9月24日の説教要旨 「神の国への招き」 牧師 平賀真理子

詩編111:1-10 ルカ福音書14:15-24
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
 ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月17日の説教要旨 「奇跡の愛をあなたに」 キスト岡崎さゆ里 宣教師

ルカによる福音書8:40-48

*奇跡を求めて

本日の聖書箇所はイエス・キリストの奇跡の一つです。「奇跡」なんて眉唾(まゆつば)だと思いつつも、自分の力ではどうしようもない出来事や困難に直面し、無力を思い知らされるときには誰しも奇跡を求めないでしょうか。
本日のお話に出てくる一人の女の人、彼女もそうでした。この人は今でいえば、不正出血で12年間も苦しんでいました。それなりにお金持ちのお嬢様だったのでしょうに、医療費のために全財産を使い果たしても治らないままでした。
聖書の時代、舞台になっているイスラエルでは、この女性の病気は「不浄な病」であり穢(けが)れが伝染する病とされていました。だから誰も彼女のそばに寄りたくもありません。のけ者にされ、差別されていました。しかも病気の原因は?不品行の結果の性病とされ、つまり自分のせい。そして周りからそういう扱いを受けていると、身に覚えがなくても自分自身もそう思い込まされていきます。
その彼女が、治療奇跡を行うイエスの噂を聞きました。「今度こそ治るかも知れない!」と必死の思いで、皆に気づかれないよう大勢の中に身を隠して待っていました。しかしやっとイエスが到着したところに、ヤイロという男の人が来て「どうか私の娘を助けて下さい」と頼み、イエスはその願いを聞き入れてすぐに発とうとしたのです。ああ、イエスが行ってしまう。彼女は取り憑かれたように手を伸ばしました。そしてイエスの服に触れた途端、出血が止まった!確かにイエスの奇跡は本当だった!普通ならこれでハッピーエンドです。

 

*彼女を探すイエス
ところがお話はこれで終わらないのです。なぜならイエスが、自分に触った者を探し始めたからです。とんでもないことになった!穢れた自分が触ったのだ!彼女は、社会的にも地位の高い会堂長のヤイロと違ってイエスの御前に立って願いを申し立てるなど出来なかったのです。怯(おび)えている彼女をイエスはしつこく探す。なぜ?もう病気は治ったのに?
しかし主イエスは知りたかったのです。誰が、自分にさわったのか。服の房にすがりつくようにしてまで助けを求めた、その苦しみを分かってあげたかった。そしてどうしてもこの一言を言ってあげたかった。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 

*不安から解放する愛
「あなたを治した」ではなく、「救った」というのです。私たちは何から救われたいのか。病気や事故、老い、いろいろな障碍、いわれのないいじめや中傷、それらは私たちの心を弱くします。その苦しみが取り除かれることを求めて、お祓(はら)いやまじないまでして奇跡にすがります。しかし不安材料は無くならず、心の平安は訪れません。私たちの心底の願いは、たとえ何があっても一人の人間としての尊厳を持ちたい。そういうことではないでしょうか。だからこそ主イエスは病をいっとき癒やしただけでなく、自ら彼女を探してくださったのです。主イエスの奇跡は「力」そのもの以上に、愛なのです。

 
*光に導かれて
聖書の神は愛です。高い所から人間を見下し、運命を気まぐれに操っているような方ではありません。あなたが苦しんでいるのに耐えられなくて、本当に近くに来て寄り添ってくださった。それがイエス・キリストです。ですからキリストは人間の味わうあらゆる種類の苦しみを味わいました。親しい人にも理解されず、自分が骨身を惜しんで助けた人たちにも裏切られ、神の子なのに十字架に磔(はりつけ)になって死んだ。しかし、イエス・キリストは苦しみの果ての死から復活されました。キリストの復活は、私たちの苦しみを罪の罰とせず、その先に希望を与えてくださったのです。
仏教では人間の人生全体を四(し)苦(く)(生(しょう)老(ろう)病死(びょうし))といいます。ではこの苦しみをどう生きるか。先の見えない暗闇の中を迷いながら不安に行くのではなく、光に照らされて正しい道を歩みたい。キリストは光として愛をもって一緒に歩いてくださるのです。そして困難に遭うときもキリストを信じて手を引かれて歩んでいると、つらい道のりだが悪くない。必ず得るものがある、恵みがあり、成長しながら歩みを進めることが出来るのです。

 
*「信仰」も与えられる
最後に、私たちは最初からこの「信仰」があるわけではありません。しかしそれでいいんです。この物語の彼女ももともと迷信のようなものでイエスの奇跡を求めたにすぎません。しかし主イエスが、彼女の迷信を信仰に高めてくださいました。「あなたが私に信頼したので、あなたは一切の不安から救われた。これからは私がいつも一緒にいるから、安心して行きなさい。」と言ってくださったのです。この時初めて、彼女は本当の救い主に出会うことが出来ました。主は私たちを探して、自ら出会ってくださるのです。これが本当にアメイジング・グレイス、驚くほどの恵みなのです。

9月10日の説教要旨 「高ぶる者とへりくだる者」 牧師 平賀真理子

*はじめに
今日の新約聖書箇所は、まず、イエス様が安息日にファリサイ派と呼ばれる人々の有力者の私宅に招かれて病人を癒した出来事が記され、次に、その場での招かれた側と招いた側、各々の立場で垣間見えた人間の問題点をイエス様が指摘して、神の国の民として生きるために、どう
いう姿勢で生きるべきかを教えてくださったことが書かれています。

 

*安息日に病人を癒すこと
「ファリサイ派」の人々は、神様がくださった「律法」を守ることこそ信仰の証しだと教えていました。「律法」は、イスラエル民族の歴史上の指導者モーセが神様からいただいた「十戒」が基になっています。十戒は文字どおり十個の戒めです(出エジプト記20章1節-17節、申命記5章1節-21節)。この中でも、4番目の教え「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」を特に大事な教えとして、ファリサイ派は人々に守るように教えました。旧約聖書の創世記1-2章にありますが、神様は
6日間で天地全てを造ってくださり、次の7日目に「御自分の仕事を離れて、安息なさった」(創世記2:2)ので、人間も神様に倣い、7日目に安息するように教えました。但し、この7日目は、だらだらと休むのではなくて、神様の御業を賛美し、感謝を献げるために礼拝することに集中すべきであり、その集中をそらす労働などが禁止されたのです。「癒し」という医療行為は労働の一種と見なされ、安息日に行うことは、律法違反だとファリサイ派は教えました。
彼らのこの教えの方が間違いだと指摘なさったのがイエス様です。ルカによる福音書によれば、イエス様が安息日に癒しを行ったのは、今回が3回目です(1回目=6:6-11。2回目=13:10-17)。最初の癒しの業の時から、ファリサイ派は、イエス様に対して怒り、イエス様を排除したいと思い始めました。今回も、イエス様が病人を見るように、わざと画策して、彼らが教えている「安息日を守る方法」を、イエス様はやはり守るつもりはないと、再び確かめたかったのかもしれません。

 

*「十戒」「律法」の根底にあるもの
イエス様は神様の御子です。神様が「神の愛」、または「憐れみ」を根底にお持ちで、御自分がお選びになった「神の民」イスラエル民族に「十戒」を授けたことをよくご存じです。「十戒」や「律法」は、神様が人間を愛している証しであって、人間がこれを自分勝手に解釈して、苦しんでいる同胞を救わないでそのままに放っておくことこそ、神様の御心に背くという、重大な背信行為だとご存知でした。だから、イエス様は、安息日であろうがなかろうが、苦しんでいる病人と出会ったならば、その人を憐れんでいる「神様の御心」がわかり、即座に「癒し」を行ってくださったのです。そして、恐らく、イエス様を陥れようと画策したファリサイ派は、逆に、イエス様から自分達の律法適応の矛盾を指摘され、一言も発せられず、また、何もできずに終わらざるを得なかったです。

 

*「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)
更に、イエス様はファリサイ派に代表される「高ぶる」人間の生き方の誤った姿勢を指摘され、「神の国の民」のあるべき理想の姿勢を教えてくださいました。イエス様は「たとえを話され」(7節)、ここで「婚宴」の席での人間の傾向を語っておられます。「婚宴」とは、神の国で神様と人間が親しく心を交わせる状態を例えたものです。まず、8節~11節は「神様に招かれる」神の民ならどうするべきかが書かれています。前の段落にあるようなファリサイ派の人々の現状を観察なさったイエス様は、彼らが自分達こそ神様に高く評価されて、神様に近い上席に案内されるだろうと思っていることを暗に例えています。しかし、本当に神様の御心を知っている「神の民」ならば、自分の働きを高く評価しないで低く評価して、神様から遠い末席に座る性質を持つはずだと教えておられます。
次に、12節~14節で、ファリサイ派のような性質の人が誰かを招く時には、打算を働かせ、自分に高い評価や富をお返しできそうな人だけを招く傾向があることをイエス様は見抜かれました。本当の「神の民」ならば、この世での自分の評価や富を望みにせず、神様からの御褒美である「永遠の命」を望みとするはずだと教えてくださっています。自分で自分の評価を実際以上に高く見積もる(「高ぶる」)人は「神の民」ではなく、へりくだって低く見積もり、全てを神様の御心に任せることのできる人こそ、本当の「神の民」であり、そのようにへりくだる性質の人間を、神様は愛してくださり、神様が高く挙げてくださるのです。

9月3日の説教要旨 「苦難の道をたどられる主」 牧師 平賀真理子

詩編132:10-18 ルカ福音書13:31-35

 

*はじめに

ルカ福音書の9章で、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた(51節)」とありますので、人々の罪の贖いのために十字架にかかる場所「エルサレム」へ行く定めにあることを御自身は自覚なさっていたのでしょう。その途上で、イエス様御一行は、ヘロデ・アンティパスという領主の領地に入りました(31節から推測)。

 

 

*イエス様の反対派として結託していくヘロデとファリサイ派
ファリサイ派の人々は、ヘロデという領主の権威を笠に着て、イエス様を追放しようとしています。本当にヘロデが命令したのか、ファリサイ派がヘロデの意向を汲み取って先回りしているのか今やわかりません。
また、ファリサイ派の人々の中には、イエス様の身を本当に案じた人もいたのかもしれませんが、ここでは、イエス様の反対者達が次第に結託していき、勢力を強める際の、その端緒を見ることができると思います。

 

*ヘロデへのイエス様の伝言
イエス様は、そんな悪意に満ちた報告をしてきたファリサイ派の人々に対して、ヘロデへの伝言を頼みました。「あの狐」とはヘロデのことです。(狐は、当時のこの地方で、最も狡猾で、凶暴で、役に立たない動物と思われていて、それがまるでヘロデそのものだったからです。)伝言の中心「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)とは、イエス様の「救い主」としての御業を自らまとめ、それは神様が定めたものであり、決して変えられないとの思いが込められていると読み取れます。

 

*「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)
イエス様が悪霊を追い出す権威を与えられており、相手方の悪霊達がイエス様を「神の御子」と認めて去ったことは福音書に証しされています。病人の癒しでは、病いに苦しんでいる人々を目の当たりにした イエス様は憐れみを禁じ得ず、父なる神様から癒しの力をいただいて、彼らを救ったのです。この2つの内容は、イエス様が神様からの力をいただける「神の御子」であることの証しです。次に「三日目にすべてを終える」という御言葉に注目しましょう。「三日目に」とは、旧約聖書においても、神様の御心に適った人の「よみがえり」「復活」を暗示するものです(ホセア6:2、ヨナ2章)。後の時代の信仰者にとっては、「三日目に」とは、「主の十字架」の後の三日目の「主の復活」を想起させる言葉です。イエス様の救い主としての中心的な役割「十字架と復活」を果たすことは神様によって定められているという意味が隠されています。また、「終える」という言葉の元々の単語には「成し遂げる」という意味があり、「十字架と復活」を果たし、神様から託された救い主としての責務「すべてを成し遂げる」という意味を示しています。また、同時に、「三日目にすべてを終える」とは、ヘロデに都合のいい解釈もできます。それは、「領地に御自分(イエス様)が来て、領主ヘロデの勢力を脅かすような出来事は、あとわずか三日程で終わりますよ」という意味にも取れる言葉を用いておられるからです。

 

*「今日も明日もその次の日も、自分の道を進まねばならない」(33節)
イエス様は、ヘロデやファリサイ派などの反対派の人々に御自分の使命を語られたのですが、「十字架」にかかるにあたっては、人間として受けるならば、壮絶な苦痛があることを予め理解された上で、その役割を引き受けられたことがわかります。「進まねばならない」という御言葉の中に、主の苦しい思いがにじみ出ていると感じられます。(だから、説教題を「苦難の道をたどられる主」としました!)しかし、それが神様のご計画なので、イエス様は何よりも優先なさったのです!

 

*神様の恵みを受け続けるために
34節以降で、イエス様はイスラエル民族の中心都市エルサレムが、神様から遣わされた預言者を数多く殺した都であり、御自分も預言者の一人として、エルサレムで死ぬと預言され、神様の御気持ちを慮って嘆かれました(イエス様は「救い主」で、他の預言者とは別格ですが、神様から御言葉を賜って人々に伝える働きもされたので「預言者」とも言えます。)。イスラエルの民は、神様からの一方的な愛を受けて「神の民」として恵みを受けてきたにもかかわらず、神の御子である御自分を「救い主」とは受け入れず、これからも受け入れる人は本当に少ないとイエス様は見通し、そのため、イスラエルの民は、御自分の再臨の時まで、神様から見捨てられると預言なさいました。イエス様を「救い主」と受け入れない民は、神様から見捨てられるのです。私達は、神様の恵みを受け続けられるよう、イエス様を「救い主」として受け入れ、賛美する思いを新たにしましょう。

8月27日の説教要旨 「救われる者」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9 ルカ福音書13:22-30

*はじめに
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。(22節)」エルサレムで十字架にかかる、つまり、人々の罪を贖うという過酷なゴールに向かいつつ、イエス様は人々に「神の国とはどういうものか」を教える、宣教の旅を続けられたのです。

 

*「救われる者は少ないのでしょうか」(23節)
そこへ「救われる者は少ないのでしょうか。」という質問をする人が現れました。「救われる」とは、教会ではよく使われますが、「何から」救われると言うのでしょうか。それは「罪に染まり切っている状態から」です。更に言えば、「全知全能で良いもの全ての源であり、本当の愛を注いでくださる神様から離れている状態から」救われるということです

 

*神様が最初に造った姿とはかけ離れてしまった人間

聖書で言われている「神様」と人間とは、本来なら、人格的な交流ができるはずでした。ところが、人間の側で、神様の教えへの信頼よりも自分達だけの判断を優先したため、神様と交流できなくなる状態に自ら陥りました(参照:創世記3章)。本来、神様に繋がって生きることで幸いを感じるように造られた人間なのに、神様に繋がることをやめたなら、どんなにあがいても、本当の幸いには到達できません。様々な面で限界だらけの人間同士が自己中心で生き、限りある利益を自分の方へと奪い合う競争の世界、これが「罪の世界」「罪に染まり切っている状態」です。そして、人間は「罪のない世界」があることさえも知らされなければ、罪の世界を抜け出そうとさえ思えません。人間は知恵の上でも限界ある存在だと思い知らされます。

 

 

*人間が「救われて」、神様との本来の関係に戻るためには?
イエス様は、神の御子として「罪の世界」ではない世界=「本来、人間が置かれるべき、神様と繋がった世界、本当の幸いな状態」が確かにあると教えてくださったのです。罪の世界から人間が「救われて」本来の状態へ戻ることが起こりうると。それはイエス様を救い主として受け入れ、主の「十字架と復活」の恵みをいただいて神様に繋がれるということです。

 

*「狭い戸口から入るように努めなさい」(24節)

イエス様は23節の質問を受けて一同に対して「『救い』に入る戸口は狭い」と言われ、「救われる者」が少ないことを暗示なさいました。そして、その狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われました。この「努める」という言葉は、元々は「苦闘する、戦いをくぐり抜ける」という意味を持っています。確かに、罪の状態で生きることが当たり前のこの世の中で、「神の国」の基準で生きるのは容易ではないと信仰者の多くが実感されているでしょう。まさしく「入ろうとしても入れない人が多い(24節)」のです。しかし、人間の罪深さにもかかわらず、神様が「救いの道」を用意してくださった、その深い愛に応えたいものです。

 

*神様が定めた「救い」のための時と方法に従える者は少ない!
25節―27節の話は、人々を救うためにこの世に来られたイエス様と、イエス様に出会った人々の例え話です。救い主イエス様は多くの人々が「救われる」ために町や村を巡り歩いて「神の国」に招いたが、いよいよ、十字架と復活の時になり、戸口を閉めると例えられる時になって初めて、事の重大さがわかり、「神の国」に入りたがる人が多いという例えです。彼らは、「主と一緒に食事をした」とか「教えを受けた」とか言い、知り合いだからと特別な温情をあてにして訴えます。しかし、救いの戸口を閉める時を決め、入る許可を出す権利は「主」にのみあるのです。「救い」のために神様が定めた時と方法に従える者は少ないのです。

 

*イエス様を救い主と受け入れた、新たな「神のイスラエル」として
主の御降誕以前の歴史では、神様からの召命を受けて信仰を貫いたアブラハム・イサク・ヤコブや預言者達は「神の国」にいるとイエス様はおっしゃいました。しかし、主の御降誕の後では、神様が先に救おうとされたイスラエル民族は、イエス様を「救い主」と受け入れなかったために、「救われる者」としては後になってしまい、神様の最初の計画では後回しになっていた異邦人が先に救われるようになる(30節)と、主は預言され、それは本当に実現しています!そして、今(新約時代)や、「イスラエル」とは、血統上の民族のことではなく、イエス様を救い主と受け入れる信仰を与えられた信仰者達を指すようになりました。主を信じる私達は、「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)という名にふさわしく、主の恵みを受けて、信仰の戦いに勝利し続けられるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

 

8月20日の説教要旨 「異言は己を、預言は人を造り上げる」 野村 信 先生(東北学院大学)

詩編145:8-16 Ⅰコリント書14:1-5
*はじめに
今日の新約聖書箇所から、使徒パウロが二つのことを述べていることがわかります。「①愛を追い求めなさい。②何よりも霊的な賜物を熱心に求めなさい。」ということです。しかし、この二つは実は一つのことです。
*霊的な賜物とは?
体が疲れた時、私達は栄養ドリンクを飲みます。霊的な賜物とは、心の栄養ドリンクのようなものです。かつて、私自身、どん底の状態にあり、沈んでいましたが、霊的な賜物をいただいたおかげで、生き返った体験をしたので、是非語りたいのです。しかし、これは私だけの体験ではなく、大勢のクリスチャンが書き残した物からも読み取ることができます。
*パウロと「異言」
まず、パウロが書いた「今日の聖書箇所」から見てみると、霊的な賜物には2種類あると言っています。異言と預言です。この2つは重なっているけれども、パウロは際立たせて区別しています。「異言」は聖書の元々の言葉であるギリシャ語では「グロッサ」と言い、「舌」とか「言語」という意味の言葉ですが、パウロは以下の2つの意味を含んだものを指していると見ることができます。一つは「異なった言葉」(例:使徒言行録2章にあるペンテコステの出来事)と、もう一つは「神秘を語る」ということです。14章2節でパウロが「異言を語る者は、人に向かってではなく、
神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っています。」と言ったとおりです。異言は聖霊によって語られた「言葉にならない言葉」です。私達は、「神秘」や「異言」を極めて非聖書的と考えがちですが、パウロは違います。同じ書の4章18節で、パウロは自分について「最も異言を語った」と述べています。
*「預言」が重点的に語られてきた末に
また、14章3―4節を見ると、預言は人に向かって語られ、人を造り上げるのであり、異言は自分(=己)を造り上げるとあります。この箇所が説教で語られる場合、多くの牧師は「預言」の方を重点的に語ってきたように思います。歴史的に見て、伝道において未熟な日本で、しっかりした教会を造り上げたいと願って、そのように語られたと言えるでしょう。しかし、21世紀に入った今、立派な建物の教会に、信者達が集まらず、そのために教会を閉めざるを得ない状況が世界中で起こっています。カトリック信者も少なくなっていますが、特に、プロテスタント信者の数の減少に歯止めがかかりません。同様に、私達が所属する日本基督教団の信徒数も減り続けています。何か根本的な
問題があると考えざるを得ないと思います。「預言」だけでいいのでしょうか。
*「異言」によって私達一人一人が活き活きと変えられる
長らく「異言」は不可解で怪しげだから、「預言」を重んじようと教えられてきました。「預言」はとても大切です。なぜなら、人を造り上げ、教会を造り上げるからです。しかし、今、教会に集う私達一人一人が、家庭でも職場でも、キリスト者として活き活きと生きているでしょうか。私自身も、かつては、聖書の教理とか教義、すなわち「預言」を語り続けてきましたが、10年ほど前には、かなりひどく落ち込んでいました。それは精神的な病気と症状は似ていましたが、違います。信仰の問題でした。信仰によって喜びや力が全然湧いてこないという状況でした。数年後に立ち直り、今や、神様のためにずっと働き続けても元気!となりました。己を造り上げることができたからです。しかし、私の周りを見渡しても、牧師や神学者の中に、つまり、「預言」を語る専門家達の中に、燃え尽きて抜け殻のようになっている人々がいることを知っています。(但し、預言=教理や教義は、300~400年かけて生み出されたキリスト教の柱であり、大切なものです!)
*パウロによる教えの再発見
パウロは、今日の聖書箇所で、「異言」を語る大切さを教えていたのです。すなわち、聖霊の働きの中で神様と語り合うこと・神秘を語ることは、「己を造り上げる」ことだと教えてくれます。私達は神様に向かう、または神様と語り合うということの大切さに気付かなくてはなりません。その中には、人間の言葉にはならず、人にはわからないものもあるかもしれませんが、神様に祈る・神様と語り合うことで、自分を造り上げることをおろそかにしてはならないのです。
*「異言」とは? ―歴史を振り返り、数々の著作や著者から―
では、具体的に「異言」とはどのようなものでしょうか。どのように行(おこな)ったらいいのでしょうか。歴史を振り返ると、優れた信仰者達を例として挙げることができます。彼らはしっかり書き残してくれたので、私達が知ることができます。彼らは、異言を存分に語って、力強く、立派な信仰者の生涯を送り、神様と人間に仕えて生きたことがわかります。
その筆頭はパウロです。パウロの書いた手紙の中に、パウロの「異言」と思える箇所がいくつもあります。例えば、「十四年前に第三の天にまで引き上げられた」(Ⅱコリント書12:2)とか、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ書8:22)等です。
また、今日の旧約聖書箇所に挙げた詩編145編でも、この詩人は「造られたものすべて(万物)」が神様に感謝すると謳っていて、これも「異言」と言えます。
アウグスティヌスというキリスト教の立役者は、『告白』という名著を残し、自分の愚かしい、恥ずかしい過去を美しい文体で書きました。
普通の感覚ならば書けないような、自分の醜い過去を神様に告白する、つまり、神様に向かって語るという「異言」となっているのです。
アンセルムスという人も中世の思想家として名高い人ですが、『モノロギオン』『プロスロギオン』という著作の中で、「異言」が多くあります。
さらに、サン・ビクトールのフーゴーという修道士は、民衆達と一緒に聖書を読むために「絵巻物聖書」を作りましたが、彼の『魂の手付金の独語録』という本は、神様への燃えるような賛美を献げる中で、ほとんどが異言を語っていると言わざるを得ない内容です。
私の専門である宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』という有名な教理的な書物を書き、ほとんど毎日1時間の説教をした人です。この説教を聴いていた、当時の1500人程の人々は、霊的な喜びと感動に満ち溢れていたのです。研究者達でこの説教の翻訳を続けています。
地味で飽きてくる内容ですが、これが「異言」です。よくわからない、あるいはあまりにもありふれたものなのに、実際は、霊的であり、神秘的であり、神の世界が広がっているような一時と言えます。
現代で、私達の知っている日本人では、八木重吉というクリスチャンの詩人がいます。彼は短い生涯の中で二千もの詩を残しましたが、「霊感の人」と言ってもいいでしょう。神秘の中で不思議を語った人です。
20世紀を生きた人に、神谷美恵子という人がいました。彼女は結局キリスト教の洗礼を受けませんでしたが、ほとんどキリスト者であると言えるような天才的な人でした。この人の日記の中には、不思議な神秘的な語りが何度も出てきます。また、著作『生きがいについて』で「変革体験(本当は「神秘体験」と名付けたかったらしい)」という箇所があり、これも「異言」の一種と言えるでしょう。
それから、カトリックの神父で、八ヶ岳で庵を編んでいた 押田成人という方がいましたが、彼の著書『遠いまなざし』も、ほとんど異言と言えるような不思議で神秘的な話です。私は、自分自身が霊的なものに触れて立ち直った後に、この方の本を読んだところ、内容が理解できるようになってきました。
*「異言」によって、己を高め、強めることができる!
今まで述べてきたように、「預言」は建徳的であり、人や教会を造り上げるものですが、「異言」は霊によって語られるもので、自分を造り上げるものです。一人一人が取り組むべきものであり、他人にはわからなくても、自分を高め、強めるものです。だから、パウロは「霊的な賜物を追い求めなさい」と言っているのであり、私達一人一人は、神様との対話の追求を行(おこな)っていきたいものです。
*「神の愛」を追い求める私達に、霊的な賜物が注がれる
今日の聖書箇所の直前のⅠコリント書13章は「愛の賛歌」と呼ばれる、愛についてのパウロの語りが出てきます。そして、14章の初めの第1節で、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物を熱心に求めなさい。」とあります。
ここでの「愛」とは、「アガペー」とギリシャ語で呼ばれる愛であり、それは「神の愛」を指しており、神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬことによってもたらされた「人間の罪の赦し」に示された「神様の無償の愛」のことです。
ですから、14章1節の「愛を追い求めなさい」とは「神様を・キリストを追い求めなさい」と同じです。神様と愛とは直結しています!だから、「神の愛」を追い求めると、そこから派生して、神様の豊かな、様々な霊的賜物が私達の上に注がれます。神様から賜る私達へのプレゼント、つまり、異言や預言をいただけて、神様に繋がります。実は、Ⅰコリント書の12章から14章までずっと霊的賜物について書かれており、神様を追い求めると、神様との交わりを持てると言えます。言い換えると「証し」です。これが自分にとってのかけがえのない神秘となり、私達一人一人は霊的な力を得て、活き活きと生きていけるのです!

8月13日の説教要旨 「『神の国』の喜び」 牧師 平賀真理子

イザヤ書45:20-25 ルカ福音書13:10-21

*はじめに
今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、特に、一つ目の段落の内容は、単なる奇跡物語だけではないことをお伝えしたいと思います。一つの癒しの出来事を通して、イエス様が示してくださる「神の国」と、「人間」の造る世界の違いが浮き彫りになっています。後者の「人間」とは、イエス様の「反対者」(17節)であり、イエス様が「偽善者たち」(15節)と呼んだ人々で、神様を知っていると言いながら、実は、自分の罪深さにより、神様に背いている者達です。
*安息日とは?
「安息日」とは、ユダヤ教を信じる人々が、安息するように教えられていた、一週間の内の七日目のことです。「安息する」とは、単にだらだらと休むことが目的でなく、神様を賛美することを第一とするために、他に気を取られることを避けるということです。ユダヤ教の中で大事にされる律法の根幹をなすものとして「十戒」という教えがあります。
旧約聖書の中で、2箇所=出エジプト記20章・申命記5章にその教えは書かれています。そこからわかるのですが、週の7日目に安息するのには2つの理由があります。一つは神様の天地創造の御業を賛美するためです。もう一つの理由は、神様が人間を罪から救うためにまず選んだイスラエル民族が大変な苦しみに遭っている時に、神様が様々な働きかけをしてくださって、この民族を苦境から救い出してくださった歴史を思い起こして、神様の救いの御業を賛美するためです。
従って、週の七日目の土曜日にユダヤ教徒は礼拝を献げるのですが、この日には仕事をしてはならないという解釈を指導者側が勝手に作り、「癒し」は、医療行為という「仕事」の一つなのだから、イエス様が安息日に癒しをなさったことに対して、ユダヤ教の指導者達は自分達が大事にしている教えに背いたとして目くじらを立てたのです。
*病の霊に取り憑かれた婦人をすぐに癒された主
18年間も病の霊に取り憑かれていたのに、ユダヤ教指導者達からは存在しないかのように待遇されていた女性に対し、イエス様は出会ってすぐに癒しの手を差し伸べ、「アブラハムの娘」と呼んでくださいました。「アブラハム」とはユダヤ教徒にとって、唯一の神様を信仰し始めた「信仰の祖」として敬愛されている人物です。イエス様はその子孫でもある、この女性=神が選んだ民族の一員である人間が病の霊に取り憑かれていたことに大きな憐れみを禁じえなかったのでしょう。なぜなら、イエス様はこの世に「神の国」を実現するために来られたのですから。イスラエルの民が病の霊に取り憑かれるとは、この世で悪の霊が力を振るう状況を許すことであり、イエス様は神の御子・救い主として、悪の支配を打破する必要がありました。救いを求める人間に目を留め、すぐに働きかけてくださることができる、これが聖書で言われる「神様」の性質の一つです。
*人々を不自由へと束縛する指導者達と、人々を悪から解放して自由にする主
ユダヤ教指導者達は、安息日には仕事を禁じるなら、家畜に水を飲ませる仕事も禁止すべきでした。でも、実際は許されていました。なのに、人々には「安息日」だから、癒しを受けたい場合は別の日にすべきだという指導は、人間を愛して「救いたい」と切望されている神様の御心とは全くかけ離れたもので、人々を不自由にし、悪霊の頭サタンの方へ縛って行っているのです。一方、イエス様がこの婦人に行った癒しは、神の力によって、病の霊から女性を解放し、神様を賛美する方へ導きました。結局、イエス様のお話と御業によって、反対派は皆恥じ入ることとなり、群衆は神様のすばらしい行いを喜ぶこととなったのです。
*「神の国」の喜び
神様の偉大さを益々喜ぶ群衆に対し、イエス様は喜びが大きくなり、「神の国」について、群衆にもっと教えたくなられたようです。神様と人間の本来の関係、互いの交流によって喜びなどの良いもので益々満たされる様子が読み取れます。
そして、「神の国」が広がる様子が2つ目と3つ目の段落の2つの例えに示されています。一つ目は「からし」についてで、とても小さい種が2~3メートル程に成長し、その枝に様々な鳥が巣を作る様子は、福音が世界中に広がり、多くの人々がそこに宿るようになるとの預言であって、実際、2000年の時をかけて、その預言は実現しています。もう一つ、パン種がパン全体に膨らむ例えは、人の心の中に植えられた福音が、その人の心を満たすようになることの例えです。「神の国」は人間を自由にし、神の民は内外で豊かに成長・発展できるのです。

8月6日の説教要旨 「悔い改めを待たれる主」 牧師 平賀真理子

詩編32:1-7 ルカ福音書13:1-9

*はじめに
イエス様が群衆に語っておられる時に、何人かの人々が来て報告したというところから、今日の箇所は始まります。

*「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という報告の意味
ピラトは、ローマ帝国からイスラエルに派遣された総督であり、その支配により、イスラエル人々は苦しめられました。圧政が行われ、その支配に反対する人々は否応なく殺されてしまうこともありました。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ことについて、
ここで理解すべきことは、このガリラヤ人達がピラトによって殺されたことです。ローマ皇帝の権力を笠に着て、ガリラヤ人達を不当に殺した、しかも、その場所がユダヤ教を信奉する彼らが大事にする神殿の庭だったと推測できます。ユダヤ教が異邦人(ローマ人)から冒瀆されたわけです。

*「罪深い人間がひどい目に遭う」と考える者
報告者達は、殺されたガリラヤ人達が特に罪深い人々だったから、その罪の重さのために殺されたと思い込んでいるようでした。これは、ユダヤ教の中でも、特にファリサイ派の人々に特徴的な考えでした。彼らは、神様の御心に適うことを願い、それ故に、神様からいただいた「律法」と呼ばれた掟を守ることを何よりも大事にしました。だから、それを守れない人々を罪深いと見なして裁き、除け者にすることに熱心になりました。これは本末転倒、つまり、人間を救いたいと愛してくださる神様の御心から離れているとイエス様は教えてくださっています。

*神様の目から見れば、どの人間も同じように罪深い
イエス様にとって一番大事なことは、人々が互いに罪深いとなじり合うような、それこそ「罪深い状態」から救い出されることです。神様の目から見れば、どの人間も同じように罪深いので、人間同士で罪の軽重を争っても意味がありません。自分が神様の御心からどれ程離れているかを自覚し、神の御前で正しくなれるように祈り求めなければなりません。

*「あなたがたも、悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3節・5節)
一つの出来事を見て、当事者が悪いからだ!私は律法を守っているから、そんな目に遭うはずがない!ひどい目に遭った人が悪いのだ!同情する余地はない!と考えることは、神の国の民として適切ではなくて、自分にも同じように罪深くないのか、神様の御心に適った生き方をしているのかを悔い改めなければならないとイエス様はおっしゃっているのです。

*「悔い改める」とは?
「悔い改める」とは、自己中心の生き方を止めて、神様(の御心)中心の生き方に方向転換することです。「悔い改め」で気をつけることは、自分の悪い所やダメな所をただ反省するだけで終わってはならないということです。神様が現状の自分をどのように見ておられるかに思いを馳せ、御心どおりにできない自分をすべて、救い主の救いに委ね、その後は、(イエス様の救いを信じているならば)神様の御心に従えるはずだと確信しつつ、行動していくこと・生きていくことを祈り求めたいものです。ただただ、「私はダメな人間です~。」だけで終わるのは、信仰者として中途半端であることを肝に銘じたいと思います。

*「恐ろしさ」さえも用いて、人間の悔い改めを待たれる主
今日の箇所よりも前の12章の後半から、イエス様は弟子に向かっても、群衆に向かっても「恐ろしさ」を盾に人間に迫っているように感じます。これは、イエス様が「神の裁き」について大変な緊張感をもっておられたことを示しています。厳しい「神の裁き」に耐え得るため、信仰幼き人々に「悔い改め」が必要だと伝えようとなさったのです。一人でも多くの人間が、御自分の救いの御業の恵みの素晴らしさを理解できることを切実に願っておられたのでしょう。

*「実のならないいちじくの木」の例え(6節-9節)に示される主の御心
「ある人」とは「父なる神様」の例え、「園丁」とは「イエス様」の例え、「いちじくの木」は「イスラエル民族」の例えです。信仰の実を付けないイスラエル民族を滅そうとなさる「父なる神様」に対し、イエス様は、彼らが信仰の実を結ぶために様々な方法を試そうと時間をいただいたのです。(しかし、最後には「神様の裁き」が必ずあることを忘れてはなりません(9節)。)この猶予期間の内に、イスラエル民族ではなく、異邦人である私達が救いの恵みを受けました。全人類に対する、新たな救いを神様は考えて実現してくださったのです!人類を愛し、その救いのために働いてくださる父なる神様と御子イエス様に深く感謝しましょう!

 

7月30日の説教要旨 「時を見分け、救いを受ける」 牧師 平賀真理子

ヨナ2111 ルカ福音書125459

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様が群衆に向けた教えとして、ルカ福音書は記しています。12章1節から53節まで、イエス様の教えは、主(おも)に弟子達へ向けられています。イエス様は、御自分の救い主としての使命=「十字架と復活」だけでなく、この世を去った後に、再びこの世に来ること=「再臨」も前もってわかっておられました。だから、御自分を救い主として受け入れ、すべてを捨てて従っている弟子達に「目を覚ましている僕」の例え話をなさったのです。御自分の死後、弟子達が意気消沈せず、緊張感をもって主の再臨の希望を持ちつつ、この世での福音伝道という大事な使命を果たすようになるためです。イエス様の弟子として、それは、本来喜ばしいことです。しかし、この世の現実を鑑みるならば、イエス様を受け入れる者と受け入れない者とは、決定的な分裂が起こるとわかっておられ、それに備えて、彼らの心の準備をさせようとなさり、「分裂をもたらす」例え話をなさいました。

*群衆に対して

さて、群衆はどうでしょうか。彼らもイエス様の噂を聞き、そのお話を聞いてみたい!とか、癒しを受けたい!と思って集まったのでしょう。そして、イエス様が近くに来られたので、一時の間、近寄ったと言えるでしょう。一時的に、イエス様が救い主かもしれない、そのように信じてみたいと思っていたでしょう。信仰上、先に歩む弟子達のように、全てを捨てて従うかは、この後の問題です。群衆とは、言わば、弟子候補の人々です。彼らに向かい、イエス様は教えを授けてくださいました。

*群衆の「自然現象を通し、近い将来を予測できる能力」を信じて

群衆一人一人が、自然現象を見て、近い将来に起こる出来事を予測し、生活に生かしている現実を引き合いに出して、そのような能力があるなら、神様にとって一番大事な「人間の救い」について、今(イエス様がこの世に生きておられた2000年程前)、素晴らしいことが起こっていると理解する能力もあるはずだと教えたのです。当時、そこに生きていたイスラエルの人々は、ずっと昔から預言されて待っていた「救い主」がこの世に来て、我々の所を回っている!「救い主」との出会いがたくさんある!ということが理解できるはずだとイエス様はおっしゃっていたのです。(56節の「今の時」とは、救い主がこの世に到来したという、素晴らしい時という意味です。)イエス様のお話や癒しの御業が、神様の御力を示していて、それが本当に素晴らしいと群衆が賛美したことは、福音書に数多く書かれています。「神様の御力をいただけるのは、罪ある人間にはできない(参照:ヨハネ9:31、ヤコブ5:16b)」と群衆はわかっていました。それは「神の御子・救い主」にしかできないというのが人々の認識でした。つまり、イエス様のお話や御業により、イエス様こそ救い主だとわかる能力を、群衆が一人一人が確かに持っていることを、イエス様は指摘なさったのです。彼らが、この世で救い主との出会いがある「今の時」の素晴らしさを理解し、御自分を救い主として受け入れてほしいと切実に願われたのです。そして、その大いなる恵みを、ほんの一時なものにとどまらせず、弟子達のように、人生の中で少しでも多く受けて欲しいと願われたのでしょう。

*「何が正しいかを自分で判断しなさい」

今日の箇所の2つ目の段落で、まず、57節で、イエス様は、何が正しいかを自分で判断することを群衆に勧めておられます。2000年も前の人間一人一人の判断力をイエス様は信頼しておられたのです!また、この後、群衆は自分の判断を捨て、当時の権威者達であるファリサイ派の人々や律法学者達の扇動に従ってしまい、イエス様を十字架につける働きに加担するようになることを、主は見抜いておられたのでしょう。そうなっては、神様の方から授けられた「救い」を受けずに愚かにも捨て去ることになるのです。だから、そうならないように、根本的な解決法、つまり、人々が「神様からの救い」を自分で理解し、イエス様を救い主と信じると自分で判断して行動することを指導してくださったのです。

*神様が授ける「救い」を受けてほしいという主の憐れみ

今日の箇所の58節―59節の話は、神様からの救いの御業を受け入れることを拒む人間の例えです。神様の求める「完全なる正義と愛」に従って生きられる人間は一人もいません。人間は罪深いのです。その罪が、主の十字架で贖われたと信じる者だけが、自分の罪を埋め合わせていただき、神様と和解できます。神様の裁きを受けて人間が滅びないように、主は憐れんでくださっていたのです。

7月23日の説教要旨 「この世からの分離」 牧師 平賀真理子

ミカ書717 ルカ福音書124953

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、12章1節から始まる、弟子達への一連の教えの結びとなります。(次の段落からは群衆に語り掛けられています。)弟子達は、イエス様亡き後、主の再臨の希望を持ちつつ、福音伝道の務めを果たす使命が与えられることをイエス様はご存知でした。それは、長い目で見れば、もちろん、希望に満ちたものです。しかし、人間的な短い期間で見るならば、希望だけでなく、試練も多い道となることも主は見通されていたことでしょう。

*受けねばならない洗礼=「主の十字架」

弟子達の苦難の道は、先だって歩む主イエス御自身の道と同じように厳しい道でした。「受けねばならない洗礼」(50節)とは「主の十字架」のことです。「十字架の苦難と死」は人々が本来個別に受けるべき「神様の裁き」を、救い主であるイエス様が肩代わりしてくださったものでした。

*「神様の裁き」によって滅びを免れる者と滅びてしまう者

「神様の裁き」は大変激しいもので、ここでは「火を投ずる」と例えられています。「主の十字架」を自分の罪の贖いと受け入れた者が、神様の御心に適う人です。この人々は神様の裁きが来ても、滅ぼされることを免れます。一方、それを受け入れない者は、神様の御心に適っていないので、神様の裁きによって、完全に滅ぼされてしまうのです。

*「平和ではなく、分裂をもたらす」という御言葉の裏にあるもの

罪深い人間に対する「神様の裁き」を逃れさせるべく、イエス様は、十字架にかかる定めを、苦渋の末に受け入れました。それはフィリピ書2章8節にあるような「死に至るまで従順」な姿を父なる神様に示すことでした。それは、救い主として、神様に対する絶対的信頼を天地すべてに示すことでした。であれば、救い主として、本当の平和を人々に与えていると言えるはずです。つまり、十字架による「罪の贖い」のゆえに、罪深い人間が罪赦されて神様に繋がることができて、互いに良いもので満たされ、良い関係性を築けるようになるはずです。けれども、51節以降でイエス様は、御自分がこの世に来たのは、平和ではなく、分裂をもたらすためだとおっしゃって、その状態を説明なさいました。これは、弟子達をはじめとした、人間の「物の見方」に合わせた御言葉だと思われます。「人間の物の見方」は表面的で、一時的なものです。イエス様の十字架が、自分の罪の贖いだと受け入れることは、人間の物の見方だけでは大変難しく、そこに神の霊の助けが必要でしょう。そして、このことを受け入れられる人々と受け入れられない人々との間では、最初のうちは特に激しく分裂が起こるのは必然だと思われます。

*なぜ、「主の平和」が最初から受け入れられないのか

なぜ、「救い主の平和」が最初からこの世に受け入れられないのかという疑問が生まれます。それは、「この世の人々」が、神様を仰ぎ見て生きることをしないようになってしまっているからです。それが、今日の旧約聖書の箇所ミカ書7章1節から7節までにも描かれています。主の慈しみに生きようとする、正しい者が絶えてしまい、そうすると、神様と人間の関係だけでなく、人間と人間の関係も正しくなくなり、最も親しい家族内でも信頼できないような状態になると記されています。人間が神様を仰ぎ見なくなると、ただただ自己中心に走り、その自己中心の者同士が自分のためだけに生きるようになり、本来は神様がそばに置いてくださった家族さえも「他人」、つまり、利害が衝突する者としてしか映らなくなるのでしょう。

*主は、信仰者を「この世から分離」して、「神の国」に招き入れる

そのような「この世の人間の生き方」に対して、それでは最終的に、または、根本的に自分は立ち行かないと危機感を覚えた人が、神様から与えられる「信仰」を真剣に受け止められるのだと考えられます。「信仰者の生き方」は一般的な「この世の人間の生き方」とは全く違ったものになります。信仰者は神様が「自己犠牲の愛」(十字架で示された愛)を示してくださるほどに自分を愛してくださっていることを知っています。同じように、神様がそばに置いてくださった人々に対しても、神様が同じように大いなる愛でその人々を愛していることがわかります。そのように受け止めることで「主がくださる平和」はますます豊かになり、続いていくのです。一方、すべてにおいて、この世は表面的で一時的にしか人間を満足させられません。主は、私達信仰者を偽りのものであふれたこの世から「分離」し、神の国に招き入れようとしてくださっているのです。