「主の復活と最初の証人」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 16編7-11節 7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 /n[ヨハネによる福音書] 20節1-18節 1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 /nはじめに  教会暦では主の復活後50日間を復活節として守ります。この復活節の期間、特に主の復活の恵みを覚えて過ごし、今日は「主の復活の出来事」について、共に学びたいと思います。 /nマグダラのマリア  イエス様が墓に葬られて三日目、イエス様の墓に最初に行き、遺体が消えたのを発見するのは「マグダラのマリア」です。彼女は主の十字架を見守った一人でもあります。マグダラのマリアは、イエス様に七つの悪霊を追い出してもらいました(ルカ福音書8章)。彼女は多くの罪をイエス様によって赦され、その後、主に従うことを赦された人間です。マリアのように罪の苦しみを知っている者こそ、救われる恵みを深く感謝でき、主に従う覚悟ができると思います。今、自分の中に逃れ得ない罪を覚える方、自分一人で戦っていても、もとに戻ってしまう方こそ、イエス様の恵み・・罪から解放される喜び・・を知っていただきたいと思います。イエス様が神の御子であることを信じて、その御力を頼みとして、救いに与(あずか)っていただきたいと思います。 /nマリアの悲しみと絶望  マグダラのマリアは、主の遺体が消えたという情報を弟子たちに伝えに行きますが、その後も墓へ戻り墓の外で泣いておりました。彼女はイエス様の死によって、み跡に従って歩む幸いを奪われて絶望していました。彼女は、死の世界の象徴である墓の方を見つめ、イエス様の遺体の在り処を知りたいと願うばかりでした。自分の狭い考えの中での、最善の希望に固執して、それがかなわないことで絶望したのです。人間の悲しみは このように、死や暗闇の方向ばかり見ていることや、自分の考え・感情に囚われることからくる場合が多いのではないでしょうか。 /n墓=死・生=命  そのようなマリアに、墓(=死の方向)とは180度逆の、生(=命)の世界から、主は声をかけて下さいました。自分の感情に囚われていたマリアは、その声が初めは墓地の管理人だと思いますが、イエス様が「マリア」と名前を呼んで下さったことでイエス様に気付きます。当時、名前を呼びかけることは人格の交流を意図していたそうです。イエス様の呼びかけは、こういう表現になるのでしょうか・・・ 「マリア、救い主としての私が呼びかけている! 私は、死の世界からではなく、天地創造の神の御子として、命を与える『生』の世界からやって来たのだ! 死の世界を見ていては救われない!こちらを向いて、生きている私の方に付きなさい。私は預言通り、三日目に復活した!」 /n復活の証人  マリアが最初の復活の証人として授かった役割は、イエス様が「兄弟達」と呼んで愛した弟子達に、「私の父であり、あなた方の父である方、又、私の神であり、あなた方の神である方の所へ私は上る」、と告げることでした(ヨハネ16章-17章)。イエス様は、ご自分が神様の御子としてこの世に遣わされ、神様のご計画通りに歩み、最後は再び父なる神様の右に挙げられることを証しされていました。まさしく、神様がこの世の私達に、約束を守って働いて下さっているということです。 /n聖霊の助けをいただいて与えられる信仰  イエス様の復活の出来事を信じるか否かは、その証を聞いた者が、それを真実として受け入れるか否かです。人智を超えた不思議な出来事を受け入れるには神様の助けが必要です。「聖霊の助けをいただく」のです。イエス様が、ご受難の前に約束された、その霊です。 復活節の期間、主の復活を通して、神様の大いなる御力に思いを馳せ、神様を畏れ敬いながら歩んでまいりましょう。神様と御子イエス様が、死に勝利され、罪や死の世界から私達を解放して下さり、もはや、かつてのように、苦しむ必要はありません。その恵みに感謝し、神様の愛に応えるべく、主にあって喜びながら共に歩んでまいりましょう。

「聖霊によるバプテスマ」 牧師 佐藤義子

/n[エゼキエル書]11章18-20節 18 彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。 19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。 20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 /n[使徒言行録]18章24節-19章10節 18: 24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。 25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。 26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。 27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。 28 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。 19: 1 アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、 2 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 3 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。 4 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」 5 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。 6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。 7 この人たちは、皆で十二人ほどであった。 8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。 9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。 10 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。 /nはじめに  パウロは第二回目の伝道旅行からアンティオキアに戻ったあと、再び、第三回目の伝道旅行に出かけて行きました。パウロがエフェソに到着する前に、アポロという聖書にくわしい雄弁家がエフェソに来て、伝道していました。「<span style="font-weight:bold;">彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった</span>」(25節)。アポロが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったということは、伝道者としては不十分でした。アポロの話を聞いていたアキラとプリスキラ夫婦は、アポロを、エフェソにある自分達の家に招き、更にくわしく神の道を説明して教えました。夫婦は、パウロが教えたイエス・キリストについて、救いについて、聖礼典についてていねいに語ったことでしょう。 /n主イエスを神の子・救い主と信じる信仰  アポロが「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」とはどういうことでしょうか。19章4節で、パウロはこのように言っています。 >> 「<span style="font-weight:bold;">ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。</span>」 << 悔い改めのバプテスマは、救われる為には不可欠のものですが、あくまでもイエス様を心の内にお迎えする準備段階です。本当のバプテスマは、イエス様を自分の救い主として信じ、告白することによって、罪が赦されて、聖霊が与えられるのです。  悔い改めとは方向転換です。今まで歩んできた方向をぐるりと180度回転して、逆の方向に向き返ることです。自己中心に生きてきた者が、ぐるりと回転して、今度は神様を中心にして歩み始めることです。たとえるならば、バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めて、方向転換は出来た状態です。しかし、イエス様を信じる信仰告白によって与えられる罪の赦しと、聖霊はまだ与えられていない状態といえるでしょう。 /n「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」  アポロがエフェソを去った後、パウロがエフェソに到着して何人かのキリスト者に出会い、彼らに一つの質問をしています。それは、「<span style="font-weight:bold;">信仰に入った時、聖霊を受けましたか</span>」という質問です。彼らは「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えました。ガラテヤ書で、パウロはこう書いています。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。</span>」又、ロマ書ではこう書いています「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。</span>」 /n主イエスの名による洗礼(5節)  パウロと出会った人達はパウロの言葉を受け入れて、今度は、「主イエスの御名」によって洗礼を受けました。彼らはこの時、主イエスへの信仰と、洗礼と、聖霊の賜物についてパウロから学んだことでしょう。そしてパウロが彼らの上に手を置くと、彼らに聖霊が降りました。 /n伝道に遣わされる者  私達の洗礼は、「<span style="font-weight:bold;">父なる神と子なる神と聖霊なる神の御名</span>」によって授けられます。信仰告白と洗礼は「神の業」であり、教会はその「業」を委託されています。伝道の担い手は、テント職人のアキラ夫婦が、アポロに自分達の信じる福音を伝えたように、すべてのクリスチャンが、その担い手として遣わされています。伝道は自分の力でしようとすれば、疲れ、長続きしません。「私がここにおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)と、心を神さまに向けて祈り、その準備がある時、神様は聖霊の導きの中で、「良き証し人」として私達を用いて下さいます。悔い改めのバプテスマに終わらず、主イエスを信じる告白と共に聖霊の導きが豊かに与えられ、今週もその中で歩みたいと願うものです。

「世に勝つ者はだれか」 牧師 佐藤 義子

/n[創世記]22章15-18節 15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 /n[ヨハネの手紙一]5章1-5節 1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。 2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。 3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。 4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 /nはじめに  本日の礼拝は、礼拝開始満8周年の感謝の礼拝でもあります。教会の誕生には、教会が主体となって生み出す形や、個人(信徒)が家庭集会を開き、それが土台となって出来る形、さらには東北各地で見られるように、宣教師の伝道の結果生まれた教会も多くあります。この仙台南伝道所は、私が、それまで赴任していた伝道所を辞任してフリーになったことから、博子姉宅の応接間を開放していただき、礼拝を始めるようになりました。  礼拝開始より1年半後に日本基督教団の伝道所として承認されましたので、実質的な親教会はありませんが、東北教区や相双・宮城南地区とは協力関係にあります。礼拝開始より今日まで礼拝が守り続けられてきたことは、ただ、神様の憐れみによるもので、本当に感謝なことです。今朝はそのことを覚えつつ、礼拝をささげたいと思います。 /n本当の弟子  教団の教会として承認されるための提出書類の中で、私は以下のように書きました。 「『 <span style="font-weight:bold;">私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。</span>』 (ヨハネ8:31)。教会は「本当の弟子」となる道へと招かれている者を支え、導き、助言する役割を担っている。開拓伝道という一つの小さな業を始めるにあたり、『御言葉と祈り』によって、霊的な食物を絶やさず与えられ、学び、成長を続けるキリスト者、『<span style="font-weight:bold;">死に至るまで忠実である</span>』(黙示録2:10)キリスト者、さらに『<span style="font-weight:bold;">喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制</span>』などの信仰から生じる霊の実を通して、地の塩・世の光の役割を担うキリスト者の群が形成されていくことを祈りつつ、伝道の業に励んでいきたい。」 /n御言葉は食物、祈りは呼吸  信仰を与えられた者は、「キリストの本当の弟子になりたい。本当の弟子としてふさわしく自分を作り上げて下さい」との祈りが始まります。毎日御言葉を読む時、聖霊の働きと共に魂に栄養が与えられ、毎日祈ることによって、聖霊の働きと共に魂に新鮮な酸素が送りこまれ、これらの日々の継続がキリスト者をつくりあげていくように思います。  魂に、栄養も呼吸もスムーズにとりこめない危機的状況の時がくることもあるでしょう。そのような時には、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(今年度の御言葉)との語りかけを聞きましょう。 /n神から生まれる  今日の聖書に「イエスを救い主と信じる人は皆、神から生まれた者」とあります。母の胎内から生まれた者が、今度は神から生まれるのです。それは上からの誕生です。神から生まれるとは「神様を父として」生を受ける、命を受けると言うことです。神から生まれた者は、生んでくださった神を愛するにとどまらず、同じように神から生まれた者(兄弟姉妹)をも愛する、とあります。見えない神を愛するとは「独り子を私達の為に遣わされた」(4:9)ことを信じて受け容れることです。そして、その独り子イエス様が私達の救い主であると信じる時、「<span style="font-weight:bold;">キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。</span>」(二コリント5:17)との世界へと導かれていくのです。 /n世に勝つ者は誰か  3節に「<span style="font-weight:bold;">神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません</span>」とあります。なぜなら神から生まれた者は本質的に、この世にすでに打ち勝たれた主イエスへの信仰を通して、この世に打ち勝っているからです。神の掟(互いに愛し合う)は、信じる者の行くべき道を明らかに示すゆえに、信仰者を堅く立たせる役割を果たします。信仰者が神の掟を守る時、彼らの中に宿る神の力がこの世の力よりも強いことが明らかになります。この世に打ち勝たれた主イエスのように、「<span style="font-weight:bold;">主イエスを神の子と信じる者</span>」が、「<span style="font-weight:bold;">この世に打ち勝つ</span>」のです。

「船出」牧師 佐藤義子

/n[詩編]46編2-8節 2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ 5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。 6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。 7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。 8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ /n[使徒言行録]27章1-26節 1 わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。 2 わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。 3 翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。 4 そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、 5 キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。 6 ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。 7 幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、 8 ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いた。 9 かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。 10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」 11 しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。 12 この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。 13 ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。 14 しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。 15 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。 16 やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。 17 小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。 18 しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、 19 三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。 20 幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。 21 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。 22 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 23 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、 24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 25 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。 26 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」 /nはじめに  受難節第3聖日の礼拝を、こうしてご一緒に守れることを感謝致します。私達は今回の大地震によって何を学び、又、何を神様からいただいたでしょうか。私達は神様から戴いた恵みを忘れやすいので、今日は先ず、私の見た「神様の恵み」をお話したいと思います。 /nインマヌエル(神、我らと共にいます)  大地震の後、この伝道所には三人の若い妻達が集まりました。彼女達の夫はそれぞれ県外に出張中でしたので、電話が通じず、安否確認が困難な状態に陥りました。電話をかけることが出来なかった中で、突然博子姉宅の電話のベルが鳴りました。後でわかったことですが、博子姉宅の固定電話は、高齢で独り暮らしの為の緊急用電話サービスの契約により、非常時でも受信のみは可能だったのです。電話は神奈川にいる長男の携帯からでした。彼もまさかこの電話が通じるとは思わずにかけたそうです。以来、電話不通の間、外部との連絡が、この固定電話と携帯電話に託されました。それによって、三人の妻達の家族や実家に安全を知らせることが出来、又、彼女達の夫との連絡の橋渡しをすることになりました。あの不安な時間帯の中で、私達はこのようにして、神様から大きな恵みをいただいたのです。 さらに神様は、博子姉が昔 来客用にと作った沢山の布団などの寝具や、又、K兄(含J兄姉)の備蓄していたお米や食料、薪や炭、練炭などの燃料の備蓄を用い、この地域の水を守り(断水がなかった)、お世話する若い力も備えて下さり、子供を含め13人の共同生活を可能にして下さいました。 その他、紹介しきれない数々の恵みを見ました。その他の会員の方々も、それぞれ神様の特別な恵みをいただいて守られたことを伺っております。恵みを数え上げ、神様を賛美し、今、交読した詩編20篇8-9を告白したいと思います。 「<span style="font-weight:bold;">戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ちあがる。</span>」 /n船出  今朝の聖書は、パウロがいよいよローマ皇帝に直訴するため、囚人としてイタリアに向かって船出したところから始まります。船旅の責任者は、百人隊長ユリウスでした。彼はパウロを親切に扱い友人の所へ行くことを許可してくれました。このことによりパウロがどれほど信頼され、特別扱いされていたか知ることが出来ます。パウロの友人とはキリスト者の仲間のことで、おそらくここでもパウロは福音を語り、勧め、励まし、他方、仲間達は、長い船旅を続けるパウロ達の為に配慮したと考えられます。このようにキリスト者は、どこに行っても同じ信仰のゆえに、神の家族として主にある交わりと、神様の恵みが豊かに注がれるのです。 /n船路  この船旅は非常に厳しい苛酷なものとなりました。船には276人乗っていましたが、冬の初めに何週間も吹き荒れる嵐「エウラキロン」の中に突入してしまったのです。船は流れにまかせ、積み荷も船具も投げ捨て、幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶため、人々は絶望状態の中に置かれたのでした。その時、囚人パウロが語りました。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使がこう言われました。『<span style="font-weight:bold;">パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。</span>』私に告げられたことは、その通りになります。」 私達の信じる神は、このようにいつも「恐れるな」と私達に語ります。

「一匹の羊」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]23編1-6節 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[ルカによる福音書]15章1-10節 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 /nはじめに 今日の聖書の直前には、「聞く耳のある者は聞きなさい」とのイエス様の言葉があり、そして1節に、徴税人や罪人が、皆、話を聞こうとしてイエス様に近寄ってきたとあります。彼らは、ユダヤ人社会から疎外された人達でしたが、イエス様の話を聞く為にイエス様に近寄ってきたのです。それに対して2節では、ファリサイ派の人々や律法学者達が自分達の社会が相手にしないような人達をイエス様が受け入れて、交わっていること、さらに食事なども一緒にしていることを批判し、不平をつぶやいたのです。 /nファリサイ派や律法学者の立場 彼らは、旧約聖書で教える神様の義(神様が教える正しさ)に従うことにおいては忠実でした。自分の良心にかけて、真理であることに熱心でした。(私達のように、頭でわかりながらも妥協の多い生き方-たとえばウソも方便など-をしている者達に比べたら、比べものにならないほど、自分に厳しい生き方をしていた人達が多かったのだろうと推測いたします。) 自分が正しく生きることに熱心な人は、そうでない人に対して、見方は厳しくなります。なぜなら自分は自分の本能や欲望に対して戦い、節制をし、努力をしているのに対して、彼らは努力せず、自分の気持と戦うこともせず、律法に無頓着で、思うまま好きなように生き、その結果、失敗し、困難に陥り、疎外されても、それは自業自得だと考えるからでしょう。   イエス様が彼らを受け入れることは、彼らの生き方を肯定しているようで、そのような態度が、ユダヤ人社会の規律を乱し、律法の権威を落としめ、又、罪人や徴税人の生き方でも良い、という空気を生み出すことを懸念したのかもしれません。 /nイエス様は求める人々を拒まれない しかしイエス様は、「今、現在、あなたは罪人だから、徴税人だから、」ということで、心を閉じることはありません。どのような人であろうとも、「イエス様の話を聞きたい」という気持さえあれば、いつでも心を開いて迎え入れました。 ところが今日の箇所では、徴税人や罪人達に向かって話しているのではなく、ご自分を批判、非難しているファリサイ派や律法学者の人達に向かってイエス様は語られています。 /n一匹の羊 ルカによる福音書15章では、イエス様は三つの譬え話をされています。 最初の譬えは百匹の羊を飼っている人が、一匹の羊を見失った話です。羊飼いは、羊が狼などに襲われるのではないか、岩山に足をすべらして谷底に落ちるのではないか、と、必死で探しまわります。そしてついに見つけたなら、待たせている99匹の羊と共に、見つけた羊を担いで、羊の囲いまで連れ帰り、見つけた喜びを自分の喜びだけにせず、友達や近所の人を呼び集めて分かち合うのです。   /n「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。   神様を信じて神様に従うことで、人は初めて人として正しく生きることが出来ます。しかし人間は、アダムとエバ以来、罪をもって生まれ、罪の中に生き、神様から離れて、自分を神とする生き方をするようになりました。そこで神様はイエス様を遣わし、人間はイエス様を通して神様とつながって生きることが出来るようになりました。本当の神様から離れた生き方をしている者は「失われた魂」、すなわち羊飼いから離れて自分の思うままの道に迷い出た羊です。羊は羊飼いと一緒にいて初めて、良い牧草地や水辺に導かれ、更に、狼や、岩山からの危険からも守られるのです。私達は、羊飼いから離れないでいる羊でしょうか? /n大きな喜び   見失った羊を見つけ出した羊飼いの喜びが大きなものであるように、神のもとに立ち帰る一人の人が起こされるなら、天において大きな喜びが起こります。律法学者やファリサイ派の人々も、共にこの大きな喜びにあずかるようにと、イエス様は譬えをもって招かれたのです。イエス様が来られたのは、失われた者を捜して救うためであるからです。

宗教改革記念礼拝 「世界を変えたもの」 倉松 功先生(元東北学院

/n[詩編] 71編 1-3節 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 15-16節 わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。 しかし主よ、わたしの主よ/わたしは力を奮い起こして進みいで/ひたすら恵みの御業を唱えましょう。 /n[マタイによる福音書] 4章17節 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 ◆四人の漁師を弟子        *はじめに  私共キリスト者にとって、世界を変えたものは二つあると思います。 一つは、キリストがこの世界に来られたことです。神がこの世界に、私共に、御子キリストを送って下さったことが世界を変えたものです。これは私達だけではなく、世界史においても、世界の精神史においても、世界を変えたということがいえる事柄であったといえるでしょう。 そのキリストは、福音を宣べ伝え始められた時に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ</span>」と告げられました。それによって世界が変わったといえますが、その変化は、政治、経済、武力などの力によって変えたというような、すぐに目に見える変化ではありません。それは一人一人の悔い改め、福音を信じることによる変わり方ですから、世界史や政治史、経済史などの変化と比較出来るものではなく、次元が違うといえます。 もう一つ、私達にとって世界を変えたものがあります。それは、プロテスタント教会の誕生です。ほかならぬ私達が属している教会ですが、このプロテスタント教会が誕生することによって、中世から近世にかけての流れが変わってきたのです。国が、民族によって統一された「国民国家」を造り上げるということが起こり始めますが、特にヨーロッパを中心として、とりわけ先進諸国で「国民国家」の誕生に大きな力をもってきたのがプロテスタント教会です。この場合も一人一人の悔い改め、精神の変化によってもたらされたということが出来るでしょう。 といいますのは、宗教改革は1517年10月31日に宗教改革者マルティン・ルターが、ヴィッテンベルクの城教会の扉に、95カ条の提題を掲示した(紙に書いたものを貼りつけた)ことから始まりました。その95カ条の提題の、第一条が、「私達の主にして、師であるイエス・キリストが『<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めよ<span class="deco" style="font-weight:bold;">』(マタイ4:17)と言われた時、キリストはそれによってキリストを信じる者の全生涯が悔い改めであることを求めておられたのである」です。   宗教改革は、「福音に帰る」、「聖書に帰る」、「キリストに帰る」と言われます。その事柄が、この提題の第一条にもあらわれているといえます。 *悔い改め ルターは「悔い改め」をどのように理解していたのでしょうか。  ルターは、「最高の悔い改めというものはない」と言いました。確かに人間は、悔い改めが厳しければ厳しいほど、自分を否定し、沈みます。場合によっては自分の命を絶つこともあります(たとえばユダの場合です)。ルターは、「本当の悔い改めというのは人間が新しくなるということである」と言いました。「新しい人になる悔い改め」とは、神に向かって、キリストに向かって祈る。福音に向かって悔い改めるということです。それは御言葉によって新しくされることを期待しているわけです。 *キリストの言葉を聞く  御言葉に向かって歩む私達にとって最も重要な事柄は、何と言っても御言葉そのものであり、御言葉を聞くということになります。 「礼拝」は、まさにそれであり、御言葉を聞くためには御言葉を語ること、すなわち「説教」が必要です。ルターは、宗教改革による教会を造り上げる時(1522年、それまで保護されていたヴァルトブルグからヴィッテンベルクに帰って来た時)、八つの説教を続けざまにしています。というのは、ヴィッテンベルグは改革の混乱のさ中にあり、宗教改革を力で推進しようとするグループが町を占めていて、教会の聖画像や彫刻を取り壊すということが起こっていたのです。  そこでルターは、その説教の中で、「改革というのは神の言葉を語ることによって起こるのであり、暴力的な力での改革ではない。」と語っています。ではルターの宗教改革の原則、宗教改革の精神、根本的主張は何であったのでしょうか。 *宗教改革  第一は、「聖書のみが信仰のよりどころ、権威の根拠である」。第二は、「キリストを信じる信仰のみによって義とされる(救われる)」です。これは、「キリストのみ」「信仰のみ」に分けることも出来ます。第三は、キリストへの信仰も、義とされて救われるのも、「神の恵みによる」(恩寵のみ)であると言われます。この三つのことを見ていきたいと思います。 *第一:聖書のみが信仰のよりどころである  聖書のみが信仰の拠り所という場合、聖書以外に信仰の根拠、典拠をもっていたローマカトリック教会に対する批判を含めています。  ローマカトリック教会においては、「カテキズム」(キリスト教信仰を教える書物、教理問答(信仰問答)のこと)があり、教皇がキリストに代わる代理者として教会の上に、完全で最高の権能(権力)を持っており、聖書解釈や教理についての決定権を持っている、としています(カトリック教会カテキズム参照)。こういう考え方・制度は、「聖書のみ」を掲げる者には受け容れることが出来ません。  又、カトリック教会では、七つのサクラメント(聖礼典)が制定されています。<七つとは、洗礼、聖晩餐(聖体拝領)、堅信礼、(信仰告白)、叙任(司教・司祭・助祭の任職)、病者への塗油、結婚、告解(罪の赦し)をいう>。  これに対して、「聖書のみ」を主張するプロテスタントは、二つだけをサクラメント(聖礼典)として執行します。それは「洗礼」と「聖餐」です。なぜならこの二つはキリストが定めたものであり、これを受けることによって直接神の恵みが与えられ、又、神の恵みの約束の言葉をもっていることから、サクラメントとして条件を満たしていると考えるからです。 *第二:キリストを信じる信仰のみ  ロマ書3:28に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです</span>。」とあります。 又、ガラテヤ書2:16に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました</span>」とあります。これは、ルターが宗教改革を推進していくにあたって、一番重要な事として主張したことです。それは当時、「信仰のみ」ではなくて、「信仰」プラスアルファとしての免罪符がありました。免罪符は、おふだを買い取ることによって「罪がつぐなわれる」、更に「赦される」というものでした。それに対するものとして、「信仰のみによって義とされる」が、ルターの宗教改革の、最初の具体的な行動であり、最後まで、ルターの宗教改革の根底にありました。 *信仰 その「信仰」は、いかにして与えられるかについて、パウロは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。</span>」(ロマ10:17)と言いました。聞かなければ信仰は与えられないのです。何を聞くのか。それは「神の言葉を聞く」のです。それゆえルターは、神の言葉(聖書)をドイツ語に翻訳し、それによって、すべての人が神の言葉を直接読むことが出来るようにしました。  私達にとっても、聖書の言葉を自分で読むということは欠かすことが出来ませんが、説教者を通して「聖書に基づく説教を聞く」ことは、ロマ書での「信仰は聞くことによる」ということです。ですからパウロは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか</span>。」(ロマ10:15、イザヤ52:7)と説教者を称えているのです。 *信じることによって義とされる  「義とされる」は、「義と認められる」と聖書にあり、「義と宣告される」との理解もあります。この「義」は私共が持っている義ではありません。私共は、神の前で義と認められるような完全な義をもっていません。 パウロは、「キリストが義と聖と贖いになられた」と言っていますが、キリストの義は私共の外にある。しかし神は、キリストのゆえに私共を義と認められる。キリストの義が私共の中に移されるということです。この点についてルターとカルヴァンも強調しており、カルヴァンは、「転嫁される」と言っています。それだけに、私共がキリストの義を受け入れる信仰が大切です。キリストの義を受け入れることによって、私共は新しい人になっていく。それが保証される。それが事実となっていく。それを聖霊の果実、聖霊の実ということが出来るでしょう。 *第三:恵みのみ  この「恵みのみ」は、「信仰のみ」にまさって重要なものではないかと思います。なぜならば、信じたいから信じるということは、私共には出来ないからです。どんなに聖書を読んでも、説教を聞いて信じたいという気持が起こってきても、「信じたいから信じる」というわけにはいきません。私共は「神の恵みの働き」(恵みとは、御言葉と共に働く力・聖霊の力)によって信仰が与えられる、ということが言えるでしょう。宗教改革の時代、重要な討論会が行われましたが、そこでも「信仰は聖霊によって与えられる」と言っています。それを恵みと表現し直しています。 「恵みのみ」ということは、私達の信仰の生活の発端から生涯にかけて重要です。 *おわりに 宗教改革の三つの原則(聖書のみ・キリストを信じる信仰のみ・恵みのみ)についてお話しましたが、私共はこのことを聞くにつけ、ルターが最初に語った「悔い改める」ということの重要性を思います。つまり、福音に向かって、キリストに向かって悔い改めるということは、具体的には「キリストの義を受け入れる」ということでしょう。受け入れることによって、私共に心の変化が与えられる。そしてキリストの義が私共に移されるのです。 「世界が変わる」ということがらは、教会と私達一人一人の悔い改めから始まっていきます。これは、精神の改革ですので、一人一人の悔い改めによって、悔い改めた一人一人が集まっている教会という集団を通して、世界が変わっていくのです。それは、神が、御子キリストを私共に送って下さったことにより、御子を中心として集まっている教会によって変わっていくということに連なっていくと思うわけです。 宗教改革を覚えて、神に感謝し、神に対して賛美をしたいと思います。

「神のものは神に」  伝道師 平賀真理子

/n出エジプト記 20:4-6  /nマルコ福音書12:13-17 /nはじめに イエス様の地上での最後の一週間の三日目の出来事です。この日イエス様を神殿から追い出そうとして、祭司長、律法学者、長老達はイエス様の言葉じりをとらえて陥れる為、ファリサイ派やヘロデ党の人をイエス様のところに遣わしました。ファリサイ派とヘロデ派は、本来は、相いれない者同士です。しかし「イエス追放」という共通の目的に向かって、一時的に手を結んでいます。彼らは、自分達の敵意を隠す為に、イエス様を褒め(「あなたが真実な方であることを知っています」)、イエス様を油断させ、失言を引き出そうと考えたようです。 /n言葉のわな 彼らはイエス様に「あなたは・・真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と敬意を装った後、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか」と質問したのです。この質問は、神の民であるイスラエル民族が、異邦人の国の皇帝に税金を納めることの是非を問うものです。「納めるべき」と答えれば、「異邦人支配を容認した」と責めることが出来ます。又、民衆は重税で苦しめられていたので、イエス様の人気は失墜するでしょう。「納めるべきでない」と答えれば、ローマ寄りのヘロデ派の人々が黙っていません。どちらに答えてもイエス様を追い込めます。 /n「銀貨を持って来て見せなさい」 しかしイエス様は人の心に何があるかを知っておられる方です。彼らの 醜い意図を見抜きつつ、それでも忍耐して質問に答えるため、まず彼らにローマのデナリオン銀貨を確認させました。貨幣にはローマ皇帝の肖像と銘がありました。イエス様は、「皇帝のものは皇帝に」と言われ、その後で更に、「神のものは神に返しなさい。」と答えられたのです。   /nこの世の大原則 イエス様の答えは、納税だけでなくこの世の大原則を示されています。それは、神様が本来この世を造られたのであるから、この世のすべては神様に返されるべきものであるということです。神様の造られた世界にあって、皇帝などは一時的に権力を借りているにすぎず、その繁栄も一時的なものです。しかも権力をめぐり、この世は、残忍、嫉妬、狡猾、欺瞞などが渦巻く世界になってしまいました。 /nイエス様の目的 神様は人間を深く熱烈に愛しておられたので、サタンのわなによって悪に染まった人間とこの世を、神様が本来造った性質に取り戻すために、最終的に御子イエス様をこの世に送り、イエス様の歩みを通して救いのご計画を実行されたのでした。「もともと神のものであった人間やこの世を、神に返す」。これこそイエス様が来られた目的です。イエス様の十字架の血潮に贖われて、神様のものとされた信仰者の私達は、本当の意味で神様に返されるにふさわしいものとなっているでしょうか。 /n神様の祝福 今日の旧約聖書には、「私を愛し、私の戒めを守る者には幾千代にも及ぶ祝福を与える」とあります。神様のことを第一に思い、その御心を知り、御言葉を守る者に、神様は永遠に祝福を与えて下さいます。 私達はイエス様の教え、弱い者への愛、へりくだりの心を中心に、誠実に生きることが求められているのではないでしょうか。日々の祈り、聖書の学び、愛に基づいた働き、そして主日ごとの礼拝によって、神様のものとされた私達の霊に、神様の像が深く刻まれていくのです。 「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。…御父は、私達を闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。私達は、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」                        (コロサイ1:9-)。

「いかに幸いなことか」  佐々木哲夫先生(東北学院大学)

  (伝道所開設8周年記念感謝礼拝) /n詩編1:1-6   /nマタイ福音書 5:1-12   /nはじめに  詩編は150の詩から成り立っています。150もありますから、内容も様々です。たとえば困難な状況に置かれた詩人が、その状況を神に嘆き訴える詩、信仰の確信を表明したり、神を賛美したりする詩、又心の底から絞り出す願いを神に叫び求める詩など幅広い内容となっています。そのような150の詩編の冒頭に置かれたのが今日の詩編、第一篇です。いうなれば、詩編全体の序文と評されているものです。たとえば宗教改革者のジャン・カルヴァンは、詩編注解の中で次のように記しています。「この詩編を、全巻の冒頭に序詞として置いたのは、すべての信仰者に、神の律法を瞑想する義務を思い起こす為であった。」さらに続けて、「天来の知恵に心を傾ける者は幸福となり、反対に神をあなどる者は、たとえ暫くの間、自らを幸福な者と考えるとしても、ついには、はなはだしい不幸に陥るだろう。」  私達も今朝、この詩編第一編に心を傾けたいと思います。 /n二種類の人間 詩編一篇を概観してみますと二種類の人間・・神に従う者と神に逆らう者、その両極端の人間が対照的に描かれていることに気が付きます。 最初に、神に従う者が描かれています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人</span>。」(1節-2節)と記されていますが、逆説的にこの表現は、神に逆らう者の姿をも表わしています。すなわち、神に逆らう者とは、「計る者」「罪ある者」「傲慢な者」のことです。最初の「計らう者」とは、神に対して悪意、又は邪悪さをもってことを企てる者のことです。「罪ある者」とは、的(まと)から外れて生きている者、「神」という目標から外れて生きている者のことです。「傲慢な者」とは、「あざける者」のことです(詩編119編参照「傲慢な者は、私を、はなはだしく見下しますが・・」)。「傲慢な者」は、神の教えを放棄して、裁きなど恐れず、あざける者の姿を表現しています。悪意ある計画を計り、神から外れて歩んで、神をあざける。そういう混然一体となって「神に逆らう者」の姿を浮き彫りにしています。 他方、神に従う者はそうではない。そういう生き方とは一線を画します。一線を画すだけでは無くて、むしろ主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむというのです。この第一篇はそのような、神に従う者と神に逆らう者の生き方の違いだけではなくて、その生き方が招く「結果」にも言及しています。 /n生き方が招く結果 神に従う者の結果は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす</span>。」(3節)というのです。対照的に、神に逆らう者の生き方の結果は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに耐えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない</span>。」(4節-5節)と記されています。カルヴァンの表現を借りるなら、「悪しき者が眠りから覚める時、正しい者の集いに加えられていないことに気付かざるをえないだろう。困難な時代にあっても常に神がこの世のことがらを統べ治め、混乱から秩序を造りだされるということを考えようではないか。」と説明されます。ここで印象深い表現は、「表面は立派なものだが風が吹けば飛ばされてしまうもみ殻のようだ」と、「もみ殻」という言葉を使っています。 /nマタイ福音書では 新約聖書では、マタイ福音書5章で、神に従う者の姿がくわしく描写されています。神に従う人は、「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者」、そういう者達であり、そういう者達が受ける結果は「天の国、慰め、地を受け継ぐ、満たされる、憐れみを受ける、神を見る」です。特に最後の「神を見る」という描写は、かなり衝撃的です。といいますのは、旧約聖書で、神は燃え尽きない柴の中から「モーセよ、モーセよ」と呼んだ場面が描かれていますが、呼ばれた時にモーセは、神を見ることを恐れて顔を覆ったと伝えられているからです。モーセは、神から呼ばれているにもかかわらず、なぜ神の顔を見ることを恐れたのか。それは、あまりにも神は清い存在であるので、その清い存在である神を見るならば、汚れている人間はその汚れのゆえに、あまりにも自らの汚れがはっきりと示されるがゆえに滅びてしまうと恐れたからであります。旧約聖書では、神を見るというのは特別なことでありました。 まさに「神を見る」そのことは、心の清い者だけに許されていることです。マタイ福音書において、「神に逆らう者」とは迫害する者のことです。そして、11節-12節には次のようにまとめられています。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 /n私達は今日の聖書から何を聞くか このように旧約聖書においても、新約聖書においても、神に従う者と、神に逆らう者の姿は対照的な姿として描かれており、そしてその生き方の招く結果が描かれています。そのような聖書の箇所を、今日の私達はどのように読むか、どのような意味を聖書は今日の私達に与えてくれるのか、ということです。私達はこのような聖書の箇所を読んで、何を教えてくれるのか、ということです。 さまざまなことが教えられることですが、その内の一つを私達は教えられたいと思うのです。それは、私達は「日常をどう生きるか」ということです。さきほど旧約聖書と新約聖書を見ました。特に旧約聖書の、詩編の第一篇の詩人の課題は、「悪意ある計画を計る者、神から外れて歩む者、神をあざ笑う者達と共なる生き方、そういう日常をどう生きるか、ということが問題であったと思われます。マタイ福音書の課題は、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることが少なからず起きた日常において、自分達はどう生きるかとういうことが問題であったのでありましょう。詩編の注解を記したカルヴァンの課題は、宗教改革に反対する者達の意見や迫害にさらされるそんな日常に、教会の徳を高めるために、どう生きたら良いかということでありました。 いずれの時代においても、日常における信仰者の葛藤が描かれているのです。 /n私達の日常 では、私達にとっては日常とはどのようなものでしょうか。私達の日常とは、灰色の、平凡でつまらなくて、そういうことの繰り返しである・・そんなことなのでしょうか。そうではないと考えます。 信仰者の日常は、そうではなく、「主の教えを愛し、その教えを夜も昼も口ずさむ。そして流れのほとりに植えられた木のように実を結ぶ。モーセにも増して神を見る」、そのような豊かな日常に生かされているということではないでしょうか。特に、先の東日本大震災で亡くなった多くの犠牲者達のことを思う時に、彼らが望んでも生きることの出来ない日常に私達は「今」、生かされているということに特別に留意したいと思うのです。すなわち私達にとっての課題は、「今」という、この生かされている日に、いかに生きるべきか、ということです。私達は、ある意味では神に逆らう者と共に生きている。それが日常です。 /n「永遠」と出会っている世界の日常を生きる しかしこの日常の中で、かろうじて永遠をみつめながら生きているというものではありません。そうではなくて、「永遠」とすでに出会っている世界、そして日常を生きているということです。そのことを自覚したいと思うのです。私達がこの世界で造り出すこと、体験すること、苦悩すること、そういう様々なことは、日常に埋没して消え去ってしまうというのものではなく、むしろ永遠に向かって造り出し、体験し、苦悩しているということです。 永遠に連なっている今を生きている、ということです。それが、今、この時代に生きるキリスト者の責任です。すなわち詩編やマタイ福音書の言葉は、今日の私達の信仰者に語りかけられている神の言葉なのです。 ところで、永遠がすでにこの私達の日常と出会っている、この日常に私達は生きていると申しましたが、それは抽象的な概念ではないのです。 歴史の中の具体的な出来事、すなわち、主イエス・キリストがこの世界に到来したという出来事に裏打ちされている表現です。主イエス・キリストを見る時、私達はまさに「神を見る者」とされるのです。 特に本日、この礼拝は、仙台南伝道所の開設の記念の礼拝です。 まことの創立者であるイエス・キリストを見つめる。特に、イエス・キリストの十字架の出来事を想起する。そういうことによって私達の日常は「いかに幸いなことか」と、呼び得るほどに確かなものとされるということを覚えたいと思います。 「いかに幸いなことか」と、旧約聖書の詩人や新約聖書の記者達は記した、その「いかに幸いなことか」と呼び得る「幸いな日常」をしっかりと歩む者とされたい。それが今日の聖書の箇所から私達に語りかけている言葉であるということを覚えたいと思います。

「終末についての御言葉(2)」  伝道師 平賀真理子

/n申命記30:1-6、11-14 /nマルコ13:14-27 /nはじめに  前回は戦争、地震、飢饉、迫害の記述がありましたが、その一つ一つの出来事に怯える必要はなく、サタンが支配する古い世界から、イエス様の勝利による、神様の愛の広がる新しい世界が生まれる希望を見い出しました。私達はそれぞれに与えられた持ち場において福音を広める為、福音に生きる証し人となることだけに心を砕いて歩めばいいと知らされました。 /n大きな苦難  今日の聖書では不可思議な言葉が出てきます。「憎むべき破壊者」「山に逃げろ」「下に降りるな」「物を取りに家に戻るな」「身重の女と乳飲み子を抱えた女は不幸だ」「このことが冬に起こらないように祈れ」など・・。 この意味を理解するため、先週の礼拝で学んだ「神殿奉献祭」の起源ともなったマカベア戦争についてお話したいと思います。 イエス様が生まれる160年程前アンティオコス4世(エピファネス)がユダヤ地方を治めることになりましたが、彼はギリシャ・ローマの神々への信仰をイスラエルの民にも強要し、エルサレム神殿にゼウスなどの偶像を入れて、それを拝ませました。偶像礼拝を避けていたイスラエルの民にとり、それは赦しがたい冒涜でした。「憎むべき破壊者」は、多神教の偶像、又は異民族の支配者のことです。彼は残虐にも都を破壊し、火を放ち、民を殺害し、武力で支配しました。「家に戻るな」は、焼き尽くされる町の巻き添えになって殺されるからです。立ち上がったイスラエルの人々は、山にあるエルサレム神殿で祈ってから戦いを挑み、抵抗運動が成功したことが背景となり、「山に逃げる」という表現になっていると思われます。さらにアンティオコス4世は、安息日や割礼などの律法を守る者の処刑を命じました。割礼は幼児に施されたこと、又、冬の戦いで餓死者が多く出たことなどから、「身重の女と乳飲み子を抱えた女は不幸だ」「冬に起こらないように祈れ」と、勧めているように考えられます。 イエス様は、あのアンティオコス4世の時よりも尚、大きな苦難が来ることを預言されました。それはかなり絶望的で覚悟のいることです。しかしその絶望の極みの時でも、イエス様が御自分の者として選んだ者の為に、苦難の期間を短くし、救われる者がいるようにすると約束されました。それは、主を信じる者にとっての大きな希望であり、救いです。 /n偽メシアの出現  21・22節は、偽メシアや偽預言者を信じるなとの警告です。にせ者達が「しるしや不思議な業を行う」とあります。本者か偽者かの区別は難しいように思われますが、私達の主、イエス様が私達に下さったのは、「奇跡」と同時に「福音」でした。イエス様は人々に神の御心や救いのご計画、悔い改め、神の国の民の理想を指し示して下さいました。更に、そこに聖霊が働いているかどうかは、本者かどうかを区別するサインです。イエス様は相手に対する憐れみと信仰への応答として奇跡の業を行われましたが、偽者達は自分の利益の為に人を利用しました。 /n「だから、あなた方は気をつけていなさい。・・前もって言っておく。」 表面的なものに気を取られ、イエス様の使命の重大さを理解しきれていない弟子達を前に、イエス様は、終末について教え、惑わされないように警告されました。この世の支配者(サタン)に勝利されたイエス様が教えられた「終末の徴」を、私達も、弟子達に連なるものとして学ぶことが出来、この世に対する最終的な勝利をイエス様と共有する幸いを与えられています。終末を待ち望みながら生きる者として、私達が今、なすべきことは、福音を信じる者として、主の前に恥じることのない信仰者として、信仰の成長を祈り求めることではないでしょうか。 自分に本当の意味での幸いを与えて下さるきっかけとなった福音を、あらゆる人々に広める為に、少しでも役に立てるように生きていきたいと願います。そのような働きが少しでもできるように、今週もまた、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。

「過越の食事と裏切り」   伝道師 平賀真理子

/n詩編40:6-13 /nマルコ福音書14:10-22         /nはじめに    イエス様は、ご生涯の最後の一週間を、エルサレムで過ごされました。神様から遣わされた者として、神様の愛された都・エルサレムで死なねばならなかったのです。イエス様はその尊い命を犠牲にすることで、人々の罪を肩代わりすることが、父なる神様の「救いのご計画」であると分かっておられました。それについては、イエス様は(敵が自分を殺そうとしているとしても)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない</span>。」(ルカ福音書13:33)と言われています。 /n日曜日~水曜日 日曜日、イエス様は救い主としてイスラエルの人々に大歓迎されました。 月曜日は、エルサレム神殿が商売の巣窟になっていることを嘆かれて、商売人達を立ち退かされ、本来の神の聖さを取り戻そうとされました。 火曜日は、イエス様の反対者達(大祭司や律法学者達)との論争によって、神の知恵の偉大さを明らかにされました。 水曜日、反対者達はイエス様を亡き者にしようと強く決意します。しかし、イスラエルの人々が一番大事にしている「過越の祭り」の最中は避けようと話し合いました。又、水曜日、イエス様は一人の女性によって「香油を頭に注がれ」ました。これは、人々の罪の贖いのために殺されるというイエス様の尊い使命による死の「埋葬の準備」をしてくれたものと、イエス様はその行為を喜ばれました。 /n木曜日 今日の聖書は、弟子の一人、ユダの行為が記されています。イエス様が愛された弟子の中から、イエス様を反対者に引き渡そうとする者が出ていたのです。ユダは、イエス様を引き渡す報酬としてお金をもらう約束をします。(しかし後に、そのお金を投げ捨てて自殺することになります)。 この日は、除酵祭(酵母を除いたパンを食べて、出エジプトの出来事を記念する)の第一日、過越祭として一番大事な、小羊を屠って食事をする日でした。 本当は、まさにこの時、イエス様が「過越の小羊」として犠牲になることが近づいていたのです。 イエス様は、12人の弟子と共に、過越の食事の席について言われました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている</span>」。  信仰によって結びついたはずの家族同然の集団の中で、そして、神の恵みを思い起こす食事の席で、親しさとは裏腹の、神の祝福とは裏腹の、人間の罪に根を持つ「裏切り」が起こっている! 人間とは、何と救いようのないものなのでしょうか。 /n「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  この御言葉は、主の深い悲しみです。御自分が人類の罪を背負い、「過越の小羊」のように犠牲になり、それによって信じる者の救いのしるしになられることは、御自分の使命だと受けられていたことでしょう。 しかし、イエス様を裏切る者は、「生まれなかった方がその者のために良かった」と、相手と同じ立場に立って悲しんでおられる言葉です。 「主の恵みを知りながら罪に負けたり、敢えて反抗して不信仰の道を辿る者は、主を心から悲しませる」ことを深く肝に銘じるべきでしょう。 /n神様の御声を聞き、ご計画のために生きる 神様の言葉にいつも従えるほど清くない私達。  神様の深遠なご計画を理解できずに目の前の利益を優先させる愚かな私達。 だからこそ救い主イエス様の贖いや、愛や、御言葉が必要なのです。 「罪の赦し」という恵みをいただかなければ、神様の下さる平安や正しい道から逸れてしまうのです。 神様は、私達に福音を知らせ、聖霊を送って下さり、御国へ招いて下さっています。 私達は、信仰を持つ以前と同じ(この世の)価値観のもとで、神様の御心よりも自分の欲望を優先していないか自分自身を吟味する必要があるでしょう。 福音に照らし合わせて、神様の御声を聞けるように、祈る時を多く持ちたいと願います。 イエス様に倣い、神様のご計画のために献げられるよう、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。