「洗礼者ヨハネの使命」 平賀真理子 伝道師

/n[マラキ書] 3章23-24節 23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 /n[マルコによる福音書] 6章14-29節 14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保/護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の素晴らしい御業の噂が広まりガリラヤの領主ヘロデ王にもその噂が届いたこと、ヘロデ王はイエス様を、自分が処刑した「洗礼者ヨハネ」の生き返りの人物として恐れたことが書かれています。 /n洗礼者ヨハネ  ヨハネはイエス様の親類であり、祭司の息子でもあり、由緒正しく、荒野で禁欲生活をしていた人物でした。ルカ福音書に「神の言葉がザカリヤの子ヨハネに降った」とありますから、ヨハネは神の言葉を託され、選ばれた「預言者」でした。約四百年間、預言者は出ていませんでしたので、久々に優れた人物を見た民衆の中には、ヨハネこそ「救い主」ではないかと期待した者もいました。しかしヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道を真っ直ぐにせよ』と。」と語り、自分は「救い主が来る前に人々の心を神様に向ける」救い主の「先駆者」にすぎないと答えています。このヨハネがイエス様に洗礼を授けた時、イエス様の上に天から聖霊が降り「これは私の愛する子。これに聞け」という神様の声がしました。ヨハネは「この方こそ神の子である」と証ししたと聖書に記されています。 /nヘロデ・アンティパス  ヘロデ大王の息子、アンティパスは、兄弟の妻を盗るという律法違反を犯しました。ヨハネは決然とこのヘロデ王を断罪しました。やましさを感じていたヘロデ王はヨハネを捕えて牢に入れ、自分の悪評を封じ込めようとします。悪は公けになるのを嫌い、隠れたがります。それでもヘロデ王は<span style="font-weight:bold;">「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお、喜んで耳を傾けて」</span>いました。 /nヘロデ王、ヨハネを殺す  しかし彼は、妻や娘の悪だくみと自分の見栄やメンツによりヨハネを殺してしまいます。「王は非常に心を痛めた」(26節)とありますから、かなり不本意な結果だったのでしょう。欲望に流されて決断の基準がない人間の愚かさが表れています。彼は、正しいと信じた預言者を殺してしまったことに自責の念を持っていました。それで、死んでしまったヨハネをその後も恐れていて、イエス様のうわさを聞いた時、洗礼者ヨハネが生き返ったと恐れたのです。 /nヨハネとイエス様の死  洗礼者ヨハネの生涯は、神の子・イエス様の生涯を予め示しています。この世の権力者が不正な方法で(とても納得できない形で)、神様が遣わした正義の人を殺す。洗礼者ヨハネは権力者ヘロデ王に、そしてイエス様ご自身も、当時の宗教指導者や政治権力者に殺されました。どちらも正しいことをきっぱりと述べたことによる、権力者側の反発からでした。 /nメシアが来る前にエリヤが来るとの預言  当時、「メシア(救い主)が来る前にエリヤが現れる」(マラキ書)と言われていました。イエス様は、<span style="font-weight:bold;">「その人はすでに来た。しかし人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子(ご自分のこと)も、そのように人々から苦しめられることになる。」</span>と言われ、それは、洗礼者ヨハネのことだと弟子たちが悟った、と、マタイ福音書にあります(17:12-13)。 こうして、すべての預言は成就していきました。 /n受難節  今は受難節です。イエス様が早い時期から、人々の罪を贖うために、苦しみの道、死の道を覚悟されていたことを覚え、人間としての罪の重さを思い、主の贖いへの感謝の思いを強くしたいと思います。神様の基準に自分を合わせずこの世の浅はかな価値観、自己中心的な考え方・・から遠ざかれるよう、祈り求めたいと思います。具体的には、この世に力を持つ「悪魔」の策略に対抗して立つことができるように、神様が与えて下さる武具(エフェソ6:10-)を身につけたいと思います。

説教要旨「命と息とすべてを与える神」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]42章5-9節 5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 /n[使徒言行録]17章16-32節 16 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。 17 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。 18 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。 19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。 20 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」 21 すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。 22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。 29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。 31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。 /nはじめに  本日の聖書は、パウロが同行者のシラスとテモテを待つ間に滞在していたアテネの町での出来事です。至る所に偶像が置かれているアテネの町に、パウロは「憤慨した」とあります。偶像とは、広辞苑によれば、木や石や、土や、金属などで作った像・信仰の対象とされるもの・神仏にかたどってつくった像とあります。パウロはここでも、恐れることなく、福音を語り、人々と語り合い、イエス・キリストを宣べ伝えました。 /nパウロ、アレオパゴスへ  パウロの時代のアテネは、かつての繁栄は過ぎ去っていましたが、まだギリシャ文化の中心地でした。人々が集まる広場には、エピクロス派の哲学者(万物は偶然によって生じ、死はあらゆるものの終結である。死後のことについてはどんな思想も受け付けない。神々は存在するが、人間からは遠く、人間には関心をもたない。快楽が人間の最終目的である。という思想)や、ストア派の哲学者(あらゆるものが神であり、あらゆるものが神の意志であるため、あらゆるものの運命が定められている。という思想)も来ていました。彼らは、パウロの話を十分理解できなかった為、キリストの福音とは何か、今後も広場で語り続けて良いかを判断する為に、アレオパゴスにある宗教・学問・習慣などを監視するアテネの議会(評議所)にパウロを連れて行きました。 /nアレオパゴスの演説  ここでのパウロの説教は「アレオパゴスの演説」として知られる有名なものです。パウロは、アテネの人々が多くの神々の為に祭壇を作り、「知られざる神」の為の祭壇まであることに触れ、彼らは信仰心厚く、宗教的努力がなされていることを認めました。しかしこのような、自分達の全く知らない神の為にも祭壇を築くという行為の背景には「恐怖」があります。自分達が知らずに見逃してしまった「神」の怒りを買わない為にも、この神の為に祭壇を築き、拝み、感謝しておく必要があると考えた彼らに、パウロは「知らずに拝んでいるものをお知らせしましょう」と語りました。 /nパウロの伝えた神  パウロはこの演説で三つのことを語りました。一つは、知られざる神とは、すべてを造られ、天も地をも支配している神であること。それゆえ、人が造った祭壇や神殿は必要ないこと。かえって全ての人に命と息とその他すべてを与えて下さる神に私達が依存していること。二つめは、神が人間に時間と空間を与えられたのは、神を求め、神を認識し、神との交わりを持つ為であること。神は遠く離れているわけでなく、すべての人間の心が神の目の前にあること。人間が動き、欲し、行動する運動など、すべては神の創造といつくしみによっていること。三つ目には、これらの偶像神は生きたものではなく、人間の考えや技によってこしらえあげられたものである。神を求めるなら、上を見上げ、生きた神を信ずべきこと。人間は神に根差しており、探し求めさえすれば神を見いだすことができるようになっていること・・を語りました。 /n救済者である主イエスのもとに立ち帰ろう  パウロは、人間は神を見いだすことが出来なかったけれども、神様はこの無知の時代を終わらせて下さり、裁きの日を定め、その日の来る前に人間の誤りを赦し、全ての人を悔い改めに招いておられることを語りました。さらに、神様は、この世を正しく裁く御子・イエス様を遣わし、十字架の死と復活を通して、罪を赦し、永遠の命の希望にあずかるように、全ての人が、世界の審判者として、又、審判における救済者として私達の前に与えられている主イエスのもとに立ち帰り、そのお方の御心にかなうことを行うように、と勧めました。 /n説教を聞いた人々の反応  パウロはアテネの人達を偶像から離れさせ、まことの神と、復活の主イエスに目を向けるよう導きました。その結果、「死者の復活」につまずいた者、信仰の決断を留保した者、そして信じた者に分かれました。アレオパゴスの説教は、今も、全世界の教会で語り続けられ、人々を主イェスのもとに招いています。ここにおられるすべての方が、不安を抱えて生きるのではなく、復活された主イェスの招きに応え、このお方を信じ、喜びに満ちて生き、終りの日を迎えられることを祈るものです。

「神の愛とわたしたちの愛」 倉松功先生(元東北学院)

/n[出エジプト記]20章1-3節、13-17節 1 神はこれらすべての言葉を告げられた。 2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 13 殺してはならない。 14 姦淫してはならない。 15 盗んではならない。 16 隣人に関して偽証してはならない。 17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」 /n[ヨハネの手紙一]4章7-12節 7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 /nはじめに  宗教改革から150年を経た1667年に、10月31日を宗教改革の記念日とすることを、ドイツとスイスとフランスのプロテスタント諸教会、及びアメリカの教会(その時点ではルーテル教会)が加わり、決めました。それは、1517年10月31日に、最初の宗教改革者(といってよい)ルターが、95ヶ条の提題(論題)を、ヴィッテンベルク城教会 の扉に掲げ、このことによって宗教改革の運動が起こったからです。この95か条の提題は二週間以内にドイツ全体に広まり、更に、ヨーロッパに広がっていきました。この提題をめぐりさまざまな論争、討論が起こり、ルター自身は四年後に当時の神聖ローマ帝国から追放されます。 ルターが95か条の提題を掲げた翌年5月、ルターが語った「神の愛と人間の愛」についての討論会での言葉を手がかりにして、今朝は、「神の愛と私達の愛」という説教題のもとで、ご一緒に聖書のメッセージを聞きたいと思います。 /n「<span style="font-weight:bold;">ここに愛があります。</span>」(10節)  先ほど読んでいただいた聖書の中に「<span style="font-weight:bold;">ここに神の愛がある</span>」という言葉がありました。「ここに神の愛がある」というのは大変な聖書のメッセージです。「ここに愛がある」。たった短い一言がここに書かれています。それは、「神は、その独り子キリストを、私達のところに遣わされた」、「そして私達の罪のいけにえとして捧げられた」、「ここに神の愛がある」と、つながります。 パウロも同じようなことを違う形で言っています。「<span style="font-weight:bold;">私達すべてのために、キリストをこの世に遣わしただけでなく、十字架にかけて死に渡された神は、御子と共に、すべてのものを私達に賜らないはずはありましょうか</span>」(ロマ書8:32)。 ヨハネの手紙では「神は、罪の償いの為に、御子をこの世に遣わして、捧げられた」といいます。パウロは、神は、キリストを遣わして、そのキリストを十字架につけて殺した。そういうことをしたわけだから全てのものを私達に下さらないはずはないと言っています。これはヨハネが言った神の愛を広く、深く言っているように思います。 ヨハネの手紙は、神の愛(アガペーといわれる神の愛)について書いた手紙です。その手紙と、「信仰のみによって救われる。義とされる」ということを中心に、キリストのメッセージを語り続けたパウロが全く同じことを言っていることで、「神の愛」と「信仰のみによって義とされる」ことが一つになっているような気がします。そういうことが聖書で語られていることを、聖書から学びたいと思います。 /n犠牲愛  ヨハネの手紙では、「キリストを十字架につけて、私共の為に、罪をつぐなういけにえとした」とあります。これは犠牲の愛です。神の愛は、独り子イエスを犠牲にする犠牲愛である、と言えるでしょう。自分の独り子を犠牲にするような犠牲愛は私共の中にはないけれども、しかし、犠牲愛は私共の中にもあるような気がします。たとえば列車のホームから人が落ち、そこに電車が走ってきた。その時に自分の死をかえりみないで線路に飛び降りて、線路に落ちた人を助けることがたまにあります。これはまさに犠牲愛と言っていいものではないかと思います。但しそのような犠牲愛は、瞬間的に人間の中に起こるかも知れませんが、いつも常にあるとは言いにくいのではないかと思います。確かに、家族の中で、友人に対して、何か自分を犠牲にする、自分が損をする犠牲愛といってよい事柄が普段にも行われているのではないかと思います。しかし私共の中で行われる犠牲愛というのは一体どういうものかということを、少し考えてみたいと思いますが、そのことを考える為に、もう一度、聖書の言葉を見てみたいと思います。 /nキリストにおいて示された神  ヨハネ福音書に「<span style="font-weight:bold;">いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。</span>」(1:18)とあります。これは先ほどの、「キリストを遣わされた。ここに神の愛がある。」ということの中で、単に十字架につけられたというだけではなく、そのキリストは、神がどういう方であるかということを、キリストの生涯、教え、そして十字架と復活という全体で私共に示されたということです。もう少し広く考えますと、キリストにおいて、神がどういう方であるかということが、神の愛だけではなく、全てが示された。そのキリストにおいて示された神は、誰も見たことのない神です。 つまり私共は、(ルターの言葉によると)「神がおられる」ということは知らなくはない。信じなくはない。あるいは、うっすらと感じる。しかし、その神がどういう神であるかということは何も知らない。まさに、人間が神について考える時には、そういうものがあるわけです。例えば哲学者が神の存在の証明などをやりますけども、恐らく誰もそれによって神が証明されたとは信じないでしょう。 「<span style="font-weight:bold;">キリストにおいて神が示された。</span>」その、神が示された(啓示)ことは絶対的なものである、ということを、私共は知ることができるのではないかと思います。「<span style="font-weight:bold;">神を見た者はまだ一人もいない。ただ・・独り子なる神だけが、神をあらわしたのである</span>」(口語訳ヨハネ福音書1:18)。そのことを、「キリストが遣わされて、キリストにおいて神の愛が示された」という中に含めて、記憶しておきたいと思います。 /n聖書・キリスト・信仰・恵み  ルターの宗教改革の特徴として「聖書のみ」「キリストのみ」「信仰のみ」あるいは、「恩寵(おんちょう)・恵みのみ」と言われます。 その「キリストを信じる」ということについて、私共は自分で「キリストを信じたいから信じる」ということは出来ません。(出来ると思う方がいるかもしれませんが、それは多分本当ではないでしょう)。最も難しいのは、信じたい時に、信じることが出来ないということです。それが、私共の困難ではないでしょうか。しかし「信仰は聞くことによる」とパウロは語っています。「聞く」というのは、説教を聞く、神の言葉を聞く。ロマ書一章では「説教」を特に念頭においていますが、しかしもっと広く考えてもよいでしょう。 /n神の言葉を聞く  神の言葉・・キリスト御自身が神の言葉です。それが聖書に記されています。「聖書はキリストがそこに横たわっているまぶねである。ゆりかごである。」とルターは言いましたが、その聖書が神の言葉です。その聖書に即して聖書が語られる。神の言葉が語られる。その言葉が肉体となられた・・これが地上のキリストです。「キリスト」・「聖書」・「聖書に則して語られる説教」。これが神の言葉の三つの姿です。この神の言葉を聞くことによって信仰が与えられるのです。しかし信仰は、聞けばすぐ分かるか、聞けばすぐ信仰として私達の中で信じるかというと、そうではないことを先ほど申し上げました。 /n恵みのはたらき  ここに神の助け、聖霊(恵み)の働きがなければなりません。この働きによって初めて私共は信じることが許される。キリストを信頼することが与えられるのです。ですから「信仰のみ」という事柄は、実は「恩寵の恵みのみ」ということと密接に関連しているのではないかと思います。信仰こそ神の恵みの最大の賜物なのです。御言葉と共に働く聖霊、神の恵みによって、私達に信仰が与えられるのです。その御言葉は、聖書に即して語られる説教という形をとるのです。 /n私達の愛  ルターは、ハイデルベルクの討論で、神の愛と私達の愛との関連について論じました。「神の愛」についてルターは、まず人間の愛との比較で語っています。「人間の愛」は見た目、感じで判断するという、大体は外から見た目、「真・善・美」で判断します。本当かどうか。美しいか醜いか。善いことか悪いことか。こういうことについて人間は見た目で判断するというのです。見るだけでなく見聞きし考える。五感を含めて、それによって価値判断をします。相手によって、その相手が自分の判断する真、善、美の価値観に合っていれば、愛するわけです。これは「対象によって起こる」とルターは言いました。私共はものを考える、ある人を見る、会う、その瞬間から価値判断をするわけです。これは人間の本質です。しかしその時、その善悪、美しいか醜いかが必ずしも真相をついているとは言えません。むしろ自分の方に曲がって理解するのです。自分にとってプラスかマイナスかが何の理屈もなしに、即刻、瞬間に、そういう枠をもって私共は理解します。ルターが言う「自分の方に曲がっている真善美」。それによってそこから愛が生まれるということは、何か真相をついている気がします。 /n神の愛  それに対して「神の愛」というのは、「対象を愛し得るように変える」というのです。人間の愛と180度違うといえます。「人間の愛」は対象によって自分が気に入るかどうかによって生じます。「神の愛」は、愛し得ない者、愛することが出来ない者ないしは愛の対象にならない者(収税人、罪人など)、悔い改めを必要とする、そういう人々に愛が注がれ、彼らを愛しうるように変える・・。これは福音書でキリストがなさったこと、その通りではないでしょうか。そこに神の愛が現れていると思います。収税人や罪人の所に行き、キリストは交わり、その人々と話をし、その人々を変えたのです。愛し得るようにキリストが人々を変えた、その「愛」は、聖書の言葉で読みましたように、キリストの十字架において、そこでもう頂点に達しているといえます。そのことによってキリストは人間の罪を赦し、義とし、清める業をしたのです。私共にはそれはなかなか理解できません。理解出来ないので聖霊の助けがなければならないというわけです。けれどもそのように、キリストの十字架は、私達の罪を赦し、義とする働きを私共にもたらしたわけです。 /n聞くことによってキリストと結びつけられる  ではどうしたら、キリストが私達の罪を赦し、私達を義とするということが私共のものとなるでしょうか。  パウロは、キリストの十字架についてコリントの手紙一の1章で語り、「<span style="font-weight:bold;">このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。</span>」(30節)という言葉で終っています。どうして「キリストが、私達の義と聖と贖いとなられた」のでしょうか。これは唯一、「キリストが神の言葉である」ということにかかっていると思います。ですから「信仰は聞くによる」と言ったのです。神の言葉を聞くことによって、私共とキリストが結び付けられる。これ以外にはないわけです。(勿論パンとぶどう酒の聖餐があります)。目に見えないけれども「言葉」というものを媒介にして、初めて「神の言葉であるキリストの言葉」が伝えられるわけです。 /n神の義  「神の義」は私達のものではありません。「神によって義とされる」というのは、「神の義」であり「神が認める義」は、神が持っています。それが私共に与えられるということが、説教によって結びつけられるということになります。私達の持っているもの全てがキリストに担われて、キリストの持っているものが私達に与えられる。私達の罪がキリストに担われて、キリストの持っている神の義が私達に与えられる。だから、「義と認められる」わけです。私達の「行為」が私達の「信仰」と認められるわけではありません。神の前に通用する義は神の義しかありません。それをキリストが持っておられる。それが私共に移される(転嫁される)。これが、キリストがなさったことです。これが、御言葉として私達に伝えられ、これが神の愛と私達の関係です。 /n自己愛からの自由  私達の愛は、自己愛から自分の方に曲がっており、それは体を持っている限り続くのです。今朝も「懺悔の祈り」をしましたが、私達は自己愛から自由であることを常に求められています。そして私達は常に礼拝を通して、神の御言葉を聞くことによって、そこから解放されるのです。それは、私共の義と聖と贖いになられたキリストに、御言葉を通して結び付けられるからです。 これが今日、私共が聞く御言葉であります。

「見えるようになる」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]29章17-24節 17 なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。 18 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。 19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。 20 暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び/災いを待ち構える者は皆、断たれる。 21 彼らは言葉をもって人を罪に定め/町の門で弁護する者を罠にかけ/正しい者を不当に押しのける。 22 それゆえ、アブラハムを贖われた主は/ヤコブの家に向かって、こう言われる。「もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない。」 23 彼はその子らと共に/民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。彼らはヤコブの聖なる者を聖とし/イスラエルの神を畏るべきものとする。 24 心の迷った者も知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。 /n[マルコによる福音書]8章22-26節 22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 /nはじめに  今日の聖書は癒しの奇跡の一つです。「耳と口の不自由な人を癒した」話(マルコ7:31~37)との共通点として挙げられることは、体の不自由な人が連れて来られ、イエス様が手を置く(触れる)ことによって癒されると信じて懇願していることです。(当時は癒す能力のある人から触ってもらうだけで、そのエネルギーが患部に移って正常な状態に回復すると思われていた。特にイエス様からは力が出て、すべての人の病気を癒していたので、群衆が何とかしてイエス様に触れようとしたとの記述が数か所ある)。更には、イエス様が救いを求めて来た人を大勢の見物人から連れ出して、一対一で癒されたことです。一対一で向き合うことで、切実に救いを求める人には神様が内面的な交流をされようと働きかけて下さることを、以前学びました。癒しの具体的な方法としても共通点があります。当時、民衆が薬としてとらえていた「つば」を患部に塗られたこと(手を置いたこと)などです。  イエス様は、純粋にその御力を信頼して来た人々を、憐みを持って癒されました。神様の御国では、救われたいと願い救いを信じる者には救いが訪れることを、「癒し」で示すことが一つの宣教だったのでしょう。 /n段階  今日の聖書では、癒しが「段階」を踏んでいます。最初の癒しの後、「見えるようになって」(24節)とありますが、これは「見上げて・顔を上げて」とも訳されます。「<span style="font-weight:bold;">何か見えるか</span>」とのイエス様の問いに、「人が見えます!」「木のようですが歩いているのが分かります!」と、癒されたことを肯定的に喜び、希望を感じているとも読み取れるこの盲人に、イエス様は二度目の癒しで「<span style="font-weight:bold;">何でも</span>(=全体的に)<span style="font-weight:bold;">はっきり見える</span>」ようにされました。遠慮深い人だったら「ぼんやり」でも十分だとして、「もう十分です」と主の前から立ち去ってしまうかもしれません。しかし苦しみを長年背負ってきた盲人に、イエス様は再度救いの手を差し伸べられました。 /n段階的成長  前回(8:14-)イエス様は、弟子達が御自分の語る言葉を悟らないので「<span style="font-weight:bold;">目があっても見えないのか</span>」と言われました。四千人に食べ物を与えた奇跡(1節-)を目の当たりにしても、弟子達はイエス様が神の御子であることについて「ぼんやり」としか分かっていませんでした。彼らが「全体的に」はっきりわかったのは復活の主に出会ってから(もしくは聖霊降臨の時)で、その御力を思い知らされたことからでしょう。  私達の信仰生活においても、イエス様への理解が段階的に成長していくということが起こります。私達は信仰者として、まだ「ぼんやり」とごく一部しか分かっていません。神様の豊かさは人智を超えた大きさです。すぐ悟ることが出来なくても、神様の御前に希望を持ち続けて信頼して立ち続けることです。それによってイエス様が、憐れみを持って 救いの手を差し伸べて下さっていることを、今日の箇所から学べます。  神様に遠慮せず、もっとよくわかりたい!と顔を上げることが許されているのが大きな恵みです。主の憐れみによって「見えるようになる(見えるように成長させていただける)のです。「受洗して救われたからそれでいい」では、「一部をぼんやり」しか見えていないのではないでしょうか。 /n「この村に入ってはいけない」(26節)  この村とはベトサイダです。ベトサイダはイエス様の奇跡を数多く見ながら悔い改めず、イエス様がお叱りになった場所です(マタイ11:20)。そのような村に、この盲人が入ることをイエス様は禁じられました。新しい一歩を踏み出すのは、不信仰の「この村」からではないのです。 /n成長し続ける  もっと見えるように、もっと聞けるように、もっと神様の福音を語れるように、もっと神様の真理を悟ることができるように、成長し続けることが私達に求められています。悪の誘惑に戻ることなく、神様の招きに従い、御前に立ち続けることで豊かな信仰の実を実らせていただけるよう、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう!

「キリストの弟子となる」 牧師 佐藤 義子

/n[ダニエル書]7章13-14節 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。 /n[マタイによる福音書] 28章16-20節 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 /nはじめに 使徒言行録には、十字架にかけられ、三日目に復活されたイエス様は、その後40日にわたって弟子達に現れたことが記されています。 今日の聖書は、その後、父なる神様のところに戻られるイエス様が、この地上における最後の御命令と約束とを弟子達に与えられた箇所です。 /n「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。」  11人の弟子達は、復活のイエス様に会ったマグダラのマリアともう一人のマリアから、ガリラヤに行くようにとのイエス様からの伝言を聞き、この山に登ってきました。そして、復活されたイエス様にお会いし、礼拝しました。しかし11人全員がイエス様の復活を、生前の約束の成就として喜びをもって礼拝したのではなく、目の前におられるイエス様にお会いしても尚、「本当にこの方が、私達が従ってきたあのイエス様なのか。本当に十字架で殺されたあのイエス様が復活されたのか」と復活という現実を受け入れられずに、疑った弟子もいたということを聖書は伝えています。  「疑う」は、ドイツ語では「一つの状態であることが出来ず、二重の状態になる」という意味から成り立つ言葉です。同じマタイ福音書に、弟子達だけで、舟で向こう岸に渡ろうとした時、舟は逆風のため波に悩まされ、夜明け頃、イエス様が湖の上を歩いて弟子達の所に来られた時のことが記されています。ペトロはイエス様だとわかった途端、イエス様に頼んで、自分も水の上を歩いてイエス様の所に向かいます。途中強い風に気付き、急に怖くなり、沈みかけて、『助けてください』と叫びました。イエス様はペトロに向かって「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と、ここに、同じ「疑う」という言葉がでてきます。「疑い」は、このようにイエス様から目を離した時に起こるのです。 /n御命令と約束 山の上で、イエス様は弟子達に重大な命令と約束をされました。命令とは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」というものです。そして約束は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」です。  弟子にする対象は「すべての民」です。例外はありません。私もあなたもその中に含まれます。 この命令の前には「だから」という言葉があります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから・・」です。つまり、全ての人をイエス様の弟子にするその目的は、イエス様が天地万物の権威を神様から授けられた方である。だから、イエス様の弟子となり、イエス様に従っていくことは、人間本来の姿であり、幸せな生き方であり、神様の御心であり、神の国の民となる道なのです。    イエス様の弟子は、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けることから始まります。バプテスマ(洗礼)を受けるということは、天地を創造された神様を信じ、神様は、私の罪を赦す為に御子イエス様をこの世に遣わしてくださったことを信じ、そして聖霊の働きを信じる信仰を公けに表わすことです。自分中心に生きる生き方を悔い改めて、神様を中心にして生きる生き方に変えることを決断することです。 /n弟子の道   キリストの弟子は、キリストの教えを守り、キリストに従う者になりたいと願います。キリストの教えの根本は神様を愛することと人を愛することです。さらに、キリストの弟子は、神様が聖であられるように私達も聖なるもの、清い者になることを願い、神様が義であられるように、私達も正しく、不義、偽りを憎む者になることを願い、そして全ての人が自分と同じキリストの弟子になることを願い、伝道の業に励みます。

 「自分の十字架を背負う」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]50章4-9節 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。 /n[ルカによる福音書]14章25-35節 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」 *はじめに 今日のルカ福音書を初めて読まれた方は、あまりにも内容がきびしくて驚かれたのではないでしょうか。キリスト教は愛の宗教といわれているのに、愛する家族も自分をも「憎む」という言葉が登場するのですから・・。 今朝は、ご一緒に、このイエス様の言葉の意味を学びたいと思います。 /n一時的か、本物か。 この、イエス様の言葉は、大勢の群衆がイエス様を慕ってついて来ていた時の言葉です。イエス様についていけば、いつでもイエス様の話を聞くことが出来、その教えは耳に心地よく響き、イエス様と一緒にいると不安や恐れからも解放されたのでしょう。 しかしイエス様は、慕って来る人達がイエス様と生死を共にするくらいの覚悟をもっているのか、次のように言われました。 「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」 /n弟子の条件 「憎む」とは、憎しみを持つことのように想像しますが、これは、「第一のものを第一にすることを妨げるすべてのもの」を「より少なく愛する」ことです。私達人間は情に弱く、ともすると優先順位を入れ替えてしまうことがあります。すなわち、イエス様に従うよりも、自分の家族、更に自分の命などを第一に考えてしまうことがあります。このことをイエス様は良くご存じでありました。それゆえに、私達がイエス様に従おうとする道を、最も強く妨げる家族や自分への執着心を自覚させて、警告されました。 /n第一のものを第一に イエス様は、第一のもの、「あなたの創り主である神様からの召命」を最優先にする覚悟が、あなたにありますか、と、ここで問うているのです。エフェソ書(5:21-)では、夫婦は互いに仕えあい、夫は妻を愛するように教えており、父親は子供を怒らせないように育てることを命じています。又、テモテ書(3章)では、教会のリーダーは自分の家庭を良く治めている者、子供達を従順な者に育てていることが条件ですから、夫婦・親子間の愛は不可欠であり、愛し合うことは根本的な戒めです。 けれども、ここで言われるのは、優先順位の第一にくるべきものは血縁ではなく、まず「イエス様に従う」ということなのです /n自分の十字架を背負ってついて来る者 「十字架を背負う」という表現は、刑場に赴く死刑囚の姿です。死刑囚として刑場に向かう者は、家庭・社会・今迄の業績・社会的信頼など、これ迄生きて来た場所から切り離され、身に付けてきた全てのものが取り外されます。   イエス様の背負われた十字架は、私を含めた全人類の罪をあがなう(身代わりになって罰を受ける)ためのものでした。 「私」の背負う十字架は、イエス様に従うために犠牲にする家族愛や自己愛、罪につながるあらゆる欲望、社会的な名誉や富など、これまで自分にとって価値のあるもの、魅力的であったすべてのものを十字架につける(捨てる)覚悟をしてイエス様についていくことです。   自分の十字架を背負ってイエス様に従って行く者には、「永遠の命」「神の国」「罪の支配から救われて新しく生きる人生」が約束されます。 /n二つの譬え話   イエス様は、この後、「塔を建てる人」の話と、「戦いに行く王様」の二つの譬え話をされて、イエス様の弟子になろうとする者は、先ず自分にその覚悟があるのかどうか、自分がこれから立ち向かわなければならないあらゆる事柄を想定し、腰を据えて考えることを命じられました。何事も、途中でやめてしまうならば、始めないほうが良いからです。 私達の「信仰告白」は、覚悟を伴っている「信仰告白」でしょうか。 私達は「死に至るまで忠実」(黙示録2:10)でありたいと願うものです。

「主イエスの権威」  伝道師 平賀真理子

民数記16:1-7 マルコ福音書11:27-33 /nはじめに  今日の新約聖書は、イエス様が過越祭のためにエルサレムに入られて、三日目の出来事です。一日目、イエス様は祭りで集まってきたイスラエル人達に救い主として大歓迎を受けました(11:1-11)。二日目は、「宮清め」(エルサレム神殿が本来なら「祈りの家」としてあるべきなのに、商売人達の儲けのために利用されているのを見て、イエス様が商売人達を追い出された)をされました。このことはイスラエル社会で最大の尊敬を受けていたユダヤ教指導者達、及び神殿の運営方針に対して間違っていると批判したことになります。 /n「何の権威で」「誰が権威を与えた?」 イエス様は宣教の初めから、権威ある者として他のユダヤ教指導者達とは違っており、ファリサイ派の人々はその凄さを悟り、自分達が生き残るには、もはやイエス様を亡き者にすべきであると動き始めました(3章)。それまで自分達の教えをありがたく受けていた一般民衆が、自分達よりもイエス様の教えや癒しを見聞きし、その力に感動して受け入れる様子が、何よりもファリサイ派の人々を嫉妬させたことでしょう。  「宮清め」の翌日、イエス様が神殿の境内を歩いておられると、ユダヤ教指導者たちが問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えているのか」。「このようなこと」とは、「宮清め」の行為自体とその後の神殿での教える行為、さらに大きくとらえると、今迄の、イエス様の宣教活動全般、更にはユダヤ教批判のことを指すと思われます。「何の権威で」「誰が権威を与えたのか」との問いは、「祭司階級でもなく、職人階級出身の『イエス』には、神に選ばれて高い身分にある自分達を超えて、現状を批判する権利はない」との非難が込められています。 /n「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」 イエス様は、この問いに答える条件として、「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」を答えるように求めました。ユダヤ教指導者達は、祭司階級にあることに誇りを持ち、その価値観に従うなら、洗礼者ヨハネこそ祭司階級の両親を持ち、救世主の道を真っすぐにする者として生きた人でした。ヨハネは、預言者達が語って来た「救世主の先駆者」として生まれる前からイスラエルの人々に期待され、生まれた後も人々に尊敬される生き方をし、水による洗礼で多くの人を悔い改めに導きました。イエス様は、ご自分を救世主だと証しした洗礼者ヨハネのことや、彼の施した洗礼のことを指導者達に思い起こさせようとされました。イエス様から問い返された指導者達は、しどろもどろになります。出身階級といい、聖書の預言と言い、彼らが頼りにする根拠そのものから、「ヨハネの洗礼は神様からきたもの」であることに思い至ったのです。 /n「分からない」 神様の約束の預言と実現としての洗礼者ヨハネ。そのヨハネが「この人こそ救世主」と証ししたのがイエス様でした。それなのに、ユダヤ教指導者達は人間的判断で、イエス様を「救世主」と認めませんでした。もしヨハネを、神様からの権威が与えられていたと認めるならば、ヨハネの証しを信じないことは、神様からの権威を信じないことになり、ひいては神様を信じないということにもなりかねません。それは、彼らの宗教的指導者の立場を否定することになります。あわてた彼らは、逆の、「人からの権威」という答を考えますが、それでは民全体の信仰とは異なり、人々からの支持を失います。彼らは「分からない」と答えました。 /nイエス様の愛による支配  イエス様は、神様の真実の前に、正直に答えようとしない宗教的指導者達との問答をこれで終りにされました。この世の権威は自分の利益や名誉を求めて他人をどこまでも押さえつけようとします。 この世の全ての権威を持っておられながら、忍耐強く、仕える愛で私達を導いて下さるイエス様に感謝を捧げます。その思いが「礼拝」という形で多くの兄弟姉妹と共に神様への賛美として献げられることも感謝です。  今週一週間、私達に起こる出来事を通して神様から何を語りかけられているか、よく知ることができるように、聖霊の助けを祈って過ごしてまいりましょう。

  「 霊の結ぶ実」   牧師  佐藤義子

/n詩編95:1-7 /nガラテヤ書5:13-26 /nはじめに 私達人間が救われる為に何が必要かと言えば、悔い改めて、イエス様を信じること以外には何もありません。「律法」は、イエス様が来られる前は必要なものでした。何が正しく何が間違っているのか、道しるべの役割をしていました。そしてそれ迄は、律法を行ないさえすれば神の国に入ることが出来ると教えられていました。しかし人間は律法を完全に守ることは出来ませんでした。安息日の規定でもわかるように、ユダヤ教指導者達は律法の精神である神を愛し、隣人を愛することを忘れて、律法の外側の形だけ守ることに一生懸命でした。その姿は、イエス様から「白く塗られた墓」(外側だけきれいにして、内側は汚い骨で満ちている:マタイ23章)と断罪されています。 /n行為でなく、信仰によって救われる 律法を守ることで人間は救われると教えられた時代は、イエス様が来られたことで終りました。というのは、イエス様が、神様と断絶していた私達人間のために命を献げて、神様との和解の道を開いて下さったからです。    それが十字架です。私達人間が神様と断絶していたのは、私達の罪のためでした。その罪を神様から赦していただくために、罪のないイエス様が、人間の罪を引き受けて十字架で血を流されました。その血によって神様は私達人間の罪を赦し、私達と神様との間に和解がもたらされたのです。  イエス様を信じる信仰・・・イエス様が神の御子であり、神から遣わされ、私達の為に犠牲となられ、それによって私達は罪が赦され、神様の世界に招き入れられ、永遠の命が与えられたことを信じる信仰、この信仰によって私達は救われたのであり、この信仰によって誰もが救われるのです。 /nまちがった信仰 パウロの伝道によって生れたガラテヤの教会に、あとからパウロに敵意を抱く指導者が入り込み、救われる為には信仰のほかに、律法に従うように、さらに、割礼も必要であると教えました。彼らはユダヤ教から改宗した人達で、ユダヤ教的な考えをそのまま持ち込んできたのです。  パウロは、この福音理解の誤解に対して徹底的に戦いました。今日の聖書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">兄弟達、あなた方は、自由を得る為に召しだされたのです</span>。」(13節)とあります。イエス・キリストを信じる信仰によって救われた人々が、今になって割礼を受けることで救いを完成させるかのように考えるならば、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私パウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります</span>」(5:2)。パウロが恐れていたのは、ガラテヤの人達が、自分達が救われたのは、イエス様の十字架で流された血によって罪が赦され、そのことを信じて、悔い改めて救われたのに、割礼が救いの条件のように(人間の行為が救いに力を与えるかのように)錯覚することでした。パウロは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です</span>」(6節)と教えます。 /n愛によって互いに仕える パウロは、生まれながらの本能に従う生き方ではなく、又、律法によって自己を律するユダヤ教的な生き方でもなく、第三の道として、イエス・キリストを信じることによって、あらゆる束縛から解放されるキリスト者の自由を教えました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私には、全てのことが許されている。しかし、すべてのことが益になって私達を造り上げるわけではない</span>」とコリント書(10章)で言っているように、今日の聖書でも、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさいと勧めます。 /n霊の結ぶ実 クリスチャンは、自分の感情に従って生きる者から、神様から送られる霊の導きに従って生きるように、根本的に変えられた者です。霊の導きに従う時、必ず実を結びます。それは「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」です。これらは律法によってではなく、苦しい修行の結果でもなく、御霊の導きに従って生きる中で、御霊の持つ力によって生れてくる実であり、結果的に律法の精神(神を愛し、隣人を愛する)をも満たしています。御声に従って歩んでいきたいと祈ります。

「再び罪を犯すな」   牧師 佐藤義子

/n 詩編51:3-21 /nヨハネ福音書8:1-11 /nはじめに イエス様はこの日、朝早くエウサレム神殿の境内に行かれると、イエス様の教えを聞きたくて人々が集まってきました。イエス様はそこに座り、教え始められました。ところが突然、律法学者達が一人の女性を連れて来て、真ん中に立たせ「この女性は、律法の中でも厳しく禁じられている姦淫を行った女性である。律法は、石打ちの刑で死刑を命じている。ところであなたはどう考えるか。」とイエス様に質問してきたのです。 /n姦淫の罪 姦淫とは夫と妻以外の男女の、不義の関係を言います。十戒でも殺人と並んで姦淫は禁止されており、レビ記に「人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあり、この前に「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。」とあります。申命記にも「姦淫の罪を犯した男女は共に石で打ち殺さねばならない」とあり、その後に「あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」と、イスラエル共同体が神様の祝福をいただく為には、神様の戒めを守ることが大前提となっておりました。 /nイエス様の教え イエス様は、姦淫が重い罪であることを否定していません。それどころか、山上の説教では「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである</span>」。イエス様は、このように、性的な領域に於いて純潔を求められておりました。 /n沈黙  イエス様は、律法学者達の質問に答えようとはされず、地面に何か書き始められました。なぜイエス様は答えようとされなかったのでしょうか。 それは、彼らの質問がイエス様を訴えるための「わな」であることをご存じだったからです。イエス様は神様の愛を語り、「罪人」と呼ばれる人達の「友」として慕われておりました。律法学者達には、このイエス様の憐れみ深い心や柔和さが、罪に対する判決を和らげてしまうという危機感がありました。もしイエス様が死刑と言えば民衆の心はイエス様から離れるし、死罪を否定するなら、律法の破壊者として告訴できます。 /n「罪を犯したことのない者が先ず・・」 返事をされないイエス様に、律法学者達はしつこく問い続けました。イエス様がついに口を開かれました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい</span>」。自分は同じ罪を犯していないから「裁く権利がある」と考えていた人々は、イエス様の一言で、年長者から順にこの場を去っていきました。自分の内面をみつめ、良心にやましさを感じて、その場にいたたまれなくなったのでしょう。 聖書には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正しい者はいない。一人もいない</span>」(ロマ3:10)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている</span>」(同:23)とあります。 /n「再び罪を犯すな」 イエス様は、姦淫の罪を憎まれ、その戒めを破った人間の弱さに対しては嘆き悲しまれたことでしょう。しかし誰も彼女を罪に定めることが出来なかったことを聞き、罪のないイエス様でしたが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない</span>。」と言われました。この言葉は、女性のこれから生きる道をまっすぐにし、悪から女性を守り、清めようとするものです。罪を犯した女性は、この言葉の前に、心からその罪を悔い改めたに違いありません。イエス様が来られたのは、裁くためではなく人々が救われるためでした(ヨハネ3:17)。神様は私達に今も呼び掛けておられます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めて、お前達の全ての背きから立ち帰れ。罪がお前達をつまずかせないようにせよ。私は誰の死をも喜ばない。お前達は立ち帰って、生きよ</span>」(エゼキエル18:30-)。

「クリスマスの意味」  牧師 佐藤義子

/n詩編116:5-11 /nマタイ11:25-30     /nはじめに   今、町ではクリスマスの飾りや音楽で賑やかですが、教会では町にはない「中身のある」クリスマスの時を過ごしています。それは、天の神様のところにおられた神の御子イエス・キリストが、この地上に人間の子として、マリアを母として誕生されたことが、神様の御計画によるものであることを知らされているからです。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">イエス様は、神でありながら人となられた</span>。 考えてみれば非常に不思議な出来事であり、まさに「奇跡」です。 /n預言の成就 しかしこの奇跡は、突然起こったわけではなく、神様は何百年も前から預言者達の口を通して、人々にメシア(救い主)誕生の予告をしておりました。人々を救う為に神様が救い主を与えられるという約束は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと、何百年という気の遠くなるような年月の間、伝え続けられ、人々はその時を待って待って待ち望んでおりました。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">そしてついに神様の時が満ちて、神の御子が人としてお生まれになったのです</span>。 /nクリスマスの意味 イエス様は、 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私のくびきを負い、私に学びなさい。」</span>と招かれます。 御子イエス様は、私達にない「平安」をもっておられます。 私達人間は、神様から遠く離れ、罪のゆえに苦しんでいます。 その私達を救い出すためにイエス様は来て下さったのです! イエス様を信じて、イエス様に従順に従い、イエス様のもとで学ぶ時、私達の全生涯は、平安で満たされるのです。