12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!

12月16日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 平賀真理子牧師

イザヤ書7:14  ルカ福音書1:26-38

 *はじめに

 前回、洗礼者ヨハネは、救い主イエス様の先を歩み、「主のために荒れ野に道を備える者(イザヤ40:3)」として、最初から、神様の御計画の重要な一部だったことをお話ししました。このヨハネの父親であるザカリアに対して、息子の誕生を予告したのが、天使ガブリエルでした。

 

 *天使ガブリエルが、イエス様の母親となるマリアへ受胎告知する

その同じ天使ガブリエルが、私達の主イエス様がお生まれになることを、イエス様の母親として選ばれたマリアの所へ受胎告知に来ました。

 

 *洗礼者ヨハネの場合は父親へ、救い主イエス様の場合は母親への告知

洗礼者ヨハネの場合は、お告げを受けたのは、父親ザカリアだとルカによる福音書は記しています。ところが、救い主イエス様の時には、母親として選ばれたマリアがお告げを受けました。一方は父親に、もう一方は母親に、それはなぜでしょうか。

正解は神様だけが御存じですが、それでも想像してみたいと思います。私は四つ想像しました。一つめは「本当の父親の違い」、二つめは「低くされた者を高くするという神様の御心」、三つめは「予想される結果の違い」、四つめは「イエス様を巡る役割の違い」です。

 

 *本当の父親の違い

洗礼者ヨハネの父親は「祭司ザカリア」、つまり、人間です。ところが、イエス様の父親は、本当の神様です。その御方がイエス様をこの世に送るのことをお決めになったのです。だから、その直接の受け手である人間としての母親に選ばれたマリアに、まず告知される必要があったということでしょう。もちろん、この世における父親の役割を引き受けるヨセフも重要な存在です。救い主が生まれるのは、ダビデ王の子孫からという預言がよく知られていました。神様は、この預言を守るために、つまり、民の期待に添うために、マリアの産む子がダビデ王の血統のヨセフの子供とされることを重んじて、実現してくださったのです。

 

 *低くされた者を高くする神様の御心

洗礼者ヨハネの父親ザカリアは祭司であり、当時の社会では最も尊敬される階級でしたし、天使のお告げの時は都にあるエルサレム神殿で一世一代の重要な任務を遂行中で、人間界において最高の立場にいました。一方、イエス様の母マリアは、田舎のガリラヤの一介の年若い女性です。人間的に言えば、重んじられるのはザカリア、軽く見られるのはマリアです。しかし、ザカリアの息子ヨハネは決して救い主ではなく、その露払いとでもいうべき存在です。マリアの息子として生まれるイエス様こそ救い主です。人間界で低くされた者と高くされた者が、神様の御前においては逆になる、本当の神様の御心はそのような御性質をお持ちです。高くされて傲慢になっている人間の心は、神様の御心に合わないのであり、低くされた者の謙遜をこそ、神様は愛されるのです。

 

 *予想される結果の違い

ザカリアの場合、息子の誕生は長年の願いが叶うことであり、ザカリア夫婦や周囲の人々も喜んで受け入れられることです。一方、マリアの方は、婚約中であるとは言え、夫婦生活に入っていないのに身ごもるのは、婚約者や周りに姦通を疑われ、死罪も覚悟せねばなりません。だから、マリアが自分の判断では妊娠するはずがないと言って、天使の言葉を一旦否定するように答えたのに、ザカリアとは異なり、彼女は罰せられず、天使は「それは聖霊(神の霊)の業だ」と丁寧に説明を重ねます。

 

 *イエス様を巡るザカリアとマリアの役割の違い

洗礼者ヨハネは「イエス・キリスト」に対して、人々の心を霊的に準備(悔い改め)させ、また、イエス様が「救い主」としての公生涯を始める時の儀式である洗礼を授けるという重要な任務を課せられていました。つまり、イエス様のこの世における霊的準備を担う存在です。ザカリアはそのヨハネの生育を担ったわけで、イエス様に対しては間接的です。一方、マリアは聖霊を受けて胎内に「神の御子」を宿し、この世での人間という肉体を取らせて生育するという直接的な存在です。だから、母マリアの方に天使が告知したことをルカ福音書は強調したと推測されます。イエス様の母親に選ばれたマリアの「(主の)お言葉どおり、この身になりますように(38節)」という全き従順さを私達は目標にしたいものです。

12月9日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 平賀真理子牧師

マラキ書3:19-24  ルカ福音書1:5-25

 *はじめに

 先週の主日から待降節(アドベント)に入っています。今年のアドベントとクリスマスの時期に与えられたのは、ルカによる福音書の中のイエス様の御降誕に関わる箇所です。この福音書の特徴の一つに挙げられることは、イエス様の御降誕だけではなく、救い主の道を整えるために先を歩む者として用いられた「洗礼者ヨハネ」の誕生についても大変詳しく記されていることです。

 

 *最高の預言者エリヤの再来としての「洗礼者ヨハネ」

救い主をこの世に送るという神様の約束が、預言者を通してイスラエル民族に与えられていましたが、預言者マラキは、主の御降誕の前に「預言者エリヤを遣わす」と告げていたことが、旧約聖書マラキ書3章23節に書かれています。預言者エリヤは、数々いた預言者の中でも最高に力のあった預言者としてイスラエルの民に尊敬されていました。マラキ書の「主の前に送られる預言者エリヤ」とは、かつて存在したエリヤそのものではなく、まさしく「エリヤの霊と力」を受けた人物のことです。神様は約束どおり、人間として最高の霊と力を授けられる人物の誕生を、「救い主の誕生」の事前に、確かに御自身でご用意してくださったことを、ルカによる福音書は証ししようとしています。

 

 *父親となる祭司ザカリアに天使が喜ばしい御言葉を告げる

エルサレム神殿で特別任務をしていた祭司ザカリアのもとに、天使が来て、待望の男子が与えられると告げます。けれども、人間の常識から見て、不妊だった夫婦がもはや高齢となった末に子が授かるなど、ありえないことです。ザカリアの心に、主の御言葉への不信仰を感じた天使は、「神様の出来事=洗礼者ヨハネの誕生」が実現するまでは、ザカリアは口がきけなくなるという罰を下しました。

 

 *夫ザカリアの不信仰を補った妻エリサベトの「神への賛美」

このような状況で、ザカリアの妻エリサベトは、神様の御計画を実際に身に受け、「主が目を留めてくださり、『不妊の女』(1:36)という恥から救ってくださった」と賛美したのです。祭司である夫ザカリアの頼りない態度と対比すると、当時の社会で、夫よりも低く見られていた妻、しかも汚名で苦しんでいたエリサベトこそ、主の先駆けとなるべき大事な子供の親としてふさわしい信仰を示せたと言えるでしょう。

 

 *「洗礼者ヨハネ」の役割

洗礼者ヨハネは、祭司の家系出身であり、成長過程も立派だったので(1:80)、彼こそが救い主ではないかと人々に期待されたのです。人間の知恵なら、生まれも育ちも最高の人間を救い主としたでしょう。ところが、神様の知恵ではそうならず、むしろ、人間の社会で最高レベルの人間を証し人に立てることで、後に来る神の御子・救い主イエス様が、人間より確かに優れている証しを立てさせようとされたと思われます。

生まれる前から神様に用意された「洗礼者ヨハネ」は、主の前にその道を整える者として、大きな役割が3つあったと言えるでしょう。一つめは、民衆の心を本当の神様へと立ち帰らせることでです(悔い改め)。二つめは、救い主イエス様に洗礼を授けたことです。神の御子であるイエス様ですが、公生涯を始めるにあたり、ヨハネから洗礼を受けた直後、天から父なる神様の祝福の声が降ったことが、マタイ・マルコ・ルカ福音書に記されています。特に、マタイ福音書では、ヨハネから洗礼を受けることが正しいことだとイエス様はおっしゃいました。神様の御心に適っていたのです。三つめは、無実の死の先駆けです。不義を行う領主によって逮捕されたヨハネは、酒席の戯言のために、無実の身でありながら死刑になります。この姿は、罪なきイエス様が十字架刑で死ぬ定めの先駆けとも受け取れます。現に、マタイ福音書では、ヨハネの死を受けて御自分の行く末を予感なさったであろうイエス様が、恐らく祈るために、人里離れた所に退いたことが書かれています(マタイ14章)。

 

 *「人間への全き愛」から、救い主の先駆けさえも準備なさった神様

「救い主御降誕」のため、神様は、その先駆けとなり、この世での霊的な準備をする役割の人間(洗礼者ヨハネ)を最初から準備なさいました。それは、人間の救いを心から願う「神様の全き愛」から生じたのです。私達も、主の御降誕に備え、心を込めた準備ができるよう、祈りましょう。

11月18日の説教要旨 「オリーブ山での祈り」 平賀真理子牧師

詩編75:2-11 ルカ福音書22:39-46

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所は、マタイ福音書とマルコ福音書で語られている「ゲツセマネの祈り」の出来事が記されています。エルサレムの東の方の郊外に「オリーブ山」があり、恐らく、その一画が「ゲツセマネ」と言われ、イエス様はエルサレム滞在中は、そこを祈りの場として、よく用いられたということでしょう。イエス様が十字架にかけられる直前、弟子達を連れ、ここで熱心にお祈りなさったと、ルカ福音書を含めた3つの福音書は大事に語り継ごうとしています。

 

 *ルカ福音書の「オリーブ山での祈り」の特徴(他の福音書との違い)

上記の他の2つの福音書での「ゲツセマネの祈り」では、「3人の弟子の選び」や「3弟子の疲れによる居眠りを主が3度発見すること」などが記されています。しかし、ルカ福音書ではそれには触れず、別のことを伝えようとしているようです。それは、イエス様の祈りの真剣な御様子と、「弟子達が眠り込んだのが、悲しみの果てだったこと」です。

 

 *御自分の使命を悟りつつも、弟子達と共に祈ることを望まれた主

弟子達との最後の晩餐が済み、いよいよ十字架への定めが間近となった中で、イエス様はオリーブ山のいつもの場所へイエス様は行き、弟子達も従っていきました。そこで、イエス様は、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と指示なさり、御自分は石を投げて届く距離で、一人で祈り始められたのです、イエス様は、天の父なる神様に、まず「父よ」と呼び掛け、迫る「十字架の定め」を取りのけてほしいと祈られました。十字架にかかることは、救い主としての御自分の大いなる使命で、 人々の罪を肩代わりすることです。しかし、この世で人間の肉体を持って歩まれていたイエス様にとって、十字架上で刺し貫かれることは想像するだけでも恐ろしく、できれば避けたいと思われたことでしょう。こんなギリギリの状況を、弟子達と一緒に祈りつつ、乗り切れたら!とどんなにか望んでおられたことでしょうか。

 

 *サタンの誘惑に陥り、主と共に祈り続けられなかった弟子達

しかし、弟子達は、イエス様の預言どおり、サタンの誘惑に陥りました。ルカ福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。彼らは、イエス様の祈りや御様子から、近い将来の危機を察知し、「大きな悲しみ」=「自分の思い」に捕らわれ、神様に頼ることを忘れたために、サタンの仕組んだ「睡魔」に負け、大事な時に眠り込む失敗をしたと言えるでしょう。イエス様と弟子達とのこの世での最後の祈りの場面で、サタンは、主と弟子達の一致を邪魔し、その間を裂く試みにおいて、一時期成功したのです!

 

 *「わたしの願いではなく、御心のままに」 

イエス様は逮捕される直前、父なる神様に「御自分の杯」=「十字架という苛酷な定め」を取り除いてほしいとの自分の願いを表明しつつも、一番大事なことは父なる神様の御心の実現だと祈ったことは、3つの福音書共に書かれています。この祈りは、私達信仰者の祈りの模範です。神様への祈りの中で、自分の願いを勿論打ち明けてよいのですが、最終的には、父なる神様の御心が実現されるように!という姿勢が重要です。なぜなら、これこそが、自分が一番でなければ許せないサタンには決してできない祈りであり、神様最優先のイエス様と弟子達だけができる姿勢だからです!

 

 *「天使の出現」と「イエス様の苦悶」

イエス様の祈りの御言葉と謙虚な姿勢を、天の父なる神様がどんなに喜ばれたかが、ルカ福音書だけに明示されています。それが43節です。「天使が天から現れて、力づけた」とは、天の父なる神様が御自分の御心に適った祈りをしたイエス様を応援なさったこと示しています。これだけ考えれば喜ばしいのですが、実は、同時に、イエス様の十字架への道の確定を父なる神様が示されたわけです。天使の出現でそれを悟ったイエス様だから、44節にあるように、御自分の身の上に起こる十字架刑の現実を前に、より一層苦悶し、だからこそ、神様に頼って、より一層切実に祈られたのです。

 

 *「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」

イエス様は、弟子達と歩んだ御経験から、人間の弱さをよくご存じの上で、それでも「(霊的に)起きて祈っていなさい」とおっしゃいました。十字架と復活によって既にこの世に勝利したイエス様が、弟子たる私達に期待してくださっているのですから、この御言葉を守ることに励みましょう。

11月11日の説教要旨 「実現する預言と弟子の備え」 平賀真理子牧師

イザヤ書53:6-12 ルカ福音書22:31-38

 

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所の前半の段落では、残念なことに、イエス様の一番弟子と目されるペトロさえ、サタンからの厳しい試練に遭うというイエス様の預言と、それに対して、ペトロ自身は、イエス様の預言よりも、自分の覚悟を信頼していたことが示されています。人間的に考れば、ペトロにいささか同情したい気もします。しかし、イエス様は、迫り来るサタン(の試練)に対して、弟子達に気づかせて、備えをさせることの大いなる必要に迫られていたのだと気づかされます。

 

 *ルカ福音書22章に度々現れるサタン

ルカ福音書では、4章13節にあるとおり、イエス様に対しても試練を挑んだサタンは「時が来るまでイエスを離れ」ました。そして、再び、イエス様の御許へサタンが来る時がいよいよ来たのです。22章でのサタンの動きは、3節では「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに入った」とあり、31節では「ペトロや弟子たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあり、53節ではサタンは「闇」と表現されています。こうして、この世の長サタンがイエス様をこの世から排除し始めたことをイエス様は御存じだったのです。

 

 *神の御子・救い主イエス様や弟子達に必死で試みるサタン

もちろん、イエス様はサタンの支配するこの世に勝利されますが、しかし、サタンは負けまいと必死で抵抗することもイエス様はわかっておられました。その勢いは大変激しく、イスカリオテのユダの裏切り、ペトロの一時的な裏切りだけでなく、イエス様御自身も十字架で死ぬことにならなければ、サタンは納得しないというものでした。

 

 *主が、サタンの試練に弱い弟子達のために祈ってくださる!

すべてがおわかりだったイエス様は、サタンの試練に抗しきれない弟子達を責めるつもりではなく、励まそうとなさっていたと読み取ることができます。ペトロが(弱さ故に)イエス様を知らないと言ってしまう事態になっても、絶望しないでほしいとイエス様は願っておられるのです。なぜなら、「立ち直って、兄弟(信仰における仲間)を力づけてやりなさい」(32節)とペトロに主が期待されているからです。だから、イエス様はペトロのために「信仰が無くならないように祈った」とおっしゃいました。主は弟子のために祈ってくださるのです!実は、これは、時空を超えた弟子たる私達も該当します、つまり、私達は主に祈られているのです!

 

 *主は「弟子達すべてがサタンの試練を受ける」と心配なさった

ペトロと同じような試練が、他の弟子達にもあることを御存じのイエス様が、弟子達に語られたのが、35節以降の(今日の箇所の後半の)段落です。

かつて、サタンがイエス様を離れていた時になされた「弟子達の福音伝道旅行」の恵みを思い起こすように主は語られました。この時にはサタンの妨害はなく、主の恵みや御力が弟子達に及んだのです。ところが、主がこの世に不在となって、サタンの攻勢が激しくなれば、必需品を備えることすらも困難になると、イエス様は心配なさったのでしょう。御自分の救いの御業が完了するまでの間、弟子達は「犯罪人の一味」と見なされ、社会から疎外されて苦難の道を歩むことになると予知なさっていたのです。

 

 *主の御言葉と主の御心と弟子達の備え

もちろん、イエス様は犯罪人ではないし、罪もない御方です。しかし、イザヤ書の「主の僕の苦難と死」の預言(52章13節―53章12節)が、父なる神様の御心にある「救い主の姿」であるとイエス様だけが御存じで、37節にあるとおり、人間の罪を背負って苦難を味わう「救い主」の預言が、御自分の上に実現し、弟子達にその現実が迫り、彼らが試練を受けることを心配なさったのです。弟子達は、36節の主の御言葉を受け、特に、剣に注目して「二振りある」と答えました。イエス様は、弟子達が「主の不在」という不安の中、備えとして剣の所持を許可なさっただけで、その使用は望んでおられなかったはずです。しかし、すぐ後の「主の逮捕」時に使用され、被害者の癒しをイエス様がなさる出来事が起こります。主の御言葉に従うつもりでも、人間は、主の御心を理解できずに、自分の都合のいいように解釈して利用してしまう弱さが示されています。主の預言(御言葉)の奥にある「主の御心」を理解したいと祈り求めつつ、私達は、信仰上の備え(「霊の剣」=神の言葉 など ※参照:エフェソ書6:10-20)を怠りなく進めたいものです。

10月14日の説教要旨 「使徒たちへの愛」 平賀真理子牧師

民数記12:1-8 ルカ福音書22:24-34

 

 はじめに

 イエス様は、「最後の晩餐」の時には、御自分の十字架の使命を悟っておられました。それで、御自分の亡き後、信仰者たちが この時の「晩餐」の記念(「聖餐式」)を受け継いでいけるように示していかれました。それまで、イスラエル民族は「過越祭」を継承していましたが、新しい「過越の食事」として、イエス様御自らが「聖餐式」を定めてくださったのです。ここで注目したいことは、イエス様は使徒たちに、1つのパンを裂いて与え、1つの杯から葡萄酒を回し飲みするように、給仕なさったことです。

 

 一つになるべきなのに、早速、分裂し始める使徒たち

十字架で犠牲になった一人の主であるイエス様から恵みを分かち合うという意味を持つ「聖餐式」の制定時に、ルカ福音書では、主は使徒たちの中から裏切り者が出ると告げられたと記します。言われた使徒たちは、誰が主を裏切ろうとしているかについて論争を始めましたが、次第に脱線していきます。常日頃からの疑問「12使徒の内、誰が一番偉いのか」という問題です。「聖餐式」がこの世で行われるようになって、神様にとって喜ばしいことが始まったのに、この世の長であるサタンが早速、神様側の出来事を妨げ始めたのでしょう。1つの主から分かち合う喜びを味わったはずなのに、使徒たちは「競争心」に付け込まれ、もはや分裂の危機にあるのです。このことにイエス様はお気づきになり、そうであってはならない理由を新たに教えてくださったのです。

 

 「一番に偉くなりたい動議」

私達人間は「偉くなりたい!一番になりたい!」という願望を持ちやすいものです。偉くなって、世の中のために粉骨砕身頑張るつもりでしょうか?多くの人がそうではなく、偉くなって、自分の欲望どおりの生活をして、自分の力を示したいと考えるのではないでしょうか。しかし、欲望まみれの人間が次々と現われ、先にその座についている人を蹴落とそうとし、そのグループの団結は崩壊します。だから、ふつうは「偉くなろうと思うな!」という教えになりそうですが、イエス様はそうではなく、偉くなりたいという動機を神の民として正しい方向へ導かれたのです。つまり、偉くなるのは、周りの他の人々に仕えるためであると教えてくださったのです。そのように語るイエス様御自身が、「聖餐式制定」の時、御自分でパンを割き、杯を回す奉仕をなさって、模範を示されました。更には、「十字架上での死」こそが、究極の奉仕と言えます。自分の命を犠牲にして、私達のような罪深き人間に奉仕されたのです。

 

 「神の国の民」は分かち合ったり、仕え合ったりする喜びで満たされる

更に、イエス様は、神の国の偉くなりたいルールに従う者には、御自分と共に食事の席に着き、イスラエルを治める王座に座る権利をくださると約束してくださいました。しかし、ここで誤解してはなりません。神の国で欲望まみれの暮らしができるということではありません。イエス様の十字架と復活の恵みの素晴らしさを理解している信仰者は、イエス様と同じように、神の国のために何か奉仕をしたいと思う人間であるというのが大前提になっています。将来、好き勝手な生活が保証されるから信じるというのでは「御利益宗教」の域を出ませんし、イエス様の伝えた「神の国の素晴らしさ」は、そんな欲望に由来するものではありません。他の人々に奉仕したいと願う者が集まる群れで「主において一つ」となり、分かち合ったり、互いに仕えたりする喜びで満たされるのが「神の国」です。

 

 使徒たちに、謙遜で、限りない愛を示されたイエス様

「神の国」の民として、別の言い方では、「謙遜」という姿勢が求められると言えます。聖書での「謙遜」とは、ただ「腰が低い」というものではありません。悩み苦しむ者と同じ立場になり、そのような人々を救い出そうとする「本当の神様」が居てくださり、そのような神様なくして自分は存在しない、そのような信仰が「謙遜」と言われるのです。そのような神様を仰ぎ、そこから自らを省みてへりくだるのが、真の信仰者です。

先の問答の直後に、イエス様はサタンが使徒たちを試みるし、その一人シモン・ペトロもその試練を受けると預言なさいました。ペトロは、主の御言葉より、自分の言葉を信じようとしましたが、実際は、主の御言葉が実現しました。そんなペトロのために、主は祈り、励ましてくださいました。主は使徒たちに、謙遜で、限りない愛を注いでくださる御方なのです。

10月7日の説教要旨 「世界に広がる『主の晩餐』」 平賀真理子牧師

出エジプト記24:3-8 ルカ福音書22:7-23

 はじめに

 今日の新約聖書の箇所として、2つの段落が与えられました。1つ目が「過越の食事を準備する」、2つ目が「主の晩餐」と見出しがついた段落です。

 

「過越の小羊」

まず、1つ目の段落「過越の食事を準備するという段落を読みましょう。イエス様と弟子達一行は、イスラエル民族の大事な宗教行事である「過越祭」に合わせて、神殿のあるエルサレムに来られました。「過越祭」は、イスラエル民族が神様の助けによって救われた出来事を記念するお祭りです。彼らの祖先がかつてエジプトで奴隷として苦役を強いられていた時、神様の助けを祈っていたところ、実際に神様がモーセというリーダーを立て、数々の奇跡を起こし、イスラエル民族をエジプトから脱出させてくださったことを記念するお祭りで、代々伝えられていました。

その奇跡の中で、エジプト脱出直前の奇跡こそ、最も印象深い奇跡です。それは、「本当の神様」が、イスラエル民族の脱出を拒むエジプトの地で、初子が死ぬという災いを起こす計画を立て、モーセを通して事前に知らされたイスラエル民族だけが、「小羊の血の印」によって、「初子の死という災い」を過ぎ越したという奇跡です。エジプト人の方は、王様の初子である世継ぎの王子から庶民の初子まで、死ぬという災いを過ぎ越せずに、死んでしまったのです。エジプト王は「過ぎ越しの奇跡」を体験して、とうとうイスラエル民族が自国から出て行くことを許さざるを得なくなりました。イスラエル民族は、この時の出来事を象徴する物(食事など)を再現しながら、神様による救いを毎年思い起こしていたのです。

「過越祭」の際には、親しい人々と「過越の食事」をして、出エジプトの出来事を思い起こし、神様に感謝を献げます。イエス様も、この世における最後の「過越の食事」を愛する弟子達と共にすることを本当に望んでおられたようです。そして、この「最後の晩餐」がどのように行われるか、その様子が具体的に、既に見えておられたようで、その準備をどうすべきかを、二人の弟子に、確信をもって指示することがおできになったのです。そして、実際、そのとおりのことが実現したことが、1つ目の段落に証しされているわけです。将来のことを言ってそのとおりのことが実現していくのは、言った御方が神様である証拠となります。

 

「主の晩餐」

イエス様はこの「最後の晩餐」の挨拶で、まず、御自分が苦難に遭うことを告げておられます(ここでも「十字架の予告」)。その上で、使徒たちとの「最後の晩餐」を「切に願っていた」(15節)のです。主は、この「最後の晩餐」がこの地上における「神の国の食事」の最初として、とても意味があると思っておられたからです。それと同時にイエス様は、この世での「神の国の完成」の時に、弟子達との晩餐を味わおうと決心なさっておられ、それまでは「過越の食事は摂らない」と決意されている、それほど、神の国の完成を待ち望んでおられるということが16節と18節の御言葉から分かります。

更に、19節20節は、私達が「聖餐式」の時に宣言される式文の源の御言葉で、「主の記念」として聖餐式は行われるべきだと再確認させられます。

この意味を正しく理解する弟子達が晩餐に与(あず)かるのに相応(ふさわ)しい者達です。

 

わたし(イエス様)の血による新しい契約,

20節で、イエス様は御自分の血を表す葡萄酒が「新しい契約」を意味すると語られました。古い契約では、過越の小羊の血が、神様の救いの印と受け取られました。しかし、神様が新しく立てられた契約では、神の御子イエス様が十字架で流される血を、神様の救いの印として受け入れるように、神様は人間に期待なさっていると受け取れると思います。

 

 「聖餐式」に与かる人々が増えるようにという願い

 御言葉の理解も大事ですが、人間として生きたイエス様は、主の恵みを人間が感覚でも味わえるように「聖餐式」を制定なさいました。この大事な席で、使徒の中に裏切り者がいると主は語られました。それはイスカリオテのユダであり(22:3)、直接的には彼のせいで、主は捕まって殺されました。罪の頑なさに悲しさを禁じ得ませんが、そんな人間に対する主の愛は無限です。主は御自分の犠牲をも厭わず、神の国の完成を熱望しておられます。主の御心を実現するために「聖餐式」に与かれる人々が増えるように、また、私達信仰者がそのために用いられるように、祈り求めて参りましょう。

9月23日の説教要旨 「主の支持者達と反対者達」 平賀真理子牧師

詩編70:2-6 ルカ福音書21:37-22:6

 

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半である21章37節と38節では、それ以前の様々な出来事を経た後でも、イエス様が相変わらず、民衆の支持を受けておられたとわかります。反対派から論争を仕掛けられたり、終末の徴を知りたがる人々を教え導いたりしながら、実は、イエス様は為すべきことを粛々と続けておられました。それは、神の御子として神殿で民衆に教えることです。また、夜は、エルサレムの町を出て「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされたとあります。イエス様がよく祈っておられたことは福音書の随所に出てきます。救い主としての使命である「十字架」が迫る中、主は益々熱心に父なる神様に祈りを献げられたのでしょう。

 

反対派に同調し、主を十字架に導いてしまった「イスカリオテのユダ」

一方、22章に入ると、エルサレムの実力者達は、相変わらず、イエス様を受け入れようとはせず、反対派のままだったとわかります。人々の面前で論争に負けたこともあり、ついに、彼らはイエス様の存在を消すこと、つまり、イエス様を殺すことを明確に目指すようになりました。しかし、表立って「ナザレ人イエス」を殺したのでは、イエス様を支持していた民衆の反感を買います。彼らはそれを一番恐れました。ユダヤ教指導者層が中心の反対派は、本来は神様の眼差しを第一に考えるべきでしたが、それを怠り、民衆が自分達をどう考えるか(「民衆受け」)を第一に考えていました。だから、民意に合わない「イエス殺害」を、民衆から隠れた所でコソコソと企てようとしたのです。彼らは、最初から反対派であり、イエス様の教えや知恵に出会っても、頑なに反対派に留まり続けたので、彼らの決意と企ては想定内です。しかし、想定外のことが起こりました。反対派に同意して手助けする役割をしてしまったのが、主の支持者の中にいたことです。その中でも、別格の存在、本来はイエス様と一体であるべき弟子、特に、その中でも、イエス様御自身が「使徒」と名付けて愛し育んだ中心的弟子の一人が、反対派に同調して、主を裏切る行動をしたのです。悪い意味で有名な「イスカリオテのユダ」です。

ルカ福音書では、どうしてそんなことが起きたのか、ユダの心理的原因を追究していません。ただ一言、「ユダの中に、サタンが入った」と記しています(22:3)。主の愛の中で慢心したのでしょうか。ユダは、自らの中にサタンが入り込む隙を与え、反対派の罪の中に巻き込まれ、主を裏切った末、後悔して自らの手で自らを裁くという罪を重ねていくのです。

 

主の支持者(神様の愛する者)を狙うサタン

振り返れば、サタンは、人間の始祖であるアダムとエバを誘惑して神様から引き離しました。それ以降、サタンは、神様が創造なさったこの世の主権を横取りし、神様が最も愛する人間達を支配してきました。そして、神様がいよいよ御自分の御子をこの世に送られて、その御子が福音伝道を始めようとするや否や現れて、神の御子を不遜にも誘惑しようとしました。これが「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)であり、この時、イエス様の誘惑に失敗したサタンは、「時が来るまでイエスを離れた」と書かれています(13節)。それで、サタンは、救い主イエス様の歩みの上にそれからは手出しできなかったのですが、エルサレムのユダヤ教指導者達がイエス様を受け入れない現実の中で、再び活動できる時が来ました。こんな時、私達人間は、反対派の中にサタンが入るのではないかと予想しがちですが、サタンはそうしません。反対派はサタンが支配しているので、そういった人々の中に入らなくても、彼らはサタンの思うままに動くはずです。そうではなく、神の御子イエス様の愛する弟子の中にサタンが入ったことに、私達は注目し、留意する必要があります。

 

「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Ⅰペトロ59)

サタンは、神様から主権を横取りしたこの世に、神様の愛の世界が広がることを一番嫌がり、イエス様を救い主として受け入れて「神の国の民」となった私達信仰者を、自分の方に取り返そうと必死に誘惑を仕掛けます。だから、教会生活を重んじることは有効です。「洗礼を受けて救われたのだから、それ以上は望まない」と言って、教会生活を軽んじる人は、サタンの攻撃の威力を知らず、備えるべき戦いの道具「武器」の手入れを怠る兵士に例えられます。祈り・御言葉の学び・礼拝を共にする信仰の友との交わり、これらによって、信仰の戦いに備え続けましょう。

9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。