2023年7月30日の説教要旨 列王記上19:9-18・Ⅰペトロ3:13-22

              「苦難の共同体」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は「預言者」と聞くと、どのような人を思い浮かべるでしょうか。預言者には神様の言葉を預かると同時に政治の面でも指導する者もいましたが、本日学ぶエリヤは、政治に関わることなく、純粋に神様の御前に立ち、神様の霊に満たされてその触れ合いに喜び、霊に導かれながら神様の言葉に従い、語る預言者でした。

当時、北王国のイスラエルのアハブ王の父・オムリは、主の目に悪とされることを誰よりも行なった王でしたが、アハブ王は父よりも更に悪いことを行いました(列王記上16:30)。

*預言者エリヤ

アハブ王は、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、妻の信じる「バアル(農産物と家畜の生産を司る自然神・男性)」の神に仕え、バアルの神殿を建て祭壇を築き、「アシェラ(女性神)」像をも造りました。エリヤの使命は、社会の中に入り込んだ異国宗教を取り除きイスラエルの民に、創造主である唯一の神への信仰を告げ知らせることでした。そこでエリヤはアハブ王に、バアルの預言者450人とアシェラの預言者400人をカルメル山に集めることを依頼し、集まったすべての民に、エリヤが伝える創造主なる神を信じるのか、それともバアルを神とするのか決断を迫りましたが、「民はひと言も答えなかった(18:21)」とあります。エリヤはバアルの預言者達に、どちらが本当の神かを祭壇を築いて神を呼び、捧げものに火をもって答える神こそ神であることを互いに確認し(18:24)、その戦いが行なわれました。その結果バアル神からは何の返答もなく、エリヤが神に祈った時、神の火が降り捧げものは焼き尽くされました(18:36~)。民は「主こそ神です」とひれ伏しました。その後エリヤは、バアルの預言者達を捕えて殺し、その事をアハブ王から聞いた妻イゼベルは怒り、エリヤに殺意を抱きます。

エリヤは身の危険を感じて、四十日四十夜歩き続け、神の山・ホレブに着きました。本日の聖書には、その後のことが記されています。

*静かにささやく声

「エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした(19:9」。エリヤが休んでいると、主の「エリヤよ、ここで何をしているのか。」との声がありました。エリヤは、自分はこれまで万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきた。が、イスラエルの人々は主の契約を捨て祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺してしまったこと。エリヤ一人だけ残ったが、彼らはエリヤの命をも奪おうとねらっている、と訴えました。主は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われ、主が通り過ぎて行かれました。神様が通り過ぎた出来事は神様の現れを意味しますが11~12節に「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった」とあります。私達は神様の現れの場所に行けても、神様と直接、顔を合わせて見ることは出来ないことを意味します。しかし「火の後に、静かにささやく声が聞こえた(12節)」とあります。エリヤにとって優しくどこか懐かしい声を、神様との霊の交わりの中で聞いた出来事だったでしょう。これは私達が礼拝の時、讃美している時、心の中に響く神様のささやきに思える体験だと思います。

*エリヤへの使命

神様はエリヤに三つのことを命じます。が、初めの二つは、エリヤの召天後、エリシャの時代に実現します。三つ目の「エリシャに油を注ぎ、エリヤに代る預言者とする」については、この後、畑を耕しているエリシャに出会い、この出会いによってエリシャはエリヤに従い、神に仕えていくことが実現します(19:19)。神様の御計画は必ず実現しますが、私達も又、思い描く計画が私達の世代ではなく信仰の継承により次の世代の人達によって真実の出来事として明らかになることもあるかと思います。同時にエリヤが体験したような、神様への信仰を通しての苦しみ・悲しみ・困難も伴わなければならないかと思います。それは本日のⅠペトロ3:13~22節にある事と同じと思い、もう一度読んで終ります。

2023年7月23日の説教要旨 ヨシュア記2:1-14・フィリピ4:1-3

            「女性たちの働き」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達の歩みの中で、誰か身近にいる人から助けられ、助けて下さった人の背後に、(その時は分からなくても、後で)神様の働き、神様の支えを感じたことがあるかと思います。私の場合、人生で何か変化が起ころうとしていた時、神様は、その変化を私の思いの中で教えて下さり、同時にそのことが行なわれる為、身近にいる人達を送って、私を神様のご計画された道を歩むように、進めるようにして下さったことを思います。

*モーセの後継者ヨシュア

本日のヨシュア記一章には、モーセが亡くなった後、神様はヨシュアに、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と告げました。神様が約束されたカナンの地に入るために、ヨルダン川を渡った後、最初の攻め込む町がエリコでした。エリコは大きな町でカナン征服の鍵を握っており、この戦いは重要な意味を持っていました。町には、敵の攻め込む隙がないような頑丈な城壁が造られていたので、ヨシュアは前もって注意深く作戦を立て、慎重にエリコの町に入る下準備をしたことが1章に記されています。本日の2章では、一人の女性が登場し、神様の計画が進むために手助けしたことが記されます。

*ラハブという遊女

ヨシュアは町の正確な情報を得るために、二人の斥候(せっこう・偵察隊)を遣わしました。偵察隊は目的を果たす為「ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった」(2:1)。ところがエリコの王に「イスラエルの何者かがこの辺りを探る為忍び込んできた」と告げる者があり、王は人を遣わして、探りに来た者を引き渡せ、とラハブに命じました。しかしラハブは二人をかくまい「その人達は出て行った」と答え、追っ手は二人を求めて捜しに出て行きました。ラハブは二人が寝てしまわない内に、屋上に上って言いました。「神様がこの土地をあなた達に与えられたことで、私達が恐怖に襲われ、住民は皆、おじけづいていることを私は知っている」。さらにラハブは、「イスラエルの民がエジプト脱出後、イスラエルの神が海を干上がらせたり、旅の途中で国々を滅ぼしてきたことを聞き知っているので、エリコでは皆、心は挫けてあなた達に立ち向かう者はいないこと、イスラエルの神こそ、天から地に至るまで神である」と、告白しました。そして「エリコを占領する時、私の一族の命を救って下さい」と頼みました。偵察隊の二人は、「自分達のことを言いふらさないなら、神様がこの土地を我々に与えられる時、あなたに誠意と真実をしめそう」と約束しました。その後ラハブは窓から二人を城壁の外側に綱でつり降ろし、二人を助けました。神様はこのように一人の女性を遣わし、神様のご計画がうまく行くようにして下さったのを見ることができます。

*エポディアとシンティケ

 本日のフィリピ書4:1と少し前で、パウロは自分が愛し、慕い、又、喜びであり冠である教会の人々に、イエス様を信じることは私達の行くべき場所が天国にあること、この今ある生活の中で、どのような状況にあっても神様に信頼を置き、主によってしっかりと立ちなさい(4:1)」と呼びかけています。続く2節でこの二人の名前が登場し「主において同じ思いを抱きなさい」と命じます。彼女達はフィリピ教会の初期メンバーであり、リーダー的な働きをしていたと思われます。何かもめごとが起き、そのことで互いに避けているならば、再びかつてのような関係、神様の福音を宣べ伝える者になれるよう期待しています。3節で「二人は他の協力者逹と力を合わせて、福音の為に私と共に戦ってくれた」と紹介し「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」と教会員にも頼んでいます。その後二人は、神様の道を歩み、前を向いて進んだと思います。なぜならそこには、神様の与えられた道があるからです。 家族や友人のことで、今は私達の心が騒いでいても、いつかは相手を思い合える感情が生まれてくることを信じて、私達は神様に祈り、讃美を続けていく必要があると思います。

今週も皆様の上に、主の豊かな栄光が輝いているようにお祈り致します。

2023年7月9日の説教要旨 詩編35:1-10・ルカ福音書7:11-17

            「生命の回復」         加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩篇には、心が重くなるような感情の深さや、理解するのが難しく感じられる箇所もあるかと思います。詩編に登場するダビデは、敵から追われる生活が続き、時には命を落としそうになり、又、逆に敵と思える王様に手にかける距離まで近づいたこともあり、王になる前の10年余りの月日を神様から与えられた苦難に対応する訓練の日々を過ごしました。

*主よ、(わたしではなくあなたが)戦ってください。

 そのような状況の中で、ダビデは、1節の「主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください」との祈りをしています。これはダビデがいかに主に信頼していたかを見ることができます。 ダビデは「私の為に、敵と戦う力を下さい」とは祈らず「どうか、わたしの魂に言ってください。『お前を救おう』と(3節)」と祈り、ダビデ自身が自ら戦うのでなく、自分の権利を主張せず、すべてを主に任せて委ねています。ここに、主の呼びかけに応えようとする信仰者の姿をみることができます。

*主の使い

「彼らが主の使いに追い払われますように(5節)」「彼らに主の使いが追い迫りますように(6節)」とあるように、ダビデは「主の使い」の存在を信じて、天使達の働きを通して私を敵から守ってほしいとの祈りをささげています。この詩編の前の34:8には「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」とあるので「主の使い」は、個人にとっても、イスラエルの民にとっても、時に、一人の御使いとして、時に天の軍勢として、神様に敵対する者達やその勢力に立ち向かい、神様の裁きを行い、神の民や主を畏れる者達を救い助け出して下さる存在です。

聖書に「主の使い」の言及は多くありますが(旧約:213回以上・新約:175回以上)、私達は意識してその存在を知ろうとしていないように思われます。

主の使いは、神様と人とに仕えるために創造された存在であり、私達を危機的状況の中から必ず守ってくださる方であり、存在自体、神様の恵みによるものだと思います。今日(こんにち)、神様を信じる私達に「主の使い」の現われはあるのでしょうか。私は「ある」と信じます(聖霊のような、それに似た存在、としか言い表わすことが出来ませんが・・)。

カファルナウムからナインの町へ

 本日のルカ福音書7章の直前には、カファルナウムにいたイエス様のもとに百人隊長の部下が死にそうな病気のため癒してほしいと長老達が願い出て、癒された出来事が記されています。それから間もなくイエス様は、ナインの町への約30kmの道のりを、弟子達や大勢の群衆も一緒に歩いて行かれました。一行が、希望に満ちた何かを期待するような光景に対し、ナインの町では、母親の一人息子が死んで棺が担ぎ出され、町の人達が大勢そばに付き添い、そこにはどんよりした絶望感、無力感と、混沌とした闇に包まれているような状況だったと思います。特に母親は夫にも先立たれ、生きる希望を見出すことが出来なかったでしょう。

もう泣かなくともよい

しかしそこに希望の光が差し込みます。イエス様は母親を憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、近づいて棺に手を触れられて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めました(15節)」。ここでは「死」にも優るイエス様の権威が表れたのです。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけて下さったと言った(16節)」。

人々は、イエス様の本質について、又、神様がイスラエルの民を顧みて下さったとの、神様の救いを確信する告白をしました。そこにいた全ての人達が、神様を心から称(たた)え、神様の奇跡を体験したのでした。

*わたしたち

イエス様の働きは、すべての人の人生を180度、良い方向へと変えて下さいます。なぜななら神様は、わたしたちに生きる希望、輝ける未来を生きて欲しいと願っているからです。わたしたちは、イエス様に出会えたことに感謝しながら、今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。

2023年7月2日の説教要旨 詩編22:25-32・ルカ福音書17:11-19

「あなたは見つけ出す」    加藤 秀久牧師

*はじめに

聖霊降臨日(ペンテコステの日)に聖霊を受けた弟子達は、イエス様と共にいた頃の弟子とは違って、神様の力・信仰の帯を締めていました。

しかしそこに行くまでに、弟子達は何度も何度もイエス様から神様の話を聞き、奇跡を見て、信仰を持つことの訓練を受けていました。

その訓練の一つになった本日のルカ福音書17章を読む時、その内容は、一見、何の関連性もないように思えますが、じっくりと向き合い、思いを巡らせて読み進めて行くと、イエス様が弟子達に、その教えを通して、神様からの信仰を得るように、神様から与えられた贈り物の信仰について語られているのが分かるかと思います。

*私達の信仰ではなく、神様が与える信仰

その神様からの「贈り物の信仰」は、種がたとえ小さく思える「からし種」ほどのものであったとしても、やがて、その時が来た時に私達の心の中で芽を出して、私たちが想像する以上に大きく成長して働き始めます。それは私達の目には不可能な出来事であり、奇跡と思えることであったとしても、それを行うことができる(可能となる)信仰です。不可能と思えることや奇跡と思えることが実現した時には、これらは神様から与えられた信仰の賜物が用いられたので、その人は「私は神様がするようにしたまでです。神様の力が私を通して働いたまで(結果)です。」と言うことになります。神様から与えられた信仰の働きは、私達を決して誇り高ぶらせることなく、逆に、へりくだった心や態度を持って人々に話したり、応えたりする者になることを、イエス様は弟子達に教えられたように思います。

177節~の教えと、十人の重い皮膚病の人達の癒し

本日の聖書個所の直前に、イエス様が、主人に仕える僕(しもべ)の話をされています。畑を耕すか,羊を飼う仕事を与えられている僕が、仕事を終えて戻った時、先ず主人の夕食の用意と、主人の食事が終るまで仕えた場合、主人は僕に感謝するだろうか、と弟子達に問いつつ「あなた方も、同じことだ。自分に命じられたことを みな果たしたら、『私共は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と教えられました。

そして、続く本日の聖書には、イエス様がエルサレムへ上る途中に、サマリアとガリラヤの間を通られて、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、私たちを憐れんでください」と言いました。彼らは皮膚病のため、健康な人に近づくことができませんでした。

 イエス様は彼らを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言いました。<注:重い皮膚病にかかった時も、治った時も、祭司からの宣言が必要でした(レビ記13章参照)>。十人の人達はイエス様の言葉に従い、祭司のもとに出かけて行く途中で、自分達の皮膚病が治ったことを知りました。彼らの与えられた信仰(信じて行動する)で、彼らの身体に癒しの奇跡が起こったのでした。

*神様を賛美するために戻った人

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(16節)」これが神様から与えられた信仰を神様に感謝する、神様にお返しする行動の現れなのだと思います。イエス様は、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、その人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

*わたしたち

  私達は自分の意志で神様に信仰告白をし神様を受け入れたと思いがちですが本当はその歩みの中で神様を信じる信仰の贈り物を神様から与えられていたことに気付いた時、私達は神様を見つけ出したと思います。本日の詩編22:25~32をもう一度読みます。このような心を私達は持ち続け、与えられた恵みに感謝して一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年6月18日の説教要旨 申命記8:11-20・使徒言行録4:5-12

御名の 権威 」     加藤 秀久牧師

*はじめに

イエス様の弟子たちは、ペンテコステの出来事を通して、彼らの行動を大胆にさせる「聖なる霊」により、力強くイエス様の復活の出来事を話すようになりました。その一方で、そのことを良く思わない人達がいました。それは、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人達です。祭司は神殿で奉仕する人。神殿守衛長は祭司の業務を監督し、神殿を統率する人で大祭司に次ぐ権力を持っていた人。サドカイ派の人々は、貴族祭司と上流階級の信徒達です。彼らは、聖霊や復活の出来事を信じる人達に反対していました。

*彼らのいらだち

 ペトロとヨハネが民衆にイエス様の復活を宣べ伝えているので、よく思わない彼らはいらだち、近づいてきて二人を捕え、既に日暮れだった為、翌日まで牢に入れてしまいました(4:3)。彼らのいらだちの感情はよほどのものだったと考えられます。なぜならこの言葉は、新約聖書全体を通しても2回だけしか使われていないからです。

 実は私達もいらだつことがあります。相手が自分のして欲しくない言動をして、注意や忠告を聞いてもらえない時、疲れて、我慢の限界が来ると、感情を表に出したり、腹を立て、その場を去るなどすることがあります。

*ペトロとヨハネの行動

彼らをいらだたせたペトロやヨハネの行動は、神様の霊を受けた時から、その霊の力を止めることができず、これまでの自分達の体験を越えた、この素晴らしい出来事を他の人にも伝えたい、教えたいと思い、イエス様のことを話さずにはいられない、イエス様の復活の出来事を聞いてほしいという気持が現れたと思います。ところが、特にペトロとヨハネに近づいてきた祭司逹からすると、この二人の言動は大変迷惑な行為で目障りな存在で、自分達の方が権威者だと思っていますから、堪忍袋の緒が切れたと言えます。けれども他方では、二人の語った言葉を聞いて信じた人の数は、男性が五千人にもなったと聖書は伝えています。

何の権威で、だれの名によって、それをしたのか」(7節) 

翌日、二人は最高法院(議会)で真ん中に立たされて、「何の権威で、だれの名によって・・」と尋問を受けました。ペトロは聖霊に満たされて、大胆に弁明を始めます。 「今、自分が訴えられているのは、足の不自由な人をいやしたこと(3章1節~)と、その人が何によっていやされたか、ということなら民全体の人達も知って欲しい」と前置きして、「あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものだ(10節)」と語り、更に、「私達が救われるべき名前は他にはない(12節)」と力強く語りました。そしてイエス様こそ「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石である(詩編118:22)」=イエス様が軽蔑され人々から捨てられたけれども、神様は家(神様と人とが永遠に共に住む家)を建てるためになくてならない「かなめの石」とされたと語りました。イエス様の十字架の死と復活の出来事は人の目には不思議な出来事ですが、神様の救いの計画においてはなくてはならない重要な出来事だったのです。

あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申8:11)

 本日の申命記では、神様がイスラエルの民に、カナンの地の豊かな生活に満足して高慢になり「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えないように警告しています。神様は、今に至るまでの生活の様々な場面を通して自らを現わしておられ、富を築く力を与えたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たした結果の今の生活ですから、神様を忘れず、へりくだり、神様に従っていく心を持ち続けるように促しています。

 わたしたちが神様を信じ、信頼し、へりくだり、神様のみ名の権威に従順になる場所は、私たちの心の中です。私たちはそこで神様と会話し、神様のご計画を知ることができるのです。それは私たちの力となり、ペトロに与えられた大胆さを、私たちも同じように持つことができて、神様を知る機会を与えることもできることを知りましょう。今週一週間、神様の良き導きがありますようにお祈りを致します。

2023年6月4日の説教要旨 出エジプト19:3-8a・使徒言行録2:14-36

「礼 拝」        加藤 秀久牧師     

*はじめに

 先週私達は、イエス様が天に昇られたあと、五旬祭(過越の日か50日目)に、弟子達が心を一つにして祈っていると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(2:2)」出来事を学びました。そこに集まって来た人々は、この不思議な出来事と光景を見て驚き怪しみました。本日の使徒言行録には、ペトロと十一人の仲間逹が聖霊を受けて、心を燃やされ、人々に語り始めます。

*酒に酔っているのではない

ペトロは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません(14~15節)」と語りかけます。

ペトロや他の弟子達を知る人達にとって、イエス様の十字架の死の後、弟子達が途方に暮れて気が抜けたような姿を見たことでしょう。それが今、前よりもっと違う姿で目の前にいます。私達はその働き(神様の力)を頭で考え理解しようとしてもできません。自分自身の身で受け止めることが出来ず、この世のものとは思えない体験が起こり、私達の身体が神様に支配され、神様が私達の心の中に宿った感覚に捉われるからです。そのため、この聖霊の力を受けたペトロや十一人の弟子たちは、人々の前で大胆に、力強く立ち上がり、振舞うことができたのだと思います。

 ペトロは、聖霊の力を知らない人々が、「お酒を飲み過ぎた」「気が変になった」、或いは「悪魔の仕業」などと誤解しないように、このように、酒に酔っているのではないと言ってから説教を始めます。聖霊の働きは、人々の目から見ると、不思議な出来事、怪しい動きに見えたことでしょう。

*ペトロの説教

ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(22節)」

聖霊を受けたペトロは、今目の前で起こった出来事は、旧約聖書の「ヨエル書の預言(3章)」が成就した出来事であったと説明してから、イエス様について語り始めます。イエス様こそ、神様から遣わされたお方であり、神様はイエス・キリストを通して多くの不思議なわざやしるしを現して証明されたが、あなた方は律法を知らない人々(異邦人・この場合ローマ人)の手を借りて十字架で殺してしまった。けれども神様は、イエス様を死に支配されたままにしておかず、復活させられた。

だからあなた方は はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエス様を、神様は、主としメシア(救い主)となさったのです(36節)と。この後、ペトロの説教を聞いていた人達が、自分達はどうしたらよいかを尋ね、それに対するペトロ達の答が37節以下に記されています。

*モーセとイスラエルの民

 ペンテコステの日(聖霊降臨)の出来事は、本日の出エジプト記に記されているモーセがシナイ山で神様の言葉(19:3~)を聞いて、その言葉を携えて戻り、民の長老たちを呼び集めて、神様の言葉をすべて彼らの前で語った時の光景を思い浮かべることができます。

神様は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。(5節)」とイスラエルの人々に語るように言われ、モーセからこの言葉を聞いた人々は、「わたしたちは神様が語られたことをすべて行います(8節)。」と、一斉に答えたことを、聖書は伝えています。

*わたしたち

 わたしたちは、神様の言葉を聞いて応答したイスラエルの人々と同じように、又ペトロの説教を聞いてイエス様について教えられた人々と同じように、イエス様の奇跡と不思議な業(わざ)と、十字架の死とそれに続く復活の預言(詩編16:10)と実現を信じ、毎週持たれる礼拝の中で、イエス様を私の救い主と告白し、約束の聖霊(33節)の働きを信じて(受けて)今週も、主に伺い、主に期待して、共に歩んで参りましょう。

2023年5月28日ペンテコステ礼拝の説教要旨 創世記11:1-9・使徒2:1-11

「聖 霊」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

「神様の霊、聖霊」について私達はどのようなイメージを持つでしょうか? 私がイエス様を救い主として受け入れた時、「聖霊」は何か特別な神様からの贈り物の霊のことで、私の心が正しく神様の方へ向かなければ、聖霊を受けることができないだろうと思っていましたし、神様に信仰の告白をして洗礼を受けた後、この聖霊を受けられる資格が与えられると思っていました。けれども神様は、「霊霊」を受けることのできる資格とか権利のようなものが必要であるなど、私達に言っておられません。

五旬祭(五旬節・ギリシャ語はペンテコステ)

 本日の、使徒言行録2章では、始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。この五旬祭は「七週の祭(大麦に鎌を入れ始める時から7週を数えた日)」と呼ばれて、古くは小麦の刈り入れの祭でしたが、後にイスラエルの民がエジプトから逃れた「過越の日」から50日目に、シナイ山で神様と契約を結んだ日を記念する祝祭日となりました。旧約聖書のレビ記23:15-16には次のように記されています。

あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。・・五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる」。その日には収穫した初物の献げものとして上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を奉納物とすること、小羊・雄牛・雄羊などのささげ物の規定と共に、この日に聖なる集会を開くこと、どこへ住もうとも、「代々にわたって守るべき不変の定めである」。

それだからこそ、イスラエルの民にとってこの五旬祭は、仕事を休み神様を礼拝する聖会の日、神様との出会いを待ち望む日でもあるのです。

*聖霊降臨

 「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

一人一人にとどまるようなこの現象は、神様の力強さ、心が熱くなる思い、全身に電気が通ったような思いを与えたことでしょう。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と伝えています。

*バベルの塔

 本日の創世記11章に記されていますように、神様に造られた人達はもともと一つの言語で意志疎通が出来ていました。ところが、神様から祝福を受けていた人々は、建物を建てる素晴らしい技術を、彼ら自らが名を上げるため、神様のおられる天まで届く高い塔を建て始めてしまいました。神様はこの、人間のおごり高ぶりを許さず、それまで用いていた言語を混乱させ、互いに通じないようにされました。

近年高層ビルの建設技術の発展は目まぐるしい進歩をとげています。その中で私達人間は、神様に造られ生かされている恵みを忘れがちです。私達には天地を造られた創造主がおられることを忘れずにいることが大切であり、自分の知恵や名誉を誇るのでなく、神様の素晴らしさ、偉大さを称え、伝えるために生きるべきと思います。

*わたしたちの、心の中にある受信機

 バベルの塔のように人間に何か混乱を招く出来事は、先週お伝えしたように、私達の心の中にある神様との受信器を使うチャンスにもなります。私達はこの受信機で、神様による聖霊の息吹き、炎のような舌を受け入れることができるからです。この「霊の働き」は凄く偉大なもので、私達の心の内を走り巡り、今まで混乱していた言語を再び一つの言語として理解できるように、私達が互いに理解し合える言葉へと導きます。  私達が一つ所に集まり、心を合わせて祈りを献げるならば、私達にもペンテコステで起きた出来事、聖霊の流れ・現われを毎週の礼拝の中で体験できるはずです。「聖霊降臨」は私達神様を信じる者にとってとても重要で、全てを新たにさせる神様からの贈り物、神様からの霊のシャワー、霊の降り注ぎとして考えることができるかと思います。この素晴らしい恵みに感謝して、神様と共に今週の歩みを始めて参りましょう。

2023年5月21日の説教要旨 詩編105:12-24・マタイ28:16-20

「キリストの昇天」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

本日の旧約聖書、詩編105編12~24には、神様から選ばれた民(選民)に、神様からの大いなる祝福、守り、導きがあったことが記されています。特に、族長ヤコブの息子のヨセフが用いられて、イスラエルの人達が飢饉という出来事を通してエジプトに住むようになった様子を描いています。

ヨセフは兄たちによって奴隷としてエジプトに売られ、宮廷の役人である侍従長に買い取られましたが、その侍従長の誤解による怒りによって、監獄に入れられてしまいます(創世記39章)。しかしヨセフは王の夢を解き明かしたことがきっかけとなり、王様に次ぐ地位に就くことになります。やがて飢饉が全国に広がり、食料を求めて兄達がカナンの地からエジプトに下ってきた時、ヨセフは兄達と再会し、その後、父ヤコブとその子孫を皆、エジプトに呼び寄せます(創世記46章・総数70名)。

*「主はご自分の民を大いに増やし 敵よりも強くされた。」

こうしてイスラエルの人達は、エジプトで大いに力を増し、ひどい目にあいながらも、彼らの子孫を増やし、神様に信頼する信仰を育てていったのでした。ヨセフは、神様との会話・幼い時から神様の霊に触れ、神様が語られる声に耳を傾けながら、その体験を大切にしてきたように思われます。詩編105編を読む時、これらの歴史的出来事が、天地を創造された神様のご計画であったと受け止めて、自らも追体験し、自分達が選民イスラエルであり神様の救いの御手がある、との告白が伝わってきます。

イスラエルの人々の中には、神様の声を聞くことのできる預言者達たちがいましたが、彼らはどのようにして、その声・神様の霊を感じ取ることができたのでしょうか?

*神様の霊を受け取る受信機

神様の霊は、神様に創造された全ての者たちの心の中に宿っています。

私達は、神様の霊と共に、神様に養われた存在であることで分かると思います。毎日私達が神様やイエス様と話をしたい、との気持はどこで考え、どこから沸き起こるのでしょうか?それは、私達の心の最も奥深くの所で、神様と交信をしているからだと思います。私達には、神様と交信する道具(受信機)が心の中に備え付けられていると考えられます。但しこの受信器は、赤ちゃんの時は頻繁に使っていましたが、地上での生活習慣や生き方を学び、大人になるに従って少しずつ知恵や知識も備わり、いつしか神様との受信器を使わなくなり、必要としなくなり、この受信器を心の片隅に置き去りにしてしまう結果を招いていると思います。

しかし、私達がこの受信器を全く使わなくなったとしても、神様は、この受信器の電源をOFFにせず、一方的に私達に必要な言葉や神様の霊を送り続け、受信器を交信できる周波数に合わせられるように操作して下さり、会話ができるようにして下さっています。

聖霊を受けなさい」 

イエス様の復活の出来事は弟子達や婦人達にとって驚くべき出来事でした。婦人達から聞いた弟子達は、イエス様が指示されたガリラヤの山に登り、イエス様にお会いし、ひれ伏しました。イエス様は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(19~20節」と言われて天に昇られました。他の福音書には、復活のイエス様が弟子達を祝福した後「彼らに息を吹きかけて言われた聖霊を受けなさい(ヨハネ福音書20:19)とあります。

それによって弟子達はイエス様のことを世界中に伝えていくことになりました。霊の吹きかけは、神様に造られた者達に与えられている霊の働きを活発にします。今も、神様と日頃よく会話や祈りをささげている人は、神様のお考えが霊の内で理解することができてイエス様が神様であることを認めています。ところが聖書は、「疑う者もいた」(17節)と伝えています。私達はイエス様を信頼し、日々の歩みの中でイエス様を中心として、心の中に聖霊の炎をともし続ける必要があります。

今週もイエス様の語りかけに耳を傾けながら歩み始めて参りましょう。

2023年5月7日の説教要旨 申命記7:6-11・ガラテヤ3:23-4:7

かけがえのない民」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

ガラテヤ書2章19節でパウロは、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記しています。

「律法(ト-ラ-)」は、神様が人間に与えた唯一の基準と規範であり、ユダヤ教では「律法」(旧約聖書の最初のモーセ五書(創世記~申命記)全体を意味するようになった)を守ることが神様に受け入れられることであり、救われる前提でした。ですから人々は律法に縛られて、自由になれない生き方になっていたようです。そのような人々にパウロは、「わたしは、律法に対しては律法によって死んだ」と言いました。

*律法によって死ぬ

それまで長い間、律法を守ること、律法に従うという「行為」が、神様によって「義とされる=ただしいとされる」と考えられてきましたが、パウロは「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした(2:16)」と語り、そのことを可能にしたのは「イエス・キリストの十字架の死」であることを語っています。

旧約の時代には、「罪の赦し」を願う時、動物を屠って祭壇の側面にその血を注ぎました。今や神様が御子イエス・キリストを送って下さったことにより、罪のないイエス様の「十字架による血」によって全人類の罪が赦され、贖(あがな)われました。この出来事により私達はイエス・キリストの十字架を信じる信仰によってバプテスマを受けて救われるのです。

律法の実行によって救われる考えから完全に解放され自由にされました。

*キリストを着る

この福音を信じる信仰によって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(3:26~27)」と、パウロは語ります。原語では「あなたがたは皆」の前に「誰一人例外なく」という言葉が記されています。誰一人として例外なくイエス様を信じる信仰によって洗礼を受けた者は、イエス様に結ばれて神様の子供とされたことが告げられています。神様の子供とされることは、イエス様と同じ「相続人」(3:29と4:7)とされることです。「キリストを着る」という表現から、イエス様のたとえ話(ルカ福音書15章)の「放蕩息子」を思い起します。父のもとに帰って来た放蕩息子に、父親は「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と言いました。ここで、父親が帰った息子に対して自分の子供としての資格(身分)を回復している姿を見ます。私達はまだ神様も聖書の教えも知らなかった時、悪の存在するこの世界で罪の奴隷とされて生きていました。しかし私達には帰るべき父の家があることを知り、帰った時、このたとえのように父である神様は私達を父の子として迎えて下さり、私達にイエス・キリストを着せて下さいました。「神の子とされたことは、御子の霊を私達の心に送って下さった事実から分かります(4:6)。」「あなたはもはや(罪の)奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(4:7)。」

*神の宝の民

あなたがたは、もしキリストのものだとするなら・・(信仰によって)アブラハムの子孫であり、約束による相続人です(3:29)」。「あなたは、主の聖なる民である。あなたの神は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守られたゆえに・・奴隷の家から救い出されたのである(申命記7:6~)」。神様を信じる私達は、神様は信頼出来て愛に満ち溢れたお方であると知っています。私達にはいつも、神様から与えられた約束されたものがあり、そこに希望と願いを持って御前に出て祈ることが出来、共に集まれる場所があることを感謝しています。

4月30日の説教要旨 出エジプト16:1-16・Ⅰコリント8:1-13

「良い食べ物」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

エジプト王の宮廷の責任者とされたヨセフは、飢饉の為にカナン地方から食料を買いに来た兄達に自分の身を明かして、カナンの地から父ヤコブをはじめすべての家族(総勢70名・46:27)をエジプトに呼び寄せました。彼らは最良の地に住むことが許され食料も豊かに与えられ、子供も増えていきました。しかしヨセフも、その世代の人々も皆亡くなり、ヨセフを知らない新しい王が国を治め始めると、イスラエル人の人口が増して強力になりすぎた為、王は強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待しました。労働はいずれも過酷をきわめ、助けを求める彼らの叫び声は激しさを増し、イスラエルの人々は神様に祈り、助けを求めました。その叫び声は神様に届き、彼らの苦しみを御心に留められた神様は、ミディアン地方でしゅうとの羊の群れを飼っていたモーセを選び、エジプト王のもとへ遣わして、イスラエルの人々を、約束の地カナンに連れ帰るように導かれたのでした。

わたしがあなたたちの神、主である。

 本日の出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの人々は無事に荒野に入ることが出来ましたが、脱出後一か月くらいに、シナイの荒れ野に行く途中「シンの荒れ野(聖書のうしろにある地図2)」に向かっていた時、イスラエルの人々の共同体全体が、モーセとアロン(モーセの兄・モーセの語るべき言葉の口の役割を担う・出エジプト4:14~)に向かって不平を述べ立てました。「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言いました。彼らの不平を聞かれた神様は、人々を神様の前に集めさせ、人々が荒れ野の方を見ると、主の栄光が雲の中に現れました。そこでモーセは、神様の語る言葉を伝えました『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。

*夕方にはうずら、朝にはマナ

 私たち人間は、目の前に危険が迫ったり直面すると、普段は冷静に振舞えるにもかかわらず、それが出来ず、心の中にあった本音が現れて言ってしまうことがあります。イスラエルの人々が旅を続ける中、疲れやストレスがたまり、喉の渇きや食料不足による空腹を覚える時、エジプトで食べられたり、飲んだりした時のことを思い出して、荒れ野という過酷な場所で、その不満が一気に表に出てきてしまったのでしょう。 

けれども主なる神様は、夕方には「うずら」に宿営を覆わせ、朝には宿営の周りに「露」を降りさせ、この露が蒸発すると、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました(16:13~)。それは蜜の入ったウェファースのような味がして、民は「マナ」と名付けました(31節)。彼らは神様がモーセを通して命じた通り、家族に応じてある者は多く、ある者は少なく集め、翌朝まで残しておかないこと、又、六日目には二倍の量を集めて七日目の安息日には休むなどの決まりを守りました。イスラエルの人々は、目的地に着くまでの40年にわたり、この恵みの「マナ」を食べて旅を続けました(16:35)。

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)

 本日の、Ⅰコリント書の8章の1-13節には、偶像に供えられた肉について語られています。4節には「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」とあり、続く7節には「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。」とあるように、偶像になじんできた習慣にとらわれている人にとっては「この肉は偶像に備えられた後、食肉用におろされたもの」と聞くと、食べるか食べないかの葛藤が心に起こることが語られます。そして、自分が正しい知識を持っていると考えている人達の、その人の自由な態度が、弱い人達を罪に誘うことにならないように気を付けなさいと警告しています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ」ます。私達は、与えられている聖書の御言葉を通して「良い食べ物」を与えられ、そして、与えていく者になりたいと願っています。