説教要旨 「テサロニケ伝道とベレア伝道 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記下]22:26-32 26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には策略を用いられる。 28 あなたは貧しい民を救い上げ/御目は驕る者を引き下ろされる。 29 主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる。 30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。 31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。 32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。 /n[使徒言行録]17章1-15節 1 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。 2 パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、 3 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。 4 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。 5 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。 6 しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。 7 ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」 8 これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。 9 当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。 10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。 11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。 13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。 14 それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。 15 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。 /nはじめに  パウロ達がフィリピを出て向かった先はマケドニアの首都、テサロニケでした。ここでパウロは三回の安息日にわたってユダヤ人の会堂で伝道しました。パウロの語ったことは、1.メシアは必ず苦しみを受けることになっていたこと(イザヤ書53章4-5など)。2.メシアは死者の中から復活することになっていたこと(詩編16:10など)。3.旧約聖書で預言されていたメシアは今、自分が伝えているイエスであること(イザヤ11:1-)でした。「旧約聖書の預言は、イエス・キリストにおいて成就した!」そのことを、パウロは安息日に会堂に集まって来たユダヤ人およびユダヤ教に関心を持ち、旧約聖書を学んでいる異邦人の人々に語ったのです。 /n力と聖霊と強い確信とによって  後にパウロは、テサロニケ教会宛てにこのように書いています(1:5)。「<span style="font-weight:bold;">私達の福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と、強い確信とによったからです。</span>」さらに2章初めには「<span style="font-weight:bold;">兄弟達、あなた方自身が知っているように、私達がそちらに行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知っての通り、私達は以前、フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、私達の神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなた方に神の福音を語ったのでした。</span>」パウロの説教は、テサロニケにおいて、ユダヤ人のある人達と、多くのギリシャ人および、かなりの数の上流階級の婦人達の信仰を呼び起こし、ユダヤ教からキリスト教への改宗者が生れました。 /n妨害  メシアがイエスであると信じた人々は改宗しましたが、信じないユダヤ教徒たちはパウロ達を妬み、暴力で伝道を阻止しようとしました。彼らはパウロ達が滞在していたヤソンの家を襲い、訴えようと探しますが見つからなかったので、代わりにヤソンの家にいたヤソンと数人の人々を捕えて町の当局者に引き渡しました。そして、「彼らは皇帝の勅令に背いて『イエスと言う別の王がいる』と言っている」と訴えました。当時皇帝は絶対でしたから「別の王イエス」と言う言葉は、皇帝に対立する言葉として人々の間には緊張が走り、動揺したことが伝えられています。しかしパウロ達が見つからなかったので、ヤソンは裁判や処罰からは免れ、かくまった罪で保証金を支払い、釈放されました。他のキリスト者は、パウロ達の命を守る為に、直ちに夜の内に、パウロとシラスをベレアに向けて送り出しました。 /n素直・熱心・聖書を調べる  パウロ達はベレアの町でも、ユダヤ人の会堂に入り伝道しました。ベレアのユダヤ人はテサロニケのユダヤ人と比べて素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていました(11節)。その結果、多くの人が信仰をもつに至りました。「素直」は、「善良」「良い性質」「礼儀正しい」とも訳されます。 聖書の言葉に触れた時、あるいは説教を聞いた時に、「果たして自分は本当にこのままの生き方で良いのだろうか」と思い始めた時、人は、自分の生涯に対して素直に、礼儀正しく向かい合うことが出来るのではないか、そして次のステップ、すなわち福音を聞く「耳」と、信じる「信仰」が与えられるのではないかと思います。 パウロは後に、「<span style="font-weight:bold;">このようなわけで、私達は絶えず神に感謝しています。なぜなら私達から神の言葉を聞いた時、あなた方は、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなた方の中に、現に働いているものです。</span>」(テサロニケ2:13)と記しています。 /nどのような妨害に会おうとも  テサロニケのユダヤ人達は、ベレアまでパウロ達を追いかけて来て伝道を妨害しました。しかし、どのような妨害に会おうとも、パウロはこのように語っています。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます</span>」(一コリント10:13)。 こうしてパウロのヨーロッパにおける伝道は、次の地、アテネへと拡がっていきます。神様がパウロを用いられ、パウロも又、与えられた使命を果たすべく、ひたすら主の業に励んだように、私たちの今週の歩みが主の御用に役立つものとなりますように主の守りの中で、励んでいきたいと願うものです。

「福音にあずかる道」 牧師 佐藤義子

/n[民数記]6章1-5節 1 主はモーセに仰せになった。 2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、 3 ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。 4 ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。 5 ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。 /n[使徒言行録]21章17-26節 17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。 18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。 19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。 20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。 21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。 22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。 23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。 24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。 25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」 26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。 /nはじめに  パウロの三回目の、御言葉を伝え続けた伝道旅行が終り、エルサレムに到着したパウロ達一行は、同じ信仰の仲間達から喜んで迎えられました。翌日パウロは、同行した7人とルカ(使徒言行録の著者であり医者)と共に、当時エルサレム教会の指導者となっていたヤコブ(イエス様の兄弟)を訪問しました。エルサレム教会の長老達もそこに集まっていました。19節には、「<span style="font-weight:bold;">パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。</span>」と記されています。おそらく18:23以下に記された、エフェソで出会った12人のキリスト者に聖霊が降った出来事、ユダヤ人祈祷師達が、主イエスの名を語って悪霊を追い出そうとした時、悪霊につかれた男が祈祷師に飛びかかりひどい目に合わせた出来事、それによって主イエスの名が崇められるようになったこと、魔術師達が魔術の書物を焼き捨てたこと、更にはエフェソの銀細工人達がパウロを目の敵にして大集会を開いた中でパウロが守られたことなど報告したのでありましょう。ここで注目すべきは「<span style="font-weight:bold;">神が・・行われたことを報告した</span>」ということです。「わたしは○○をしてきました」ではなく、「神」がなさった報告です。ここにキリスト者の語る姿が描かれています。  続いて報告を受ける側の反応にも注目したいと思います。「<span style="font-weight:bold;">これを聞いて、人々は皆神を賛美し</span>」(20節)です。キリスト者の集会は、語る者も聞く者も、神様を中心として、最終目的は神様を賛美することなのです。 /n悪意あるうわさ  エルサレムの長老達は、パウロについて心配していることがありました。それは、パウロがキリスト教に改宗したユダヤ人達に、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、律法を守ることから離れるように教えているという「悪意のあるうわさ」でした。勿論これは誤解です。パウロが語ったのは、律法を守ることで救われると考えている人々に、律法が神の国に入る条件ではなく、主イエス・キリストが私達の罪の為に十字架で死んで下さったことで、神様は私達の罪を赦して下さった。私達はこのキリストを信じることによって救われると語ったのです。 /n「うわさは根も葉もない」と分かってもらう提案  ヤコブをはじめエルサレム教会の長老達は、パウロを正しく理解していたでしょう。しかし熱心に律法を守っているユダヤ人キリスト者の間に広がるうわさを信じる人達は、パウロがエルサレムに滞在していることを知るならば、必ず騒ぎ出してパウロを捕えようとするでしょう。そこでエルサレム教会の指導者達が考えたことは、ユダヤ人に対してパウロ自身が身の潔白を証明するために、律法に定められていることを実践することでした。それによってパウロは決して律法をないがしろにしておらず、律法を守る人物であることが明らかになり、誤解も解けるだろうという提案でした。 /n「<span style="font-weight:bold;">福音のためなら、私はどんなことでもします。</span>」(一コリント9:23)  パウロの考えからすれば、この提案・・すなわち四人の誓願者と共に神殿に行き、清めを受け、彼らの頭をそる費用を出すという「律法を守る行為」をあえて行なう必要はありませんでした。彼は律法から自由にされていたからです。しかしパウロはこの提案を受け入れました。  なぜでしょうか。それは伝道者の使命感と、キリストの愛と、教会の一致の為と考えられます。パウロは「<span style="font-weight:bold;">ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。</span>」(一コリント9:20)と記しています。  救いの為に謙虚に最善を尽くし、不必要な争いや分裂を避け、教会の一致の為に愛をもって行動したパウロの姿をここに見ます。

「我はカイザルに上訴せん」 牧師 佐藤 義子

/n[詩編]11編1-7節 1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。 2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。 4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。 5 主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み 6 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。 7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 /n[使徒言行録]25章6-12節 6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。 7 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。 8 パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。 9 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」 10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」 12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。 /nはじめに  ローマがユダヤ地方の総督として派遣していたフェリクスのもとで、パウロの裁判は開かれました。しかし告訴したユダヤ人の側では、パウロを有罪にする証拠も証明も出来ませんでした。この裁判の前に総督フェリクスは、千人隊長リシアから「パウロとユダヤ人との間にある問題を調べた結果、それはユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はなかった」との報告を受けていました。さらに彼自身、キリスト教のことをかなり詳しく知っていました(24:22)。  フェリクスの、総督という地位や権力から考え、この状況であれば今、目の前にいるパウロを無罪放免することは可能でした。が、彼はそうしませんでした。彼は、エルサレムにいる千人隊長がカイサリアにやって来た時に判決を下すと言って、裁判の判決を延期したのです。 /n総督フェリクス  フェリクスは妻がユダヤ人であるということもあり(24節)、パウロを、キリスト者の指導者の一人であることを認めて、パウロの監禁中たびたびパウロを呼び出しては、イエス・キリストへの信仰についてパウロから聞きました。彼がパウロに対して抱いていた思いは、丁度ヘロデ王がバプテスマのヨハネに対して抱いていたように、良心の呵責を持ちつつ、正しい言葉が聞けることへのパウロへの好意的な関心がありました(参照:マルコ6:20)。パウロはためらうことなく、正義について、節制について、又、来るべき神様の裁きについて話したので、彼はそのような時は恐れて話を打ち切りました。フェリクスはパウロの無実を知りながら、彼を軟禁状態のまま二年間も裁判を開きませんでした。それは、ユダヤ教指導者達から憎まれたくないこと、そして釈放金としてわいろを受けようとする下心があったからだと聖書は伝えています。 /n総督フェストゥス  二年後フェリクスは転勤となり、フェストゥスが赴任してきました。彼は保留となっていたパウロの裁判を、着任後まもなく開きました。ユダヤ人達は、前回と同じように重い罪状を言いたてましたが立証には至りませんでした。ところがフェストゥスはパウロに、「お前は、エルサレムに上って、そこで裁判を受けたいか」と尋ねたのです。(9節) /n自己保身  フェストゥスは、自分がパウロを釈放すれば、ユダヤ人指導者層を赴任したばかりで敵に回すことを覚悟しなければならないことを察知し、「自分はあなた達の敵ではない」とユダヤ人にアピ-ルする為、彼らの願い通り、エルサレムでの裁判の道を開こうとしたのでしょう。  二人の総督に共通しているのは、「白を白、黒を黒」と言わない生き方を選んでいるということです。パウロの無実を知りながら、ユダヤの統治がやりにくくなることを恐れ、ユダヤの指導者層を自分の側にとどめておくための方策を優先させたのです。それは無難に任務を果たす為、自分の生活の安定の為、言いかえれば自己保身のためでした。 /n二つの生き方  パウロにとって、復活の希望がある以上「死」は恐怖ではなく、逆に、この地上から去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましいとまで言っています(フィリピ書1:23)。しかしユダヤ人の訴えが事実でない以上、無実は立証されなければなりません。真実は歪められてはならないのです。この法廷でパウロは、「もし悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません」(11節)と述べ、結論として「<span style="font-weight:bold;">我はカイザル(皇帝)に上訴せん</span>」(文語訳)と答えました。パウロは、この上告によって、囚人としてローマの法廷に立つことを宣言したのです。  ここに二つの生き方が示されます。一つは、(二人の総督のように)自分の利益を優先させる生き方、他方は、(パウロのように)神を信じ、神を畏れる者の生き方です。そこには嘘、偽りはありません。正しいことと間違っていることを明確に区別し、自己保身の道ではなく神様の言葉に従う道です。私達もパウロに倣って、従う者の道を歩んでいきましょう。

「信じること、祈ること」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]20編2-10  苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ/聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。 あなたの供え物をことごとく心に留め/あなたのいけにえを快く受け入れ/あなたの心の願いをかなえ/あなたの計らいを実現させてくださるように。 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ/我らの神の御名によって/旗を掲げることができるように。/ 主が、あなたの求めるところを/すべて実現させてくださるように。 今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。/ 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。 /n[マルコによる福音書]9章14-29節   一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 /nはじめに 今日の新約聖書は「山上の変容」の出来事の直後に起こった出来事です。イエス様が、神様からの証しを受けて山を下りるところは、モーセが神様から十戒を授かって山を下りた話を彷彿(ほうふつ)させます。ユダヤの民は、モーセが山へ登った後なかなか戻ってこないので、自分達を導いてこられた「主」である神様を忘れ、愚かにも、持っていた金(きん)を集めて子牛を作り、それを「神」とする不信仰の罪を犯してモーセと神様の怒りをかいました。イエス様と三人の弟子は、山上で素晴らしい体験をしましたが、山を下りた所では、他の弟子達が、霊にとりつかれた息子を救うことが出来ず、群衆に取り囲まれて、律法学者達と議論をしておりました。 /nイエス様の嘆き 山の下にいた弟子達は、イエス様から与えられていた「悪霊を追い出す権能」がなくなっており、危機に陥っていたのです。イエス様は、「いつ迄私はあなた方と共にいられようか」と嘆かれました。十字架の時が近いのに、山上に同行した三人の弟子も事の重大性が分かっていないようだし、山の下にいた他の弟子達も、イエス様の不在で霊の力が弱るような信仰では、「地上に神の国を立てる」という神様のご計画を力強く遂行することは叶わないでしょう。 「いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか」は、弟子達の成長の遅さに、更なる忍耐を要することへの嘆きが感じられます。 /n「おできになるなら・・お助けください」 この息子の病気は、マタイ福音書によれば「てんかん」です。発作が起これば水や火の中、地面の上など所かまわず倒れこむので、いつも命の危険にさらされていました。おそらく父親は、それ迄も多くの医者や宗教家達に診てもらったことでしょう。しかし、今回も、頼ろうとした弟子達は治すことが出来ず、今、山から下りてきたイエス様に最後の砦として願い出たのでしょう。悲惨な経験を不幸にも積み重ねてきたので、父親はつい「おできになるなら」と、付け加えたのかもしれません。最初から逃げる体制をとりながら物事を頼む父親は、100パーセント信頼しているとは言えません。 /n「『出来れば』と言うか。信じる者には何でもできる」。 信じるとは、相手にすべてを委ねて、相手の力とその結果を受け入れることです。イエス様は天地万物を創られた父なる神様の御子としての力をお持ちです。父親はイエス様の言葉によって、自分の姿勢が間違っていたことを悟り、息子の回復を心から信じるように方向転換を促されました。父親の、「信じます。信仰のない私をお助け下さい」を、こう補って読むことも可能でしょう。「イエス様の御言葉に従って、神の御子の御力を信じるようになりたいと思います。今までの間違った姿勢をお赦しください。悔い改めて、神様の御力を100パーセント信じます。長く苦難の中にあった私を救って下さい。神様はその事がお出来になります・・」。 これは、罪の告白と新たな信仰の表明です。 /n「なぜ、私達は霊を追い出せなかったのでしょうか」 弟子達の、この質問に、イエス様は「祈りによらなければ出来ない」と答えられました。写本によっては、「祈りと断食」となっています。人間の生活への関心、特に食欲を抑えて神様へと思いを注ぎ、神様との対話である祈りに集中することの重要性を教えられます。キリスト教の祈りは、初めに自分の願望を祈るのではなく、まず、神様の御名があがめられること、神の御国が地上にも来ること、神様の御心が地上にもなされることを祈り、その後で、自分達の生活や罪の赦しを希うのです。礼拝で皆と一緒に祈る「主の祈り」のとおりです。それらの祈りを、イエス様の御名をとおして祈ることで、イエス様の父なる神様に聞いていただけると、私達信仰者は信じています。 /n主を信じること、主に祈ること 神様に100パーセント委ねることは、最初は難しいかもしれません。しかし、そうしたいと願っていれば、神様からそういうふうに変えていただけます。今日の箇所の父親のように、です。そうすることで、主にある平安を得、本来の自分(分裂していない自分)を見出すこともできるようになります。かつて自己分裂の中でもがき、苦しくて叫んでも聞いてもらえなかったのに、今や、一方的な憐みによって、神様につながり、本来の良さをもった自分が与えられるという救いに与ったことに喜びを覚えます。イエス様の御名を心から信じ、イエス様の御名によって祈ることで神様に聞いていただけるのです。その経験は積み重なっていきます。その豊かな恵みに心から感謝を捧げたいと思います。今、私達の身近では困難な状況が広がっています。しかしイエス様の恵みを受けている私達は、主を信じること、主に祈ることを通して光をいただき、周りにともし続けることができます。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ5:16~18)

「贖い主と弟子」    伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章10-12節 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 /n[マルコによる福音書]10章32-45節 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 /nはじめに 今日の聖書の前半は、イエス様が「三度ご自分の死と復活を予告する」箇所です。8章では弟子ペトロの「イエス様は救い主(メシア)です」との告白がなされます(29節)。イエス様はペトロの信仰告白を大変喜ばれて、「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上に教会を建てる。」と宣言されました(マタイ16:16)。イエス様が父なる神様から授かった使命は、福音の宣教活動を通じて「イエス様を救い主として信じます」と告白する人々を基盤とする神の国を地上に打ち立て、生まれながらの人間がサタンに与えている支配権を、神様にお返しすることでした。  イエス様は、ご自分を信じて従ってきた弟子達に、人間の救いと御自分の歩みに関する天の秘密を明かされました。「ご受難と復活」です。この予告は三度も繰り返されていることから、このことがいかに重要であったかが想像できます。 /n天の秘密 イエス様の時代から2000年後に生きる私達は、聖書を通してイエス様の「ご受難と復活」の言葉を、次のように理解出来ます。 「イエス様は、父なる神様のご計画を実現する為に、救い主としてこの世に遣わされました。神様の愛の対象として造られた人間は、創造主である神様を信じ続けることが出来ず、神様に逆らうという不従順の繰り返しによって人間の「罪」は大きく膨れ上がり、ついに神様との断絶に至ったのです。自己中心の欲望にまみれた神様から離れた世界で、長い間苦しみ続けていた人間を、神様は憐れみ、人間を罪から救うという「救いのご計画」を立てて下さったのです。  神様は汚れのない聖なるお方で、罪にまみれた人間とつながることは出来ません。神様と人間が再び関係を回復するには、神様から人間を断絶させている“罪”を取り除くことが不可欠でした。 人間社会では、ある人があまりにも大きな負債を抱えて、返済しきれない場合、誰か他の力ある人に、負債を肩代わりしてもらうことが行われます。ところが人間の「罪」の負債を、肩代わり出来る人は一人もいません。すべての人が罪を犯していたからです。それゆえ神様は、人間の思いを超えた、救いの御計画を立てられたのです(イザヤ書52:13~53:12)。 /n十字架の血による贖い(あがない) 人間の中には罪を犯さない正しい人が一人もいない為、神様はご自分の独り子である御子イエス様を、罪多きこの世に遣わされました。イエス様は人間として生れ、その生涯を通して罪を犯されませんでした。そして、人間の「罪」という負債を肩代わりして、神様からの赦しを得る代償として、十字架にかけられ、その血を流されたのです。このことによって初めて人間の罪は赦され、清められ、神様とのつながりを回復する道が出来たのです。 これは、罪のない正しい人の「死をもって、罪を贖う(あがなう)」という方法でした。 /n「わたしは仕えるために来た」(45節) 今日の聖書は、イエス様は罪を犯されなかったにもかかわらず、「罪に定められて」殺されるために、今、弟子達の先頭に立ってエルサレムに向かっているところです。弟子達は驚き、従う者は恐れたと聖書は伝えています。イエス様は12人の弟子達を呼び寄せて、「(私は)、人々の手に引き渡され、侮辱され、殺される。そして三日の後に復活する。」と三度目の受難と復活の予告をされました。 復活は死に対する勝利です。 それに対する弟子達の反応は、ヤコブとヨハネが、将来、イエス様の右と左に座らせてほしいと、自分達を、他の弟子達よりも抜きんでた地位に置くように願い出るという、自己中心的な言葉だったのです。 イエス様は、「それは私の決めることではない」と答えられました。そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられました。 イエス様ご自身こそ、私達人間の為にご自分の命を献げられ、私達人間に仕える道を歩み通されて、私達の模範となって下さったお方です。

「恵みにより救われる」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]36章6-10節 /n[エフェソ信徒への手紙]2章1-10節 /nはじめに   私達は、自分の生きている世界のことを何となくわかっているような気になっていました。しかし大震災で、私達を取り巻く環境が一変した時、実はそうではないこと、私達人間の想定範囲は、きわめて限られたものであったことが明らかになりました。多くの命が失われ愛する家族を失ない、今なお深い喪失感の中で先に進めない方達や、敷かれていたはずのレールが、突然目の前から消えて、不安と焦燥感の中にいる方達、又、先日も、失業手当が切れる時期を控えて、深刻な状況が報道されておりました。  人間が生きる為には、衣食住や、家族や、将来の夢や希望も大切であり、それらを突然失った方々の力になりたい、助けたいと、本日も、七ヶ浜や蒲生の被災家屋の修復作業のため、アメリカから応援に駆け付けて働いておられるサマリタンズ・パースの方々が、ご一緒に礼拝をささげています。 /n私たちは死んでいた! 今日読んでいただいたエフェソの手紙2章の1節には、突然、今生きている人に向かって「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは死んでいた</span>」との言葉が出てきます。 さらに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は過ちと罪を犯して歩んでいた</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちも皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした</span>」とあります。この手紙はエフェソの教会の信徒達に送られた手紙ですが、聖書は常に今を生きる私達に向けて語られている神様の言葉ですから、「あなた方」という部分を「私」に置き換えて読み進みたいと思います。 そうしますと今日の箇所は、「以前の私は、過ちと罪を犯して歩んでおり、神の怒りを受けるべき者として死んでいた」となります。この箇所からも、聖書は「生きる」とか「死ぬ」という言葉を、一般的な意味で使っていないことがわかります。 聖書で「死ぬ」とは、呼吸が止まることではなく、自分の過ちと罪の結果、神の怒りを受けた者。神に従わない不従順な者に働く霊に従って、肉の欲望の赴くままに生活していた者が神の怒りを受けている状態のことです。 エフェソの信徒達は、「以前は死んでいた」けれども、今は生きています。 /nキリスト・イエスによって共に復活する 神様を畏れないこの世の支配者、サタンとか悪とか呼んでいますが、その霊に従って、肉体の欲望や心の欲望のままに行動した結果、生まれながらの人間は、肉体は生きていても死んでいるということです。 ではどうしたら死から命に向かうことができるのでしょうか。死から命に向かうために、聖書は、そこにはまず神様の豊かな憐れみと、神様の人間へのこの上ない愛があったことを伝えています。罪で死んでいた人間を、神様はイエス様と共に復活させて下さったこと、それは一方的な神様の恵みによるものだと4節以下に記されています。  この恵みを受ける信仰が与えられたことで、信じる者は救われたのです。 /n恵みにより、信仰によって救われる 今、私達が生きている世界が終った後に、神様の創られた世界が完成する時がやって来ます。神様はイエス・キリストを私達に遣わして下さり、その死によって、私達の罪を贖って下さいました。その限りない豊かな恵みは、来るべき世において、栄光を受けられたキリストのご支配を直接受けることの約束へと続きます。神様の恵みが私達に注がれ、私達の中に働く時、私達の心は神様に向かい、神様の恵みを確信することが出来ます。 この信仰が与えられる時、救いが起こります。神様の恵みが救いをもたらすのです。救いは「神様の恵み」によって起こるので、私達が神様のために何かをする必要はなく、救われた人は、誰も自分を誇ることはできません。 /n神の作品として生きる  口語訳で10節には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達は神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日をすごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである</span><span class="deco" style="font-weight:bold;">。</span>」とあります。  私達はそのように造られているのですから、そのように歩んでいきましょう。聖書はいつもそうですが、例外なくすべての人に語られています。聴く耳をもって従っていきたいと願うものです。

  「復活の主と弟子達(2)」   伝道師  平賀真理子

/n詩編33:6-19 /nヨハネ福音書21:20-25    /nはじめに   前回は、復活の主・イエス様が一番弟子のペトロに信徒達のリーダーとして群れを率いる役割を渡された出来事を学びました。更にその先には、主と同じ「<span class="deco" style="font-weight:bold;">行きたくない所に連れて行かれる</span>」(18節)こともイエス様は預言されました。それはペトロが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の栄光を現わすようになる</span>」(19節)為でした。ペトロは死を恐れるあまり十字架を前にして、イエス様を知らないと言ってしまう大きな過ちを犯したにもかかわらず、イエス様は赦して下さいました。のみならず、この世に神の国を広げる働きの後継者として用いられたのです。多く赦された者は、より多く愛するようになります。 /n「ペトロが振り向くと」(20節) イエス様に赦されて更に主を愛するようになったペトロにとって、主と同じ道(=この世から否定され苦しみを受ける道)をたどるということは、感謝であり、後継者としての任務を果たす恵みの出来事です。普通の人にとっては苦しみ以外の何ものでもないことが、信仰者にとっては大きな恵みと受け取ることができるのです。イエス様から「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の羊を飼いなさい</span>」と依頼されたことは、ペトロにとって喜びです!そして任務遂行の為には主の御言葉どおり、ただただ「イエス様に従う」だけでよいのです。    ところがペトロは「振り向き」ました。主が御言葉を下さったその直後、ペトロは別の人のことが気になってしまったのです。相手は自分よりも主から愛されていると思われる弟子でした。その人が自分と同じ「苦しみの道」を歩むのか、それとも苦しみを避けられるのかが気になったのです。神様の国の為に大事な役割を告げられたペトロが発した言葉は、神様のご計画でも与えられた役割への感謝でもなく、振り向いて目に入ってきた別の弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」との質問でした。   ペトロは本当に、愚かで弱い私達人間の代表だと知らされます。神様の憐れみゆえに神の民として再び招かれながら、この世のことに気をとられています。私達も同じです。悔い改めて、神様に心を向けたいと思います。   /n「あなたに何の関係があるか。あなたは・・」    今日の聖書で読み取る第一のことは、イエス様のペトロに対しての御言葉です。ペトロにとって、主から愛されていた別の弟子の定めは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたに何の関係があるか</span>。(全くない!)<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは、わたしに従いなさい</span>。」という御言葉です。私達は、他人と比べて愛や能力や期待の大きさを測り、そのことで自分の価値を測ろうとしがちです。智恵も愛情も能力も限界ばかりの人間世界の中で、狭い範囲を囲って競争し、そのことで一喜一憂します。そのような罪の世界の習性に慣れてしまっている私達は、イエス様のペトロへの言葉によって目を覚ますよう促されます。 「神様には、それぞれの人間の心や賜物に応じた計画がある。それは、神様とその人との縦の結びつきであって、信仰の仲間同士であっても、横から口をはさむことでは全くない。人間がまずすべきことは、それぞれが、縦の線である神様との結びつきを強めることであり、イエス様の御言葉、御心、御計画に従うことである。」と主は言われているのです。 /n「あなたは、わたしに従いなさい。」    イエス様が言われた意味は、こういうことではないでしょうか。  「あなたのやるべきことは、ただ一つ。私を見つめて、私につながり、私に従うことなのだよ。あなたにとって、他の人の運命は二の次だよ。私の姿を見失わないようにしなさい。なぜなら私の復活の姿をあなた方に示す前には、あなた方は私を見失って元の世界(漁師)に戻りかけていたではないか。再びそうなってはならない。むしろ神の国のリーダーとしての、あなた独自の道を私は備えている。それは神様の栄光を現わす恵みの道であり、私につながっていることでそれを続けていくことができるのだよ。だから『<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは、わたしに従いなさい</span>』」。 これは、私達一人一人にかけられている御言葉でもあります。私達は、家庭や職場や学校において神の国を広める役目を実は担っているのです。「あなたは、私に従いなさい。」とイエス様は招いておられます。喜んで従う者になりたいと願います。聖霊の助けを祈っていきましょう。

 「本当の信仰者」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書25:1-5 /nマルコ福音書12:41-44           /nはじめに  本日の聖書は、イエス様のご生涯の、最後の一週間の「論争の火曜日」での出来事の一つです。 最初は、ユダヤ教の指導者達から質問を受けてイエス様がお答えになる形をとっていましたが、指導者達はイエス様からどんなに誤りを指摘されても、反対の立場を決して変えようとしませんでした。彼らの役割は神様の教えを第一とし、それを民に伝え、来たるべき救い主を証しすることでした。しかし彼らは、職人階級出身のイエス様がメシアであるはずはないと決めつけ、悪霊の頭だと言ったり、神様を冒涜していると非難する姿勢を変えませんでした。それは、この世を仮に治めているサタンの性質を、彼らが受け継いでしまったいることを表しています。ユダヤ教指導者達は「律法」に詳しく、更に神様の御心を知っていると期待されていましたが、自分の利益、名誉、知識、偏見、思い上がりなどで自分の判断を絶対化して、神様の御声を聞くことを怠ったからです。 そしてついに救い主出現を前にして、サタンの最後のあがきがユダヤ教指導者達の姿を通して映し出されました。本来、「救い主の証人」となるのに一番ふさわしい彼らは、「エリート」という人間社会の中での優越感に溺れ、その待遇に甘えていたがゆえに、肝心なところで不信仰を重ねる形となったのです。 /n貧しいやもめ イエス様の目は、彼ら指導者達にではなく違う人々に向けられました。本来なら、救い主として、エルサレム神殿の中央に迎え入れられるはずのイエス様が、そこから外側の庭に向かって信仰者を探しておられたのです。そこには大勢の一般民衆がいて、特に献金を沢山して目立つ金持ち達が多くいましたが、イエス様が見つけて喜ばれたのは、献金額の多い金持ちではなく、その社会では軽んじられていたやもめ(未亡人)の信仰でした。 私達はイエス様の外の形に囚われない姿勢・考え方を知ることができます。 イエス様が評価されたのは、一般民衆の中でも最も弱い立場にいる女性、貧しくて何の権力もない一女性でした。後ろ盾となるべき夫を亡くし、経済的に困窮していたと思われます。当時の社会では、彼女の存在すら無視されてもいいような女性でした。又、ユダヤ教では女性は神殿の中の「聖所・至聖所」に入れず、その外側に設けられた庭(女子の庭)迄でした。その庭にあった賽銭箱にはラッパの形を逆さにした金属製の容器が13個ついていて、各々に献金の用途が絵によって示されていたそうです。金属製ですからコインの量に比例した音が響きます。やもめの捧げたレプトン銅貨は最小単位のコインで、薄くて貧相であり、わずか2枚であれば、その音もかすかで頼りなげな感じだったでしょう。 /n生活費を全部 しかし私達の主・イエス様は、人間の価値基準を越えて確かに存在する「神への信仰の強さ」が全てに優先されることを教えられます。イエス様は何が人間の心の中にあるかを良く知っておられる方です(ヨハネ2:25)。彼女の献金額はほんのわずかでしたが、それでも彼女は神様に思いの全てを向けて、その表れとして生活費全部を献金したのでしょう。神様に対する全き信頼と愛を見ます。  「生活費」を広義に解釈すると「人生、生活、一生」という意味があるようです。この世での自分の姿を神様の前にさらけ出し、へりくだり、自分を嘆いたり自暴自棄にならずに、神様の前に希望を持って、自分のすべてを献げ尽くしたやもめの信仰を、イエス様は喜ばれたのでしょう。 イエス様が渇望されたのは、神様が人間を愛する熱情と同じ位に神様を全き心で愛し、へりくだる者を愛する神様にふさわしい謙虚な信仰を持ち、自分を献げ尽くすことに喜びを感じ、それを貫き通す信仰です。それは、神の御子である身分に固執されず、私達の所にまで降りて来られ、私達の救いの為に全てを喜んで献げて下さったイエス様の御生涯そのものです。徹底した信仰を神様に献げられる「本当の信仰者」へと成長していくことを願い、その助けを聖霊に祈り求めてまいりましょう。

「主の救いの実現を信じる」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書 52:7-12 /nルカによる福音書 1:26-45     /nはじめに  今日の聖書は、有名な受胎告知の場面とそれに続くマリアのエリサベト訪問の箇所です。マリアが天使ガブリエルの挨拶を受けた時、水汲みをしていたとも言われています(現地には「マリアの井戸」というものがあります)。 私は、婚約中のマリアが水汲みしながらも、新しい家庭生活が祝福されたものになるよう祈っていたのではないかと思います。日常生活の一こまに天使が突然やってきたという出来事は、本当はとても驚かされることです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる</span>」と、いきなり言われて、マリアは「何のことかと考え込み」ました(29節)。「主があなたと共におられる」の原語は「インマヌエル」という祝福の意味を持つ言葉で、イザヤ書7章にある「救い主の男の子の名前」であることをイスラエル人なら誰でも知っており、マリアもきっと思い起こしたことでしょう。 /n受胎告知 マリアの戸惑いの中、ガブリエルは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む</span>」と告げます。マリアはその預言に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えます。実際には、まだ夫婦生活をしていないから、そのようなことはあり得ないとの、人間界の常識です。しかしガブリエルは、これは神の霊「聖霊」のなさる業であり人智を越えたことであると宣言し、その証しとして親類エリサベトの妊娠を告げます。(エリサベトは年をとり、妊娠適齢期を過ぎていた)。それを聞いて、マリアは、不妊の女と言われながら「約束の子、イサク」を神様から授かったアブラハムの妻であり、民族の礎となった「サラ」を思い出したかもしれません。 エリサベト妊娠の知らせは、マリアに、人間の知識や行動の限界を悠々と越えて、神様の恵みの業が我が身にも起こるのだ、ということを、理解させることになったでしょう。又、彼女に信仰の素養があったこともその理解を助けたことでしょう。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神にできないことは何一つない</span>!」という言葉を、マリアは本当の意味で心から受け入れることが出来たと思います。そして自分に子が授かるという奇跡が起こり得ることを理解し、それが神様の選びであり恵みであるならば、人間として受け入れるしかない!「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(38節)とは、マリアの信仰を表す言葉であり、私達の目標にすべき言葉です。 /n受胎告知の言葉を受けて・・ この後マリアは、エリサベト訪問のために「出かけ」ます。(私ならこのことを受け入れることに精一杯で、悶々と悩んで動けなくなるのではないかと思います)。「出かけて」(39節)は、立ち上がって=死から立ちあがる復活の語源になっています。驚きや恐怖の状況から、神様の恵みを授かり、それを受け入れることによって立ち上がり、次の一歩を進めることが出来る!という希望を、この、マリアの行動から見てとれます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">いかに美しいことか 良い知らせを伝える者の足は</span>。」(イザヤ書52:7)   このマリアこそ「神の御子がこの世に生まれた!」という最初の良い知らせを携えた者、福音伝道者の最初の人物だったと言えるでしょう。マリアの訪問を受けて挨拶を聞いたエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました。  奇跡を受けて、それを感謝して受け入れた者同士が、互いに喜びを交流し、その源である神様を讃美するという美しい光景が、ここに(エリサベトとマリアの間に)ありました。 /n今日の聖書から学ぶこと 今日の聖書から学ぶのは、第一に、マリアの信仰の土台に聖書の知識があったこと(神様のこと、イスラエル民族の歴史や、神様の前に正しく歩むことが良いことであることを知っていたこと)。第二に、マリアもエリサベトも思い上がる人々ではなかったこと。第三に、マリアは人間的な自分の思いよりも神様の御言葉の預言を第一として受け入れたこと。そして第四に、信仰によって神様の呼びかけを受け入れた者同士は、本当の深いところでの交流ができ、それが更なる喜びとなり力となる!と知らされたことです。私達の教会の中でも、そうありたいと願っています。

「復活の証人」  牧師 佐藤義子

/n イザヤ書55:6-13 /n 使徒言行録2:22-24・32-39      /nはじめに  今朝、皆様と共に、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝を捧げることが出来ることを神様に感謝致します。  イエス様が十字架につけられて息をひきとられた後、その遺体を十字架から下ろす許可をとったのは、弟子達ではなくアリマタヤ(ユダヤ人の町)出身で、身分の高い議員のヨセフでした。彼は勇気を出して遺体の引き渡しを総督ピラトに願い出て許可を得ます。そして亜麻布を買い、遺体を包み、ニコデモが持ってきた香料を添えて、岩を掘って作った新しい墓に納め、入口に大きな石を転がしてふさぎました。金曜日の日没から始まった安息日が終り、三日目の日曜日の明け方のことでした。安息日が終るのを待ちかねたように婦人達はイエス様の遺体に油を塗る為にお墓に行きました。婦人達はお墓の前の大きな石を、誰がどけてくれるか心配していました。ところがマタイ福音書によれば、お墓に着いた時、大地震が起こり、天使が石をわきに転がしてその上に座り、イエス様の復活を告げたのです。 /n信じることができなかった弟子達 復活されたイエス様にも出会った婦人達は、そのことを弟子達に伝えますが、誰も信じませんでした。その後、弟子達が集まっていた所にイエス様は来られました。ヨハネ福音書によれば、この時不在であったトマスは、「わたしはイエス様の手に釘あとを見て、この指を釘あとに入れてみなければ、又、この手をわき腹に入れてみなければ決して信じない」と言いました。その後再び弟子達のところに来られたイエス様は、トマスに、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい</span>」と言われました。 /n弟子が伝えた伝道メッセージ  今朝の聖書は、イエス様の復活・昇天後の弟子達が、聖霊を受けて、説教している箇所です。ここで語られたメッセージは、イエス・キリストという一人のお方を通して行なわれた、そして今も続く神様の行為です。イエス様は多くの奇跡・不思議なわざ・しるしを行なわれました。それは神の子でなければ出来ないことでした。しかし、ユダヤ人指導者達は自分達のねたみ・敵意のためイエス様を十字架で殺してしまったのです。 /n神様の御計画  しかし、イエス様をこの地上に送られたのは、神様の御計画であり、すべてを御承知の上で、神様はイエス様をこの世に遣わされました。 イエス様が十字架への道を歩かれたのも、父なる神様を仰ぎ見て、それが神様の御意志であることを知り、その御意志に服従された結果です。    十字架の死は、神様が人間を愛するが故に、人間を罪から救うための「あがないの死」として、イエス様に課せられた使命であったがゆえに、それに続く復活があるのです。復活は神様のわざ、神様の行為であり、旧約聖書でも預言されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです</span>。」(36節) /n教会が伝え続けるメッセージ  この言葉は、聞いた人々の心に鋭く突き刺さりました。彼らは大きなお祭りのために世界各地からエルサレムに戻って来ていたユダヤ人です。彼らは十字架刑に直接かかわりませんでしたが、自分達民族が待望していたメシアを、外国人の手を借りて殺してしまったと聞かされ、自分達が重大な間違いを犯したことを知ったのです。そこで、自分達はどうすべきかと、ペトロに尋ねました。ペトロは明瞭に答えています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます</span>」。  今日は、復活節(イースター)です。私達人間が殺したイエス様を、神様が復活させて下さった日です。復活は死に勝利した証しであり、私達は、弟子の信仰を継承し、聖書の証言を信じる「復活の証人」です。 教会は、今迄もこれからも、神様の救いの御計画と、神様がこれ迄して下さったこと、引き続きして下さっている神様のわざを伝え続けます。