2月26日の説教要旨 「正しい教えを語らない人々」 平賀真理子牧師

マラキ書2:5-9 ルカ福音書114554

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様が、神様の御心に適わない人々に対して語られたことの後半です。前半(37節-44節)で、イエス様は、ファリサイ派の人々の誤った姿勢を指摘なさいましたが、それを聞いていた「律法の専門家」の一人が、ファリサイ派の教えの根拠となる「律法の解釈」を教えているのは自分達だから、イエス様のファリサイ派への指摘は自分達への指摘でもあると気づきました。

 「律法の専門家」=「律法学者」

53節を除いて、今日の箇所は「律法の専門家」と書かれています。似た言葉として「律法学者」を思い出す方も多いでしょう。元々の言葉に従い、この2つの言葉は訳し分けられているようですが、意味の上で大きな違いはないと思われるので、以下は「律法学者」と述べていきます。

 人々に重荷を負わせても助けようともしない律法学者

イエス様は、まず、律法学者達が「人に背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」(46節)と指摘なさいました。「重荷を負わせる」とは「律法で細かいことを決めて、それを人々に守ることを押し付ける」ことであり、「自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とは「人々が細かく定められた律法の決まりを行うのが大変だと気づいても、人々に寄り添って助けようとしない」ことをおっしゃっているのでしょう。律法学者は、悩んで相談に来た人々に寄り添おうともしない、そのような心の冷たさは神様の御心に適っていないと指摘されたのです。

 預言者の墓の建設と巡礼を推奨していた律法学者への指摘

次に、イエス様は、律法学者が当時、推奨していた「預言者の墓の建設と巡礼」に対する態度の誤りを指摘なさいました(47節-51節)。「預言者」の多くは、ユダヤ人達が神様から離れた時に、それではいけないと警告し,神様に立ち帰るように告げるように定められました。自分達の罪を素直に認められない人間の頑なさゆえに、ユダヤ人達は、預言者を殺したり、迫害したりして、神様からの預言をなかったことにしようと努めました。

律法学者が呼びかけて民衆が従った「預言者の墓の建設と巡礼」は、一見、信仰深いように見えます。しかし、よく考えると、預言者の墓ができるということは、ユダヤ人達の先祖が預言者をそこで殺したり迫害したりしたことの証明です。先祖の不信仰の証明を、子孫がいそいそとしているわけです。その不信仰を悔い改めなければ、いくら巡礼しても、ユダヤ人達は先祖の過ちを繰り返していることになります。神様に選ばれて御言葉を告げる人を殺すとか、迫害する、そのような大きな罪を悔い改めることこそ、神様の御心です。心の底から悔い改めるならば、「灰をかぶり、粗末な衣をまとい、ひれ伏して、神様に罪の赦しを祈り求めるものだ」とイエス様は伝えたかったのではないでしょうか。

 「今の時代の者たち」の罪深い行いについての預言

先祖の罪の証人となっているだけでなく、「今の時代の者たちはその責任を問われる」とイエス様は2回重ねて語られました(50節、51節)。神様が選んだ預言者も偉大な人物ですが、イエス様御自身は「救い主」として、比べ物にならないほど偉大な御方であり、「今の時代の者たち」は気づかなくても、もう既に彼らの目の前に来てくださっているのです。旧約聖書には、神様が愛し、この世に派遣された人を、受け入れるべき人が受け入れずに殺す、というユダヤ人達の歴史が綴られています。最初の犠牲者アベル(創世記4:1-12)と最後の犠牲者となった預言者ゼカルヤ(歴代誌下24:17―22)の名前を挙げて、イエス様はユダヤ人達にわかるように話されました。「神様側の人間が、罪深い人々に殺される」という、幾度となく繰り返された出来事が、神様が遣わしてくださった「救い主イエス様」御自身にも起こるであろうと預言されています。十字架の預言です。

 プロテスタント教会の私達が、神様から期待されていること

最後に、イエス様は、律法学者について、神様から賜った「律法」についての細かい知識を駆使して、自分をも、他の人をも「神の国」に入るのを妨げていると言われました。彼らは、律法の知識を、愛ではなく、裁きの道具にしたのです。

イエス様は、宣教の第一声で「悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)と宣言されました。プロテスタント教会に属する私達は、神様の掟を形式的に守るというより、神様の御心を知って、悔い改め、神の国の民としての生き方に励むよう、また、各々が、そのリーダーとなるよう、神様から期待されています。

2月19日の説教要 「外側だけを清める人々」 平賀真理子牧師

詩編5813 ルカ福音書113744

詩編5813 ルカ福音書113744

 はじめに

私達は、イエス様を救い主と信じ、「主」と呼んで礼拝を献げています。主の御心を知り、それに従って歩みたいと願っています。では、「主の御心」とは何でしょう。それはあまりにも大きく、人間の限られた能力で表現するには充分でない場合もあります。逆に、「何が、主の御心ではないのかを知ること」を、一つの方法として取り入れることも可能ではないでしょうか。「主の御心に適わない生き方をしないこと」も、信仰者として心がけるべきことだと思います。今日の新約聖書の箇所はイエス様御自身が、何が御心に適わないのかを教えてくださっており、そのように生きている人々をどのように教え導いたかが書かれています。

 「ファリサイ派の人々」

主の御心に適わない生き方をしている人々として「ファリサイ派の人々」に対する御言葉が記されています。聖書の後ろにある「用語解説」にもありますが、彼らは律法を守ることや宗教的清めを大事にしました。それだけでなく、イエス様を「救い主」と認めずに無実の罪を着せて「十字架」に追いやった、中心的グループなので、悪者だと思っている方も多いでしょう。しかし、ファリサイ派は、神様からいただく恵みを、サドカイ派という宗教上の特権階級の独占から解放し、その恵みを「民衆」に広げようとして興ったグループであり、ファリサイ派の尽力で、各地に「会堂」ができ、そこで人々は神様を礼拝したり、律法を学ぶ学校が運営されたりしました。

 「ファリサイ派の最初の精神」と「プロテスタント教会の最初の精神」

ここで思い浮かぶのは、500年前の宗教改革の精神です。当時のカトリック教会の指導者達が独占していた特権を、民衆に広めようとしたのが、「宗教改革の精神」であり、ここから「プロテスタント教会」(私達が属するグループ)が興りました。キリスト教における特権とは「何が主の御心であるか」を知ることができるということであり、具体的に言うと、神の言葉として「聖書」を読むことができるということです。宗教改革者の「ルター」は、それまでは専門教育を受けた者しか読めなかったラテン語聖書を自分達の母国語のドイツ語に訳して、神の御心を読み解くための聖書を民衆に解放したのです。このように、「ファリサイ派」と「プロテスタント教会」は、基本の精神が同じなのです。「ファリサイ派」の人々の「何が主の御心に適わないのか」を知ることは、私達「プロテスタント教会」への戒めとなるはずです。

 「神様は、外側だけでなく、内側もお造りになった!」

イエス様を食事に招待したファリサイ派の人が不審に思ったのは、ファリサイ派が決めた「身を清める」行為をイエス様がしなかったからでした。具体的には、細かい手順が定められた「手洗い」をなさらなかったということのようです。イエス様は人の心を見抜く御方ですから、彼の思いに気付いたはずです。しかし、イエス様は、「外側だけを清めることに留意し、細かい規則を作って、その規則で人々を縛る『当時のファリサイ派の精神』は、神様の御心に適っていない。」と指摘されました。強欲や悪意で満ちている内側(心)を清める必要があると教えたのです。彼らは人目につく外側だけに気が向いていますが、イエス様は、人間を外側も内側も造られた創造主である神様の御心を知っておられ、神様の御心を第一に思い、内側から清める重要性を教えてくださいました(40節)。

 あらゆる場面で外側(人目につくこと)だけ清めたがった「ファリサイ派」

外側だけを清めようとするファリサイ派の人々は、心だけでなく、宗教上の制度でも、表面だけに明らかになることだけに留意していました。「十分の一税」は守ろうと必死になっても、神様の御心に適うはずの「正義の実行と神への愛」という本当の信仰(内側)を忘れていることをイエス様は指摘されました。また、社会的な体裁でも、自分達が尊敬されていることが、外側(人目にわかる形)に現れることを好みました(会堂で上席に着くこと、広場で敬意を表す挨拶をされること)。

 外側だけ清めて内側が汚れていると、「清め」ではなく、「汚れ」を広める

イエス様はファリサイ派の人々を「人目につかない墓」(44節)と例えました。内側の汚れが表に現れないために、「汚れ」を広めていると伝えようとされました。

 信仰が形式的になっていないか吟味し続ける

ファリサイ派は、内側をも造られた神様を第一としなくても、外側だけ宗教的に振舞っていれば尊敬され続けると誤解しました。それは、主の御心に適わないとイエス様は言われたのです。私達は、「礼拝や聖書朗読」が形式的になっていないか吟味し続け、内側から神様に相対するにふさわしく清められたいものです。

2月12日の説教要旨 「わたしたちの帰る場所」 吉田 新 先生(東北学院大学)

ホセア書21619 マルコ福音書13539

 祈りの二つの目的

本日は、「祈り」について皆さんと共に考えたいと思います。祈りには、二つの目的があると私は思います。最初の祈りの目的とは「退く」ことです。大切なときに気持ちが焦り、冷静さを失ってしまう。それは誰しも経験することです。そうならないために、どうしたらいいのか。まずは「退くこと」です。大切なことを前にした時、重要な決断をしなければならない時、人生の節目にあった時、その場からひと時、退くことです。キリスト教ではそれを「リトリート(retreat)」と呼んでいます。「リトリート(retreat)」というのは、「退く」「後退する」「退却する」という意味ですが、キリスト教では普段の生活を離れ、神様との交わりを深める時間のことを指します。そのようなリトリートの起源はイエス・キリストに遡ります。本日の聖書箇所に記されたイエスの姿です。イエスは人々に教えを宣べ伝える活動の前に、一人で人里離れたところに行き、祈ったとあります。イエスはまず「退いた」のです。本当に自分にとって大切な決断を下す時、自分の向かうべき道がわからない時、焦って前のめりに進むのではなく、一歩後ろに退いてみる、神様と静かに対話する時を持ってみるのです。その時を少しでも持てば、私たちは私たちがなすべきことが自ずと知らされると思います。最初の祈りの目的とは「退くこと」です。

 荒野、神の声を聴く場所

聖書の箇所には「人里離れた場所で祈っていた」とあります。マルコ福音書ではこの箇所だけでなく、イエスが活動の合間に一人で祈られる姿がしばしば記されています。祈りとイエスの活動は不可分に結びついています。

新共同訳では「人里離れた場所」と訳されておりますが、原文では「荒れた場所、耕作されていない荒地」という意味だと思います。「人里離れた」という形容詞を名詞にしますと「荒野」です。ちょっと人ごみから離れて休息を取るといった意味ではなく、厳しい場所にあえて身を置いたことを意味すると思います。おそらく、このようなイエスの祈りの姿が、後々、過酷な環境に身を置き、祈りに専念する修道生活の伝統を生み出していったと考えます。

では、なぜ祈るために厳しい場に身を置くのでしょうか。先ほどイエスは「荒れた場所、耕作されていない荒地」に向かったと言いましたが、聖書において「荒野」とは単に荒れた土地という意味ではなく、荒野は「神の声を聴く場所」でもあります。実際、旧約聖書の預言者たちは荒野で「神の声」を聴きます。ですから、荒れた地に赴くとは、神の声を聴くために、「出向く」ということです。ここに祈りの二つ目の目的があります。「自分から神の方に向かうこと」です。日々、私たちは様々な場面で祈りますが、どれくらい「神の方に向くこと」を意識して祈っているでしょうか。それを自分に問いかける必要があるかもしれません。

長く、教会生活を送っている方々は、習慣として祈っていると思います。しかし、いま一度、祈りの最も基本的な姿勢を味わっていただきたいと思います。「祈り」とは「退くこと」、そして「自分から神の方に向かうこと」、つまり「神の方に帰る」ことです。

 神の方に帰る

では、神の方に帰り、私たちは何をすべきでしょうか。自分のお願いや希望を述べるべきでしょうか。そうではありません。日常生活を退いて、神の方に向き直し、神の方に帰り、私たちは私たちを差し出すのです。飾らない、ごまかさない、嘘のない自分を神に差し出しましょう。神が求めているのはありのままのあなたです。いまのあなたを差し出すことこそが本当の祈りです。そうすれば、あなたの心は確実に楽になると思います。

一日の生活の中でひと時の祈りの時に、神の方に向き直ることを意識すれば、私たちの世界はまた違って見えてくるはずです。それを通して、私たちが帰る場所も見えてくると思います。そして、そこで私たちは自身を神に差し出しましょう。

2月5日の説教要旨 「ともし火」 平賀真理子牧師

詩編119105112 ルカ福音書113336

 はじめに

2017年の年明けから、ルカ福音書11章14節以降の「ベルゼブル論争」から読み進めてきました。今日の箇所で、一連の流れのお話は終わりになります。ルカ福音書の筆者は、「体のともし火は目」といった、今までの流れとは、一見関係ないような話を、この箇所に置いています。

 直前の段落「人々はしるしを欲しがる」から導き出されること

しかし、この箇所が直前の段落を受けて書かれていることがわかれば、今日の箇所が、私達に対する主の勧告だと理解できます。直前の段落で大事な「しるし」として語られているのは、イエス様の十字架と復活の御業による救いのことです。「救い主としてのその救いの恵みは全人類の救いのしるしとなる、つまり、主の十字架と復活の恵みは全人類に惜しみなく与えられていると語られています。

 「ともし火」=「主の十字架と復活の恵み」の例え

だから、今日の箇所では、「ともし火」とは「イエス様の十字架と復活の恵み」の例えと言えるでしょう。主の救いの御業の恵みはとても大きいので、隠せるようなものではなく、むしろ、その光を求めてやってくる人にはよく見えるようにふさわしい場所に置かれるべきものであると33節で語られているのです。

 人間の体の中で「ともし火」となるべきところは「目」

次の34節では、人間の体の中で「ともし火」となるべき個所は「目」であると語られています。医学的に言えば、「目」が光を受けて「光」を認識する器官であるということでしょう。その作りが完全で、完全に機能していれば、光を受けて体にも光が満ち溢れることになるし、そうでなければ、体がに光のない状態=闇に満たされることになると語られています。

 「目」=「心の目」

「目」とは「心の目」の例えです。「目が澄んでいれば」とは、元々の言葉で「目が単純であれば」という意味を含んでいます。それは何を言っているのかというと「心の目が単純であること」、つまり、「神様に二心を持たないこと」を指すそうです。唯一の神様だけを第一に敬う心の目が機能しているかどうかということです。ユダヤ人達の中で、「澄んだ目」とは「唯一の神様を信じる心」を例えたもので、「澄んだ目」を持った人だけが「唯一の神様を見ることができる」という考えがあったそうです。

 「目が濁っている」=「唯一の神様を信じない」

34節では、逆に、「目が濁っている」という表現がありますが、それは「唯一の神様を信じない」とか「複数の神々を信じている」とか「この世の価値観を第一に生きている」といった意味になるわけです。

 33節-34節のまとめ

イエス様の十字架と復活の恵みは誰にでも与えられる大いなる恵みなので、それを尊重して輝かせられるよう、ふさわしい「心の場所」に置かれるべきであり、そうすることで、自分も他者も、その恵みをいただくことができ、神様の御前に健全な存在となれます。そのような豊かな恵みをくださる「唯一の神様」を信じる「澄んだ心の目」でいられるように、イエス様が勧めておられるのです。

 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35)

「澄んだ目」であれば、主の十字架と復活の恵みの素晴らしさがわかるはずです。でも、人間は一度わかっても恵みを忘れることがあることも、主はよくご存じだったのだと思います。だから35節で、その恵みを受けた光が消えていないかを注意するように教えておられます。

 「主の救いの完全な光に照らされ続けるならば」

そして、イエス様の救いの恵みの完全な光に照らされ続けるならば、私達人間は、神様から離れた闇の部分などなく、本当の恵みの光が、その人の全存在を輝かせるはずだと36節で語られています。

 2つの課題

今日の箇所から私は2つの課題を読み取りました。1つは「ともし火」が唯一の神様の御子イエス様の救いからくるものだと知ることです。ユダヤ人の多くは神の民として選ばれて愛されながら、イエス様を救い主と理解できませんでした。しかし、新約時代の私達は、聖霊の助けにより、そのことをわからせていただいていることに感謝しましょう。そして、2つ目の課題として、本当の光をふさわしい場所に高く掲げ続ける必要を痛感します。この世に対する証しとして、教会がその役目を第一のこととして負う責任を果たしているかを吟味し続けるべきです。そして、教会に連なる私達一人一人が、主の救いの恵みの光を高く掲げて、キリスト者としての生き方を貫くことも、主の恵みをふさわしい場所で輝かすことなのです。2つの課題に励めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月29日の説教要旨 「しるしを欲しがる」 平賀真理子牧師

ヨナ書3110 ルカ福音書112932

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、3つ前の段落の「ベルゼブル論争」の中の16節「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者たちがいた。」の所を直接受けて書かれていると思われます。悪霊を追い出す御力、語られる話の素晴らしさなどから、イエス様の居られる所には、人々が次々に集まって来ました。けれども、この時には、その多くがイエス様を信じたいというよりも、信じないという反対派の人々が多かったようです。積極的に反対する人は、イエス様の御力が悪霊の頭からくるものだと言い出しましたし、そこまで激しく反対しなくても「イエス様が神様から送られた人なら、天からのしるしをすぐに見せてくれて、自分たちが信じやすいようにしてくれるはずだ」と思っていたようです。これは、神様を自分の思いどおりに動かそうとする「罪」=「傲慢」からくるものですが、イエス様は、17節にあるとおり、人々の心を見抜く御方です。彼らの罪からくる、反対の気持ちが強いこともわかっておられたようです。

 救いを求めていない人々、困っていない人々

人々がたくさん集まってきたら、普通は心地よい言葉から話し始めるのが、この世の方法ですが、イエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ」との厳しい言葉から始めておられます。よく考えれば、この時の群衆は、イエス様がある人に取り憑いた悪霊を追い出して口が利けるようにする奇跡を既に見たのに、それ以上の奇跡を見たいと願ったわけです。彼らの要求どおりにしたら、彼らはイエス様を信じたでしょうか。答えは「否」だと思います。彼らはイエスを信じて本当に救われたいという思いよりもただ、凄い奇跡を見た!という経験を他の人に自慢したいだけだったと思われます。彼らは、その時点では、本当には困っていない、本当に救われたいと切望していない人々だと思っていいでしょう。

 「ヨナのしるし」

そんな人々にも与えられるしるしが1つだけある、それがヨナのしるしだとイエス様は語られました。「ヨナ」という人は神様から選ばれた預言者で、乗っていた船が嵐に巻き込まれた時に、人々の命を守るために自らが犠牲になって神様の怒りを静めようとしましたが、神様はヨナを死なせず、三日三晩大きな魚の腹の中に留まらせ、魚に命じて3日後に陸に吐き出させました。この後、ヨナは異邦人の町ニネべの人々に神様の言葉を伝え、彼らを悔い改めに導き、滅びから救いました。ニネべの人々にとって、ヨナの存在が神様に繋がる救いのしるしとなりました。ヨナが「三日三晩魚の腹に居て、再び陸に姿を現わす」という様子は、イエス様が「十字架にかかり、陰府(よみ)にくだり、3日後に復活する」ことを先取りした表現だとキリスト教界では説明しています。

 「ヨナがニネべの人々のしるし」=「人の子が今の時代の者たちのしるし」

30節で「人の子」とあるのは、「救い主イエス様」のことです。先述したように、ヨナがニネべの人々の救いのしるしとなったと言えるのですから、「十字架と復活の御業を成し遂げたイエス様の救いの恵みはとても大きくて、今の時代の者たちが救いを求める気持ちがたとえ薄くても、しるしとなってくださる」ということを意味しています。

 イエス様のメシア宣言:「ソロモン王や預言者ヨナにまさるもの」

31節では、「南の国の女王」とソロモン王のことが語られています。これは、旧約聖書の列王記上10章や歴代誌下9章に書かれています。イエス様が生まれる1000年程前のこと、イスラエルの民の国が栄えた時の王がソロモン王です。神様に自分の健康や富を願わず、神様から託された民を正しく裁くのに適切な知恵をくださいと願って神様が大変喜び、知恵を豊かに授けたことで有名でした。その名声を聞きつけて、南の国の女王(別名「シェバの女王」)がやって来たという話です。彼女は、ソロモン王に謁見するためにわざわざ遠い国からエルサレムにやって来て、その知恵を確かめ、その素晴らしさがわかったら、ソロモンに知恵を授けた神様を賛美して、献げ物をして帰って行ったのです。イスラエルの人々が知っている話を通して、イエス様は「異邦人がわざわざやってくるほどの知恵を持った偉大な王様ソロモンにもまさる『救い主』がここにいる!わたしがその救い主だ!」とおっしゃっていたのです。32節では、ヨナの話に戻っています。30節で、異邦人に悔い改めを起こす説教をした預言者ヨナがニネべの人々の「救いのしるし」という点で、「人の子」が今の時代の者たちに対するのと同じだと語られましたが、実は「救い主イエス・キリストは、本当は比べ物にならない程の大きな恵みをくださる救い主だ」と御自分のことを客観的に教えてくださっていたわけです。信じる者は勿論、その気持ちが今それほど高まっていなくても、救い主イエス様の救いの恵みは全人類に豊かに与えられています。

十字架と復活の主が、どんな人にも救いのしるしであることに感謝しましょう。

1月22日の説教要旨 「真の幸い」 平賀真理子牧師

詩編11918 ルカ福音書112728

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、2つ前の段落の「ベルゼブル論争」、その次の「汚れた霊がやって来る」の話の流れの中で、イエス様が2つのことと戦っておられたことがわかります。一つは、悪霊の頭ベルゼブルとその手下という、霊の次元の戦いです。もう一つは、イエス様を信じないことに懸命な人々です。積極的に反対する人は「イエス様の御力は悪霊の頭ベルゼブルからのもの」(11:15)と言っていました。別の人々は、既に悪霊払いのしるしを見たのに、更に、自分達の前でしるしを見せてほしいと要求する人々でした(11:16)。

この2つの段落を通して、2つのことが明らかにされました。1つは、救い主としてイエス様がこの世に来られた故に、神様の霊が悪霊に勝利することが起こっているということです。つまり、「神の国」がイエス様と共に居る人々の所に既に来ている(11:20)ということです。もう一つは、「霊の宿る場所」に今まで悪霊がいた人は、イエス様との出会いによって悪霊を払っていただいた後には、聖霊が住んでいただけるように、留意していかねばならないということです。

 イエス様への賛美の声を上げた女性

まさに、このように語られている時、ある女性がイエス様の素晴らしさに感動して、彼女なりの賛美の声を挙げました。それは女性ならではの感性からくる発言でした。「こんなに素晴らしい話をし、偉大な力を持つ方の母親は、どんなに神様から祝福を受けているのでしょう!」という意味でしょう。同じ女性として、母マリアへの賛美と受け取ることもできますが、最終的にはイエス様への賛美と受け取れるでしょう。ただ、この女性は、イエス様の価値(偉大さ)はよくわかっていたのですが、イエス様の価値観はわかっていなかったのです。イエス様が人々に伝えたいことを理解していなかったのです。3つの点で、イエス様が人々に求めていることと、この女性の言葉はずれていることがわかります。1つは、この女性は、マリアがイエス様を宿し、育てた体をほめたたえていますが、イエス様は「体は神様の霊が宿り、神の栄光を表すためのものだから大事」と伝えようとされていました。2つめは、彼女はイエス様が育たれた過去に目が向いていますが、救いの恵みに気づいて信仰生活をするのは、イエス様に出会っている現在と、そして信じ続ける未来です。過去に拘泥する必要はありません。3つめに、これが一番重要ですが、どのような役割にしろ、イエス様に出会って教えを受け、それを守る思いを与えられた人を、神様はどんな人をも祝福してくださるということです。役割の軽重は関係ありません。救い主の母という役割を与えられたマリアに対しても、イエス様への賛美の声を上げた女性に対しても、信仰者としての未来に期待されているのです。

 「幸い」=「マカリオス(ギリシャ語)」=「アシュレー(ヘブライ語)

聖書は、神様からの祝福を受けることで、人は「真の幸い」をいただくことができると教えています。あえて、新約聖書の原語であるギリシャ語でいうと「マカリオス」という言葉です。有名な山上の説教も、この言葉で始まります。

「幸いなるかな」=神様からの祝福を受けた、本当の幸いという意味です。人間は神様からの祝福を受けて初めて幸いに生きられる、これが聖書全体を通しての基本的な考えです。新約聖書だけでなく、旧約聖書もそうです。旧約聖書の原語はヘブライ語ですが、ヘブライ語で「幸いだ」は「アシュレー」という言葉です。神様からの幸いをいただきたいという思いを謳った「詩編」の第1編も「アシュレー」から始まります。また、詩編119編も「アシュレー」を目指して神様に憐れみを乞う詩になっています。その1-8節(今日の旧約聖書箇所)では、「主の律法」「主の定め」「主の命令」「主の掟」を守ることが「アシュレー」への道だとあります。今日の新約聖書箇所のイエス様の御言葉(11:28)と同じです。

 「神の言葉を聞き、それを守る」恵み

ここで、思い起こすべきことがあります。それは、私達が「神の言葉を聞く(11:28)」機会を与えられているということです。2000年前にイエス様に直接出会った人々は勿論ですが、私達も聖書を通して、「神の言葉を聞く」機会を与えられている、神様が私達をそのように選んでくださっている、その恵みを再び思い起こして、感謝したいものです。「神様はどのような御方か、何を喜ばれるのか、人間はどのようにしたら救われるのか、救われた後、そのように生きるべきか」ということを知らされている、このことも神様が私達を、幸いへの道に導いておられることの証しです。福音に出会う前は、この世の価値観や他人からの評価に苦しめられた人が多いでしょう。しかし、主の救いをいただいた今は、神の御言葉を聞き、それを守ろうという思いが聖霊によって与えられました。神様からの恵みと役割に応えるように歩む、これこそが「真の幸い」への道です。

1月15日の説教要旨 「整えられた我が家に」  平賀真理子牧師

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 はじめに(前段落「ベルゼブル論争」)

イエス様は病いに悩む人々を、多くの場合、彼らに取り憑いた悪霊を追い払うことで癒されました。その偉大な御力の出所につき、イエス様が現われる以前に尊敬を受けていたユダヤ教指導者達は、「ベルゼブル」という悪霊の頭からだと主張しました。彼らは、以前の名誉を保ちたいために、イエス様の御力が神様からくるものと認めるわけにはいきませんでした。しかし、手下の悪霊が人間に取り憑いて病いを引き起こしているのに、そのボスである悪霊の頭が部下の働きを帳消しにするように働くはずはありません。イエス様は、反対派の人々の矛盾点を突かれ、御自分の力は神様からくるのであり、それで悪霊を追い出しており、それは「神の国」が御自分の所に既に来ている証しでもあると宣言されたのです。

 「悪霊」、「汚れた霊」

さて、今日の箇所では、「汚れた霊」について語られているのですが、これは「ベルゼブル論争」の所の「悪霊」と同じと考えていいでしょう。「汚れた霊」とは、元々の言葉から見ても「聖くない霊」という意味で、聖書で語られている「本当の神様」の特性である「聖」という特性を持たない霊のことです。本当の神様を神様として認めない、尊重しない霊です。これが人間に取り憑き、神様を神様として認めさせないように、尊重しないように働きかけ、神様から引き離すという本当の不幸に陥れるのです。

 元の場所に戻ってきたがる「汚れた霊」

聖書の神様の特徴の一つに、「命をあふれさせることがおできになる」ことがあります。だから、この世を命豊かに創造なさったのでしょう。その反対の「汚れた霊」は、イエス様の偉大な御力によって、人から追い出されると自分と同質の「命のない所」=砂漠へ行かざるを得ません。ただ、「汚れた霊」はそこに行ったとしても、新たに取り憑く命を見つけられる確率は低いのです。命がないのですから。すると、「汚れた霊」は、前に取り憑いていた人間を「出てきた我が家」と例え、戻ろうとする性質があると、イエス様が指摘されています。「汚れた霊」が新しい所を開拓するエネルギーもなく、安易に戻りたがるのは、彼らを元々取り憑かせていた人間の心の中は入りやすいと悪霊は知っているからと主は語られています。「汚れた霊」はかつて自分がいた人間の心の中が、一旦自分が抜けて、きれいにされていることを発見し、そこが空間のままならば、再度住み直すのにちょうどよい場所を見つけたことになり、しかも、もっと悪い霊を引き入れる性質もあることが、主の御言葉からわかります。(イエス様がお一人で過酷な十字架に立ち向かったのと対照的です!)「悪いのは自分だけじゃない、みんなやってる!」とは卑怯なワルがよく口にする言い訳です。自分が悪いことを知りながら、悔い改める努力は怠り、悪い状態のまま居続けよう、相手を痛めつけようと努力するのが「汚れた霊」の特徴です。前に述べたように、イエス様に「汚れた霊」を追い払っていただいた人達は多くいたはずです。そういう人は、元々「汚れた霊」がいた場所を、空っぽのままにしないで、本当の神様から来る「聖い霊」で埋めなければ、一層悪い状態に陥ると、イエス様は憐れみによって教えてくださったのです。(主を受け入れなかったユダヤ民族の運命の預言であると見る説もあります。)

 神様から「命の息」を吹き入れられるはずの場所

神様は人間をお造りになった時、最後に、人間の鼻に「命の息」を吹き入れられました(創世記2:7)。これは、人間は「神様の命の息」をいただいて、本来の生き方ができることを意味しています。「息」という言葉は、旧約聖書が書かれた元々の言葉ヘブライ語では、「霊」という意味も持っています。「神の霊」が宿る場所が人間にはあるのです。見えない神様の霊が宿るのですから、見える体の部分ではなく、心、もしくは「霊を受ける場所」が、見えなくても必ず存在していると示されています。そこに、「神の霊」が入っていればいいのですが、神様に逆らう「悪霊」、「汚れた霊」が入ったままだと、人間は神様に逆らい、その結果、神様から祝福されない、罪多き人生、悩み多き人生に陥ることになります。

 「聖霊の宮」

私達も、元々は「この世の汚れた霊」によって罪多き人生を過ごしてきましたが、聖霊の導きで、福音に出会いました!それで「汚れた霊」を主の恵みによって追い出していただき、その場所が「聖霊の宮」となる幸いをいただきました。けれども、「汚れた霊」が戻りたがるのですから、いつも、その宮が空虚になっていないかを吟味しなければなりません。「霊が宿る場所を掃除し、整える」とは、神様に関わることを第一に尊重する思いで満たすことです。礼拝を何よりも大事にし、祈りや聖書の学びを尊重したいものです。「汚れた霊」が、ではなく、「聖霊」が、私達の心を、もしくは「霊を受ける場所」を、「整えられた我が家に」として戻ろうと思ってくださるように成長できることを祈り求めましょう。

1月8日の説教要旨 「異邦人の主」  平賀真理子牧師

詩編1021323 マタイ福音書2112

 はじめに

今年の暦で言えば先週の金曜日だった「1月6日」は、キリスト教会にとって重要な日です。「イエス様がおおやけに現れた日」として「公現日」と名付けられ、今日の新約聖書の箇所を覚える日として大切な日です。イエス様が神の民ユダヤ人達だけでなく、それ以外の民である「異邦人」達にも「救い主」として現れてくださったことを感謝し、祝うのです。

 

 「東の方からやって来た占星術の学者たち」

1節にある「東の方からやって来た占星術の学者たち」というのが、その「異邦人」達を象徴する人々です。東の方というのが、具体的にはアラビアかペルシャらしいのですが、大事なのは、彼らが異邦人だということです。また、占星術の学者と言っても、主な仕事は占いではなく、太陽や月や星などの天体の動きを客観的に観測して、農業などに助言することでした。今で言う「天文学者」とか「気象予報士」などと想像していいと思います。ユダヤ人達が「神様の御言葉を知らない」と蔑んだ「異邦人」ではあっても、彼らは客観的な真理に従う準備のできていた人々でした。

 

 もう一人の異邦人「ヘロデ大王」

さて、今日の箇所では、この学者たちの他に、「異邦人」である人物がいます。「ヘロデ大王」です(後々聖書に出てくる息子のヘロデ・アンティパス王と区別するため、今回は「ヘロデ大王」と記します。)。ヘロデ大王は、ユダヤ人の領地の南隣のイドマヤ出身者であり、ユダヤ人と見なされませんでした。つまり、ユダヤ人にとって、異邦人支配者だったわけです。唯一の神様を信じて生きるユダヤ人達を知っていながら、ヘロデ大王の関心事は、自分の欲望を満たすためにこの世での権力を増大させることだけでした。

 

 ユダヤ人でありながら、救い主の誕生を喜べなかった人々

一方、ヘロデ大王のお膝元に居たユダヤ人達は「救い主御降誕」の知らせを聞いてどう反応したのか、2種類書かれています。一つは、ユダヤ教指導者達(「民の祭司長たちや律法学者たち」)であり、もう一つはエルサレムの人々です(3節)。前者は、救い主の誕生地を預言書ミカ書5章を通して知っていてヘロデ大王に教えていますが、彼ら自身は知識はあっても、動きませんでした。また、後者は、ヘロデ大王の下で都にいられる人々であり、すぐに政権交代が起これば、自分達の運命はどうなるのかわからず、不安になったのです。「神の国」が来るために即行動することよりも、今の自分達の生活を守ることが大事な人々と言えるでしょう。そういう意味では、ヘロデ王とユダヤ教指導者とエルサレムの人々は同じだと思われます。

 

 神様と人間 -「救い主誕生」という事実をめぐって-

神様は、愛する人間に預言までしてくださり、実際にこの世に働きかけてきださって、救い主を誕生させてくださいました。にもかかわらず、神様が期待して選んだ人々(ユダヤ人)とその地域の支配者だったヘロデ大王(異邦人ですが)は、その救い主を最初から受け入れる準備ができていないことが示されています。イエス様の苦難は、もうここから始まっていると見ることができます。

 

 「ユダヤ人の王」から「異邦人の主」へ

一方、東方からやって来た占星術の学者たちは、「異邦人」とはいえ、ユダヤ人達の信じる神様の偉大さや、その神様が「ユダヤ人の王」を生まれさせるという預言を知っていたと思われます。そして、星の動きという客観的な事実を見て、ユダヤ人達の話を肯定的に受け止め、自分達を預言と事実の前に従わせ、旅へと出かけました。自分の命の危険を顧みず、救い主に出会う喜びを選んだのです。

ここに、ユダヤ教からキリスト教の萌芽を見て取れます。神様の揺るがしがたい選びによって、ユダヤ人達が神の民として救われるように、神様が導いていることがユダヤ教の根本にあります。けれども、神様はユダヤ人だけが救われればいいと思っておられるわけではなく、ユダヤ人を初めに救い、その後は「異邦人」も救われてほしいと願っておられるのです。詩編にもそれが現れた箇所が幾つかあり、今日の旧約聖書の箇所もその一つです。また、イザヤ書49章1節―6節には、救いの光がイスラエルから地の果てにまでもたらされることを、主が望んでおられることが明らかにされています。

ユダヤ人としてユダヤ人の只中に誕生されたイエス様ですが、今日の箇所では、そのイエス様を「救い主」として拝んで尊い宝を献げて喜んだのは、ユダヤ人達でなく、異邦人達だったと示されています。神様は最初のご計画にこだわらず(「ユダヤ人から救う」)、準備のできた「異邦人」にイエス様を救い主として啓示なさいました。ここに、民族を超えたキリスト教の救いが示されています。私達も肉の上では異邦人ですが、「異邦人の主」の救いを既に受けています。今週は「公現日」直後の週なので、特に、「異邦人の主」の救いの光を受けていることを充分に感じつつ、主への感謝をもって歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

2017・1月1日の礼拝説教要旨 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 佐藤 義子

イザヤ書 49813・Ⅱコリント6:110

はじめに

2017年の最初の日を、聖日礼拝として皆様とご一緒に礼拝できる幸いを心から感謝いたします。今年度の聖句として与えられたのは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」です。(コリント第二の手紙、6章1-2節)

「恵み」という言葉は聖書の中で度々登場しますが、特に「神様の恵み」という時、①イエス様を人間としてこの世に遣わされたこと、②イエス様の十字架の死を通して私(達)の罪をあがなってくださったこと、③イエス様を死から復活させて下さったこと、が、その中心にあります。

今、ここにクリスチャンとして礼拝の恵みにあずかっておられる方々は、神様が各々に定めて下さった日に、この三つを神様の恵みとして受け入れ、ご自分の信仰告白として、おおやけに言い表して洗礼を受けられた方々です。その受洗の時に、私達に何が起こっていたのでしょうか?

 

受洗はキリストと結ばれること

今日読みました聖書の前(5章)には 次のように記されています。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって・・」(17節-18節)。

私達が洗礼を受けた時、私達にはこのようなことが起こっていたのです。これから洗礼を受ける方々にも、このようなことが起こるということです。私達がおおやけに信仰を告白した時(決断した時)、私達は今までの自分から新しく創造された自分(新生)へと変えられます。イエス様はご自身をぶどうの木に、私達をその枝に譬えられているように(ヨハネ福音書15章)、私達は信仰告白と同時にキリストに結ばれ、キリストと結ばれる(=キリストと共に歩み,その交わりの中に置かれる)者は新しく創られていきます。

 

・・神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」(同)

さらに信仰を告白することによって、神様が私達と和解して下さった喜びに招かれます。「和解」は、断絶など 関係が切れた状態にあったことが前提です。神様が私達と和解して下さったということは、それまで長い間、神様と私達人間の関係は切れていた(断絶していた)のです。神様は私達人間を創られ、命の息を吹き入れられて生きる者とされました(創世記)。ですから私達人間は、創り主である神様とは切っても切れない関係にあり、神様に従う限りにおいては祝福が約束されておりました。しかし私達人間は創り主に対して不服従を繰り返し、ついに神様と断絶関係に陥ってしまったのです。断絶に至った人間の罪は計り知れず、神様からの離反・不服従(自己優先)・反逆などを繰り返した結果、私達人間は滅びの道しか残されていませんでした。ところが憐れみ深い神様は、人間が地上において(サタンの支配のもとで・罪の中で)苦しんでいるのを見過ごすことを良しとせず、救いの手を差し伸べる御計画をたてて下さいました。神様と人間が再び関係を結ぶ道です!すなわち、人間の罪がつぐなわれて神様から罪の赦しをいただく和解への道!

このことが、18節の「キリストを通して」、すなわちイエス様の十字架による「死」と、神様による「死に勝利する復活」でした。なぜイエス様が十字架で死なねばならなかったのでしょうか?

それは、罪の赦しには「つぐない」が不可欠ですが、それが出来るお方(人間の罪を身代わりに背負うことの出来るお方)は、罪のない神の御子イエス様しかいないからです。それゆえ神様は御子を地上に送り、イエス様は、神様の御心に従って人間の罪を担い、罪をつぐなう死(あがないの死)としての十字架を引き受けられました。これによって「私(全人類)の罪」は赦され、神様は「わたしたちをご自分と和解させ」られたのでした。

 

また、和解の為に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。」(18-19節)

さらに神様は、この和解を受け取ったクリスチャンに一つの任務を与えられました。それは、和解の言葉をゆだねられた者として生きることです。イエス様を信じる信仰が創り主である神様のもとに帰る道であり、神様が用意して下さっている和解を受け取ることこそ、私達人間の本来の生き方であり、神様が祝福されることであることを、伝え、証しする任務です。

 

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)

今日の聖書の6章1節では、著者パウロが信仰者に対して「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と呼びかけています。そして神様から差し出された和解の恵みをいただいた者は、この恵みを無駄にしないようにと勧告します。恵みとは、自力で手にすることが出来ないものを与えられることです。「太陽の恵み」や「恵みの雨」のように、私達が生きていく上でなくてならぬものが 公平に与えられていることを思い起こしますが、ここでは神様から一方的に差し出された「神様との和解」、すなわち私達人間が、自分の創り主であるお方のもとに、イエス様の十字架のおかげで戻ることが出来た!神様とあるべき正しい関係(創造主と被造物)を結ぶことが出来た!生きる上で100% 必要なもの(無くてならぬものはただ一つ)が与えられた!ことを意味します。この大きな恵みを無駄にしてはいけないとの勧告と励ましを、2017年の御言葉として心に刻みたいと思います。

 

恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」(6:2)

これはイザヤ書49章からの引用です。当時イスラエル民族は,バビロン捕囚の日々が半世紀近く続いており(BC587年から-解放はBC538年)、人々の中で、祖国への帰還と祖国の復興という期待と希望が小さくなっていく時、第二イザヤ(イザヤ書は1-39章・40-55章・56-66章を書いた3人により構成されている)と呼ばれている預言者が、神様から聞いて語った言葉です。この言葉は、まだ、捕囚が続いている中で、第二イザヤ(BC 545年頃)が、神様からの約束の言葉(慰めと希望)として語り、人々を励ましたのです。信じた人々は、この後で、この約束の実現を体験することになりました。

 

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

このイザヤ書の言葉をパウロは引用して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と、コリントの教会の人々に(そして南伝道所の私達に)呼びかけます。今や、神様がわたしに下さった恵みを受け入れる時、又、すでに恵みをいただいた人々が、神様との和解の出来事を伝える奉仕を通して、救いが起こされる時です。私達の地上での生活には限りがあります。私達はそのことを忘れがちで「あわてることはない。あせることはない。今、決めなくても良い。もう少し後になってからでも・・」と言います。確かに今でなくても、次の決断の時が来るかもしれません。しかし来ないかもしれません。決断すべきとの思いが少しでも与えられたら、それを後回しにしてはいけないことを、この聖句は教えています。

「今」という時を見過ごさないように、いつも心の目を覚まして、今、何をなすべきかを、祈りを通して神様から教えていただきながら、新しい年を過ごしていきたいと思います。

あらゆる場合に神に仕える者として・・大いなる忍耐をもって、

苦難、欠乏、行き詰まり、・・労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、」(4―7節)

  著者パウロは、教会の人々に奉仕を呼びかけるだけでなく、自らがどのように和解の福音に奉仕しているかを3節以下で語っています。

私達は、今すぐパウロのような福音の奉仕者になることはむつかしく思われますが、しかしキリストに結ばれて歩む時、このように生きることが出来る!ということを知らされます。なぜならパウロは「神の力によって」出来ていることを明言しているからです。

この一年、神様からどのような道を示されても、真理の言葉、神の力によって、大いなる忍耐をもって、苦難や行き詰まりに対処し、与えられた恵みを無駄にせず、イエス様に結ばれた者・新しく創造された者としてふさわしい歩みを 歩んでいきたいと祈り、願うものです。

12月25日の説教要旨  「天に栄光、地に平和」  平賀真理子牧師

ミカ書513 ルカ福音書2120

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、3つの段落に分かれています。1節―7節を第1部、8節―14節を第2部、15節-20節を第3部として見ましょう。

 第1部(1節-7節)からわかる4つのこと

ルカ福音書は、ユダヤ人達の預言を知らない人々に対して、イエス様の御降誕が本当にあったことだと伝えるために、史実と照合して記されています。歴史上で強大な国だった「ローマ帝国」の、しかも、実質的な初代皇帝アウグストゥスの時代の出来事だと知らせようとしています。これが、まず覚えていただきたいことです(1つ目)。

2つ目として、この世で強い勢力を持ったローマ帝国の強い皇帝の支配下で、本当の救い主イエス様は、力のないユダヤ人の一般家庭に、一番弱い赤ちゃんとして、しかも、旅の途中で生まれるという定めに置かれたことを覚えていただきたいです。

3つ目に、ユダヤ人達の救い主誕生の地として預言どおり、ベツレヘムに生まれたことが重要です。ユダヤ人の預言を知っている人が読めば、(今日の旧約聖書の箇所)ミカ書5:1節の預言をイエス様は満たす御方であることがわかるように記されています。

4つ目に、7節に書かれているとおり、神の御子のこの世での両親という大事な役割を担う夫婦とイエス様御自身には、人間として居られる最初の場所さえ、この世には無かった意味を理解したいものです!本来、赤ちゃんの誕生は特別な喜びであり、普通だったら、多くの人が出産や新生児のために配慮できるはずです。ところが、神様が御子をこの世に送られた、その時、人々は他人に構っている余裕がなかったのです。

 神様のことを忘れる人間に対してさえ、愛をくださる神様

人々がこの世のことで精一杯で、心に余裕がない、そんな時に、神様は御子をこの世に送られました。神様のことを考えている暇はない、理想の世界を思う余裕はない、そんな時に、神様の方では、私達の救いを切望して御子を送られました。神様の深い愛を私達は思い起こすべきです。

 第2部(8節-14節)「羊飼い達に与えられた御言葉」

ここで、救い主御降誕の喜ばしい知らせを最初に聞くのが、羊飼いであることに注目しましょう。彼らは貧しく、ユダヤ人の中で特に軽蔑されていた人々です。ユダヤ人の中で力のあった律法学者達は、羊飼い達が仕事柄、安息日を守れないことで、彼らを低く見ていました。しかし、神様は人間の見方を悠に超えた所に来られます!イエス様のお生まれになった晩、夜通し働いていた羊飼い達の所に、つまり、本当に慰めを必要とする所へ、主の天使によって「救い主御降誕」の喜ばしい知らせが確かに告げられ、それに加えて、天の大軍と称される、大勢の天使達が発したのが14節の言葉です。「天に栄光、地に平和」と集約して今日の説教題にしました。「神様のおられる所=天」が「いと高きところ」であり、14節の前半は、神様に向けた讃美と言えるでしょう。神様への讃美は、天使だけでなく、私達=救われた人間ももっと行うべきではないでしょうか。14節後半の言葉は、この世で生きる人間が「主の平和」をいただけるように願いを込められた言葉と言えるでしょう。そして「御心に適う人にあれ」の言葉にも注目しましょう。神様の御心に従う人が「御心に適う人」であろうと推測できますが、具体的にどういう人でしょうか、それが第3部に書かれています。

 第3部(15節ー20節)「御心に適う人」①

まず、羊飼い達です。突然、神様に選ばれて御言葉に出会ってしまったにも関わらず、彼らは、それに従おうと動き始めました。16節の初めの言葉「急いで」とは「熱望して」という意味があります。彼らは、神様からいただいた御言葉を積極的に確かめたいと思って行動したと読み取れます。そして、主の導きという助けもあったと思われますが、主の天使の預言 (12節)どおり、「飼い葉桶に寝かされて布にくるまれた赤ちゃん」のイエス様に出会えたのです!それだけでなく、羊飼い達は、神様の御言葉がこの世に本当に実現することを目の当たりにして、大きな喜びを感じ、他の人々に、自分達の体験を告げ知らせました。彼らは喜びを素直に表現し、主の恵みを告知する役割を果たしました!

 第3部(15節ー20節)「御心に適う人」②

次に、「御心に適う人」として覚えたいのが、イエス様のこの世での両親です。今日の箇所19節で、マリアは、これらの出来事を「心に納めて」とあります。彼女の行動に表れた忍耐強さ、確かな覚悟、深い洞察力、従順さが「御心に適う人」の特徴をよく示しています。マタイ福音書には、ヨセフの信仰もよく示されています。「主の御降誕」は、天の神様から働きかけられたことを、この世の「御心に適う人」が受け入れることにより、救いの第一歩として確定されました。「主の御降誕」を知らされた私達も「御心に適う人」として動き始められるよう、祈りましょう。