説教要旨 「主の憐みと恵みの糧」 平賀真理子 伝道師

/n[民数記]11章10-13節 10 モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。 11 モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。 12 わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。 13 この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。 /n[マルコによる福音書]6章30-44節 30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。 38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。 41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 42 すべての人が食べて満腹した。 43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 44 パンを食べた人は男が五千人であった。 /nはじめに  イエス様がなさった奇跡で、四つの福音書に共通しているのは、今日の「五千人に食物を与える」話だけです。マルコ福音書では、この「奇跡」がなされる前にイエス様と弟子達の状況がどうであったのか詳しく書かれています。12使徒は、イエス様から汚れた霊に対する権能を授けられて各地に派遣され、悔い改めに導く宣教と、悪霊を追い出し、病人の癒しをした後、イエス様の所に戻り、自分達の活動報告をしました。イエス様のもとには出入りする人が多く食事をする暇もなかったので、イエス様は弟子達に、人里離れた所に行って休むように言われました。ところが船で脱出した一行を見つけた群衆は、何と、徒歩で先回りしたとあります。イエス様はこの大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような」有様を深く憐れまれ、いろいろ教えられました。 /n有るものに目を注ぐ  時がだいぶたち、群衆の食事の心配をした弟子達は、この人々を解散させようとしましたが、イエス様は弟子達に彼らの食事の世話をするよう、命ぜられました。お金も食材もなく人里離れた場所では店もなく、弟子達が「そんなことは出来ない」と思ったであろうことは想像出来ます。 しかしイエス様は、「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われました。「・・しかない」ではなく、イエス様は「有るものに目を注ぎなさい」と問いかけるのです。弟子達は確かめて「五つあります。それに魚が二匹です」と答えています。わずかな物でも「これだけ有ります!」と主の前に差し出す。そこを始まりとして恵みが広がっていきます。そして「奇跡」が始まります。イエス様は、群衆を組に分けて座らせ、天を仰いで賛美の祈りを唱えてパンを裂き、配り、二匹の魚も皆に分配されました。 /n旧約聖書における神様の憐れみ  エジプト脱出後、イスラエルの民は砂漠での空腹に耐えられずモーセに対して不満を言いましたが、神様は天からマナ(食べ物)を与えられました。又、今朝の民数記では、民が再び食べ物のことでモーセに不満をぶつけるので、神様は「肉」を与えるとモーセに言われました。モーセは60万の民にそれは不可能であると答えますと、「<span style="font-weight:bold;">主の手が短いというのか。今、あなたに見せよう</span>」と言われました。そして主のもとから風が出て、海の方から「うずら」を吹き寄せ、イスラエルの民のテント近くに広大な範囲にわたり「うずら」は落ちて積り、民はそれを食したのです。 /n12の籠  伝道に派遣され、旅から戻り、休む間もない弟子達でしたが、彼らは「神の国」をこの世に実現する為の働き手として、神の国を表わす「奇跡」に立ち会うことになりました。全ての人が、主の憐みによって与えられた恵みの糧で、霊的にも肉体的にも十分満たされ、「<span style="font-weight:bold;">パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠に一杯に</span>」なりました。12は聖書ではイスラエル12部族を示すことが多くありますので、ここではイエス様は、旧約聖書を通して神様を証ししてきたイスラエルの民全体に遣わされた救い主(メシア)であることを示していると考えられます。そしてイエス様が来られた新約聖書の時代以来、イエス様は「神の民・イスラエル」に代わり、今や、「信じる者すべての人」の救い主(メシア)です。 /n主の憐れみは日毎の糧にも及ぶ  私達が信じて従うイエス様は、食べ物を必要とする私達を分かって下さり、憐れんで下さる神様であり、実際に私達を養って下さいます。恵みを与えて下さる神様に感謝しています。 私達は日毎の糧を必要とする一方で、「<span style="font-weight:bold;">キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです</span>」(ガラテヤ5:24)とあります。罪の赦しの洗礼を受けたにもかかわらず、私達は時としてわがままな思いに引きづられたり、神様を忘れて自分勝手な行いを度々してしまいます。そのような私達に対しても、神様は大いなる救いの手をもって日々、神の国へ招きイエス様の十字架と復活による「救い」に与らせて下さいます。そのことを覚え、悔い改めと心からの感謝をささげます。 最後にルカ福音書12:29-32をお読みします。 >> 「<span style="font-weight:bold;">あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。</span>」 <<

「奇跡と熱狂」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]35章5-10節 5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。 /n[マルコによる福音書]7章31-37節 31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様が、故郷のガリラヤに隣接する都市をめぐって福音伝道の旅から戻って来られたところから始まります。ガリラヤ湖畔に戻られたイエス様を待っていたのは、イエス様の癒しの奇跡の噂を聞いたと思われる人々でした。今日の箇所では、人々が耳が聞こえず舌の回らない(話が出来ない)人をイエス様の前に連れて来て、手を置いて下さるように(癒しにつながる祈り)願い出ました。この時イエス様が初めにされたことは、この障がいに苦しむ人だけを群衆の中から連れ出すことでした。周りの人の思惑や、好奇心から隔離し、一対一で、面と向かって、心の交流をなさろうとしたのでしょう。 /nイエス様の奇跡  イエス様のなさる奇跡は、ほとんどがイエス様の発する御言葉によってなされています。しかし今回、いやしを求めている人は、耳が聞こえず、舌が回らない人です。イエス様の言葉を聞くことが出来ないこの人の為に、イエス様はご自分がなさろうとしていることを、動作をもって示されました。「<span style="font-weight:bold;">指をその両耳に差し入れ</span>」は、ふさがっている耳の穴をあける動作であり、「<span style="font-weight:bold;">つばをつけてその舌に触れる</span>」は、乾燥して固まって動かない舌を湿らせて柔らかくして動くようにされる動作、さらに「<span style="font-weight:bold;">天を仰いで</span>」は、父なる神様の助けを祈り求め、「<span style="font-weight:bold;">深く息をつき</span>」は、元々は「嘆く、ため息をつく」という意味を含んでいますので、イエス様がこの人の境遇に共感し、罪の世界の苦しみを嘆かれていることが分かります。そして最後に、「<span style="font-weight:bold;">エッファタ</span>」と言われました。これはイエス様が日常で使われていたアラム語で「開け」という意味です。イエス様が、この世の苦しみの世界を解放し、牢獄のようなこの世の門を、神の国に向かって「<span style="font-weight:bold;">開け</span>」と宣言されているのだとも理解出来ます。イエス様は神の御子としてこの世の支配者サタンと真剣な闘いをされ、奇跡を通してこの世への救いの道を開いていこうとされていたのです。 /n「話してはいけない」  イエス様の「<span style="font-weight:bold;">エッファタ</span>」との御言葉により、耳と舌に障がいを持った人は、たちまち耳が聞こえるようになり、話せるようになりました。この後イエス様は人々に「誰にもこのことを話してはいけない」と口止めされました。しかし人々は、「かえってますます言い広めた」とあります。なぜでしょうか。それは、自分は素晴らしい奇跡を見た!と自慢したい気持、その出来事に酔いしれたい気持が優先されたのではないでしょうか。人間は何かに熱狂したいものです。私達は、心の中に空しさを含む穴があると、何か手近なもので埋めようとします。その空しい穴は、本来神様が住まわれるところです。ところが人は、奇跡など強い感情を伴う出来事を体験すると熱狂し、すぐ人に伝えたいという感情に捕われます。「熱狂」は、一時的な感情で、彼らの中からイエス様に従う者や、十字架の裁判時にイエス様を助けようと働く者は出てきませんでした。「熱狂」に基づくイエス様の人気が大きくなることは権力者達を敵に回し、更には「神の国の福音」を広められるイエス様の働きを妨げることになったでしょう。「誰にも話してはいけない」とのイエス様の言葉に逆らって話すことは、人間の領分を越えて罪に陥ることです。アダムとエバが神様の禁止命令を守れなかったことから、人間は罪の世界への堕落が始まりました。イエス様が求めておられるのは「主の言葉に従う者」です。 /n耳と口  礼拝にはイエス様が共におられ、私達の賛美や悔い改めや、とりなしの祈りや、祈りに含まれる私達の苦しみや悩みも聞いておられます。私達の耳は、聖書を通して神様の御言葉を聞き、説教のみならず礼拝のすべてのプログラム(黙祷から祝祷・後奏まで)で、聖霊の働きを通して神様の声を聞くことができます。又、私達の口は、懺悔の祈りをささげ、賛美し、使徒信条を告白し、主の祈りを祈ります。耳と口はそのために与えられています。私達は心に「熱狂」ではなく「賛美と祈り」を据えて、今週も歩んでまいりましょう。

「復活を信じる信仰」 牧師 佐藤 義子

/n[ダニエル書]12章1-4節 1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。 2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。 4 ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」 /n[使徒言行録]24章10-23節 10 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。 11 確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。 12 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。 13 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。 14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 15 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 16 こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。 17 さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。 18 私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。 19 ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。 20 さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。 21 彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」 22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。 23 そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。 /nはじめに  今日の新約聖書は、千人隊長の命令によってパウロがカイサリア(ローマ総督駐在地)に護送されたその後の出来事が記されています。パウロの暗殺計画が失敗に終った後、パウロに殺意を抱くユダヤ人達は、今度は、総督に訴える為わずか5日後にはカイサリアにやってきました。その為パウロは、ローマ総督フェリクスの前で弁明することになりました。今朝はその裁判を見ながら、パウロの告白する復活の信仰について学びたいと思います。 /n告発  法廷では、大祭司アナニアと長老数名および弁護士テルティロがパウロを訴え、彼が世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしていること、さらに彼が「ナザレ人の分派の主謀者である」と述べ、最後に「神殿を汚そうとしたからパウロを逮捕した」と告訴の理由を語りました。聖書本文にはありませんが、「<span style="font-weight:bold;">そして、私共の律法によって裁こうとしたところ、千人隊長リシアがやってきて、この男を無理やり私共の手から引き離し、告発人達には、閣下のところに来るようにと命じました。</span>」(使徒言行録最後の頁の24:7参照)と千人隊長への不満をも訴えた写本が残されています。 /nパウロの弁明  この告発に対するパウロの答弁が、今朝読んでいただいた10節から21節にあります。パウロは、自分がエルサレムに来たのは礼拝の為であり、しかもエルサレム到着後12日しかたっておらず、ここでの告訴の内容は、誰も、何の証拠も挙げることは出来ないと訴えを退けています。ただし、「ナザレ人の分派」であることは認めて、自分の信仰を明確にしています。 /nパウロの信仰告白  14節以下で、パウロは、自分は先祖の神(天地創造主の唯一なる神)を礼拝する者であり、律法と預言者(旧約聖書のこと)をことごとく信じていると告白します。さらに、自分は復活する希望を抱いており、これは自分を訴えている人々と同じ信仰だと主張します。(ユダヤ教の三つの柱は、神が唯一であり、旧約聖書は正典であること、そして復活の期待の確信)。ユダヤ教の中には復活はないとするサドカイ派がおりましたが、彼らは他のユダヤ教徒から、忍耐をもって受け入れられていたのでした。 /n復活の希望の確信  パウロは「<span style="font-weight:bold;">正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています</span>」と告白しています。イエス・キリストの復活は新約聖書の信仰の根本であり、弟子達の宣教の中心は「神様がイエス・キリストを復活させた。自分達はその復活の証人である」でした。パウロ自身も復活の主に出会い、キリスト者への迫害者から伝道者へと180度変えられました(9章)。  パウロは「<span style="font-weight:bold;">イエスは、私達の罪の為に死に渡され、私達が義とされる為に復活させられたのです</span>」(ロマ4:25)と語っています。イエス・キリストの死と復活は切り離すことが出来ません。私達の罪が赦される為に、神様の働きによってなされたのがキリストの死と復活なのです。コリント書でも「<span style="font-weight:bold;">キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります</span>」(15:17)とあります。 /n私達の信仰  私達もパウロと同じように、信仰によって、肉体の死がすべての終りではなく、復活して神の国に入れられることを信じています。私達は、神様を神様として信じてこなかったそれ迄の罪を悔い改め、イエス様を神の子・救い主と信じる信仰により、罪から救われて、神の子とされた喜びの中に生かされています。それゆえに、死は恐怖ではありません。大切なことは生涯「死に至るまで忠実であれ」(黙示録2:10)との御言葉に従って生きることです。  多くの誘惑や困難が、時として私達を苦しめます。しかし私達には、復活のイエス様が約束通り聖霊と共に常に傍にいてくださり、私達に知恵と勇気と励ましを与えて下さいます。  礼拝の恵みにあずかることを通して、しっかりとイエス・キリストにつながっていましょう。

「神の子とされる」    牧師 佐藤 義子

/n[申命記]7章6-11節 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。 あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。 /n[ガラテヤの信徒への手紙] 4章1-7節 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。 /nはじめに 本日より、日本キリスト教団の「聖書日課」に従って、礼拝での聖書を取り上げていきたいと思います。これは、英国に本部をもつジョイント・リタージカル・グループが発行する、四年を一つのサイクルとして聖書を読み進んでいくプログラムを土台として、日本キリスト教団の「聖書日課編集委員会」が教会暦と合わせて作成しています。これ迄のように一つの福音書や手紙を読み通すという形ではありませんが、聖書を神様の言葉として聞く私達にとって「今朝、神様は聖書のどの言葉をもって私に語ろうとしておられるのか」を聞きとり、神様に従う毎週でありたいと願います。 /n不自由に気付かない 私達は、聖書の神様(創造主)を知らなかった時、どのような神様を神としていたのでしょうか。パウロの時代、宇宙万物を構成する四つの要素「地水火風」の背後に霊の力があると信じる信仰や、天体(月とか星)に霊の力を信じる信仰、自然界に住みついて自然現象を司り、人間の日常生活に影響を及ぼす超自然的な霊を信じる信仰などがありました。日本でも、結婚式は大安の日に、葬儀の日は友引の日を避ける、とか、立派な家を建てて住んだけれども、家族の病気が続くのは方角が悪いからと言われて大改造した話や、引っ越しを繰り返した話も聞きます。さらに、縁起が良い、悪いという言葉で、根拠のないまま自分の行動がそれにより左右された話なども聞きます。占いや迷信は、何かの霊が自分を支配しているかのように考え、恐れを抱き、時にはそれを信仰の対象にしています。それらに縛られて(奴隷状態)、多くの人々は、不自由な生活を強いられながら、そのことに気付かず、それを当たり前のように受け入れています。 /n未成年から成人へ そのような束縛された生き方を、今日読んだガラテヤ4章3節では「未成年」という表現を使っています。3節には「同様に私達も、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」とあります。日本では20歳で成人として認められますが、それ迄は一人前とはみなされず、たとえ家の全財産の相続者であっても、相続することは出来ません。しかし時が来て成人になった時には相続出来るように、神様の救いの御計画における「神様の時」が満ちた時、初めて私達は霊的において、成人になる道が開かれました。それは、神様の独り子、イエス・キリストがこの地上に遣わされて、私達を、「諸霊の奴隷状態」から救い出し、神の子として下さった時のことをさします。 /nイエス・キリスト派遣の目的 神様が、御子イエス・キリストを私達のもとに遣わして下さったのは、「律法の支配下にある者を贖い出して、私達を神の子となさる為」(5節)でした。本来なら神のもとにおられたイエス・キリストだけが神の御子であられたのですが、神様は私達人間をも神の子として受け入れて下さる為に、イエス様を私達と同じように「女から」(4節)、しかも、律法の支配下(律法の奴隷)にあるユダヤ人の一人として生れさせられました。律法の奴隷とは、律法を重んじるあまり律法に様々の解釈をほどこして生活上の細かい規則を作り、それを守ることによってのみ救われると信じ、非常に不自由な生活を、正しいとして生きていた人々のことです。 /n神の子として自由に生きる道 「諸霊」の奴隷であれ、「律法」の奴隷であれ、不自由な奴隷状態の中にいた私達を救い出し、神の子としての自由を与える為にイエス・キリストは神様から遣わされてきました。私達は御子によって「神の子」とされ、イエス様と同じように神様を「天の父よ」と、親しく祈ることが出来るようになりました。このことに感謝し、二度と奴隷状態に戻ることなく、「神の子」とされた道を感謝しつつ歩み続けたいと願うものです。

「正しい服従」   牧師 佐藤 義子

/n[出エジプト記]23章10-13 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。 /n[ルカによる福音書]14章1-6 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 彼らは、これに対して答えることができなかった。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がファリサイ派のある議員の家で、安息日の祝いの食事に客人として招待された時のことが記されています。1節の終りに「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。うかがうとは、悪意ある目で偵察するという意味があります。イエス様の食事の席の前に、水腫をわずらった人がおりました。水腫とは異常な分量の組織液やリンパ液が体内にたまる病気で、エルサレムには多く見られたといいます。人々がうかがっていたのは、その水腫の病の人に対してイエス様が癒そうとなさるか、それとも安息日の規定に従う(=何もしない)か、ということでした。イエス様は、当日の招待主をはじめ、そこに招かれた人達が、どのような気持でご自分を見ていたのかを、全て見通されていました。そこで、イエス様の方から彼らに質問しています。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」</span>と。 /n沈黙 当時の考え方からすれば、病気を治すのは仕事のひとつとされ、安息日に働くことは禁じられていましたので、治療のたぐいは、してはならないことでした。(命に危険が及ぶ場合には、何らかの処置をとることは認められた)。 イエス様からの質問に対して、「彼らは黙っていた」(4節)とあります。6章では、イエス様が安息日に手のなえた人を癒した時、ファリサイ派の人達が怒り狂って、イエス様を何とかしようと話し合ったと記されていますから、ここでも彼らは、イエス様が律法を破るのではないか、もし安息日の規定を破ってこの水腫の人を癒すならば、自分達はその証人として訴え、社会から追放しようという思いがあったのではないかと想像されます。 /nイエス様は安息日でも癒された イエス様の質問に、その場にいた律法の専門家もファリサイ派の人々も沈黙を守り、答えようとしなかったので、イエス様は病人の手を取り病気を癒してお帰しになりました。ご自分の問いに、実践で答を示されたのです。 「律法では、安息日であっても病気を治すことは許されている」という根拠として、イエス様は、<span class="deco" style="font-weight:bold;">「もし、あなた達の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」</span>と、彼ら達の現実を取り上げました。人々は、自分の家族や飼っている動物の為なら、安息日であっても労働禁止条項を気にすることなく無条件で助けていたからです。 今、イエス様が、目の前の水腫をわずらったこの人を助けることはそれと同じであることを語られたのです。 /n律法の精神  神様の意志の表れである「律法」の精神は、究極的には「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことです。 しかしこの日集まっていた人達は、自分自身の延長線上にある家族や財産は、安息日規定を越えて助ける(愛する)けれども、それ以外の他者に対しては「安息日遵守」を要求し、他者が労働禁止条項を破ることには神経をとがらせていることをイエス様は指摘されました。 /nイエス様は安息日の主   私達も又、律法の中心である「神を愛し、隣人を愛する」ことを戒めとして与えられております。 私達はこの戒めを守りたいと願っています。 安息日は神様の日であり、恵みの日であり、喜びの日です。 神様を愛する者は、神様が望んでおられるように安息日をも過ごしたいと願うでしょう。   イザヤ書にはこのように記されています。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「安息日に歩き回ることをやめ    <span class="deco" style="font-weight:bold;">  わたしの聖なる日にしたいことをするのをやめ   <span class="deco" style="font-weight:bold;"> 安息日を<span class="deco" style="font-weight:bold;">喜びの日と呼び </span> </span> </span>  <span class="deco" style="font-weight:bold;">主の聖日を尊ぶべき日と呼び     <span class="deco" style="font-weight:bold;"> これを尊び、旅をするのをやめ</span> </span>     <span class="deco" style="font-weight:bold;">したいことをし続けず、取引を慎むなら  </span> <span class="deco" style="font-weight:bold;">そのとき、あなたは主を喜びとする。」(58:13)</span> </span>     私達は、毎週日曜日を「安息日」として守り、過ごしています。 イザヤ書にあるように、私達は日曜日を他の日と区別し、礼拝を捧げる日として尊び、喜びの日として過ごしましょう。 そして神様の日として、神様の御意志に沿う歩み・・隣人を自分のように愛する・・を歩んでいく者とされたいと願うものです。

「新たに生れる」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]40章25-31節 /n[ヨハネによる福音書]3章1-15節 /n はじめに   今年度の御言葉は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れた者は肉である。霊から生れたものは霊である。」です。 元旦礼拝では、毎年「その年の聖句」を学んできましたので、今日も、この御言葉についてご一緒に学びたいと思います。 /n ニコデモの訪問 今日の聖書に登場するニコデモは、議員であり、ユダや教の中でも厳格なファリサイ派に属していました。ユダヤ教徒(特に指導者達)は、イエス様に対して距離を置いていました。二節には、ニコデモがイエス様を訪ねて来たのが夜であったことを記しています。それは、イエス様への訪問を人に知られたくなかったからでしょう。彼はイエス様の話を見聞きし、イエス様の言動は確かに正しいと認めつつも、その一方でイエス様のことを警戒している仲間の人達のことを気にしていたのです。 /n 心の自由と不自由 人はなぜストレートに自分の確信に従って行動出来ないのでしょうか。それは、人の目、人の噂を気にするからです。自分が良いと思うことを良い、悪いと思うことを悪いと言えるのは、その人の中に自由が確保されている時です。しかし、言うべきだと思うことを人前で言えず、こっそり言いに来るのは、その人の心が不自由な状態に置かれています。ニコデモは、人々の判断や、この世の栄誉を気にしながら、その一方で、自分の心の中に生れたイエス様への信頼を伝えるべきだと考えたようです。 人間に対しても神様に対しても、両方に心が向いているニコデモを、イエス様はすべて見通された上で、暖かい忍耐をもって迎えます。ニコデモは「ラビ(先生)、私共は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことは出来ないからです」と言いました。 その言葉に対して、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることは出来ない。」と言われました。 /n 新たに生れる ニコデモは、「自分はイエス様を正しく理解している」と過信していました。けれどもイエス様は、「神様が、人間に対して行うことを理解する為には、あなたがまず新しく誕生することがなければならない」と言われたのです。人は、自然の誕生のままで神の国に入ることは出来ません。そこに入る為にはもう一度新しく生れなければならないのです。  「新たに生れなければ」と聞いたニコデモは、人が誕生を繰り返すことは不可能であると反論しました。 イエス様は、身体的な意味で新しく生れると言ったのではなく、新しい命がその人に吹きかけられ、新しく生きることが始まる時のことを言われたのです。この新しい命は、神様だけの所有であり、この神様の賜物をいただけた時のみ、神の国を見ることが出来、神の国に入ることが出来るのです。ニコデモが神様から新しい命を与えられて新しく生きる者とされるためには、創造者である神様がそのようにして下さらなければならず、人が出来ることは、祈り求めて、ただ受けることだけです。 /n「誰でも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。」   水と霊は新しい人を生み出します。その時人は、神様によって定められた生命力をもちます。新しく生れるとは、バプテスマの水を通して神様の赦しの領域に移されることです。神様が恵みをもってその人に近づく時、人は内側から捕えられ、形作られていきます。神様は霊において、その人に臨みます。神様は、その人の思いを支配し、その中に光を与えられます。神様は、その人の感覚や意志を呼び起こされます。(「新生」)。人間が自分自身から造りだす全てのものは肉の性質を帯びており、神様が私達に与えるものは霊です。霊は神様の本質と力です。

「神の生きた言葉」      牧師 佐藤義子

/nエレミヤ書10:10-16 /n1ペトロ1:17-25 /nはじめに  先週の日曜日、伝道所の2012年度の定期総会が開かれ、今年度の歩みの目標に四つのことを掲げました。第一に、毎週の「礼拝」を大切に守る。第二に、神様の恵みに感謝し、自分を神様にささげる献身のしるしである「献金」を大切にする。第三に、毎日の生活の中で、「御言葉」を読み、「祈る」時間を確保する。第四に、伝道所にこられた方々を「大切に迎え入れ」、会員がその方々のために何が出来るかを考えていく・・ことです。 /n礼拝を大切に守る  イザヤ書には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">安息日を喜びの日と呼び・・これを尊ぶなら、その時、あなたは主を喜びとする。」</span>とあります(59:13-14)。 毎週日曜日に礼拝をささげられることは喜びであり、そこで私達が礼拝し賛美する神様(父・子・聖霊)は、私達にとって喜びの存在であると聖書は告げています。なぜなら私達は神様から愛されているからです。神様と私達は幼子と親の関係にあり、イエス様は私達に、祈る時は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天におられる私達の父よ</span>」と呼び掛けて、願い求めることを教えて下さいました(マタイ6:9)。 /n動物犠牲による罪のゆるし 神様は「聖(きよい方)」であり、「義(ただしい方)」であり、完全な方であるのに対して、人間はあまりにも不完全で罪深く、神様との契約(約束)である律法も破り続けていましたから、その関係は断絶に近いものでした。イスラエルの人々は自分達が犯した罪を、牛や羊をささげることによって神様に赦しを乞いました。エルサレム神殿では毎日、人々を代表して祭司が神様に、「いけにえ」をささげていました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">血を流すことなしには罪の赦しはありえない</span>」(ヘブライ書9:22)からです。 しかし長い間続いた、この罪の赦しの為の動物犠牲は、イエス様の死をもって終りました。それは、動物の血によっては「<span class="deco" style="font-weight:bold;">決して罪を除くことは出来ない</span>」(同10:11)からであり、イエス様が「<span class="deco" style="font-weight:bold;">ただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために</span>」(同9:26)来て下さったからです。  今日の聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方がむなしい生活から贖われたのは、・・きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです</span>」とあります。 神様は独り子イエス様を地上に送られ、イエス様に全人類の罪を負わせ、この世の罪をあがなう為にイエス様を「いけにえ」とされました。それが十字架の死です。この死により信じる者すべての罪が赦されました。 /n恵みのわざ 歴史的に見れば、イエス様の死はユダヤ人の「ねたみ」によるものでしたが、目に見えない神様の御計画によれば、すべての人が神様との交わりを失って、絶望と罪の中に放置されていたところを、神様は御子イエス・キリストの十字架で流された尊い血潮によって罪を赦し、罪の世から人々を救い出すという「恵みのわざ」を行われました。私達が罪の支配下から、神様の恵みの世界へと救い上げられるための唯一の道は、「イエス・キリストの十字架の出来事は、私の為であった」ことを信じて、「悔い改めて神様に立ち帰る」ことです。神様を信じ、御子イエス様を信じる信仰が、私達の罪を赦し、罪から私達を解き放つのです。 /n新生 今日の聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生れたのです</span>」とあります。信仰が与えられたクリスチャンは、「神様の生きた言葉によって新たに生れた者」だと宣言しています。 「新生」(NEW BIRTH)は、悔い改めた後に新たに受ける信仰の経験をさす言葉です。神様に背き、この世の霊の力(迷信や、おまじないや、占いなど)に影響され、縛られていた者が、神様が下さる聖霊の働きによって、自分自身の本質的部分が全く新しくされ、古い生活と断絶し、新しく神様の命を受ける経験をすることです。神様の言葉は、人間を新しく創造し、完全に造り変える力をもつのです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御父は、御心のままに、真理の言葉によって私達を生んでくださいました</span>。」(ヤコブ書1:18) クリスチャンは、神様の生きた・真理の言葉によって生まれた者です。

「神から出た教え」  牧師 佐藤 義子

/n詩編146:1-10 /nヨハネ福音書7:10-18 /nはじめに  今読んでいただいた聖書は、ユダヤ教の三大祭りの一つである、仮庵の祭りでの出来事です。仮庵の祭りについては、旧約聖書の申命記(16:13-)、レビ記(23:34-43)・民数記(29:12-14)にも記されていますが、モーセの時代以後長い間この祭りは行われず、バビロン捕囚から帰ってから再開されたことがネヘミヤ記8章で伝えられています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されている通りに仮庵を作りなさい。(略)こうして人々はそこで過ごした。それはまことに大きな喜びの祝いであった</span>。」  この祭りは後に、イスラエル民族がエジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅を続けた時、天幕を張りテント生活をしてきたことを思い起こす時として過ごすようになりました。イエス様の時代も、この祭りの時には、おびただしい巡礼者が、エルサレムに集まりました。 /nイエス様と兄弟達との根本的な違い 7章の初めには仮庵の祭りが近づいてきたので、ガリラヤにいたイエス様の兄弟達も祭りにいく準備をしていたとあります。兄弟達はイエス様に、ガリラヤのような田舎ではなく、大勢の人達が集まるエルサレムに上ってイエス様の実力を示し、自分がメシアであることを世間にアピールしたらどうだと促しています。私達の社会では力のある人が歓迎され、力のある人の所に人は集まります。イエス様の兄弟達は、まさにこの世の生き方に倣い、イエス様の力を世間に見せつけて人々の心をつかめと勧めたのです。それに対してイエス様は「私の時はまだ来ていない」と拒否されました。 「私の時」という「時」は、御自分のことをはっきりとおおやけに示す『時』のことです。それは十字架への道が開始される時でもあります。イエス様の「時」は神様がお決めになることであり、イエス様は決められたことに従順に従うだけなのです。兄弟達はこの世に同調し、この世の流れにのって生きているのでこの世との矛盾も戦いも抵抗もありません。 しかしイエス様は、この世が行っている悪をはっきりと指摘するので、この世はイエス様を憎みます。兄弟達の生き方は、人々が賞賛するやり方であり判定基準はこの世の人々に委ねる道です。イエス様はこの世の根本的な間違いを指摘し悔い改めを求められます。聖書は、「兄弟達もイエスを信じていなかった(神の子救い主として)」と証言します。 /n「神から出た教え」   今日の聖書では、祭りに行かないと答えたイエス様が、その後人目を避けてエルサレムに上り、祭りの中頃、神殿の境内で、人々に旧約聖書から教えられたと伝えています。それを聞いたユダヤ人達はイエス様が学問をしたわけでもないのに聖書を良く知っているので驚いたと記されています。それに対して、イエス様はこう言われました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」</span>  イエス様の教えの中に神ご自身の御声を聞くかどうかは、その人が、神様との生きた交わりをもっていること、本当の信仰を持っている者、神様の御心を行おうとする者であるかどうかが問われます。   私達の語る言葉が人間から出ているなら、その言葉はその語った人に帰っていきます。けれどもその言葉が神様から出てくるなら、それは神様の栄光を表わし、目を神様に向けさせ、神様に対する感謝と神様への愛を引き起こします。自分を高めようとする者は、真理を手に入れることは出来ません。神様の栄光を表わそうとする者、神様を中心として歩む者だけが真理にとどまることをイエス様はここで教えておられます。 私達は、自分の意志を貫くことを最優先に考えたがります。しかしその前に先ず「イエス様のように神様の御心を行う者になりたい!」との願いと祈りをもって、今週の歩みを歩んでいきたいと願うものです。

「インマヌエル(神は我々と共におられる)」牧師 佐藤義子

<span class="deco" style="font-weight:bold;"></span> /nゼカリヤ書8:16-23 /nマタイによる福音書1:18-25     /nはじめに   本日から待降節に入ります。キリスト教の暦では、救い主の誕生を待つ季節から始まります。待降節第一主日の今日、ローソクの1本に火が灯りました。これから日曜日毎に2本目、3本目にも火が灯り、4本灯りますとクリスマスを迎え、降誕節に入ります。 /n「褒(ほ)むべきかな 主のみ恵み、今日まで旅路を守りたまえり。」  これは、讃美歌534番の最初の歌詞です。今朝の礼拝は、仙台南伝道所にとって礼拝開始10周年という節目にあたる礼拝です。「伝道所の歴史」としての10周年は、日本キリスト教団の伝道所として開設されてから数えますので10年まであと1年半ありますが、ここ、佐藤博子姉の応接間で礼拝をささげるようになってから10年がたちました。週報ナンバーを見ると523回目の礼拝です。この回数を見ただけでも神様が、毎週・毎週、守り導いて下さってきたことがわかり感謝の思いを深くします。  コリント第一の手紙1:10に、「神は、(これほど大きな死の危険から)私達を救って下さったし、また救って下さるでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私達は神に希望をかけています。」とあります。私達も同じ信仰で、これからも神様に希望をかけて歩み続けていきたいと願っています。 /n伝道メッセージ  開拓伝道で何を伝えたいかと問われるならば、「神様が、その独り子を私達に送って下さったのは、神様から離れて苦しんで生きている私達人間が、神様の守りと祝福の中で生きていくためです。神様のもとに立ち帰り、神の御子イエス様を信じて、神の国の民とされて、真理の道を共に歩んでいきましょう!」です。伝道とは、このメッセージを携えて、自分自身がそれまでの生き方から変えられた喜びと共に、聖書が示す真理の道に向かって歩ける幸いを、「あなたも御一緒に!」と呼びかけることでもあります。けれどもこの呼びかけは、人間として生きる根本的な土台の部分に光をあてることになり、簡単には呼びかけに応える人達は出てきません。しかし今日の旧約聖書に「一つの町の住民は他の町に行って言う『さあ、共に行って、主の恵みを求め、万軍の主を尋ね求めよう』言われた人は「わたしも喜んでいきます」(21節)とあり、礼拝に誘い合って行く姿が記されています。又、異邦人がユダヤ人に「あなた達と共に行かせてほしい。我々は、神があなた達と共におられると聞いたからだ。」(23節)と、神を信じる者達の言動が評判となり、一人のユダヤ人に、十人の異邦人が礼拝に共に行きたいと頼む姿が記されています。   クリスチャンの言動を通して、神様が彼らと共にいることが明らかにされた時、このような光景が生まれることを聖書は伝えているのです。 /nインマヌエル  今日の新約聖書には、マリアの婚約者であるヨセフの夢に現れた天使の言葉が記されています。天使の告知は、「『自分の民を罪から救うお方』が生まれる。そのお方は、今聖霊によってマリアの胎内に宿っている」というものでした。「罪から救うお方が生まれる」とは、罪によって出来た神様と人間との断絶関係が廃棄され、罪の赦しが人間に与えられる。その罪の赦しをもたらすお方が、マリアから生まれ出る幼子であるということです。このことはすでにイザヤ書7章で預言され「その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)と福音書は引用しています。「エル」は「神」、「インマヌ」は「我々と共に」、インマヌエルは「神は我々と共におられる」です。「人間が罪から救われる」とは、神様との断絶の原因である罪が赦されて、神様がいつも私達と共にいて守り、導き、支え、励まし、慰め、いつでも「インマヌエル」と告白出来る関係に入ることです。

「主の十字架と平和」  伝道師 平賀真理子

/nゼカリヤ書 9:9-10 /nエフェソ 2:11-22    /nはじめに     今日は、私達の主イエス・キリストのエルサレム入城を記念する日です。 エルサレム入城は、旧約聖書のゼカリア書9:9~10の預言の実現です。当時の王=支配者は、弱い者を強い力で支配し、軍隊で使われる「馬」を使用しましたが、ゼカリヤ書で預言される「王」は、弱い民衆の農作業や水汲みなどの家事で使われた「ろば」で入場します。ろばは、おとなしい性格であるため、柔和・謙遜を象徴するものと考えられていました。ゼカリヤ書は、神様から派遣される「王」は、柔和・謙遜な方であり、その象徴である「ろば」でエルサレムに入られること、その方からもたらされる本物の平和こそが、全世界に広がるようになると預言します。 /n大歓迎のあとに・・  ゼカリヤ書で預言された「王」とは人々が待望していた「救い主」です。イエス様が語られた福音の言葉や奇跡の業を通して、人々はイエス様こそ待望の救い主だと思ったのです。イエス様がエルサレムの町に入られた日、人々は服や木の枝(しゅろ)を道に敷いてイエス様を「王」として大歓迎しました。その5日後の金曜日、イエス様は十字架にかけられ殺されました。 /n敵意  殺されることになった直接の原因は,ユダヤ教指導者達の「敵意」でした。敵意こそイエス様を十字架につけたものです。神様は、イスラエルの民が最も貧弱な民であったゆえに、御自分の民として選び愛し、その証しとして「律法」を授けられました。しかしイエス様の時代のユダヤ教は、それを忘れ、律法を形式的に守ることを重要視しました。又、「選びの民」としての責任を果たすよりも「選び」を傲慢に受け取りました。イエス様が彼らを痛烈に批判(マタイ23:1~36他)したことや、民衆のイエス様人気に対する「敵意」から、ユダヤ教指導者達はローマの役人と、付和雷同的な民衆を焚きつけて、イエス様を十字架につけるように画策したのです。  彼らは神様の御心を聴くことより、自分達の権威の失墜を恐れたのです。                 /nこの世に対する勝利  イエス様は、福音を伝えていく生活の中で、彼らに時に厳しく、時には忍耐強く教えられましたが、最後は彼らのやり方に任されました。これこそ神様の勝利の方程式です。罪の子達のやり方に負けているように見えて、実はそれを越える「本当の救い」の業がこの世に繰り広げられることになったのです。十字架は最も残酷な刑罰の一つで、人間の知識から言えば、これに神の御子がかかることは明らかに敗北です。にもかかわらずイエス様は、十字架上の苦しみを忍耐され、神様のご計画に徹底的に従うという尊い犠牲によって、不従順を続けた人間達の罪のすべてに対して神様からの赦しをもたらして下さいました。これこそこの世に対する勝利の証です。 /n「十字架と復活」を信じる信仰  神様から選ばれたユダヤ人だけが救われる時代は終り、イエス様の「十字架と復活」を信じる者なら誰でも救われる時代になったのです。神様は聖なる方であり、人間が罪に染まった状態では交流できませんが、十字架による罪の赦しを信じた者は、聖なる神様と交流することができるようになり、本当の平和の状態に置かれるのです。 /n十字架と平和  今日の聖書では、エフェソのキリスト教会が、ユダヤ教からの改宗者と異邦人のキリスト教徒との間にわだかまりがあったことを伝えています。それに対して、双方が、イエス様の十字架に立ち帰れば、自分を縛っていた「敵意」や「罪」を、主が御自分と一緒に十字架上で滅ぼして下さり、一人の人間が新しく造られるように結び合わされて成長出来ることが語られます。現代の教会でも、年齢・性別・育てられた環境の違いなどから生まれる信仰の違いなど、「隔ての壁」による分裂が起こっています。  しかし私達は、今日の御言葉から、「主の十字架によって敵意を滅ぼされている恵み」に立ち帰る必要を知らされます。私達は等しく主の十字架によって罪を赦され、主の復活と共に私達も復活の恵みにあずかることが許されています。この一点で、教会は「平和の共同体」たり得ます。主の十字架による平和こそが、救いの出来事であり、神様の賜物であり、恵みです。              /n希望のない戦い 最初の「救いの計画」に入っていなかった異邦人の私達は、聖書で証しされているような神様のことを知りませんでした。そして、訳がわからないまま悪い思いに捕らわれている自分、望まない悪いことをしてしまう自分、又、自己中心的な思いをむき出しにしてぶつかってくる家族や周囲の人々、弱い者が強い者に平然と利用される社会・・・等の中で、希望を持てずに生き続けなければならない、希望のない戦いを一生続けていかなくてはならないと思ってきました。 /n福音を知らされて しかし、福音を知らされた後の私達は、希望のなかった状態から本当の平和の状態へ招き入れられ、復活の恵みに共にあずからせていただいたことが分かりつつあります。それは神様を知らなかった頃の、絶望とは逆の、「希望」の世界です。神様から遠かった私達が、神様の聖なる民へと変えられたのです。愛と柔和・謙遜のイエス様が、私達の所にも来て下さったのです!ここに魂の本当の平安、救いの真実があります!  /n「父なる神・子なるイエス様・聖霊」の働き 十字架の苦難を、私達の敵意や罪のために耐え忍んで下さり、それだけでなく、御自分の、勝利の復活の恵みを共有しようとして下さる神の御子・イエス様。世の初めから、人間を本当に救おうと徹底的に愛して働きかけて下さる父なる神様。私達が洗礼を受けてから今日に至るまで、イエス様を土台とする信仰を成長させるために、常に私達に働きかけて下さっている聖霊。ありとあらゆる方向から、私達は神様の恵みを受けています。完璧な救いによる完全な平和を与えられていることを心から感謝します。その恵みを、謙遜な思いを持って感謝して受け、それを讃美致しましょう。  今日の御言葉通り、主の十字架の犠牲によって、本当の救いや平和が与えられていることを心に留めましょう。受難週である今週一週間は、特に、主の御苦しみやそれにも勝る愛に対する感謝を覚えて過ごせるように、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。