説教要旨 「救われるためには」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]116編1-7節 1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6 哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7 わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 /n[使徒言行録]16章16-40節 16 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 17 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」 18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 19 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。 20 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。 21 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」 22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。 23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。 24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。 25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。 28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」 29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、 30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。 33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。 34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。 35 朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。 36 それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」 37 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」 38 下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、 39 出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。 40 牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。 /nはじめに  今日は、伝道旅行先のフィリピで起こった出来事から学びます。パウロ達は祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれた女奴隷と出会いました。女奴隷は幾日もパウロ達の後をついてまわり、叫び続けました。パウロはついにこの女に宿る占いの霊と対決して、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じました。「イエスの名」には、イエスご自身の力と約束があります。それゆえに、イエス・キリストの名前による命令に、占いの霊は従うしかありませんでした。 /n獄における神様のわざ  この占いでお金をもうけていた主人達は、その道が途絶えたことを知り、パウロとシラスを捕えてローマの執政官に引き渡し、二人が町を混乱させ、非合法な教えを宣伝していると訴えました。群衆も一緒に騒いだ為、高官達は二人の衣服をはぎ取り何度もむちで打ち、投獄し、足かせをはめました。 パウロとシラスは獄の中で、鞭打ちの傷の痛みや、足かせで眠れない苦しみの中にあっても、「賛美の歌を歌って神に祈っていると、他の囚人達はこれに聞き入っていた」(25節)のです。このような時にも讃美して祈る彼らを通して、真のキリスト者は苦しみの中でも神をほめたたえることが出来ることを学びます。その時、突然、大地震が起こり、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖が外れました。 /n看守の救いへの道  駆け付けた看守は戸が開いているので、囚人たちが逃亡したと思いこみ、自殺しようとしました。パウロは看守に大声で「私達はみなここにいる。」と叫びます。看守は二人に対して、震えながらひれ伏し、尋ねました。 >> <span style="font-weight:bold;">「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」</span> << /n救われる道への第一歩  看守の、この「問い」こそが救われる道への第一歩です。 この問いは、「自分は救われなければならない人間である」ことを知らされた者の問いです。看守は、パウロとシラスに出会ったことによって、救われていない自分に気付き、救いを求めたのかもしれません。その他、小説「氷点」のテーマのように、「原罪」という自分ではどうすることも出来ないものを持っていることに気付いたことから救いを求める方もおられるでしょう。或いは、この世の困難と苦しみという八方塞がりの中で、そこから救われる道を求める方もおられるでしょう。そしてその第一歩が、「救われるためにはどうすべきか」との問いです。 /n問いに対する答え >> <span style="font-weight:bold;">「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」</span> <<  これが答えです。主イエス・キリストが、神の子であり、私の救い主であると信じる決断をして、そのことを公に告白した時、人は救われるのです(ロマ10:9)。パウロ達は看守に神の言葉を語り、家族全員すぐに洗礼を受けました(33節)。洗礼を通して私達は、キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生きます。看守は二人を自宅に招き、食事を共にし、神を信じる者になったことを家族と喜びあいました(34節)。 /n福音のために、すべてを明らかに。  翌朝、執政官たちは、こっそりと二人を釈放するよう部下に命じます。パウロとシラスは、恥と屈辱を加えられたままこっそり町をでることを拒否し、ローマの市民権を持つ自分達に不当な待遇と不法を行ったことに対して、執政官みずからが出向いて牢から連れ出すように求めました。 「釈放」という一つの出来事に対しても、二人は、「福音を恥としない」(ロマ1:16)生き方、福音は確かであることを示したのです。フィリピの町で信仰生活を続けていくキリスト者達や、フィリピの教会の為にもそれは大切なことでした。二人は執政官に見送られ、紫布の商人リディアの家に行き、彼らと交わり励ましてから、次の町に出発していきました。

「神の言葉で造り上げられる」 牧師 佐藤 義子

/n[エゼキエル書]33章1-9節 1 主の言葉がわたしに臨んだ。 2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。 3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。 4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。 5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。 6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。 7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。 8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。 9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。 /n[使徒言行録]20章17-38節 17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。 19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。 20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。 22 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。 23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。 25 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。 26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。 27 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。 28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。 29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。 32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。 34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。 35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」 36 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。 37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。 38 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。 /nはじめに  今日の聖書は、パウロがエフェソの教会のリーダー達に別れを告げるに際し、あたかも遺言を残すように語る場面です。パウロはまず、自分がこれまでどのように生きてきたかを思い起こしてもらいたいと語り始めます。第一に「自分を全く取るに足りない者」と思って主に仕えてきたこと、第二に「涙を流しながら」主に仕えてきたこと、第三に「ユダヤ人の陰謀の試練に遭いながら」主に仕えてきたことです。自分を低くして、涙を流すほど真剣に誠実に教会の人々に向き合い、自分の福音宣教に反対する人達との戦いに負けることなく戦ってきた仕事を、これからはリーダー達が引き継ぎ、担い、教会を守り導いていくのです。 /nパウロが語った二つのこと  さらにパウロは、自分は教会に役に立つこと、有益なことは、公衆の面前でも方々の家でも、一つ残らず伝え教えてきたと語ります。その内容についてパウロは、「<span style="font-weight:bold;">神に対する悔い改め</span>」と「<span style="font-weight:bold;">私達の主イエスに対する信仰</span>」の二つを取り上げています。神を信じると言いながら、いつのまにか、自分の心を神としている人達に、神のもとに帰り、神中心の生活へと生き方を転換するよう教え導き、さらに、神様が救いの為に遣わした御子イエス・キリストを自分の救い主と信じて従うように伝道したのでありました。 /nパウロの任務  パウロは、自分の任務は「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しする」ことだと語り、この任務を果たし続ける為に、聖霊に促されて、投獄と苦難が待っているエルサレムに行くと話します。パウロは、自分に与えられた道を走り通すことが出来るなら、自分の命を惜しいとは思わないと語り、神様の救いのご計画、救いにあずかる道など、すべてを隠すことなく伝えてきたので、もし、そこから外れて滅びの世界に落ちる者がいたとしてもパウロに責任はないと明言します(エゼキエル書を参照)。エフェソのすべての教会員が、パウロが教えたキリストの福音と真理にとどまり、救いと永遠の命を手放すことがないように語っています。 /n教会とは  教会は「<span style="font-weight:bold;">神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会</span>」(28節)です。イエス様が私達の罪のために十字架で流して下さった血によって、私達は神様から赦され、聖められて、神の子とされ、教会の群の一員とされました。ところがパウロが去った後、教会には外から偽りの教えが入り込んだり、内部から邪説を唱えてキリスト者を惑わす者が出るなど、誘惑や困難に襲われる出来事が起こることを、パウロは予見していましたので、それらの誘惑や試練から守られる為にも、パウロは、これまで一人ひとりに夜も昼も涙を流して教えてきたことを絶えず思い起こして「目を覚ましていなさい」と警告します。 /n御言葉には「造り上げる力」がある  そしてパウロは、「<span style="font-weight:bold;">今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです。</span>」と語りました。  神様の恵みの言葉、神の言葉はキリスト者を造り上げ、神様の恵みを受け継がせる力をもっています。神の言葉は人間から出て来るものではなく、神から出て来るのであり、それは生きた神の力であり、人々を堕落と滅びから守り、人々を信仰の高嶺へと導き、人々を形成し築き上げていきます。詩編には「<span style="font-weight:bold;">あなたの御言葉は、私の道の光 私の歩みを照らす灯火</span>」や、「<span style="font-weight:bold;">どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉通りに道を保つことです</span>」とあります(119篇)。又、ヘブライ書に「<span style="font-weight:bold;">神の言葉は生きており、力を発揮し、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来る</span>」とあります(4:12)。  私達はこの神の言葉である聖書を手にしており、いつでも読むことが出来ます。そして礼拝ごとに、又、諸集会で御言葉を学ぶ機会があります。ここにおられるすべての方が、恵みの言葉によって自分自身を造り上げていただき、恵みを受け継ぐ幸いな者とされたいと願うものです。

「神の守り」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]1編1-6節 1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。 /n[使徒言行録]23章12-35節 12 夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。 13 このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。 14 彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。 15 ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整えています。」 16 しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。 17 それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」 18 そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。「囚人パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。何か話したいことがあるそうです。」 19 千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。 20 若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。 21 どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」 22 そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。 23 千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。 24 また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ、 25 次のような内容の手紙を書いた。 26 「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。 27 この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。 28 そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。 29 ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。 30 しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」 31 さて、歩兵たちは、命令どおりにパウロを引き取って、夜のうちにアンティパトリスまで連れて行き、 32 翌日、騎兵たちに護送を任せて兵営へ戻った。 33 騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡した。 34 総督は手紙を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキア州の出身だと分かると、 35 「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」と言った。そして、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた。 /nはじめに  今日の新約聖書は、見出しに「パウロ暗殺の陰謀」とあるように、ユダヤ人によってパウロを殺す陰謀が企てられましたが、それは失敗に終わり、パウロの命が守られた出来事が記されています。最初の段落には多くの人々が登場します。まずパウロの命を狙う40人以上のユダヤ人達。次に彼らが自分達の陰謀に加担するように頼みにいった祭司長および長老達。そして暗殺計画を聞き込み、それをパウロに知らせたパウロの甥。それを聞いたパウロが、千人隊長に知らせる為に呼んだ百人隊長。そしてパウロの甥から直接暗殺計画を聞いて、パウロの命を守る為に動いた千人隊長です。 /nパウロを巡る人々の思惑  陰謀を企てたユダヤ人達は、ユダヤの最高法院(最高議会)においてパウロを有罪判決に持っていこうとした人達です。彼らには、パウロが律法をないがしろにしており、生かしておいては大変なことになるという危機感がありました。そこで神殿にいたパウロを捕え、殺そうと暴行を加えていたところ、騒ぎを聞きつけたローマの守備隊によってパウロは連行されてしまいました。当時エルサレムはローマの属州になっており、治安維持にあたるローマの守備隊は、暴動が起こることを阻止する義務を担っていました。そのため千人隊長は、ユダヤ人がパウロを訴えている内容を詳しく知りたいと思い、ユダヤの最高議会を開いて審議させました。ところが、そこではパウロが有罪かどうかよりも、パウロと同じ復活信仰を持つファリサイ派と復活を認めないサドカイ派との間に激しい議論が起こり、結局パウロの身の安全を確保するため、パウロは兵営に戻されました。 /n殺すまでは飲み食いしないとの誓い  パウロを有罪判決に出来なかったユダヤ人達は、自分達の感情がおさまらず、何としてでもパウロの命を亡きものにしようと、ひそかにパウロを殺す計画をたて、殺すまでは飲み食いしないと固く誓いを立てたのです。その数は40人以上にのぼりました。彼らは自分を呪いの下に置き、「誓いを果たさなかったら自分は呪われよ」という覚悟です。 /n暗殺計画  彼らはまず、ユダヤ教指導者であった祭司長と長老達の協力を取り付けるため出かけて行き、彼らに、千人隊長の所に行って最高議会を再び開いてもらうよう、議会関係者と一緒に働きかけて欲しいと頼みました(21節参照)。パウロのことで議会が開かれれば、出頭途中のパウロを襲い、闇討ちにする計画だと伝えました。神に敵対する勢力は、人間の知恵を出し合い、外側からは良く練られた計略のように見えますが、どこかに必ずほころびが出てくるものです。 /n人間の計画と神様のなさること  この40人以上のユダヤ人達と接触していた人々の中にパウロの甥(姉妹の子)がおりました。彼はこの計画を聞いてすぐパウロに伝えました。パウロは、その暗殺計画を千人隊長に直接告げる必要があると判断し、百人隊長を呼んで、甥を千人隊長のもとに連れて行くように頼みました。千人隊長は、誰にも知られないように配慮をもってこの若者から事情聴取をしました。そして内容の重さを考え、この若者に、陰謀のことを口止めし、千人隊長は自分のするべき仕事にすぐとりかかりました。それは、パウロの身柄をエルサレムの兵営にとどめておくのではなく、カイサリアに駐留するローマ総督のもとに送りだすという仕事でした。 /n神の守り  パウロは再び千人隊長の機転によって、命の危険から守られました。しかし暗殺計画からパウロを守ったのは神です。神が陰謀を打ち砕いたのです。創世記に「アブラハムのイサク奉献」の出来事が記されていますが(22章)、これは私達に「神が備えて下さる」との信仰を教えています。神様は、人間の必要や危急や困難に当面した時、神様の知恵と全能と慈しみをもって、あらかじめ備え配慮して下さいます(神様の摂理)。パウロはこの後カイサリアへ護送され、ローマへの宣教の道が、一歩前進しました。 私達の歩みも同じように「神の守り」の中にあります。

「キリストは近くにおられる」 倉松 功先生(元東北学院)

/n[詩編]23章1-6節 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[フィリピ信徒への手紙] 4章5-8節 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 /nはじめに 3月11日に起きた地震、津波、そしてその結果である放射能汚染、そういった事柄を私共はどういうふうに聖書の御言葉によって理解するか、どう受け止めるか、そういうことが私達に課せられていると思います。これらの出来事を理解し受け入れるということについて、聖書のどの御言葉で理解するのか、二つの典型的な考え方、受け取り方があるように私には思えます。その一つは「神の怒り」です。人間の罪、人間の傲慢。それに対する神の怒り、として受けとめる考え方です。その根拠として、詩編18:8やイザヤ書13:11、13などの御言葉があげられます。 「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。」(詩篇18:8)。 「わたしは、世界をその悪のゆえに 逆らう者をその罪のゆえに罰する。 また、傲慢な者の驕り(おごり)を砕き 横暴な者の高ぶりを挫く(くじく)。」(イザヤ書13:11)。 「わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れる。万軍の主の怒りのゆえに その憤りの日に。」(イザヤ書13:13)。 それに対してもう一つの見方があります。その根拠として詩編46:3、4、8・イザヤ54:10があげられます。 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦(とりで)の塔。」(詩編46:3、4、8)。 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書54:10)。 きわめて対照的な聖書の言葉であります。私は今回の出来事を、後者の御言葉で受け取ってよいのではないかと思います。 今朝、読んでいただいたフィリピ書「主はすぐ近くにおられます。神の平和が、キリスト・イエスによって守られるでしょう。」と、詩編23編「主はわたしの牧者」との御言葉は、「万軍の主はわたしたちと共にいます。」「主の慈しみは移らず 揺らぐことはない。」という旧約聖書の内容をさらに深めることができるのではないかと思います。 /n「主はわたしの牧者(口語訳)「私には何も欠けることがない。」(1節) 聖書はしばしば「私とキリストとの関係」を「羊飼いと羊」に譬えて記しています。たとえば「わたしは良い羊飼いである。(ヨハネ福音書10:11)や、99匹の羊を残して迷える羊を探す羊飼いの話(マタイ福音書18:12-)があります。しかし中でもこの23編が良く知られています。今朝は23編を読んでいきたいと思います。   冒頭に「主はわたしの」とあります。主とはイエス・キリストのことです。キリストは「私の」羊飼いです。キリストは私達一人一人に、どのような羊飼いとして立っておられるのでしょうか。先ず「私には何も欠けることがない。」と言われています。すべてが満足出来ていると理解することが出来るでしょう。安全である、安心である、という気持もそこにあるかもしれません。しかし内容を読んでいきますと、現実の世界において死の恐れとか苦しみとか、そういうものがないわけではありません。現実の生活では、私を苦しめる者がいる、死の陰が迫っている、災いがあるとも書いてあります(4節5節)ので、「何も欠けることがない」というのはどういう意味かを理解することが、23篇の重要な課題といえるでしょう。   /n「主(キリスト)は、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(2節) 死の陰の谷、死の危険もある。それにもかかわらず「何も欠けることがない」と満足している理由は、「キリストは、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」からです。これは、 羊と羊飼いとの典型的な姿でしょう。この「青草の原に休ませ・・」の中に一つだけ見逃してならない言葉があると思います。 /n「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(3節) それは、「青草・・」と「死の陰の谷・・」の間にある「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」という言葉です。私達はこの意味を考えなければなりません。「正しい道に導かれる」を、キリスト者として最後に大事なことがあると語ったフィリピ書4:8の言葉と比べてみたいと思います。「終わりに兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 フィリピ書では丁寧に、おおよそ正しいこと、誰が見ても正しい、誰もが持っている正しさ、人間的な正しさ、人間的な真理、相対的な、きわめてありふれた、しかし誰でもが知っているまこと、正しさを言っています。それは、私共人間が考え、行なっている正しさであり、知っている真理であると理解できます。パウロは、「私共は日常、これを大事にしなければならない。」と言っています。それに対して詩編23編では、「正しい道」と、ひと言で言っています。「正しい道」と言われているのは、キリストが知っている真理、キリストが持っておられる真理、キリストが説いておられる正しさ、真理です。「相対的」に対して「絶対的」といえる、その真理が私共に示されます。 私共が考えている日常的な正しさではない「絶対的な真理」がキリストによって示される。それによって「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ことになるのです。一人一人がキリストによって正しい道に導かれ、憩いの水のほとりに連れていかれるのです。おおよそ正しいのではなくて、絶対的な真理、正義の中の正義、キリ ストが示される真理、キリストというお方・神の子というお方において実現される真理、私達を動かして下さる真理、私達に対してその真理に目を開かせて下さる、私達に対して関係する真理。これが聖書の語る真理であり正義である、その道に私達を導いて下さるのです。    もう少し例をあげるならば、宗教改革者マルティン・ルターが「神の義」によって宗教改革者として立ち上がることが出来ましたが、その義も又、抽象的な義ではなく、「義に目覚めさせる、義とする働きをもった義」でした。それがここで言われている「正しい道」です。「正しい道」があるわけではなくて、キリストにおいて、キリストが持っており、キリストが私達に与えて下さる義、キリストが私達に働いて下さる、私達を動かして下さるもの。それが正しい道であり真理であるといえます。ですから「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」と言えるのです。   /n「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭(むち)、あなたの杖 それがわたしを力づける。(4節) これは具体的にはどういうことを背景にしているのでしょうか。「ダビデの詩」(1節)とありますから、ダビデに寄せて作られた詩と考えて見ると、ダビデ王が直面した苦しみ、災い、死の陰の谷を考えて良いかもしれません。ダビデ王は王の中の王と言われながら、彼が仕えたサウル王からいつも死の恐怖を与えられていました。それだけでなく、息子アブサロムの反乱がありました。そのことも背景として考えられます。今回被災された方達は、津波で「死」を前にされましたが、このことは、後になって理解できるかもしれません。   /n「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる(5節)。  これは、私達にキリストの最後の晩餐を思い起こさせます。キリストは十字架にかかる前の晩、パンと杯を下さった時、「これは私の体である。これはあなた方の為に流す私の血、契約の血である。」と言われました。「香油を注ぎ」は祝福です。パンとブドウ酒をキリストの体と血であると弟子達に渡し、それによって弟子達を祝福して下さった。5節は礼拝の中で持たれる聖餐のことと理解することが出来ます。 /n「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う(6節) 「恵みと慈しみ」とは、キリストご自身のことです。キリストご自身が恵みと慈しみを垂れているのです。「私を追う」とは執拗に付け回すことです。恵みと慈しみであるキリストは私共のそばにいる。私共を追っている。これは聖餐に劣らない神の恵みであり、キリストがそばにいるという力強い詩人の言葉です。キリストがいつも私共のそばにいる。・・どうしてそれを理解できるでしょうか。礼拝です。聖書を通して語られる説教によって思い起こすのです。このことを津波のさなかに思い起こすのは、恐怖にさらされているのでむつかしいでしょう。しかし礼拝において繰り返しこの言葉を聴き、私共を追って下さるキリストに出会うことです。出会うということは、私共がそこに行かなければ、(追って下さるキリストに目を向けて、胸を開かなければ、)そこにいらっしゃるということがわからないのです。 ヘブライ書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4:15、16)とあります。 説教と聖餐が行われる礼拝に出席する。それ以外に恵みの座に近づくことは出来ません。「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ということに連なっているわけです。羊飼いが羊を青草の原に連れて行かれるということは、恵みの座、すなわち憩いの場である礼拝に出席することであり、礼拝の場に集うことです。礼拝によって与えられるものが「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」のです。 /n「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(6節) 「主の家」とは礼拝のことです。どのような建物や場所であろうとも、そこで礼拝がなされるところが主の家であり、私達の帰るところです。この23篇を読むことによって、私達はキリストが近くにおられることをもう一度思い起こすことが出来るのではないでしょうか。

「試練を越えて」  原口尚彰先生(東北学院大学)

/n[コリントの信徒への手紙一] 10章13節 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。      /nはじめに 3月11日に起こった大震災から半年近く経過して、私達の日常生活もやっと落ち着きを取り戻してまいりました。人命救助や緊急避難の段階は過ぎ、復旧・復興の途上にある段階にきていますが、少し落ちついてきたこの時点で、もう一度、大震災の意味について、聖書に基づいて、考えてみたいと思います。 今回の大震災は、近代日本を襲った最大の地震であり、私達の予想をはるかに越えて起こりました。地震学者の研究によりますと、平安時代(869年)に、東北を襲った大地震と同程度だったといわれております。もしそれが正しいとするならば、日本列島では1000年に一度起こるかどうかの大地震に私達は見舞われたということになります。世界の震災の歴史をみても、マグニチュード9を越える地震はまれでして、最近100年ではチリ沖地震、スマトラ沖の地震くらいです。この未曾有の大地震の結果、建物や道路や町が破壊され、特に沿岸部の石巻や気仙沼や南三陸町の地域は津波に襲われて、町は大変に破壊され、土台だけを残して廃墟になってしまいました。そのため多くの人達が命を亡くしましたし、現在も行方不明です。生き残った人達も家を失くして避難所暮らしを強いられ、自分の家は無事であっても、しばらくは電気も水道もなく、少量の水や食料で暮らさなければならない経験を、皆様もされたと思います。又、福島第一原発の近隣地域に住んでいる人々は、津波によって引き起こされた原発事故のために、町村ごとに避難を強いられ、現在に至っています。 大地震や津波など自然災害は人命を奪い、人の生活基盤を破壊する恐ろしい出来事であるということは前もっていえるわけであります。しかし、キリスト教信仰の立場から、この大震災をどうとらえるかは、又、おそらく別のところにあるのではないかと思います。 /n祈祷会でささげられた祈り  3月11日の2日後は日曜日でした。その日、私は作業着を着てリュックサック(聖書・讃美歌・水と非常用の食料)を持って、教会迄歩いていきました(一時間くらい)。教会は無事で、やはり作業着を着た牧師夫妻が迎えてくれました。当日は20人位の人達が集まりました(通常は80人位)。何より、お互いが無事であったことを確かめ、喜び合いました。長い距離を歩いてきた人や避難所から来た人もおりました。しかし水道と電気が通じなくて礼拝堂は暗くて使えず、窓が多く比較的明るい集会室がありましたので、そこでローソクを灯して礼拝を行いました。礼拝後、祈祷会をもちました。生き残ったことへの感謝の祈りが強くありました。苦難の中にある人達の助けや慰めを祈る祈りもありました。 その中にざんげの祈りがいくつかありました。なぜ「ざんげの祈り」かというと、この大震災・大災害は、普段自然を破壊し、自然を浪費し続けている我々人間への神の裁き・警告ではないか。私達人間はそれを反省しなければいけない、という祈りでありました。 /n天災と天罰 この時、私が思い出したのは、関東大震災の時になされた「天譴論(てんけんろん・天のけん責)」の議論です。これは、「大震災は私達の行ないの悪の故であり、天が懲らしめている」という議論です。この議論は、渋沢栄一(当時東京商工会議所会頭)が言い始めた議論で、明治維新以来、東京は、政治、経済の中心となって繁栄を続けてきた。その中で人々はおごり、私利私欲に走り、道徳的に乱れた日本に与えた天のけん責が関東大震災であるという趣旨です。これはかなりの反響を呼びました。キリスト教会でも、この議論に賛同する人が多く、無教会の内村鑑三や、日本基督教会の牧師である植村正久も同意しています。 /n今回の震災と罪悪の因果関係 文明生活を享受している現代人が、繁栄の中で享楽的になったり、退廃的になったりしてモラルが低下しているのは事実であるでしょう。そしてそのことを反省するのも大事かもしれません。しかしそのことと、大震災が起こったという事実の中に、本当に因果関係があるのでしょうか。確かに聖書には、創世記のソドムとゴモラの話のように、自然災害と罪悪との関係を見ることは出来ます(創世記18:20、19:24参照)。しかし、今回起きた大災害とあてはめて結論を出すのは、きわめて危険なことのように思われます。なぜかというと、震災で命を奪われた人達が、震災を生き延びた私達よりも物欲的で不道徳な生活を送っていたかというと、そういうことは全く言えません。特に今回は、関東大震災と違い、日本の繁栄のおごりの中心であった首都圏ではなくて、むしろ過疎化、高齢化が進んでいた東北地方を襲ったわけであり、特に津波で多くの被害を受けた三陸地方では、漁民が海で魚を取って暮らす場所であり、華美や奢侈やおごりからは縁が遠かったということを考えると、災害と人間の罪悪や物欲と結び付ける因果関係はなかったと結論せざるを得ません。 /n宗教の語るべきこと さて、震災の中で宗教が語るべきことは何でしょうか。おそらく裁きを語って悔い改めを迫るのではなくて、むしろ慰めや希望ではないかと思います。震災の為に命を亡くした家族がいますが、その人達の死を弔うことであり、天における平安を祈ることでなければならないと思います。特に生き残った人達は、愛する者を突然に失った悲しみの中にあって、自分達だけが生き残った、身内を助けることは出来なかった、そのことへの強い罪責感をもっております。その中で残された人々に、残された命の大切さを語る、慰めや励ましを語る、そのことこそ宗教は語らなければいけないのではないでしょうか。 天譴論に賛同した内村鑑三も、裁きを語って悔い改めを迫る側面と共に、苦難の中にある人々に慰めと希望をも語っています。「今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆さん、光に向かってお進みください。・・今から後は、イザヤ書40章以下の預言者として彼らを慰め、彼らを鼓舞し、彼らの傷を癒さなければならない。」又、同じように震災天罰論を説いた植村正久牧師も、震災の中でさまざまな救援活動に携わることを、「神の愛のわざに参加する」こととして、目前の課題に取り組むよう積極的に勧めました。  今回の震災は、たまたま同じ時に、同じ場所にいたという偶然的な理由によって、そこにいたすべての人に等しく及び、同じ被災者になりました。そして今回、私達は生き延びることが許されたことへの御恵み、命の大切さを感じると同時に、私達の安否を問うてきた家族や親せきや友人達のつながりの強さを実感させられました。同時に普段は挨拶を交わす程度の近所の人達との情報の交換や助け合いを経験致しました。又、教会によっては、教会が避難所になったり、物資の供給場所として救援物資の配布やボランティアの派遣を行ない、がれきの撤去など、教会が地域の人と共に生きるという体験をしました。日本基督教団東北教区センター「エマオ」も、震災後早くから今も救援活動を行っています。 /n信仰の立場から  信仰の立場からすると、震災は、神が人間に与えた試練の一つであるといえると思います。試練は神が私達に与える苦難でありますが、試練によって信仰を放棄する危険が一方ではあります。しかし試練を通して信仰が練り清められる、深まるということもあります。先程読んでいただいた、コリントの手紙一 10:13は、著者パウロが、自分自身や初代教会の人々が遭遇したさまざまの苦難、その苦難を信仰の試練として受けとめ、さらに希望を語っている箇所です。信仰を持ったら苦しいことはなくなるか?そうではないと思います。信仰を持とうが持つまいが、苦難は向こうからやってくる。パウロをはじめ初代教会の人々は、むしろ信仰を持つゆえに、多神教的な信仰に生きる周辺社会とさまざまな軋轢(あつれき)を経験し、さまざまな苦難に耐えなければなりませんでした。  たとえばフィリピ書1:29では、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです</span>。」と言っています。又、テサロニケ一 3:3では、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています</span>。」と言っています。パウロはそのことを教えていたわけです。これを書いたパウロは自分自身のことを、第二コリント書11章にくわしく書いています。彼は、巡回伝道者として地中海世界を巡り歩く中で、ありとあらゆる困難や苦難を体験した人でした。しかしそのたびに、神によって解決の道を与えられ、伝道者の道を歩き通した人であります。 /n今日の聖書 今日、読んでいただいたコリント一 10:13には 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます</span>。」とあります。  この言葉はパウロ自身の伝道者としての長い経験、体験の中に裏付けられた確信でありました。 /n信仰から生まれる確信 さて、信仰を持つことによって、私達は人生の苦難を、おそらく避けることは出来ないでありましょう。しかしその苦難を、神の与えた試練として受けとめて、そこに何らかの意味を見出し、又それを乗り越える力と希望を与えるのが信仰ではないかと思います。 人間の目には解決が容易に見えないような時があります。しかしその時も、神は私達を決して見捨てない。共にいて、解決を与えて下さる。つまり、「逃れる道を必ず神は用意して下さる」。この確信が、おそらく人間に希望を与え、再び立ち上がる力を与えるのではないかと思います。 _________________________ /n参照 <コリントの信徒への手紙二 11章23節-29節>      「<span class="deco" style="font-weight:bold;">苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったこともたびたびでした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上での難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずに、おり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか</span>。」

「世界の王への礼拝」  牧師 佐藤義子

ミカ書 5章1節 マタイによる福音書 2章1-15節 /nはじめに 今日読んでいただいた新約聖書は、東方の学者達の来訪の出来事について記されている箇所です。私達が驚かされるのは、救い主がお生まれになったというこのニュースを、ユダヤ人ではなく外国人が最初に受け取ったことです。ユダヤで救い主(キリスト)が生まれることは、旧約聖書で預言されており、今朝読んだミカ書も、その一つです。 どれほど多くのイスラエルの人達が、どれほど長い間、救い主を待ち望みながら、その思いを果たせぬまま、地上を去っていったことでしょう。そして、今、ようやく神様の約束が成就するという大事な時に、イスラエルの人々は、異邦人からこのニュースを聞かされることになりました。 彼らは、星に導かれて、東の方から来た占星術の学者達でありました。 /nひとつの星   民数記に「ひとつの星がヤコブから進み出る。」(24:17)とあります。ヤコブとはイスラエル民族のことであり、ここでは「メシア」が星と表現されています。占星術の学者達が、この「星」のことを聞いており、惑星の運動の法則によって、木星と金星(あるいは木星と土星)が出会い、重なる年があることをつきとめたのではないかと考える説があります。ヘロデ王は、突然、外国からの旅人から「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられるか」と問われて、あわてて聖書を調べさせ、メシア誕生の地がベツレヘムであることを知ります。それを聞き、学者達はイエス様の誕生の場に立ち会うことが出来ました。   /n不安 不安に感じたのは、ヘロデ王だけでなく、エルサレムの人々も同様であったと聖書は伝えます。本来なら、待ちに待った救い主誕生の喜びのニュースでしたが、「選民ユダヤ人」というエリート意識から来る傲慢さが、異邦人の言葉を素直に聞くことを拒み、世界の王であるキリスト誕生に際して、礼拝の祝福にあずかれなかったのかもしれません。 /n救い主誕生   メシア誕生の場所は、この地上における最も貧しい場所でした。しかし見えるところがどんなに貧しくても、又、一切の華々しさがなくて人目には隠されていても、神様の働きはすべてご計画どおりに進められていきました。学者達をそれまで導いてきた星が、イエス様の誕生の場所で止まった時、彼らは「喜びにあふれ」ました。この「喜び」こそ、救い主が私達の為にお生まれになった、という「喜び」であり、信じる者すべてに与えられる喜びです。神様は、学者達にヘロデの所に戻らないよう命じると共に、ヨセフを通して幼子イエス様とマリアをエジプトに導いたのでありました。 私達は、見える世界だけでなく、目に見えない神様のご計画のもとに、神様を信じて生きて行く道が与えられています。

「さあ、来て、食事をしなさい」  牧師 佐藤義子

/n詩編16:1-11 /nヨハネ福音書21:1-14 /nはじめに 先週のしゅろの日曜日から始まった一週間を、私達はイエス様の苦しみに共にあずかる受難週として過ごしました。 伝道所では、受難週黙想会(月-金)を通して、イエス様の「告別の説教」や、イエス様が「弟子達の足を洗い」、「最後の晩餐」を経て、「ゲッセマネの園で祈り」、その後ユダに案内されてやってきた兵士や千人隊長、およびユダヤ人の下役達によって「捕えられ」、大祭司の「尋問」を受け、更に総督ピラトによる「裁判」を受けたこと、イエス様が無実であることを知っていたピラトは、最後までイエス様を釈放しようと努めましたが、ユダヤ人による「殺せ、殺せ、十字架につけよ」との、暴動にまで発展しそうな怒号の前に、ついに「死刑を許可」したこと、そして金曜日、イエス様は「十字架につけられた」こと、昼の12時ごろになると全地は暗くなり、それが3時まで続き、3時にイエス様は大声で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">すべて成し遂げられた</span>」と叫ばれ、「息を引き取られたこと」を、共に心に覚えました。 /n復活 ユダヤの一日は日没から始まり土曜日は安息日です。安息日にはイエス様の遺体も下ろせなくなります。そこでイエス様を信じながらもユダヤ人を恐れて自分の信仰を隠していたアリマタヤ出身のヨセフは、ピラトから遺体を十字架からおろす許可をとり、ニコデモ(ヨハネ福音書3章参照)と一緒にユダヤ人の埋葬の習慣に従い、イエス様の遺体をきよめ、香料と共に遺体を亜麻布に包んで、新しいお墓に納めました。 三日目の日曜日の朝、まだ暗いうちにマグダラのマリアが墓に行くと、墓は「空」になっていました。マリアが墓の外で泣いていると、イエス様が現れて声をかけられました。イエス様は復活されたのです! その後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけた家にいた弟子達の所に、復活されたイエス様は来られて平和を祈られました。どんなに大きな喜びが弟子達に訪れたことでしょう!この時、弟子トマスは不在でした。彼は、自分の目でイエス様の手に釘跡を見、指を釘跡に入れてみなければ、又、手をわき腹に入れなければ決して信じないと言いました。 八日後、イエス様は再び来られトマスに言われました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの指をここに宛てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。見ないのに信じる人は幸いである</span>。」   /nガリラヤの海で ヨハネ福音書はこのあと結びの言葉で完結します。本日読んだ21章は後で付け加えられたものですが、私達に多くのメッセージを与えます。  今日の箇所は、ガリラヤの海でペトロと他の6人の弟子が漁に出掛けたものの、夜通し働いても収穫はなく、夜が明けました。すると岸から一人の男の人が声をかけてきます。弟子達は収穫が何もないことを告げると、その人は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">舟の右側に網を打つように</span>」と指示してきました。その通りにすると大漁となり、重くて網を持ちあげることが出来ませんでした。この時ヨハネは「主だ」と言い、ペトロは湖に飛び込みました。 /n「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」 ペトロが岸に泳ぎ着くと、陸には炭火が起こしてあり、その上に魚が乗せられパンも用意されておりました。イエス様はペトロに今取った魚を持ってくるように言われ、網を陸に引き揚げて魚を数えると153匹もありながら、網は破れていませんでした。 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">さあ、来て、朝の食事をしなさい。」</span>と招かれました。 夜通し働き疲れ切った身体に、この奇跡の業と暖かい朝の食事への招きの言葉は、弟子達にどんなに大きな喜びと力を与えたことでしょう。 ここに、私達は、「死」によってすべてが終ってしまったかのように見えた弟子達とイエス様との「交わりの回復への招き」を見ます。食事への招きは、イエス様の復活が、疑う余地のない現実の出来事として受け入れられました。 この肉体的な祝福は霊的な祝福へと移っていきます。又、一匹も取れなかった魚が、イエス様が来られたら153匹も取れて、網も破れなかったことは、イエス様が共におられる限り弟子達の宣教によって救われる魂の数はおびただしく、しかも、網(教会)は破れることなく存続し続けることを象徴していると理解出来ます。 今を生きる私達にも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">さあ、来て、朝の食事をしなさい。」</span>とイエス様は招かれます。

「マリアの香油」  倉松 功先生

/n詩編145:1-16 /nヨハネ福音書12:1-8         /nはじめに  ヨハネによる福音書は、11章から12章11節まで、ラザロとその姉妹マルタとマリアのことをくわしく語っています。彼らが住んでいたのは、エルサレムの南東約3キロ離れたベタニアという村でした。主イエスはエルサレムに入城する前にも、その後でも、ラザロの家を訪ね、お世話になっていたように思われます。そのラザロについて、今読んでいただいた聖書にはこう記されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせた(復活させた)ラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。</span>」(12:1-2)  その時マリアが純粋で極めて高価なナルドの香油を一リトラ(約326グラム・大きめのコップ1杯位)持って来て、それを主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。多量の香油であったのでしょう。ラザロの家は香油の香りで一杯になりました。 /nユダの非難  その時、後になって主イエスを裏切ることになるユダが、「その香油を300デナリオン(高く見積もって300万円・低く見積もっても150万円)で売り、貧しい人達に施しをする方が良かった」と非難したのです。マタイ福音書やマルコ福音書の並行記事では、ユダだけでなく他の弟子達も一緒に、(そこにいた人々も)マリアの行為に対して非難したと伝えています。 この非難に対してヨハネ福音書の記者は、二つのコメントを付しています。 /n二つの添え書き 一つは、ユダは貧しい人々のことを心にかけていたわけではないこと。もう一つは、彼は盗人で、主イエスと弟子達の財布を預かっていながら、中身をごまかし自分勝手に使っていたので、それをごまかすために、尤もらしいことを言っているというものです。このことは、ユダと同じような非難をした人達にも、多かれ少なかれ、同じようにいえるかもしれません。   /n信仰と行為   ユダに対する聖書の添え書きは、ユダの言葉は純粋なものではない、人間の好意が必ずしも純粋なものではないことを感じさせるわけです。しかしユダの本音はどうであれ、ここには「信仰と行為」あるいは「主イエスの福音と良き行為」との関係について重要なことを明らかにしているように思います。というのは、このマリアの香油のことがあった前後に、主イエスは弟子達に新しい掟をお与えになっております。その新しい掟とは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる</span>。」(13:34-35)です。 更にマタイ福音書やマルコ福音書によると、香油の出来ごとの前後に、主イエスは最も重要な二つの掟・二つの愛の戒めを示されました。   第一の掟は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主なる神を愛しなさい</span>」。それに続いて第二は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">隣人を自分のように愛しなさい</span>。」でした(マルコ12:29-参照)。 主イエスは、山上の説教以来、これまでも繰り返し隣人愛を語っておられます。従ってユダが、300万円に換金して貧しい人々に施した方がキリストの教えに叶っているのではないか、という愛の実践を提案したのはわからなくはないようにも思われます。 /n香油に対するキリストの態度   さてキリストは、この出来事の中にあって、どのような態度、言葉を言われたのでしょうか。キリストは、ユダの発言には目もくれていません。そしてマリアの行為を承認し、マリアは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたし(キリスト)の葬りの日のために、それを取って置いたのだから</span>」(7節)と、マリアの行為が、キリストの死、埋葬の準備のためのものだと言われたのです。確かにキリストはこの出来事の前に三度もご自分の苦難、十字架の死と復活について弟子達に予告しています。マリアも聞いていたでしょう。 その予告を聞いて、ペトロは、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とキリストをいさめました。さらに、キリストに従っていた人達はそれを恐れていた、と聖書は記しています。 ところがマリアは、キリストの受難の予告に従って、<葬りのために死の体に油を塗る>その備えを、すでに生前からキリストの体にしているのです。これがキリストの言われた「わたしの葬りの日のために、香油を取って置いた」という言葉です。 /nマリアの感謝の喜び・信頼の喜び マリアが、キリストのいわれる言葉をどこまで理解していたか分かりません。少なくてもキリストが苦難を受けられるのではないかということは予感していたでしょう。 私はむしろ、マリアの香油は、彼女達の兄弟ラザロがキリストによってよみがえらせられた(復活させて下さった)ことへの感謝、御礼もあったのではないか。そしてキリストは、再三、ラザロの家で、ラザロの家の人達に福音を語っていた。マリアは身近に福音に接し、主イエスが真に救い主である、キリストであると信じて受け容れた感謝の喜び・信頼の喜びが、ラザロの復活に対する感謝と共に、香油を塗るということの中に表れているように思われるのです。 私達は、キリストの死と復活の意味を見極め、充分に理解することは容易ではありません。しかし主イエス・キリストに信頼し、感謝することをマリアは教えているように思われるのです。ともあれキリストは、マリアの行為を御自分の葬りの備えと受けとめたのです。 /n二つのこと そして二つのことを仰せになりました。一つは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。</span>」(8節)です。「これからわたしは十字架の死を遂げる」ということが背後にあって、主イエスはこう語っておられるのでしょう。 「十字架の死」は何を意味していたのでしょうか。それは、ユダのような偽善者のみならず、不十分な良き言葉・良き行為しか出来ない私達の罪を赦し、救いの御業を成し遂げ、十字架の死と復活を遂行するということがキリストの思いでありました。そこで「私はいつも一緒にいるわけではない」と、おっしゃっているわけです。    さらに付け加えるならば、このキリストの十字架の苦しみは、まさに一回限りのことでありました。「一緒にいるわけではない」は、主イエスは死んでいなくなるということではなく、その死は、ユダや弟子達は勿論、私達に至るすべての人間、さらに(パウロが力を込めて語っているように)造られたもの、被造物すべての罪の贖い、赦し、そして新しい命を与えるために、父なる神が、御子・主イエスに託した事柄であったのです。そういう重大なことを、マリアをはじめ弟子達は知っていたかどうか わかりませんが、そういう思いが、マリアが香油を塗るという行為と共にあったということです。 /n記念として語り伝えられる ところで、今一つのことを申し述べねばなりません。それは、ヨハネ福音書が記していないことですが(マタイ・マルコ両福音書が記している)、主イエスは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として(注:つまりキリストの福音を思い起こすことと共に)語り伝えられるであろう</span>」と言われました(マルコ14:9)。これは、「キリストの死を記憶するため」に思い起こすことを言っているのではありません。「福音が宣べ伝えられる所では、香油の出来事が記念として語り伝えられる」は、もう少し重要なことを言っているように思います。 /n福音が宣べ伝えられる所で 「福音が宣べ伝えられる所で香油の出来事が語られる」という「福音」とは、キリストご自身のことであり、キリストによって「私達人間の罪の赦し」と「死からの解放」と「永遠の生命」が与えられるということです。その福音が語られる所で、この香油の出来事が語られるということは、この行為は福音にかかわる行為であったということです。 まとめて申しますと、十字架の死と復活を遂げたキリストが「福音」です。そのキリストの死の直前、キリストの死の苦難を予感しながら、キリストが救い主であることに感謝をして、キリストに対する信頼を、香油を注いで表わしたマリアは、福音であるキリストを、そういう形で受け容れているわけです。キリストを信じる信仰、それが、このマリアにおいては、香油を注いで感謝をすることであったといってもいいのではないでしょうか。 繰り返しになりますが、マリアの主イエスに香油をぬるという出来事は、マリアの、主イエスに対する信頼と溢れる感謝、キリストと実際に接した感謝、それらを含めたマリアの信仰をここで語っているように思います。 私共のキリストへの感謝、私共のキリストに対する信頼、そういうものを、マリアは、私共の模範として私共に示しているように思います。

「主を記念する」    伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書61:1-4 /nマルコ14:1-9 /nはじめに   過越祭は、イスラエルの民の「出エジプト」を記念する大事な行事です。神様は、奴隷として苦しんでいたイスラエル民族を、寄留地エジプトから脱出させる許可をエジプト王から出させるために、十の災いを起こされました。その最後の災いが「初子の死(家畜も含む初めての子供の死)」です。ユダヤ人はモーセからこの災いの避け方を知らされました。それは小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗ることでした。この犠牲の血によってユダヤ人は初子の死の災いを過ぎ越すことが出来ました。一方エジプト人の家では、初子の死の災いを受けて、国中に嘆きの叫びが起こりました。王家も例外ではなく、王は初めてイスラエル民族が信じる神様の偉大な力を知らされ、脱出の許可を与えざるを得ず、イスラエルのエジプト脱出が実現したのです。「過越祭」とは、神様が、自分達を救い出す為に働いて下さったことに感謝し、「災いを過ぎ越された」恵みの出来事を決して忘れない為に制定された祭りであり、その後に行われる「除酵祭」も、エジプト脱出の際、パンに酵母を入れて発酵を待つ余裕はなく、膨らまない固いパンしか持っていけなかったことを記念する祭りとされています。 /n「一人の女」の行動 今日の聖書は、過越祭の前日の「ベタニア」での出来事です。首都エルサレムから3?ほど離れた村で、イエス様一行は、シモンの家に滞在して食事の席についていました。イエス様はこの旅が、十字架への道であるとお分かりになっていた中で、重い皮膚病で苦しんでいたシモンを憐れんで、癒されたのであろうと推測されます。そこへ一人の女性が入ってきて横座り(当時の慣習)されていたイエス様の頭に、香油の入っている壷の中身全部を注ぎかけました。当時は来客に香油を数滴注ぐ風習があったようですが、おそらく来客でもない女性が、壷を壊してまで、持ってきた香油全部をイエス様に注ぐ行為は異常と言えるでしょう。 /n人々の反応 そこにいた人達は、「300デナリオン以上の価値(一年間の賃金)があるのに何と勿体ないことをしたのだ! その分、貧しい人達に施せたのに」と非難しました。彼らは自分の考え・感じ方で相手をすぐに裁きます。何より自分のメンツ・立場・感情を第一にして、自分の醜さを「貧しい人々への施し」という大義名分で女性を批判したのです。しかしイエス様は、罪深い人間の観点を神様のご計画からの視点へ高めて下さいます。 /n「この人は埋葬の準備をしてくれた」 イエス様は「私に良いことをしてくれた」とこの女性を評価されました。彼女は、神の御子にふさわしい「人間が出来得る最も美しい信仰」の姿でイエス様に敬意を示しました。すなわち自分の持っていた最高に良い物(香油)を惜しげもなく、全部イエス様に注ぎ尽くしたのです!  イエス様は、人間界の出来事よりも神様の救いのご計画が優先されることを述べておられます。当時、その地方の埋葬方法の一つが「香油を遺体に塗る」ことでした。香油を注いだ女性の行為は、人々の罪を贖う為に、死なねばならないイエス様に対する埋葬の準備となったのです。 /n記念として語り伝えられる イエス様は「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われました。この女性は主に出会い、機会をとらえ、勇気を持ってイエス様にふさわしく行動しました。聖書はこの女性の名前は記さず、「したこと(愛と働き)」のみを記念し、伝えています。それは、イエス様の十字架の受難と復活こそが、福音の最大テーマであり、すべてはその「証し」だからです。  私達の「本当の救い」を、御自分の「十字架の犠牲」によって成し遂げられたイエス様と、御自分の御子を献げてまでも不信仰な私達人間を愛して救う為に、生きて働いて下さる父なる神様がおられます。私達は、神様の事を第一に思い(愛し)、自分を献げ尽くす程に行動した女性への祝福を思い起こしつつ、勇気をもって、今週も歩んでまいりましょう。

「主の御計画と人間」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書 14:24-27 /nマルコによる福音書 14:27-31、66-72    /nはじめに     今日の聖書は、イエス様が旧約聖書の『<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう</span>』(ゼカリヤ13:7)との預言が、これから実現すると弟子達に告げられることから始まります。この言葉は、「天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる主の託宣(お告げ)」(同12:1)です。 この言葉は、「罪と汚れを清める一つの泉が開かれる日」(同13:1)の出来事として記され、まさしく主の十字架と復活にかけてのことと思われます。 /n「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」  この言葉は、イエス様が殺される十字架を前にして弟子達が逃げ去ってしまうこととあまりにぴったりとあてはまります。ゼカリア書は続いて、「三分の一は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。」とあります。 /n滅びと救い  聖書では、「水による清め」と共に、「火による清め」が言われます。洗礼者ヨハネは、「イエス様は、聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる」と証ししました。清める「火」とは、神様から来る究極の「真理の光、熱」と言い変えることが可能であり、その全くクリアな光と、ものすごい高熱によって信仰者が照らし出され、その人の信仰が本物でない場合は焼き尽くされてなくなるのです。と同時に、そこを通過できた信仰者に対しては、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に応え『彼こそわたしの民』と言い、彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう」(同)と、主なる神様と人間が本来の交流ができるようになることを表しています。 「本物の信仰者」にまず必要なのは、神様と人間を遮断している「罪」の徹底的な悔い改めです。その上での信仰でなければ、神様の「真理の光、熱」に耐えるような「本物」にはなり得ないのです。 /nペトロの誓い  イエス様から、自分達が散らされて、信仰がつまずくと預言されても、一番弟子ペトロは「私はつまずきません」と否定しました。「鶏が二度鳴く前に三度私を知らないと言う」と言われても、「死なねばならなくなっても決して言わない」と誓いました。が、イエス様が捕えられ、裁判にかけられると、ペトロは、自分が罪人の仲間として刑罰や刑死を受けるかもしれないと恐れて、主を否認する決定的な言葉を吐いたのです。 /n主の御計画と人間  三度、イエス様を知らないと言った後に、二度目の鶏の鳴き声を聞いたペトロは、イエス様の御言葉が実に確実であり、イエス様は本当に神の御子として、人間の罪(弱さ・愚かさ)を知りながら、神様のご計画だけが実現することを言われたのを思い知りました。今朝の旧約聖書に、「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう」(イザヤ14:27)とある通りです。これによってペトロは、自分の罪を知る、本当の意味を知りました。それでいきなり泣き出したのです。これが本当の罪の悔い改めをした証しです。  ゼカリヤの預言通り、自分の罪を本当に知るという「精錬」を経た者だけが、本当の「神の民」となれるのです。そのためにペトロは試され、それによって却って、罪の自覚が次元を越えて深くなるという神様のご計画が実現したのです。イエス様亡き後、教会の土台の岩となるために、ペトロはここを通らねばならなかったのです。イエス様に属する者として、自分の罪(弱さ・愚かさ)を十字架につけねばならなかったのです。  ルカ福音書では、否認はしないと言うペトロに対して、イエス様が、「あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい。」と言われています。ここに神様の大きな憐れみ、愛を感じずにはおれません。そして聖霊の導きの下でイエス様を主と告白した者すべてに対しても、神様は同じ思いで導いて下さっています。私達はそのような神様の「救い」のご計画の内に入れられています。この時、この場において、信仰者としてふさわしい知恵と力と愛をいただけるよう、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。