「伝道旅行を導く聖霊」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 81編6b-11節 6b わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。 7 「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。 8 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。〔セラ 9 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。 10 あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。 11 わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 /n[使徒言行録] 16章1-10節 1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 4 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。 5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。 6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。 9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。 10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。 /nはじめに  今日の聖書には二つのこと・・パウロが伝道旅行先でテモテという青年に会い、彼を助手として伝道旅行に連れて行くために割礼を授けたこと。もう一つは、パウロ達の伝道がすべて聖霊の導きによって行われたこと・・が記されています。 /nテモテへの割礼  テモテは祖母も母もユダヤ人でしたが父がギリシャ人だった為、割礼を受けていませんでした。パウロは、エルサレム会議で「異邦人には割礼を強要しない」という立場を貫き、会議でもそのように決定されたので、パウロにとってはテモテが割礼を受けていないことは何の問題もありませんでした。しかしテモテを伝道旅行に連れて行く(伝道者の一人として)に際して、ユダヤ人をつまずかせない為にテモテに割礼を授けます。  「<span style="font-weight:bold;">私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです・・</span>」(?コリント9:19-20)。と、パウロはコリント書で書いています。テモテも又、それを受けました。 そして「<span style="font-weight:bold;">教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えて</span>」いきました(5節)。 /nパウロの見た幻  二つ目の出来事は、パウロ達の伝道がすべて聖霊の導きによって行われていったということです。彼らはアジア州での宣教が「<span style="font-weight:bold;">聖霊から禁じられた</span>」(6節)とあります。今回の伝道旅行は、第一回の伝道旅行で救われた人々を再び訪問し、力づけ、励ますことが主な目的でした。祝福されるべきこの伝道の道が閉ざされたのです。そこで、別の経路を選びますが、今度はビティニア州に入ることを「<span style="font-weight:bold;">イエスの霊がそれを許さなかった</span>」 (7節)のです。なぜ自分達の進む道がこのように阻まれるのか、自分達がどこに向かっていくのかわからないまま、彼らは残された道を進んで行き、そして到着した場所がトロアスでした。  当初の伝道旅行の計画にはなかった、この海沿いのトロアスに到着した時、パウロはある幻を見ます。一人のマケドニア人が立ってパウロに助けを求めたのです。パウロは翌朝、自分の幻を同行者に伝え相談しました。そしてこの幻は「マケドニアで御言葉を伝えるように」との「主の導き」に違いないと確信したのです。  この時からパウロ達は東から西へ、小アジアからヨーロッパへ、その歩みをすすめることになりました。 /n伝道旅行を導く聖霊  伝道は、イエス・キリストのご命令であり、キリスト教の命です。もしキリスト教が伝道をやめてしまったら、それはもはやキリスト教ではないとさえいわれます。なぜなら伝えていく時に、聖霊が働き、神様のわざが起こり、信仰者が生れるからです。  私達は、祈りが聞かれ、神様のわざが起こる時に「聖霊が働いた」と告白します。しかし、行こうとする右の道が閉ざされ、さらに左の道も閉ざされた時はどうでしょうか。私達の願う計画と、現実に導かれる道とは必ずしも一致しないことは、私達も又、経験するところです。  確かなことは、その目的が御心にかなうものである限り、祈りつつ進む時、神様は必ず働いて下さり、時がくればその一つ一つの意味が明らかにされるということです。分からない時は分からないままにそれを受けて、祈りつつそれに従うこと、そして今、出来ること・与えられていることをしながら、御心が明らかになる時を待つ・・そのことの大切さをここから学びます。  私達は刺繍の裏側を見るように、目の前に起こることの意味がわからず、一喜一憂しがちです。しかし私達は、美しい模様を描かれる神様を知り、神様に知られているゆえに、神様を絶対信頼し、今週も歩みたいと願うものです。

「神の言葉と人間の言い伝え」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]29章13-16節 13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」 15 災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。 16 お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と。 /n[マルコによる福音書]7章1-23節 1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 16 *聞く耳のある者は聞きなさい。 17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 /nはじめに  今日の聖書は、当時、イスラエル社会で尊敬されていたファリサイ派と律法学者達が、イエス様の弟子達のあり方を見て、イエス様が、間違った教えを説いているとし、糾弾しようと質問したところから始まります。イエス様は彼らの質問に対して、旧約聖書の「イザヤ書」や「十戒」を取り上げながら、彼らの根本的な間違いを指摘しました。  ファリサイ派達は、自分達を「選民・イスラエル」の民として「聖さ(きよさ)」を重視する余り、宗教上の儀式だけでなく日常生活にまで細かい規定を作り、それを「昔の人の言い伝え」として人々にも守るよう求めていました。しかしイエス様は、その「言い伝え」を守っている彼らの心は、旧約聖書の精神から離れ、もはや神様の御心に従うものではなくなっていることを見抜かれ、「<span style="font-weight:bold;">あなた達は自分の言い伝えを大事にして、よくも神のおきてをないがしろにしたものである。</span>」(9節)「<span style="font-weight:bold;">あなた達は、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。</span>」(13節)と言われました。 /n「<span style="font-weight:bold;">人から出て来るものこそ、人を汚す</span>」  それから、イエス様は再び群衆を呼び寄せて、新しい「神様の言葉」を教えられました。それは「<span style="font-weight:bold;">外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。</span>」(15節)です。群衆と別れた後、弟子達はこのたとえの意味についてイエス様に尋ねました。イエス様は、人の体に入るものとは「食べ物」であり、それらは心に入らず、お腹を通って外に出されるゆえに、「食べ物は」清められる。それに対して、人から出て来るものは人を汚す。それは、人の中から、人間の心から、悪い思いが出てきて、悪い行ないを引き起こして人を汚すと教えられました(19節)。 /n清いものと汚れたもの  イスラエルの人々には、食べてよい物(清い物)と、食べてはいけない物(汚れた物)の区別が明確に規定されていました。(参照:レビ記11章)。彼らは自分を清く保つ為に、清くないものと言われるものは口にしませんでした。それに対してイエス様は、「口から入るものはどんなものでも全て外に出される。だから、食べ物によって人が汚れるということはない」と教えられ、他方、「人の中から出てくる悪い思いや、さまざまの悪徳こそが人に悪の働きをさせ、人を汚すものである」ことを教えられたのです。<悪のリストについては、ロマ書1:29-、ガラテヤ書5:19-、一テモテ書1:9-、二テモテ書3:2-など参照>。 /n私達へのメッセージ  今日の聖書に登場したファリサイ派や律法学者達と、現代の私達が陥りやすい共通点は何でしょうか? それは「信仰の形骸化」、形式主義です。日曜日の礼拝を例として考えてみましょう。  日曜日に教会に集い、礼拝を捧げる本来の目的は、創造主であり、私達に命を与え、生かして下さっている神様を賛美し、御名をほめたたえることです。一週間の歩みが守られたことを感謝し、ざんげの祈りをささげることでイエス様の贖いによって罪を赦していただいたことを確認し、更に御言葉によって神様につながっている喜び、仕える喜びを与えられ、さらには兄弟姉妹たちと共に一つにされて、真理と霊によって神様を礼拝することが許されているという喜びを実感することです。  神様を求める者にとっては、礼拝が神様との出会いの場でもあります。御言葉を通して今も生きて働いておられる神様から力をいただき、神様を知らない人々に、広く伝えていく励ましを与えられる時でもあります。  もし、形式主義に陥り「日曜日に教会(礼拝)に、行きさえすればそれで良し」と満足してしまうならば、そこには礼拝する目的が見失われ、喜びも感謝もないまま礼拝行為が形式化され、形式的な礼拝が続く時に、ファリサイ派や律法学者のように、神様の御心から遠く離れて、神様中心ではなく、勝手な理屈を並べて人間中心に、罪へと陥っていくのです。心から喜びと感謝をもって礼拝に集う為に、日々の生活を始める前に、まず神様の御声(聖書)を聴き、祈る時間と空間を持ち、又、神様を知らなかった過去の自分を思い起こし、今の自分を感謝したいと思います。

「救いのおとずれ」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]35章1-10節 1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。 2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。 3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。 4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。 /n[マタイによる福音書]9章9-13節 9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 /nはじめに  クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、なぜおめでたいのでしょうか。それはイエス様が生れた日だからです。全世界の全ての人間、過去に生れてきた人も今いる人も、これから生れて来る人も含めて、全ての人間の為に、神の御子イエス様が生まれてこられました。「クリスマスおめでとう!」「イエス様が私の為に生れて来て下さった!」と喜びつつお互いに言い合えるように、今朝の御言葉に耳を傾けたいと思います。 /n徴税人  今日の聖書には、「徴税人」が登場します。当時の社会では、住民から取り立てる税額が徴税人の裁量に委ねられていたので、過酷な課税となることが多く、徴税人は民衆からは嫌われていました。さらに徴税人はこの仕事を、ローマという異教の神々を信じる外国から請け負っていた為にユダヤの民から見れば、自分達を苦しめる売国者であり、彼らは日常的に異邦人に接している宗教的に汚れた人々でした。ユダヤの律法では、徴税人が会堂に入ることを禁じるほど、彼らは宗教的な意味では失格者でした。その徴税人であったマタイに、ある日、イエス様は声をかけられました。 /n「<span style="font-weight:bold;">わたしに従いなさい</span>」  イエス様はなぜマタイに目をとめられたのでしょうか。12節に「イエスはこれを聞いて言われた。『<span style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。</span>』」とあります。これによれば、イエス様はマタイが病人であり、医者を必要としていることを見抜かれた、ということです。この時マタイが素直にイエス様に従ったのは、自分が医者を必要としていたことを知っていたのでしょう。すなわち、満たされない思い、生きる喜びの欠如、神様との間に平和がなかったのでありましょう。もう一つはイエス様との出会いです。これ迄、彼が耳にしていたイエス様のうわさ(イエス様の愛の教え、イエス様のなさった数々のしるし、そして何よりもイエス様が弱い者、貧しい者、疎外されている者に対して分け隔てなく愛されているうわさなど)が本当であるとの確信を得たのでしょう。 /n徴税人を選ぶ  イエス様の徴税人マタイへの呼びかけは、イエス様がその人の過去を問わないということが明らかになりました。そして御命令はただ一言、「わたしに従いなさい。」です。このあとイエス様と弟子達は、多くの徴税人や罪人たちと食事を共にいたしました。このことは当時のファリサイ派の人々(人々に律法を正しく教え、従うように指導していた人々)を困惑させました。彼らの教えでは、徴税人や罪人と称されている人々を受け入れてはいけないのです。正しい者は悪人から遠ざかり、聖なる者として生きなければならないと教えられていたからです。そのような彼らにイエス様は「<span style="font-weight:bold;">神様が求めるのは、いけにえではなく憐れみである</span>」とのホセア書の言葉を学ぶように言われました。どんなに神様に奉仕をしても隣人への憐れみがなければ、神様は喜ばれないからです。 /n「<span style="font-weight:bold;">私が来たのは正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為である。</span>」  ファリサイ派の人々に対してイエス様は、ご自分がこの世界に来られた目的を話されました。イエス様は、「自分は正しい」と考えている人々の所にはおいでになりません。医者が「自分は健康だ」と言う人達を無理やり治療しないのと同じです。しかし、自分は罪ある者、自分に医者は必要であると考えている者には、イエス様は来て下さいます。 /nクリスマス  クリスマスは、イエス様が「私のため」にこの地上に来て下さった日です。私達と神様との間に平和をもたらす為に、闇から光の世界に招く為に、来て下さったイエス様を、ご一緒に心からお迎え致しましょう!

「神の守り」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]111編1-10節 1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。 2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 3 主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。 4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 9 主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 /n[使徒言行録]27章27-44節 27 十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。 28 そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。 29 船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。 30 ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、 31 パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。 32 そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。 33 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。 34 だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」 35 こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。 36 そこで、一同も元気づいて食事をした。 37 船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。 38 十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。 39 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。 40 そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。 41 ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。 42 兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、 43 百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、 44 残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。 /nはじめに  受難節の第4聖日の礼拝を、ご一緒に守れることを感謝いたします。  礼拝の中で「使徒言行録」を読み始めたのは、2009年1月からですが、今日は司会者に27章の終りまで読んでいただきました。(使徒言行録は28章まで)。  使徒言行録を読み始めた時には、読み終える時期にこのような大震災が身近に起こるなど誰も予想していませんでした。先週から27章に入り、この箇所は、パウロ達が乗った船が暴風に襲われ、難破した出来事が記されています。言い換えれば、パウロをはじめ乗船した人々が自然の猛威の中に置かれ、死をも覚悟しなければならない極限状態の中にあるということです。それゆえ、その中身は異なりますが、今、私達それぞれが置かれている状況と重ね合わせながら読む時、聖書の言葉がより身近に響いてくるように思います。 今日の聖書は、ローマに護送されるパウロの乗った船が、パウロの反対を押し切って危険な航海に乗り出した為に、案の定、暴風に巻き込まれ、幾日もの間太陽も星も見えないまま、嵐の中を漂流し、乗客は絶望の中に置かれてから二週間たった時の話です。 /n「あの人達がいなければ、あなたたちは助からない」  真夜中に、船員が水の深さを測ると36mあり、更に進んで測ると27mと浅くなっていました。明らかに陸に近づいている兆候です。そこで、船が暗礁に乗り上げるのを防ぐ為に、船の後ろにいかりを降ろしたのですが、船員達はそれに乗じて自分達だけ逃げようと小舟を海に降ろしました。真夜中にもかかわらず、パウロは船員達の仕事を見守っていたのでしょうか。すぐにこのことを隊長と兵士に知らせました。今、船員がいなくなれば、残された人達は助かる見込みはありません。知らせを受けた兵士達は、船員が逃げていかないよう、小舟の綱を断ち切り、小舟を流してしまいました。そしてひたすら夜が明けるのを待ちました。 /n信仰者とそうでない者  第二コリント書に「私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)。とあります。  信仰がなければ、見える状況が絶望的であれば、絶望するしかありません。しかし信仰があれば、見える状況がたとえ絶望的であったとしても、「私達は四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。・・イエスの命が現れるために。」(同4:8)とある通りです。  276人の乗客乗員は、絶望の中で食欲もなく、二週間、何も食べていませんでした。パウロは彼らを励まし、生き延びる為に食べるように勧めました。そして、自分は必ず皇帝の前に立つという使命があって、神がそれをさせて下さるから、一緒にいるあなた達も必ず守られると語り、パンを取って神様に感謝の祈りを献げ、パンを裂いて食べ始めました。そこで人々も元気づいて、二週間ぶりに食事をとることが出来たのです。 /n神の守り  朝になり、陸地を目の前にしたものの、船は浅瀬にぶつかり乗り上げて動かなくなり、激しい波によって船が壊れ始めました。そのため兵士は囚人を殺そうとしました。囚人を逃がせば、兵士は代わりに囚人と同じ刑を受けねばならないからです。パウロにとって最後まで死の危険が伴っていたのです。しかし百人隊長はパウロの命を守ろうと、兵士達の計画を思いとどまらせました。そして全員、泳いで陸に上がることができました。この百人隊長の「パウロを『助けたい』」と思ったのも、全員が『無事』であったのも、28:1の『助かった』のも、すべて同じ原語で「救う」という意味の言葉です。  27章は、「神様によって救われた」キリスト者の証しの記録です。そして、それを読むわたし達も、この震災の中を神様によって救われた者たちです。

「賛美を忘れた九人」   牧師 佐藤義子

/n[詩編]22編25-30節 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。 /n[ルカによる福音書]17章11-19節 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がエルサレムに向かう旅の途中の出来事です。場所はサマリヤとガリラヤの間、丁度境界線のあたりにある村のようです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人が敵対関係にあったことは知られていますが、今日、登場する重い皮膚病(初めの訳ではらい病)の、十人の中に、一人のサマリヤ人がいたということから、病で苦しむ者にとっては民族の対立を超えて、いやしのために、一緒にイエス様に助けを求めたと思われます。 /n重い皮膚病 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭をおおい、『私は汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は、独りで宿営の外に住まねばならない」とレビ記にあります(13:45)。 この病は、皮膚および皮下神経が犯されて奇形を起こし外観も醜くなり皮膚の感覚もなくなる為、当時、「神に打たれてなる病」と考えられました。彼らは「罪ある者、汚れた者」とみなされ、肉体的な苦痛のみならず、精神的にも耐えなければなりませんでした。 /n「祭司たちの所へ行って、体を見せなさい。」(14節)  イエス様に遠くから「憐れんで下さい」と呼ばわった十人に、イエス様は、祭司のもとに行くよう言われました。レビ記14章に、この病が治った時にするべきことは、まず祭司に体を見せて、確かに治っていると判断されれば、清めの儀式を受けることが定められていました。祭司の所に行くのは、この病が治った人達です。ところが彼らは大声でイエス様に癒してほしいとお願いしただけです。それにもかかわらず、イエス様は彼らに、祭司の所に行くようにと指示されたのです。   彼らはその言葉に従いました。彼らはイエス様を全面的に信頼し、言われた通りに祭司の所に向かったのです。その途中で奇跡が起き、彼らは全員癒されました。あれほど苦しんできた病が癒されるという出来事が、彼らの人生の中で起こったのです。天にも昇る心地だったでしょう。苦しみが強ければ強いほど、喜びも又、大きいものです。 /n賛美と感謝 その直後、一人のサマリヤ人が、自分に起こった神様のわざを大声で賛美しながら、その神様の御業へと導いて下さったイエス様に感謝をささげるために戻って来ました。戻ったのは、彼、一人だけでした。 イエス様は言われました、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(17節-) イエス様の失望と落胆は大きかったに違いありません。 /n戻らなかった九人  九人のユダヤ人は、サマリヤ人が戻るのを見ても、「彼はユダヤ人でないのに癒してもらったのだから当然」と見過ごしたのでしょう。自分達(選民)は、このような恵みを受けるのは当然と思い上がり、癒される前の自分がどんなにみじめで辛い日々をすごしてきたのか、どれほどイエス様の癒しを待ちわびていたのか忘れたのです。忘れてならないイエス様の恵みに対する感謝も、この奇跡を起こされた神様の業への賛美も忘れ、自分に夢中で(一刻も早く社会復帰へ!)、自己を優先させました。 /n「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)   賛美と感謝を忘れなかったサマリア人は、イエス様の救いが肉体だけにとどまらず、精神、その心を含めたすべての救いにまで及びました。この救いは神の国に入り、神の民とされたことを意味します。 神様を知っていながら「私は運が良い!」「ラッキー!」という言葉で神様の恵みを終らせるなら、それは神様の恵みを無駄にした九人と同じです。私達は優先順位を間違えず、先ず賛美と感謝から始めましょう。

  「救いの時、信仰の実」     伝道師 平賀真理子

/n[ミカ書]7章1-2節 悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。 主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。 /n[マルコによる福音書]11章12-25節 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 /nはじめに 私たち人間は、自分の無力さを知った時、無条件に「そこから救われたい!」と思います。魂は、神様が造られた本来の平安な世界を知っているのかもしれません。人は困った時にのみ神様を思い出し、「救って下さい」と祈ります。神様は、そんな罪深い人間を救う為に、まずイスラエル民族を選び出し、常に「救いの手」を差し伸べてこられました。それがこの厚い旧約聖書に証しされています。ところがイスラエル民族は神様に対して不従順を繰り返してきました。それでも神様は人間を愛するがゆえに、全人類を罪から救う為、御子イエス様をこの世に送って下さいました。イエス様の宣教活動中に、イエス様への信仰を表した人々は救われました。 /n最後の一週間 イエス様のご生涯の最後の一週間は、神様の「救いの時」の恵みが豊かに示されています。今日の聖書は、二日目と三日目の早朝の出来事です。イエス様一行は、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実を求めて近寄りましたが葉の他、何もありませんでした(季節ではなかった)。「いちじく」は聖書の中で度々取り上げられます。特にホセア書では、神様がイスラエル民族を、ご自分の民として見出した喜びを「いちじくの・・初なりのように見た」(口語訳9:10)と表現されています。他の民族に先駆けて、イスラエル民族を一番に愛されたことを言われたのでしょう。いちじくは年二回実を結びます。早春に緑色のこぶがつき(初なりの実)、それが成熟しつつある間に第二のつぼみが出て、秋口においしい果実がなるそうです。神様は、「いちじくの初なりの実」を、選民イスラエルに求められたのです。 /nイエス様といちじく イエス様もイスラエル民族に、「初なりの実」を期待されたのでしょう。「空腹を覚えられた」は「切望した」の意味があります。選民イスラエルに、「イエス様をメシアと信じる信仰の実」を示すことを切望されたと理解できます。しかし今、メシア(イエス様)が神の都エルサレムに来ている時に、「信仰の実」を示すことが出来なかったことを、「葉の他は何もなかった」と表現しているようです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)は「救いの時」をわきまえられなかった選民イスラエルは、もはや選びから外されたとの嘆きでしょう。 /n宮清め その後、エルサレム神殿に入られたイエス様一行は、境内で、神様に献げる犠牲(動物や鳩)の売り買い、両替などの商売人達が神殿に敬意を払わず、我が物顔して商売しているのをご覧になり、旧約聖書を引用して非難されました。神殿は、まず神様と人間の心の交流(礼拝)を行う聖なる場所であるゆえに、イエス様は、一切の商売を止めさせました。 /n枯れたいちじく  翌朝早く一行は再び「いちじくの木」を見ましたが、根元から枯れていました。このことは、神様の救いの時に信仰の実を示さなかった者の行く末が「滅び」であることを示しているように思います。或いは逆に、こうも言えるでしょう。「御言葉や御心」に従って進まれるイエス様の、この世に打ち立てた主権こそが、本当に凄いものである、と。その主権の大きさについてイエス様は、神様の力を少しも疑わず信じることが出来れば「信仰によって山を動かす」ことも可能であると証ししています。 /n信仰の実をささげる 御子イエス様の到来によって全ての民に啓示された福音を、私達は聞き信じる幸いを与えられています。今や「神殿」とはエルサレム神殿ではなく私達自身のことです(「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(?コリ3:16)。 長年待ち続けた「救い」の時が到来しています。今こそ神様への応答として「信仰の実」を献げられるよう「救い」を受け取りましょう。

「光の子として歩む」   牧師 佐藤 義子

/n詩編 18:26-35  /nエフェソ書5:6-14 /n はじめに  キリスト者とは、「イエス様を、神の子・救い主と信じる者」です。 以前は、そのような信仰を与えられていなかった者が、神様に出会い神様から信仰が与えられ、神様を信じて従って行く決断をして、バプテスマを受けてクリスチャンになった者です。今日の新約聖書のエフェソ書5章を開くと、右頁下段に、「古い生き方を捨てる」との小見出しがあり、左頁上段には「新しい生き方」とあります。ここから、クリスチャンとは「古い生き方を捨てて、新しい生き方へと変えられた者」だとわかります。 /n 私達は神に愛されている子供 5章1節で、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と呼びかけています。私達は神様から愛されている子供です。なぜなら神様は、私達に愛する独り子イエス様を下さったからです。 もしもイエス様がおられなかったら、私達は神様から罪を赦されないまま、祈ることも出来ない関係が続いていたでしょう。しかし神様は私達を愛して下さっていた。だからイエス様を下さったのです。そしてイエス様は、私達の罪が赦される為に十字架で血を流されました。私達の罪はあがなわれ、信じる者は神の子とされ、「天のお父様」と祈る道が開かれたのです。 /n 神に倣う者となりなさい 神様は、たとえ私達がどのような者であっても、全くの無条件で、信じる者を神の子とされました。「神に倣う者」とは、神の子としてふさわしくありたいと願うことであり、イエス様に倣うということでもあります。イエス様は私達の為に、ご自身を捧げて下さったから、私達もそれに倣い、愛によって歩むようにと聖書は勧めています。 /n 今は光となっている 8節に、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とあります。クリスチャンは「光」とされました。神様が光であるから、御子イエス様は、光としてこの地上に来られ、そして、信じる者は「光の子」とされ、神様に愛されている子供です。   光でない者は闇です。人は、光か、闇か、どちらかであり、中間はありません。そして、光は実を結び、暗闇は永久に不毛です。 /n 光から生じるもの   9節に、「光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです」と記されています。あらゆる奉仕に働く善き意志、悪から遠ざかる正義、偽善を拒む真実が、光から生れます。光は、多くの実を育てて成熟させます。ガラテヤ書では、光から生れるものを「霊の実」と表現して、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を挙げています。 キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったと説明します。十字架につけたということは死んだということです。死んだ肉欲の働きとして、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、このたぐい」を挙げています。これらは暗闇であり、何も生み出さない「不毛」だということが良くわかります。   /n 光の子として歩む 真っ暗な部屋に一筋の光が入った途端、暗闇は逃げて行きます。私達クリスチャンは光ですから、闇とは共存できません。 14節には「眠りについている者、起きよ」と呼びかけています。眠っている人は、眠っていることを自覚できません。自分が眠っていることを知るのは目覚めた瞬間です。 目覚めて闇から救われたキリスト者は、聖霊の導きをいただいて、光の子として歩んでいきましょう!

「永遠の命に至る水」  牧師 佐藤義子

/n詩編84:2-8 /nヨハネ福音書4:7-15          /nはじめに 週報の右上にありますように、本日の礼拝がこの伝道所において500回目に当たることを覚えて神様に感謝致します。第一回目の礼拝は、2002年12月1日でした。それから毎週日曜日、休むことなく礼拝が守られてきたことは、ただただ神様の恵みと導きによるものです。この礼拝を通して、一人でも多くの方々が神様と出会い、「永遠の命に至る水を飲む」者とされますよう祈り願いつつ、歩み続けていきたいと思います。 /nユダヤ人とサマリヤ人 今日の聖書は「イエス様とサマリヤの女」の前半部分です。イエス様は、ユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、ファリサイ派の人達との無用の論争を避ける為に、ユダヤを離れてガリラヤに向かわれました。 ユダヤからガリラヤに行く近道は、サマリヤを通る道でした(約三日の道のり)。しかしユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。祖先は同じイスラエル民族でありながら、王国が南北に分裂し歴史の違いもあって、北のサマリヤ人は異民族との混血がすすみ、信仰も異教徒の影響を受けて変質しました。一方、南のユダヤ人は、バビロン捕囚の生活を余儀なくされますが、混血を避け、信仰もエルサレム神殿への思いを貫き、ユダヤ人としての誇りをもって伝統を重んじ、信仰生活を歩み続けていました。ユダヤ人から見れば、サマリヤに住む人々はもう異邦人と同じで、軽蔑の対象でもあり口を聞くことはありませんでした。旅の時も、ユダヤ人はサマリヤを避けて、ヨルダン川を渡る迂回路(二倍かかる)を選ぶことも多かったようです。しかしイエス様と弟子達は、シカルというサマリヤの町に入られました。 /nサマリヤ人の女性 イエス様は旅に疲れて、昔、族長ヤコブが掘ったという井戸の傍に座られました。時は暑いお昼、弟子達は食料を買いに出かけていました。そこにサマリヤ人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。ここで聖書は私達に驚くべき出来事を伝えます。 イエス様がサマリヤ人の女性に声をかけた、しかも「水を飲ませて下さい」と頼んだという出来事です。当時おおやけでの男女間の会話も、ましてユダヤ人とサマリヤ人との会話もあり得ないことでした。女性は、相手が自分達を嫌い、軽蔑しているユダヤ人の男性と見て驚き「どうして私に頼むのですか」と聞き返します。女性は、目の前の水を求める旅人の、のどの渇きに目を向けず、これまでの民族間の敵対関係に目を向けて、「なぜ?」と聞き返しているのです。この女性の応答の中に、私達は人間の持つ「罪」を見ます。イエス様はご自分の疲れやのどの渇きを優先させず、この女性の「魂の渇き」を見抜かれて、女性をその渇きから救うことを優先されました。   /n永遠の命に至る水 イエス様は女性に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の賜物のことを知っていたら</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが、私が誰であるか知っていたら</span>」(10節)、<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの方から私に水を下さいというでしょう</span>」と言われました。「神の賜物」も「私」も、イエス様のことです。誰でもイエス様を知るならば、私達の方からイエス様に願い出て、「水を下さい」と頼むようになります。なぜなら、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。</span>」(14節)からです。 しかし、イエス様から水をいただく前に、私達は、先ず、自分自身のことを知らなければなりません。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である</span>」(ルカ5:31)からです。自分の心・精神・生き方には問題はないと自負する人は、自分の魂の渇きに気付かない人です。しかし自分自身の中に欠けている部分を見出し、自分の魂に満ち足りた思いがないことを知る者は、その欠けた部分を満たして下さるお方がいると知れば、喜んでその方のもとにやって来るでしょう。イエス様は、サマリヤの女性が人目をさけて、炎天下に水を汲みに来なければならない現実を明らかにされていかれます。 聖書は、イエス様こそ魂の飢え渇きを癒して下さるお方であると宣言します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。</span>」(ヨハネ7:37) /n詩編84:2-8 /nヨハネ福音書4:7-15          /nはじめに 週報の右上にありますように、本日の礼拝がこの伝道所において500回目に当たることを覚えて神様に感謝致します。第一回目の礼拝は、2002年12月1日でした。それから毎週日曜日、休むことなく礼拝が守られてきたことは、ただただ神様の恵みと導きによるものです。この礼拝を通して、一人でも多くの方々が神様と出会い、「永遠の命に至る水を飲む」者とされますよう祈り願いつつ、歩み続けていきたいと思います。 /nユダヤ人とサマリヤ人 今日の聖書は「イエス様とサマリヤの女」の前半部分です。イエス様は、ユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、ファリサイ派の人達との無用の論争を避ける為に、ユダヤを離れてガリラヤに向かわれました。 ユダヤからガリラヤに行く近道は、サマリヤを通る道でした(約三日の道のり)。しかしユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。祖先は同じイスラエル民族でありながら、王国が南北に分裂し歴史の違いもあって、北のサマリヤ人は異民族との混血がすすみ、信仰も異教徒の影響を受けて変質しました。一方、南のユダヤ人は、バビロン捕囚の生活を余儀なくされますが、混血を避け、信仰もエルサレム神殿への思いを貫き、ユダヤ人としての誇りをもって伝統を重んじ、信仰生活を歩み続けていました。ユダヤ人から見れば、サマリヤに住む人々はもう異邦人と同じで、軽蔑の対象でもあり口を聞くことはありませんでした。旅の時も、ユダヤ人はサマリヤを避けて、ヨルダン川を渡る迂回路(二倍かかる)を選ぶことも多かったようです。しかしイエス様と弟子達は、シカルというサマリヤの町に入られました。 /nサマリヤ人の女性 イエス様は旅に疲れて、昔、族長ヤコブが掘ったという井戸の傍に座られました。時は暑いお昼、弟子達は食料を買いに出かけていました。そこにサマリヤ人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。ここで聖書は私達に驚くべき出来事を伝えます。 イエス様がサマリヤ人の女性に声をかけた、しかも「水を飲ませて下さい」と頼んだという出来事です。当時おおやけでの男女間の会話も、ましてユダヤ人とサマリヤ人との会話もあり得ないことでした。女性は、相手が自分達を嫌い、軽蔑しているユダヤ人の男性と見て驚き「どうして私に頼むのですか」と聞き返します。女性は、目の前の水を求める旅人の、のどの渇きに目を向けず、これまでの民族間の敵対関係に目を向けて、「なぜ?」と聞き返しているのです。この女性の応答の中に、私達は人間の持つ「罪」を見ます。イエス様はご自分の疲れやのどの渇きを優先させず、この女性の「魂の渇き」を見抜かれて、女性をその渇きから救うことを優先されました。   /n永遠の命に至る水 イエス様は女性に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の賜物のことを知っていたら</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが、私が誰であるか知っていたら</span>」(10節)、<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの方から私に水を下さいというでしょう</span>」と言われました。「神の賜物」も「私」も、イエス様のことです。誰でもイエス様を知るならば、私達の方からイエス様に願い出て、「水を下さい」と頼むようになります。なぜなら、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。</span>」(14節)からです。 しかし、イエス様から水をいただく前に、私達は、先ず、自分自身のことを知らなければなりません。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である</span>」(ルカ5:31)からです。自分の心・精神・生き方には問題はないと自負する人は、自分の魂の渇きに気付かない人です。しかし自分自身の中に欠けている部分を見出し、自分の魂に満ち足りた思いがないことを知る者は、その欠けた部分を満たして下さるお方がいると知れば、喜んでその方のもとにやって来るでしょう。イエス様は、サマリヤの女性が人目をさけて、炎天下に水を汲みに来なければならない現実を明らかにされていかれます。 聖書は、イエス様こそ魂の飢え渇きを癒して下さるお方であると宣言します。   「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。</span>」(ヨハネ7:37)

「神の栄光を見る」  牧師 佐藤 義子 

/nエレミヤ書 1:4-10 /nヨハネによる福音書 11:28-44 /nはじめに  日本キリスト教団では、10月第二日曜日を「神学校日」「伝道献身者奨励日」と定め、神様の御用の為に自分の生涯を献げることを奨め励まし、又、神学校を覚えて祈り、献金を通して支える日でもあります。私達の伝道所では四年前、遠藤兄が献身されました。現在、卒業論文を終えて、来春伝道者として新しい一歩を踏み出す予定です。   伝道者として生涯を神様に献げる、との献身の思いがどのように与えられるのか、100人いれば100通りの献身の姿があります。本日読んだエレミヤ書では、神様が、母の胎内に入る前からエレミヤを預言者として選び出していたと伝えています。その召命に対して、エレミヤは「私は若者にすぎない。私は語る言葉を持たない」と断わりました。神様はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを誰の所へ遣わそうとも、行って私が命じることを全て語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて必ず救い出す」と約束されました。   預言者エレミヤの生涯は大変苦労の多いものでした。エレミヤは、次のように告白しています「私は一日中、笑い者にされ人が皆、私をあざけります。主の言葉のゆえに、私は一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、私の心の中 骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして 私は疲れ果てました。私の負けです。」(20章)。  私の母教会の牧師(大谷賢二師)も、戦中・戦後の伝道生活の中で警察から目をつけられたり、暴力団からのいやがらせが多くあったそうです。その地域は、多くの伝道者が伝道をあきらめて撤退した地域と聞きました。大谷師は多くの困難に耐えて、ついに毎週100人以上で礼拝をささげるまでになりました。勿論、神様の御業が働いた結果です。 伝道者が困難を乗り越えられるのは、神様が共にいて下さり、助けて下さり、無価値な自分を用いて下さることの光栄と喜びがあるからといえるでしょう。今日の日を覚えて、伝道者が多く起こされるよう祈っていただければ幸いです。 /nラザロの復活  イエス様がマルタとマリアのところに到着した時には、ラザロは既に墓に葬られ4日もたっておりました。イエス様が来られたことを聞いたマルタはすぐ村の入り口まで迎えに行き、そこでイエス様から「ラザロは復活する」と聞かされます。マルタは、復活は終末の時のことだと理解します。それに対してイエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われました。 /n「私を信じる者は、死んでも生きる」 イエス様のこの言葉はわかりにくいのですが、その理由として私達は「今、自分は生きている」と考えているからです。私達は肉体的に生き、呼吸していれば「生きている」と考えますが、イエス様は違います。 私達が神様から遠く離れて生きている状態は「死んで」おり、その死んだ状態の人間を、「生きた」状態に回復させる為にイエス様が来られたのです。人間は生まれながら罪の中にあり、神様から離れた死の状態にあるので、そこからよみがえらなければ命はなく、イエス様が命の始まりであることを教えています。 /n「信じるなら神の栄光が見られる」   イエス様がラザロの墓の石を取り除けるように言った時、マルタは、遺体の死臭を気にしました。しかしイエス様は、「もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、石がのけられると、まず天を仰いで神様に感謝の祈りを捧げました。 祈りの後に、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれるとラザロは生き返り、墓から出て来たのです。これがラザロの復活の出来事、奇跡です。この奇跡が神様の栄光を表わしています。ここには、神様の力が現れ出ることに よって、神様が崇められ、神様の御名が称えられます。イエス様はこれらすべてのことを神様に願い、神様が聞き届けられることを確信して、この奇跡を通して、信じる者に神様の栄光を見させられたのでした。

 「立派な信仰」   牧師 佐藤義子

/n詩編103:6-13 /nマタイ福音書15:21-28           /nはじめに     今日の聖書の前半には、ユダヤ教指導者達が首都エルサレムからやって来て、イエス様の弟子達が「昔の人の言い伝え」を破り、食事の前に手を洗わないことを非難したことが記されており、今日の箇所は、そのようなことがあった後の出来事です。イエス様は、ゲネサレトを出発しティルスとシドンの地方へ行かれました。ここは、地中海に面したフェニキア地方にありユダヤの国境の外側にあります。イエス様がこの異邦人の住む地域に足を向けられたのは、日毎に高まる宗教指導者達からの非難や論争、又、救いと癒しを求めて休みなくイエス様のもとを訪れる群衆達への、愛の業から一時期離れて、弟子達と共に静かな時を求められたのかもしれません。 /n「私を憐れんで下さい」  ところがこの地方に来た時、イエス様は「主よ、ダビデの子よ!」と、その地に生まれたカナン人の女性に呼び掛けられました。「ダビデの子」とは、救い主はダビデの子孫から生まれるとの信仰により、救い主・メシアを意味する言葉です。この女性は長い間、娘の病気で苦しんできましたので、異邦人でありながら、イエス様の噂を聞いて、「自分達の苦しみを取り除いて下さる方はこの方しかいない」と強く確信したのでしょう。女性はイエス様に向かって、「私を憐れんで下さい」と叫び続けました。 /n「イエスは何もお答えにならなかった。」(23節)  女性はイエス様達一行から離れようとせず、叫びながらついてきます。これに困った弟子達がイエス様に解決を求めますと、イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。</span>」と答えられました。「失われた羊」とは、旧約聖書(エゼキエル書34章)が背景にあり「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は自分の羊を探す。私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする</span>。」(12節・16節)、イスラエルの民が信仰を失い、さまよう姿をあらわしています。 /n「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」 神様は、「御自分の民」として選んだイスラエルの民を救い出す為に、イエス様を地上に送り、神様のもとに立ち帰らせようとされました。イエス様の救いは「イスラエルの民」に限定して、そこに集中されました。しかしカナンの女性は大胆にも、今度はイエス様の前にひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と訴えました。イエス様は、女性の願いを聞き入れることは出来ない理由を、「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」と説明されました。子供達とは選民イスラエルのことです。小犬とは異邦人(カナンの女性)のことです。すなわち、子供の食事が犬の食事よりも優先されるように、イスラエルの民が優先されるのは、神様が定められた救いの秩序だと言われます。 /n「主よ、ごもっともです。しかし・・子犬もパン屑はいただくのです。」 「子犬もパン屑はいただく」との女性の応答に、イエス様は「あなたの信仰は立派(大きい・偉大だ・見上げたもの)だ。」と、大変喜ばれました。それは、女性がイエス様の言葉をすべて正しいと受け入れた上で、もし子供も食べて満腹し、その子供が落としたパン屑を子犬が食べて満腹するのであれば、それは、神様の定めた秩序に反することでもなく、又、イエス様の使命を妨げることにもならない、と信じたことです。    この女性は、ユダヤ教指導者達にはないイエス様への純粋な信仰と、イエス様の沈黙にも耐えた、(助けてほしいとの)強い、真剣な願い、そして、救いの御計画の秩序を受け入れながらも神様の恵みの大きさを信じる信仰がありました。私達も、神様を絶対とし、自分の分をわきまえながら、日々働いて下さる神様の大きな恵みを信じて歩んでいきたいと願うものです。