2020年5月10日の説教要旨 創世記2:18-25 ヨハネ福音書2:1-11

「婚礼での奇蹟」   加藤秀久伝道師

*はじめに

神様は、初めに天地を創造され、人を土のちりから造り、その鼻に神様からの命の息を吹き込んで人は生きるものとされました。命の息が神様より直接吹き込まれたことにより、人は他の生き物と違って特別に造られたこと、神様のかたちに似るように造られたことが記されています。

神様はエデンに園を設け、人を住まわせ、耕し守るようにされました。また神様は「人が独りでいるのは良くない」と、彼に合う助け手として彼のあばら骨の一部から女を造られました。それゆえ男は妻と結ばれ、二人は一体となりました。神様は天地創造の初めから、男の人と女が夫婦になることを定められました。このことは世界における結婚の始まりであり、結婚は、神様が定めて下さった祝福の一つであることを知ることができます。しかし創世記3章以下には、この最初の結婚も神様と人間との関係も、エデンの園での悪魔の策略により破壊されたことが記されています。<悪魔の攻撃は今も続いています>。破壊された神様と人間の関係の回復こそが、聖書全体に貫かれている神様の御心であり、このご計画を完成させるために「不思議」と「しるし」と「奇蹟」が行われているといえます。

*カナの婚礼での奇蹟・・ヨハネによる福音書2:1-11

 今日の箇所は、イエス様の、神様の御心を示す最初の奇蹟でした。ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、イエス様の母マリアは助け手として招かれ、イエス様と弟子達も招待されていました。当時イスラエル地方の婚礼の披露宴は一週間も続き、又、申命記24:5では「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。」とあります。イエス様の時代の婚礼も、このような神様の祝福に溢れるものであったに違いありません。ところがお祝いの席の途中でぶどう酒が切れてしまいました。途中でぶどう酒が無くなるのは、喜びや楽しみ、神様の祝福がなくなってしまうようなことでした。皆さんでしたらこのピンチをどう回避しようとなさいますか?

*マリアの対応

マリアはこのことを知り、その家の人にではなく、来客の一人としておられたイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。

イエス様は「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは「公の場にわたしがキリストであることを現わす日は、まだ来ていません。」との意味を含んでいましたが、マリアは召使い達に「イエス様が言う事は、何でもその通りにして下さい」と言いました。

*イエス様のなさったこと

イエス様は召使い達に「水がめに水を満たしなさい」と言われました。水がめは6つあり、一つの水がめには80ℓ~120ℓの水が入りますので、水がめを満たすには2ℓ入りボトルに換算すると360本分位必要です。それは大変な労力が必要で、何度も井戸に水を汲みにいかなければならなかったはずです。水がめが一杯になったのをご覧になったイエス様は、その水を汲んで世話役のところへ運ぶように言われました。世話役は、いつの間にか最高に美味しいぶどう酒に変わっていた水の味見をしました。この出来事を目の当たりにした弟子達は、イエス様を信じました。イエス様の凄さ、偉大さ、素晴らしさを体験したからです。

*神様は私たちにも・・・

私達は、このようなイエス様のなさった奇蹟を体験しているでしょうか。イエス様は、ただの水をぶどう酒に変える力を持っておられます。時に私達は困難な出来事や問題が、空から降ってくるように、又、隣の人から投げつけられるような形で突然に起こります。特に家族や親族や友人から与えられた問題には心が痛み悩むものです。しかしこのような試練がある時こそ、御言葉に帰り、神様に祈り、静まり、委ねることが大事であり、神様に、その問題を明け渡すことが必要です。「あなた方の会った試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(新改訳聖書Ⅰコリント10:13)

2020年4月19日の説教要旨 詩編16:7-11 ヨハネ福音書 20:24-31  

「命を受けるための道」  佐藤義子牧師

*はじめに

私達は、先週の日曜日イースター礼拝をおささげしました。今朝はヨハネ福音書20章を通して、復活されたイエス様が、マグダラのマリアと、弟子達およびトマスと出会われた出来事をご一緒に学びたいと思います。

*マグダラのマリア

イエス様の御遺体に塗るための油と香料を用意して、日曜日の早朝まだ暗い中を、マグダラのマリアはお墓に向かいました。しかしお墓には遺体はなく、マリアからそのことを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐお墓にかけつけますが、お墓には、遺体が包まれていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いがあっただけでした。二人の弟子はそのことを確認した後、家に帰って行きました。(20:9「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」) 

しかしマリアは、帰ることが出来ず、お墓の外で立って泣いていました。泣きながらお墓の中を見ると、二人の天使が遺体のあった頭の方と足の方に座っていました。マリアは天使とは分からず、イエス様の遺体が取り去られたことを訴えます。遺体に執着(しゅうちゃく)していたマリアは、さらに、復活さたイエス様から声をかけられた時でさえイエス様とはわからず、園の管理人と思いこみ、遺体のことを聞いています。

私達は時々、マリアと同じようなことをしてはいないでしょうか。イエス様がすぐそばにおいでになるのに、自分から探して「遺体」を引き取ろうとする愚かさです。しかしよみがえられたイエス様は、マリアの、この悲しみの涙を放ってはおかれず、弟子達より先にマリアに現れて下さり、そして、弟子達への伝言を託されたのでした。

*弟子達への聖霊授与

 同じ日曜日の夕方、弟子達が迫害を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた時、復活されたイエス様は来られて真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架による傷口をお見せになりました。そして弟子達に息を吹きかけ、世界伝道へと遣わすために「聖霊を受けなさい」と、「聖霊の賜物」と「罪を赦す権威」(および、赦されない罪への権威)をお与えになりました。この「聖霊の賜物と罪を赦す権威」は、「あなたは生ける神の子です。」との信仰告白を土台として建てられた、「教会」の伝道者及び共同体に託され、2000年来、継承され続けています。

*トマス

弟子達にとって、よみがえられたイエス様との再会はどんなに大きな喜びと励ましとなったことでしょう。ところがその日、弟子達と行動を別にしていたトマスは、復活のイエス様にお会い出来ず、この喜びを共にできず、聞いても信じることが出来ず、イエス様の復活は、自分の目と手で確かめるまで信じないと言いました。復活のイエス様にお会いする素晴らしい恵みのひと時を逃してトマスはどこに行っていたのでしょうか。又、他の弟子達との関係はどうなるのでしょうか。 

*「見ないのに信じる人は幸いである。」

イエス様は、八日間という時間を経たのち、疑いと不信仰の中にいたトマスを弟子仲間に戻すために再び弟子達を訪ねられ、「あなたがたに平和があるように」と言われました(この平和は、神様の業、賜物です)。

そしてトマスに「あなたの指をここに当てて・・あなたの手を伸ばし・わき腹に入れなさい」と、望むことをするように言われた時、トマスの口から出た言葉は「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。

見ないのに信じる人は幸いである。」とイエス様が言われた通り、2000年を越える今も、教会で、又、私達の伝道所で、イエス様を見ないのに信じる幸いな方々」が起こされています。 *「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)。信仰は、聖霊が働くことによって私達に届けられ、確信が与えられます。そして信じた者には永遠の命が与えられています。「イエス様を信じる者は死んでも生きる」(11:25)のであり、私達信仰者は「信仰の実りとして魂の救いを受けている」(Ⅰペトロ1:8)のです。

2020年4月12日の説教要旨 出エジプト記14:15-22 ヨハネ21;15-19

「主を信じる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

 本日は、主の復活を記念するイースター礼拝です。イエス様は死に勝利をして、私たちに新しい命を与え、神様の栄光を現されました。本日の、旧約聖書の出来事も又、神様がモーセを通して行われた勝利の物語です。

*絶対絶命の時

本日の出エジプト記には、モーセがイスラエルの民とエジプトを脱出した後、エジプト軍に追われ、葦(あし)の海を前に、行き場を無くした時のことが記されています。イスラエルの民はモーセに「なぜ、エジプトから我々を連れ出したのか。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましだ」とつぶやきました。

皆さんは、行き場を無くした時、どのようなことを感じ、その行き詰まったことにどのように対処するでしょうか。モーセは、この絶対絶命の状況において、あきらめることなく、逃げ出すことなく、神様に向かって助けを祈り求めました。

神様はモーセに『杖を高く上げ、海に向かって手を差し伸べて、二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。』と告げました。モーセはこの神様の言葉を信じ、従いました。

*神様のみ業

神様は、追って来たエジプト軍を押し留めるために、み使達に命じ、エジプト軍とイスラエルの人々との間に闇をつくられたので、エジプト軍は、一晩中その真っ暗な雲にさえぎられ、近づくことが出来ませんでした。

さらに、モーセが神様の言われた通り、海に向かって手を差し伸べると、神様は強い東風をもって海を押し返され、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々は、水が右と左に壁のようになっているのを見ながら、乾いた地を進み、向こう岸に着くことが出来ました。さらに神様は、追いかけてくるエジプト軍の戦車の車輪を外し進みにくくされ、イスラエルの人々が渡り終わると再びモーセに、手を海に差し伸べるように言われ、その通りにすると、水は戻りエジプト軍は水で覆われ、一人も残りませんでした。

 (ぜひ一度「十戒」の映画を見て頂きたいと思います)。

神様には不可能はありません。私達が考える以上に不思議な業やしるしを行なわれます。

私達は、祈りが聞かれるという小さな奇跡の積み重ねの中で神様に感謝し、揺るがない信仰へと成長させていただきたいと思います。

*「わたしに従いなさい。」(ヨハネ福音書21:19)

 復活されたイエス様は、弟子達にご自身を現されました(21:1-14)。

漁で魚が捕れなかった弟子達に、その網に魚を一杯にされる奇跡を行なわれました。そして捕れた魚とパンでペトロ達と朝食をとり、食事が終わるとイエス様はペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。ペトロは「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。そして、同じ会話が印象的に繰り返されます(21:16-17)。

イエス様が三度も「わたしを愛しているか」と言われたのでペトロは悲しくなりました。それはイエス様が十字架に架かる前にイエス様のことを「知らない」と言ってその場から逃げるように立ち去ったことを思い出したからかもしれません。又、せっかく「ペトロ・岩」という名前をつけて下さり、教会を建てる土台として期待して下さったにもかかわらず、その期待に応えられなかったとの思いがあったのかもしれません。ペトロは確かにイエス様を愛していたはずですが、イエス様のことを否定して逃げ出した自分を恥じ、イエス様を裏切ってしまったとの思いが、イエス様の「愛」にまっすぐに応えることを出来なくしていました。

しかしイエス様は同じ問答を繰り返す中で「全部分かっている、わたしはとっくに赦しているのですよ」と言われるのです。そしてもう一度ペトロがイエス様に従うことの出来る道を作って下さいました。 神の前に出る資格などないと落胆し、絶望する私達に、イエス様は「全部分かっている、わたしはあなたを赦し、愛しているのですよ」と語って下さいます。イエス様の十字架には私達の全てを受け入れ、赦す力があります。そしてイエス様の復活には「わたしに従いなさい」と言って下さるイエス様からの招きがあるのです。

2020年3月29日の説教要旨  詩編119:105・ヨハネ福音書 12:27-36

「光のあるうちに」    佐藤 義子牧師

*はじめに

来週の日曜日は、イエス様がエルサレムの町に入城した棕櫚(しゅろ)の主日であり、受難週に入ります。本日の聖書は、過越祭の礼拝の為、エルサレムの町に入られたイエス様が、群衆に語られている言葉です。12章27節に「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」とあります。イエス様の心が騒いでおられる。イエス様でも、そのような状態の時を過ごされたことを改めて知らされます。イエス様にはこの時、すでに逮捕状が出されていました。

父よ、私をこの時から救ってください』の、「この時」とは、23節の「人の子が栄光を受ける時が来た」の「時」であり、御自分の命をささげる時です。ですからこの祈りは、ご自分が死ななければならない道とは別の道を祈っているように思われます。が、内村鑑三は、「この時から救って」の『から』は、「その中から」という意味を含む(原語)ので、正確には、「苦痛を免れることではなく、苦痛の中に入り、この道を通過して、その後に、その中から」私を救ってください、と、読んでいます。

*しかし

イエス様の祈りは、このあと、「しかし」という言葉をはさんで、御自分の進むべき道は、神様の御意志に従う道であること、それが受難の道、死へと向かう道であり、それを担うためにイエス様は生れてきたのであり、地上に遣わされてきた、と言われ、祈りは「父よ、み名の栄光を現して下さい」(神様のみ名が崇められ、神様のみ名が輝くように)で終りました。その時、大きな出来事が起こりました。

*天からの声

それは、天からの神様のみ声が聞こえたのです。み声は「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」です。神様はこれまでイエス様を導き、イエス様が語られた言葉や業により、神様のみ名が崇められてきましたが、これからも続けて神様の御業が行なわれるとの約束の言葉です。「神様が神様であられること」「神様のお名前が崇められていくために、これからの十字架と復活という出来事の中で、神様の御業を行われていく」との約束です。

しかしその場にいた群衆は、この大きな出来事が、ある者は「雷」の音として聞こえ、ある者は「天使の声」と聞きました。しかしイエス様は、このみ声は、その場にいた群衆のためと言われています。イエス様が神の御子であることが分からない、信じていない人達のためでしたが、正しく聞くことが出来た人はいなかったようです。

*「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)

今、世界で起こっている新型コロナウイルスの出来事の中に神様からのメッセージがあるとするなら、それは何かと考えます。多くの方々もそれを聞きたいと神様に祈っていることでしょう。ある人はバベルの塔を例にしながら、人間のおごり高ぶりに対する神様からの警告と考え、ある方々は終末を意識して過ごすといわれます。私達は日常的にいろいろな出来事に遭遇しますが、それらを通しても、今も生きて働いておられる神様からのメッセージがあるように思われます。み声(聖書のみ言葉)を聞くのは、聖霊の働きをキャッチするアンテナが不可欠です。「目を覚ましていなさい」を心に刻みたいと思います。

*「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(36節)

イエス様は、十字架は、神様のこの世に対する裁きであると伝えます。そして信仰を持つようにと語られます。イエス様は、すべての人を照らす光(ヨハネ福音書1章4節)としてこの世に来られました。

イエス様は「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と呼びかけます。

今しなければならないことは決断であること、今はまだ光がそこにある。だからじっとしていないで行動すること。やがて暗闇がやって来る。もしイエス様によって恵みを得ようとするなら、今、それを得ること。人生においては、すべてのことが時のある時間になされねばならないこと・・をイエス様は教えられます。「光の子」とは闇から解放された者、恐れから解放され、疑いから解放され、誰も取り去ることが出来ない喜びを内に持つ者です。最後に、12章44節~50節をお読みいたします。 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。

2020年3月22日の説教要旨  詩編119:97-104・ヨハネ福音書 12:1-8

「聖化された愛」      佐藤 義子牧師

*はじめに

 本日の説教題を「聖化された愛」としました。「聖化」とは、「あるものを聖なるものにすること」「聖なるものにされた状態」を言います。

「聖」という言葉は、神が聖であり、神から選ばれた民は聖なる民であることが根底にあります。聖には、俗世間、あるいは日常的なものから引き離すという意味、又、神に献(ささ)げられるために清められたものに使われます。

*イエス様を取り囲む環境

今日の箇所は、イエス様が過越の祭りの6日前にべタニアに行かれた時の出来事が記されています。この出来事のあと、イエス様は過越祭に行くため、エルサレムの町に入られ、弟子達への告別の説教・最後の晩餐・ゲッセマネの祈り・逮捕と大祭司による尋問・続くピラトからの尋問・そして死刑判決・十字架での死・・への道に向かって進んでいかれるのです。

今日の箇所の直前(11章最後)に、こうあります「祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。

イエスを逮捕するためである。」つまりこの時点で、イエス様には逮捕状が出されていました。逮捕される理由は一つもなく、ただ当時の宗教的指導者達にとってイエス様の存在が自分達に不利益をもたらすこと、権威が脅かされ、群衆の人気がイエス様に向かうことへの妬みにより、神を冒涜しているとの理由をつけてイエス様を殺そうとしていました。このことをイエス様はすべてご存じの上で、弟子達と共に、今、エルサレムの町に近いベタニアに来られたのです。エルサレムの町は、祭りの為に、世界各地から、大勢の人々が巡礼者としてやってきますので、町は人々で溢れるため、近隣のべタニアは巡礼者達の宿泊場所の一つでもありました。

*ナルドの香油

今日の出来事が起こった場所についてヨハネ福音書には記していませんが、マルタが給仕をしており、イエス様によって甦らせてもらった兄弟ラザロも同席していたことから、マルタとマリアの家ではないかと考えることが出来ます。イエス様たち一行が来られることを聞いて食事の会が催(もよお)されました。

この席で、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。その結果、家は香油の香りでいっぱいになりました(3節)。ナルドは、ヒマラヤやネパールの高地でとれる植物で、イエス様の時代、インドから輸入されていて大変高価なものでした。香油の量は1リトラ(約330g)とあり、ユダの言葉によれば、300デナリオンの価値(当時、1日の労働賃金が1デナリオン)があったようです。通常このような高価な強い香りのする香油は、敬意を表そうとする客の髪の毛に、ほんの一滴注いでいたということですから、この時のマリアの行動は、そこにいたすべての人を驚かせたに違いありません。

*マリアの行為

強い良い香りが部屋中に満ちる中、その場は一瞬、空気が止まったようになったのではないかと想像します。マリアのその行為は、マリアがどんなにイエス様を尊敬し慕っているか、誰の目にも明らかに映ったことでしょう。マリアは、これ迄のイエス様との出会いを通して、イエス様こそ神の御子救い主であられることを確信していたに違いありません。そしてイエス様の今回の訪問、今年の過越祭の時が最後になるかもしれないとの予感が、マリアを、このような大胆な行動へと向かわせたように思います。

 ある神学者(テニイ)は、「マリアは霊的な識別力を備えていた。

イエス様の心に共感した者が持つ洞察力があり、イエス様が自分達と共に長くおられることは出来ないと直感した」と書いています。

同席していた人々の中で、イエス様との地上での別れの時が,もうそこまで来ているとの思いと緊迫感を、マリアと同じようにもっていた人は、どれほどいたのだろうと思いつつ、私もマリアと同じようにイエス様の心を知ることが出来るようになりたいと思いました。

*空気を破ったユダ

マリアの行為から生まれたこの場の空気を破ったのは、弟子の一人、イスカリオテのユダでした。彼は、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施(ほどこ)さなかったのか。」(5節)と言いました。相手を批判し、裁き、その間違いを指摘し、その行為を責めている言葉です。

ユダにとっては、その行為は浪費・無駄使いであり、使われた香油は300デナリオンという大金にしか見えなかったようです。彼は会計係でした。かつて群衆の多くは、イエス様のパンの奇跡などを見てイエス様を王にしようと捜し回ったこともあり、ユダも又、イエス様がこの世に於いて力を行使することを期待していたでしょう。ところがイエス様の生き方は、それとは逆に、御自分を待っているのは「受難と死」であることを弟子達に語っていますので、ユダにとっては自分の期待が裏切られる中、自分の身を守るために、会計係として預かっているおおやけのお金から一部を抜き取っていたことが、ヨハネ福音書の著者によって書き加えられています。高価なナルドの香油を自分に預けてくれたなら、それを高く売りその一部を自分の懐に入れられたのに、と、その悔しさからマリアを詰問する言葉となったと思われます。そのような自分の損得感情を隠してユダはマリアに、「貧しい人々に施す機会をあなたは捨ててしまった」と責めたのです。

*サタンの働き

悪魔サタンの働きは、いかにも人間らしく、信頼出来そうなかたちや言葉をとって近寄って来ます。それゆえ一般社会において、ユダの言い分に同調する人が出てくる可能性は大きいのです。 私達はこのような偽善(サタンの働き)に対して、見破る上よりの知恵を求めていかなければなりません。又、私達は、ユダのマリアへの批判は「おかしい」と感じます。それは、その人が所有している物を、その人が好きなように用いるのは当然であり、他人がそのことに対して批判し、干渉するのは間違っていると考えます。しかし当時は女性の人格は低く、人前で男性に自分の考えを述べることなど出来なかったのでしょう。誰かが助け舟を出さない限り、この場において、マリアは「高価な物を無駄使いする女性」とのレッテルをはられてしまう場面です。

*聖化された愛

イエス様は、ユダの言葉に対してこう言われました。

この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の為に、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

イエス様はマリアの行為を、「ご自身の葬りのため、埋葬の準備のための奉仕であり、日常的な来客に敬意を表す香油と区別され、特別な奉仕としてなされた行為」であることを伝えました。

イエス様の、この奉仕の意味づけにより、マリアの行為は、「時宜(じぎ)にかなった行為」であることが、おおやけにされました。マリアの、イエス様への、人目をはばからずに捧げた愛の奉仕は、イエス様によって聖化され、高められました。

この受難節の時に、私達はイエス様に何をささげたいと望むのか、何を喜んで受けていただけるのか、自分に与えられている賜物を思い起こしつつ、ささげるものが、主の御用に用いていただけることを願いつつ、今週一週間を歩みたいと願うものです。

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<参考までに>

*香油の物語については、すべての福音書に記されていますが、少しずつ内容が異なります。この出来事は、古くから初代教会に伝わった伝承の中の一つであり、福音書記者によって伝えたい事柄や強調したいことの違いが、違いとして表れていると考えられます。

○マタイ福音書(26:6-13):場所は、らい病のシモンの家。一人の女がイエス様の頭に香油を注ぎ、これを見て憤慨したのは弟子達。 

○マルコ福音書(14:3-9):マタイ福音書と同じ。憤慨したのはそこにいた何人かの人。

○ルカ福音書(7:36-50):場所は、ファリサイ派の家。香油を注いだのは一人の罪深い女であり、批判者はファリサイ派の人。

2020年3月1日の説教要旨

 創世記28:10-22・ヨハネ福音書1:43-51

         「最初の弟子たち②」    平賀真理子先生

*はじめに

 前回、1か月前の礼拝説教で、今日の箇所の直前をお話しました。その時、主の本当の弟子として招かれた者は、主の許に留まり続けることを期待されていると話しました。今日の箇所では、主の許に留まり続けた結果、どうなるのかが示されています。共に読み進めてまいりましょう。

*新しく加えられた弟子たち ―フィリポとナタナエル―

 今日の新約聖書箇所の直前で、アンデレやシモンなど3人がイエス様の弟子となったと記されていました。続いて今日の箇所では、新たに2人の弟子が加えられます。フィリポとナタナエルです。フィリポは、他の3つの福音書にも名前が出ています。しかし、ナタナエルは、他の福音書では同じ名前は出ていません。ただ、常にフィリポの後に書かれている「バルトロマイ」と同じ人で、別の呼び名だろうというのが通説です。

*イエス様とフィリポとの出会い

 イエス様とフィリポとの出会いでは、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われ(43節)、フィリポはすぐに従ったようです。フィリポはナタナエルに対し、イエス様を「旧約聖書で預言された救い主である」(45節)と証ししました。短い時間でフィリポはイエス様を本当の救い主とわかるように、聖霊に導かれたのだと思われます。

 もう一つ特筆すべきことは、フィリポの言葉「来て、見なさい」(46節)です。実はこの言葉は、直前の段落の39節のイエス様の御言葉と同じだからです。一番最初の弟子となった2人に対して、イエス様が語った御言葉が「来なさい。そうすれば分かる。」と新共同訳聖書では訳されています。これは意訳で、原語では、イエス様の御言葉とフィリポの言葉は、同じ動詞が並べられています。単純に訳せばどちらも「来て、見なさい」です。フィリポはイエス様との出会いで「イエス様を救い主と信じる信仰」が与えられ、主と同じ御言葉を語る者に変えられているのです!主の弟子すべてに与えられる恵みの一つが示されているわけです。私達も、信仰によって、主と同じ御言葉を語ることが許され、そして伝道するように導かれると読み取れます。

*ナタナエルがイエス様の許に導かれる過程

 フィリポから「イエス様が救い主である」と聞いたナタナエルは、最初はイエス様の出身地ナザレを差別する意識から、フィリポの証しを信じる気持になれませんでした。けれども神様は人間の狭い考えを悠かに超えて御計画を実現なさり、ナタナエルを、イエス様の許に導きました。たとえフィリポの口を通したとしても、イエス様が語った御言葉の力が、ナタナエルを主の許に導いたと言えるでしょう。この後、ナタナエルの人生が激変するのです。

*イエス様とナタナエルとの出会い

 イエス様はナタナエルを見て、まず、「この人には偽りがない。」とおっしゃいました。「偽りがない」との言葉は「策略などを心に持たない」という意味があります。後にイエス様は、ユダヤ教指導者達の策略によって十字架に付けられるわけですから「偽りがない」は主に従う弟子にとって必要な性質です。また「いちじくの木の下にいる」(48節)とは、当時この地方の人々は、大きな葉をつけるイチジクの木陰で勉強していたとの史実から、ナタナエルがユダヤ教を熱心に勉強していたことを意味するというのが一般的な解釈です。自分の本性や過去の行動をまるで見ていたかのように言い当てられたナタナエルは、イエス様を「神の子、イスラエルの王」(49節)と言いました。これはユダヤ教では待望の「救い主」を意味する言葉です。ナタナエルは、ユダヤ教をよく学んだ者として、イエス様を救い主と信仰告白したわけです!

*「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

 「もっと偉大なこと」を、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りすること」と説明されました。創世記28章からも分かるように、苦難の道のりでも、主なる神様は、愛する者に天から働きかけてくださることを意味しています。イエス様のこの世の歩みは「十字架への道」であり、人間的には「偉大なこと」とは真逆です。でもこれこそ、父なる神様がイエス様に課せられた「偉大なこと」です。このことを主の弟子たちは理解して伝道することが、人生の本当の目的だと知らされているのです。

2020年2月16日の説教要旨

詩編32:1-7 ヨハネ福音書 5:1-18

          「起き上がりなさい」     佐藤義子牧師

*はじめに

本日の聖書は、イエス様が祭りの為にエルサレムに来られた時の出来事です。ユダヤの人達が祭りの度ごとにエルサレム神殿での礼拝を守る時、イエス様ご自身も人々と同じように律法に従われて、エルサレムに行かれました(大勢の人達が集まる時を、宣教の機会としても用いられました)。

エルサレム神殿を最初に建てたのは、旧約時代のソロモン王様ですが、その神殿はバビロニア帝国によって破壊され、バビロン捕囚の時代を経て、ペルシャ王によって神殿再建の許可が出され、だいぶ小さくなりましたが、完成の喜びは大きなものでした(エズラ記6:13~、ネヘミヤ記8章参照)。

その後 神殿は、歴史の変遷と共に多くの受難を受けた後、イエス様の時代には、ヘロデ大王が壮大な規模のものに建て直し(ヨハネ福音書2:20)、神殿を含むすべての面積はエルサレムの旧市街の6分の一に当たり、巨大な石垣の名残は、今も、「嘆きの壁」として見ることが出来ます。

このエルサレム神殿から約350メートル北に、「ベトザタ(口語訳聖書はベテスダ)」の池」を囲んで五つの回廊(柱の高さ8,5m、屋根もある)がありました。池から100mほどの所にはローマの軍隊の駐屯地と、総督官邸があり、神殿で何か起こればすぐ駆けつけられるようになっていました。

*横たわる大勢の人々

ベトザタの池を囲んだ回廊には、病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人が大勢横たわっていました。立派な神殿の近くに、大勢の苦しむ人々が集まっていたのは、そこが神殿への通り道で、施しを受けることが出来たという理由の他に、4節(ヨハネ福音書の最後に掲載・212頁)に「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」とあります。(ある注解書では、この池が間欠泉で、時々活性を帯びた水の噴出による治癒作用が起こり、最初に入る者は活性の強い水に触れられたと考えています)。

*「良くなりたいか」

イエス様のまなざしは、その中の一人の人に向けられました。彼が38年間病気のために苦しみ、起きて歩くことが出来ないことをイエス様は知り、彼に「良くなりたいか」と声をかけられたのです。

イエス様の問いかけ「良くなりたいか」とは、「あなたは、今ある状態にとどまっていることに満足しているのか。それとも、本当に変えられたいと思っているのか」との、彼の意志の再確認の言葉として聞くことが出来ます。彼の「「治りたい!良くなる時がいつか来る!」との願いは、38年間も空しく待ち続けたために、いつしか無感覚なあきらめの境地に陥っていたことでしょう。良くなりたいと思っても、良くなる時が来るとは実際には考えていなかったでしょう。彼は、誰も自分を助けてくれる人がいない、と絶望的な状況を訴えることしか出来ませんでした。

*わたしたち

カルヴァン(神学者)は、「私達は、この病人と同じことをやっている」と言いました。以下はその説明です。「この人は、自分の考えに従って、神様の助けに枠(わく)を定め、限界づけをして、自分が受け入れられる範囲を超えることは認めない。しかしキリストはその寛大さのゆえに、彼の不完全さを大目に見て下さっている。私達は、自分に近い手段だけにとどまっているのに、キリストは、すべての期待に反して、人知れないところから手をさしのべられ、私たちの信仰のせまさ、小ささをどんなに上回るものであるかを示される。・・だから私達もさまざまな苦悩に責められながら、どんなに長い間どっちつかずの状態に置かれても、時間の長さに嫌気を起こして、勇気を無くしてはならない」。

*「起き上がりなさい」 

私達が、あることを願いながら、現実の絶望的な状況を前にして、あきらめ、無気力に陥(おちい)り、祈り求めることをやめようとする時、(あるいはやめた時でさえ)「神様の時」が来るとイエス様の愛のまなざしは私に向けられて「良くなりたいか」と尋ねられ、癒(いや)し主(ぬし)イエス様の権威あるお言葉「起き上がりなさい」との声を今も聞くことが出来ます。

2020年2月9日の説教要旨

出エジプト記3:13-15・ヨハネ福音書8:21-30

       「神からの知識とこの世の知識」     佐藤義子牧師

*はじめに

 約2000年前に、神様の深いご計画により、神の御子イエス様が人間としてこの世に誕生され、宣教の使命を果たしていかれます。イエス様と同じ時代に生きて、イエス様と直接 言葉を交わした人々が沢山おりますが、イエス様とそれらの人々との会話を、時(歴史)と場所(空間)を越えて、今を生きる私達も知ることが出来るのは、本当に嬉しく、恵みです。

 けれども、聖書は、イエス様と、イエス様を信じようとしない人々との会話を通して、私達に,イエス様の言葉が人々の心の中に素直に入っていくことを拒む人間側の傲慢さやかたくなな心による誤解を明らかにします。

*「私は去っていく。あなた達は私を捜すだろう。だがあなた達は自分の罪の内に死ぬことになる。私の行く所に、来ることが出来ない。」(21節)

今日の箇所は、7章からの、イエス様とユダヤ人指導者達との会話の続きです(8章前半は除く)。イエス様は御自分が去った後、ユダヤ人指導者達は自分達が間違っていたことを悟り、イエス様を捜すことになるが、見つけることは出来ずに自分の罪の内に死ぬことになると予告します。

人間を神から引き離すのは罪です。罪には「的(まと)をはずす」という意味があります。神の御子を、自分の救い主として受け入れることを拒む者は、人生における「的を外した」人と言えます。なぜなら、「罪の行き着くところは、死にほかならない。」(ロマ6:21)「罪が支払う報酬は死です」(同23)とあるように、私達に「死」があるのは「罪」の結果です。しかし神様は、私達を愛するゆえに御子イエス様をこの世界に送って下さり、御子は、私達の罪をすべて引き受けて十字架で死なれました。それゆえ自分自身の罪(神から離れていた)を認め、悔い改めてイエス様を神の御子と信じる者は「罪の赦し」が与えられ、死を越えて「永遠の命」をいただいています。

*ユダヤ人指導者たちの罪

イエス様から「私の行くところに、あなたたちは来ることが出来ない。」と言われたユダヤ人指導者達は、イエス様が自殺でもするのでは・・と話しています。自殺者は呪われるので、自分達はそのような地獄には行かれないと軽蔑しているのです。イエス様は、天におられる父である神様のもとに戻ることを言われているのです。

*「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」(23節)

私達すべて人間は、この世に生まれ、この世の中で育てられ、この世に属しています。私達の持つ知識は、すべてこの地上につなぎ留められています。この世は神様が造られた被造物であるゆえ、神様はその独り子をお与えになったほど、この世を愛して下さいました(ヨハネ3:16)。それにもかかわらず、この世には無知があり、神の御子が来たのに、この世は御子を認めませんでした(今も、その状況は続いています)。この世は、神から離れて罪と死の支配下に置かれているのです。

イエス様は罪の鎖につながれていた私達の、その鎖を断ち切り、罪の支配から救い出して、神様の支配下に移し変えて下さる道を開いて下さるため、「上」から「下」へ降りて来て下さいました。

*救いへの道

イエス様が開いて下さったその恵みにあずかるために、私達は何をしたら良いのでしょうか。聖書にはこうあります。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」(使徒言行録2:38)。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(同16:31)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われます」(ロマ10:9)。

*「わたしはある」(神の名・出エジプト記3:14)

「わたしはある」とは、そこに神様が臨在されている、永遠に存在なさるお方であることを意味し、イエス様ご自身がそのような存在であることを宣言されています(ヨハネ8:24)。(参照:イザヤ書43:10-13)。


2020年2月2日の説教要旨

詩編139:1-10・ヨハネ福音書1:35-42

        「最初の弟子達 ①」     平賀真理子先生

*はじめに

 仙台南伝道所の開設当初からの目標は、イエス・キリストの本当の弟子を目指すことです。私達の主イエス様の弟子と言えば、12弟子のことを連想するでしょう。彼らがイエス様に出会った後、主に従うようになったいきさつは、4つの福音書に書かれていますが、特にヨハネによる福音書を深く読むと、その葛藤を、他の福音書よりも読み取ることができます。

*洗礼者ヨハネの証しによってイエス様の弟子となった2人の弟子達

今日の新約聖書箇所に入る前に、直前の出来事からお話しする方がよいでしょう。神の民として旧約聖書を奉じてきたイスラエルの人々は、神様を大事にすることを何よりも重視し、神様への礼拝を司る祭司達を尊敬しました。この家柄に生まれ、イエス様を「救い主」と証しして洗礼を授ける役目を果たしたのが「洗礼者ヨハネ」でした。彼こそ、「神様が約束なさった救い主」と期待されたのですが、彼自身は「後に現れる救い主を証しする役割だ」と語り、それが実現したことを福音書は記しています。彼はイエス様を「神の小羊」と繰り返し呼びました。これは、イエス様が人々の罪を身代わりとして贖う「贖い主」という面を強調しています。この証しを聞いて真剣に受け止めたのが、元々は洗礼者ヨハネの弟子だった二人でした。人間的に見れば、最初の先生(洗礼者ヨハネ)の目前で、次の先生(イエス様)に従うのは、礼儀に欠けるように思えますが、彼らは人間の思いよりも神様の御心を尊重したことになります。

また、今日の聖書箇所に入ると、洗礼者ヨハネの証しは別の重要な働きもしたとわかります。即ち、旧約から新約への継承です。旧約の完成の象徴と言われる洗礼者ヨハネから、新約の主であるイエス様へ弟子達が引き継がれたということです。

*イエス様の2人の弟子達への最初の問い「何を求めているのか」(38節)

 この2人の弟子達は、しかし、イエス様に直接何か言って従ったのではなかったようです。もしかすると「救い主」を前に緊張して何も言えなかったのかもしれません。そんな彼らに対して、もちろん、イエス様は咎めたりなさらず、まず、「何を求めているのか」(38節)と問われました。この問いは、この2人の弟子達だけでなく、後の時代の私達信仰者への問いかけと受け止めるべき御言葉ではないでしょうか。私達は主のこの問いに対して胸を張って答えられる生き方をしているでしょうか。

*2人の弟子達の答え「どこに泊まっておられるのですか」(38節)

 今日の箇所に戻り、問いを直接受けた2人の弟子達の答えを見てみましょう。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」(38節)です。これはイエス様の深い問いの答えとなっているでしょうか?ずれていますね。実は、この「泊まる」と訳された言葉の元々の言葉は、「宿泊する」という意味の根本に、「留まる」「存在し続ける」という意味を持っています。この弟子達は、イエス様の具体的な宿泊先を知りたかったかもしれませんが、彼らの心の奥にはイエス様が「神様と同じ存在として留まり続けておられるのか」、つまり、「本当に神様から遣わされた救い主かどうか」を知りたいと求めていることを、本人達ではなく、イエス様が既にわかっておられたと読み取れます。宿泊先だけなら、それを確認して帰宅させればよいと思えますが、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃった後、彼らと共に泊まったのです(39節)。その間、2人に対して、イエス様は御自分が神様と同じ存在として留まり続ける御方であるという言動をとられたのだと推測できるでしょう。

(ルカ福音書24章の「エマオでの復活の主と2人の弟子達の出来事」を想起させられます)。きっと、彼らは霊的な目が開かれ、「イエス様は救い主」だと確信したのでしょう。

*アンデレ=兄弟シモンや他の人々をイエス様の許に連れてきた弟子

この2人の弟子の内の一人は、初代教会の指導者の一人シモン(後のペトロ)の兄弟アンデレであり、アンデレが先にイエス様に出会い、兄弟を連れてきたと示されています。シモン・ペトロはイエス様の預言どおり、教会の岩=礎となりました。アンデレは、これ以降も様々な人をイエス様の許へ連れてくる働きをしました。私達も、自分自身が主の許に招かれ、主が救い主と分かったのですから、主の許に留まり、周りの人を主の許に連れて来られるように聖霊の助けを祈りましょう。

2020年1月26日の説教要旨

詩編19:2-7 ヨハネ福音書 2:1-11

         「イエス様の宣教の開始」    佐藤 義子牧師

*はじめに

今日の聖書は、イエス様の「最初のしるし」(11節)と言われるガリラヤのカナという町で、イエス様が弟子達と共に村人の婚礼に招かれた時の出来事が記されています。この婚礼の場に、イエス様の母もおりました。カナは、イエス様家族が住むナザレの町からそれほど遠くなかったようで、おそらくマリアは、知人の家での接待を手伝っていたと思われます。

*「ぶどう酒がなくなりました」(3節)

結婚を祝う宴会の席で、飲み物の「ぶどう酒」が途中で尽きてしまったことから今日の聖書は始まります。花婿の実家は庶民の家で、裕福ではなかったようです。裕福であればぶどう酒は豊かに蓄えられていたことでしょう。マリアはぶどう酒が尽きたことに気付き、この状況を何とかしなければ・・と、息子のイエス様に助けを求めてきたことは想像できます。

お祝いで飲むぶどう酒がなくなったことが明らかになれば、主催者側の花婿や家族は恥ずかしい思いをするでしょうし、花嫁側の家族にしても、不本意でありましょう。喜びを共にしようとお祝いに来た人達にとっては興ざめとなるでしょうし、結婚という、人生の中でも最も喜ばしい祝いの席から喜びも半減してしまうかもしれません。マリアはこの窮状をイエス様に伝えることによって、イエス様は何らかの方法で助けてくれるに違いないとの強い信頼があったことを思わされます。ところが、イエス様のマリアへの返事は、期待を裏切るような言葉でした。

*「婦人よ、わたしと どんな関わりがあるのです。」

 イエス様は母マリアに対して「婦人よ」答えます。丁寧な呼びかけですが、親子の関係を絶ち切るような言葉でマリアと向き合われています。なぜでしょうか。それは、イエス様の使命をマリアに正しく伝えることにあったと思われます。イエス様の使命は、母マリアの為に仕えることではありません。マリアの願望ではなく、神の御意志が先行します。

神様から今、地上に遣わされている目的は、神の国の福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、神様のもとへと帰るように促す「宣教」です。イエス様はこの使命を果たすために、弟子を選び、これから厳しい道へと歩みを進めていきます。御自分が人々の救いの為に神様の力をいただく時は、いつ、どのような時なのか、イエス様ご自身、神様の御意志を尋ねつつ祈りの中で決断していかれます。母マリアはそのことを理解して、息子との関係を新しい関係へと変えていかねばなりませんでした。

*「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(5節)

 母マリアのイエス様に対する信頼と確信は強く、イエス様にすべてを委ねた後、手伝いの人に、イエス様の言葉に従うように指示を出していきました。ユダヤの家庭には、常に自分自身を清く保つための、手を洗う律法のおきてがあり、そのための水が水ガメに用意されていました。

イエス様は手伝いの人に、水ガメに水を一杯入れるように命じました。

次にそこから汲んだものを世話役の所に持っていくように命じました。水が世話役のところに届いた時、水はぶどう酒に変えられていました。

*「喜び」の奉仕者として  

イエス様は、初めはマリアの願いを退けられたように見えます。しかし御自分が何をなさるべきか神様の御意志を仰いだ後、イエス様ご自身の決断でこの「しるし」を行われました。「しるし」とは神様が私達の世界に入ってこられた「しるし」です。イエス様がこのしるしを行われたのは、花婿への同情や母の言葉に仕える為ではなく、花婿の家の人達に対する「喜び」の奉仕者として仕えること、祝宴を全うさせることが御心であったということでしょう。世話役は花婿に「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、,酔いがまわった頃に劣ったものを出すが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれた。」と言いました。私達の社会では初めはみんな良いものを用意しますが、その状態を続けようとはしません。しかし神の国では最初は「ただの水」(私達)でも、神様の自由な裁量で力が働く時にぶどう酒!に変えられていきます。与えられた各自の信仰は、私達に新たな使命を与え、感謝と喜びの生活へと導いていくのです。