「『ナザレの人イエス』と呼ばれた主」 牧師 平賀真理子

/nイザヤ書11:1-5 /nマタイ福音書 2:19-23   /nはじめに  「ナザレの人イエス」…イエス様は、生前このような呼び方をされることがありました。私達信仰者はイエス様のことを「イエス・キリスト」と呼びます。「キリスト」とは、「救い主であるイエス様」という意味です。私達が「イエス・キリスト」という時、それだけで「イエス様を救い主として受け入れる信仰」を表明しているのです。 約2000年前、イエス様は御言葉の素晴しい説き明かしや奇跡などを通して一般民衆の間では慕われていましたが、当時の権力者やユダヤ教有力者達にとっては認め難い存在でした。なぜなら彼らは、「心を見抜く神様」のことを知っていながら、イエス様の内側を探るより先にイエス様を外側から判断していたからです。彼らは、イエス様が「聖なる都・エルサレム」を中心とするユダヤ地方の出身者ではなく「ガリラヤ」という外れた地方の「ナザレ」という田舎村の出身であり、更に、「大工」という一般庶民階級出身であったことにつまずいたようです。しかし、「ナザレ」については旧約聖書の預言者により、前もって知らされていたことをマタイ福音書は証ししています。 /n「ナザレ」は預言の成就 その一つは、今日の旧約聖書イザヤ書11:1に、「エッサイの株から出る若枝」とあります(エッサイはダビデの父)。「救い主」はダビデの子孫から生まれるとイスラエルの人々は信じてきました。「若枝」(ネ―ツェル)」も「救い主」を表し、また、「若枝」と「ナザレ」の発音が似ています。「ナザレ」は救い主が出るのにふさわしい土地であると考えられています。 /n神にささげられた、聖別された人  又、「ナザレ」の発音と「ナジル」の発音は似ています。「ナジル人」(アラビア語のナザラが語源)には、「誓われた者」という意味があり、ここから更に発展して「神にささげられた人、聖別された人」と言う意味があるそうです。ここでは、ナザレ人イエス様が「ナジル人」のように神様の前に聖別された人生を歩まれたことを暗示する言葉として読むことが出来ます。 /n『ナザレの人イエス』と呼ばれた主   今日の聖書の直前に、夢で天使からヘロデ王の殺意を知らされ、両親は幼いイエス様を連れてエジプトへ逃げたことが記されています。その後、再び天使からヘロデ王の死によって、イスラエルに戻るよう示されます。イエス様の父なる神様は、御子イエス様を「ガリラヤのナザレ」に導かれました。当時のイスラエルの人々にとってユダヤ地方から離れたガリラヤ地方は同じ国とは思えない地域であり、「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書8章)と言われ、ヨハネ福音書には「ナザレから良いものが出るはずはない」との弟子の友人の言葉があります(1:46)。  神様の御心をすべて理解することはできませんが、「ナザレの人イエス」と呼ばれる理由の一つは、神様のへりくだりの本質の表れであり、二つ目には、弱さを愛する神、しかし同時に、弱さゆえに神が共にいて下さることへの強さを示しているように思います。聖書に証しされている神様は、人間を愛し、へりくだって共に歩んで下さるお方です。イエス様はそのへりくだりの故に、小さい時から多くの苦難の中に投げ込まれて、神の御子とはおよそふさわしくない低さに置かれました。 /n救いの御業 神様の救いの御業は、預言により前もって知らされ、天使による夢のお告げ、星の動きや人間界の出来事までも用いられて、信仰者を通して実現していくことを聖書は何度も示しています。私達も一つ一つの出来事を、表面的な感情だけで反応するのではなく、神様の御心が示されていることとして受け止め受け入れていく訓練が必要ではないか。そのことを通して私達が主の神殿として主が働いて下さるようになるのではないかと思います。今週一週間、聖霊の助けを祈り求めて参りましょう。

「聖霊が宿る神殿」 牧師 佐藤義子

/n歴代誌上 29:10-20 /nコリント一 6:12-20  </span>  /nはじめに  今朝は、コリントの教会のクリスチャンにあてたパウロの手紙から学びたいと思います。コリントの町は、東洋と西洋の中継地として栄え、経済・文化・宗教などギリシャと東方の思想が出会う場所でした。パウロが伝道した当時、東西南北の交通路の交差点という恵まれた地理的条件から世界の国際商業都市として繁栄しておりました。その一方で、宗教的、道徳的には堕落し、神殿娼婦と言われる人達が多数存在していたことが伝えられています。 パウロが伝道旅行中、コリントの町に滞在して教会の設立にかかわりましたが、この地を去った後、アポロやペトロも伝道しましたので、教会は成長を続けました。しかし教会内で、私はパウロ派、私はペトロ派、私はアポロ派などと分派に分かれるというような問題が起こりました。さらに、コリント教会の中にまで道徳的腐敗が入りこみ、不品行を行なう者がでてきたのです。コリントの教会に起こった諸問題に対して教会の責任を持つ人々は、パウロに助言を求める手紙を書き、パウロはその返事としてこのコリントの信徒への手紙を書きました。 /nすべてのことがゆるされている 信仰者であるにもかかわらず性的不品行を行なう人達は、自分のしていることを悪いとは考えていませんでした。彼らの口癖は「私には、すべてのことが許されている」でした。彼らは当時はやりの思想であった「霊と肉を分けて」考え、「自分達はイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な存在とされた者だから、魂の救いはすでに完了している。それゆえ肉体は重要ではなく、肉体が何をしても全く問題はない。」と主張して、「だから、わたしにはすべてのことが許されている」と言っておりました。  イエス・キリストを信じる者は、神様によって「神の国の民」とされた者であり、この世の価値観から自由にされた者です。しかしパウロは、彼らに二度繰り返して反論しています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">しかし、すべてのことが益になるわけではない</span>。」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">しかし、わたしは何事にも支配されはしない</span>」と。 /n反論の根拠 パウロは、不品行を戒めなければならない四つの理由を挙げます。 1.私達の体は、主の栄光を現す為にあること。2.私達の体は、主への奉仕の為にあること。3.私達の体はキリストの体の一部であること。4.性的不品行は、私達の全人格を破壊する行為であること、です。   パウロは食べ物を例にとり、食べ物で人の体が汚されることはないけれども、娼婦との交わりは、その尊い体を汚すことになるということを、創世記の「二人は一体となる」との結婚の箇所から教えます。つまり、クリスチャンは、イエス様の復活の命を神様から与えられた者であり、やがて終末の時には復活の体が与えられる約束があります。そして復活の命をいただいた私達は、キリストの体の一部とされ(15節)、主に結び付き、主と一つの霊とされます(17節)。そうであるならキリストの体の一部とされている者が、娼婦と性的交わりに入ることなどあり得ず、それらの行為は厳重に慎まなければなりません。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい</span>。」   私達は、イエス様の十字架を通して、イエス様によって、神のものとされました。私達を神様から隔てていた罪を、イエス様の十字架により取り除かれました。イエス様が御自身の血をもって、そのような尊い犠牲の代価を払って下さったことにより、私達は神のものとされました。私達の体は、神様からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であることを心に刻み、そのことを感謝し、聖霊が宿る神殿にふさわしい体の持ち主として歩むことが出来るよう祈りつつ、今週も歩みたいと願うものです。

「命と幸いを選ぶ」 牧師 佐藤義子

/n申命記30:11-20 /nペトロの手紙一 1:3-9     /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の弟子ペトロが小アジアのキリスト教会にいるクリスチャンに宛てた手紙です。ペトロは手紙の初めで、クリスチャンのことをこう表現しています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、『霊』によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれたのです</span>。」  /n血を注ぐ 旧約の時代、人間が犯した罪を神様から赦していただくために、律法に従い、大祭司が人間の代表として、毎日、神殿に動物をいけにえとして捧げ、その血を祭壇に注ぐことが行われていました。しかし神様は、このような形で「罪の赦し」を与えることを終らせて、愛する独り子イエス様をこの世に遣わされました。そして罪を犯されなかったイエス様の、十字架で流された血が、罪をあがなう(贖罪(しょくざい)血となりました。 言い換えれば、動物の血ではなくイエス様の血が、私達の罪を赦していただく「代価」となりました。この一度限りのイエス様の犠牲によりイエス様を神の子と信じるすべての者に「罪の赦し」の道が開かれました。 ヘブライ書にこう記されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。・・この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪の為、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。</span>」(7:24-27)。 クリスチャンは、信仰によって、神様から罪を赦していただいた者です。 /nクリスチャンは新しく生れさせていただいた者  今日の聖書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生れさせ</span>」(1:3)とあります。クリスチャンは、「罪」によって神様から分離されていましたが、イエス様の血によって罪が赦されて神の子とされたことを信じた時、「復活の命」が与えられて新しく生まれさせていただきました。 イエス様を死から甦らせ、復活の命を与えた神様は、その同じ復活の命を私達にも与えてくださり、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天にたくわえられている財産の相続人</span>」(1:4)とされました。目に見える財産は過ぎゆくものです。そのことを私達は今回の大震災で、はっきりわかりました。それに対して天の国の財産は、「朽ちず、汚れず、しぼまない」財産(同)で、永遠に傷つくことはありません。 /n生き生きとした希望 復活の命をいただいて新たに生まれたクリスチャンには、生き生きとした希望が与えられています(3節)。その希望とは終末に準備されている救いの完成です。その準備された救いを受けるために、私達は、自分の努力や行為によるのではなくて、「神の力により、信仰によって守られています。」ので、心から喜ぶことができるのです。 /n心からの喜び 愛は喜びをつくります。信仰は、神様が私の為にイエス様を遣わして下さったことを確信し、自分の為ではなくイエス様を信じて従っていく生涯へと変えられていき、イエス様に仕えることが喜びとなっていきます。自分を愛し自分の為に生きる者は、自分に出会うものの中に幸せを見出しますから、困難が襲いかかると不幸になります。しかしイエス様を愛する者は、神様の意志(御心)が成ることを求め、神様の栄光が輝くことを求めていくことの中で、大いなる喜びが与えられるのです。それゆえに、今、目の前にある困難や苦しみという試練は、火で精錬される金よりもはるかに尊い信仰によって、終末に与えられる天の財産(称賛と光栄と誉れ)を受け継ぐ希望と喜びに変えられます。私達を深く傷つけたり激しい痛みを与えるような出来事さえも、神様の御支配のもとに置かれており、苦難は空しくは私達を襲うことはありません。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟を守るならば、あなたは命を得、祝福される</span>」(申命記30:16) この御言葉に続く言葉は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聞き従わなければ、必ず滅びる</span>」(同17-18)です。 私達は復活の命をいただいて、命と幸いの道を歩み続けます。

「エジプトへの避難」   牧師 平賀真理子 

/nエレミヤ書31:15-17 /nマタイ福音書2:13-18            /nはじめに  今日の聖書は、東方の博士の帰国から始まっています。博士達はヘロデ大王とユダヤ教指導者達から「救い主誕生の地はベツレヘム」と教えられたので、人間的判断では帰り道に報告をすべきでしょう。けれども「そうするな」と夢でお告げがあったと記されています。「神様を知らない異邦人」として軽蔑されていた彼らに、神様からの働きかけがあったのです。 /n幼児虐殺の出来事 メシア誕生のニュースに不安を抱いたヘロデ大王は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を殺せとの命令を出しました。18節の、「ラケルは子供達のことで泣き・・」というエレミヤ書31:15の引用は、民族の母と呼ばれるラケル(創世記35:16)が、お墓の中から、虐殺された子供達のために嘆き悲しんでいるとの、預言の成就として記しています。 /nエジプトへ  神様の働きかけはヨセフにもあり、ヘロデ大王の殺害計画を夢で知らされ、闇の中を厭わずに命じられるままにエジプトへと避難します。エジプトは、モーセがイスラエル民族を率いて脱出した異邦人の国です。この「出エジプト」の出来事は、イスラエルの人々にとって歴史的な大きな体験であり、彼らの待望する救い主は、モーセの「出エジプト」の形をとると考えられていました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した</span>」(15節)とのエレミヤ預言がこのあと成就する前提として、引用されています。 /n避難 「避難」とは大変な苦難から逃れることです。イエス様の救い主としての歩みは、最初から苦難の連続でした。生まれる前から母胎は旅路にあり、生まれる直前でも両親は宿屋を見つけることが出来ず、お生まれになっても用意されたベッドはなく飼葉桶に寝かされました。誕生後は外国へ避難せざるを得ず、しばらくはエジプトで過ごされました。ユダヤ人の考える「救い主=栄光の主」の姿とは全然違っており、その頂点が十字架でした。 /n十字架による罪のゆるし  幼児虐殺の話は、救い主誕生という喜ばしい出来事が、心根の悪い為政者によって悲しい出来事に変えられています。幼児達は人間社会の罪(武力で権力を持つ者の支配を許している大人)の犠牲者といえます。 イエス様の十字架は、まさしくこのことを表しています。逆に言えば、人間がいかに多くのぬぐい難い罪を背負っているかを物語っています。この「罪」を知らされて「自らの罪」と格闘し、最後は主の十字架によって罪が赦されたことを信じることにより救われることを知っているクリスチャンの行動は大変重要です。 /n東日本大震災 家族や愛する者を亡くされた方々、家屋財産を失なった方々、故郷に帰れない方々など、避難されている方々が沢山おられます。大震災も又、神様が造られた自然界の壮大さを忘れ、人間の力ばかりに頼る傲慢さ、用心を怠る慢心、行政の無力、自己中心、人間が自分の弱さや愚かさや悪さを忘れた「罪」を思い起こさせるために、被災された方々が、私達人間の代表として負われていると見ることができるようにも思います。 震災後の多くの問題に、私達がどのように考え、行動し、歩み続けるかを、贖い主のイエス様が見ておられます。クリスチャンは、表面的でなく、つけ焼刃でない「根本からの救い」が、主の十字架と復活によってもたらされていることを知らされているからです。 /n共にいて下さる神(インマヌエル・マタイ1:23) 今日の旧約聖書で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">息子達は帰って来る。あなたの未来には希望がある</span>」と主は保証して下さっています!私達は、神なしに生きていた時の恐怖や孤独から解放され、「共にいてくださる神」が、ぬぐい難い罪や大きな苦難の中にいる私達に、わかる形で最善の道を示して下さいます(ヨセフや東方の博士達のように)。イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聖霊があなた方にすべてのことを教える</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの名によって何かを願うならばかなえてあげる</span>」(ヨハネ14章)と約束されています。 今週も、人生の様々な問題の答えを教えていただけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

「キリストの洗礼」    牧師 佐藤義子 

/n詩編 89:2-15 /nマタイによる福音書 3:13-17            /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)から洗礼を授けられたことが記されています。 当時人々に洗礼を授けていたヨハネは、神様が私達人間を救う為に御子イエス・キリストをこの地上に遣わされるという救いの御計画の中で大変重要な役割を与えられた人でした。彼の誕生にあたっては、母親の胎内に入る前からすでに父親となる祭司ザカリヤに告知されていました(ルカ福音書1章)。ヨハネの使命は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">民を、神のもとに立ち帰らせ、準備の出来た民を主のために用意する</span>」ことでした。 /n洗礼者ヨハネに関する預言の成就  旧約聖書イザヤ書40章に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">呼び掛ける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る</span>。」(3-5節)との預言があります。  今日の聖書の直前に、ヨハネがユダヤの荒れ野で、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としており、ヨルダン川で人々に悔改めを促す説教をして、悔い改める者に洗礼を授けていたことが記されています。ユダヤの人々は旧約の時代から、長い間、救い主・メシアを待ち続けていましたから、多くの人々はヨハネこそ、自分達が待っていたメシアかもしれないと期待しました。ヨハネのメッセージは、やがてまもなく神様の裁きの時が来る。あなた達は自分の罪を悔い改めなければならない。というもので、生まれた時から律法(十戒など)を教えられていたユダヤ人には良くわかりました。ヨハネは、洗礼を授けるだけではなく、もう一つのことを人々に語りました。それは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる</span>。」(11節)でした。後から来るメシアは高い御力で神の国を支配され、「聖霊と火」でバプテスマを授けるのです。「聖霊」は新しい命を与えるもの、「火」は悪を滅ぼし尽くす力を持っています。火はあらゆる汚れを清めて、神様が現臨して下さる為の、聖化をもたらすものです。  /nイエス様のバプテスマ  バプテスマとは、「浸水する」という意味の動詞からきた名詞です。人々はヨルダン川に身を沈めることによって、自分達は正しいという誇りを捨て去り、神と人の前ではっきりと自分を罪人として表明しました。洗礼が、罪を告白し、悔改めることによって罪の赦しが与えられることならば、罪のない神の御子・イエス様は受ける必要がないと考えられます。ところが群衆に交じって、イエス様はバプテスマを受けに来られました。ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と聞いています。しかしイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです</span>。」と答えられています。 /n「正しいこと」とは神様の御心に適うこと  罪を犯していないイエス様がバプテスマを受けるということは、イエス様御自身が、御自分を、罪ある人間の側に身を置かれ、罪ある人間と同じ者としてその交わりに入ることです。フィリピ書には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました</span>」(2:6)とある通りです。イエス様が洗礼を受けられた時、天は開き、神様の霊がイエス様の中に入り、天からの声が聞えました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者</span>」。こうして神の御子・イエス様の、救い主としての公生涯が始められました。 イエス様は、私達に、聖霊と火でバプテスマを授けて下さるお方です。私達はこのバプテスマをも求めていかなければなりません。聖霊が私達に降る時、私達は新しく造り変えられていきます。私達は洗礼によって、古い自分と決別したはずですが、なお、私達は新しく造り変えられていく必要があります。悪の根が火で焼き尽くされ、聖霊を受けることによって、私達はイエス様に似る者とされていく約束が与えられています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」</span>(ロマ書8:29)

「少年のイエス・キリスト」 牧師 佐藤義子 

/n詩編34:2-11 /nルカによる福音書2:41-52        /nはじめに イエス様の両親として神様から選ばれた父ヨセフと母マリアが、与えられた使命をどのように受け入れていったのかについて、聖書は伝えていますが、少年時代のイエス様については今日の聖書の箇所以外にはどこにも記されておりません。ただすぐ前の40節に「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とありますから、イエス様は両親の愛情を受けながら、神様についても両親からしっかり教えられ、神様からの恵みが豊かに注がれる中で、神様を愛する子供として育っていかれたことを想像することができます。イエス様が、神の御子として生まれた「しるし」は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。今日の聖書も、それに続く「御子のしるし」の出来事といえるでしょう。 /nエルサレム神殿での出来事 ユダヤ人の男子は12歳になるとイスラエルの民の共同体として神様への奉仕の義務が与えられ、旧約聖書で定められた「戒め」に従う生活を 始めることになっていました。両親が、12歳になったイエス様をエルサレム神殿に連れていかれたのはそのような理由からです。この時イエス様は初めて、共同体の一人として神殿に入り、祭壇の前に立ち、又、過越しの祭りの食事をされたことでしょう。しかし聖書はこの時の過越祭については触れずに、祭りが終った後、大群衆の移動の中で両親が息子を見失ってしまったこと、そのことに気付いて二人が親類や知人の間を捜し回り、見つからないまま、捜しながらエルサレムに引き返したことを伝えています。 /n再会 両親がイエス様を見つけたのは三日後のことでした。神殿の境内で学者達と話しをしていました。ずいぶん時間が経過しています。その間の両親の不安と心配を考えれば、母マリアの言葉は当然といえます。 「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。しかし、イエス様の返事は思いがけないものでした。「どうしてわたしをさがしたのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 /nイエス様の言葉の意味 「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(49節)と、あります。イエス様がエルサレムの神殿に残っていたのは、神殿の中庭や広間にはいつも教師がいて、弟子達に囲まれながら教育をおこなっていたので、イエス様はその中に交じって話を聞いたり質問したりすることが出来たからです。そのことはイエス様にとってどんなに楽しい時となり、又、そこで学ぶことこそ、神殿に来た御自身の目的であり責任であると思われていたかもしれません。神殿には旧約聖書の巻物がすべてそろっていて、12歳のイエス様にとって、たくさんの質問の答えを聞くことが出来る貴重な学びの場となっていたに違いありません。イエス様はご自分を捜し回っていた両親の心配を聞いて、自分の居場所はここしかないのに、何でそのように捜しまわられたのですか・・と、逆に驚いたのでした。 /n「父の家」 イエス様は「神殿」のことを「父の家」と呼んでいます。イエス様が父である神様と強いきずなを持ち、イエス様御自身、イスラエルの成人男子としてこれから何をなすべきかを聖書から(=神様から)聞けるこの神殿は、「父の家」としてイエス様を引きとめる力が働いていたことでしょう。 私達はここに教会の礼拝の喜びの原点を見ます。神様を礼拝出来る喜び、聖書を知り学べて、神様・イエス様について正しく知ることが出来る喜び、そして御言葉から勇気を与えられ、時に慰められ、励まされ、時には叱責を受ける・・そのような恵みが与えられる場所、それが父の家=教会です。

「異邦人の救い主」  牧師 平賀真理子

/n詩編67:2-8 /nマタイ福音書2:1-12            /nはじめに  イエス様ご降誕直後の最初の礼拝者は、ユダヤ社会で低く見られていた羊飼い(ルカ福音書)と、ユダヤ人達が「異邦人」とさげすんでいた外国人(東方の占星術の学者)です(マタイ福音書)。主イエス様は、特に社会で虐げられた人々の救い主として、又、神様の約束から外れていた異邦人の救い主としてこの世に来られたというメッセージを、ここから聞くことが出来ます。 /nご降誕の時期と場所  マタイ福音書によれば、ご降誕はヘロデ王の治世(在位BC37年-BC4年)の時、場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは、かつて栄えたイスラエル王国のダビデ王の故郷の町です。東方から来たとは、恐らくアラビア半島か更に東のペルシャをさします。占星術の学者達は当時、天文や気象などを科学的に分析して農業などの生産を支える役割も担っていました。  現在、降誕時期はBC7年-4年、降誕日を12月25日と設定したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とする為に、既存の太陽の祭りと融合させて人為的に決めたようです。すなわち大事な救い主の生まれた時も場所も、実は人間には詳しくは明かされていない。この世における大事な出来事は神様の主権のもとにあり、人間には、おおいがかかったように秘められているということです。私達人間は、ただ神様が示して下さる出来事を注意深く観察し、御心を推し量りつつ行動することしか赦されていないのではないでしょうか。 /n占星術の学者達  学者達は自分の研究の結果、その星が救い主誕生のサインとわかるや否や、自分達の活動をやめて救い主を拝みに行きました。それは神様にとって大事なことであり、神様はそのような者を守って下さいます。  学者達は、ユダヤ教指導者達からの情報を得て、救い主誕生の地ベツレヘムへの道を辿り、星の導きを得ます。彼らがその星の動きを信じた結果、幼子イエス様に辿りつきました。神様の助けに支えられて真理への探究心と救い主を拝みたいとの信仰の結合によって、彼らの望みはかなえられました。御心に適う願いは神様がかなえて下さいます。 /n王と人々は不安を抱いた  一方、「ユダヤの新しい王の誕生」との、外国人(占星術の学者)からの情報は、今の王がその座を追われることを意味します。王とその一族だけでなく王を受け入れて生きている都の人々が、近い将来、不穏な戦いを予想して不安を抱きました。昔ではバビロン捕囚、近くでは「マカバイ戦争」(独立戦争)での経験を思い起こし、現政権が倒れることは命の危険をも予感する、あってほしくない出来事でした。 /n生きて働かれる神様の御業を感知する 神なき人間の世界は悲惨なものです。自分を愛して支配して下さる神様の存在を知らなければ、多くの人間は甘い誘惑に弱く、自分だけが楽しめれば周りの人は関係ない!で済まそうとします。これこそが罪の本性です。逃れられないその罪の状態から人間を救い出す為に、イエス様は神様から使命を託され、その罪の贖いが後の「主の十字架」です。ユダヤ人は救い主について聖書(ミカ書5:1)で知らされていましたが、ユダヤ教指導者達は、この救い主出現が自分の時代に起こると思っていなかったようです。神様の「その時」が彼らの「今」でした。   私達は主の招きにより福音を知らされ、御言葉を知らされています。生きて働く神様が、今私達にも実際にライブで働きかけて下さっていて、聖霊によってそれが起こっていることを全身全霊で感知することが求められています。御言葉を学びつつ、神様を本当に求める信仰者が集まり、捧げる礼拝の中でこそ、神様の御業を知り、感じることができるのです。  神様の御心は、罪の虜(とりこ)になった人間全体の救いであり続けていることを異邦人である私達は、この降誕節に神様の恵みに対して感謝の思いを深め、礼拝でも更に大きく賛美していきたいと願います。 /n詩編67:2-8 /nマタイ福音書2:1-12            /nはじめに  イエス様ご降誕直後の最初の礼拝者は、ユダヤ社会で低く見られていた羊飼い(ルカ福音書)と、ユダヤ人達が「異邦人」とさげすんでいた外国人(東方の占星術の学者)です(マタイ福音書)。主イエス様は、特に社会で虐げられた人々の救い主として、又、神様の約束から外れていた異邦人の救い主としてこの世に来られたというメッセージを、ここから聞くことが出来ます。 /nご降誕の時期と場所  マタイ福音書によれば、ご降誕はヘロデ王の治世(在位BC37年-BC4年)の時、場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは、かつて栄えたイスラエル王国のダビデ王の故郷の町です。東方から来たとは、恐らくアラビア半島か更に東のペルシャをさします。占星術の学者達は当時、天文や気象などを科学的に分析して農業などの生産を支える役割も担っていました。  現在、降誕時期はBC7年-4年、降誕日を12月25日と設定したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とする為に、既存の太陽の祭りと融合させて人為的に決めたようです。すなわち大事な救い主の生まれた時も場所も、実は人間には詳しくは明かされていない。この世における大事な出来事は神様の主権のもとにあり、人間には、おおいがかかったように秘められているということです。私達人間は、ただ神様が示して下さる出来事を注意深く観察し、御心を推し量りつつ行動することしか赦されていないのではないでしょうか。 /n占星術の学者達  学者達は自分の研究の結果、その星が救い主誕生のサインとわかるや否や、自分達の活動をやめて救い主を拝みに行きました。それは神様にとって大事なことであり、神様はそのような者を守って下さいます。  学者達は、ユダヤ教指導者達からの情報を得て、救い主誕生の地ベツレヘムへの道を辿り、星の導きを得ます。彼らがその星の動きを信じた結果、幼子イエス様に辿りつきました。神様の助けに支えられて真理への探究心と救い主を拝みたいとの信仰の結合によって、彼らの望みはかなえられました。御心に適う願いは神様がかなえて下さいます。 /n王と人々は不安を抱いた  一方、「ユダヤの新しい王の誕生」との、外国人(占星術の学者)からの情報は、今の王がその座を追われることを意味します。王とその一族だけでなく王を受け入れて生きている都の人々が、近い将来、不穏な戦いを予想して不安を抱きました。昔ではバビロン捕囚、近くでは「マカバイ戦争」(独立戦争)での経験を思い起こし、現政権が倒れることは命の危険をも予感する、あってほしくない出来事でした。 /n生きて働かれる神様の御業を感知する 神なき人間の世界は悲惨なものです。自分を愛して支配して下さる神様の存在を知らなければ、多くの人間は甘い誘惑に弱く、自分だけが楽しめれば周りの人は関係ない!で済まそうとします。これこそが罪の本性です。逃れられないその罪の状態から人間を救い出す為に、イエス様は神様から使命を託され、その罪の贖いが後の「主の十字架」です。ユダヤ人は救い主について聖書(ミカ書5:1)で知らされていましたが、ユダヤ教指導者達は、この救い主出現が自分の時代に起こると思っていなかったようです。神様の「その時」が彼らの「今」でした。   私達は主の招きにより福音を知らされ、御言葉を知らされています。生きて働く神様が、今私達にも実際にライブで働きかけて下さっていて、聖霊によってそれが起こっていることを全身全霊で感知することが求められています。御言葉を学びつつ、神様を本当に求める信仰者が集まり、捧げる礼拝の中でこそ、神様の御業を知り、感じることができるのです。  神様の御心は、罪の虜(とりこ)になった人間全体の救いであり続けていることを異邦人である私達は、この降誕節に神様の恵みに対して感謝の思いを深め、礼拝でも更に大きく賛美していきたいと願います。 /n詩編67:2-8 /nマタイ福音書2:1-12            /nはじめに  イエス様ご降誕直後の最初の礼拝者は、ユダヤ社会で低く見られていた羊飼い(ルカ福音書)と、ユダヤ人達が「異邦人」とさげすんでいた外国人(東方の占星術の学者)です(マタイ福音書)。主イエス様は、特に社会で虐げられた人々の救い主として、又、神様の約束から外れていた異邦人の救い主としてこの世に来られたというメッセージを、ここから聞くことが出来ます。 /nご降誕の時期と場所  マタイ福音書によれば、ご降誕はヘロデ王の治世(在位BC37年-BC4年)の時、場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは、かつて栄えたイスラエル王国のダビデ王の故郷の町です。東方から来たとは、恐らくアラビア半島か更に東のペルシャをさします。占星術の学者達は当時、天文や気象などを科学的に分析して農業などの生産を支える役割も担っていました。  現在、降誕時期はBC7年-4年、降誕日を12月25日と設定したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とする為に、既存の太陽の祭りと融合させて人為的に決めたようです。すなわち大事な救い主の生まれた時も場所も、実は人間には詳しくは明かされていない。この世における大事な出来事は神様の主権のもとにあり、人間には、おおいがかかったように秘められているということです。私達人間は、ただ神様が示して下さる出来事を注意深く観察し、御心を推し量りつつ行動することしか赦されていないのではないでしょうか。 /n占星術の学者達  学者達は自分の研究の結果、その星が救い主誕生のサインとわかるや否や、自分達の活動をやめて救い主を拝みに行きました。それは神様にとって大事なことであり、神様はそのような者を守って下さいます。  学者達は、ユダヤ教指導者達からの情報を得て、救い主誕生の地ベツレヘムへの道を辿り、星の導きを得ます。彼らがその星の動きを信じた結果、幼子イエス様に辿りつきました。神様の助けに支えられて真理への探究心と救い主を拝みたいとの信仰の結合によって、彼らの望みはかなえられました。御心に適う願いは神様がかなえて下さいます。 /n王と人々は不安を抱いた  一方、「ユダヤの新しい王の誕生」との、外国人(占星術の学者)からの情報は、今の王がその座を追われることを意味します。王とその一族だけでなく王を受け入れて生きている都の人々が、近い将来、不穏な戦いを予想して不安を抱きました。昔ではバビロン捕囚、近くでは「マカバイ戦争」(独立戦争)での経験を思い起こし、現政権が倒れることは命の危険をも予感する、あってほしくない出来事でした。 /n生きて働かれる神様の御業を感知する 神なき人間の世界は悲惨なものです。自分を愛して支配して下さる神様の存在を知らなければ、多くの人間は甘い誘惑に弱く、自分だけが楽しめれば周りの人は関係ない!で済まそうとします。これこそが罪の本性です。逃れられないその罪の状態から人間を救い出す為に、イエス様は神様から使命を託され、その罪の贖いが後の「主の十字架」です。ユダヤ人は救い主について聖書(ミカ書5:1)で知らされていましたが、ユダヤ教指導者達は、この救い主出現が自分の時代に起こると思っていなかったようです。神様の「その時」が彼らの「今」でした。   私達は主の招きにより福音を知らされ、御言葉を知らされています。生きて働く神様が、今私達にも実際にライブで働きかけて下さっていて、聖霊によってそれが起こっていることを全身全霊で感知することが求められています。御言葉を学びつつ、神様を本当に求める信仰者が集まり、捧げる礼拝の中でこそ、神様の御業を知り、感じることができるのです。  神様の御心は、罪の虜(とりこ)になった人間全体の救いであり続けていることを異邦人である私達は、この降誕節に神様の恵みに対して感謝の思いを深め、礼拝でも更に大きく賛美していきたいと願います。

「地には平和」 マーチー・ディビッド先生(東北学院大学)

/nルカ福音書 2:8-14        /nはじめに   ユダヤのベツレヘムの地方で、羊の群れの世話をしていたユダヤ人の羊飼いにとって、「地には平和」という神様から知らせを受けたことは、間違いなく、一生忘れることの出来ない出来事だったでしょう。羊飼い達は貧しいけれども誠実なユダヤ人でした。彼らはおそらく、ユダヤ人達が辛抱強く何年も待ち望んでいた出来事を、目の当たりにする可能性に興奮していたことでしょう。何が起こっていたのかを話しながら、「もしや、これが沢山の預言者達の語ってきたことでないのか・・」「これが約束されてきたメシア(救い主)の降臨なのか・・」「今日、神様は、昔から語り継がれてきた救い主の約束を成就なさった・・」との思いを巡らしていたのではないでしょうか。私達はこの貧しいながらも敬虔なユダヤ人の羊飼いが考えていたことを想像することしか出来ません。しかし少なくても彼らは、何が起きたのか、その様子だけでも見に行かずにはいられなかったのではないでしょうか。 /n平和を待ち望むユダヤ人 ユダヤ人は長い間平和を待ち望んでいました。あまりにも長い間待っていたので、ユダヤ人の多くは疑い深くなっていました。ローマ帝国やギリシャの生活習慣に合わせながら、宗教上そして道徳上の妥協をしていました。それ以外のユダヤ人は何世代にもわたって待ち、待ち続けていました。事実、最後のユダヤ王国がバビロニア人の手におちた紀元前586年以来、彼らの生活は楽ではありませんでした。その後バビロニアはペルシャに制圧され、ペルシャ人がユダヤ人の領主になりました。 イエス様が生まれた頃、ユダヤ人はローマ人からの抑圧的なくびきを負わされ、苦しめられていました。それでも忠実なユダヤ人は、あきらめてはいませんでした。神様の約束を信じ、平和の王を待ち望んでいたのです。   /n平和 当時の敬虔なユダヤ人にとって、「平和」という言葉は旧約聖書の「シャローム」を思い起こさせました。預言者ホセアが語った「地には平和」とは実際にはどのようなことなのだろうかと考え始めるのではないでしょうか。ホセアにとって「神の平和」つまり「神のシャローム」は、ただ良い思想にとどまりません。むしろそれは、実際的で現実的な平和であり、この世界、この時代でも実現しうるものでした。ホセアの言う「シャローム・平和」とは、人々が貧困や強烈な脅しに恐れる必要がない時の状態をいうものです。ホセアのようなユダヤ人にとって「平和」とは、親しい家族や友人達と過ごす楽しさを思い起こさせる暖かさを与えるだけの、ローマ人の幻想をはるかに越えたものでした。 /nシャローム それどころか一世紀のユダヤ人がそうであったように、ホセアにおいても、「平和」は社会的であれ、政治的であれ、又、霊の領域においても意識されるものでした。「賛美」と「交わり」がシャロームの基礎ではありましたが、「地に平和」とは、ぶどうの枝に実がなり、鍋の中には肉があり、その土地から憂いが消えることでありました。さらにこのような平和は、ユダヤ人だけではなく全ての人々に恩恵を与えるものでした。これは、全人類に共通する平和だったのです。 羊飼い達は続けてわくわくしながら、このように物思いにふけりました。「今がその時だろうか。今夜だろうか。我々は本当に神様の最も素晴らしい約束が成就する瞬間に立ち合う祝福にあずかる者なのだろうか・・。」何世代にもわたって、「地には平和」との表現とは ほど遠い生活を送っていたユダヤ人でしたので、忠実なユダヤ人にとってもこのようなことが事実であることを信じることはむつかしかったのです。ユダヤ人は、もはや自分達の国すらもっていなかったのですから。 /n喜びに満ちた言葉「地には平和」 しかし羊飼い達は、天の聖歌隊が「地には平和」「地には平和」「地には平和」と神様の約束を歌うのを聞いたばかりでした。 私達も「地に平和」と言う言葉を聞いています。ただ私達は、この言葉を何度も耳にし過ぎて、ただの言葉として聞いているのではないでしょうか。私達はこの言葉がお店の宣伝に使われているのを見たり、クリスマスカードに書かれているのを見たりします。残念なことに、この喜びに満ちた言葉を何度も耳にし過ぎて、遠い昔のある夜に、羊飼い達がその言葉の本当の意味にわくわくしたようには意味を捕らえなくなってはいないでしょうか。 さらに日本ではイエス様の時代のユダヤ人達のように、圧迫された政権のもとで暮らすことはありません。しかし、今でも沢山の方々がイエス様の時代のユダヤ人達のように、非道な政権の下や、その他社会的に苛酷な状況のもとで暮らしていることを忘れてはならないのです。もしも、何百万人ものしいたげられた人々が、羊飼い達の前に現れた天からの聖歌隊をとおして「地には平和」というメッセージを聞くことが出来たら、この知らせを「希望の知らせ」として受け取ることができたのではないでしょうか。 /n神様からのメッセージ 神様の、「地には平和」とのメッセージは、「新しい自由」つまり平和と、これからにおける新しい希望を提供するということを知ったら、彼らはわくわくしないでしょうか。これらの平和のコンサートは、彼らの心、そして彼らの思いを変え、人生を変えはしないでしょうか。天国の聖歌隊は、アフガニスタンの人々に向けて、イラクの人々に向けて、パレスチナの人々に向けて、ハイチとスーダンの人々に向けて、世界中の受刑者に向けて、崩壊した家族の中で生きようとする人々に向けて、そして日本の地震と津波の被災者に向けて、アンコール演奏を行なったのなら何と素晴らしいことかとの思いにふけるかもしれません。 でもルカ(ルカの福音書の著者)は、言います。天使達は演奏を終え、天国に戻った。そして羊飼い達はその場を去りベツレヘムへと向かったと。 コンサートは終ったのです。 /nクリスマスの良い知らせ しかしコンサートは、本当に終ったのでしょうか。 クリスマスの良い知らせとは、このコンサートはまだ終ってはいない、ということではないでしょうか。天国の聖歌隊を指揮する神様は、生きておられる神様で、それは私達の神様ではないのでしょうか。 聖歌隊が告げるメッセージは、私達へのメッセージでないのでしょうか。イエス・キリストの弟子として、私達はこの御国でのコンサートを続ける者として召されたのではなかったのでしょうか。 私達は「平和の王」を知っているのです。私達はその方が告げる良い知らせを聞いたのです。私達は平和を経験したことがない人に、平和を届けることが出来るのです。私達は彼らに、「シャローム」、つまり心と思いに起きる「いやし」、飢える家族への食事、子供達への教育、そして渇いた魂への音楽、という形を通しての平安を表すことが出来るのです。私達が「地には平和」との知らせを携えて、この世の苦難の中にある人々のところへ持ち寄る時、「私達のために独り子がお生まれになった!」「私達のために救い主が与えられた・主であるキリストの救いです!」「神の愛する息子・神の愛する独り子は、私達のすばらしいカウンセラーとなり、私達の万能の神、私達の平和の王となられた!」と、天国の聖歌隊に加わりながら歌うのです。  アーメン。そしてシャローム。

「救い主の誕生」 牧師 佐藤義子

/nイザヤ書9:5-6 /nルカ福音書2:1-14          /nはじめに   今日は3本目のローソクに火がともされました。来週はクリスマスです。今日の聖書は、ヨセフとマリアがヨセフの出身地ベツレヘムに旅したこと、そしてイエス様がお生まれになった時のことです。マリアは臨月を迎えていましたので、この旅がどんなに大変だったかは想像できます。しかも、ベツレヘムは旅人で混雑しており、どの宿屋も人と家畜で一杯でした。皆、自分のことで忙しく、初めてのお産を迎える若い女性をのことを気づかう人はおらず、飼い葉桶が唯一、赤ちゃんにとって安全なベッドでした。 聖書はこう記します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」</span> /n何も持たずに・・。ただ神の国と御霊のみ。 イエス様のこのような生涯の始まりについて、ある人はこう語ります。「神様がイエス様を、この世のすべてのものを何も持たせることなく私達の間に置かれた・・」「イエス様の生きていかれる国は神の国であり、イエス様に与えられた賜物は『御霊の所有』でした」と。 /n羊飼いに告げられた大きな喜び 宿の中は暗いままです。産まれた幼子に何か変わったことが起こったわけではありません。 しかし外では素晴らしいことが起こっていました。徹夜で羊の群れの番をしていた羊飼いに、多くの人々が待って待って待ち続けた「<span class="deco" style="font-weight:bold;">救い主がお生まれになった</span>」という「<span class="deco" style="font-weight:bold;">大きな喜び</span>」が告げられたのです。 救い主誕生によって、それ迄罪の世界に生きていた私達が、神様の支配のもとで生きることが出来るようになり、神様と人間の断絶に和解の道が備えられました。 地上に平和の到来を告げる神様の救いのみ業です。

 「主を土台とする教会」 牧師 平賀真理子

/n列王記8:52-61 /nコリント書3:7-17         /nはじめに   本日は献堂感謝礼拝です。これ迄、佐藤博子姉のお宅をお借りして礼拝を献げてきた私達に、神様はこのような新しい礼拝堂を与えて下さいました。先ず、神様に感謝を献げます。わずか11年の歩みの後に、このような立派な教会を与えられたことは奇跡としか言いようがありません。人間的にみれば、さまざまな恵まれた状況と多くの方々の献金により、さらに、建築に携わって下さった方々の、誠実なお働きによって建てられたと言えるでしょう。それでもその方々に、そのような良い働きをしたいと思わせて下さって、実際にその事が起きたのは、神様の「特別な恵み」として感謝せずにはいられません。 宗教全体が力を失いつつある現代にあって、神様の力を示す「奇跡」を目の当たりにして、私達は共に感動し、喜び合いたいと存じます。 しかしそれだけで終わるわけにはいきません。私達は、受けた好意に、本当に感謝しているならば、その働きに対してお返しをしたい、その好意に恥じないように生きていきたいと思うのではないでしょうか。 /nソロモン王の祈り  今日の旧約聖書には、イスラエル王国が神様の恵みのもとで大きく栄え、神殿建築が完成した時のソロモン王が献げた祈りと願いの後で、全会衆を祝福した時の言葉が記されています。  王は、神様にささげた祈りが真実なものとなり、神様に恩返しできるように会衆を教え導き語ります。恩返しとは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達の心を主に向け</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主の道に従って歩み</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神様の戒めを守る</span>」ことであり(58節)、さらに、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主こそ神であって、他に神のないことを知る</span>」ことです(60節)。神様によって造られた人間は、神様の掟に従って正しく歩むことこそ「お返しする」(応答する)ことなのです。ところが人間は神様に従い得ず、本来の喜びに満ちた人生から離れて(=罪の世界)しまいました。しかし神様は、罪の世界にいる人間を見放さず、御自分のもとに帰れるように働きかけて下さっています。 神様の所へ帰ることこそ、私達が罪の世界から救い出される道なのです。 /n教会 教会とは、イエス・キリストを頭(かしら)とした、イエス・キリストの身体にたとえられます。使徒パウロは、教会に対して「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエス・キリストという土台を既に据えた</span>」と言いました。この言葉の背景にはコリントの教会が、リーダーをめぐり分裂の危機にさらされていたという背景がありました。パウロは彼らの人間的な判断の危険を見抜き、自分が最初に据えた「土台」=「イエス・キリスト」に立ち返るように勧めています。 主イエス・キリストを土台とする根本精神、パウロが神様から委託されて建てた土台の上に、正しく造り上げられている教会であるならば、その教会の全ての判断は、限りある人間の知性を越えて。神様から示される答えから導かれるものであることを、教会の人々は再び思い起こさねばなりませんでした。さらにもう一つ、思い起こさねばならないことは、「共同体としての教会」が、神様の目から見て、その評価に耐え得る信仰共同体であるかを「問われる日」(終末)が来ることです。 /n「主を土台とする生き方」 今回、建設会社の方々が建物を完成して下さいました。次は私達が、どのように教会の土台に合った建物=「信仰」を打ち立てていくのか、天から見詰められていくことでしょう。「主を土台として生きる」とは、御言葉の実践です(たとえば「山上の説教」マタイ福音書5-7章)。 最後にネヘミヤ記8:10の御言葉を読んで終ります。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である</span>」。