2023年2月5日の説教要旨 詩編147編1-11・ルカ福音書8:4-15

「主イエスの種まき」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日のルカ福音書には、大勢の群衆が「神の国の言葉」を聞くためにイエス様のそばに集まってきたので、イエス様は群衆に向かってたとえを用いて語られたことが記され、そのたとえ話を終えられたイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた、と記されています。

 イエス様はなぜ、大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言ったのでしょうか。大声で言われるとは、呼びかける、繰り返し叫び続ける、訴え続ける、と言う意味が含まれます。

*イエス様は、誰に? 何を? (聞きなさいと言われたのか)

誰に?とは、直接には、「方々の町から集まって来た群衆」に、ですが、イエス様は、神様を信じる人々に、そして今、生きている私達に、繰り返し「聞くように」と、叫び続け、訴え続けておられます。

何を?とは「神様の言葉」です。「神様の、喜ばしい知らせ」、「神様が私達と共にいて下さること」「神様の想い」「神様の熱いメッセージ」を、イエス様は、聖書を通して私達のもとへ、今も送り届けて下さっています。

では、イエス様の声は、私達の心の中でどのように響いているでしょうか。

私にとっては、こだま(山びこ)のように絶えず心の中で鳴り響く声、騒ぐ心を落ち着かせる安定剤、弱っている心を力強くさせてくれるもの、心や体、霊の部分に栄養を与えて下さる薬のような栄養源、となっています。

*イエス様の弟子達は?

神様の子とされた弟子達は、聞いた話の意味をイエス様に質問し、尋ねています(9節)。「聞く耳のある者が聞く」とは、熱心に、納得いくまで何度も繰り返し尋ね、聞き続ける、質問し続けることだと思います。問い続け、求め続けることをあきらめずにするなら、きっとイエス様の語った言葉を理解することが出来て、イエス様が私達に伝えようとしているその真理を見つけ出し、たとえの本当の意味を悟り、理解することが出来るようになると思います。

あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されている

 弟子達はイエス様から、「あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。神様とイエス様を信じる私たち全ての者は、弟子達と同じように、神の国の秘密を悟るという素晴らしい特権が与えられています。信じる者には、神様の奥義、神様を知ることが出来る扉が開かれているのです。ですから神様の言葉を正しくが理解できるように聖霊の助けを求めていく必要があるのです。私達が弟子達のようにイエス様の言葉を聞いて、その意味を問い、「教えて下さい。分かるように説明して下さい」と、心の中にある想いや疑問をイエス様に向かって求め続けていくならば、本日の「種まきのたとえ」の中の「良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」種となっていくでしょう。

*詩編147編

 本日の詩編の作者は、1節で「ハレルヤ。私たちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか」と、神様を讃美する喜びを歌い、続いて、バビロン捕囚の中にある神の民イスラエルの人々に、主は打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んで下さる。(2~3節)」と、エルサレム再建の希望を伝え、主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。獣や、からすのたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。(8~9節)」と、自然や生き物にも神様の配慮があることに目を向けさせ、11節で「主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。」と歌います。

*神様を信じるわたしたち

 神様は、天の星、空の雲、雨や水、地上の草木、獣、鳥、農作物など、地球上を取り巻くそれら全てを支配し、生きるもの全てに命を与えられました。神様を信じるイスラエルの人達や私達は、神様にとってとても特別な大切な存在です。それだからこそ生きる全ての人達が神様の民になることは、神様にとって喜ばしい大切な出来事です。私達は、良い土地にまかれた種として歩み、この詩編作者と同じように、どんな時にも神様に聞きつつ、神様への讃美の歌声を響かせて参りましょう。

2023年1月22日の説教要旨 詩編111編・ルカ福音書4:16-30

「主を尋ね求めよう!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日のルカ福音書の前には、イエス様がヨルダン川で洗礼を授けられて祈っておられると聖霊が降り(3:22)、その後40日の間、悪魔から誘惑を受けられましが、その間、何も食べず断食されたことが記されています。断食を通してイエス様の霊的感覚は優れたものとなり、神様の霊をもって悪魔に勝利しました(4:1~13)。

 本日の4章16節以下には、イエス様が育った故郷ナザレにおいて起こった最初の出来事が記されています。

*ユダヤ教の会堂にて

安息日にイエス様は、ナザレの会堂を訪れました。イエス様が敬虔なユダヤ教徒の一人として安息日には規則正しく、ユダヤ教の会堂で礼拝を守られていたことが証言されています。当時の会堂での礼拝順序は(明確でない部分もありますが)、シェマ一「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4~」から始められ、祈りに続いて聖書朗読 (旧約の律法と預言書の箇所)、祈り、説教、そして祈りがなされていたと考えられています。又、ユダヤ人男性なら誰でも、礼拝で聖書 の言葉を朗読することが許されていたそうです。そこでイエス様は、聖書を  朗読するために立ち上がりました。

*イエス様が読まれた聖書箇所

立たれたイエス様に、係の者は、預言書のイザヤの巻物(当時、各書は一巻ずつ巻き物として存在)を渡しました。イエス様は、お開きになると、「次のように書いてある個所が目に留まり」朗読されました(17~19節)。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

 そしてイエス様は巻物を閉じて係の者に返して腰を下ろすと会堂にいる全ての人々の目がイエス様に注がれました。イエス様は、人々が注目している中、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。今日とは、過去のその日のことではなく「耳にした時、その日、聞くことによって」実現したと語りました。

*会衆の反応

人々のイエス様に対する最初の反応は好意的であり、その恵み深い言葉に驚きを覚えています。ところが、22節の後半で、「この人はヨセフの子ではないか。」と、イエス様のこの世に於ける家族的背景に目を向けて、自分達と同じ故郷の出身者でありながら、イエス様の恵み深い言葉との思いもつかない違いに、戸惑いから生じた言葉と考えられます。

イエス様の姿を幼い時から見ていたことが、かえって現在のイエス様の本当の姿や語られる言葉を理解することを妨げてしまったのでしょう。イエス様は彼らの反応を見て、「旧約時代(エリヤやエリシャの時代)でも、神様から選ばれて救われた人は、預言者の出身地以外の人達(やもめとシリア人ナアマンの例をあげて)だった」と語られたことにより、会衆は憤慨して、イエス様を山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。

*主の御業を愛する人は皆、それを尋ね求める。

私達は神様に選ばれ信じる者達です。本日の詩編「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげる。主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。」(1~2節)にあるように、いつもどんな時にも神様に心を向け、神様を尋ね求めて日々を歩んで行こうではありませんか。心を尽くすとは、自発的な思いであり心の奥底から100パーセント、全ての想いを神様に向け、感謝の言葉をささげ、神様に信頼し、神様を愛し通し、信じ続けていく、主を尋ね求めていくことです。主に 贖われた(救われた)私達の生活は、いつでもどこでも、いかなる状況の中でも、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして私達の主に感謝する、主を礼拝することにあると思います。私達はこの神様の言葉を携えて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年1月15日の説教要旨 詩編101編・ルカ福音書5:1-11

「神様、いらっしゃい!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編101編はダビデの賛歌で、2節には 「完全な道について解き明かします。」とあります。「完全な道」とは、道徳的、倫理的、知識的な意味での「完全」ではなく、かつて主がアブラハムに「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。(創世記17:1)」と言われ、又、「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。(詩編119:1)」とあるように、「まったき道を踏む」ことと「主の律法に歩むこと」は同じであり、神様への信頼の道、神様とのかかわりの道、共に歩む道です。「解き明かす」を他の訳では「心を留める」と訳しています。ダビデは王として、神様への信頼の道、神様と共に歩む道に心を留めつつ、与えられた使命に生きていきました。

しかし、お言葉ですから、

本日のルカ福音書には、イエス様がガリラヤ湖畔に立っておられると、神様の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せて来たことが記されています。イエス様が多くの病人を癒された奇跡を見たからです。イエス様が語る神様の言葉や奇跡は人々の心に留まり、人々を惹きつける力がありました。

イエス様は、二そうの舟が岸にあるのをご覧になると、漁師逹が舟から上がって網を洗っていたので、そのうちの一そうの所有者であるペトロの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになりました。そして、腰を下ろして舟から群衆に神様の言葉を教え始められました。話し終えた時、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロは、夜通し働いても小さい魚一匹も取ることができなかったので、その働きは骨を折るだけで無駄になると思ったことでしょう。しかも網には多くの不要物が付着していますから、それらを取り除くためには、その後も又、網を洗う作業をしなければなりません。けれどもペトロは、次のように答えています。「先生、私達は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。

ペトロは、疲れていたはずです。心の中では疑いの思いもあったことでしょう。しかしペトロはイエス様の言葉に従いました。そして舟を沖に漕ぎ出し、網を下すと驚くことが起こります。網にはおびただしい魚が入り、そのために網が破れそうになったため、もう一そうの仲間に合図をして手を貸してくれるように頼み、2そうの船は魚でいっぱいになり、舟が沈みそうになったと記されています。

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる

ペトロはイエス様の言葉に従い、神様の奇跡を目の当たりにしました。ペトロはイエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。ペトロも一緒にいた者達も皆驚きました。ペトロは神様のあまりの凄さに恐れを感じたことでしょう。私達も起こるはずのないこと、起こりえないことが起きてしまったり、見たり触れたりした時、神様に恐れを感じてしまうと思います。けれどもイエス様はペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と告げたのでした。

人間をとる漁師になる」

漁師は本来、売るため、食べるために魚を捕りますが、この「人間を捕る漁師」とは、多くの人達に永遠の命であるイエス様を与えて、生かす者になる、イエス様のことを伝える者になる、そのような者に変えられる、変わっていく、ということです。このことをイエス様は私達にも伝えようとしています。そして神様の言葉の中には命がある、道がある、真理があるということを教えようとしています。神様は一方的に神様の方から私達人間に近づいて来られ、私達に神様の言葉を語りかけて下さっています。その言葉はすべての地上にいる者達、世界の人達に語りかけられていて、語りかけられた私達には、その言葉を聞いて、受け入れるか、受け入れないか、の選択権が与えられています。

私達は今週も、心の中にイエス様が来て下さることに期待して神様に向かって心から「ようこそ来て下さいました。私をようこそ捕らえて下さいました。」「神様、いらっしゃい!」と、歩みを始めて参りましょう。

2022年12月25日・クリスマス礼拝の説教要(ミカ書5:1-3・ルカ福音書2:1-20)

「全ての者たちの喜びの日」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 クリスマスの今日、神様は私たちにどのようなことを教えようとしているのでしょうか。一つの輝く星が私たちの歩む道しるべとなり、その光が私たちの心の中にも灯るように期待し、本日の聖書の言葉に耳を傾けて参りたいと思います。

*誕生の地・ベツレヘム

 本日のミカ書5章の1節「エフラタ」は、ベツレヘムの古名と言われています。イスラエルの王ダビデはベツレヘム出身のエフラタ人「エッサイ」の息子でした(サムエル記上17:12)。預言者ミカは、この小さな氏族から、「主のため」にイスラエルを治(おさ)める者が出ること、それは、遠い昔から定められていたと告げています。このことは、変更されることのない神様のご計画であり、ベツレヘムは、メシア(救い主)出現の地として預言され、神様によって選ばれた場所であったと知らされます。

*御計画の実現への道

本日の、ルカ福音書2章1節に、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。この命令が出た時代は、これまで派閥の争いの時代からローマによる平和の時代が実現していた時でもありました。もし、この「ローマ全領土に住民登録をせよ」との勅令が皇帝から出なかったならば、ヨセフとマリアはベツレヘムに行くことはなかったでしょう。なぜならナザレからベツレヘムまでの距離はおよそ220キロ離れていましたから、その距離の移動は困難な旅であったからです。皇帝による住民登録の命令が神様の深いご計画の中でなされたということは誰も知ることなく、ナザレにいたヨセフと、既にお腹の中にイエス様を宿していたマリアを「ベツレヘム」へと移動させたのでした。

*わたしたち

この出来事について想いを巡らせる時、いつも何気なく起こっている私達の行動の背後には、「必ず」と言っていいほど神様のご計画と、お導きがあるとの、「神様のご計画の凄さ」を知ることが出来るのではないでしょうか。私達の人生の中で神様のご計画が行われる時、私達側から神様の計画を止めることは出来ません。神様のご計画は誰にでも同じように与えられているように私には思えます。それは誰かに後ろから手を置かれ押されているような感覚で、どんどん押し進められて前に歩むことが出来る、扉のようなものが次から次へ開かれていくというような体験(又は感覚)を皆様はお持ちではないでしょうか。

*御子イエス様を信じる前の私達

 過去の私の場合、クリスマスは家族や仲の良い友人達と食事などをする日、誰かと過ごす日、誰かと集まる日として捉えていたと思います。

どうしてそのように考えていたのか。それは、テレビ・ラジオ・新聞雑誌・書籍・広告などのマスコミによる情報や知識からではないかと思います。これらの情報は必ずしも間違っているとは言えませんが、ほとんどが「イエス様を告白しない霊、暗闇の支配者、悪魔サタンの霊」の働きがあり、真実に向き合うことを困難にさせています(エフェソ6:12参照 )。

*羊飼いのクリスマス

イエス様を信じる私達には聖書があり、真実の出来事、正確な情報があります。クリスマスには神様の導き、現れが羊飼い達にも起こりました。夜通し羊の群れの番をしていた時、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らして「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった」と言いました。羊飼い達は急いでベツレヘムへ行き「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て(16節)ました」。 私達も正しい情報を受け始めるとその言葉に耳を傾け始めます(聖書の言葉、神様との交わり、神様を体験するなど)。そしてその出来事が本当だったこと、確かであったと悟る(理解する)ことが出来ます。さあ、私達も今、神様の輝くその光に導かれて、イエス様の誕生を見に行こうではありませんか。

2022年12月18日の説教要旨 創世記18:1-15・ルカ1:26-38

「主イエスの誕生予告」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の創世記には、アブラハムが天幕の入口に座り、目を上げて見た時、そこに三人の人が枯れに向かって立っていたとあります。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、ひれ伏して歓迎しました。6節からは、アブラハムの最大のもてなしを見ることができます。上等の小麦粉で作った「パン菓子」と柔らかくておいしそうな「子牛」の料理で もてなし、しかもアブラハムは立って彼らの世話をしたことが述べられています。アブラハムの態度は極めて礼儀正しく、当時の遊牧民逹にとっての旅人への礼儀であり、風習や文化も大切にしていたように思われます。

*三人の客人

 この客人の訪問の目的は、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。(10節)」という予告をするためでした。

アブラハムに子が与えられるとの約束は、15章で「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。(4節)」と言われ、さらに17章で「わたしは彼女(妻サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。(16節)」と、神様から聞いていましたが、今回の訪問では「来年の今ごろ」という時期として「一年後」が示されています。しかしアブラハムは男の子が生まれることを初めて聞いた時、「ひれ伏した。しかし笑って、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか。」(17章)と言っています。サラも本日の箇所で、「すぐ後ろの天幕の入り口で聞いて」「ひそかに笑った」(18:10・12)と記されています。

主はアブラハムに、「なぜサラは笑ったのか」と問いただし、続いて、その理由を、主自らが語ります。「なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」と。そして笑ってしまった根本的な理由を明らかにされます。「主に不可能なことがあろうか。」と。

このあと、21章の1~2節には、「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。」と記されています。

神様の約束はこうして実現していきました。

*祭司ザカリアと処女マリア

先週学んだ祭司ザカリアは、アブラハムとサラのように、主の言葉を受け止めて信じることが出来なかったため、子供が誕生するまで口が利けなくなりました。

本日のルカ福音書では、マリアが、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との、天使ガブリエルの言葉に戸惑い、何のことかと考え込みました(28節)。続く天使の言葉は「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」でした。この言葉を聞いたマリアは、自分は男の人を知らないので、それはあり得ないと答えますが、天使が、ザカリアの妻のことを伝えて「神にできないことは何一つない。」と言われますと、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と答えています。

*マリアの言葉から見えるマリアの信仰

 マリアの生まれながらに備わっている性格は、心が素直であるだけではなく、とても考え深く物事をきちんとわきまえていて、又、自分ではよく分からないことに対しては、いったん心に納めて考えるという慎重さが見られます。マリアの、天使ガブリエルに応えた言葉は、彼女自身の信仰の深さ、真実の出来事をしっかりと受けとめようとしています。この、「お言葉どおり、この身に成りますように」との神様への信頼の言葉は、イエス様のゲッセマネの祈り「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください (22:42)。」と重なります。神様はマリアの信仰をご存じで、イエス様の母としてふさわしいと選ばれたのでしょう。

お言葉どおり、この身に成りますように」は、いつの時代でも、今日の、この礼拝においても私達の信仰の基準です。神様からの聖なる霊の助けをいただいて、この信仰に立ち、クリスマスをお迎えしましょう。

2022年12月11日の説教要旨 創世記17:15-22・ルカ1:5-25

「ヨハネの誕生予告」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は何かしたいことがある時、計画を立てて、少しずつ準備をしていきますが、神様はどのようにイエス様をこの世界に遣わす準備を進めて来られたのでしょうか。アドベント(待降節)第一週目はイエス様の父・ヨセフに注目して聖書に耳を傾けましたが、本日は、イエス様の母マリアと親戚関係にあるエリサベトの夫・ザカリアに注目して、イエス様の誕生を待ち望むこの季節にふさわしいみ言葉に耳を傾けたいと思います。

*祭司ザカリア

ザカリアと妻エリサベトは神様の前に正しい人でした。しかし二人の間には子供がなく、すでに年を取っていました。当時の祭司は24組に分かれ、組ごとに1週間の当番が割り当てられ、ザカリアの組が当番になった時、「香をたく係」がザカリアに割り当てられました。

神殿に大勢の人が集まった祈りの時間、ザカリアはただ一人、香をたくために聖所の中に入りました。ザカリアが香をたいている間、大勢の民衆は外で祈りをささげていました。すると聖所では主の天使が現れ、香壇の右に立ちました。ザカリアは不安になり、恐怖の念に襲われました。

*喜ばしい知らせ

 主の天使ガブリエルは、「わたしは、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた」(19節)と語り、ザカリアの妻エリサベトに男の子が生まれることを告げて、その子の名前をヨハネと名付けるようにと言いました。

さらに「その子は、主に先立って行き、人々を主のもとに立ち帰らせ、準備の出来た民を 主のために用意する者となる」(預言者エリヤのように)ことが語られました。ザカリアにとって、この知らせはこの上もない喜びになるはずです。しかし彼は、天使の言葉をすぐに信じることが出来ませんでした。夫婦は年を取っていたからです。けれどもザカリヤは祭司でしたから、イスラエルの歴史の中では、老年のアブラハムとサラに約束の子が与えられたことやサムエルの母ハンナのことも知っていたでしょう。

それでも彼は、天使の言葉をすぐには受け入れられなかったのです。

その結果、天使の予告が実現する迄、彼は口がきけなくなりました。

*わたしたちの戸惑い=不信仰

ザカリアはなぜ、天使の言葉をそのまま信じることが出来なかったのでしょうか。私は、ザカリアに「戸惑う気持」があったからではないかと思います。「その子をヨハネと名付けなさい」との命令は、ユダヤ人社会では子供の命名は父親の責任でしたから、これまでの伝統や慣習を打ち破る出来事になり、さらに、与えられる子供がザカリア自身が大切にしてきた祭司の家系を継ぐ者となるのではなく、異なる使命である「預言者」の務めを担うことになる・・との「戸惑い」です。

 私自身、かつて献身したい気持が与えられた一方で、違う方向へと、父親が言うような将来に向けて世界をたくさん見たい、などの気持があったと思います。それだからこそ神様は、私に待つこと、神様の計画の時まで忍耐と希望を持って「待つ」ことを教えて下さったと思います。

*妻エリサベト

 ザカリアの務めの期間が終った後、妻エリサベトは「身ごもりか月の間身を隠していた」(24節)ので、彼女の身に起こったことは噂されることもありませんでした。彼女は、神様の行われるご計画を人々に報告することは、自分の役目ではないと考えていたことでしょう。そして、このことは、神様のご計画がおおやけになり、神様の恵みがイスラエルの人々に、何を準備しているのか、何を示すのかを「神様自らが教えて下さる」と考えていたのかもしれません。彼女は「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と告白します(25節)。当時の社会では子供が出来ないことは、自分の祈りが神様から退けられて恥ずべきことと考えていたので、大きな苦しみとなっていたことでしょう。しかし神様の大きな恵みにより、今は息子が与えられる喜びで、すべてが素晴らしいものに変わっていきました。さぁ、私達も神様の御計画を思い起しつつ、希望を持ってイエス様のお誕生をお迎えする準備を整えて参りましょう。

2022年1月2日の説教要旨 詩編89:2-15・ルカ福音書2:41-52

*はじめに

イエス様誕生の喜ばしい知らせを受けたのは、ベツレヘムで人々からあまり良い評価を受けていない立場の羊飼い達であり、神様は、この羊飼いをイエス様誕生の出来事を言い伝える人として選ばれています(ルカ福音書)。

さらに東方では、ユダヤ人の王となる「星」を見つけた異邦人の、占星術の学者達がエルサレムにいるヘロデ王を訪れて、メシア誕生の場所を尋ねました(マタイ福音書)。ヘロデ王は、祭司長達や律法学者達に調べさせ、預言書からユダヤのベツレヘムであることを知り、学者達に伝えました。学者達が出発すると東方で見た星が前を進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者達はこうしてイエス様を拝し、贈り物を献げました。

*公現日

このように幼子イエス様はユダヤ人だけではなく、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)にも現れて下さいましたので、この時を「公現日」(顕現日)として記念し、クリスマスから12日後にあたる1月6日にお祝いします。

羊飼いや、東方の博士達がイエス様に出会い、喜ばしい知らせ、素晴らしい体験をしたのと同じような喜びが本日の旧約聖書に記されています。『主の慈しみを とこしえに わたしは歌います。 わたしの口は代々に   あなたのまことを告げ知らせます』(詩編89:2)。

告げ知らせます

元の言葉は「知る」、「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という意味があります。人々が神様とのかかわりを通して、神様との体験、神様との出会いによって、神様のことを他者に告げる、知らせる、という意味です。つまり、わたしたち、神様を信じる者達が、神様と実際に出会い、神様が行われる 偶然とも思えるような出来事、素晴らしいわざ(しるしや不思議や奇跡)を、自らが体験する、その場所に入る、出会うことによって、本当の神様、生きたまことの神様、喜ばしい知らせ、聖書の言葉を、他の人にも教える、告げ知らせるということなのです。

 特に2節では、神様から与えられた私の口を使って、神様は真実であること、まことであること、本当で変わることのない絶対的な神様が存在すること、揺るぎなく、昔も今も、これからもずっと続く永遠の神様がいて下さると告白し、宣言することが大事だと記しているのです。

*神殿での少年イエス

 本日のルカ福音書には、イエス様の両親(ヨセフとマリア)は、毎年、過越の祭にエルサレムに行かれていたこと、そしてイエス様が12歳になった時、両親はイエス様を連れてエルサレムに行かれた時のことが記されています。<当時は13歳で大人の仲間入り(神の民の一人となる)をして、掟、律法を守って生きる(聖書に従って歩む)者となります>。

祭りが終りヨセフとマリアが帰路に着いた時、途中でイエス様がいないのに気づき、捜しながらエルサレムに引き返し、神殿の境内でイエス様を見つけました。心配して捜していたマリアに、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました(49節)。

*父の家

両親にはこの言葉の意味が分かりませんでした。イエス様が父の家にいること、イエス様は父なる神様から生まれ、父が住まわれる聖なる神殿にいるのは当たり前であり、それ以外の場所は考えられないことを両親はまだ気付いていなかったからです。このことからも神様、イエス様は、神様が用意して下さっている場所、神様が備えて下さった礼拝場所には、神様がおられる、宿っていて下さることが分かると思います。

*わたしたちの教会

 私達ひとり一人、神様から造られた者達です。その神様から造られた者たちが一緒に集まる場所、神様がおられる所に集まるのは当然のことです。各々に与えられた場所で、個人的な神様との交わりの時間も必要ですし大事なことです。しかし、共に集まり共に祈る、共に励まし合い、教会「礼拝を共にし、主に在る交わりの場所」ではないかと思います。

12月12日の説教要旨 イザヤ書7:10-17・ルカ福音書1:26-38

「主イエスの誕生の予告」    加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日のルカ福音書は、洗礼者ヨハネの誕生予告の続きです。神様は天使ガブリエルを祭司ザカリアのもとに遣わし、妻エリサベトに子供が生まれるとの喜ばしい知らせを伝えました。ザカリア夫婦は長年子供が与えられず祈ってきましたが、今は二人とも年をとっていました。そのような時、天使ガブリエルによって祈りが聞き入れられたことを知らされました。

それは何よりも嬉しいことであったはずでしたが、ザカリアはこの知らせに戸惑い、素直に受け入れられず、しるしを求めたため、子供の誕生まで口が利けなくなりました。

おめでとう

 6か月目に天使ガブリエルは再び遣わされて、マリアのもとに来ました。そして「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げたのです。マリアはこの言葉に戸惑いながらも、この挨拶は何のことかと考え込みます。この「おめでとう」の元の言葉は「ご挨拶申し上げます」「こんにちは」などの挨拶の時の言葉です。しかし私達の聖書も他の日本語訳聖書でも、この言葉は「おめでとう」と意図的に訳されています。

この「おめでとう」の中には、マリアだけに与えられた喜びではなく神様に創造された全ての人々に対しての「喜びの知らせ」、神様を信じる者達にとってかけがえのない、待ちに待った「喜びの知らせ」となるはずです。

*聖書で用いられる「喜び」

 ルカによる福音書10章に、イエス様から派遣された弟子達が戻って、イエス様に報告する場面があります。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します(17節)」と喜ぶ弟子達に、イエス様は、「そのことに喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と答えられています。この言葉の中に、「喜びの根源」があると思います。本当の喜びは、私達の働きや行いによって与えられる喜びではなく、神様を信じる者達が、天に名前が書き記されていることを喜ぶ「喜び」、真実を知ることが出来る「喜び」、又、このような「わたし」でも神の国に入ることができるという信仰が与えてくれる「喜び」です。この喜びの「知らせ」を受けるマリアは、「おめでとう」と呼びかけられました。

*マリアの応答

 天使ガブリエルの言葉を聞いてマリアは戸惑いましたが、その言葉を心に納めて、この出来事の意味を考えようとしています。素直で純粋に、御使いの言葉をそのまま受け入れているように思えます。自分ではよく分からない事柄に対しては、すぐに答えを出さず、それを心の中に一旦納めて、慎重に考えてから答えを出す人物だったようにも考えられます。御使いは続けて「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。・・」と語ります。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と驚きますと、御使いは、親族エリサベツにも今、胎内に男の子が宿っていると伝え、「神に出来ないことは何一つない」と答えました。そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

ここにマリアの信仰(神様を畏れ、敬い、御使いの語る言葉を受け入れて、自分の身に成ることを待ち望む)を、私達は見ることが出来ます。

*わたしたち 

さて、私たちはどうでしょうか。主の御使いの「おめでとう」という言葉を、私たちはどのように受け止め、留めることができたでしょうか。

私たちには、イエス様の誕生日に共に集まり、心から「おめでとうございます!」と言い合える仲間や家族・友人がいるでしょうか。

又私達は、本当にイエス様のお誕生を心から待ちわびているでしょうか。

もし、この世界・この地上でイエス様の御誕生の出来事がなければ、私達を罪から救いへと至らせる道、神の国に入る道はなかったでしょう。

すべてはこのお方の登場で始まり、終わりがあります。今週一週間、私達はイエス様のことに思いを巡らせながら、共に歩んで参りましょう。

2021年5月16日の説教要旨 詩編93篇・ルカ福音書24:44-53

「主イエス・キリスト」  加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちが生きる世界や神話の世界では、人の手で作った神々や神格化された権力者達が多く登場します。しかし本日の詩編では、主である神様こそが王であることを宣言します。私達が信じる神様は、威厳と力を身にまとい、その支配は昔から変わることなく固く根を下ろし、決して揺らぐことがないと告白しています(1-2節)。又、潮や大水、海に砕け散る波(3-4節)という表現は、主の正しさを乱し、脅かす神話的な力、混沌とした無秩序な力を指し、しかし主は、その無秩序な力から更に高く、力強く、主の支配があることを告白しています。

 この「主」であり「王」である神様のおきては堅く立ち、人々が神様の律法を守ることにより、神殿の尊厳さは現実のものとなります。神殿には、神様に選ばれた人々の群れがあり、時の続く限り、永遠に神様を礼拝し、神様を称える神の国があることを伝えています。

*“必ず”

 本日のルカ福音書24章は三つの部分に分けることができます。一つは、準備した香料をもって墓に行った婦人達のそばに、二人の御使いが現れて、「イエス様が『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか」と、婦人達に思い出すようにと言った出来事です。

 二つには、二人の弟子が「エマオ」の村に向かって歩いているとイエス様が近づいて来られた出来事です。しかし弟子達の目がふさがれていたのでイエス様と分からずに、イエス様の十字架での死や、お墓の中の遺体がなくなっていたことなどをイエス様に告げました。それを聞いたイエス様は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と彼らに告げて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されました。口語訳と新改訳では、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて・・」と、“必ず”と言う言葉が入って訳されています。

*「必ずすべて実現する」

 三つめの本日の箇所では、復活されたイエス様が弟子達に現れ、真ん中に立ち、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。(44節)」と言われて、メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活すること、イエス様のお名前によって罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられること、弟子達がこれらの証人となること、を宣言されました。

*すべてが現実に起った!

 以上24章では、三か所にわたり「どうしても~ねばならない(決定的にそうなっていて変えられない)」という意味の“必ず”という言葉が使われ、この中に、すでに神様によって「そうするように定められている、計画されている、一番ふさわしい方法で起って当然」という意味を含ませています。しかも、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した事実について、イエス様がすでに旧約聖書の言葉を解き明かし、ご自身の身体を通して神様の約束が現実に起ったと告げています。

*証人となった弟子たち

 イエス様はこれらの言葉を語った後、弟子達を祝福しながら昇天されました(50節~・使徒言行録1:3~11)。弟子達は、復活したイエス様を自分達の目で見たのですから、聖書に書かれていることが真実であることの証人となりました。

*わたしたち

 神様は私達にも、神様の告げた言葉や計画は、必ず実現すると約束しておられます。イエス様は、去った神様(の御子)ではなく、今も、いつも、心にすでに宿っているお方、共にいて下さるお方です。

聖書に目を留め、耳を傾け、静まってみて下さい。神様は今も、ここにおられます。神様は私達を一人にせず、たとえ拒んだとしても神様は離れません。なぜなら私達はすでに神様を受け入れ、信じているからです。

神様はそのことをご存じです。ここに希望があり、平安があります。

2020年12月20日の説教要旨     ルカによる福音書 2:8-20

クリスマス礼拝   「喜びの知らせ」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」天使ガブリエルは、羊飼い達に現れて、こう告げました。

 本日はイエス様の誕生をお祝いする礼拝を守っております。イエス様は、約2000年前、この地上にお生まれになりました。ある宿屋の家畜小屋の一角で産まれ、飼い葉おけの中に寝かされておりました。それはどの宿屋もいっぱいで泊る所がなく、やむを得ず家畜小屋に泊ったのでした。

天使ガブリエルのお告げを聞いた羊飼い達は、ユダヤの町ベツレヘムにごく近い郊外で野宿をしていました。町から離れて、羊の世話をするのが彼らの仕事でした。羊飼い達は、世間からは軽蔑されていて、おそらく存在の薄い者たちだったと考えられます。

*主の栄光が周りを照らした(9節)

 そのような羊飼い達に、主の天使が近づいて主の栄光が彼らの周りを照らして、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。かつて、モーセが神の山シナイ山で神様と出会った時、厚い雲の中から突然強い光が差したような、人が立っていることが出来ないような、霊の力を伴う主の栄光の前で、羊飼い達は、強く押し迫られるような感覚に襲われて、非常な恐れを感じたと思います。

*天使ガブリエル

天使ガブリエル(神の前に立つ者の意)は、イエス様の誕生を知らせる以前にも、洗礼者ヨハネの父・祭司であったザカリアに現れています。

ザカリアが祭司の務めで香をたいていた時でした。ガブリエルは香壇の右に立ち、ザカリアに「ヨハネ誕生」という喜びの知らせを伝えました。しかし、ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。ザカリア夫婦は年をとっていたからです。その不信仰のためザカリヤはヨハネ誕生まで話すことが出来なかったとルカ福音書は伝えています。

*目に見える「しるし」

民全体に与えられる大きな喜び」を先に知らされたのは、存在の薄いとされる羊飼い達でした。天使は続けて冒頭の言葉(11-12節)を伝えました。メシア(油注がれた者・救い主)が生まれた知らせでした。この神様の言葉を彼らはどうやって信じることが出来たのでしょうか。羊飼いに示されたしるしは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。 ヨハネの父ザカリアは、天使の言葉を信じることができず、約束の実現まで「口がきけなくなる」しるしを与えられましたが、羊飼い達は、天使に告げられた言葉の後に、突然、この天使に天の大軍が加わり「『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』との賛美を聞きました。羊飼い達はこのことを目の当たりにし、メシア誕生が事実であることを確信することが出来たのではないかと思います。羊飼い達は天使が去った後、主が知らせて下さった出来事を見に、急いでベツレヘムへ向かい、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そしてこの光景を見て、羊飼い達は天使が話してくれたことを人々に知らせました。

*わたしたち

この知らせを聞いた人達は不思議に思い、理解できない様子でした。しかしマリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、いろいろ考えていました。私達もクリスマスの出来事に目を閉じて深く静かに思いを巡らす時、見過ごすことのできない何か大切なものがあること、本当の真理がここにあることに気付かなければならないと思います。羊飼い達は、ことのあまりの素晴らしさに心を踊らされて喜びに満ち、賛美しながら帰って行きました。神様が自分達に目をとめて下さり、救い主の誕生を知らせて下さった喜びこそ、私達に与えられた「クリスマスの喜び」です。この喜びの知らせを信じるか信じないかは生きる者の選択にかかっています。私達はこの喜びの知らせを聞き、イエス様の誕生を待ち望み、この場所へ導かれました。共にこの日を喜び、祝おうではありませんか。