「見ないのに信じる」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編] 31編15ー17節 15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。 16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。 17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。 /n[ヨハネによる福音書] 20章19ー29節 19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 /nはじめに  今週は復活節最後の週です。今日の聖書は、マグダラのマリアが弟子達に「復活」を告げた、その数時間後のことと思われます。弟子達はマリアの証言を信じることが出来ないまま、ユダヤ人を恐れて「家の戸に鍵をかけて」いました。彼らの心の内は、十字架刑という「刑罰」で殺された者の弟子というこの世の価値観の下で、(人生を賭けて従おうとした先生を裏切ってしまった自分への不信をも抱え)、希望を失い、隠れざるを得なかったのでしょう。その姿は、罪の世界に閉じ込められている人間の象徴のようでもあります。再びこの世に支配されつつあったのではないでしょうか。 /nシャローム  そのような弟子達に、イエス様は、「鍵のかかった戸から入る」という奇跡を通して「<span style="font-weight:bold;">あなたがたに平和があるように</span>」との祝福の言葉を贈られました。この時弟子達はイエス様がかつて語られた「<span style="font-weight:bold;">私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。</span>」(ヨハネ14:27)「<span style="font-weight:bold;">私は去って行くが、又、あなた方のところへ戻ってくる。</span>」(同28)という十字架と復活の預言の言葉を思い出したのではないでしょうか。イエス様は弟子達に、十字架の傷跡を示されました。弟子達はイエス様を見て喜びに溢れたのです。 イエス様は重ねて「<span style="font-weight:bold;">あなたがたに平和があるように!</span>」と言われた後、「<span style="font-weight:bold;">父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす</span>」と、弟子達を神の国の働き手として派遣することを宣言されました。そして弟子達に息を吹きかけて「<span style="font-weight:bold;">聖霊を受けなさい</span>」と言われました。弟子達は、約束の聖霊を与えられ、神の国の人間として新しく生まれさせられたのです。 /n復活の主と弟子トマス  この最初の、イエス様から弟子達への祝福の場にいなかったトマスは、他の弟子達が「私達は主を見た」と言っても、「主に会ってその傷跡に触れなければ信じない」と頑なに信じることを拒みました。八日後、再び同じ奇跡が起こります。鍵のかかっていた家の真ん中にイエス様は立たれ、「<span style="font-weight:bold;">あなた方に平和があるように</span>」と祝福され、それからトマスに、ご自身の傷跡に触れるように促されます。そして、「<span style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい。</span>」と言われました。 トマスは、このイエス様の愛と赦しと励ましの前に自分の要求を捨てます。自分の思いにとらわれていたトマスにとって、主の愛に応えられる言葉は「わたしの主、わたしの神よ」という「信仰告白」だけでした。イエス様は信仰の次の次元を示されました。「<span style="font-weight:bold;">見ないのに信じる人は、幸いである</span>」。主を目で見ることの出来ない現代の私達にとっても、この御言葉は祝福のメッセージです。 /n「見ないのに信じる」  「見たから信じる」場合、「主を見る」という奇跡を望むようになります。そして、自分の希望する時に希望する形の奇跡を望み、「自分を主体」にし、神様を思い通りに動かそうという誘惑に襲われます。しかし奇跡は神様の愛の表れとして「神様が主体」として働かれるものです。 他方、「見ないのに信じる」場合、奇跡は条件ではありません。御言葉を聞き、御言葉を自分のこととして受けとめ、御言葉を日々の生活の中心に据えて、御言葉に従うことを繰り返すことによって成長し、神様から信仰に命を与えていただくのです。「<span style="font-weight:bold;">あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです</span>」(一ペトロ1:8-9) 幸いにも私達は、神様の一方的な愛によって、イエス様の福音を聞き、信じる恵みを得ています。限りある自分の感覚や判断が第一ではなく、謙虚に御言葉を聞き、信じ、従う者に変えられることを望みます。「見ないのに信じる人」として主の祝福の内に今週も歩んでまいりましょう。

「手で造ったものは神ではない」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]115編1-8節 1 わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。 2 なぜ国々は言うのか/「彼らの神はどこにいる」と。 3 わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。 4 国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。 5 口があっても話せず/目があっても見えない。 6 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。 7 手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。 8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。 /n[使徒言行録]19章21-40節 21 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。 22 そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。 23 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。 24 そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。 25 彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、 26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。 27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」 28 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。 29 そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。 30 パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。 31 他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。 32 さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。 33 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。 34 しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。 35 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。 36 これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。 37 諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。 38 デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。 39 それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。 40 本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。 /nはじめに  今日の箇所は、パウロの最後(三回目)の伝道旅行中に、エフェソの町で起こった出来事が記されています。この出来事を学ぶ前に、21節の言葉に注目したいと思います。「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」。  この、○○しなくてはならないという強い決心は、単なる人間の思い、計画ではなく、神様から与えられた使命の確信と言えます(参照:使徒言行録20:22「私は霊に促されてエルサレムに行きます」)。パウロは行動する前に祈り、聖霊の導きによって進みます。たとえ、見えるところでは最善とは言えない状況であっても、「ねばならない」という使命から来る確信の中、パウロは突き進んでいきます。パウロの最終的使命は、全ての人がキリストと出会い、キリストの弟子へと変えられることでした。  これはパウロだけに与えられた使命ではなく、イエス・キリストを信じる私達キリスト者すべての使命でもあります。 /nただならぬ騒動  エフェソの町には、あらゆる命あるものの養母とされている女神アルテミスや、女神が祭られている大きな神殿(縦横が120mと70m、高さ19mの、128本の柱に囲まれている神殿)がありました。そのエフェソの町で、パウロは「手で造ったものなどは神ではない」(26節)と語りました。その為、デメトリオ(神殿の銀の模型や、神々の銀の模造を奉納品として、又、巡礼者の土産品やお守りの作成と販売の為、多くの美術工芸職人と労働者を雇う事業家)が、キリスト教伝道の反対運動を起こしたのです。  彼は、キリスト教伝道の結果、自分達の収入が減り、仕事の評判が悪くなり、人々から尊敬を受けなくなり、更に、アルテミスの女神の威光と有名な神殿への誇りがないがしろにされる、と、同業者達に訴えたのでした。銀細工人の抗議集会は、パウロの同行者二人を捕え、一般市民を巻き込んで野外劇場(25,000人収容)になだれ込み、集会は混乱し、大多数の者は何の為に集まったのかさえ分からなくなり、2時間もの間、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と、叫び続けました(34節)。 /nパウロを助けた二人  パウロは捕えられた仲間のために、野外劇場の中に入っていこうとしましたが、町の高官で、パウロの友人達が、パウロのその行為を止めました。この混乱する集会を治めたのは町の書記官でした。彼は人々を、「エフェソの町がアルテミスの女神と神殿の守り役であることを否定できないのだから、静かにしなさい」となだめ、人々が捕えたパウロの同行者達は神殿荒らしでも女神を冒涜したのでもないと説得し、もし訴え出たいならば、正式な法的手段を経て正式な会議で解決するよう指導し、ローマの国家管理は、このような暴動を許さないだろうと警告しました。 /n「手で造ったものは神ではない」  騒動のきっかけとなった「手で造ったものなどは神ではない」という言葉は真実です。それは詩編115篇でも、又イザヤ書44章にも記されている通りです。遠いエフェソに限らず、この日本でも手で造った神が溢れています。神社仏閣の近辺では、偶像やお守りを造り、商売で生計を立てている人達は数えきれないでしょう。私達も又、伝道する時、このように直接相手の利害にふれることもあるかもしれません。しかし、聖書は、時が良くても悪くても福音を伝えることを命じています(二テモテ4:2)。私は前任地で、お寺の長男の方が洗礼を受ける場に立ち会いました。  パウロがこの騒動から守られたのは、エフェソの町の友人と書記官を通してですが、その背後に主が共におられたからです。私達も、共にいて助けて下さる主を信じて、手で造ったものはまことの神様ではないことを知らせ、「本当の神様」を、大胆に宣べ伝える者にされたいと思います。

「行け。わたしがあなたを遣わす」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]18章26-31節 26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。 28 あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。 29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。 30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 /n[使徒言行録]21章37節-22章21節 21章 37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。 38 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 39 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 40 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。 22章 1 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」 2 パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。 3 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。 4 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。 5 このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」 6 「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 7 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 8 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。 9 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。 10 『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 11 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。 12 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 13 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。 14 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 15 あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。 16 今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」 17 「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、 18 主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』 19 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。 20 また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』 21 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」 /nはじめに  今日の聖書の前には、パウロが彼に敵対し殺意を抱くユダヤ人によって、神殿で捕えられた出来事が記されています。ギリシャ人を境内に連れ込んで神殿を汚したという誤解によるものでした。突然、拉致されて暴行を受けたパウロは、かなり身体にも傷を受けていたことでしょう。しかし幸いなことに神殿というおおやけの場所でなされたこの事件は、駐留していたローマの軍隊が駆け付けることになり、パウロは、暴徒化したユダヤ人から命を守られる結果となりました。パウロは二本の鎖で縛られて、ひとまず兵営に連れていかれることになりますが、兵営に連行される時、彼は千人隊長に自分を襲った人々に話をさせて欲しいと頼み、許可をとります。そして語った内容が、今、司会者に読んでいただいたところです。 /n異常事態でも・・  パウロはこのきわめて異常事態の中で、なぜこのように平静に語ることができたのでしょうか。私達の多くは、何かことが起こり自分を取り巻く環境が全く変わってしまうと、普通に語り続けることが困難になります。予想していない目の前の出来事に飲み込まれて落ち着きを失い、自分の置かれた状況にどう向き合ったらよいのかわからなくなりがちです。  しかしパウロは、自分のとった行動の結果に対して、常に責任を引き受ける覚悟がありました。彼のなすことはすべて信仰の良心に従って確信をもったものでしたから、神が共にいて下さるという平安の中で、聖書に記されている通り、自分自身の証しを力強く語ることが出来たのです。 /nパウロの証し  パウロは自分と同じユダヤ人に対して、ヘブル語(民族の言葉)で、それまで迫害していたキリスト教徒に自分がなぜなったのか、そのプロセスを丁寧に語りました。彼はダマスコ途上で、突然天からの光を受け、イエス・キリストの声を聞きました。彼は復活のキリストに出会い、信じて従ったのです。人がキリスト者になる時に、言われるたとえがあります。それは、天からいつも私達に向けて手が差し伸べられており、私達がその手に向かって自分の手を差し出す時、そこに神様との出会いが起こるというものです。私達が結婚式やその他の祝い事の招待状を受け取る時、その招待に応じるかどうかを決めるように、神様が聖書を通して神の国に私達を招待して下さっているその招き(救いの招き)に対して、私達は応答しなければなりません。  パウロは、復活のキリストの声を聞いて信じて従いましたが、その場に一緒にいてパウロの目撃者となった人々が、パウロと同じようにイエス・キリストに従ったという聖書の記述はありません。現代も又、神様に出会う機会は多く用意されています。が、その時を恵みの時として受けるか、そうでないか、道はいつも二つに分かれています。信じて従う道を歩んだパウロを、その後、イエス・キリストがどのように導いて下さったのか、パウロは、この時を逃さずユダヤ人に向かって語り、証しをしました。 /nイエス・キリストはパウロにも私たちにも同じように・・  パウロに現れてくださったイエス・キリストは、聖霊の働きを通して今を生きる私達にも深くかかわって下さいます。今、ここにこうして礼拝に招かれているのも、聖霊の働き(導き)によるものです。私達が意識する、しないにかかわらず、神様は生きて働き、人格(神格)をもって私達を招き、私達が神様に向かって手を差し出すのを待っておられます(讃美歌2編:196番)。  聖書は神様の言葉であり、神様の霊の導きの下に書かれており(二テモテ3:16)、そこには真理の光があります。真理を求める者は誰でも真理のもとにくることが出来ます(ヨハネ8:31-32)。 暗闇を歩けば小石にもつまずくように、生まれながらの人間が自分の正しいとする判断だけで生きることは、暗闇の中を歩くようなものです。しかし聖書の光に照らされながら歩くことは、太陽のもとで歩くのと同じで、小さな小石でもはっきり見えて、つまずくことはありません(ヨハネ福音書12:35-36)。  パウロは神から来る平安の中で語り続けました。彼には主イエス・キリストの言葉「<span style="font-weight:bold;">行け。私があなたを遣わすのだ</span>」(21節)が傍らにいつもあります。

「十字架を負って」  伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章4-10節 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 /n[マルコによる福音書]8章34-9章1節 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 /nはじめに 「メシア(救い主)」については、ペトロや他の弟子達もユダヤの民衆までが政治的に自分達を自由にしてくれる救い主であり、その方は栄光の姿で現れると思い込んでいました。しかしイエス様が弟子達に語られた「メシア」の姿は全く逆でした。人々の罪を代わりに負い、苦しみを受け、殺されるという惨めで辛いものであり、それを「メシア」が従順に行うことにより「人類を罪から救い出す」という神様のご計画が成就するのです。今日読んだイザヤ書にその事が書かれています。 神様が人々の罪を赦す為に、なぜ「贖(あがな)い」としてメシアを悲惨な姿で殺すという方法を取られたのでしょうか。それについてある神学者が、讃美歌262番の解説の中に書いていたのでご紹介しますと、 「…つまりイエスはみずからを、神よりのメシアとして、ここで果たさなければならない なにものかを果たしたのです。…人間の罪は神の律法によれば死に値するものであって、神の律法は罪に対して死を要求しているのです。……キリストが十字架上で、その受難と死によって、罪に対する神の律法の要求を果たしてくれたので、人間は、罪とその呪いから解き放たれて救われたのです。そしてそのすべてが神よりの恩恵として与えられている。これが十字架の救いです。」 /n人間の罪は神の律法によれば死に値する。 神様が私達に与えられた律法は、神様を第一に考えて神様を全身全霊で愛することと、隣人を自分のように愛することです。この二つの事を守れない者は死に値するのです。私達は「罪に対しては死を持って償(つぐな)うことを要求される」という事実を忘れがちではないでしょうか。 私達は目覚めている時間の多くを神様と対話(祈り)しているだろうか。御言葉の学びに時間を注いでいるか? さまざまな出来事に、神様への感謝や賛美を捧げているか? 最も近い隣人である家族や、親友や恋人を尊重して大事にし続けているか?困難な状況にある人を、自分の気分ではなくその人を主体に考えて援助しようとしているか?・・などの問いに、この一週間だけでも心に一点の曇りもなく「出来ている」と言える方は恐らくいないでしょう。「出来ていない」人は全て律法の違反者です。それは「罪」であり、「死」をもってしか償(つぐな)えません。 /n神様の赦し  神様は、その人間の罪過すべての責任を、最も愛する御子イエス様に負わせ、「死」をもって償(つぐな)わせ、人類の律法違反を赦されました。人間の中で最も惨めで低い立場に御子を置かれたのです。にも拘わらずイエス様は、神様の救いのご計画に従ったことで、神様から「復活」の勝利を与えられ、天に上り父なる神様の右に座するという栄光を授けられました。「低くされたのに、高くされた」(イザヤ52:13-15)のです。 /n<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って</span> 自分を捨てるとは、自分を忘れて、とも訳せます。主に従うことを第一に思い、自分の欲求を忘れられるかどうかが問われています。「自分の十字架」とは、キリストと共に十字架を負う精神、苦難そのものです。十字架刑は恥辱と最高の苦痛を与える刑罰でした。罪を贖(あがな)う「メシア」は「最高の苦しみを受け耐え忍ぶ」ことで、神様のご計画を成就せねばなりませんでした。 主に従いたい者も、そのような最高の苦しみを耐え忍ぶ覚悟を持つことが要求されています。 /n<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか</span> 神様に創られた命は永遠の命を持っていましたが、罪が入り込んで、生まれたままでは永遠の命を受けられなくなりました。「自分の命」を買い戻すのに払う代価が、イエス様の流された贖いの血です。主が受けられた苦難は、本来私達一人一人が負うべき苦難でした。今日から始まる受難週を、「自分の十字架を負って主に従う」者として歩みましょう。

「神の平和」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]97編 7-12節 すべて、偶像に仕える者/むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 シオンは聞いて喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る/主よ、あなたの裁きのゆえに。 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。 /n[フィリピ信徒への手紙] 4章 1-9節 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 /nはじめに 日本基督教団では、毎年8月第一週の日曜日を、平和聖日として守っています。フィリピ書3章20節に、「私達の国籍は天にある」(口語訳)とあります。イエス・キリストを信じる者は、この地上における国籍とは別に「神の国」の「国籍」を持っています。神の国の民とされた者には、終末の時、復活の約束が与えられています。では、天に国籍を持つ者は、この地上において、どのように生きるべきでしょうか。 /nどこに立つか 今日読んだ1節には、「主によってしっかりと立ちなさい」とあります。 「主によって立つ」は、「信仰の中に立つ」、「恵みの中に立つ」、「福音の中に立つ」という言い方もされます。「主によって立つ」者は、その存在自体が「主」に属していますから、「主」によって生き方が定められます。主体が「主であるイエス・キリスト」、従が「わたくし」です。つまり、「わたくし」は、イエス・キリストに従う者、イエス・キリストを主人として、その主人につかえる「しもべ」といえます。(これに対して、神様を信じない者は、主体も従も「わたくし」(=自分が最高決定者)ということになります。) 主によって立つ者、すなわち天に国籍を持つ教会の人々に対して、4節以下では、教会がどのような群であるかを指し示します。 まず、教会を支配しているのは喜びです。この喜びは、イエス・キリストを主として仰ぐことを根拠とした喜びであり、その喜びの中に留まり続けるようにと命じています。   *「あなたがたの広い心が全ての人に知られるようになさい」(5節) 「広い心」とは、権利とか建前にしがみついたり、こだわったりせず、よりよい善のため、とりわけ愛する者の為に、本来あるべき姿から離れて行動する、柔軟で寛容な考え方を意味します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6-)とあるように、です。そしてこの後すぐに再臨が近づいていることを告げます。この「広い心」は、再臨のイエス・キリストに関心が向けられ、私達が主の御前に立つことを考えたなら、誰に対してもかたくなにならず、しがみついている様々なことから解き放たれて、こだわりが消え、柔軟で寛容な広い心を持つことが可能となるということでしょう。 /n「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」(6節) 思い煩いとは、自分の未来を何とか自分の手の内に握ろうとする人間のあがきであるともいえます。しかし思い煩いは、「先ず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)という戒めを妨げるものです。 未来を左右するのは神様だけです。ですからパウロは、悩み心配する代わりに、「祈る」ことによってキリスト者の特権を用いるように導きます。キリスト者の祈りは、感謝と賛美が伴います。私達の為に正しく配慮して下さる神様の前に、すべてのことを神様の支配に委ねる信仰をもって祈るのです。キリスト者の祈りは、この世の御利益宗教のように願い事だけ祈るのではなく、感謝を基礎とする信頼の表明でもあります。  /n神様の平和   神様は、私達を救う為に、御子イエス・キリストを私達のもとに遣わされました。私達が、それぞれの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて受け入れ、従う時、思い煩いから解放され、感謝を込めて、求めていることを神様に打ち明けることが出来ます。そしてその時、私達の心の中はこの世のものではない、神様の平和(神様の恵み・神様の憐れみ)に満たされます。 「神様の平和」は、神様だけからくる「平和」なのです。

「神の救いを仰ぐ」  牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]52章4-10節 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。 (7節)いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。  その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。  歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。 /n[ヨハネによる福音書] 5章24節 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。            /nはじめに 本日から待降節(アドヴェント)に入りました。教会の暦では、待降節から一年が始まります。(教会暦:待降節-降誕節-受難節-復活節-聖霊降臨節)。待降は、主のご降誕を待ち望むという意味がありますが、アドヴェントは「来臨」という意味がありますので、待降節はイエス様が人として生まれられたご降誕の日を迎える心の準備をすると共に、再臨(終末に再びイエス様が来られる)への準備の時ともなっています。 今日は、全世界の教会で、4本あるローソクの1本に火がともりました。クリスマスまでの四週間、アドヴェントにふさわしい過ごしかたをしていきたいと願っています。 /nイエス様をお迎えする準備 私達は、四週間後に我が家にイエス様がおいでになると知らされたら、どうするでしょうか。部屋の大掃除のこと、おもてなしのこと、友人知人達への案内状や、イエス様にお会いしたら、ぜひお聞きしたいこと・・など、イエス様が来られると考えただけで、頭の中はくるくると廻り始め、落ち着かない日々が始まるのではないでしょうか。 しかし、ルカ福音書10章に記されているマルタとマリアの話の中で、イエス様をもてなす為にせわしく働いていたマルタに、イエス様は次のように言われました。「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」 アドヴェントがイエス様のご降誕および再臨の、心の準備をする時であることを思う時、この四週間、思い悩む事柄を一つ一つ神様にお委ねし、心の中にある捨てるべきものを捨てて、マリアのように私達の心をイエス様に明け渡し、静かに御言葉を聞く心の備えをしたいと願うものです。   /n回復の預言 本日の旧約聖書、イザヤ書52章は、捕囚の民であったイスラエルの民を、神様が本来の姿に戻すという回復の預言です。イスラエルの民は、再び「神の民」として、異国バビロンからエルサレムに帰還し、エルサレムの神殿において、神様を礼拝する日を迎えるという預言です。 エルサレムに、神様が「王」として帰って来るというその「良い知らせ」を伝える預言者の足は何と美しいことか、と7節から始まる喜びの知らせは、見張り(エルサレムの城壁から辺りの警護に勤める者)たちの歓声を呼び起こし、さらに、この見張りの歓声は、エルサレムの人々の喜び歌う姿へと連鎖していきます。8節では、捕囚民が解放されて、エルサレム神殿の礼拝の時に用いるさまざまな祭具を担って、バビロンからエルサレムに戻って来るのを目の当たりにすると預言します。このことは、神様が、捕囚の民を慰め、贖われた証しであって、これはエルサレムだけの喜びに終ることなく、今や、世界の国々、地の果てまでも、全ての人が、神様の救いを仰ぎ見るという力強い預言です。 この捕囚民のエルサレム帰還は、数年後に実現しました。さらにすべての人が神さまの救いを仰ぎ見るとの預言も、二千年前に実現しました。   /n信じる者   今日の新約聖書でイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている</span>。」と言われます。 旧約聖書のメシア(救い主)誕生の預言は成就しました。聖書を通して語られる神の御子イエス・キリストの言葉を信じ、御子を遣わされた父なる神様を信じる者は、その信仰を通して、死ぬべきものから命へと移され、永遠の命を与えられます。

「生きている者の神」    伝道師 平賀真理子

/n出エジプト記3:15-20 /nマルコ福音書12:18-27 /nはじめに   イエス様が十字架につけられたのは金曜日ですが、三日前の火曜日は、イエス様を敵視する有力者達との論争が多くなされました。その中で前回は、ファリサイ派とヘロデ派と言われる人々がイエス様に論争を仕掛けた時のことを学びました。彼らは、イエス様の真理に基づいた的確な答えを通して、逆に、自分達の仕掛けた罠にかかった形で敗れ去ります。そして今日の箇所では、イエス様は、サドカイ派と呼ばれる論敵に向き合います。 /nサドカイ派 サドカイ派は、ファリサイ派と共に、当時のユダヤ教の指導者グループを二分する勢力でした。 彼らは、エルサレム神殿で礼拝をささげることが神様に対する最大の信仰と考えていました。 当時首都エルサレムには「最高法院」があり、宗教と政治の権力が集中していました。サドカイ派の人々は、世襲で最高法院の議員になれる階層の人々で、イスラエル民族の中ではエリート中のエリート、いわば貴族のような人達と考えていいでしょう。 それでも彼らは宗教的価値を一番と考え、民族としての政治的独立は二の次に考えていました。そのため、ローマという異邦人の支配にも反抗せず、神殿礼拝が守れるならばローマに協力するという姿勢を持っていました。 サドカイ派はファイリサイ派と違い、見えない「霊」や「天使」の存在を信ぜず、又、「復活」もないと主張しました。現実主義に立ち、現実を軽視して未来に希望を抱かせるような復活を否定していたのです。彼らはイエス様に、律法(申命記25:5-10)を引き合いに出し、「もし復活があるなら、律法に従って「義兄弟婚」(子供がいないまま夫が死んだ妻は、夫の兄弟の妻になり、子孫を得る)をした女性は、復活時は誰の妻になるのか」と質問したのです。 /nイエス様の答え イエス様は、復活は勿論ある。けれども復活後は、人は、この世の婚姻関係に縛られることなく「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天使のようになる</span>」と答えられました。 そして彼らの、「復活も天使もない」という間違った主張と、「復活」を誤解しての質問に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」</span>と厳しく指摘されました。 /n復活  イエス様に論争を挑んだサドカイ派の人々は、「生きる」「死ぬ」という言葉を、この世の肉体上の命に結びつけて、「復活」を考えました。彼らはこの世に足の主軸を置いて、聖書や神様のことを論じようとしています。しかしイエス様の言われる「死んでいる」「生きている」は、「神様の前に」生きる・死ぬと言うことです。神様を信じ、御心を行おうとする者は、肉体上の生死にかかわらず永遠に生きているのであり、逆に神様の存在を知ろうともしない者、御心に従おうとしない者は、肉体的には生きていても神様の前に死んでいる状態にあるということです。 /n「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」  イエス様は、神様が御自分のことを、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」</span>と言われたことを引用され、アブラハム・イサク・ヤコブ(イスラエル人の祖先)は、神様を信じて生きたことで、神様の前に生きている状態であると言われました。(「永遠の命を得る」とも言い換えられるでしょう)。 アブラハムは神様の御言葉に従って、行き先も知らずに出発しました。 イサク・ヤコブもその信仰を受け継ぎました。彼らは、「死んでいた」状態から、神様のご計画に従って信仰の証しを立てて、神様の前に「生きている者」とされ、復活の恵みを与えられた人達です。 神様の前に生きるとは、「神様を信じて、御心に従って生きる」ことです。 御心とは「罪ある人間が救われること」です。 「イエス様の十字架の死」という大きな犠牲は「私達を救う神様の御心」であったことを知り、神様に感謝し、信仰を成長させていけるように祈り続けたいと願います。

「あなたの息子は生きる」 牧師 佐藤義子

/n <span class="deco" style="font-weight:bold;">詩編37:30-40</span> /n <span class="deco" style="font-weight:bold;">ヨハネ福音書4:46-54</span>          /nはじめに ユダヤからサマリヤを通り、目的地のガリラヤに到着したイエス様一行は、ガリラヤの人達に歓迎されました。というのは、イエス様がエルサレム滞在中になさった「奇跡」を見た人達がそこにいて、イエス様の評判が、エルサレムから遠く離れたガリラヤにまで伝わっていたからです。 イエス様は、カナという町に行かれました。ここは、イエス様が最初の奇跡をされた町でもありました。イエス様が町に来られたニュースは、カナから20マイル(約32キロ)も離れたカファルナウムに住む、王の役人の耳に入りました。彼には病気の息子がいて、その病気は悪化し、絶望的な状態でした。彼は息子を助けたい一心でイエス様に会いにやってきました。 /nまちがった信仰 彼はイエス様に、カファルナウムの家に来て息子を癒してほしいと頼みました。ところがイエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない</span>。」(48節)と、厳しい言葉を返されました。 イエス様がこの世に来られたのは神様の御計画によるものでした。その目的は、私達が毎週礼拝の中で「懺悔の祈り」をささげた後に、司会者によって宣言される「罪の赦し」に表わされています。罪の赦しの宣言は、以下の御言葉です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである</span>。」(ヨハネ福音書3:16-17)。 神様は、罪の中で生き、「死」という形で滅びるしかなかった私達人間の命を救い出して、「罪の赦し」と「永遠の命」を与えて下さるために、イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は、その全生涯を通して目に見えない神様のことを伝え、御自分が救い主として遣わされたゆえに、神様を信じ、御自分を信じるように導かれました。しかし、イエス様のなさる「奇跡」だけを追い求めて、イエス様の語る御言葉そのものには耳を傾けず、イエス様を神の御子として受け入れない人達が沢山おりました。それゆえ、「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。 /nあなたの息子は生きる  王の役人は、愛する息子を失うかもしれないという窮地の中で「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。」と訴え続けました。イエス様は彼を憐れみ、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">帰りなさい。あなたの息子は生きる</span>」と約束されました。この父親にとって、イエス様が自分と一緒に来てくれるのではなく、この「言葉だけ」を与えられたことは予想外だったことでしょう。しかしこの父親は、イエス様の言葉を信じて、息子のもとへ帰って行きました。 帰る道すがら、彼は迎えに来たしもべ達に会い、息子が危篤状態を脱したことを知りました。時間を確かめると、イエス様から「息子は生きる」との約束の言葉をいただいた丁度その時間でした。 /n信仰の変化 イエス様は、私達の目がイエス様にしっかりと向けられ、私達の心がイエス様に服従し、イエス様から離れない完全な信頼をもってイエス様にお委ねするという信頼が起こされるように奇跡の業を用いられます。 王の役人が最初にイエス様のところに来た時の信仰は、息子の病気を癒してほしいと、イエス様を「奇跡を行う方」として信じる信仰でした。ところが、あとから与えられた新しい信仰(53節:彼もその家族もこぞって信じた信仰)は、自分の利益のみを求める信仰ではなく、イエス様の中に、神様だけが与えることのお出来になる、最善で、完全なものを認める、ゆるぎのない信仰です。  この信仰は、私達の生涯の中で、どんなことが起ころうとも、たとえ、死に向かわなければならなくなったとしても、神様の恵みが私達といつも共にあるという信仰であり確信です。 イエス様は、御自分を求めてくる人々に、その要求を神様への交わりにまで高める道へと導びいてくださるお方なのです。

  宗教改革記念礼拝 「神の言葉で生きる」

                 <span class="deco" style="font-weight:bold;">                東北学院大学 佐々木哲夫先生</span></span> /n申命記8:1-10 /nマタイ4:1-11     /nはじめに  本日は宗教改革記念の礼拝です。 今を去ること約500年前の1517年、マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に、95カ条の提題の紙を貼りだしたことを記念しての礼拝です。  宗教改革は、ルターにとどまらず、その後のジャン・カルヴァンの改革に至るまで、広範囲に及ぶものでありました。宗教改革の全貌を取り扱うには時間的な制約もありますので、本日は、宗教改革の中でも重要な事柄であった「聖書の言葉に基づく信仰」という点に注目して考えたいと願っております。 /n聖書の権威 ルターが修道士になった頃もそうでしたが、カトリック教会のミサではラテン語の聖書が用いられ、ラテン語で典礼が行われていました。 宗教改革の50年ほど前、1455年、ドイツで印刷技術がグーテンベルクによって発明されていましたので、聖書はすでに印刷されておりました。しかしその聖書は、ラテン語の聖書でした。ドイツの人々はドイツ語を母国語としていましたので、ラテン語を必ずしも理解出来たわけではありません。聖書を手にすることもむつかしい。手にしたとしてもラテン語で書かれていたので読むことも出来ない。そういう環境におかれていたのです。 おそらく神の言葉に触れるのは、司祭の、日常の言葉を通してであったと思われます。人々は、神から遠い位置に置かれていたのです。 しばらくして1537年、ルターは、「シュマルカルデン信条」を記して公会に提出していますが、その中で次のように記しています。 「神の言葉が、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であってもくつがえすことが出来ない」。すなわち教皇も、教会会議も、それが最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであることを主張したのです。 /n『人はパンだけで・・・ない』と、(旧約聖書に)書いてある。 「聖書の言葉に基づく信仰」という理念は、ルターが言った言葉ですが、それはルターが初めてということではありません。すでに、イエス・キリストに見られます。本日の聖書に「イエスはお答えになった『人はパンだけで生きるものではない。』(マタイ4:4)とありますが、この言葉は、ことわざになっているほどに有名です。インターネットで調べますと(ことわざ辞典)、次のように記されておりました。「これは新約聖書の言葉である。人は物質的な満足だけを目的として生きるものではなく、精神的な満足を得るためにこそ生きるべきである」。 日本文化の価値観の中の一つに「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。人は生活が楽になって初めて礼儀に心を向ける余裕が出来るのだということです。そういう日本の中で「人はパンだけで生きるものではない」と、まるで正反対の価値観を語ると思われることを言いますと、抵抗感を感じる人もいるかもしれません。 「パン」か、「神の言葉」か、という二者択一では無くて、人はパン「だけ」で生きるのではないというのですから、パンも、神の言葉も、両方、必要だと説明する向きもあるかと思われます。  このマタイ福音書の箇所を良く読みますと、イエス・キリストとサタンが議論している場面で、サタンは自分に従わせようとしてイエス・キリストを説得します。イエス・キリストは、旧約聖書の言葉で応じるという構図になっています。よく読むとイエス・キリストは<span class="deco" style="font-weight:bold;">「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある</span>。」そうイエス・キリストは言うのです。これは、イエス・キリストの言葉というよりも、旧約聖書の言葉を引用しているのです。ある意味では、イエス・キリストもサタンも、議論の前提として、旧約聖書を置いているということですので、私達もこの箇所を理解するためには旧約聖書を理解しなければならないということになると思います。  そこで、申命記8:3-10をもう一度読みます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。</span>」 /n「神の言葉」が先立って必要である  この申命記は、モーセによってエジプトから導きだされ、荒れ野をさまようイスラエルの民たちのことが言われているのです。あのイスラエルの民は、エジプトから出て、荒れ野でひもじい思いをしていました。そして彼らはつぶやきます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト記16:3)。 こんな不平を、イスラエルの人々は指導者であるモーセにつぶやいた。 「腹が減った。奴隷であったとしてもエジプトにいて、腹一杯食べた時のほうが良かった」と不平を言った時に、神が与えたのが、朝に「マナ」、夕には「うずら」だったわけです。マナはパン、うずらは肉として与えられたものです(森永製菓のビスケット「マンナ」がここからとられたのは有名な話)。  神が食べ物を与えた。人々がそれを食べた。その時に、申命記の「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる</span>」と語られているのです。 驚くべきことに、生きる為に必要なパンと肉が与えられた。すでにパンと肉が与えられた人々に、その言葉が語られた。「パン」が必要か、「神の言葉」が必要か、ではなくて、すでにパンを与えられた人々に、『人はパンだけで生きるのではない』と語られたのです。すなわちパンか、神の言葉か、ではなく、「神の言葉が先立っている、先立って必要だ」ということをこの時に語られたということです。 /nキリスト御自身の言葉 ところでその後、イエス・キリストは劇的な変化を示します。 どういう変化かと申しますと、旧約聖書から引用するのではなくて、「ご自分の言葉」によって言葉を伝えている。ガリラヤ湖畔の山上において、イエス・キリストは民衆や弟子達に語るのです。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。その日の苦労は、その日だけで十分である。</span>」(マタイ6:31-) ここでは、イエス・キリストはもう旧約聖書から引用すると言う形ではなくて、自らの言葉として語っているのです。 /nキリストの教え 二つの点に注目したいと思います。 第一は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その日の苦労はその日だけで十分である</span>」。 今日のんびりと過ごしなさいと言う意味ではありません。一日の内にはかなりの労苦がある。苦労がある。苦労という言葉を直訳すると「恨みや悪意」という意味で用いられる言葉です。ですからそうなまやさしい苦労ではないということが想像されます。 第二に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">思い悩むな</span>」。 心配するな、心引き裂かれて思い煩うな、と、イエス・キリストは自分の言葉でそう言っているのです。心配事はその日だけにしなさい、と言っているように聞こえます。それはそうです。しかしそれが出来ない。それこそ、それが出来れば苦労がないのです。ストレスがたまる、心が折れる、ということを経験していますので、そうは言われてもそう簡単には出来ないとの気持が起きるのですが、イエス・キリストは視点を変えて見なさいと言います。 26節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか</span>。」 28節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ</span>」。   自然を見よ。鳥を見よ。花を見よ。それはある程度、効果があるとは思います。実際、山に登って気分が良いとか、気分転換になったと言う人は少なからずおります。しかしここで大切なことはその根底にある事柄です。 /n神と共に生きている。だから、何よりもまず・・ イエス・キリストは告げます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる</span>」(同32-33)。 イエス・キリストは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その日の苦労は、その日だけで十分である</span>。」と語りましたが、当てのない楽天的な言葉で語ったわけではない。一生懸命生きよ、というのですが、しかし単に励ましているのではない。そこには秘訣がありました。 一人だけで一生懸命生きているのではなくて、あなた方に必要なことをご存知であり、みな加えて与えられる「神」が共に生きている。神と共に生きている。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。ということが肝要なのだというのです。 さきほど私が述べたような理屈は、まさにイエス・キリストの言葉でいえば、「信仰の薄い者たちよ」と一蹴されてしまうことでしょう。 否むしろ、何よりも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国と神の義を求めなさい</span>」というのは、実に信仰者に与えられている秘訣なのです。 さて、イエス・キリストはこのような言葉を、旧約聖書と同じ権威をもって人々に語りました。初代教会は、そのことを正しく理解しました。すなわち、旧約聖書と新約聖書を等しくキリスト教の「正典」と定めたのです。「正典」というのは、キリスト者の信仰と生活の規範・物差し・基準ということです。  ルターは、その聖書の言葉を、「堅き岩」、「土台」、「物差し」、「規準」としたのです。  私達も、宗教改革の伝統に生きている教会として、改めて、旧約聖書・新約聖書の言葉を土台として生きている、ということを再確認したいと願うのであります。

「新しい契約」  伝道師 平賀真理子

/nエレミヤ 31:27-34 /nマルコ 14:23-26 /nはじめに   イスラエルの民は、神様が本当に自分達の救いの為に「エジプトからの脱出」の出来事を通して働いて下さったことを覚えて、「過越祭」を代々、祝ってきました。先祖の困難に思いを馳せ、神様の偉大な助けと導きを感謝し続けたのです。そして又、イエス様が、ご生涯最後の過越の食事を弟子達となさることは、イエス様ご自身も切望されていたことでした。 イエス様が、最後の食事を弟子達となさることには二つの意味がありました。一つは、イエス様が、神様とイスラエル民族の間に交わした救いの約束を完成されること。もう一つは、神様とイスラエル民族との間に結んだ「民の律法の遵守と、神様の祝福」という契約が、人間の罪によって破られてしまった歴史の中で、契約を結び直されるということでした。 /n人間の神への不信仰と、神の愛 初めの契約が破られた人間側の「罪」とは、出エジプトへと救い出して下さった唯一の神様を、イスラエルの民は信じ続けることが出来ず、近隣の土地の偶像の神々への信仰に陥り、又、守るべき律法(十戒など)を守り続けることが出来なかったことです。神様は長い間忍耐されましたが、人々は神様に立ち帰ることなく、罪によって神様から遠ざかり、苦しみに喘ぐ生活を送るようになりました。それでも神様は人間を見捨てることなく、人間の悲惨な状況を救おうと、地上に御子イエス様を誕生させられました。 /n御子の誕生  神様は、御自身がどのような方であるのか(義や知恵や愛など)を、イエス様の御言葉や歩みによって、人間に分かるように知らせようとされました。しかし本当の意味で、弟子達も民衆も、イエス様をしっかりと認識して受け入れることは出来ませんでした。それでも人間を愛して下さる神様は、神様を信じる者との間に、新しい契約を打ち立てられたのです。 /n新しい契約 エレミヤ書によれば、新しい契約を結ぶ民は、「神様の律法を胸の中に授かり、心に記される」人々であり、「主を知っている」者です。それは、一人一人の心の中で起こされる信仰によるものです。新しい契約を結んだ人々に対して、神様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その悪を赦し、再びその罪に心を留めることがない</span>」と、エレミヤ書31:34に記されています。  しかし、そうなるためには、その人の罪が清くされねばなりません。聖である神様は、その御性質上汚れた者を受け入れることは出来ないのです。そして人間は、人間だけの力で清くなれないことは自分のことでも、旧約聖書の何千年の歴史でも既に明らかです。 /n罪が赦され、清くされるために 神様の前に罪を償おうとすれば、人は、「命をもって」償わなければなりません。旧約の時代は、それが動物の血で肩代わりされていました。しかし、イエス様が来られたのは、何回も繰り返される動物の犠牲ではなく、ただ一回限り、罪のない神の御子・イエス様の血が流されることによって得られる、人間の罪の償い(と神様からの赦し)の為でした。 (参照:へブル書9:22「<span class="deco" style="font-weight:bold;">血を流すことなしに罪の赦しはありえない</span>」)。「自分の罪をイエス様が贖って下さる。イエス様の犠牲の死によって、自分の罪が赦される。」そのことを知り、信じて、イエス様を遣わされた神様を自分の神様とし、この神様の民とされることを約束した者は、神様の教えを胸に授けられ、心に記されるのです。 /n聖餐 聖餐は、イエス様が最後の過越の食事の時に、「パン」を「主の体」、「ぶどう酒」を「主の血」として「わたしの記念として行いなさい」と言われたことから、キリスト教会では洗礼と共に約2000年間守られています。洗礼は、自分ではどうしてもぬぐえない自分の罪をイエス様が贖って下さり、赦して下さったことを信じて、「イエス様は主である」と公に告白して受けるものです。洗礼後は聖餐によって、主の贖いの死を思い起こし、自分自身の救いの出来事を感謝し、再臨と神の国を待ち望みます。聖餐によって、イエス様を信じる者達は、本当にイエス様と結び付けられ、又、信じる者同士も ずっと結ばれ続けるのです。(後略)。