説教要旨 「ただわが霊によって」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

伝道所開設6周年記念感謝)の礼拝説教要旨 /n[ゼカリヤ書]4章6-7節 6 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。 7 大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」 /n[ローマの信徒への手紙]12章9-21節 9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 /nはじめに  イスラエルの国は、その首都を今も昔もエルサレムに置いております。政治の中心地ですから、当然ながらエルサレムには国会議事堂があります。その傍にこじんまりとしたバラ園があり、そこにブロンズ製のモニュメントが建てられています。モニュメントは少々変わった形をしており、まず5mくらいの高さの一本の柱がど真ん中にドーンと建てられています。そこから左右に三本の支柱が枝分かれしています。一本の柱の両側に左右3本ずつ枝が分かれていて、全部で7つの枝が形作られている、それが燭台になっています。5mですからそれほど見上げるというわけではありませんが、結構大きいものです。実際に火が灯るということはないのですが、先端には木皿がついている。このモニュメントは実は有名なものであって、大きな形をしているだけではなく、その他二つの特徴があります。 一つは、モニュメントの表面(7つの枝の表面)に、旧約聖書の時代から現代のイスラエル建国の時代に至る歴史の、有名な場面が29の場面に分かれてレリーフで刻まれている。例えば出エジプトの出来事とか、十戒が与えられた場面、又、ダビデがゴリアテと戦って勝利した、そんな場面がレリーフ状に彫刻されている。そういうのは、我々はステンドグラスとか絵巻物で見るわけですが、それとは又、一風変わった感じで、イスラエルの歴史3000年以上を眺めることが出来る仕掛けになっているものです。 二つ目のモニュメントの特徴は、やはりこの燭台の枝のところ、側面に、聖書の言葉が書いてある。それが、今日読みましたゼカリヤ書4章6節の言葉。「<span style="font-weight:bold;">武力によらず、権力によらず、ただ我が霊によって、と万軍の主はいわれる。</span>」この言葉が、原文のまま、刻まれている。そんなユダヤの歴史と、聖書の中身が一体になって示されているモニュメントがあります。この七枝の燭台は、ゼカリヤに幻に示された燭台を題材にしたことが示されています。この七つの枝をもった燭台と二本のアーモンド。これがゼカリヤ書4章の最初から書いてあるところに記されていますが、それは、今日のイスラエルの国家的なシンボルになっているほどに有名な幻、図像であるといえます。 今朝は、ご一緒に、燭台に灯るともし火。このゼカリヤ書の幻の、燭台を念頭に置きながら、そこに灯るともしびの光について学びたいと思います。 /n常夜灯(一晩中ともす光)  ゼカリヤ書4章の最初に、神から示された幻が記されております。 「<span style="font-weight:bold;">『何を見ていたのか』と尋ねたので、私は答えた。「私が見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました</span>」(2-3)。 実はこういう七つの枝のある燭台を最初に作った人はモーセです。ユダヤ人達がシナイ半島の荒野を彷徨した出エジプトの時、指導者モーセが神の指示に従って、幕屋と呼ばれるテント式の移動式神殿を作りました。その時に神の指示に従って、この七つの枝が付いている燭台を作り、幕屋(移動式テント)に安置した。出エジプト記には次のように記されています。「<span style="font-weight:bold;">純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとして、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。・・・これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。次に、七個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする</span>」(25:31-)。このように言葉が与えられたので、それを作り、幕屋とよばれる神殿に備え、火を灯し、それを常夜灯として、一晩中ともす光として、ともしたというのです。 おそらく荒野の中を彷徨するユダヤ人達にとって、真っ暗闇のなかで宿営する夜に、幕屋から光る光。七枝の燭台から光がこぼれて来る。それは、神が共にいるということをイスラエルの人々に告げ知らせるものであり、奴隷状態から自由とされ、故郷へ戻れる喜びをイスラエルの人々に実感させた、いうならば七枝の燭台に輝く光で、イスラエルの人達は自分達と神との関係を実感した、確認した、・・そういう光として、彼らは親しんだのです。 /nイスラエルの民の思い  荒野の旅をしてイスラエルに戻った彼らは、エルサレムを首都と定めて安定した国家を形成しようとしていきます。荒野でさまよっていた不安定な時代だけでなく安定的な国家を形成して安定した時代にあっても、七枝の燭台のある幕屋の神殿は、相変わらずユダヤの中においては、中心的な存在となっていきます。そしてやはり常夜灯として灯る神殿の光に、人々は様々な思いを寄せることになります。彼らの思いを旧約聖書の言葉から、二つほど引用したいと思います。一つは、その後王様となったダビデの言葉ですが「<span style="font-weight:bold;">主よ、あなたはわたしのともし火 主はわたしの闇を照らしてくださる。</span>」(サムエル記下22:29)と歌っています。自分に敵対する者達に囲まれて、具体的にどっちの方向に進んでよいか分からないような状態にあった、そういうことがダビデに何回もあるのですが、ある意味で真っ暗闇に置かれるような状態になったとしても、決して神様は私を捨て置かれることはない。だから失望したり、自ら見失うことがない、とダビデは語るのです。危機的な状態に陥っても、決して自分は一人ぼっちではない。神は共におり、目の前の闇を照らして下さるということを歌っています。 これは、単なる比喩的な表現ではなくて、困難な状態に陥っている者に、その困難を切り抜けさせる方法を思い起こさせてくれる。そして、それを成し遂げる力を神は与えてくれるということを意味しているのです。 「<span style="font-weight:bold;">主よ、あなたは私のともし火。私の闇を照らしてくださる。</span>」神との深い信頼関係が前提とされての言葉です。 もう一つ、詩編に記されています「<span style="font-weight:bold;">あなたの御言葉は、わたしの道の光  わたしの歩みを照らす灯。</span>」(119:105) あなたの言葉が私の道の光である。私の歩みを照らす灯である。光というものが単なる象徴の言葉ではなく、具体的に神の言葉を意味していると記されています。 神の言葉というのは、アブラハムやイサクやヤコブ達、又、モーセに示された契約の言葉であリ、又、預言者達に与えられた預言の言葉でした。今日の私達に関連して言うならば、光・神の言葉というのは私達が手にしている聖書の言葉でもあります。その神の言葉が、私達の歩むべき道を照らし出してくれる光である。光によって照らし出されるならば、進むべき道がどのような道かを判断することが出来る。時にはその道ではなくて別の道を選ぶように、と促されることもある。そんな聖書の言葉、まさに私達の歩むべき道の光である、ということを詩編の記者は語っているのです。 /n七枝の燭台の光  ゼカリヤに示された幻、七つの枝のある燭台の光は、「<span style="font-weight:bold;">武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって</span>」と主が語る。そういうことを私達に教えております。武力や権力によって成し遂げられることであったとしても、そうではなくて、「<span style="font-weight:bold;">主の霊によって</span>」なすのだ、と語りかけている。それが主から私達に与えられた御言葉でありました。 /n新約聖書における光  光というものは、旧約聖書だけではなくて新約聖書においても大事な役割として表現されています。二つほど新約聖書から光について選び出したいと思います。まず、光というものは神である。私達の心に存在する神そのものである。という言い方が記されています。 「<span style="font-weight:bold;">わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。</span>」(ヨハネ一1:5)「<span style="font-weight:bold;">『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。</span>」(コリント二4:6)と記されています。 神は光である。しかもその光は私達のうちに与えられている。神が私達と共にいる、ということが新約聖書のあちらこちらに記されています。神が光であり私達の歩むべき道を照らし出す。闇を照らし出す光であり、それが私達の内にあり、共に歩んでくれる、とするならば、もう一つの表現は、光が与えられている者は光にふさわしく歩むということも記されています。 「<span style="font-weight:bold;">あなたがたはすべて光の子。昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません</span>」(テサロニケ一5:5)。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい</span>」(エフェソ5:8)。「<span style="font-weight:bold;">『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお、闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません</span>」(ヨハネの手紙一2:9-10)。 そのようなことがいたるところに記されております。光を見つめるだけではなくて、光に照らし出されるだけではなくて、光が私達の内に存在しているわけですから、光と共に、即ち、神と共に歩む、というのです。 新約聖書の、このような言葉を読んでおりますと、もう一つ、私達が親しんでいる聖書の言葉を思い起こすのです。それは山上の説教において、イエス・キリストが語った言葉です。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升(ます)の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである</span>」(マタイ5:14-16)。 光を、世の中に輝き照らす存在になれ、なっている、ということを言っているわけですが、私共がある意味では、神と共にある、そして神の言葉をわが内に入れている、ということは、「神、共にいます」ということである。そして私達は光として歩む。そのような言葉が旧・新約聖書に記されているのを見る時に、光を灯す燭台とは何かということです。 /n燭台は教会  光を灯すのが私達(神の光を得る)とするならば、その燭台は「教会」であると言えるかと思います。教会はイエス・キリストの体であると教えられています。世の光として私達が光り輝く。それは燭台と共に輝くといっても過言ではないと思います。ある意味で教会は、旧約聖書以来語られる七枝の燭台そのものではないかと今日、私共は思うのです。 /n「光としてある」とは・・  そのようなことを思う時に、光としてある、とは一体どういうことかということを、ローマの手紙の12章9節から読んでみたいと思います。 「<span style="font-weight:bold;">愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい</span>」。 /n強い光 この中で二箇所を特に「強い光」として心に刻みたいと思います。 一つは、「<span style="font-weight:bold;">怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。</span>」 もう一つは、「<span style="font-weight:bold;">できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。</span>」 このことを、今日の伝道所設立の記念礼拝の時に覚えたいと願うのです。

「御心が行われますように」 牧師 佐藤義子

/n[箴言]16章1-3節 1 人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。 2 人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。 3 あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。 /n[使徒言行録]21章1-16節 1 わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、 2 フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。 3 やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。 4 わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。 5 しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、 6 互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。 7 わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。 8 翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。 9 この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。 10 幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。 11 そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」 12 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。 13 そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」 14 パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 15 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。 16 カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。 /nはじめに  今日の聖書は、パウロ達一行の帰国の旅が、どのような経路を通って目的地エルサレムまで行ったのかが記されています。この旅で出会った人々や出来事を通して、ご一緒にいくつかのことを学びたいと思います。 /nティルスでのキリスト者達との出会い  ティルスには、かつてエルサレムの迫害から逃れてきたキリスト者達の伝道によって出来た群があったようです。パウロは、船が荷物の陸揚げの為に停泊していた一週間を利用して、キリスト者達の群れを探し出しました。そしておそらくいつものように、キリスト者達を教え、励まし、勇気づけたことでしょう。彼らは霊の導きによって、パウロにエルサレムへは行かないように繰り返し言いました。命の危険を思ってのことでしょう。  しかしパウロは、予定通りエルサレムに向かって出航することにしました。ティルスのキリスト者達はパウロ達の為に、家族ぐるみで町外れまで見送りに来て浜辺に膝まずき祈りを持って送り出しました。ここに、信仰によって結ばれた神の家族の麗しい交わりの光景を見ることが出来ます。 /nカイサリアでのフィリポとの出会い  ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、その翌日カイサリアに着きました。そこには伝道者フィリポの家があり、パウロ達一行は数日間滞在したことが報告されています。フィリポは、最初のキリスト教会の世話役として選ばれた、“霊”と知恵に満ちた評判の良い7人の一人でした(6章)。8章には、エチオピア女王の高官に伝道して洗礼を授け、その後、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行ったことが記されています(40節)。  パウロが訪れた時、フィリポには預言をする4人の未婚の娘がいました(21:9)。つまりフィリポはその後クリスチャンホームを築き、すべての子供達が父親のように、神様に仕える者として用いられていたのです。そしてパウロ達一行8名(20:4参照)に、彼らの滞在先として自分の家を提供したのでした。 /nアガボの預言  フィリポの家に、預言者アガボが来た時のことです。アガボはかつて大飢饉が世界中に起こると予告し実現しています(11:27-)。アガボはパウロに向かって、パウロがエルサレムで鎖につながれて、ローマ人に引き渡されると預言しました。これを聞いて、パウロを除くすべての人達がパウロのエルサレム行きに反対しました。  私達人間は、自分も愛する人達も、出来るだけ苦しみに合わないように、又、安全が守られて長く生きてほしいとの願いを持っています。それゆえ、パウロの命の危険があるとの預言を聞いて、放っておくことは出来ませんでした。しかしパウロは答えます。  「<span style="font-weight:bold;">泣いたり、私の心をくじいたり、一体これはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。</span>」 /n「<span style="font-weight:bold;">主の御心が行われますように</span>」  パウロは、エルサレム行きを危険だからという理由で断念することは、自分に与えられた使命をおろそかにすることであり、イエス・キリストに対して不誠実と考えたのでしょう。以前パウロは「私はエルサレムに行った後、ローマも見なくてはならない」と言いました(19章)。当時の世界の中心地ローマヘの宣教は、エルサレム訪問後の彼の使命であるとの確信があったのでしょう。パウロは、「命の安全」ではなく、今、与えられている「使命に忠実」であることを選びました。パウロの言葉を聞いた人々は「<span style="font-weight:bold;">主の御心が行われますように</span>」と言って口を閉じました。  主の御心は測り難く、人間の思いをはるかに超えています。「御心のままに」と祈る祈りは、私達を「自分自身への執着」から解放し、全てが「神様のご計画の中に置かれる確信」と、「委ねる信仰」を与えます。

「まだ悟らないのか」 伝道師 平賀真理子

/n[エレミヤ書]5章21-31節 21 「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民。 22 わたしを畏れ敬いもせず/わたしの前におののきもしないのかと/主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め/それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず/とどろいても、それを越えることはできない。 23 しかし、この民の心はかたくなで、わたしに背く。彼らは背き続ける。 24 彼らは、心に思うこともしない。『我々の主なる神を畏れ敬おう/雨を与える方、時に応じて/秋の雨、春の雨を与え/刈り入れのために/定められた週の祭りを守られる方を』と。 25 お前たちの罪がこれらを退け/お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。」 26 「わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。 27 籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。 28 彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。 29 これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。 30 恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。 31 預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」 /n[マルコによる福音書]8章11-21節 11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 /nはじめに  今日の聖書に「<span style="font-weight:bold;">ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして・・</span>」(8:11)とあります。イエス様は、ユダヤ人・異邦人の区別なく神様の救いを求めている人々の救いのために、自由に旅をされました。一方、ファリサイ派の人々は、律法を重んじるあまり、律法を知らない異邦人と接触して自分達が汚れることをとても嫌っていました。ファリサイ派の人々にとって腹立たしいことは、自分達が軽蔑している「異邦人」を救う奇跡をイエス様が行っていることです。そして、ユダヤの民衆だけでなく、周辺の異邦人達からもイエス様への人気が高まったことへの嫉妬がありました。ですから、「イエス様を試そうとして」の「試す」はイエス様の人気や権威を失わせる目的を含んでいました。何が何でもイエス様を「神の御子」として認めることは絶対にしないという前提で、イエス様に対して「天からのしるし」を求め、議論をしかけました(11節)。「天からのしるし」とは、「太陽や月がどうにかなる天変地異」や、旧約聖書の預言者が行った奇跡と同じような奇跡を要求したと考えられます。イエス様を信ぜず、悔い改めのないファリサイ派の人々を、イエス様は「<span style="font-weight:bold;">そのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれ</span>」ました(13節)。 /nパンを持ってくるのを忘れた弟子達  舟の中で、イエス様は弟子達に「<span style="font-weight:bold;">ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい</span>」と戒められました(15節)。「パン種」とは、パンを膨らます酵母菌(イースト)で、少し入れれば大きく膨らむことから、ほんの少しで、人々や社会に広く影響を及ぼす原因となるものと考えられます。「ファリサイ派の」とは宗教における形式主義者のことで、神様を第一にしていると言いながら「律法」という決まりだけを守らせ、その精神に立ち返ることをしないため、手本となるべき彼ら自身の姿勢が間違っているので、指導される民衆にも腐敗が広がっていくのです。「ヘロデの」と言われるヘロデ王は、イエス様ご降誕の時、幼児を虐殺したヘロデ大王か、又は息子で洗礼者ヨハネを斬首したアンティパス王か、どちらにせよ、自己保身を暴力で図るヘロデの流れを指します。このような悪から弟子を守る為に「気をつけなさい」とのイエス様の戒めに対して、弟子達は「パンが一つしかない。足りない…」としか受けとめることが出来ませんでした。 /n「<span style="font-weight:bold;">なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。</span>」(17節)  そこでイエス様は、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」とエレミヤ書を用いながら(5:21)、「<span style="font-weight:bold;">分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。覚えていないのか。</span>」と何度も言葉を重ねておられます。それは、パンが与えられた奇跡を通して、神様の御業が明らかにされているのに、そのことを理解できず、自分の関心事しか見えず、聞こえず、理解できない鈍感な弟子達に対する嘆きと叱責に聞こえます。 /n叱責ではなく期待と励まし  マルコ8章には、イエス様に相対した3つのグループの姿があります。第一は群衆。第二はファリサイ派。第三は弟子達。信じて集まって来た群衆にイエス様は奇跡を行われました。ファリサイ派の人達には「しるし」を与えることを拒まれました。そして弟子達には特別な恵みが与えられています!神様の人間に対する愛と、イエス様を通して人間を救おうとする御旨を理解してほしいと期待されています。弟子達は普通の民衆でしたが、主に見出され、呼びかけに応じて従った者達です。今日の聖書での弟子達は、イエス様のファリサイ派に対する思いや自分達への愛情も理解できず、パンの心配をしているような者でしたが、彼らは望んでいることより はるかに豊かで素晴らしい恵みを与えられています。イエス様は、神様の救いのご計画において弟子達に期待されているのです。弟子達の姿は、私達の姿そのものではないでしょうか。「まだ悟らないのか」は叱責ではなく、私達への期待と愛の励ましです。

「山上の変容」    伝道師 平賀真理子

/n[マラキ書]3章19-24節 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 /n[マルコによる福音書] 9章2-13節 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 /nはじめに 「山上の変容」という題は、何のことか想像しにくいと思いますが、「イエス様が高い山で姿を変えられた」出来事をいいます。その高い山に、イエス様は、核となる三人の弟子を連れて何かをなさろうとしていることに思いを巡らせてみたいと思います。 /n変容 「変容」とは、イエス様の姿が「変わり」(2節)から取られている言葉で、外見だけでなく中身も変わることです。 「服は真っ白に輝き(3節)」となっていることから、イエス様が「神的存在」になっておられると理解できます。更に「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた(4節)」とあります。ユダヤ人にとって、モーセは「律法(十戒を含む)」を意味し、エリヤは「預言者」を意味します。「旧約聖書」のことを「律法と預言者」とも言いますので、イエス様がここで、「旧約聖書の完成者」となったことを証ししていると言えるでしょう。同じ内容の、ルカ福音書9章によれば、モーセとエリヤは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)とあります。直前にはイエス様ご自身の、「死と復活」の預言がありますから、今日の聖書箇所でも、「メシアは苦しみを受け、人々の罪の贖いの為の死を遂げる」ことを三人で話し合っていると読み取ることができるでしょう。  七節では、雲の中から父なる神様の、「死を遂げる」覚悟を決めたイエス様を祝福するかのように声がします「これは私の愛する子、これに聞け」と。イエス様と共に高い山にいた弟子達は、イエス様によって、霊における感覚が開かれ、幻のような天の啓示の出来事を見聞きします。  このことを理解する為に、外国語が分かる人とそうでない人の場合を考えてみます。外国語が分かればその意味を知り、新しい情報や世界が得られます。分からなければ、言葉は単なる音でしかなく、そこに意味はありません。山上の変容という「幻」のような出来事も、それを受信できる者と(例えば、パウロの回心の時のように・・サウル、サウルと呼びかける声を聞いた)、出来ない者(同行していた人達は、ものも言えずに立っていた)に分けられているのかもしれません。ですから、「この出来事=幻」と拒絶せずに、この出来事の意味を理解していきたいと思います。 /n理解して信じて聞き従う イエス様と共にいた弟子達は、この出来事の証人となる恵みを受けていますが、意味は理解せず恐れの中にいました(6節)。弟子達は直前にイエス様が語られた、「苦難の僕」の道をイエス様が歩まれる、ということを理解し、受け入れることが求められ、神様から「これに聞け」との言葉に従うことが求められていたのです。「これに聞け」は、ただ声を聞くだけではなくて、「聞き従え」ということです。「理解して信じて聞き従う」・・これがメシアであるイエス様の歩みに対して弟子達に求められたことでしたが、弟子達には難しいことでした。 /n「復活まで、今見たことを誰にも話してはいけない」 イエス様はこの山上の出来事を、他言することを禁じられました。 イエス様はご自分が、「苦難の僕(イザヤ書53章)のメシア」であることを知り、それは出来れば避けたいと思われるほど苦しく辛いことでしが、父なる神様のご計画に、従順に従うことを決意されておりました。ところが弟子達がその事を理解しないまま「山上の変容」の出来事だけを伝えるならば、イエス様を「栄光のメシア」としてのみ期待します。復活の後であれば、「苦難の僕」が「死に勝利する栄光」を得られるので、初めて、メシアの受難の意味が理解できるようになるからです。 二千年後の私達は、この意味が解き明かされ、真実が知らされています。今だからこそ私達はイエス様の御言葉を「理解して信じて聞き従う」信仰の歩みを進めるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

「悔い改めなければ」  牧師 佐藤 義子

/n[アモス書]5章6-9節 主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。 裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。すばるとオリオンを造り/闇を朝に変え/昼を暗い夜にし/海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。主が突如として砦に破滅をもたらされると/その堅固な守りは破滅する。 /n[ルカによる福音書]13章1-9節 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 /nはじめに 今朝の福音書には二つの段落がありますが、内容は一つです。どちらも私達に「悔い改めなければ滅びる」と警告しています。今は、イエス様の執り成しによって救われる道がまだ開かれている時です。しかし、来年迄の猶予期間内に悔い改めることをしなければ、救いの道は閉ざされます。 /nある不幸な出来事 イエス様に、ある出来事が報告されました。それはピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことでした。古代イスラエルでは、自分の罪に対する神様の怒りをなだめ、罪の赦しを得る為、又、神様に近づき、神様と交わる手段として動物の犠牲をささげる宗教的慣習がありました。旧約の預言者達は形式的な動物犠牲よりも精神的な悔い改めが大切であることを訴えましたが、バビロン捕囚以後、動物の犠牲を捧げることが礼拝の重要な要素となりました(牛・やぎ・羊など。貧しい人は鳩等)。 この事件のくわしいことはわかっていませんが、恐らく礼拝を捧げに来たあるガリラヤ人達がピラトの怒りにふれ、ピラトはこの人達を犠牲の動物と一緒に兵士達に切り殺させたようです。このようなことは、ユダヤ人社会にとって、特別にショックに感じられる出来事でした。 /n神の裁き? このことを報告した人達は、これはガリラヤ人に下った厳しい神の裁きであると考えました。特にファリサイ派の人々は、災難を受けた人々は他の人々より罪が深かったから、そして人々に知られていない罪を彼らが沢山犯したからだと考えていたようです。イエス様に報告した人達は、この災難はガリラヤ人達の特別な罪が罰せられたのであり、この災いは自分達にはふりかからなかったと考えて安心していたのです。 /n「決してそうではない。」 イエス様は、他人の災難と比較して自分は罪人ではないという自己満足に陥り、悔い改めを怠っている人達に、「決してそうではない」と、はっきり因果関係を否定しました。そしていちじくの木の譬えを話されたのです。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、三年間実を結ぶのを待ったけれども木は実をつけなかった。そこで主人は園丁に、木を切ってしまうように命じたが、園丁は、こやしをやってみるので来年まで待ってほしい。それでもだめなら切り倒して下さいと頼んだ話です。 /n譬え話の意味 ぶどう園の主人は父なる神様です。実を結ばない木を、あと一年待ってほしいと頼んだ園丁はイエス様です。実を結ばない木は、悔い改めることをしない人のことです。イエス様は、悔い改めをしなければ私達の魂は間違いなく滅びると明言されます。滅びの反対は救いです。もし悔い改めれば、滅びから救われて天の国(神の国)に招かれ、永遠の命を与えられる約束があります。道は二つだけで、選ばなければなりません。 /n悔い改める   悔い改めるとは、これ迄の、自分自身に仕える生き方(=自分自身の思いを最優先させる)をやめて、神様に仕える生き方に変えて、神の御子・イエス様を信じて受け入れ、その教えに従って生きていくということです。自分がしたいからするのでなく、神様が自分に何を望まれているのかを最優先に考えて生きることです。それが譬え話の「実をつける」ことです。

「救い主降誕の出来事」  伝道師 平賀真理子

イザヤ書12章1-6節 ルカによる福音書2章8-21節 「救い主降誕の出来事」  伝道師 平賀真理子 /nはじめに  今日は、羊飼い達に焦点を当てて、御言葉を読んでいきたいと思います。なぜなら、彼らこそ最初に救い主を礼拝するという栄誉に与(あずか)ったからです。 羊飼いは、当時のイスラエル社会の中では、蔑まれた階層の人々でした。ユダヤ教徒が大事にしている「安息日に礼拝する」ことや、「律法を学び覚える」ことは、職業上困難でした。それで当時、彼らは「不信仰な人々」「罪人に近い存在」とされ、低い立場に甘んじざるを得なかったのです。 /n天使 2000年前、救い主ご降誕のその日、その地方にいた羊飼い達は、いつも通り夜の暗闇の中を、羊を守る為に見張っていました。真っ暗な、厳しい状況の中で、星だけが頼りです。 3月11日の東日本大震災の時、停電のため、一帯の電気が消えて暗闇が広がりました。あの夜、野宿のような形で夜を過ごした人達から、電気の消えた暗闇の恐ろしさ・寒さと、星の美しさをよく覚えていると聞きます。   暗闇の中で仕事をしていた羊飼いたちの所に、突然、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたことに彼らは圧倒されます。そこに現れた天使は、神様からの喜びの知らせである、「救い主ご降誕」を伝える役目を帯びています。羊飼いたちは、光り輝くその眩しさに圧倒されます。 /n救い主(メシア)のしるし     苦しんでいるイスラエルの民に、神様が約束された「救い主」が生まれた、しかも羊飼い達のいる同じ地方で!その待ち焦がれたニュース!その上に天の軍勢として天使達が大勢現れ、讃美を捧げるのです。その出来事、羊飼い達が見聞きした出来事は、彼らが神様の救いの証人に選ばれたことを意味しています。 彼らは、現場・ベツレヘムへ行って、その出来事を見ることを志し、行動を開始します。羊飼い達がいたであろう草地や山から、宿屋のある街まで、暗闇の中、探し当てるにはかなりの困難があったでしょう。 /nメシアのしるし 「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」。これが救い主としての「しるし」です。羊飼い達は、そういう新生児を探しあてました。 神様の人間に対する救いの出来事が、主の天使によって知らされた通り行われたことを、羊飼い達は、確かに人々に伝え、神様を崇め、賛美しながら、自分の場所に帰って行きました(20節)。 ユダヤ教の指導者達が語り継いできた「救い主ご降誕」を、虐げられてきた羊飼い達が直接体験するという誉れある立場に高められたことこそ、神様の業の素晴しさの一つ、とも言えるでしょう。 /n大きな喜び 自分の置かれた状況を儚(はかな)んで自分の人生の意味を知りたいともがく苦闘、自分を取り巻く人間関係において信頼を築けずに消えてしまいたいと思う衝動、いつまで厳しい状況に耐えればいいのか不安という暗闇、多くの人が神様を信じることなく、絶望の中を生きています。  しかし、暗闇や過酷な状況に耐えながらも、神様を信じる信仰を失わず、神様からくる御言葉や光を素直に信じる者の、信仰に基づく行動は、その人を真実へと導きます。羊飼いが、天使の言葉を頼りに、救い主を探し求めた姿を私達に置き換えれば、神様の御言葉(聖書)を学んで、神様を祈り求めていく姿なのかもしれません。そして(神様の恵みと導きのもとで)探し当てた喜びは非常に大きくて、抑えきれずに、周りに伝えるほどになるのです。羊飼い達が人知ではあり得ない「しるし」を受け入れてイエス様に導かれた時の、あの大きな喜びと同じ喜びです。

「復活の主と弟子達(1)」  伝道師 平賀真理子

/n詩編23:1-6 /nヨハネ福音書21:15-19 /nはじめに   今日の新約聖書は、復活の主・イエス様が姿を現わされ、失望していた弟子達を、食事によって力づけた後の出来事として記されています。   イエス様がなさったことは、御自分の宣教活動で広まった「この世における神の国の民」を率いる牧者の役割を弟子に譲ることを宣言されることでした。選ばれた弟子はシモン・ペトロです。彼はイエス様のことを「メシア」(救い主)と告白した弟子で、この告白により、イエス様は天の国の御自分の権威を、ペトロに授けることを宣言されています。(マタイ16章)。 /n繰り返された問いと応答 今日の箇所で、イエス様はペトロに、他の弟子より御自分を「愛しているか」を聞かれています。そして、「私の羊を飼いなさい。」とは、イエス様を信じて従う者達を教え導き守る役目を「ぺトロ、お前に渡すのだよ」という意味です。ここで印象的なのは、イエス様がペトロに三回も「わたしを愛しているか」と問い、「愛している」と三回も答えさせていることです。ペトロはイエス様をメシアとして告白した弟子ですが、大きな失敗もしました。イエス様の十字架という苦難の前に、イエス様と共に死ぬことを誓ったにもかかわらず、その死が間近になると、三回もイエス様を知らないと言ってしまったのです。嫉妬深い敵対者であるサタンから見れば、「ペトロは自分の性質を受け継いでおり、神の国の民ではない」と主張するでしょう。イエス様は、「知らない」との裏切りの発言を越える、価値ある発言を導くことで、ペトロをサタンの追求から守り、罪の世界へ再び沈みかけたペトロを、御自分の方へ導かれたのです。 /n「わたしを愛しているか」 イエス様の「わたしを愛しているか」の、最初と二回目の「愛」の語は、「神様の人間に対する愛」と同じ性質で愛するかという意味ですが、ペトロが答えた「愛する」は、二度とも人間同士の「愛」でした。そこで三回目のイエス様の「愛するか」は、ペトロが用いた「愛」に変えられました。ご自分の言葉の深い意味が分からないペトロを憐れみ、へりくだられたのでしょう。 /n「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」  イエス様の、「わたしを愛しているか」の質問に、ペトロは「はい、愛しています」と言わずに、「愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。自分を厳しく見つめるならば、「責任を持って強い意志で主を愛しぬいてはいない」という不信仰に気付くはずです。しかし、ペトロは自分の大きな罪は脇に置き、厚かましく主に甘えているのではないでしょうか。主の御言葉の重みを理解できない愚かさと、罪に対する悔い改めの不徹底さと自己中心性・・。ペトロを指さして、自分には関係のないことだと笑っていられない、と自分の心が訴えかけてきます。 /n罪の心 限られた能力しか持たない私達が、全知全能の神様のご計画の全てを理解することなど出来ません。それなのに私達は、自分の知識や感覚を越えたものを、「信じられない」と排除しようとする罪の心が働きます。罪の世界の習性に引きずられて罪に陥った時にも、悔い改めることから目をそらそうとします。又、他人の罪を見て自分の罪はまだ軽いと考えるなど、懺悔しなくてはならないことが多くあることに気付きます。 /n「わたしに従いなさい」 このあとイエス様はペトロに「わたしに従いなさい」と言われました。「従う」は、生死を共にするという意味を含むこともあります。運命を共にすることほど人を結びつけるものはないでしょう。 復活の主・イエス様は、罪を重ねてしまう愚かな弱い私達にも「わたしを愛しているか」「わたしに従いなさい」と、今も招いておられます。この招きに信仰をもって従うことは、神様の愛のように、へりくだる性質を持って愛していくことであり、時には大きな自己犠牲を強いられるかもしれません。しかしそれは、神様から創られた私達人間の魂が本当に満たされる生き方でもあります。主の御前にふさわしい歩みができるよう祈りましょう。

「命のパンであるキリスト」  牧師 佐藤 義子

/n詩編78:23-29 /nヨハネ福音書6:32-40         /nはじめに 日本基督教団のカレンダーでは、8月第一日曜日は「平和聖日」として平和について考え、祈る時でもあります。 旧約聖書で「戦争」に対立する言葉として使われているのが「シャローム」というヘブル語です。「シャローム」は、何かが欠如したりそこなわれたりしていない状態、満ち足りている状態をさす言葉で、そこから無事とか平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の生きていくあらゆる領域にわたって、本当の意味で望ましい状態を意味し、精神的な平安の状態だけではなく、社会的に具体的・福祉的な意味などすべてを含んでいる言葉です。 このような意味での平和は神様の業であり神様の賜物でした。この賜物は、神様が一方的に与えるものではなく、神様に対する人間の態度と深い関係がありました。すなわち、人間が神様の意志に基づいて正義を行い、神様との契約関係を正しく保つところに与えられるものでした。 イザヤ書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正義が作りだすものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である</span>」(32:17)と記されています。平和のない現実の中で、平和を真剣に問題にしたのは預言者です。彼らは人々が神のもとに帰ること、又「正義によって平和をもたらすメシア」の到来を語り、平和を待望しました。又、神様の意志に基づいた本当の平和の確立のために、見せかけの平和状態や偽りの平和の預言に対して、戦争と滅亡の預言を語ることもありました。 旧約聖書では、「真の平和」は、人間の不義と悪の現実に対する神様の裁きと赦しのわざによって、苦難のその先に、初めて実現される救いとして待望されています。 新約聖書でも「平和」は、人間の生の全領域にわたって神様の意志に基づいた真の望ましい状態をさしている言葉です。 「シャローム」は、イエス・キリストによって与えられる神様の愛と救いの現実そのものです。 本日の平和聖日にあたり、私達は祖父母や両親を通して聞いてきた戦争の悲惨さを二度と子供達や孫たちに味わわせない為にも、社会の一構成員として、世界の動向や自分の国の在り方に関心を持ち続けなければならない責任を思います。しかしそれと同時にクリスチャンとして、正義の伴わない見せかけの平和ではなく、イエス・キリストを信じることによって与えられる神様の愛と救いがもたらす「真の平和」を知る者として、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">平和を実現する人々は幸いである</span>」(マタイ5:9)との御言葉のもとに歩むことが出来るようにと祈るものです。 /n命のパンであるキリスト 今、読んでいただいた聖書の前に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておく。あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(</span>26節)とあります。 群衆は、自分達の空腹を満たすためにパンをくれるお方としてイエス様を見ました。イエス様は確かに肉体的な欠乏を補って下さいましたが、その奇跡の力を通してイエス様が神の子である(救い主である)という「神の力」を見ることが出来たならば、彼らはイエス様を通して神様を見る信仰へと高められていくことが出来たはずでした。しかし群衆は、神様が下さる救いを求めて来たのではなく、満腹させてくれた「パン」(自分達の利益につながる食べ物)にとどまっていたのです。 イエス様はそれを見抜かれました。それゆえに食べたら終ってしまうパンを求めるのではなく、イエス様がその為に来たところの「永遠の命に至る食物」の為に働くように教えられました。「では何をしたら良いか」と尋ねる群衆に、イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である</span>」(29節)と答えられました。神様が「まことのパン」を与えてこの世に命を与えること、「まことのパン」「命のパン」とは、イエス様ご自身のことであり、イエス様を信じることによってイエス様とつながり、そのことによって命を受けることを教えられたのです。

収穫感謝礼拝説教  「宝を天に積む」 倉松功先生(元東北学院院長

/n 詩編104:19-31 /n ルカ12:13-21、33-34   /nはじめに  本日は収穫感謝の礼拝です。収穫感謝祭は国によって守る時期は異なります(ドイツでは10月第一日曜日・アメリカでは11月第4木曜日)。アメリカでは収穫も含めて、その年に与えられた恵みに感謝し、それを聖書に基づいて「施し」という形で感謝を表すということも行われていると聞いています。 秋は農作物や果物が実り、それを収穫する喜び(そして食する喜び)の時です。しかし収穫の喜びは、収穫にあずかる消費者には解らない喜びが、耕作者にはあるだろうと思います。その点で日本の勤労感謝の日は、勤労(働くこと)によって生活を支え、家族を養うことが出来たことに感謝することで、対象が広がった収穫感謝であると思われます。 /nだれに、何を感謝するのか。  収穫感謝であれ、勤労感謝であれ、誰に感謝するのでしょうか。日本では田んぼの神であったり、畑の神であったりしますが、私達は収穫感謝においては詩編にもありましたように、天地を創り自然を創り、自然を支配されている神に感謝するのです。勤労感謝であれば、私達に命を与えて下さり、家族を与え、つとめ(使命)を与えて下さっている神に感謝をするのです。キリスト教においては、天地を創り、自然を創られた神と、私達を創り、命を与え、家族を与えて、社会の一人として生きることを許して下さっている神は同じ神です。 ところで、耕作者でもなく、勤労者でもない者にとっては、感謝祭では何を感謝するのでしょうか。現代のように不況の世の中において、仕事を得られなかったり、得られた仕事も十分ではないという現実もあります。そこで考えたいのは誰に何を感謝するのかです。 神がこの自然を創り、自然を導いており、同時に神が人間を創り、この世界を導いていることに関連しますが、私達はそれぞれ一人の人間として創られています。一人の人間は、職業・仕事の他に、天職としての仕事「つとめ」があります。それは父であり、夫であり、母であり、妻であり、子供であり、家族の一員であり、一人の人間であることを通して他の人に接する、かけがえのない「一人の人」であるということです。 /n報酬を得ていなくても、人には「つとめ」がある。 宗教改革者は、たとえば主婦が台所に立ち、食事の用意をする。あるいは家の掃除をする。「その仕事の中で、その人は神に仕えている」と言いました。それぞれ神によって召された「つとめ」があります。特定な仕事を持っていなくても、報酬を得ていなくても、「一人の人間がそこにいる」ということは、そこに家族を持ち、家族の中にあり、社会の一員としてさまざまな形で人々に接している。そのこと自体、それが与えられたその人の「つとめ」です。金銭の報酬があるなしにかかわらず、男性であれ女性であれ、一人の人間として、さまざまな立場にあることが「神に召された聖なるつとめである」と、宗教改革者達は主張しました。  つまり、収穫感謝は、単に耕作者とか勤労者ということだけでなくて、一人の人間(男性・女性・夫・妻・親・子)であるという、そのことが、神によって召された存在であり、その自分の立場において、それぞれが「つとめ」を果たすことにあります。それぞれが、自分の立場の中で神に仕えているという状況の中で、今日の聖書は、すべての人に向かって、働くことの目的や意味について語っています。 /n宝を天に積む  21節に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者</span>(天に宝を積まない者)<span class="deco" style="font-weight:bold;">は、この通りだ</span>」(今夜、お前の命は取り上げられる)」とあります。つまり私達は、自分の為に富を積む(収穫する・稼ぐ)のではなく、神の前に豊かになる(=神に富を積む)ことを教えられています。  33節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の持ち物を売り払って、施しを必要としている人に施しなさい</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">尽きることのない富を天に積みなさい</span>」とあります。(「富」と訳されている語は「富」ではなく「宝」の意味。「富」は、お金や財産を思い浮かべるが、本来の意味はいろいろな「宝」と訳すべき言葉です)。これは、直接収穫したもの、お金・財産を含めて「宝」を天に積みなさいと教えています 「天に」の「天」とは、「神様の前に」「神のみもとに」ということです。  そして31節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">ただ、神の国を求めなさい</span>。」とあります。  神の国を求めることと、宝を天に積むこととはどういう関係があるのでしょうか。 /n神の国を求める 「神の国」という言葉は、キリストが福音を宣ベ伝えられた時、最初の第一声が、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい</span>」でした。神の国は、キリストがそこで支配なさる。キリストと共にそこにある。神の国を求めるとは、キリストを求めることです。キリストを離れて神の国はありません。  「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の持ち物を売り払って施しなさい</span>」との教えも、キリストに従うこと、キリストを求めることの一つです。しかし、キリストに従うことやキリストを求めることは、具体的なこと・行為だけを言っているのではありません。  まず第一にキリストを信じること。キリストを受け入れること。これが「宝を天に積む」ことの一つであるといえるでしょう。宝を天に積むとは、心の中で、あるいは気持で何かを考えるということではありません。それは、キリストが語られる場、キリストのなさったことが説かれる「礼拝」に参加する、ということになるでしょう。 /n礼拝  「神の国を求める」とはキリストを求めることであり、キリストに従うことだと申しましたが、そのキリストが語られ、キリストがなされたことが説かれるのは礼拝です。礼拝に出席し、礼拝で説かれる御言葉を聴く。もちろん、「聖書を読む」こともキリストを知る、キリストを信じることでは最も重要なことの一つであるといえます。 しかし生きた言葉でキリストにふれるということは、礼拝に出席し、礼拝で説かれる御言葉を聴くということです。そのことがキリストを求め、神の国を求めることであり、そのことが宝を天に積むことです。アメリカにおいてもドイツにおいても、収穫感謝祭は、教会の暦の中に組み込まれており、一年の歩みの中で「感謝する為の礼拝」を守っています。  礼拝に於いて、私達はキリストについて聞くわけですが、何を聴くかといえば、「キリストが私共のために、神によって遣わされて、この世界に来られた」。このことが第一に聞く言葉であり、知らされることです。キリストが遣わされたことによって、私達が神の国を求めることも可能となり、又、キリストを信じることも可能となりました。キリストは、神様から私達に与えられた最大のプレゼントであり、私達はそのプレゼントをいただくことに、神様への最大の感謝があるのです。 /n感謝のみなもと  神様がキリストをプレゼントして下さった。それを私達が受け入れた。これが収穫感謝際の、最初の、そして最終の目的であり、感謝の源であるといえるでしょう。 そういう意味で、神様が、キリストを「救い主」として遣わして下さったことによって礼拝を守っている、ということは大きな感謝です。 そしてキリストが教えておられること「神様を愛し、隣人を愛せよ。」「人にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい」を、更に具体的に、今週も私達の日常生活の中で覚え、又、キリストの教えに従うために、キリストの助けを祈ることが出来るならば、収穫感謝をさらに具体的に、形にあらわすということになるのではないかと思います。

「仕える者になりなさい」  牧師 佐藤義子

/n箴言 3:32-34 /nマタイ福音書 20:20-28    /nはじめに    日曜日を除く40日間の受難節に入って一カ月が過ぎました。この時期、イエス様の御受難を覚え、克己(自分の欲望・感情などを抑える)・修養(御言葉に養われ、人格形成に努める)・悔い改め(神様を第一にせず、自分を最優先にして生きる罪などを悔い、日々、神様に立ち帰って生きる)の時として、過ごせたらと願っています。 /n受難予告よりも思いは・・ 今日の聖書の直前には、イエス様がこれからエルサレムで十字架につけられ、殺されて三日目に復活することを12人の弟子達だけに打ち明けられたことが記されています。受難の予告は三度目です。弟子達にとっては、きびしく重い話ですが、イエス様が死なれることへの覚悟は出来たようです。しかし、弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟、そして彼らの母親は、イエス様の死について深く考えるよりも、死の先にある「神の国」に思いを向けたようです。彼らは、イエス様にある願いをするため、イエス様のところにやってきました。 /n母親の願い イエス様から「何が望みか」と聞かれ、母親は、イエス様が天の国で王座につく時、息子達を、王座の左右に座らせて欲しいと頼みました。地上では、王様の右隣には、家来の中でも一番権力がある人が座り、左には、その次に権力のある人が座ります。息子達も一緒に来たということは、彼らの願いも、母親と同じであったということでしょう。 /n「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない」  母親も二人の弟子も、イエス様が神の国で栄光を受けられる時のことに思いをふくらませ、イエス様が予告され、これから向かおうとされている十字架の死に至る道については、目をそらしているのでしょうか。 しかし、イエス様と一緒に、神の国で、その栄光の恵みにあずかろうとするならば、今、地上で、イエス様が受けられようとするする苦難を共にし、さらにその後に続く苦難をも引き受けることが求められるのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">このわたしが飲もうとしている杯を飲むことが出来るか</span>」 イエス様は、この二人の弟子に、その覚悟があるのかどうか尋ねられました。ヤコブもヨハネも、イエス様が飲もうとしてしておられる杯の中身を十分理解しないまま、自分達は飲むことが出来ると答えます。イエス様は「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。」と、イエス様の十字架後、弟子達が歩むことになる厳しい道のりを示唆します。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">誰が座るかは、私の決めることではない</span>。」 この後イエス様は、御自分は地上では弟子達の主であるけれども、しかしすべてのことは、イエス様の思い通りではなく、父である神様の御命令通りになさること、天において誰がどこに座るかなど、神様がお決めになることであると教えられました。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの間では、そうであってはならない</span>」 ヤコブとヨハネのことを聞いて他の弟子達が憤慨していることを聞いたイエス様は、弟子達一同を呼び寄せて、この地上では、上にいる人が力をもち、下にいる人達を従わせているが、「あなたがたの間では、そうであってはならない」と教えられました。他人を上から見たり、相手を無力にするような力をイエス様は退けられます。イエス様が望まれるのは、他人を高め、強めるように力を用いることです。そのために自分を他者の奉仕者とし、仕えるしもべとなることを、弟子達に求められます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしと同じように</span>」 イエス様は、この教えの見本として御自分のことを見るように言われました。神の御子・イエス様が来られたのは、弱い人、貧しい人、苦しんでいる人達の為に奉仕し、彼らが神様のもとに立ち帰って癒され、元気になることでした。そして究極の目的は、罪の鎖につながれていた人間の為、十字架上で血を流されることで、神様から「罪の赦し」をいただき、罪の鎖を断ち切って下さることでした。すべては私達の為でした。私達、信じる者の間では、仕える者、しもべになることこそが、イエス様に従う道です。 最後に、フィリピ書2:1-11をお読み致します。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。</span>」(2:3-11)