12月8日 待降節第2主日の説教要旨

詩編27:1-6・ヨハネ1:14-18   「神を示された御子」佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

待降節に入り、2本目のローソクに火が灯りました。今朝はイエス様が私達の住むこの世界に来て下さったことについて、ヨハネによる福音書の1章から学びたいと思います。

 ヨハネ福音書は、ほかの三つの福音書とは違い、その書き出しは非常に強烈な、インパクトのある表現で始まります。

初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」

一瞬、何を言っているのか、わからずに読み進んでいきますと、言(ことば)とは、イエス様のことであることが分かります。そして「初めに」という言葉も、初めの初め、まだ天地が造られる前の、「初め」だというのも分かってきます。創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とある、この「初め」に、イエス様はすでに神様と共におられた、ということです。

私達は「見える世界」に住んでいて、しかも時間(歴史)の中の、ほんのわずかの一時期しか、この地上に存在することは出来ません。けれども、聖書は、私達に見えない世界のこと、時間、空間を越えた「永遠の世界」があることを教えてくれます。

 ここで、言(ことば)と表現されている神の御子イエス様は、天地創造以前、永遠の世界で、父である神様と共におられました。ところが、今日読んでいただいた1章14節に「(ことば)は、肉となって、私達の間に宿られた」とあるように、「永遠の世界」から、「時間と地上の世界」に、神様から遣わされて来られました。

肉となって」との表現は、肉体を取る・・私達と同じ人間になるということです。永遠の、見えない世界におられた神の御子イエス様が、見える時間の世界に来られた、人間として誕生されたのです。人間は、肉体を持つゆえの誘惑があり、罪も宿り、さらには「死ぬ」定めを負っています。

神の御子イエス様は、人間になられたことにより、罪と死のある領域の中に、住まわれたのです。

ヘブライ人への手紙5章7節以下に、こう記されています

キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」さらに、フィリピ書2章6節以下には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記されています。

*御子イエス様が地上に来られた目的

神の御子が私達と同じ人間として生まれられた、その目的は何だったのでしょうか。12節以下に書かれています。

言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 イエス様が来られたのは、この地上の暗闇に、「光」としてすべての人を照らすため、そして一人でも多くの人々を「神の子とする」ためです。この、イエス様の働きを引き継いだ弟子達によって教会が生まれ、私達の小さな群も又、弟子達と同じように、まことの光として来られた救い主イエス様のことを、そして愛する御子を私達の為に遣わして下さった神様のことを伝え続けています。

*「わたしたちはその栄光を見た」(14節)

地上でのイエス様は「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)の姿が象徴しているように、この世の権威や権力から離れた世界に身を置き、最後は、十字架で殺されるという悲惨な最後で地上での生涯を終えられました。しかしヨハネ福音書の著者は、イエス様に隠されていた「栄光」を見たと証言しています。その栄光は父(神)の独り子としての栄光であって、「恵みと真理とに満ちていた」と伝えています。

イエス様は生涯、父である神様と霊で結ばれて、神様と共に歩まれました。神様はイエス様を通して自らを現わされました。イエス様の中には、偽りも憎しみもなく、真理の明るい光の中にすべての思いと言葉がありました。

*「私達は皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16節)

「恵み」とは、それを受けるのに十分な理由も、価値もないのにもかかわらず、神様から一方的な愛、神様からの全く自由な愛が与えられることです。本当ならば受けるに値しない「神様からの恵み」です。讃美歌271番の最初で「功(いさお)なき我を、血をもて贖い(あがない)」と歌いますが、神様の前に、功績といえるものを何も持たない私達が、一方的な神様の愛によって、イエス様の流された血潮により罪が赦された、というこの讃美歌は、神様の大いなる恵みを讃美している讃美歌です。

*救いの恵みに与った(あずかった)者の歩み 

そして、救いの恵みに与った私達の、その後の歩みに於いて、恵みは、私達を立ち上がらせ、生き生きとさせてくれます。私達の人生には苦難がいろいろな形で押し寄せてきます。経済的困難、思いがけない病、自然災害、又、愛する人との別れ、人間関係におけるさまざまな問題などなど・・。それにもかかわらず、神の子とされた信じる者達の歩みは、一つの恵みに、やがて新しい恵みが加わり、恵みから恵みへと導かれていくことが語られます。

異なった環境で、異なった恵みがいつもそこにあるのです。順境の時と、逆境の時、青年時代と老年時代、自分の重荷を負う時と人の重荷を負う時、それぞれの時に、信じる者には、16節にあるようにイエス様の満ち溢れる豊かさの中から、恵みをいただき続けます。神様の恵みは、同じところにとどまっているのではなく、私達が生きる現場に応じて次々と形を変えて注がれます。そして、どのような困難の時にも押しつぶされない勝利が約束されているのです。聖書は真実です。恵みが途切れることはありません。もし、神様が用意されている恵みがわからず、苦しい時には、神様に、「信仰の目を開かせて下さい」と祈ることも良いでしょう。私達が受ける試練が、あとになってからその意味を知ることもあります。

*私の証し

私は、主人の母の介護を通して、神様の恵みを感じることが多々ありました。が、ある時期、神様の恵みを感じることが困難でした。それは母に幻視(ないものが見える)が起こっていた時期でした。母は昔、幼い娘を亡くした体験からか、小さい女の子がそばにいたのにいなくなったと捜す症状でした。何日も続くと私自身も寝不足になります。もう家での介護は限界かなと考え始めていた時です。母は別の症状に移ったことがきっかけで、小さい女の子を捜し回ることは終りました。困難な仕事と思えることでも神様は必ず助けて下さり、どんなに大変なことでも、ぎりぎりになって「神様、もう出来ません」と祈ると、必ずそこから又、新しい状況が開かれていくという経験を何度もしました。それ以来、何か大変なことが起こっても、私が引き受けられるから、神様はそのような状況に私を置かれていると自然に思えるのです。そして、その場その場で「ああ、守られている」と神様の恵みを実感し、感謝の日々です。

*「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)

 イエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と言われました。その時、弟子の一人が、「私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。イエス様は、「私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」と答えられました。 イエス様は永遠の世界から、私達の住む世界に、私達を神の子とするため、私達に神様を示すために来て下さった!のです。クリスマスの本当の意味を一人でも多くの方達に知って欲しいと心から願うものです。

11月3日・召天者記念礼拝の説教要旨

詩編23編・エフェソ書3:14-21 

        「三つの祈り」         佐藤 義子 

*はじめに

日本基督教団では、毎年11月の第一日曜日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達の伝道所では3名の方々を覚えての記念礼拝ですが、この方々は、地上の生涯を終えるまで神様を信じて神様に従った方々です。  

私達は、先に召された方々の信仰生活を思い起こすことで時に励まされ、時に慰められ、又、時には「今いらしたら、きっとこう言われるでしょう」と教えられたりします。博子姉が後遺症で身体が不自由になり、つい不満を言いかけた直後、「『そんなことを言うなら、こちらにいらっしゃい』」と神様から言われてしまうわね」と良く言っていました。又、「私達(クリスチャン)は良いことが起こった時、神様に感謝するけれども、神様を知らない人は「運が良かった」と言って、時には威張ったりするのね。神様を信じているからこそ、私達は感謝できるのね」などの言葉を思い出します。 

平野兄で思い出されるのは、最後の日々を非常に穏やかに過ごされていたことです。ああして欲しい、こうして欲しいなどの不満は一切聞いたことはありません。訪問時、待降節の季節でしたのでクリスマスの讃美歌をたくさん、(おそらくご一緒に)歌った楽しいひと時が思い出されます。

石川兄はガンとの闘病生活を送られて63年の生涯でしたが、克明に闘病日記を記され、信仰のことや聖書の御言葉なども残され、看護婦さんにも伝道されていかれました。石川兄の記念礼拝には看護婦さんも福島から出席して下さり、以来「こころの友」を郵送しています。

神様を信じる者は、神の国の民とされて永遠の命をいただいていますので、肉体の死は天の国への入り口に過ぎません。終末の時、神様を信じる者達は、聖書で約束されているように「復活体」という霊の体が与えられます。そして「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~)。

*異邦人

本日の聖書は、パウロが獄中から、異邦人教会に宛てて書いた手紙です。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)は、それ迄、天地創造主のまことの神様を知らず、「律法」もなく生きてきた人達です。けれども神様の大きな愛はユダヤ人だけでなく信じる者すべての人を神の子とするために御子イエス様を遣わしてくださり、十字架で流された血によって、それまでの罪があがなわれ(赦され)、「神の家族」とされたことが、この手紙で語られています。私達日本人も異邦人ですが、「イエス・キリストを信じる」信仰により神の子とされました。これは大きな神様の恵みです。クリスチャンになった(とされた)私達は、神の国の民として新しく生まれ、新しい命が与えられました。新しく生れた者は、乳児から離乳食へ、そして固い物も食べられるように成長していきます。

*とりなしの三つの祈り

今朝の聖書箇所には、パウロが神様にささげた、「新しく生れたクリスチャン」達に対して「とりなしの祈り」が祈られている箇所です。

祈りの一つは、「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この祈りにつけ加えられて、「信仰によって心の内にキリストを住まわせ」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」と祈られます。二つ目に、「キリストの愛を理解し、キリストの愛を知るようになるように」。です。三つめに「神様の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」との祈りです。

*強めて下さい

新しく生まれたクリスチャンが、神様の霊により、力をもって、「内なる人を強め」てくださるようにとの祈りですが、別の訳では「あなたがたのうちに与えられた新しい命を強くして下さるように」と訳しています。そして「キリストが心の内に住んで下さるように」とは、心の状態を、イエス様をお迎えして住んでいただける部屋に整えること、それには心を荒立てたり、怒りや憎しみの感情などは、外に吐き出しておかねばならないでしょう。

この箇所を、「イエス様があなた方の心に住み、喜んでそこに住み続けて下さいますように」と訳している聖書もあります。続いて「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」とあります。イエス様が心の内に住んで下さるならば、私達は、神様の愛という土壌の中に深く根を張ることが出来、そのしっかりした愛の土台に立ち続けて成長していけるのです。私達は、神の国の民として新しい命が与えられた(クリスチャンとされた)ことにとどまるのではなくて、成長していく道(=強くされていく道)が大きく開かれています。

*キリストの愛を理解し、キリストを知る道

パウロが捧げた二つ目の祈りは、神の子とされた者は、「キリストの愛を理解」するように、「キリストを知るようになる」ことを祈っています。パウロは、信仰の成長の為には、このことが不可欠であると考えているのです。神様の愛、キリストの愛は、広さ、長さ、高さ、深さでも、測ることが出来ない無限大であるゆえに、言葉で説明することは不可能です。

しかし私達は福音書を通して、その愛の一端に触れることが出来ます。

*イエス様の愛に触れる

たとえば姦淫の現場を捕えた女性を、律法により石打ちの刑で裁こうとしていた群衆に対して、イエス様はただひとこと「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と、持っていた石を手離させ、ご自身もこの女性を罪に定めず、「これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい」と女性をその場から去らせたイエス様の愛を思い起こします。ザアカイもイエス様の愛に触れた人でした。人々から「罪人」呼ばわりされ嫌われて、お金はあっても孤独であったザアカイに対して、イエス様から声をかけ、彼の家の泊り客となられました(ルカ19:5)。又、イエス様が自ら、私達を羊に譬えて、迷子になった、たった一匹の羊の為に、ほかの99匹を置いてでも見つかるまで探し続ける羊飼いであることを語られています(ルカ19:4)。又、善きサマリア人は犬猿の仲であったユダヤ人が強盗に遭い半死の状態で倒れていたのを見つけて、その人の傷の手当だけでなく宿に連れて介抱し、宿の主人に、治るまで宿において欲しいと宿賃を渡し、足りない時は、仕事帰りに払うと言いました(同10:25)。最後まで見捨てることのないこの愛こそイエス様の愛です。

さらに、地上で最後の十字架で息を引き取られる時、イエス様を死へと追いやった宗教指導者や群衆、総督ピラトはじめ多くの兵士達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様に執り成しの祈りを捧げられました。

パウロが手紙で、キリストの無限の愛の大きさを理解するように、そして、人間の知識をはるかに超えたこの愛を知るようにと祈った祈りは、信仰による新しい命が強くされていくこと、心の内にキリストに住んでいただくこと、神様の愛という土壌の中に深く根を張り、愛にしっかりと立つ者になることと、すべてがつながっています。

*「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

この祈りは、愛と恵みと力で満ちている父なる神様のもとへ、イエス様の愛が私達を導いて下さり、私達も又、神さまの豊かさで満たされますようにとの祈りです。

ある注解者は「もし、この祈りを教会が祈り、教会が神様から、この祈りの答を受けるならば、教会は神様の賜物によって満たされ、完成される」と言っています。具体的には、神の義が私達に与えられ、神の愛が私達に注ぎ込まれ、神の栄光が私達を照らし、神の平和が私達の心の中に住むようになる」と説明しています。

*私達の祈り

私達の日ごとの祈りは、置かれた立場にあって祈る課題もさまざまです。しかし日ごとの祈りは、私達の信仰を形づくり信仰の成長をも導いてくれます。私達は、パウロの執り成しの祈りを通して、先ず神様に何を祈り求めていくべきかを教えられます。内なる人が強められ、どんなことにも動揺せず、心にイエス様に住んでいただき、愛に深く根を張り、イエス様の愛の大きさを理解し、人知を越えたこの愛を深く知り、神様の満ち溢れる豊かさで満たされていくように共に祈っていきましょう。

2019年10月6日・世界宣教の日の説教要旨

イザヤ60:1-2・コロサイ1:17-23 

「世界中に伝えられている福音」     佐藤 義子

*はじめに

本日は、「世界宣教の日」(日本基督教団・10月第一日曜日)です。福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス様の遺言でもあり、マタイ福音書の最後に、イエス様の語られた言葉が記されています。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 この言葉は、「大宣教命令」と呼ばれ、教会はこの言葉と共に歩みを続けていると言っても過言ではありません。教会の使命は伝道です。クリスチャンの使命も伝道です。誰に伝道するのでしょうか。聖書で語り伝えている神様もイエス様も知らない方達にです。家族、親族、友人、知人にとどまらず、神学校に導かれ牧師として、全く知らなかった地域で伝道している方々も多く、さらに、キリスト教主義の学校・病院・施設・幼稚園・保育園などで働きながら伝道している方々も多くおられます。(文書伝道・ラジオ伝道・インターネット伝道もあります)。

*世界宣教

目を国内から海外に向けて宣教師として伝道されている方々も多くおられます。私達日本人は「宣教師」という母国から海外伝道に派遣された方々によって福音を伝えられ、今や「イエス・キリスト」の名を聞いたことがないという人はいなくなり、迫害もなく、この山田の地でもこうして礼拝が捧げられていることは本当に感謝なことです。現在日本基督教団では、14ヵ国に20人の方々を派遣しており、子供も一緒の家族での派遣も、又、単身で赴任される方々もおられます。仙台南伝道所では、以前、聖書翻訳宣教師として働かれた虎川宣教師と、インディアン伝道をされているアメリカからウェイド宣教師をお迎えして説教を伺い、その内容は伝道所の「説教集」に収録されていますので、再び読まれることをお勧めします。

 *コロサイ書1章23節

本日の聖書の23節後半に、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」とあります。パウロが仕えた福音こそ、私達が教会で聞いて、信じて、今も、依って立つ信仰の基盤です。

 *信仰の基盤

  今日お読みした聖書の少し前の14節から、少し先の2章12節の間に、重要な言葉が五つ出てきます。①「罪の赦し」(14節)②「御子は教会の頭(かしら)」(18節)③「十字架の血」(20節)④「神との和解」(同)⑤「私達の復活」(2:12)。この5つの言葉をつなげますと、以下のような福音、私達が聞いて信じた福音の内容が明らかにされています。

*福音の内容

私達は、かつては神様から遠く離れ、闇の力の支配下に置かれており、神様から離れている(=罪)ことさえ意識していませんでした。しかし神様は私達を愛するゆえに、御子イエス様を遣わして下さり、私達が神様から離れて生きてきたそれ迄の「」を、イエス様が流された「十字架の血潮」(=罪のあがない)によって「赦し」て下さり、それによって「神様と私達との和解」がもたらされました。この福音を信じる信仰によって私達はバプテスマを授けていただき、それによって罪の中で生きてきた古い自分がイエス様と共に葬られ(死んで)、イエス様と共に「新しい自分へと復活」させていただき(=闇の支配の領域からキリストが支配される領域に移された)、「救いの恵み」が与えられました。「御子イエス様は、教会の頭(かしら)」であり、教会(=信仰告白共同体)は、イエス・キリストの体です(コロサイ書1:18節 / エフェソ書1:23)。

*正しい信仰とそうでない信仰

 パウロの時代には、違う福音理解を持ち込む危険な指導者達がいました。それゆえパウロは23節で、「揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と記します。私達も聖書から、教会から、離れることなく、聞いて信じた福音に堅く立ち、伝道のために用いていただきたいと願うものです。

2019年6月2日の説教要旨

詩編62:8-9・フィリピ3:10-4:1

        「私達の目指すゴール」   佐藤 義子

*はじめに

フィリピ書は、パウロがローマの監獄に囚われていた時に書かれた獄中書簡と言われる手紙の一つです。イエス様が神の御子であり、私達を罪の支配から救い出すために十字架の死を引き受けられ、その後、神によって三日目に復活され、「聖霊降臨と再臨」の約束を弟子達に与えて昇天されました。今も私達に聖霊を送り続けて下さっています。この「福音」を、正しく宣べ伝えていくためには、いつの時代でも困難が伴ないます。が、パウロは私達の想像をはるかに越えた大きないくつもの困難の中で、伝道旅行を続け、教会をたて上げていきました。そしてそれらの教会の信徒達を心から愛し、育て、旅行先から、又、監獄からも手紙を書き、信仰を与えられたすべての人達が、信仰に堅く立って生きるように励ましました。

 フィリピ書は、フィリピの教会の信徒達に送られた手紙ですが、時代と場所を越えて全てのクリスチャン達に、そして私達にも届けられた手紙として、送り主であるパウロの熱い思いを感じながら読みたいと思います。

*クリスチャンの目指すもの 

私達は、信仰が与えられ洗礼を受けてクリスチャンになった時、それはとても大きな大きな恵みの出来事であるゆえに、そこで何かを達成したような(もう、これで安心!)「誘惑」に襲われることがあります。けれども、今日の聖書では、クリスチャンには達すべき目標・ゴールがあり、すでに伝道者として歩んでいたパウロさえ、まだ達していないと告白しています。「わたしは何とかして、そのゴールに達したい。神様がお与えになる賞を得るために、そのゴールを目指してひたすら走る」と言っています。そのゴールとは、「死者の中からの復活」(11節)です。

*「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」(20節-21節)

すべてのことには初めがあり終りがあるように、この地上での私達の世界は「終末と再臨」が来ることをイエス様は語り、約束されました。その時には、信じる者は、天に属する霊の身体(復活体)が与えられることをパウロは、「Ⅰコリント書15:35-」でも丁寧に記しています。

*「キリストとその復活の力とを知り」(10節)

神様の力がどれ程のものかは私達の想像を越えています。この世界を、昼と夜に分け、大空と海と地に分け、地上には植物を、天には太陽と月と星を、海には魚を、空には鳥を、地には動物を、そしてこれらすべてを管理する者として人間を創られました。この神様の測り知ることの出来ない創造の力は、イエス様を死から命へと復活させた力にも現れました。「キリストとその復活の力とを知り」とあるように、クリスチャンは、この神様の絶大な力を知ることがゆるされています。ところで、私達は神様を過小評価していないでしょうか。天使ガブリエルはマリアに、「神に出来ないことは何一つない」と宣言されました。私達は、主イエス・キリストについてさらに深く知ると同時に、神様がイエス様を復活させた、その「復活の力」を知らされつつ、ゴールに向かって走り続けていますが、その道程において、イエス様の苦しみにも与(あずか)ります。

*「キリストの苦しみに与り

信仰を与えられると、愛する家族や親族、友人達に救いの喜びや神様の恵み、平安の中で過ごす素晴らしさを知って欲しいと願うようになります。しかし、イエス様のご受難に比べれば、はるかに小さいとは言え、私達の伝道も又、多くの困難や試練の中に置かれます。時に孤立し、無理解、誤解、偏見もあります。神様を知るがゆえの社会の不正や罪との戦いもあります。私達は、クリスチャンとして生きる大きな恵みの中で、イエス様の苦しみにも与る(つながる・連帯する)のです。「イエスの名の為に辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41)ます。

*「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走る

「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」(Ⅰコリント11:1)。この呼びかけに応えたいと願います。

2019年5月5日の説教要旨

詩編118:5-9・Ⅱコリント12:1-10

「神の力は弱さの中で現れる」   佐藤 義子

*はじめに

今年度から、毎月第一日曜日は新約聖書のパウロの手紙を読んでいくことになり、本日はコリントの手紙からご一緒に学びたいと思います。

 私達は、2週間前の4月21日にイエス様の復活を記念するイースター礼拝をおささげしましたが、それから50日後にあたる来月の9日に教会の誕生日と言われている聖霊降臨日の(ペンテコステ)礼拝をささげます。イエス様が生前、弟子達に約束された聖霊が この日 弟子達に降り、聖霊に導かれて語られた説教を聞いた多くの人々がイエス・キリストを神の子・救い主と信じてバプテスマ(洗礼)を受け、教会が生まれました。

世界地図から見れば、小さなパレスチナ地方の都市、エルサレムから始まった教会は、2000年後の今日、全世界の各地に建てられ、今も絶えることなく、イエス様が神の御子・救い主であることを宣べ伝えております。そして、日本の、宮城県の、仙台の、山田の地にも教会は誕生し、こうして毎週、福音を聞き礼拝を捧げられる幸せを神様に感謝しております。

*コリントの信徒への手紙

本日の聖書は、使徒パウロと呼ばれる伝道者がコリントの教会の信徒達に宛てた手紙で紀元55年前後に書かれたと言われます。パウロはイエス様の直弟子ではなく、初めは熱心なユダヤ教徒でした。生前のイエス様に出会っておらず、キリスト教徒を目のかたきに迫害していたある日、突然天からの光に照らされ、地面に倒され、天からイエス様の声を聞くという体験をしました。その時以来、彼は180度転換してキリスト教に改宗し、さらにはキリスト教の伝道者になりました。それだけでなく、それ迄キリスト教の伝道対象はユダヤ人に限られていましたが、パウロは当時交際を禁じられていた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)への伝道にまで広げて、弟子と共に外国への宣教旅行を行い、本日の手紙の宛先でもあるコリントの教会など、いくつかの教会を立ち上げていきました。聖書の後ろの地図(7番-9番)を見ると、彼の伝道範囲を見ることが出来ます。

*宣教旅行

パウロの宣教は、一年とか二年とか、時には三年かけて教会の基盤が出来ると、次の宣教地へ旅立ち、又そこで伝道して教会の基盤を作っていきました。パウロが去ったあとは(不定期にですが)巡回伝道者達が集会を訪問しては御言葉を語り、信徒達を励ましていたようです(使徒言行録18:23-参照)。パウロは自分達が立ち上げた教会については、愛と責任をもってかかわり続けました。教会が正しく宣教の使命を果たし続けられるように、又、信徒達の信仰が成長していけるように、時に応じて手紙を書き、励まし、助言し、その後も再び訪問し自分が行かれない場合には弟子のテモテやテトスを遣わしたりして支え続けました。

*コリントの教会

コリントはギリシャの重要な商業都市であり、二つの大きな港を持ち、東西貿易の中継地でした。しかもローマを始め、ギリシャ、パレスチナ、エジプトなどからの植民も多く国際都市のようでした。教会はその地域に住む民族、伝統、文化などの影響を受けます。パウロはここで1年半滞在してコリント教会を立ち上げ導きましたが、コリントの文化の影響を受けた人達が集まることで教会の中ではいくつか問題が起こりました(第一:5:1-参照)。しかし本日の聖書は、それ迄の内部の問題とは異なり外部から来た人達によって起こされた問題が背景にありました。(第二10-11章参照)。パウロとコリント教会の信徒達は、深い愛と信頼関係で固く結ばれていましたが、ある巡回伝道者達がコリント教会を訪問し、その滞在中、パウロとコリント教会のつながりを切ろうとしたのです。外部からの人達はパウロのことを快く思っていなかったので、パウロが「使徒」であることを疑問視して非難中傷を始めました。彼らはエルサレム教会の指導者達(イエス様の直弟子のペテロやヤコブなど)を高く評価し、直弟子たちの体験(マタイ17章:イエス様の変貌)などを引き合いに出して、パウロの使徒職の資格や正統性を問題にしました。

*パウロの対応

彼らはパウロの「使徒としての権威」を認めなかっただけではなく、パウロが語った福音までも否定する言動があり(11:4-参照)、信徒達の中に動揺が広がりました。それを知ったパウロは、この状況を教会の危機、信徒達の信仰の危機ととらえ、自分が使徒であることの正当性と、伝えた福音の正統性を語り、信徒達が最初の信仰に立ち返り、正しい信仰に堅くとどまるようにこの手紙を書いています。パウロには、何のやましいこともなく清廉潔白でしたから、パウロだけが非難されるなら忍耐したでしょう。しかしパウロの宣教者の資格、および語る内容そのものの権威を失墜させ、すべての信頼を失わせようとするような、伝道の根幹をゆさぶる行為を見逃すことは出来ず、この戦いに負けるわけにはいきませんでした。

*「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と啓示して下さった事について語りましょう。」(12章1節) 

誇るとは自慢することです。パウロは「誇っても無益」と言っていますので、無益なことはしたくなかったでしょう。しかしここでパウロが誇らざるを得ないと考えたのは、自分の使徒職の権威は神様から与えられている確信を今一度明らかにせねばならず、自分の体験を語らざるを得ないと考えました。パウロが語ったのは二つのこと、「幻」と「啓示」です。

「幻」は実在しないのにその姿が実在するように見えるものです。

「啓示」は、私達人間の知恵や知識では知ることの出来ない隠されているものの覆(おお)いを、神様が取り除いて、その人に表し示して下さることです。

*主が見せて下さった「幻」

2節以下で語られた内容はパウロの実体験であるにもかかわらず、「キリストに結ばれていた一人の人」の話として語ります。パウロは14年前、第三の天(ユダヤ人の天を等級に分ける考え方。4節の楽園・パラダイス)にまで引き上げられ、しかも人が口にするのを許されない言葉を耳にしたのです。このような体験は、自分の努力や力とは一切関係しないゆえに、この幻が、神様から与えられた大きな恵みであることを彼は知っていて、これにより、神様の慰めと励まし、力を受け取りましたが、他者に言うことではなく、パウロ個人の体験としてとどまっておりました。ここでパウロは、自分自身については「弱さ」以外に誇るつもりはないと言っています(5節)。

*「啓示」 

今、教会を混乱させている外部の人達が、パウロの宗教体験の有無を問題にするならば、(本来誇るべきでない)14年前の体験を言わざるを得ないと判断しました。それを語ると同時に、この体験で自分が思い上がらないように「一つのとげ」が与えられ、そのことを通して神様の恵みを知らされたことを伝えます。彼は「とげ」を「自分を痛めつけるためにサタンから送られた使い」と言い、この使いを自分から離れ去らせるように三度も主に願ったとあります。このとげが、パウロの伝道活動を妨げていたのは間違いなく、それゆえサタンの働きと表現したのでしょう。

パウロがささげた三度にわたる祈りは、イエス様のゲッセマネの祈りに近いような、心の底から訴え出た祈りだったと想像します。そしてついに、パウロはこの祈りの応答を受け取ります。

私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。

イエス様は地上でのサタンの働きを知りつつ、それをゆるしておられた上で、パウロに対しては愛をもって、恵み深くあることを伝えられました。とげを伴う肉体の弱さを前提として、それが役立つように(思い上がりを制御する)神様の力は働いていたのです。パウロがこれまで歩んできた苦難(10節:侮辱・窮乏・迫害・行き詰まりの状態など)を通して神様の恵みは絶えることなく、その中で「力」として働いていたのです。

*「わたしは弱い時にこそ強い」(10節)

私達は夜空の星の輝きを「空を見上げない限り」見ることも知ることも出来ません。それと同じように、神様を仰ぎ見ない限り神様の恵みも見ることも知ることも出来ません。恵みとは、それを受けるのに値しない者であるにもかかわらず、神様の愛と赦しが与えられて、日々守られていることです。私達が自分に与えられている 担うべき苦難の中に置かれた時、私達は自分の無力さ・弱さを嘆くのではなく、神様にその苦難を訴える時、神様は私達の弱さを引き受けられたうえで神様の力が働いていることを教えて下さいます。今週も神様を見上げつつ、注がれている恵みを数えながら歩んでいきたいと願っています。

3月24日の説教要旨

詩編34:16-23  ルカ福音書24:28-35

「主の復活③」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、13節の前の見出し「(イエス様が)エマオで現れる」の記事の後半部分です。前回の説教で話した前半部分を思い出しましょう。エルサレムから北西に離れたエマオ村への道中で二人の弟子達が「復活の主に出会った」のですが、もったいないことに、彼らはその御方がイエス様だと気づかないままでした。

*エルサレムの出来事への弟子達の無理解

 「主の十字架」「御遺体の埋葬」「3日目の空(から)の墓」「『イエス様は復活なさった』という天使の証言」等の出来事は、その二人の弟子達にとって、大変衝撃的な体験でした。後の時代の私達は、「だからこそ、神の御子救い主イエス様!」と思えます。本当の神様からの救い主であるイエス様は預言どおり「苦難の僕」として歩み、その極致として「十字架」に付けられたこと、更には、御自分の苦難を前にしても、父なる神様に従う従順さを示したので、未だ誰にも与えられなかった「復活の栄誉」を神様からいただいたことを私達は知っています。ところが、エマオへの道中の弟子達はそうとは知らず、「暗い顔をしていた」(17節)のです。生前のイエス様御自身から「受難と死と復活」について3度も聞いたにもかかわらず、彼らはその本当の意味がわかりませんでした。彼らが特別愚かだったのではなく、「意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できないようにされていた」(18:34)とルカ福音書にはあります。

*神様の御業を理解できない弟子達に助けの手を差し伸べる主

 エルサレムでのイエス様にまつわる一連の出来事は、神様がなさった出来事であって、それは、限界のある人間の理解力だけでは、到底理解できないことです。無限の神様のことを有限である人間が理解するためには、神様側からの助けがなければ無理です。それで、「復活の主」が愛する弟子達の所に自ら来てくださり、落胆した彼らが本当の意味を理解できるように、助けの手を差し伸べてくださったのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(一つ目)「主の御言葉」

 その助けの一つが「主の御言葉」です。旧約聖書にある「主の御言葉」=預言者達の預言、及び、先述のイエス様御自身の預言(受難と死と復活)を「復活の主」(彼らはまだ気づいていませんが)自らが解説してくださったことが、神様の特別な助け(一つ目)なのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(二つ目)=「パン裂き=聖餐式」

 食事の時に、イエス様は、二人の弟子達に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)のです。「すると、二人の心の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とあります。「主」がそうなさったと言えるでしょう。同時に、人間的に考えても、彼らが復活の主と気づいたことは説明はできます。祈ってパンを裂くという御様子を見て、彼らは「5千人の給食」(ルカ9:16)や「主の晩餐」(ルカ22:19)での主の御姿を思い起こしたのでしょう。特に、「主の晩餐」で、主は十字架上で裂かれる御自分の肉体を想起させるものとしての「パン」、そして、十字架上で流される血潮を想起させるものとしての「葡萄酒」、これらを味わうことを聖礼典として弟子達が継承するように制定なさいました。この聖礼典、即ち「聖餐式」は、主の十字架だけでなく、主の復活の栄光をも示し、神様の救いの御業の恵みを弟子達が理解するために主が用意なさった助けであると捉えられます。

*「復活の主」との出会いによって、朽ちぬ希望に満たされた弟子達  

ここで、彼らが「復活の主と出会った」と認識した瞬間に、主の御姿は消えたのに、彼らは今度は絶望しなかったことに注目です。彼らは「復活の主」と出会った後は「心が燃えていた」(32節)と自覚し、朽ちぬ希望を得たと感じたのです。それだけでなく、彼らはエルサレムから離れるのを止め、逆に戻りました。180度の方向転換です!更には、一番弟子でありながらイエス様を3度も知らないと否認した、罪深いシモン・ペトロにも「復活の主」が現れてくださった恵みが知らされました。「復活の主に出会った」という弟子達の2つの証言により、「復活の主」が弟子達に現れてくださる恵みが真実だと認識され、弟子達の心は絶望から希望へと変えられました!

2月3日の説教要旨

詩編38:16-23 ルカ福音書22:66-23:12

「権力者達による裁判」 平賀真理子牧師

*はじめに

イエス様は、救い主の役割を果たすための「十字架」という死刑判決を受けるにあたり、3つの階層の人々から裁判を受けたことが記されています。1つめの階層の人々は、ユダヤ教指導者を含む最高法院の議員達、2つめは、ローマ帝国から派遣された「総督」であるピラト、3つめは、ガリラヤの領主であるヘロデ(ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパス)です。2つめと3つめは、権力者一人からの尋問であり、現代の裁判で言うなら、裁判前の「検察官の尋問」という感じだと想像できるでしょう。

*イエス様を受け入れることを拒否したユダヤ人指導者層による裁判

1つめの裁判においては、最高法院の複数の議員達が、イエス様から証言を引き出そうと質問攻めにしているようです。彼らの関心事はただ一つ、「ナザレ人イエス」が、待ちに待った「メシア(救い主)」なのかを本人の口から聞くことです。ところが、イエス様は、彼らの本心、つまり、「ナザレ人イエス」がメシアであっては困る、メシアであるはずがないと思い込んでいる、その心を見抜いておられたのです。イエス様を救い主と信じる気持ちが最初から無い人々に対して、イエス様は「御自分がメシアである」という真実を語られませんでした。それでも、その一言を引き出そうとする人々を前にイエス様が真実を語っても「あなたたちは決して信じないだろう」と預言なさいました。更に、その次の御言葉「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」については、「イエス様がメシアである」と聞いた人間は、イエス様に従う覚悟を尋ねられると知っていることで理解できるようになります。。父なる神様から派遣されたメシアである御自分に聞き従う覚悟があるかと尋ねても、最初から信じる気持ちのない最高法院の議員達は、従うとは決して答えないとイエス様は預言されたのです。なぜなら、22章53節にあるように、その当時は闇(サタン)が御自分を殺そうと力を振るうだろうとイエス様は御存じだったからです。神の民であるユダヤ人の指導者層は、本来真っ先に救い主たるイエス様を受け入れることを神様から期待されていたはずなのに、彼らの心をサタンが狙ったのでしょう。彼らは、既得権益保持の願望やイエス様人気に対する嫉妬に捕らわれて、神様からの啓示を受け入れない罪に陥り、サタンに利用されました。一方、罪深い議員達の中に立たされたイエス様だけは、父なる神様に従い続け、十字架の先に用意された栄光を信じる姿が際立っています。「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(60節)には、十字架という苦難を前にしても揺るがず、父なる神様とその御言葉を信じ続けるというイエス様の覚悟が込められています。

*「わたしがそう(メシア)だとはあなた(たち)が言っていることです」

上記の小見出しの御言葉とそれに似た表現の言葉(22:70と23:3)をイエス様は語られましたが、聞き手により、全く反対の意味に取られました。前者では、質問者達が「イエス様がメシアか」という問いを本人が肯定したとし、イエス様有罪の自白としました。一方、ピラトの「あなたはユダヤ人の王か」という問いに対し、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答え、ピラトはイエス様がユダヤ人の王を自称したわけではないとし、ローマ帝国への反逆について無罪と定めようとしたのです。

*父なる神様に従い続けたイエス様とサタンに支配された人間達

ユダヤ人達から反抗されることも、イエス様に関わることも避けたいピラトは、イエス様の出身地ガリラヤの領主ヘロデにもイエス様を尋問させました。日頃お互いの権力拡充を巡って敵対する二人が、ナザレ人イエスを重視しないという共通項で親しくなりました。神様が願われる人間同士の関係の本来の姿は、神様への信仰を基盤にした信頼関係です。ピラトとヘロデは、主への不信仰、つまり、神様抜きで人間関係を結ぼうとしたわけで、神様の御心に反しています。これも、サタンの支配を裏付ける証拠だと言えるでしょう。サタンとその支配下の人間達が蠢(うごめ)く中にあって、神の御子・救い主イエス様だけが神様につながる(垂直の)線をしっかり保ち、静かに泰然と神様の御心に適った言動を取り続けておられたのです。

1月27日の説教要旨 「闇が力を振るう時」 平賀真理子牧師

詩編14:1-7 ルカ福音書22:47-65

 

*はじめに

アドベント前に読み進めていた「ルカによる福音書」に戻りましょう。

22章39節-46節「オリーブ山での祈り」(「ゲツセマネの祈り」)まで読み終わっています。最後の晩餐に続いて「十字架への道」が粛々と行われている中で、イエス様は、十字架の過酷さを予感され、それは出来れば無くしてほしいと御自分のお気持ちを父なる神様に祈られました。ルカ福音書によれば、その祈りが終わり、恐らく、弟子達とまだ話されている内に、イエス様を逮捕しようとする人々が来たようです。

 

12人の弟子の一人「イスカリオテのユダ」の裏切り

イエス様の主要な12弟子の一人、イスカリオテのユダが、イエス様を裏切ることがここで明らかになっています。その場にいた他の人々は何が起こったのか、すぐにはわからなかったかもしれませんが、イエス様お一人だけは、事態の深刻さがお分かりになり、親しい間柄で行われる接吻の挨拶が、敵への合図に用いられたと残念に思われたのでしょう。「接吻で人の子を裏切るのか」という御言葉の「人の子」という語に注目しましょう。これは、イエス様が御自分を救い主として客観的に表現なさる時に使われた言葉です。弟子ならば、そのことを知っていたはずです。イエス様は、このユダに「あなたは救い主を裏切ろうとしている。その罪の重さをわかっているのか.。裏切りはやめなさい。」と伝えたかったのではないかと思われます。

 

*取り巻きの人々の反応とイエス様の姿勢

一方、取り巻きの人々は、武器を持った人々に取り囲まれて、本能的にも、この場を切り抜けたいと思い、剣を用いて、抵抗することを提案し、実際、敵方の一人を傷つけたことが記されています。この事態を受け、イエス様は暴力沙汰を止めさせ、傷ついた人の癒しをなさいました。人間の様々な思惑や暴力の中、イエス様だけが「癒し主」として、神様から与えられた使命に忠実であり続けられておられます。

 

*「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53)

主の逮捕を巡って右往左往する人間達を、イエス様は決して彼らのせいだと責めておられません。なぜなら、ユダを含む逮捕に来た人々は、かつては、イエス様と共にいた人々であり、むしろ、それが本来の姿であるとイエス様は思ってくださっていて、状況が変わってしまった今は、闇と表現されるサタンが人々を「救い主」に歯向かわせている、と受け止めてくださっていることが53節から読み取れるからです。ルカ福音書では、4章13節で「悪魔(サタン)は時が来るまでイエスを離れた」とあり、その後は姿を見せず、22章3節で再びサタンが現れ、イスカリオテのユダに入ったと記されています。そこからイエス様が十字架にかかって復活なさる前まで、サタンは最後の悪あがきで暴れ回ることを許され、主に対して人間が反抗するように画策することを、イエス様はよく知っておられたのです。

私達人間は、短絡的に、サタンなんか、神様が力で負かしてくださればいいのに!と思ってしまいますが、それこそが、力で押さえつけるサタンの方法です。神様は、サタンやサタン側についた人々さえも自ら神様に従いたいと思えるように取り計らわれます。それが神様の方法です。

 

*「主の憐れみ」と、サタンが誘発した「ペトロの否認」と主への暴力

ユダだけはなく、一番弟子と言われたペトロもサタンに利用され、「イエス様を知らない」と3度も言う「ペトロの否認」が起こりました。これは、イエス様の預言の実現でもあります。イエス様は、それもサタンの仕業であり、その後にペトロが信仰を失わないように祈ったと語られました(ルカ22:31-34)。恐れのためにイエス様を裏切ることになったペトロに対し、罪無き主は憐れみの眼差しを向け、それによって、ペトロは自分の罪深さに気づかされ、激しく泣くことになりました。更には、弟子達だけでなく、逮捕したイエス様を見張る番人達も、サタンに利用されて、主を侮辱し、暴力などを振るいました。ここに、サタンに支配されている人間の罪深さが現れており、だからこそ、神の御子による救いが必要だと悟らされます。

11月18日の説教要旨 「オリーブ山での祈り」 平賀真理子牧師

詩編75:2-11 ルカ福音書22:39-46

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所は、マタイ福音書とマルコ福音書で語られている「ゲツセマネの祈り」の出来事が記されています。エルサレムの東の方の郊外に「オリーブ山」があり、恐らく、その一画が「ゲツセマネ」と言われ、イエス様はエルサレム滞在中は、そこを祈りの場として、よく用いられたということでしょう。イエス様が十字架にかけられる直前、弟子達を連れ、ここで熱心にお祈りなさったと、ルカ福音書を含めた3つの福音書は大事に語り継ごうとしています。

 

 *ルカ福音書の「オリーブ山での祈り」の特徴(他の福音書との違い)

上記の他の2つの福音書での「ゲツセマネの祈り」では、「3人の弟子の選び」や「3弟子の疲れによる居眠りを主が3度発見すること」などが記されています。しかし、ルカ福音書ではそれには触れず、別のことを伝えようとしているようです。それは、イエス様の祈りの真剣な御様子と、「弟子達が眠り込んだのが、悲しみの果てだったこと」です。

 

 *御自分の使命を悟りつつも、弟子達と共に祈ることを望まれた主

弟子達との最後の晩餐が済み、いよいよ十字架への定めが間近となった中で、イエス様はオリーブ山のいつもの場所へイエス様は行き、弟子達も従っていきました。そこで、イエス様は、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と指示なさり、御自分は石を投げて届く距離で、一人で祈り始められたのです、イエス様は、天の父なる神様に、まず「父よ」と呼び掛け、迫る「十字架の定め」を取りのけてほしいと祈られました。十字架にかかることは、救い主としての御自分の大いなる使命で、 人々の罪を肩代わりすることです。しかし、この世で人間の肉体を持って歩まれていたイエス様にとって、十字架上で刺し貫かれることは想像するだけでも恐ろしく、できれば避けたいと思われたことでしょう。こんなギリギリの状況を、弟子達と一緒に祈りつつ、乗り切れたら!とどんなにか望んでおられたことでしょうか。

 

 *サタンの誘惑に陥り、主と共に祈り続けられなかった弟子達

しかし、弟子達は、イエス様の預言どおり、サタンの誘惑に陥りました。ルカ福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。彼らは、イエス様の祈りや御様子から、近い将来の危機を察知し、「大きな悲しみ」=「自分の思い」に捕らわれ、神様に頼ることを忘れたために、サタンの仕組んだ「睡魔」に負け、大事な時に眠り込む失敗をしたと言えるでしょう。イエス様と弟子達とのこの世での最後の祈りの場面で、サタンは、主と弟子達の一致を邪魔し、その間を裂く試みにおいて、一時期成功したのです!

 

 *「わたしの願いではなく、御心のままに」 

イエス様は逮捕される直前、父なる神様に「御自分の杯」=「十字架という苛酷な定め」を取り除いてほしいとの自分の願いを表明しつつも、一番大事なことは父なる神様の御心の実現だと祈ったことは、3つの福音書共に書かれています。この祈りは、私達信仰者の祈りの模範です。神様への祈りの中で、自分の願いを勿論打ち明けてよいのですが、最終的には、父なる神様の御心が実現されるように!という姿勢が重要です。なぜなら、これこそが、自分が一番でなければ許せないサタンには決してできない祈りであり、神様最優先のイエス様と弟子達だけができる姿勢だからです!

 

 *「天使の出現」と「イエス様の苦悶」

イエス様の祈りの御言葉と謙虚な姿勢を、天の父なる神様がどんなに喜ばれたかが、ルカ福音書だけに明示されています。それが43節です。「天使が天から現れて、力づけた」とは、天の父なる神様が御自分の御心に適った祈りをしたイエス様を応援なさったこと示しています。これだけ考えれば喜ばしいのですが、実は、同時に、イエス様の十字架への道の確定を父なる神様が示されたわけです。天使の出現でそれを悟ったイエス様だから、44節にあるように、御自分の身の上に起こる十字架刑の現実を前に、より一層苦悶し、だからこそ、神様に頼って、より一層切実に祈られたのです。

 

 *「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」

イエス様は、弟子達と歩んだ御経験から、人間の弱さをよくご存じの上で、それでも「(霊的に)起きて祈っていなさい」とおっしゃいました。十字架と復活によって既にこの世に勝利したイエス様が、弟子たる私達に期待してくださっているのですから、この御言葉を守ることに励みましょう。

9月30日の説教要旨 「主があなたにしてくださったことを」遠藤尚幸師(東北学院中高 聖書科教諭)

詩編103:1-22 マルコ福音書5:1-20

 

 ゲラサ人の地方へ

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」

今日、私たちに与えられましたマルコによる福音書5章1節には、そのようにありました。何気ない1節です。もし、私たちが聖書の中から好きな聖句を選ぶとして、この1節を選ぶ人はまずいない。そんなふうに読み飛ばしてしまいそうになるような言葉です。しかし、私は、この1節には、聖書が、私たちに伝えようとする良き知らせのメッセージが凝縮されていると感じます。「一行」とあるのは、主イエス・キリストの一行です。「一行」というくらいですから、主イエスの他にも何人かいたわけです。直前の箇所を見てみますと、どうやらそれは、主イエスと主イエスの弟子たちだったことが分かります。前の頁の4章35節にはこう記されています。

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」

「夕方」ですから日が陰ってくるくらいです。夜の暗闇がすぐそこまで来ている。そんな時に、主イエスは弟子たちに、目の前にあるガリラヤ湖を越えて「向こう岸に渡ろう」と言ったのです。「向こう岸」には何があるのか。それが、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている場所です。ゲラサ人は、当時のユダヤの人々から見れば、神様から見捨てられたと考えられていた人々です。ユダヤ人は、汚れを嫌います。もし、そんな土地に足を踏み入れたなら、間違いなく自分たちまでも汚れてしまう。通常なら、誰も近づきたくないと考える土地が「ゲラサ人の地方」と言われる場所です。しかし、今日の箇所では「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。主イエスの呼びかけにしたがって、弟子たちは夜の湖に船を出しました。彼らは、その湖で突風に会いました。船は波を被りました。弟子たちの中には漁師出身の者も複数いました。プロの漁師たちも慌てふためくような突風でした。船は水浸しになりました。主イエスが共にいましたが、自分たちの命を失うかもしれない、そんな経験をしました。そして船はたどり着きました。弟子たちにとって、決して希望満ち溢れる土地に着いたわけではない。彼らが自分たちの命を投げうってまで着いたのは、忌み嫌っていた土地、ゲラサ人の地方でした。

 

悪霊にとりつかれた人

そこには一人の人がいました。主イエスは、この人に会い、この人を救うために、弟子たちを連れてゲラサまで来ました。この人は、主イエスが船から上がるとすぐに「墓場」からやってきました。どうして墓場からやってきたのか。それはこの人が墓場に住んでいたからです。この人は、悪霊に取り憑かれていた人でした。それで、人々は何とか彼をつなぎとめようとしていました。それは家族だったのかもしれませんし、友人だったのかもしれません。しかし、彼は、その鎖や足枷をたびたびはずしてしまいました。「足枷」や「鎖」は否定的な言葉ですが、しかし、裏を返せば、彼をなんとか自分たちの傍につなぎとめておきたい。そんな周りの人々の思いが読み取れる言葉でもあります。しかし、人々にはどうすることもできなかった。それで彼は、人々から離れ、墓場を住処にするしか居場所がありませんでした。この人は、主イエスにかけよると、助けを求めるのではなく、こう言いました。実はこう言わせたのは彼の中にいた悪霊です。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないで欲しい」

主イエスは真の神様です。真の神様の前で、悪霊が力をふるうことはできません。なぜなら、神様と悪霊は対等な立場で対立するものではないからです。もう既に勝敗は決まっている。神様が来たならば、悪霊は退かなければならない。聖書において悪霊とはそういう存在です。神様の前では無力です。悪霊はそのことをよく知っていたので、「汚れた霊、この人から出て行け」という主イエスの言葉に、逆らうことなく、「頼むから苦しめないで欲しい」と言いました。主イエスがこの悪霊に名前を尋ねると悪霊は自らを「レギオン」と名乗りました。レギオンとはローマ帝国で最も大きな軍隊の名前です。それほどこの悪霊は力がありました。しかし、キリストの前では、ローマ帝国最大の軍隊をもってしても無力です。

 

弟子たちと共に

主イエスはどうして、このゲラサに弟子たちを連れて来たのでしょうか。神の子ですから、ひとりでも十分だったはずです。その証拠に、この聖書の箇所に弟子たちの活躍の場は初めから終わりまで一つもありません。ではなぜでしょうか。キリストは、弟子たちに教えたかったのだと感じます。あなたがたの知らない世界がある。神様のご支配する世界がある。そしてその世界は、今この地上に実現している。そのことを教えたかったのだと感じます。忌み嫌う存在、汚れがうつるかもしれない存在。本当はそんな人はいないのだということです。主イエスがこの地上に人として生まれ、弟子たちと共に、人々と共に生きられ始めたその時から、もうこのゲラサの人もまた神の国、神様のご支配の中にいるのです。私たちは、この人にとって、神様のご支配は、主イエスが今、このゲラサにたどり着いた時から始まったと考えるかもしれません。しかし、それは違います。この人に対する、神様のご支配は、もっとずっと前から始まっている。キリストがこの地上に小さな赤ちゃんとして生まれ、成人し、そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたそのときから、このゲラサの人もまた主イエスの救いの射程の中に入れられたのです。主イエスはそのことを弟子たちに教えるために、ゲラサに着く前から、「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちをゲラサまで連れてきました。ゲラサにいたこの人だけではありません。この主イエスの救いの射程の中に、私たちもまたいるのです。私たちは、決して、足枷や鎖を引きちぎっているわけではありません。墓場に住んでいる訳でもありません。しかし、私たちだって、墓場を生きるかのような経験をすることがあるはずです。一人ぼっちで、苦しくて、どうしようもない、そんな辛い思いをすることがあるはずです。自分に生きている意味などあるのか、そんな暗闇を経験することがあるはずです。キリストはそういう私たちを、今、救いの射程にきちんと入れてくださっている。私たちの生きているこの生活の中にも、今、主イエスが来てくださっているのです。

 

悪霊の追放

主イエスはこの人から悪霊を追い出しました。その描写は聖書の記述の中でも、忘れることのできない描写です。「レギオン」と呼ばれた悪霊は、2000匹の豚に乗り移ると、その豚の群れは崖をくだっていき、湖になだれ込み、次々とおぼれ死んでいきました。この人の苦しみがどれほど大きかったのかが分かります。キリストはその苦しみを取り除いてくださった。この人はそれで正気になりました。興味深いのは15節の言葉です。

「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」

この人はただ悪霊が出ていってそれで正気になったというわけではありません。この人は今「座ってい」ます。どこに「座っている」のか。それは、主イエスの足元に座っています。私たちが真に正気になっていく、重荷から解放されていくということは、主イエスの足元に座る存在になるということです。そこで、主イエスの言葉を聴きつつ生きる。主イエスは神の子です。私たちに命を与え、私たちを愛し守り導きたもう神様の言葉を聴きつつ生きることこそ、私たちが真に正気になるということです。私たちにとって、この悪霊追放の出来事は、主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエスが、神の子でありながらどうして十字架につけられ死ななければならなかったのか。それは私たち人間の罪がそれほど深いものだったからです。私たちは自分のことをそれほど罪深い存在だと考えることがないかもしれません。しかし、キリストが十字架で、私たちの罪を背負い死んだことを知るときに、どれほど私たちの罪が深いのか、私たちは知ることができます。それは、2000匹の豚が、崖をくだり溺れ死ぬことにも勝る、私たち自身ではどうしようもなく深い罪の現実です。しかし、その暗闇に生きている私たちのところに、今日、キリストは来てくださっている。そしてご自身の十字架の死を通して、私たちの罪を豊かに赦し、私たちを神の子としてくださっている。このゲラサの人に起きている救いの出来事が、今私たちにも起きています。

 

主があなたにしてくださったことを

主イエスは人々に追いやられるように、その土地を去ることになりました。主イエスが船に乗りその場を去ろうとすると、この人は「一緒に行きたい」と願いました。主イエスと共に生きたい。この人の素直な思いが溢れています。しかし、主イエスはこの人にこう言いました。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい」。

「自分の家に帰りなさい」。それは、あなたにはあなたのするべき仕事があるということです。主イエスがあなたにしたこと、そのことを、このゲラサの地にあなたが伝えること。それが、この人の新しい生き方です。私たち教会も、するべきことは実はそんなに難しいことではありません。主イエスが自分にしてくださった出来事を、他の人に伝えること。これが、私たちが神様のことを伝えるということの根本です。20節には「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。福音はこのようにして広まって生きます。一人の人の救いを通して、その人の語る言葉を通して、「ああこんな自分も、神様に愛されていた存在なのか」と、気づかされていくのです。私たちは今日、ここで、その福音の恵みに触れています。主イエスが今日、私たちと出逢っていてくださっていて、今ここに、私たち一人一人の真の救いが実現しています。この美しい信仰の物語を聴いた後で、3節の言葉を読むと、最初に読んだ時とはまるで違った意味の言葉として受け取ることもできると、私は思います。つまり、「主の赦しによって罪から自由にされる人間」が、予兆として、前もって示されていると感じます。

「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」

主イエスに救われた喜びは、この人を自由にし、足枷、鎖を真の意味でほどいていきました。この人は、もはやどのような鎖でも、どのような足枷でもつなぎとめておくことができないほどに、神様のことを伝える証人として歩み出していきます。キリストとの出逢いは、その人を新しく誕生させました。全く違った世界が、キリストとの出逢いのうちにはあるのです。(私は、使徒パウロの回心した姿を思い起こします。パウロだけでなく、)私たちもまた今日、今ここで、新たに生まれ出ます。どのような罪も、どのような神様に対する不誠実さも、不信仰も、私たちを縛り付けることはもはやできません。私たちは、大胆に、そして自由に、主イエスキリストの十字架の罪の赦しに、生きる者とされているからです。

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

今日私たち一人一人にも、主イエス・キリストの福音が届きました。