質的なパンではなく、心の癒しや生きる力を与えて下さる「霊のパン」です。このパンを食べる者(イエス様を信じる者)は、永遠の命を得たものであり永遠に生きることを教えています。 

しかし「天から降って来たパン」との言葉に、ユダヤ人達はつぶやき始めました。なぜなら彼らは、イエス様の両親を知っていたからです。

 イエス様は、ご自分が天から降ったことを説明するために「(神)」を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見た」と言われ、ご自分が神から遣わされた御子であることを宣言されました。

*「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる。(54節)」

このイエス様の言葉は、ユダヤ人達の間に大きな議論を起こし、多くの人達がこの言葉につまずきました。けれどもイエス様は十字架で肉を裂かれ、血を流し、亡くなられました。イエス様の肉を食べイエス様の血を飲むとは、イエス様の十字架の死を、自分のこととして信じ受け入れることです。十字架の死は、私達が、自分の罪のゆえに死ななければならなかったのにイエス様が代わって死んで下さった、それにより私達の罪は赦され、永遠の命が与えられた出来事です。これは丁度私達の命をイエス様の命と交換していただいたことと同じです。私達は罪の中に生き、肉体の死と共に滅びゆく存在でした。にもかかわらずイエス様が私達の罪を引き受けて下さったがゆえに、神様の恵みにより信じる信仰によって「永遠の命」と復活が約束されています。私達はイエス様が日々与えて下さる「命のパン」によって生かされ、神様との出会いと交わりが与えられていることを感謝して、今週一週間も歩んで参りましょう。

2022年4月24日の説教要旨 詩編27編・ヨハネ15:1-10

主の内にとどまる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

一つの事を主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(住んで・口語訳)主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを

 本日の詩編27編は、神様を信じる者たちが心を静めて、力強い主との深い関係を思い描き、主の素晴らしさに思いを巡らし、主の家に住まわせてほしいと祈り、心を神様に留めることで、神様と会話をする心での詩になっていると思います。又、この詩は、私たちが自分自身を見つめ直し、神様に造られた自分という個人が、神様との関係作りの中にあって、主の内に留まる、主の家に住むことができる、主の考えていることや主の語りかけを理解することができる場所(私と神様との隠れた祈りの場所・拠り所)を持っているかどうかを、私達に考えさせてくれる信仰告白の詩です。

主はわたしの光、わたしの救い」(1節)

この「光」とは、創世記1章の、天地創造の第一日目に、たった一つの出来事として、混沌とした闇の中から「光あれ」と、光とやみを区別され、光だけを良しとされた その光であり、私たち(神様に造られ、神様に愛された者たち)に照らされる光、救いの光です。

この詩編の作者ダビデは、神様に彼の思いを集中させ、沈黙の世界の中に神様との交わりの時を持ちたい、その場に、その空間に、留まりたいと願っていたのです。私達もダビデのように、この光、神様から照らされる場所、その場所を個人的に落ち着く場所、神様に出会い、神様と会話をする所を探し求める必要があります。そしてその主の霊に満たされることによって、主を畏れ、敬い、主の家、主の宮に住みたい、留まりたい、神様が好きで好きでたまらなくなるのです。皆さまは、神様に思いを寄せて特別に出会える場所、その隠れ家はどこにあるのでしょうか。ダビデはまだ若く、羊の世話をしていた頃、神様に選び出されて、羊に対する羊飼いのような恵みと憐れみを豊かに受けて、主の素晴らしさ、主の麗しさを体験しました。神様は、私達をも人々の中から選び出し、神様の霊を注ぎ、この世界に存在する意味を教えて下さっています

*今年度の仙台南伝道所の御言葉 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 本日の、ヨハネによる福音書15章1-10節には、「つながる」の言葉が10回も出てきます。「つながる」には、他に「とどまる、滞在する,泊まる,居続ける,住み着く,住む」という意味があります。ここには、詩編27編とのカギとなる言葉が使われています。

 イエス様は私たちに、「主の内に留まりなさい、居続けなさい、住み着きなさい、と、ここでも伝えているのです。

ダビデは、主の霊が存在する所に、神様との関係作りが作れる所に、住み続けることを望みました。そしてヨハネ福音書で、イエス様は、イエス様に繋がっていなければ、私たちは良い実を結ぶことはできないし、何もすることが出来ないと、語られています。

*わたしたち

 私達は、「イエス様を信じます」と告白し、受け入れた時に、目には見えない油という主の霊(聖霊)が注がれ、私達の内に神様というお方が住まわれました(「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(Ⅱコリ6:16)。

 このようにして、私たちがこのお方の名前を呼ぶ時に、神様は私達の内に現れて下さり、神様との関係作りが始まるのです。それは、私たちがどこかに、神様との関係作りをする特別な建物や部屋を作らなければならないということではありません。私たちが神様に一対一で祈ることのできる環境、空間があればいいのです。ただ、それだけのことです。

 もしくは、私たちが、二人でも三人でも、思いを寄せることのできる、祈りあえる仲間がいれば良いのです。私達が神様に思いを寄せることのできる仲間たちと共に、その場所で、主の御名を呼び、静まり、祈る。その中に神様の現われ、神様の存在を感じ取る空間ができるのです。

今週も、主の霊に満たされて歩んで行けますようにお祈り致します。

2022年4月17日の説教要旨 詩編114:1-8・ヨハネ20:1-18

復 活 の 日」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

イースター、おめでとうございます。イースター(復活祭)は、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した日をお祝いする日です。

週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗い内にイエス様の身体が納められているお墓に行きました。

「週の初めの日」とは、ユダヤ教では安息日が金曜の日没から土曜の日没までで、イエス様が亡くなられたのは安息日の準備の日(金曜日)でした。「イエスは、ご自分が必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた。」(マタイ16:21)とありますので、三日目は日曜日にあたります。

*週の初めの日

「週の初め」の「初め」という言葉には、ヘブライ語で「第一、一番目」という意味だけでなく「唯一、たった一つ」という意味もあります。

創世記1章1節~5節に、初めに神様は天地を創造され、地は混沌(こんとん)としていて闇(やみ)が覆っていましたが、神様は、「光あれ」と言われて、光を見て「良し」とされました。混沌としていた闇の中から、光とやみを区別されたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ、夕べがあり、朝がありました。それが第一の日の出来事、唯一の出来事として記されています。

ここで神様は、光は救いであること、闇は滅びであることを示そうとしたのかもしれません。神様は、神様のことを信じる者と信じない者が混ざり合って混沌としている、この世界・社会を、光と闇、救いと滅びで、はっきりと分けようとしているのだと思います。

神様は、この世界を創造された時から、そして、このお方を信じた時から、受け入れた時から、私達は 神様の照らす光の道を歩くことができるのです。神様は全てのことに計画を立て、神様の「時」に、様々な出来事を、私達の目に見えるように、分かるような形で行なって下さるのです。

*墓の入り口には大きな石を転がしておいた(マタイ27:60)

 イエス様が十字架につけられた所には園があり、そこにはまだ誰も、葬られたことのない新しいお墓があり(ヨハネ19:41)、イエス様の遺体はそこに納められました。マタイ福音書には、アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しいお墓に納めて、お墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったと報告されています。

マグダラのマリアが訪れた時には大きな石は取りのけてありました。朝早く、まだ暗かったのでマリアにとって何とも不思議な光景だったと思います。「お墓」の原語には、「回復する国の計画」・「国王の帰還」との意味があります。イエス様のよみがえり、復活すべき国王が帰還したとの、神様の御計画の実現を伝えています。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」(詩編114:7)

 さらに注目する点は、お墓の石が取り除かれていたことです。これは本日の詩編「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」とあり、「身もだえせよ」の原語では、ねじまげるとか、ゆすぶる、苦しめるという意味があり、マタイ福音書28:2には、この時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」と記されています。神様は、神様のご計画を実行する時に、大地を揺り動かしてまでも、(大地を身もだえさせてでも)、その力を私達人間に現わし、体験させるようになさることが分かります。

*復活の日

 復活の日は、第一日目、週の初めの日に来なくてはなりません。

なぜなら、全ての出来事の中には神様の計画された日があるからです。それらは、私達にとって、唯一の日、たった一つの日になるからです。そして日曜日が、復活したイエス様の日、初めの日の出来事として私達が覚え、集まり、祈る。このことを通して、私達、神様を信じる者達が一週間、神様に導かれ、守られ、神様と共に生きる喜びを知り、イエス様が、私達一人ひとりの心の内におられることを知っていくのです。